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頼朝挙兵の報は、 9月1 日 ( 9月21 日 )に 大庭景親 より 福原 へもたらされた。 5 日 ( 25 日 )に 平清盛 は追討軍を関東へ派遣することを決定する。
追討軍の編成は遅々として進まず、 平維盛 、 忠度 、 知度 らによる追討軍が福原を出立したのは 22 日 ( 10月12 日 )であった。
京 に入っても総大将の維盛と次将(参謀役)の 藤原忠清 が吉日を選ぶ選ばぬで悶着があり、京を発したのは 29 日(10月19日)になってしまった。
平家方が時間を空費している間に頼朝は関東で勢力を回復し、 甲斐国 では 甲斐源氏 が、 信濃国 では 源義仲 が挙兵した。
追討軍は進軍しながら諸国の「駆武者」をかき集めたことで7万騎(『 平家物語 』)の大軍となるが、所詮は寄せ集めであり、折からの西国の 大飢饉 で兵糧の調達に苦しみ、士気は非常に低かった。
三者の布陣
この項の以下の日付は 吾妻鏡 による。
10月13 日 ( 11月2 日 )、追討軍は 駿河国 へ入った。
10月14 日 ( 11月3 日 )の 鉢田の戦い にて甲斐源氏は駿河の平氏方現地勢力を撃破する。
16 日 ( 5 日 )に頼朝は平氏軍を迎え撃つべく鎌倉を発する。
17 日 ( 11月6 日 )に武田信義は維盛に挑戦状を送りつけ、「 かねてよりお目にかかりたいと思っていましたが、幸い宣旨の使者として来られたので、こちらから参上したいのですが路が遠く険しいのでここはお互い浮島ヶ原で待ち合わせましょう 」という不敵な内容に侍大将の伊藤(藤原)忠清が激怒し、使者は斬らない兵法は私合戦に置いての事で、官軍には適用されないとして使者2人の首を斬った(『 山槐記 』『玉葉』『 吉記 』)。 同日頼朝は相模国豪族 波多野義常 を討つために派兵する ( 『 吾妻鏡 』 )
10月18日(11月7日)に大庭景親は1000騎を率いて駿河の維盛の軍に合流しようとするが、頼朝または甲斐源氏に行く手を阻まれ、相模国に留まった後、軍を解散し逃亡した。
景親は後に頼朝に降参するが許されず、斬られている。
2 万余騎の甲斐源氏の軍勢は 10月18 日 ( 11月7 日 )に布陣した。同日夜頼朝は 黄瀬川 沿いに布陣した。
10月19 日 ( 11月8 日 )、伊豆から船を出して維盛と合流しようと図った伊東祐親・ 祐清 父子が捕らえられた。
大庭氏、伊東氏、駿河豪族などの在地親平氏勢力の壊滅や坂東などの豪族たちが雪崩をうって頼朝らについたという状況は、在地勢力による反乱軍への初期対応を戦略の一貫に組み込んでいた平氏方の構想を挫くことになった。
平家の撤退
玉葉 によると 18 日 、 吾妻鏡 によると 20 日 、甲斐源氏の兵は富士川の東岸に進む。また、『吾妻鏡』によると頼朝は駿河国賀島に進んだとある。
平家方はその西岸に布陣した。兵糧の欠乏により平家方の士気は低下し、まともに戦える状態になかった。『吾妻鏡』によると、この時点での平家方は4000余騎でかなり劣勢であり、さらに脱走者が相次いで2000騎ほどに減ってしまう有様だった。この要因として、平氏軍の大半が遠征の中途で徴発された駆り武者によって占められていることなどが挙げられている。
両軍の兵力差から、平家方は戦う前から戦意を喪失しており、奇襲に対してかなり神経質になっていたものと思われる。
両軍が対峙したその夜、平氏軍は突如撤退し、大規模な戦闘が行なわれないまま富士川の戦いは終結する。
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