歴史の回想のブログ川村一彦

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2024年05月23日
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カテゴリ: 中世




守護代 遊佐国長 に阻まれて到着が遅れてしまい、軍勢の中からは脱落して幕府方に降参する者も出始める。


12 29 夜、到着が遅れた氏清の軍勢は淀の中島に至り3隊に分かれて京に進撃。満幸の軍勢は2手に分かれて京に攻めかけた。闇夜の進軍のため各隊の連係は乱れがちで各個に京へ突入することになった。


30朝、氏清の弟 山名義数 小林上野守 の7百騎が二条大宮に攻め寄せて、 大内義弘 の300騎と激突して合戦が始まった。


大内勢は下馬して雨のように を射かけた。乱戦となり劣勢となった山名義数、小林上野守は討ち死に覚悟で突撃。義弘は上野守と一騎討ちをして負傷しながらもこれを討ち取った。義数も討死、山名軍は緒戦で敗れてしまう。義満は義弘の武勇を賞して太刀を与えた。


次いで、満幸の軍勢2千騎が内野へ突入した。守る幕府軍は細川頼之・頼元兄弟、 畠山基国 京極高詮 の3千騎で激戦となるが、義満の馬廻 5000 騎が投入されて勝敗は決した。敗れた満幸は丹波へ落ちた。


氏清の軍勢2千騎は二手に分かれて突入。大内義弘、 赤松義則 の軍勢と衝突する。


氏清は奮戦して大内、赤松の軍勢を撃退。幕府に帰参していた山名時熙が 50 騎を率いて参戦し、8騎に討ち減らされるまで戦い抜いた。


劣勢になった大内、赤松は義満に援軍を要請、 一色氏 斯波義重 の軍勢が加勢して幕府軍は盛り返す。


氏清の軍勢は浮き足立ち、義満自らが馬廻とともに出馬するに及び潰走した。氏清は落ち延びようとするが、一色勢に取り囲まれて 一色詮範 満範 父子に討ち取られた。


こうして、1日の合戦で山名氏は敗れ去った。幕府軍の死者は260人余、山名軍の死者は898人であった。


戦後


明徳3年 / 元中9年(1392)正月、論功行賞が行われ、山城は畠山基国、丹波は細川頼元、丹後は一色満範(父の範詮は若狭国今富名を与えられて若狭守護領を回復する)、美作は赤松義則、和泉・紀伊は大内義弘、但馬は山名時熙、因幡は山名氏家(反乱に加わったが、降伏して許された)、伯耆は山名氏之、隠岐・出雲は京極高詮にそれぞれ与えられた。11か国の守護領国を誇った山名氏は僅か3か国に減らされてしまった。


また、義満が増強していた直轄軍の馬廻(奉公衆)はこの戦いで大いに働き、将軍権力の力を示した。


同年2月、山名義理は紀伊で大内義弘に攻められて没落。 応永 2年(1395)、剃髪して になり 九州 の筑紫まで落ち延びていた満幸も捕らえられて京都で斬られた。


その後も義満は 明徳の和約 で南北朝合一を成し遂げ、応永6年(1399)大内義弘を挑発して挙兵させて滅ぼし( 応永の乱 )、将軍権力を固めていく。


一方、山名氏はこの乱では幕府方として活躍し、その戦功により(大内氏を牽制する意図を含めて)山名時熙に備後、 山名満氏 に安芸、 山名氏利 に石見が与えられた。


満氏・氏利兄弟は氏清の遺児であったが、時熙に匿われてその後赦免を受けていたのである。


乱の様子を詳細に記した『 明徳記 』は 太平記 の流れを汲む 軍記物語 で、著者不明で全3巻。同書は資料性は高いものの、幕府寄りの視点で書かれている。



「有馬 持家」 (ありま もちいえ、 応永 3年(1396)? 宝徳 2年(1450)?)は、 室町時代 中期の 武将 摂津有馬氏 の当主。通称は 兵部少輔 有馬義祐 の子。子に 元家 赤松満祐 満政 とは従兄弟。


有馬氏 摂津国 有馬郡 を領して 将軍 近習 を務め、本家の 赤松氏 とは別に 室町幕府 に直勤していた。


初名は 教実 (のりざね)、のち第4代将軍 足利義持 より 偏諱 を受けて 持家 と改名。前述の通り赤松氏の分家であることから、姓は 赤松 とも。


永享 元年(1429)頃から6代将軍 足利義教 (義持の弟)の御伴衆となる。 嘉吉 元年(1441)の 嘉吉の乱 直後も本家である 赤松満祐 方には与せず、 山名宗全 率いる幕府側の赤松追討軍に加わったとみられる。


その後、新たに 播磨 守護を兼ねた宗全が持家の従兄弟・赤松満政の領する播磨東3郡を侵食すると、満政は怒り挙兵するが敗北。


逃亡した満政は持家を頼る。持家は一度は満政に呼応し挙兵するが敗れ、満政父子を討ち取り幕府へ帰順するが、態度を咎められ隠居した。


8代将軍 足利義成 (後の義政)に近侍し、その寵臣となったと言われ、義政の乳母 今参局 (御今)および義政の母 日野重子 の従弟 烏丸資任 と共に義政側近の有力者として知られ、「 三魔 」と並び称されたという(おい 、からす 、あり と、「 」がつく3人)。


相国寺 瑞渓周鳳 の日記『 臥雲日件録 康正 元年1月6日(1455) 23 )条には「政は三魔より出づ」と記されている。


ただし、他の2人と異なり、持家に関しては特に専横の振る舞いは記録されておらず、義政側近中の「ま」がつく人ということで数合わせとして挙げられたとも考えられる(一説に持家が死去したのは宝徳2年(1450年)といい、そうなると義政将軍期としては時期が合わない)。


その事から近年では子の元家が三魔の一人であると言われている。






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最終更新日  2024年05月23日 06時00分07秒
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