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海軍省と軍令部の省部合同会議で総論として三国同盟締結に傾き、9月15日の海軍首脳会議にて調印に賛成の方針が決定した。会議直前、山本は海軍大臣・及川古志郎から機先を制されて賛成するよう説得され、会議では殆ど発言しなかったので、司会役の海軍次官・豊田貞次郎により「海軍は三国同盟賛成に決定する」が正式な結論となる。山本は条約成立が米国との戦争に発展する可能性を指摘して、陸上攻撃機の配備数を2倍にすることを求めたのみだった。山本は堀悌吉に「内乱では国は滅びない。が、戦争では国が滅びる。内乱を避けるために、戦争に賭けるとは、主客転倒も甚だしい」と言い残して東京を去った。2ヶ月後の9月27日、日本は日独伊三国同盟に調印した。山本はこれを受け、友人の原田熊雄に「全く狂気の沙汰。事態がこうなった以上全力を尽くすつもりだが、おそらく私は旗艦「長門」の上で戦死する。そのころまでには東京は何度も破壊され最悪の状態が来る」と語った。
三国同盟の締結、日本海軍の海南島占領や北部仏印進駐などにより、日本とイギリスやアメリカの関係は急速に悪化していった。当時の総理大臣であった近衛文麿の『近衛日記』によると、近衛に日米戦争の場合の見込み問われた山本は
「それは是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極極力御努力願ひたい」
と発言している。
井上成美は戦後この時の山本の発言について「優柔不断な近衛さんに、海軍は取りあえず 1 年だけでも戦えると間違った判断をさせてしまった。はっきりと、『海軍は(戦争を)やれません。戦えば必ず負けます』と言った方が、戦争を回避出来たかも知れない」と述べている。山本は嶋田繁太郎に宛てた手紙で近衛との面会について「随分と人を馬鹿にしたる如き口吻にて現海軍の大臣と次官とに対し不平を言はれたり 是等の言分は近衛公の常習にて驚くに足らず。要するに近衛公や松岡外相等に信頼して海軍が足を地からはなす事は危険千万にして誠に 陛下に対し奉り申訳なき事なりとの感を深く致候御参考迄」と論じている。同時期、山本を訪問した反町英一に、秋には引退して故郷に戻りたいと語っている。11月10日の宮城で行われた紀元二千六百年記念行事には、 蔣介石率いる中国軍 から宮城を空爆されるのを防ぐとの理由で参加しなかった。
〇蔣 介石 (蒋 介石、しょう かいせき、1887年10月31日 – 1975年4月5日)は、中華民国の政治家、軍人。第3代・第5代国民政府主席、初代中華民国総統、中国国民党永久総裁。国民革命軍・中華民国国軍における最終階級は特級上将(大元帥に相当)。浙江省寧波府奉化県出身。日本・中華人民共和国では 蔣介石 の呼び名で知られているが、中華民国(台湾)では 蔣中正 (しょう ちゅうせい)の名称が一般的。
孫文の後継者として北伐を完遂し、中華民国の統一を果たして同国の最高指導者となる。第二次世界大戦では同国を四大国の一角にさせ、連合国中国戦区最高統帥だった。しかし、戦後の国共内戦で毛沢東率いる中国共産党に敗れて1949年に台湾へ移り、1975年に死去するまで大陸支配を回復することなく同国の国家元首の地位にあった。
原名(幼名)は瑞元、譜名(族譜上の名)は 周泰 [3] 。当初の訓名(中国語版)(学校における名前、学号)は志清だが、後に訓名を 中正 とする。 介石 は字。英語などでは、「介石」の広東語での発音に基づいて(チアン・カイシェック)と綴られることが多いが、「中正」あるいは「介石」の標準中国語音に基づいて綴られることもある。
年譜
1887年、奉化県(現寧波市奉化区)渓口鎮に生まれる。
1902年、毛福梅(当時19歳)と結婚。
1904年、奉化の鳳麓学堂や寧波の箭金学堂で学ぶ(1904年 – 1905年)。
1906年、保定陸軍軍官学校で軍事教育を受ける。
1907年(明治40年)、渡日し東京振武学校へ留学する。
1909年、大日本帝国陸軍に勤務。陸軍十三師団の高田野砲兵第19連隊の士官候補生( - 1911年)
1910年、蔣経国誕生(1927年、毛福梅は出家、離縁する。1939年12月、日本軍の空襲で奉化県渓口鎮で死去)
1911年 – 1912年、辛亥革命に参加。後に孫文に認められ、国民党内右派の代表として頭角を現す。
孫文の指示により、ソ連の軍制を視察。
1924年、広州の黄埔軍官学校校長に就任。
1926年7月1日、中国国民党・北洋軍閥等に対し北伐を開始。
1927年(民国16年)、宋美齢と結婚。
1927年、上海クーデターで中国共産党を弾圧。党および政府の実権を掌握する。
9月に満州問題を主題とし田中義一首相と会談し、北伐(中国大陸統一)・対共戦に対する支援の見返りに満州における日本の政治、経済的な権益に関する特殊な地位を考慮すると語った [5] 。
1928年、政府主席となる(南京国民政府)。基本政策は反共、対日、対英米善隣外交。
1931年、柳条湖事件で満州事変が勃発。
1932年、満州国建国。中国は国際連盟に提訴。
1933年、塘沽停戦協定締結。
1935年3月30日、中華民国特級上将に叙される。
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