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全385回) B
369・
坂本 龍馬
。
安政
年(
1860
年
)
3
月
3
日
、
井伊直弼
が
江戸城
へ登城途中の桜田門外で水戸脱藩
浪士
らの襲撃を受けて暗殺される(
桜田門外の変
)。事件が土佐に伝わると、下士の間で議論が沸き起こり
尊王攘夷
思想が土佐藩下士の主流となった
[21]
。
同年 7 月、龍馬の朋友であり、親戚でもある 武市半平太 が、武者修行のために門人の 岡田以蔵 ・久松喜代馬・島村外内らとともに土佐を出立した。龍馬は「今日の時勢に武者修行でもあるまい」と笑った [22] が、実際は西国諸藩を巡って時勢を視察することが目的であった。一行はまず 讃岐 丸亀藩 に入り、 備前 ・ 美作 ・ 備中 ・ 備後 ・ 安芸 ・ 長州 などを経て 九州 に入り、途中で龍馬の外甥の 高松太郎 と合流している。
文久 元年( 1861 年 ) 3 月、土佐で 井口村刃傷事件 (永福寺事件)が起こり、下士と上士の間で対立が深まった。『維新土佐勤王史』にはこの事件について「坂本等、一時池田の宅に集合し、敢て上士に対抗する気勢を示したり」とある。なお、事件の当事者で切腹した 池田虎之進 の介錯を龍馬が行って、その血に刀の 下緒 を浸しながら下士の団結を誓ったという逸話が流布しているが、これは 坂崎紫瀾 の小説『汗血千里駒』のフィクションである。
同年 4 月、武市半平太は江戸に上り、水戸・ 長州 ・薩摩などの諸藩の藩士と交流を持ち、土佐藩の勤王運動が諸藩に後れを取っていることを了解し、武市は長州の 久坂玄瑞 、薩摩の 樺山三円 と各藩へ帰国して藩内同志の結集を試み、藩論をまとめ、これをもって各藩の力で朝廷の権威を強化し、朝廷を助けて幕府に対抗することで盟約を交わした。 これにより、同年 8 月、武市は江戸で密かに少数の同志とともに「 土佐勤王党 」を結成し、盟曰(めいえつ)を決めた。
武市は土佐に戻って 192 人の同志を募り、龍馬は 9 番目、国元では筆頭として加盟した。武市が勤王党を結成した目的は、これを藩内勢力となして、藩の政策(主に老公山内容堂の意向)に影響を与えて、尊王攘夷の方向へ導くことにあった。
勤王党結成以来、武市は藩内に薩長二藩の情勢について説明をするのみならず、土佐もこれに続いて尊王運動の助力となるべきと主張した。しかし、参政吉田東洋をはじめとした当時の藩政府は「 公武合体 」が藩論の主要な方針であり、勤王党の尊王攘夷の主張は藩内の支持を得ることができなかった。挙藩勤王を目指す武市は積極的に方策を講じるとともに絶えず諸藩の動向にも注意し、土佐勤王党の同志を 四国 ・ 中国 ・ 九州 などへ動静調査のために派遣しており、龍馬もその中の一人であった。文久元年( 1861 年) 10 月、日根野弁治から小栗流皆伝目録「小栗流和兵法三箇條」 [11] を授かった後に、龍馬は丸亀藩への「剣術詮議」(剣術修行)の名目で土佐を出て文久 2 年( 1862 年 ) 1 月に長州 萩 を訪れて長州藩における尊王運動の主要人物である久坂玄瑞と面会し、久坂から「草莽崛起、糾合義挙」を促す武市宛の書簡を託されている [26] 。 萩へ向かう途中で 宇和島藩 に立ち寄り、 窪田派田宮流 剣術師範・ 田都味嘉門 の道場に他流試合を申し込むが、この田都味道場には 土居通夫 、 児島惟謙 がいた。
龍馬は同年 2 月にその任務を終えて土佐に帰着したが、この頃、薩摩藩国父・ 島津久光 の率兵 上洛 の知らせが土佐に伝わり、土佐藩が二の足を踏んでいると感じていた土佐勤王党同志の中には脱藩して 京都 へ行き、薩摩藩の勤王義挙に参加しようとする者が出て来た。これは実際には島津久光が幕政改革を進めるための率兵上洛であったが、尊攘激派の志士の間では討幕の挙兵と勘違いされたものであった。これに参加するべく、まず 吉村虎太郎 が、次いで 沢村惣之丞 等が脱藩し、彼らの誘いを受けて龍馬も脱藩を決意したものと思われる。脱藩とは藩籍から離れて一方的に主従関係の拘束から脱することであり、脱藩者は藩内では罪人となり、更に藩内に留まった家族友人も連座の罪に問われることになる。武市は藩を挙げての行動を重んじ、草莽の義挙には望みを託さず脱藩には賛同しなかった。
龍馬の脱藩は文久 2 年( 1862 年) 3 月 24 日 のことで、当時既に脱藩していた沢村惣之丞や、 那須信吾 (後に吉田東洋を暗殺して脱藩し 天誅組の変 に参加)の助けを受けて土佐を抜け出した [28] 龍馬が脱藩を決意すると兄・権平は彼の異状に気づいて強く警戒し、身内や親戚友人に龍馬の挙動に特別に注意することを要求し、龍馬の佩刀を全て取り上げてしまった。この時、龍馬と最も親しい姉の乙女が権平を騙して倉庫に忍び入り、権平秘蔵の刀「肥前忠広」を龍馬に門出の餞に授けたという逸話がある。
脱藩した龍馬と沢村は、まず吉村寅太郎のいる長州 下関 の豪商 白石正一郎 宅を訪ねたが、吉村は二人を待たずに京都へ出立していた。尊攘派志士の期待と異なり、島津久光の真意はあくまでも公武合体であり、尊攘派藩士の動きを知った久光は驚愕して鎮撫を命じ、 4 月 23 日 に 寺田屋事件 が起こり薩摩藩尊攘派は粛清、伏見で義挙を起こそうという各地の尊皇攘夷派の計画も潰えた。吉村はこの最中に捕縛されて土佐へ送還されている。当面の目標をなくした龍馬は、一般的には沢村と別れて薩摩藩の動静を探るべく九州に向かったとされるが、この間の龍馬の正確な動静は詳らかではない。 その後、王政復古のクーデターを目指す薩長の旧友と決別し、大政奉還の最中、旧暦11月15日にの夜京都河原町の近江屋で中岡慎太郎とともに幕府見回り組の刺客に襲われ絶命した。
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