歴史の回想のブログ川村一彦

歴史の回想のブログ川村一彦

PR

プロフィール

歴史の回想・川村一彦

歴史の回想・川村一彦

カレンダー

コメント新着

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2023年09月03日
XML
カテゴリ: 小牧長久手





これに対して信玄の後継者である 武田勝頼 も攻勢に出て、 天正 2年( 1574 )には東美濃の 明智城 、遠江 高天神城 を攻略し、家康と武田氏は攻防を繰り返した。


n また家臣の 大賀弥四郎 らが、武田に内通していたとして捕え、 鋸挽き で処刑した。信長の家康への支援は後手に回ったが、天正3年( 1575 )5月の 長篠の戦い では主力を持って武田氏と戦い、武田氏は宿老層の主要家臣を数多く失う大敗を喫し、駿河領国の動揺と外交方針の転換を余儀なくさせた。


n 一方家康は戦勝に乗じて光明・犬居・二俣といった城を奪取攻略し、殊に 諏訪原城 を奪取したことで高天神城の大井川沿いの補給路を封じ、武田氏への優位を築いた。


n なお、家康は長篠城主の奥平貞昌(信長の偏諱を賜り信昌と改名)の戦功に対する褒美として、名刀・ 大般若長光 を授けて賞した。そのうえ、翌年には長女・ 亀姫 を正室とさせている。


n だが、このころから、信長との関係が対等ではなくなり、信長を主君とする「一門に準ずる織田政権下の一大名」の立場になる。


n 軍事行動でもこれ以前は将軍足利義昭の要請での軍事援助という形式だったが、以後は信長臣下としての参軍となる [36]


n 天正6年( 1578 )、 越後 上杉氏 で急死した 上杉謙信 の後継者を争う 御館の乱 が発生し、武田勝頼は 北信濃 に出兵し乱に介入する。


n 謙信の養子である 上杉景勝 (謙信の甥)が勝頼と結んで乱を制し、同じく養子の 上杉景虎 (謙信の姪婿で後北条氏出身)を敗死させたことで武田・北条間の甲相同盟は破綻した。


n 翌天正7年( 1579 )9月に北条氏は家康と同盟を結ぶ。この間に家康は 横須賀城 などを築き、多数の付城によって高天神城への締め付けを強化した。


n また同じころ、信長から 正室 ・築山殿と嫡男・ 松平信康 に対して武田氏への内通疑惑がかけられたとされる。


n 家康は酒井忠次を使者として信長と談判させたが、信長からの詰問を忠次は概ね認めたために信康の 切腹 が通達され、家康は熟慮の末、信長との同盟関係維持を優先し、築山殿を殺害し、信康を切腹させたという。


n だが、この通説には疑問点も多く、近年では築山殿の殺害と信康の切腹は、家康・信康父子の対立が原因とする説も出されている( 松平信康# 信康自刃事件について の項を参照)。


n 岩村城の戦い 以降に織田氏と武田氏は大規模な抗争をしておらず、後北条氏との対立をも抱える事にもなった勝頼は人質にしていた信長の五男・ 勝長 を返還するなど織田氏との和睦( 甲江和与 )を模索している。


n しかし、信長はこれを黙殺し、天正9年( 1581 )、降伏・開城を封じた上での総攻撃によって家康は高天神城を奪回する( 高天神城の戦い )。


n 高天神城落城、しかも後詰を送らず見殺しにしたことは武田氏の威信を致命的に失墜させ、国人衆は大きく動揺した。 木曾義昌 の調略成功をきっかけに、天正10年( 1582 )2月に信長は家康と共同で武田領へ本格的侵攻を開始した。


n 織田軍の信濃方面からの侵攻に呼応して徳川軍も駿河方面から侵攻し、武田軍の蘆田信蕃( 依田信蕃 )の 田中城 成瀬正一 らの説得により 大久保忠世 が引き取り、さらに甲斐南部の河内領・駿河江尻領主の 穴山信君 (梅雪)を調略によって離反させるなどして駿河領を確保した。


n 勝頼一行は同年3月に自害して武田氏は滅亡し、家康は3月10日に信君とともに甲府へ着陣しており、信長は甲斐の仕置を行うと 中道往還 を通過して帰還している( 甲州征伐 )。


n 家康はこの戦功により駿河国を与えられ、駿府において信長を接待している。家康はこの接待のために莫大な私財を投じて街道を整備し宿館を造営した。


n 信長はこの接待をことのほか喜んだ。


n また遅くともこの頃には、三河一向一揆の折に出奔した 本多正信 が、徳川家に正式に帰参している(正式な帰参時期は不明で、姉川の戦いの頃に既に帰参していたとも)。


n 本能寺の変と天正壬午の乱


n 天正10年(1582年)5月、駿河拝領の礼のため、信長の招きに応じて降伏した穴山信君とともに居城・ 安土城 を訪れた。


n 6月2日、 を遊覧中に 本能寺の変 が起こった。このときの家康の供は 小姓 衆など少人数であったため極めて危険な状態となり、一時は狼狽して信長の後を追おうとするほどであった。


n しかし 本多忠勝 に説得されて翻意し、 服部半蔵 の進言を受け、 伊賀国 の険しい山道を越え 加太越 を経て 伊勢国 から海路で三河国に辛うじて戻った( 神君伊賀越え )。


n この時、 三河の国一色 において一行を介抱したのが、 高須克弥 の先祖とされている。


n その後、家康は 明智光秀 を討つために軍勢を集めて尾張国鳴海まで進軍したが、このとき 中国地方 から帰還した 羽柴秀吉 によって光秀がすでに討たれたことを知った。


n 一方、織田氏の領国となっていた旧武田領の甲斐国と信濃国では大量の 一揆 が起こった。


n さらに、越後国の上杉氏、相模国の北条氏も旧武田領への侵攻の気配を見せた。旧武田領国のうち 上野 一国と信濃小県郡・佐久郡の支配を担っていた 滝川一益 は、旧武田領を治めてまだ3ヶ月ほどしか経っておらず、軍の編成が済んでいなかったことや、武田遺臣による一揆が相次いで勃発したため、滝川配下であった信濃国の 森長可 毛利秀頼 は領地を捨て畿内へ敗走した。






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2023年09月03日 15時12分39秒
コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: