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2023年09月07日
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カテゴリ: 治承寿永の乱




当時の坂東の武士にとって、最優先事項であったのは在地における各々の権益の確保と拡大にあった 。頼朝は、自らの御家人の権利を確保することが求められており、さらには競合勢力とのせめぎあいを常に抱えていた。、実際に頼朝は、 志田義広 新田義重 佐竹氏 足利忠綱 といった周辺の敵対勢力を排除・屈服させることに非常に尽力している。


治承4年(1180年)11月には 金砂城の戦い 、翌年(実際は寿永2年とも)の 足利俊綱 との争い、寿永2年(1183年)2月の 野木宮合戦 、さらに同年3月頃には信濃国近辺で木曾義仲と大軍を率いてにらみ合ったのち和平を結ぶなど、この頃の頼朝は坂東における自らの勢力基盤の確保と拡大に力を注がざるを得ない状況であった。


X 野木宮合戦 (のぎみやかっせん)は、 寿永 2年 2月23 1183 3月18 )に、 下野国 の野木宮( 栃木県 下都賀郡 野木町 )で 源頼朝 らと 志田義広 らが争った 合戦


X 志田義広は 源為義 の三男であり、源頼朝の叔父にあたる。 治承 4年( 1180 )に頼朝が 平氏 打倒の兵を挙げ 鎌倉 に政権を建てるが、それには加わらず 常陸国 信太荘( 茨城県 稲敷市 )に居住していた。


X 寿永2年( 1183 )2月、源頼朝の 御家人 らは鎌倉に襲来すると風聞された平家に対抗するため 駿河国 に在った。


X 20日、志田義広は鎌倉を攻める兵を挙げ、30000余騎を率い下野国・野木宮へと到る。


X 源頼朝は 下河辺行平 小山朝政 に対応を託し、小山朝政の弟 長沼宗政 と従兄弟 関政平 は、朝政を助けるため鎌倉を発し下野国に向かった。関政平はその途路で志田義広の軍に加わり、源頼朝は翌日から 鶴岡八幡宮 で東西の戦いの静謐を祈り始める。


X 合戦


X 23日、志田義広は鎌倉へ軍を発する。まず、志田義広は 足利俊綱 忠綱 父子を誘い軍に加えた。足利と小山は同族であるが、下野国で勢力を争っており、足利忠綱は治承4年(1180年)の宇治橋での戦い( 橋合戦 )でも平家に加わり、 以仁王 源頼政 を破るなど活躍を見せていた。


X その後、俊綱父子は平清盛から希望していた恩賞を与えられず、頼政方についてその後 木曽義仲 を頼った 矢田義清 との所領( 足利荘 簗田御厨 など)争いもあったことから、頼朝に臣従した時期もあったが、義清の異母弟 足利義兼 との対立から頼朝への反抗に転じたとみられる。


X 次に志田義広は小山朝政も誘う。朝政は父 小山政光 が京で勤仕していたため兵が少なく、義広に加わると偽り、野木宮に潜んだ。さらに足利俊綱の異母弟・ 足利有綱 とその子・ 佐野基綱 (忠綱の甥)も秘かに小山朝政の陣営に馳せ参じ、伯父の足利俊綱と従兄弟の足利忠綱らに対して宣戦布告した。


X 一方、返答を受けた志田義広は喜んで小山朝政の館に赴き、その途中の野木宮に到ると、朝政らは声を挙げ、義広らを狼狽させる。


X 次に朝政の郎従である太田菅五、水代六次、次郎和田、池二郎、蔭澤次郎、 小山朝光 の郎従である保志泰三郎らが義広を攻めた。この小競り合いで義広は矢を放ち、小山朝政を落馬させる。この馬を戦場に向う途中の登々呂木澤で拾った長沼宗政は、小山朝政が討たれて合戦は敗れたと考え、急ぎ志田義広の陣へ向い、その途路で義広の乳母子である多和利山七太を討つ。


X その後、志田義広は野木宮西南に陣を引き、小山朝政と長沼宗政は東から攻めるが、東南からの暴風により巻き上げられた焼野の灰が視界を妨げ、戦いは乱れ、地獄谷登々呂木澤では多くの死骸が残った。


X 下河辺行平 と弟の 下河辺政義 は古河と高野を固め、志田軍の敗走兵を討った。足利有綱・佐野基綱父子、 浅沼広綱 木村信綱 太田行朝 らは、小手差原や小堤に陣を取り戦った。


X 他には、 八田知家 下妻淸氏 小野寺道綱 小栗重成 宇都宮信房 鎌田爲成 湊川景澄 源範頼 らが朝政に加わった。なお『 吾妻鏡 』において範頼はここが初見である。


X 戦後


X 27日、 鶴岡八幡宮 での祈祷を終えた 源頼朝 は、 小山朝政 らの使者から志田義広の逃亡を聞く。


X 翌日には 長沼宗政 からの報告を受け、志田義広に加わった武士の所領を全て取り上げ、小山朝政や 小山朝光 らに恩賞を与える。これにより 関東 において頼朝に敵対する勢力は無くなった。


X 足利忠綱 は上野国での潜伏を経て、 山陰道 を通り西海へ赴いた。敗れた志田義広は 源義仲 の下に加わるが、最期は 伊勢国 で討たれた。



X 合戦の年月日


X 『吾妻鏡』はこの戦いを治承 5 年閏2月23日に記しているが、 元久 2年8月7日や 建久 3年9月12日の記事には、寿永2年2月23日に戦って恩賞が与えられたと記されている。この矛盾は吾妻鏡の編集に誤りがあり、実際の戦いは寿永 2 年2月23日に行われたと解されている。


X その一方で寿永2年説を採用すると、義広とともに反抗して追放された 藤姓足利氏 (俊綱・忠綱父子)の没落に関する記事に新たな矛盾が生じる。


X 更に治承5年閏2月23日条には義広が前年の夏に以仁王の令旨を受け取ったことが明記されており、以仁王の乱の翌年に義広が挙兵したと解すれば治承5年の年次は正しいとも解される。


X このため、元久2年や建久 3 年の吾妻鏡の記事の編集の方に誤りがあった(合戦発生の年次と恩賞支給の年次が混同されたなどの)可能性もあり治承5年(=養和元年)閏2月23日の方が正しい日付であるとする説もある。






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最終更新日  2023年09月07日 05時51分47秒
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