歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年09月28日
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カテゴリ: 江戸時代




10「十兵衛の容姿の特徴」


若い頃に失明したという伝説があり、片目に眼帯をした「 隻眼の剣豪 」のイメージが広く知られている。


隻眼 (せきが ん)もしくは 独眼 (どくがん)とは、片側の目そのものや視力を失った身体障害の状態をいう。病気(腫瘍など)の内因の他、事故や戦闘中の負傷など外因、奇形による先天的な要因の場合もある。外因により視力を失った際、多くは反対側の眼にも失明を及ぼすため、片目を喪失した者のうちで隻眼となるのは多数ではない。


失った目が、右目でも左目でも同じように呼ばれる。


目が失われたために義眼を入れたり、眼帯などで隠し、自らの威厳の誇示を兼ねることがある。「隻」とは「 ( つい ) になっている物の片方」を数えるときに用いる助数詞である。



現実の隻眼


現実の隻眼の人物は、正常な位置にある2眼のうち1眼が失明しているケースがほとんどである。片目失明の原因は、先天性であることは少なく、病気や外傷など後天性の原因が主である。他に、両目失明ののち片目だけ治療(角膜移植など)するケースもある。


神話上のサイクロプスなどのような、顔の中心線上に一つの目を持つケースもなくはないが、単眼症という重度の先天障害であり、死産かさもなくば生後まもなく死亡する。


一つ目の動物は、大型動物では奇形以外では見られないが、ミジンコなど一部のプランクトンが、中心線上に1つの眼を持つ。ただしこれらは肉眼では確認困難なため、神話伝承とは無関係と思われる。なおミジンコは、大きな複眼の下にごく小さな単眼を持つため、厳密には眼が上下に2つあることになる。


身体障害として


日本の障害者認定制度では、片目失明というだけでは視覚障害者認定はされない。ただし実際には、他眼(見える方の目)にも障害があること、他眼に過度の負担がかかることが多く、その場合はそれに応じた認定がされる。


最も軽い6級の認定条件は、一眼の視力(矯正視力。以下も同じ)が0.02以下、他眼の視力が0.6以下で、両眼の視力の和が0.2以上(0.2以下だと5級になる)である。6級より上の認定条件は全て、両眼の視力の和か両眼視野が基準になっている。


運転免許証の取得条件は、普通自動車については健常者とほとんど違いがなく、片目の視力が0.3未満なら、他眼の視力が0.7以上(これは健常者と同じ)で、視野が150度以上が必要となる。ただし、大型、第二種等は取得できない。


義眼など、 眼球を摘出したか眼球が萎縮した場合は、義眼が使われることが多い。視力を回復する機能はなく、あくまで萎縮した眼球、眼窩の保護や美容目的である。まぶたなどの周辺組織も失われたときは、義眼床手術も必要になる。


義眼を入れても完全に自然な外観にすることは難しいため、義眼を入れた上でさらに眼帯、サングラス、ガーゼなどを併用する人も多い。


眼帯などは、義眼を使っていなくても美容上問題のある場合(義眼が必要だが入れていない場合、あるいは、眼球は外見上正常だが周辺組織に傷がある場合、など)にも使われる。



隻眼の著名人


ここでは、なんらかの著名性または重要性があると思われる(日本でのみ有名、なども含む)隻眼の著名人を列挙する。隻眼といわれているだけで実際にはそうではなかった人物や、隻眼でなかった可能性のある人物も含む。


なお、漢字文化圏において、隻眼と関連性の高い「眇(すがめ)」という語があるが、「片眼が極端に小さいこと」を意味するほか、斜視のように隻眼に該当しない別の語義も複数あるため、この語が史書等に記されていることのみで事実認定されているわけではなく、事実認定されるものではない。


これは幼い頃「燕飛」の稽古でその第四「月影」の打太刀を習った時に父・宗矩の木剣が目に当たった(『正傳新陰流』)、あるいは宗矩が十兵衛の技量を見極めるために礫を投げつけて目に当たったため(『柳荒美談』)などといわれる。しかし、肖像画とされる人物は両目が描かれており、当時の資料・記録の中に十兵衛が隻眼であったという記述はない。



謹慎期間中の動向について


Ø 家光の勘気を受けて致仕してから再び出仕するまでの12年間について、三厳自身は著作の中で故郷である柳生庄にこもって剣術の修行に専念していたと記している。一方でこの間、諸国を廻りながら武者修行や山賊征伐をしていたという説もある。


Ø 三厳の自著での記述と相反しているとはいえ、宝暦3年(1753年)に成立した柳生家の記録である『玉栄拾遺』でも取り上げていることから、三厳の死の100年後には既に広く知られていたものと思われる。


Ø 後にこの伝承が下敷きとなって下記のような様々な逸話が派生し、今日に至るまで創作作品の素材ともなっている。






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最終更新日  2024年09月28日 07時21分36秒
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