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和泉では、同年3月から根来・雑賀衆及び粉河寺衆徒が秀吉の留守を狙って堺や大坂に攻め寄せており、 岸和田城 にも攻め寄せたが、 中村一氏 と 松浦宗清 がの末にこれを守りきっている( 紀州征伐 )。
しかしながら、この和泉の攻防により、秀吉は6月21日~7月18日、7月29日~8月15日、10月6日~10月 25 日と戦場を離れ 大坂城 に帰還している。
♺ 中村 一氏 (なかむら かずうじ)は、 戦国時代 から 安土桃山時代 にかけての 武将 、 大名 。 豊臣政権 の 三中老 の一人。
♺ 出自については諸説ある( 後述 )。早くから 織田氏 の家臣であった羽柴秀吉( 豊臣秀吉 )に仕えた。 天正 元年( 1573 年 )頃に秀吉より近江長浜のうち200石を拝領する。
♺ 秀吉の命を受け、 石山合戦 や天正10年( 1582 年 )の 山崎の戦い での鉄砲隊指揮などで武功をたてる。
♺ 天正11年( 1583 年 )、 賤ヶ岳の戦い に参戦した。同年、 蜂屋頼隆 の後任として 和泉国 岸和田城 主となり3万石を拝領し、和泉国衆を傘下に、大坂の防衛および来たるべき紀州攻めに備える役割を与えられた。和泉国はいまだ秀吉政権に服属しておらず、紀州の根来衆や本願寺残党勢力により各地を支配され、緊張状態が続いていた。
♺ 天正12年( 1584 年 )、正月一日早々から紀州勢により岸和田城への襲撃が行われ、その後も大坂を狙った攻撃が相次ぐが、一氏らはそれらを撃退した。
♺ 3月22日から大坂および岸和田城下に紀州勢の猛攻を受けるも(同月21日に 徳川家康 を相手とした 小牧・長久手の戦い のために秀吉軍主力が尾張へ向けて出陣した間隙をぬったものであり、秀吉は一旦大坂に引き返すなどの苦戦を強いられている)、一氏は劣勢ながら岸和田城を守り切り、翌天正13年( 1585 年 )の反転攻勢においても主導的役割を果たした( 秀吉の紀州征伐 、 千石堀城 の項目を参照)。
♺ 天正13年( 1585 年 ) 近江国 水口岡山城 主になり 6 万石を拝領、 従五位下 式部少輔 に叙任された。
♺ 天正18年( 1590 年 )の 小田原征伐 においては 羽柴秀次 隊の先鋒を務め、ほぼ単独で 松田康長 の守る 山中城 の主要部分を攻略。
♺ この功により戦後、関東に移封となった家康の抑えとして 駿河府中 14万石を拝領する。また、 文禄 4年( 1595 年 )駿河直領(蔵入地)の代官として駿河一国を任され、慶長3年( 1598 年 ) 三中老 の一人に任命された。しかし三中老は後世に作られた実在しない制度とする指摘もある。
♺ 慶長5年( 1600 年 ) 関ヶ原の戦い では東軍に属すが、合戦前の7月17日(8月25日)に病死。戒名は大竜院殿一源心公大禅定門。墓は 静岡市 の 臨済寺 にある。
♺ 合戦には弟の 中村一栄 や、家督を継いだ長男の 中村一忠 が出陣し、美濃で戦った。
♺ 戦後、その戦功によって 伯耆 一国 米子城 17万5,000石および国持大名の格式を与えられたが、慶長14年( 1609 年 )に一忠が急死。跡継ぎのいなかった中村家は断絶。 江戸幕府 により改易された。
♣ 松浦 宗清 (まつうら むねきよ)は、 安土桃山時代 の 武将 、 大名 。 通称 は安大夫(やすだゆう)で、 松浦安大夫 の称でも知られる。 諱 は他に 定一 (さだいち)、 清長 (きよなが)とも伝わる [1] 。 松浦秀任 は従兄弟。
♣ 和泉国 和泉郡 寺田村の 国人 である 寺田知正 の次男で、 寺田又右衛門 の弟。 堺 に住んで、和泉 守護代 ・ 岸和田城 主の 松浦肥前守 (光)の配下に属していたが、肥前守が 織田信長 に降ったことから、信長の家臣となった。
♣ 松浦姓を称したのは、肥前守の養子になったのか、賜姓を受けただけなのか明らかではない。
♣ 一説には、又右衛門・安大夫の兄弟が主君松浦氏を謀殺して松浦氏を名乗るようになったともいう。
♣ 天正 4年( 1576 年 )7月9日、和泉衆の 沼間任世 ・寺田生家・宗清が、信長により大坂付近の作毛刈取り(所謂、青田刈り)を命じられている [1] 。同月13日の 第一次木津川口の戦い に参加して毛利勢と戦い、惨敗して味方の多くは討死するが、生家・宗清兄弟は生き延びた。
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