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2023年09月04日
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カテゴリ: 小牧長久手


9「小牧における対陣」


敵襲の心配がなくなった家康は 3月18 、小牧山城を占拠し、周囲に 土塁 を築かせ羽柴軍に備えた。


小牧山城 (こまきやまじょう)は、 日本 織田信長 が美濃攻めの拠点として築城し、後の 小牧・長久手の戦い では、 徳川家康 の陣城となった。


濃尾平野 独立峰 である小牧山に築城された城で、織田信長が 美濃攻め を終えるまでの4年間しか使用されなかった。


このため、急造の砦に近いものと想像されていたが、近年の発掘調査の結果で、城郭を取り巻く三重の石垣(三段の石垣で一番下の段は腰巻石垣)が発見された。


そして城の南部の発掘調査では、小牧山築城によって移転してきた住民によって営まれた町割も発見された。


これにより小牧山城は戦時急造の城ではなく、 清州城 に代わる新たな拠点として築かれた城郭であることが判明した。現在は小牧山城が後に織豊系城郭と呼ばれる城郭体系の原点であるとされる。


南山麓から本丸のある頂上に向かう位置には防衛に不向きな大手道が設けられている。途中の中腹から折れのある道へと変化しており、後の 安土城 の縄張りとの類似性が指摘されている。


標高86mの小牧山頂上に本丸を築き、その周囲を三重の石垣で守りを固め、中腹も削平して数多くの曲輪を構築している。


東麓の帯曲輪地区では、堀で仕切られた武家屋敷があったと推定される。この東麓の帯曲輪南端の区画は他の武家屋敷よりも敷地が広く、これが信長の屋敷ではないかと推測している。


平成17年度(2005年)に行われた第2次試掘調査で現在の大手道の地下に永禄期の大手道があることが発見された。


永禄期の大手道は、山側谷側にもそれぞれに石積を設け、道の両端を区画していた。


道幅は約5㎡で、道に並行して幅 20㎝の排水溝を設置していた。この構造は安土城の正面にある大手道と構造的に似通っており、安土城が初見とされる大規模な大手道は、この小牧山城が最初であったと推測されている。


小牧・長久手の戦いの際には、陣城として大掛かりな土木 工事が行われ、山の周囲全体を土塁と堀で囲み、要所には防衛用の 虎口 を設けた。


 秀吉は 3月21 に兵30,000を率いて 大坂城 を出発、 3 月25 に岐阜に進み、 3月27 に犬山に着陣する。


家康が小牧山城に入ってから秀吉の楽田到着までの間、両軍が の修築や 土塁 の構築を行った為、双方共に手が出せなくなり挑発や小競り合いを除けば、戦況は膠着状態に陥った。


羽柴秀次の出陣


両軍は小牧付近にて対陣状態におちいり、たがいに相手の出方をうかがっていた。


4月4日、池田恒興は秀吉のもとを訪れて献策した。兵を三河に出して空虚を襲い各所に放火して脅威すれば徳川は小牧を守ることができなくなるであろうと。


5日朝、恒興は秀吉のもとをまた訪れ、森長可とともに羽黒戦の恥を雪ぎたいと述べた。秀吉はついにこれを許可し、森長可らを主として支隊を編成して明6日三河西部へむけて前進すべしと命令。支隊は4月6日夜半出発した。


各隊の主な編組は以下の通り:


· 第一隊 - 池田恒興 - 兵6,000人


· 第二隊 - 森長可 - 兵3,000人


· 第三隊 堀秀政  - 兵3,000人


· 第四隊 羽柴秀次  - 兵8,000人


家康は 4月7 に羽柴秀次勢が篠木( 春日井市 )・ 上条城 の周辺に、2泊宿営した頃に近隣の農民や 伊賀衆 からの情報で秀次勢の動きを察知。 4月8 、地元の 丹羽氏次 水野忠重 榊原康政 大須賀康高 ら4,500人が支隊として小牧を夕方に出発して、20時 小幡城 名古屋市 守山区 )に入り、付近の敵情を探った。


家康と信雄の主力9,300は20時小牧山を出発し、24時小幡城に着陣。織田・徳川軍は主力の到着にともない小幡城で軍議をおこない、兵力を二分して各個に敵を撃破することに決した。


9日2時、織田徳川軍支隊は羽柴秀次勢を攻撃せんと出発した。


秀次勢は家康が小幡城に入った8日に行軍を再開し、9日未明には池田恒興勢が 丹羽氏重 (氏次の弟)が守備する 岩崎城 日進市 )の 攻城戦 を開始する。


氏重らは善戦したが、約三時間で落城し玉砕した( 岩崎城の戦い )。この間、羽柴秀次、森長可、堀秀政の各部隊は、現在の 尾張旭市 長久手市 日進市 にまたがる地域で休息し、進軍を待った。しかし、その頃すでに徳川軍は背後に迫っていた。


白山林の戦い


岩崎城で 攻城戦 が行われているころ、羽柴秀次勢は白山林(名古屋市守山区・ 尾張旭市 )に休息していたが、9日4時35分ごろ後方から水野忠重・丹羽氏次・大須賀康高勢、側面から 榊原康政 勢に襲撃された。


この奇襲によって秀次勢は潰滅する。秀次は自身の馬を失い、供回りの馬で逃げ遂せた。また、 目付 として付けられていた 木下祐久 やその弟の 木下利匡 を初めとして多くの 木下氏 一族が、秀次の退路を確保するために討ち死にした。


桧ヶ根の戦い


羽柴秀次勢より前にいた堀秀政勢に、秀次勢の敗報が届いたのは約 2 時間後のことであった。堀勢は直ちに引き返し、秀次勢の敗残兵を組み込んで桧ケ根に陣を敷き、迫り来る徳川軍を待ち構えた。


秀次勢を撃破して勢いに乗った徳川軍は、檜ヶ根(桧ケ根、 長久手市 )辺りで堀勢を攻撃したが、返り討ちにされて逆に追撃された。徳川軍支隊の死者280余とも 500 人ともいう。


織田徳川本隊は、9日2時に小幡城を出発して東へおおきく迂回し、4時30分ごろ権堂山付近を過ぎて 色金山 に着陣。そこで別働隊の戦勝と敗退を知り、岩作をとおり富士ヶ根へ前進して堀秀政勢と池田恒興・森長可勢との間を分断した。


この時、秀政は家康の 馬印 である金扇を望見し、戦況が有利ではないことを判断、池田と森の援軍要請を無視して後退した。






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最終更新日  2023年09月04日 07時48分07秒
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