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性格
家臣が記したと考えられる『茶道四祖伝書』の中で、「忠興は天下一気が短い人で、反対に気が長いのは蒲生氏郷である」と書かれている。
また光秀から丹波平定の際に「降伏してくる者を無闇に殺してはならぬ」と諭されている。
足利将軍家、織田氏、豊臣氏、徳川氏と多くの主君に仕えながら細川氏を生き延びさせた政治手腕の反面、身内の者にも容赦を加えない苛烈な側面もあり、関ヶ原の合戦中、父の
幽斎が居城を敵に明け渡した(詳細は田辺城の戦いの項を参照)ことから一時不和になっている。また、弟の興元とも不仲であった。
丹後港略戦では、同じ足利一門である一色氏を騙し討ちにした末、敗残兵を皆殺しにするなど残忍な手法も取った。
一色義定に嫁いでいた忠興の妹の伊也はそのことを恨み、戦後に兄に斬りかかったという逸話が存在する。
以上のように短気であったとされる忠興であるが、晩年は角が取れて丸くなったという。徳川秀忠から天下の政務について問われると「角なる物に丸い蓋をしたようになされませ」と答えた。
さらに秀忠が「どんな人物を登用するのがよいか」と尋ねると「明石の浦の蠣殻のような人がよいでしょう(明石の潮の流れは激しいが、その潮にもまれた蠣は味がいいから、人も人にもまれた者こそよき人柄になる)」と答えたという。
情報戦にも長けていたが、その背景には後述のように当代一流の文化人の一人として、数多くの文化人や大名、公卿たちとの交流が盛んだったという事情があり、土井利勝や遠戚関係にあった春日局などを通して多くの情報を得ていたとされる。
また隠居後も、忠利と交互に国許と江戸を行き来しており、忠利とは書状で頻繁に連絡を取っていた。
ちなみに、忠興が生涯で書いた手紙の枚数は、『大日本近世史料 細川家史料』の成果によると慶長期の書状は少ないが、その後に急増して合計 1820 通で、そのほとんどが忠利宛てのものである。
文化人として
父と同じ教養人でもあり、和歌や能楽、絵画にも通じた文化人であった。『細川三斎茶書』という著書を残している。千利休に師事し、利休に最も気に入られていた弟子で、利休七哲の一人に数えられる。利休が切腹を命じられたとき、利休にゆかりのある諸大名の中で見舞いに行った者は、忠興と古田織部だけであったとされる。北野大茶湯の折には松向庵という名の茶席を設け、それに由来して後年「松向殿」と呼ばれることもあった。
医学への造詣
徳川家康が製剤させた漢方薬の紫雪に関心を持ち、江戸に詰めていた忠利に頼んで薬能書付きのこれの製法を入手し、玉弥というお抱え医師の指導のもと、自ら製剤している。
脈の結滞を心配する息子の細川忠利の症状を癪か痰が原因と判断し、命に別状はないから心配はないと書状を送っている。
つまり自己の体験をもとに、そうであれば生命に差し障りのないことなので、心配のないことと説いたのである。
徳川秀忠が胸部の表皮に固まりができ、身体のほうぼうに移動するという病にかかり、万病円で回復した時に、忠興は薬も灸も効果がなく万病円で回復したのは寸白(寄生虫)が原因と断じている。
この忠興の予知は秀忠の治療に専念していた幕府の医師衆が同様の結論を出す5ヶ月以上も前のことであった。
食事のあり方にも心しており、偏食を嫌い、その弊害を重視している。息子の忠利にバランスのとれた食事をとるように諌めた書状を送っている。
実際に忠利が病にかかった時には、同じ物をたくさん食べないように念を押して忠告し、鶏卵が痰によくないこと、疱瘡に鮑が大毒であることを指摘している。
武具への造詣
幾多の合戦に従軍した忠興は自身の使用する武具にも深い関心を示し、独自の考案を凝らしたが、特に打刀の拵(外装)では「肥後拵」と呼ばれる様式を、甲冑においては「越中具足」(「越中流具足」ないし「三斎流具足」とも)と称される形式を確立したことで知られる。
肥後拵は忠興が修めていた片山伯耆流居合術の刀法に適するように工夫されており、刀身と柄を短めに仕立て、片手での抜き打ちを志向している点や、鞘や金具の装飾にも茶道のわび・さびの感覚が反映されている点が大きな特徴である。
また、忠興に召し抱えられて鍔など刀装具の製作に当たった林又七、西垣勘四郎、平田彦三、志水甚五といった金工家の家系は「肥後金工」として幕末まで熊本藩内で続いた。忠興自身が所用した肥後拵の例としては、「信長拵」や「歌仙拵 [23] 」などが愛刀家の間で著名である。
越中具足もまた、忠興が実戦での経験を踏まえて、家臣の西村与左衛門、春田又左衛門と協力して考案・製作した、機能性に富んだ簡素な構造の当世具足のスタイルである。特に忠興が関ヶ原の戦いで使用したもの(黒糸威二枚胴具足 [25] )は勝利を収めた際の着料ということから「御吉例の甲冑」として細川家中で尊ばれ、以後、越中具足は歴代の熊本藩主や藩士の甲冑に踏襲された。
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