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2023年09月03日
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カテゴリ: 江戸泰平の群像



『江戸泰平の群像』 (全 3 85 回) 354・ 堀田 正睦 (ほった まさよし)は、 江戸時代 末期の 大名 老中 首座。 下総 佐倉藩 の第 5 代藩主。 正俊 系堀田家 9 代。文化 7 年( 1810 年) 8 1 日、佐倉藩第 3 代藩主・ 堀田正時 の次男(末子)として 江戸 邸で生まれる。文化 8 年( 1811 4 月、父の正時が死去したが、藩主は嫡系の 正愛 が継ぎ、その後に正愛の養子となった。初名を正篤(まさひろ)という。さらに正敦が養子を出すことを拒否したために、正篤が藩主に就任した。当時の佐倉藩では金井右膳が専制を振るっていたが、これは当時、度重なる外国船の接近に対して佐倉藩は幕府の命令により、文政 6 年( 1823 )以来、病気がちの藩主・正愛に代わって金井の主導により 江戸 防衛のための準戦時体制を取っていたことによる。天保の改革期の幕政参加 , 政においては文政 12 年( 1829 4 12 日に 奏者番 に任命されたのをはじめに、 天保 5 年( 1834 8 8 日には 寺社奉行 を兼務する形で任命され、 受領名 も備中守と改めた。天保 8 年( 1837 5 16 日に 大坂城代 に任命されて(ただし現地には赴任していない)、従四位下に叙せられた。約 2 ヵ月後の 7 8 日に江戸城西の丸老中に任命され、 加判 に列した。第 11 将軍 徳川家斉 没後の天保 12 年( 1841 3 23 日に本丸老中に任命され、老中首座の 水野忠邦 が着手した 天保の改革 に参与する。 しかし天保の改革は、忠邦の民衆に対する圧迫、腹心の 鳥居耀蔵 による悪政などから 2 年で失敗に終わった。正篤は忠邦の改革に対しては批判的であり、忠邦の改革は失敗に終わると早くから見抜き、腹心の渡辺と図って天保 14 年( 1843 4 月の第 12 代将軍・ 徳川家慶 の日光参拝直後に病気と称して辞表を提出する。 閏 9 8 日、辞任を認められて江戸城 溜間詰 となるが、これは老中辞任後も正睦に一定の幕政への発言力が残される結果になった(忠邦が罷免されたのは正睦辞任の 5 日後であり、正睦のこの手早さが失脚を免れたのである)。老中首座・幕政主導 天保 14 年( 1843 年)閏 9 月に老中を辞任した後は、佐倉に戻って再び藩政改革に尽力し、一定の治績を挙げた。 幕末においては 攘夷 鎖国 が時代錯誤であることを痛感し、一刻も早く諸外国と通商すべきという開国派であった。 安政 2 年( 1855 10 2 日に 安政の大地震 が起こり、この地震で正篤は江戸上屋敷において負傷した。その 1 週間後の 10 9 日、当時の老中首座であった 阿部正弘 の推挙を受けて再任されて老中になり、正弘から老中首座を譲られた。この時、外国掛老中を兼ねた。この正睦の老中再任に対して 徳川斉昭 は蘭癖である正睦に好感を持てなかった事から反対し、 島津斉彬 は静観した。また 立花鑑寛 松平慶永 らは正篤は招聘された「看板」であって実権は阿部が掌握していると見ていた。確かに阿部は死去する安政 4 年( 1857 )までは実権を握っており、正篤は首座とはいえ飾りに近かった。ただし正篤を立てる事で阿部が矢面に立つのをかわす事、黒船来航から山積していた外交・内政問題などからの激務で阿部の体調が思わしくなかった事、譜代大名の中で正篤は明快なほど開国通商の意見を持っているなどした事が、阿部に推挙された理由であるとも思われる。一方、同年、将軍・家定が病に倒れ、その後継ぎをめぐって 徳川慶福 紀伊藩 主)を推す 南紀派 と、 徳川慶喜 一橋徳川家 当主)を推す 一橋派 が対立する安政の 将軍継嗣問題 が起きた。正睦は元々 水戸藩 の徳川斉昭とは外交問題を巡って意見があわず、従ってその子の慶喜にも好感が持てず、心情的には慶福が第 14 代将軍に相応しいと考えていた節がある。しかし、京都で朝廷の強硬な反対に遭って勅許を得られなかった状況を打開するには、慶喜を将軍に、 福井藩 主の松平慶永を大老に推挙すれば、一橋贔屓の朝廷も態度を軟化させて条約調印に賛成すると読み、将軍継嗣問題では南紀派から一橋派に路線を変えた。失脚と最期 正睦が上洛中に 松平忠固 (老中)、 水野忠央 紀州藩 家老)の工作により南紀派の 井伊直弼 が大老に就任すると、直弼は正睦をはじめとする一橋派の排斥を始めた。安政 5 年( 1858 年) 6 21 日、正睦は松平忠固と共に登城停止処分にされた。 6 23 日には忠固と共に老中を罷免され、 帝鑑間 詰を命じられる。これにより正睦は政治生命を絶たれることになった。 安政 6 年( 1859 9 6 日、正睦は家督を四男の 正倫 に譲って 隠居 し見山と号した。正睦のこの隠居に関しては大老の直弼による強制的な隠居命令であり、この 10 日ほど前の 8 27 日に 岩瀬忠震 永井尚忠 ら一橋派が蟄居させられており、その連座処分だったとされる。ただし、直弼は時機を見ての正睦の再登用を検討していたとも言われており、 安政の大獄 においては他の一橋派大名が 閉門 などの厳重な処分を受ける中で不問に付されている。






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最終更新日  2023年09月03日 06時29分40秒
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