歴史の回想のブログ川村一彦

歴史の回想のブログ川村一彦

PR

プロフィール

歴史の回想・川村一彦

歴史の回想・川村一彦

カレンダー

コメント新着

日本真空管大全の著者@ Re:「戦後日本の回想・30年」トランジスターラジオ発売。    川村一彦(02/18) 大変面白く拝読させていただきました。 な…

キーワードサーチ

▼キーワード検索

2024年09月05日
XML
カテゴリ: 江戸後期



松前藩との戦闘


蝦夷地を本拠とする松前藩は、家老・松前勘解由の下、新政府に恭順を示す一方で奥羽越列藩同盟にも参加する日和見策を執っていたが、7月28日に尊王派の正義隊によるクーデターが発生し、新政府軍に付いていた。旧幕府軍は松前藩に対して降伏勧告の使者を送るが殺され、戦うことを決意する。


10月27日、土方歳三を総督として彰義隊・額兵隊・衝鋒隊などからなる700名が松前城に向けて出陣。11月1日に知内 ] で宿営中に松前藩兵の奇襲を受けるが撃退し、11月5日には松前城に到達した。その間、11月1日に蟠竜が松前を砲撃している ]


松前城は既に10月28日、藩主松前徳広が内陸の館城に移動しており寡兵しかおらず、搦手門から攻撃された城兵は城門を開いては大砲を発射しまた閉じることを繰り返す守備を行ったが、数時間で落城。松前兵は城下に火を放ち、江差方面へ敗走した [10]


11月12日、旧幕府軍は星恂太郎率いる額兵隊を先鋒とする500名が松前から江差に向けて進撃。途中大滝陣屋を陥落させ、15日、江差に迫ると、すでに松前兵は敗走、江差攻略の支援に来ていた開陽を中心とする海軍によって無血占領されていた。しかし、この夜、天候が急変し、風浪に押されて開陽は座礁する。箱館から回天と神速丸が開陽救出のために江差に到着したが、神速丸も座礁。為す術なく総員退艦した開陽は数日後に沈没。これにより旧幕府軍は制海権の維持が困難となり、新政府軍の蝦夷地上陸を許すことになる。


他方、11月10日、松岡四郎次郎が率いる一聯隊など500名が五稜郭を発ち、二股を経て、松前藩主が拠っていた館城攻略に向かった。11月15日に館城は落城するも、藩主は11月12日に館城を退去、松前藩領北端の熊石へ退いていた。22日、熊石に到着すると、藩主は君臣男女60余名とともに船で弘前藩へ逃亡した後だった。残された松前藩士約300名が一聯隊に投降。これにより蝦夷地平定は完了した。


箱館政権樹立


12月15日、蝦夷地を平定した旧幕府軍は、箱館政権を樹立。総裁は入れ札(選挙)によって決められ、榎本武揚が総裁となった。榎本は、12月1日に蝦夷地の開拓を求める嘆願書をイギリスおよびフランスの軍艦に託したが、両国公使から嘆願書を受領した右大臣岩倉具視は、12月14日、これを却下した。


また、旧幕府軍は、軍事組織を再編成し、来たる新政府軍の攻勢に備えて、江差、松前、鷲ノ木など支配地域の沿岸部に守備隊を配置した。なお、沈没した開陽の乗組員は開拓方となり、開拓奉行となった艦長・澤太郎左衛門とともに室蘭の守備と開拓に充てられている。


なお、旧幕府軍は、軍資金を確保するため、豪商らから御用金を調達したほか、一本木に関所を設け通行税を徴収、さらに貨幣を私鋳したことなどから、箱館住民の評判は良いものではなかった。このため、箱館府にいた村山次郎の下、「遊軍隊」というスパイ組織が作られ、旧幕府軍の市中掛の下役や弁天台場に隊士として潜入した者もいた。


詳細は「蝦夷共和国」を参照


10月30日、旧幕府軍による箱館占拠の通報が東京に届き、新政府は直ちに津藩兵・岡山藩兵・久留米藩兵計約1,000名を海路で青森に送った。11月6日、奥羽征討軍参謀であった山田顕義が長州藩兵・徳山藩兵を率いて秋田から青森に入り、11月9日、青森口陸軍参謀に就任。そして11月19日には旧幕府軍追討令が出され、11月27日、青森に避難していた箱館府知事・清水谷公考が青森口総督を兼務することとなった。しかし、冬季作戦等の準備は全くないので、箱館征討は翌年の雪解けを待って開始することとして青森周辺に冬営した。


陸軍は、明治2年(1869年)2月には松前藩、弘前藩兵を中心に約8,000名が青森に集結した。一方、海軍は、アメリカの局外中立撤廃を受けて、品川に係留されていた最新鋭の装甲軍艦甲鉄を 2 月に購入するとともに、増田虎之助を海軍参謀として諸藩から軍艦を集めて艦隊を編成した。3月9日、新政府軍艦隊(甲鉄・春日・陽春・丁卯)の軍艦4隻と豊安丸・戊辰丸・晨風丸・飛龍丸の運送船4隻は、甲鉄を旗艦として品川沖を青森に向けて出帆した。


宮古湾海戦


旧幕府軍は、新政府軍艦隊が宮古湾に入るとの情報を受けると、甲鉄を奪取する作戦を立案する。3月20日、海軍奉行・荒井郁之助を指揮官として、陸軍奉行並・土方歳三以下100名の陸兵を乗せた回天と蟠竜、箱館で拿捕した高雄の3艦は宮古湾に向けて出航した。


回天の戦闘


3月23日、暴風雨に遭遇した 3 艦は統率が困難となり、集結地点である山田湾には回天と高雄が到着したが、蟠竜は現れなかった。その上、高雄は蒸気機関のトラブルで速力が半分に落ちており、このままだと勝機を逸してしまうため、回天だけで決行することになった。


3月25日早暁、回天は、宮古湾へ突入するとアメリカ国旗を降ろし日章旗を揚げて、全速力で甲鉄へ向かった。奇襲は成功したが、外輪船の回天は横付けできず、甲鉄の側面に艦首を突っ込ませて『丁字』の形という不利な体勢になった事や、甲鉄より船高が3㎡高いこともあり、兵が甲鉄へ乗り移りにくく、思うように戦えなかった。その上、回天の艦首から飛び降りる旧幕府兵は、甲鉄に装備されていたガトリング砲 [16] や小銃の絶好の的になり、次々と撃ち倒され、戦闘準備を整えた宮古湾内の他の艦船や反が始まったため、作戦は失敗し宮古湾を離脱した。回天艦長・甲賀源吾、旧新選組の野村利三郎など19名が戦死。機関故障のため速力が出ない高雄も新政府軍の春日に追撃され、田野畑村羅賀浜へ座礁させて火を放ち、乗組員は盛岡藩に投降した。


新政府軍上陸


宮古湾海戦に勝利した新政府艦隊は、3月26日には青森に到着。兵員輸送用にイギリス船オーサカとアメリカ船ヤンシーをチャーターし、4月初には渡海準備が完了した [17]


海陸軍参謀・山田顕義率いる新政府軍1,500名が4月6日に青森を出発、4月9日早朝、乙部に上陸した。旧幕府軍は上陸を阻止すべく江差から一聯隊150名を派遣したが、上陸を終えていた新政府軍先鋒の松前兵によって撃退された。陸兵が小競り合いを続けている間に、春日を中心とする新政府軍軍艦 5 隻は江差砲撃を開始。江差の砲台は反撃を試みるも、敵艦に砲弾は届かず、江差奉行・松岡四郎次郎ら旧幕府軍は松前方面に後退した。


新政府軍が江差を奪還すると、4月12日には陸軍参謀・黒田清隆率いる2,800名、4月16日にも増援が江差へ上陸し、 松前口 (海岸沿いに松前に向かう)、 木古内口 (山越えで木古内に向かう)、 二股口 (乙部から鶉・中山峠を抜け大野に向かう)、 安野呂口 (乙部から内浦湾に面する落部に向かう)の四つのルートから箱館へ向けて進軍を開始する。


一方、旧幕府軍では、4月14日、仙台藩を脱藩した二関源治率いる見国隊400名がイギリス船で鷲ノ木近くの砂原に到着し、室蘭及び箱館防備に投入されている。


松前の戦い


4月11日、松前を守備していた伊庭八郎率いる遊撃隊と春日左衛門率いる陸軍隊を中心とする部隊500名が江差奪還のために出撃する。根武田(現・松前町)付近で新政府軍の斥候を蹴散らし、翌日には一気に茂草(現・松前町)まで進出、新政府軍は江差まで退却。このまま江差奪還を目論んだが、新政府軍が後方の木古内に進出中との情報を受け、松前へ撤退する。


4月17日、新政府軍は松前を攻撃。新政府軍の艦砲射撃に加えて戦力差は歴然としており、40名以上の戦死者を出した旧幕府軍は松前城を放棄して、知内まで敗走した。


木古内の戦い


木古内では4月12日、陸軍奉行・大鳥圭介の指揮下、伝習隊、額兵隊などが駆けつけ、同地を守っていた彰義隊などと合流し、500名が布陣。新政府軍の斥候と小競り合いを繰り返していたが、松前から敗走してきた部隊を取り込み、木古内周辺の要所に部隊を配置していた。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2024年09月05日 11時43分25秒
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Site
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: