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『江戸泰平の群像』
(
全385回)362・
島津 斉興
(しまづ なりおき)は、
江戸時代
後期の
外様大名
。
島津氏
第
27
代当主。
薩摩藩
の第
10
代
藩主
。寛政
3
年(
1791
年)
11
月
6
日、第
9
代
藩主
・
島津斉宣
の長男として
江戸
で生まれた。生母の実家鈴木氏は
浪人
であったため、斉興出生後に藩と鈴木氏との間で諍いが起きている。
文化
元年(
1804
年
)
10
月に
元服
、将軍・
徳川家斉
より
偏諱
を賜って、初名の 忠温
(ただよし
/
ただはる
/
ただあつ)から 斉興
に改名。従四位下、侍従兼豊後守に叙任。文化
6
年(
1809
年
)
6
月、
近思録崩れ
の責任を取る形で父・斉宣が祖父・
重豪
によって強制
隠居
させられたため、
家督
を継いで第
10
代藩主となった。しかし藩主になったとはいえ、
藩政改革
などの実権は重豪に握られていた。
天保
4
年(
1833
年
)、重豪が
89
歳で大往生を遂げるとようやく藩政の実権を握り、重豪の代からの藩政改革の重鎮・
調所広郷
を重用して、財政改革を主とした藩政改革に取り組んだ。藩政改革では調所主導の元、借金の
250
年分割支払いや
清
との密貿易、
砂糖
の専売などが大いに効果を現わし、薩摩藩の財政は一気に回復したが、
嘉永
元年(
1848
年
)幕府から密貿易の件で咎められ、責任者の調所は
12
月に急死した。斉興に責任を及ばさないために
1
人で罪を被り、服毒自殺したとされる。 お由羅騒動
、
この頃になると、斉興の後継ぎをめぐって藩内では争いが起きていた。斉興の成人した男児に正室・弥姫(周子)(
鳥取藩
主・池田治道の娘)との間に嫡子・斉彬が、側室・
お由羅の方
との間には五男・久光がいた(次男・斉敏は岡山
池田氏
を継いでいた)。本来ならば嫡男の斉彬が継ぐはずであるが、斉興はお由羅とその間に生まれた久光を溺愛し、彼を後継者にしようと考えていた。しかし藩内では聡明な斉彬を後継者に薦める者も少なくなく、嘉永
2
年(
1849
年
)
12
月にはお家騒動(
お由羅騒動
)が勃発した。これは、斉彬の擁立を望む
山田清安
、
高崎五郎右衛門
、
近藤隆左衛門
ら
50
余名が対立する久光とその生母・お由羅の暗殺計画を謀ったものであるが、事前に計画が露見して自害させられた事件である。その後も藩内では斉彬派と久光派に分かれて対立が絶えなかったが、嘉永
4
年(
1851
年
)
2
月、
老中
・
阿部正弘
の調停により、斉興は隠居し、斉彬が家督を継ぐ事となったのである。晩年と最期
、
安政
5
年(
1858
年
)
7
月
16
日
、斉彬が先立って
50
歳で急死すると、斉彬の遺言により藩主は久光の長男・
忠徳
が継いだが、忠徳が若年であることを理由に再び藩政を掌握し、
西郷隆盛
を始めとする斉彬派の家臣を大粛清し、
集成館事業
を一時廃止したため、一気に時代に逆行した復古的な政策に転換した藩政は混乱した。安政
6
年(
1859
年)
9
月
12
日に死去。
享年
69
(満
67
歳没)
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