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2024年07月05日
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カテゴリ: 江戸時代




(すざかはん)は、 信濃国 高井郡 (現在の 長野県 須坂市 常盤町)にあった 。政庁は 須坂陣屋


須坂藩の藩祖は、 堀直政 の四男・ 堀直重 である。直政は 豊臣秀吉 の重臣であった 堀秀政 の一門 家老 で、元の名字は奥村であった。


直重は早くから 徳川家 に近づき、 徳川秀忠 に献身的に仕えたことから、 外様大名 でありながら 譜代大名に準じる待遇 を求めたが入れられなかった。当初は1万2千石で立藩したが、第2代 堀直升 は下総国矢作2千石のうち、Ⅰ千石を次弟の 堀直昭 に、三弟と末弟にそれぞれ500石を分知したため、須坂藩は1万石となった。


歴代藩主の多くが大 番頭 大坂 駿府 二条城 加番 伏見奉行 などの職についている。


第9代藩主・ 堀直皓 藩校 「立成館」を創立する。第11代藩主・ 堀直格 は、藩士黒川の協力を得て『扶桑名画伝』を著わす。


第12代藩主・ 堀直武 は、先代直格の発案による薬用人参、吉向焼などの国産物育成を中心とした藩財政の改革を行い、さらに 心学 の導入によって藩政改革を進める。


野口源兵衛らを登用した財政改革を行なったが、領民の支持を得られなかったこと、藩財政の逼迫をさらに招いたことから、藩政改革に失敗した。


幕末 の藩主・第13代 堀直虎 は、家老ら41人を粛清し藩政を大きく改革し、洋式軍制を導入する。


幕政にあっては、維新の中にあり大番頭などを経て 若年寄 外国総奉行 に任じられ、 慶応 4年(1868年)1月、 徳川慶喜 に自分の意見が聞き入られなかったため、 江戸城 中で諌死する。 勝海舟 は、乱心して自害したとしている。


その後、須坂藩は従来の佐幕の方針を転換し、 小山・結城 北越 会津 に出兵した。信濃国内の諸藩の中でも特に大勢の藩兵を送り、新政府への恭順の姿勢を明確にした。最後の藩主・ 堀直明 版籍奉還 により 知藩事 となる。


明治 4年(1871年)の 廃藩置県 で須坂藩は廃藩となって須坂県となり、同年11月、須坂県は 長野県 に編入された。


須坂藩主は文芸に秀でていた。特に直格は『扶桑名画伝』のほか、数々の絵画史に関する著作を行い、様々な藩主と交流している。


「須坂藩」


堀直政 の五男(一説には四男)・ 堀直重 は、 慶長 5年( 1600 )の 関ヶ原の戦い で東軍に与して軍功を挙げたことにより、 下総 矢作に2000石と信濃須坂に6000石の所領を与えられた。


慶長19年( 1614 )からの 大坂の陣 でも徳川方として参戦し、功績を挙げて高井郡内に4000石加増された。


この加増年に関しては、元和元年( 1615 )説と元和2年( 1616 )説がある。


当初は1万2000石で立藩したが、第2代 堀直升 は下総国矢作2000石のうち、1000石を次弟の 堀直昭 に、三弟と末弟にそれぞれ500石を分知したため、須坂藩はⅠ万石となった。



利重系堀家(交代寄合)


堀秀重の三男(秀政の弟)・ 堀利重 も、元和8年(1622年)に常陸玉取にⅠ万石(のち加増と分与で1万2千石)を与えられ大名に列した。嫡男・ 利長 には子がなく、養孫・ 通周 は延宝7年に錯乱して家臣を斬りつけ、 玉取藩 は改易。後に通周の弟・利雄を養子に迎えた上で、3千石の 交代寄合 として家名存続が許された。



地域分布


堀秀政の子孫のうち、堀秀治の長男 堀忠俊 の子は 加賀藩 士になった。 堀秀治 の三男 季郷 日向 延岡藩 内藤家に仕えた。秀政の次男 親良 はその子 親昌 の代から、 信濃 飯田藩 主となった。


石川県 宮崎県 延岡市 長野県 南部にいる堀氏は秀政の子孫の可能性がある(飯田堀家は嫡流は 華族 となって東京に住んだ)。


福井県 新潟県 熊本県 の堀氏は、直政の子孫の可能性がある。長野南部は、秀政、直政の両方の子孫がいると推測される。


また、堀直寄の 村上藩 時代の家老で 堀主膳 という人物が、村上堀家が除封されたとき、縁者を頼って 岸和田藩 に仕えたという記録があるので、岸和田の堀氏は堀主膳の子孫かもしれない(堀主膳の血筋は不明で、直寄が賜姓した可能性あり)。


秀政には弟が何人かいる。 堀秀重 の三男の 利重 の家系は大名としては改易されるが、その後も 旗本 として幕府に仕えた。


利重の子に、 利長 利直 がいる。四男の 安重 は加賀藩の 前田利常 に仕えた。六男の 三政 は、 新発田藩 溝口氏 に仕える。


八男の 末成 は前田家に仕えるがその後浪人、その息子 季正 は最初 前田綱紀 に仕え、のち 近衛家 に仕官変えし、 徳川家宣 の妻 天英院 (実家が近衛家)の 用人 となる。その縁で子孫は江戸で旗本になった。


九男の 親重 は飯田堀家に仕えた。


また、戦国時代、近江国 坂田郡 鎌刃城主で 浅井氏 に仕え、のち織田信長に仕えた 堀秀村 という人物もいる。


近江国なので、藤原氏秀郷流、菅原氏族、佐々木氏族の可能性もあるが、『寛政重修諸家譜』では堀秀政らと同じ藤原氏利仁流で掲載されている。隣国にいた美濃の利仁流の堀氏の分家が移住したのだろうか。


その他では、系統は不明だが、 幕末 薩摩藩 会津藩 に堀氏がいたようである。


大まかにいうと、千葉氏族の堀氏は関東に多く、多田源氏、菅原氏族、若狭武田氏族、佐々木氏族、藤原氏秀郷流、利仁流大神氏族の堀氏は関西に多いと推測される。


以上のようにみると、堀氏の子孫は、東京近郊、 石川県 金沢市 長野県 飯田市 新潟県 新発田市 滋賀県 福井県 とその周辺が多いようである。






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最終更新日  2024年07月05日 08時10分53秒
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