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『江戸泰平の群像』
(全
3
85
回)
338・
水野 忠邦
(みずの ただくに)は、
江戸時代
後期の
大名
・
老中
。
肥前
唐津藩
主、のち
遠州
浜松藩
主。寛政
6
年(
1794
年
)
6
月
23
日、
唐津藩
第
3
代藩主・
水野忠光
の次男として生まれる。長兄の芳丸が早世したため、
文化
2
年(
1805
年
)に唐津藩の世子となり、
2
年後の同
4
年(
1807
年
)に第
11
代
将軍
・
徳川家斉
と世子・
家慶
に
御目見
する。そして従五位下・式部少輔に叙位・任官した。文化
9
年(
1812
年
)に父・忠光が
隠居
したため、
家督
を相続する。また唐津藩から一部
天領
に召し上げられた地域があり、地元民には国替えの工作のための
賄賂
として使われたのではないかという疑念と、天領の年貢の取立てが厳しかったことから、後年まで恨まれている。この国替えにより忠邦の名は幕閣に広く知れ渡り、これにより同年に寺社奉行兼任となる。幕府の重臣となった事で、むしろ他者から猟官運動の資金(賄賂)を受け取る立場となり、家臣たちの不満もある程度和らげる事ができた。その後、将軍・家斉のもとで頭角を現し、
文政
8
年(
1825
年
)に大坂城代となり、従四位下に昇位する。文政
9
年(
1826
年
)に
京都所司代
となって侍従・越前守に昇叙し、
11
年に西の丸老中となって将軍世子・徳川家慶の補佐役を務めた。
天保
5
年(
1834
年
)に
水野忠成
が病没したため、代わって本丸老中に任ぜられ、同
8
年(
1837
年
)に勝手御用掛を兼ねて、同
10
年(
1839
年
)に老中首座となった。
「 天保の改革 」 忠邦は異国船が日本近海に相次いで出没して日本の海防を脅かす一方、年貢米収入が激減し、一方で 大御所政治 のなか、放漫な財政に打つ手を見出せない幕府に強い危機感を抱いていたとされる。しかし、家斉在世中は 水野忠篤 、 林忠英 、 美濃部茂育 ( 3 人を総称して 天保の三侫人 という)をはじめ家斉側近が権力を握っており、忠邦は改革を開始できなかった。
天保 8 年( 1837 年 ) 4 月に家慶が第 12 代将軍に就任し、ついで 1841 年 (天保 12 年)閏 1 月に大御所・家斉の薨去を経て、家斉旧側近を罷免し、 遠山景元 、 矢部定謙 、 岡本正成 、 鳥居耀蔵 、 渋川敬直 、 後藤三右衛門 を登用して 天保の改革 に着手した。天保の改革では「享保・寛政の政治に復帰するように努力せよ」との覚書を申し渡し「法令雨下」と呼ばれるほど多くの法令を定めた。
農村から多数農民が逃散して江戸に流入している状況に鑑み、農村復興のため 人返し令 を発し、弛緩した大御所時代の風を矯正すべく奢侈禁止・風俗粛正を命じ、また、物価騰貴は 株仲間 に原因ありとして株仲間の解散を命じる低物価政策を実施したが、その一方で低質な貨幣を濫造して幕府財政の欠損を補う政策をとったため、物価引下げとは相反する結果をもたらした。腹心の遠山は庶民を苦しめる政策に反対し、これを緩和した事により庶民の人気を得、後に『 遠山の金さん 』として語り継がれた。また、天保 14 年( 1843 年 ) 9 月に 上知令 を断行しようとして大名・旗本の反対に遭うなどした上、腹心の鳥居が上知令反対派の老中・ 土井利位 に寝返って機密文書を渡すなどしたため、閏 9 月 13 日に老中を罷免されて失脚した。改革はあまりに過激で庶民の怨みを買ったとされ、寺院にあった 木魚 を乱打しながら「水野は叩くに(忠邦)もってこいの木魚だ」と歌われたという。失脚した際には暴徒化した江戸市民に邸を襲撃されている。 弘化 元年( 1844 年 ) 5 月、 江戸城 本丸が火災により焼失した。老中首座・土井利位はその再建費用としての諸大名からの献金を充分には集められなかったことから将軍家慶の不興を買い、 6 月 21 日に家慶は外国問題の紛糾などを理由に忠邦を老中首座に再任した。しかし昔日の面影は無く、重要な任務を与えられるわけでもなかったため、御用部屋でもぼんやりとしている日々が多かったとされ、 目付 の 久須美祐雋 の記録では「木偶人御同様」(木偶の坊のようである)とされていた。同年 7 月からは頭痛・下痢・腰痛・発熱などの病気を理由としてたびたび欠勤した後、 12 月からは 癪 を理由として長期欠勤し、老中を辞職する弘化 2 年( 1845 年 ) 2 月まで勤めを休んだ [1] 。その一方で天保改革時代に自分を裏切った土井や鳥居らに報復をしたりしている。土井は自ら老中を辞任。鳥居は全ての役職を罷免された。なお、この転封に際して、水野氏は領民にした借金を返さないまま山形へ行こうとしたために領民が怒り、大規模な 一揆 を起こした。一揆は新領主の井上氏( 井上正春 )が調停して鎮めた。 嘉永 4 年( 1851 年 ) 2 月 10 日、死去。 享年 58 (満 56 歳没)。死後、 5 日で謹慎が解かれた。墓所は 茨城県 結城市 の旧 万松寺 跡。
『江戸泰平の群像』(全385回)373・… 2023年09月11日
『江戸泰平の群像』(全385回)B369… 2023年09月11日
『江戸泰平の群像』(全385回)A369… 2023年09月11日