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2023年08月31日
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カテゴリ: 江戸泰平の群像



『江戸泰平の群像』 (全 3 85 回) 334・ ジョン万次郎(ジョン まんじろう、 John Manjir ō、 文政 10 1 1 1827 1 27 明治 31 年( 1898 11 12 )は、 江戸時代 末期( 幕末 )から明治にかけての人物。 日米和親条約 の締結に尽力し、その後 通訳 教師 などとして活躍した。ジョン・マン  (John Mung)  とも呼ばれた。本名は中濱 萬次郎(なかはま まんじろう)。


中浜万次郎は文政 10 1827 年)、 土佐国 中濱村(現在の 高知県 土佐清水市 中浜)の半農半漁の家の次男として生まれた。万次郎が 8 歳の頃に父が亡くなり、また母と兄が病弱な為、幼い頃から働いて家族を養った。寺子屋に通う余裕が無かったため、読み書きも殆ど出来なかった


天保 12 年( 1841 )、万次郎が 14 歳の頃、手伝いで漁に出て嵐に遭い、漁師仲間 4 人と共に遭難、 5 日半の漂流後奇跡的に 伊豆諸島 の無人島 鳥島 に漂着し 143 日間生活した。そこで アメリカ 捕鯨船 ジョン・ハウランド号に仲間と共に救助される。日本はその頃 鎖国 していたため、漂流者のうち年配の者達は寄港先の ハワイ で降ろされるが、船長のホイットフィールドに頭の良さを気に入られた万次郎は本人の希望からそのまま一緒に航海に出る。生まれて初めて 世界地図 を目にし、世界における 日本 の小ささに驚いた。学校を卒業後は捕鯨船に乗る道を選び、やがて船員達の投票により副船長に選ばれた(投票では 2 人が 1 位になったが、年長者に船長の地位は譲った)。 1846 (弘化 3 年)から数年間は近代 捕鯨 の捕鯨船員として生活していた。 1850 嘉永 3 年) 5 月、日本に帰る事を決意、帰国の資金を得るため、 ゴールドラッシュ に沸く サンフランシスコ へ渡り、 サクラメント川 を蒸気船で遡上し、鉄道で山へ向かった。数ヶ月間、 金鉱 にて金を採掘する職に就く。そこで得た $600 の資金を持って ホノルル に渡り、土佐の漁師仲間と再会する。 1850 12 17 上海 行きの商船に漁師仲間と共に乗り込み、購入した小舟「アドベンチャー号」も載せて日本へ向け出航した。嘉永 4 年( 1851 2 2 薩摩藩 に服属していた琉球にアドベンチャー号で上陸を図り、番所で尋問を受けた後に薩摩本土に送られた。海外から 鎖国 の日本へ帰国した万次郎達は、薩摩藩の取調べを受ける。帰郷後すぐに、万次郎は土佐藩の 士分 に取り立てられ、藩校「 教授館 」の教授に任命された。この際、 後藤象二郎 岩崎弥太郎 などを教えている。嘉永 6 年( 1853 )、 黒船来航 への対応を迫られた幕府はアメリカの知識を必要としていたことから、万次郎は幕府に召聘され江戸へ行き、直参の 旗本 の身分を与えられた。その際、生まれ故郷の地名を取って「中濱」の苗字が授けられた。万次郎は 江川英龍 の配下となり、 軍艦教授所 教授に任命され、造船の指揮、測量術、航海術の指導に当たり、同時に、英会話書『英米対話捷径』の執筆、『ボーディッチ航海術書』の 翻訳 、講演、通訳、英語の教授、船の買付など精力的に働く。この頃、 大鳥圭介 箕作麟祥 などが万次郎から英語を学んでいる。 安政 元年( 1854 )、幕府剣道指南・団野源之進の娘・鉄と結婚。 万延 元年( 1860 )、 日米修好通商条約 の批准書を交換するための 遣米使節団 1 人として、 咸臨丸 に乗りアメリカに渡る。船長の 勝海舟 が船酔いがひどくまともな指揮を執れなかったため、万次郎は代わって船内の秩序保持に努めた(彼はアメリカ人との交友を日本人船員に訝しがられることを恐れ、付き合い方には注意していたとされる)。サンフランシスコに到着後、使節の通訳として活躍。帰国時に同行の 福澤諭吉 と共に ウェブスター の英語辞書を購入し持ち帰る。 文久 元年( 1861 )には外国奉行・ 水野忠徳 に同行し、 小笠原諸島 などの開拓調査を咸臨丸を含む四隻の艦隊で行った。中浜が小笠原付近に知識があり、当時小笠原に住んでいたアメリカ人やイギリス人との面識もあり、通訳もできるために選ばれた。文久 2 年、幕府の 軍艦操練所 教授となり、帆船「一番丸」の船長に任命される。翌年には同船で小笠原諸島近海に向い捕鯨を行う。江戸に帰航後、再度捕鯨航海を企図するが政情不安のため幕府の許可が下りず、翻訳をしたり、 細川潤次郎 などの士民に英語の教示を行っている。 慶応 2 年( 1866 )、 土佐藩 開成館 設立にあたり、教授となって英語、航海術、測量術などを教える。また、藩命により後藤象二郎と 長崎 ・上海へ赴き土佐帆船「夕顔丸」を購入。 明治維新 後の明治 2 年( 1869 )、明治政府により 開成学校 (現・ 東京大学 )の英語教授に任命される。明治 3 年( 1870 )、 普仏戦争 視察団として 大山巌 らと共に 欧州 へ派遣されるが、発病のため戦場には赴けずロンドンで待機した。帰国の途上、アメリカで恩人のホイットフィールドと再会し、身に着けていた 日本刀 を贈った(この刀は後にアメリカの図書館に寄贈され、 第二次世界大戦 の最中にあっても展示されていたが、後に何者かに盗難され行方不明になり、現在はレプリカが展示されている)。更に帰国途上にハワイにも立寄、旧知の人々と再会を果たした。






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最終更新日  2023年08月31日 07時48分55秒
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