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この時点において、義仲の権威と名声は頼朝のそれをはるかに上回っていたのである。平氏家人打倒を共通の目的として頼朝麾下に集結した関東武士団連合も、本来的には所領をめぐり潜在的な対立関係にあったのであり、敵対勢力の排除や淘汰にともなって徐々に結合が弱まり始めていた。
% 元木泰雄 は、こうした中で義仲が目覚しい活躍をみせたことは、頼朝政権が崩壊する可能性さえもたらしかねなかったとする。
% 上記の状況下において、頼朝は政治的な窮地に立たされ、危機感を強く抱いた。上横手は、頼朝の対朝廷外交の主眼は、頼朝が源氏の嫡宗であること、そして唯一の武家棟梁であることの2点を朝廷に公認させることだったと指摘している。7月末に頼朝が勲功第一と評定されたことはその外交方針による成果だといえるが、その後の状況は、義仲に優越しようとする頼朝外交があえなく失敗したことを物語っている。
% ここで頼朝政権内部の状況にも目を向けると、 平広常 ら有力関東武士層には東国独立論が根強く存在しており、頼朝を中心とする朝廷との協調路線との矛盾が潜在していた。
% 前者は 以仁王の令旨 を東国国家のよりどころとしようとし、後者は朝廷との連携あるいは朝廷傘下に入ることで東国政権の形成を図る立場であった。この 2 路線の相克が、爾後、頼朝政権が退勢を挽回する上で重要となってくる。
% 物資の確保を狙う朝廷側( 後白河院 )と、義仲に優越する必要に迫られていた頼朝側との間で、9月ごろから交渉が開始した。まず後白河院から頼朝へ何らかの要請がなされたとされるが、その内容を明らかにする史料は残されていない。後白河院からの要請に対して、頼朝は3か条からなる回答を示している。 1 点目は神社仏寺へ勧賞を行うこと、2点目は 院宮王臣家 以下の荘園を 本所 の領有に復帰させること、3点目は斬罪の寛刑特令を発布すること、であった(『玉葉』十月四日条)。
% 佐藤進一は、後白河院の真の狙いは国衙支配の回復であったろうが、頼朝の回答は荘園領有権の回復に言及しているのみであり、国衙支配の回復には触れていないことから、国衙支配の回復が重要な外交カードになっていたと指摘する。
% また、佐藤は、寛刑特令発布について、義仲による平氏残党掃討を牽制する意図があったと考えている [1] 。
% 10月中旬に至って交渉は妥結した。朝廷から下されたその宣旨は、東海・東山両道の荘園・公領の領有権を回復させることと、それに不服の者については頼朝へ連絡し「沙汰」させる、という2つの内容を有していた(詳細は上記 「内容」節 を参照)。前段は朝廷側の要求の実現であり、後段は頼朝側の要請が承認されたものと解されている。
% 後段に現れる「沙汰」の意味するところについては様々な議論があるが、佐藤進一が提示した「国衙在庁指揮権」とする見解が有力である。佐藤は、朝廷が求めていた東国における国衙支配の回復が宣旨の前段にて示されたことは、頼朝の譲歩だといえるが、後段において実質的な国衙在庁指揮権が頼朝の権利として公認されたのだとした [6] 。
% 頼朝は、義仲に対する優越を確実にするため、宣旨の対象地域に北陸道を加えるよう朝廷へ要請していた。
% 折りしも義仲は西走した平氏追討のため、10月初頭から播磨へ出陣しており、京に不在であったが、義仲を恐れた朝廷は北陸道を宣旨から除外した。山本幸司は、この点に頼朝と義仲を両天秤にかける後白河院の政治的意図があったとする。
% これに対して 河内祥輔 は3ヵ条の回答の冒頭に京攻めについて神仏の功徳のみを述べて義仲の功績を全否定していることを挙げ、頼朝の要請した対象地域には現在義仲が軍事的に占領している全地域すなわち京都を含めた 畿内 一帯も含まれていたが、北陸道の除外によって畿内も当然除外されたとする。
% 宣旨の発布を知った義仲は激しく怒り、後白河院に対し「生涯の遺恨」とまで言うほどの強い抗議を行っている(『玉葉』閏十月二十日条)。
% 宣旨の発布と同時に、頼朝は配流前の官位である従五位下右兵衛権佐に叙せられ、謀叛人の立場から脱却した。元木泰雄は、この時点で頼朝は王権擁護者の地位を得たとし、宣旨による頼朝の最大の成果は、東国行政権というよりも王権擁護者の地位だったとの見解を示している。本宣旨を獲得したことにより、頼朝政権は対朝廷協調路線の度合いを強めた。それまで頼朝は、朝廷が使用していた 寿永 年号を拒み、 治承 年号を使用し続けていたが、宣旨発布の前後から寿永年号を使用し始めている。
% その一方で、幕府内の東国独立論は大きく後退していった。東国独立論を強く主張していた平広常が同年12月に暗殺されたことは、頼朝政権の路線確定を表すものと考えられている。
% 頼朝は宣旨施行のためと称して、 源義経 ・ 源範頼 ら率いる軍を京方面へ派遣した。軍は11月中旬までに伊勢へ到達している。
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