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2024年09月06日
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カテゴリ: 江戸後期



(くろだ きよたか、旧字体: 黑田 淸隆 、天保11年10月16日〈1840年11月9日〉 1900年〈明治33年〉8月23日)は、明治期の日本の政治家。1888年(明治21年)から1889年(明治23年)にかけて第2代内閣総理大臣を務めた。陸軍軍人としての階級は陸軍中将。栄典は従一位大勲位伯爵。通称は 仲太郎 了介


薩摩藩士として、幕末に 薩長同盟 のため奔走し、明治元年(1868年)から明治2年(1869年)の戊辰戦争に際しては北越から庄内までの北陸戦線と、箱館戦争で新政府軍の参謀として指揮を執った。


薩長同盟 (さっちょうどうめい)は、江戸時代後期(幕末)の慶応2年1月21日(1866年3月7日)に小松帯刀邸(京都市上京区)で締結された、薩摩藩と長州藩の政治的、軍事的同盟。 薩長盟約 薩長連合 ともいう。


薩摩藩と長州藩は、京都を中心とする幕末の政治世界において雄藩として大きな影響力を持ったが、薩摩藩、公武合体の立場から幕府の開国路線を支持しつつ幕政改革を求めたのに対し、長州藩は急進的な破約攘夷論を奉じて反幕的姿勢を強めるなど、両者は容易に相容れない立場にあった。


薩摩藩は文久3年(1863年)8月18日に会津藩と協力し、長州藩勢力を京都政界から追放(八月十八日の政変)。翌元治元年(1864年)7月19日には上京出兵してきた長州藩兵と戦火を交え、敗走させる(禁門の変)。ここに至り両者の敵対関係は決定的となった。禁門の変で朝敵となった長州藩は、幕府から第一次長州征討を受けるなど窮地に陥った。一方で薩摩藩も、自藩の主張する幕政改革の展望を開くことができず大久保利通や西郷隆盛らを中心に幕府に対する強硬論が高まっていった。


長州・薩摩間の和睦は、第一次長州征討中止の周旋や五卿の太宰府延寿王院への受け入れに奔走していた月形洗蔵や早川勇など福岡藩の尊皇攘夷派の周旋によって、高杉晋作と西郷隆盛との会談が行われたこと ] や、イギリスの駐日公使であるハリー・パークスが高杉晋作と会談したり、薩摩や同じく幕末の政界で影響力を持っていた土佐藩を訪問したりするなどして西南の雄藩を結びつけさせたことに始まる。


土佐藩の脱藩浪人で、長崎において亀山社中(後の海援隊)を率いていた坂本龍馬や中岡慎太郎の斡旋もあって、主戦派の長州藩重臣である福永喜助宅において会談が進められ、下関での会談を西郷が直前に拒否する事態もあったが、1月21日(18日、22日説も)小松邸で坂本を介して薩摩藩の西郷、小松と長州藩の木戸貫治が6か条の同盟を締結した。他の薩摩側出席者は大久保、島津伊勢、桂久武、吉井友実、奈良原繁。


その後の王政復古や戊辰戦争への第一段階の様に置かれることが多いが、以下に認められる様に、幕府による長州藩処分問題に関して、長州藩の状況が悪くなっても薩摩藩は長州藩を支援するという内容であり、共に倒幕へ向けて積極的に動き出そうとするものではない。また、「決戦」の相手として想定されているのは、幕府そのものではなく「橋会桑」(当時京都政局を制圧していた一橋慶喜、松平容保(会津藩)、松平定敬(桑名藩)の3者。いわゆる一会桑政権)である。一橋徳川家当主の慶喜は固有の軍事力を殆ど保有しておらず、軍事的対決の相手としては会津・桑名両藩、とりわけ会津藩を想定するものであった。


この密約に基づいて薩摩藩は幕府による第二次長州征討に際し出兵を拒否し、以後薩長の連携関係は深まっていくこととなった。薩摩藩士で、明治期には島津久光の側近として歴史編纂事業に従事した市来四郎は、薩摩藩と長州藩の提携が成立したのはより後年の1867年(慶應3年)11月、薩摩藩主島津茂久が多数の兵士を引き連れて上洛する際に長州藩世子毛利広封と会見し、出兵協定を結んだ時点であると指摘している [5]



提携内容(6ヶ条)


戦ひと相成り候時は直様二千余の兵を急速差登し只今在京の兵と合し、浪華へも千程は差置き、京坂両処を相固め候事


戦自然も我勝利と相成り候気鋒これ有り候とき、其節朝廷へ申上屹度尽力の次第これ有り候との事


万一負色にこれ有り候とも一年や半年に決て壊滅致し候と申事はこれ無き事に付、其間には必尽力の次第屹度これ有り候との事


是なりにて幕兵東帰せしときは屹度朝廷へ申上、直様冤罪は朝廷より御免に相成候都合に屹度尽力の事


兵士をも上国の上、橋会桑等も今の如き次第にて勿体なくも朝廷を擁し奉り、正義を抗み周旋尽力の道を相遮り候ときは、終に決戦に及び候外これ無きとの事


冤罪も御免の上は双方誠心を以て相合し皇国の御為皇威相暉き御回復に立至り候を目途に誠心を尽し屹度尽力仕まつる可しとの事


坂本龍馬自筆「薩長同盟裏書」。宮内庁書陵部図書課図書寮文庫蔵。


薩長同盟が結ばれた会談の内容はその場で記録されず、正式な盟約書も残されていない。上記の内容は木戸が記憶を頼りに会談の内容を 6 カ条にまとめ、内容の確認のため坂本に送付した書簡(慶応 2 1 23 日付)によるものである [6]


坂本はこれに応じ、上記の木戸書簡の裏面に「 表に御記成被候六条は小西両氏及老兄龍等も御同席にて談論せし所にて毛も相違これ無き候、後来といへとも決して変り候事はこれ無きは神明の知る所に御座候 」と朱書して返信(2月5日付)している。


上記の各条の具体的な内容は、主に第二次長州征伐に際し、薩摩が長州に対し物心両面の援助を約するものである。第一条では長州で戦争が始まった場合に薩摩が京都・大坂に出兵して幕府に圧力を加えること、第二条~第四条で戦争の帰趨如何に関わらず薩摩が長州の政治的復権のために朝廷工作を行うことを、それぞれ約束している。第五条では、薩摩が第一条により畿内に出兵して圧力を加えた上でも、橋会桑(一会桑政権)が朝廷を牛耳ったうえで薩摩側の要求を拒むようであれば、彼らとの軍事的対決に至る覚悟があることを長州に対し表明する内容となっている。


現在、この書簡は宮内庁に所蔵されている。


戊辰戦争 (ぼしんせんそう 慶応4年 / 明治元年 - 明治2年(1868年  –  1869年))は、王政復古を経て明治新政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした官軍(新政府軍)と、旧幕府軍・奥羽越列藩同盟・蝦夷共和国(幕府陸軍・幕府海軍)が戦った日本の内戦。名称は慶応4年 / 明治元年の干支が戊辰であることに由来する。


明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、列強が条約による内戦への局外中立を解除し、これ以降、同政府が日本を統治する合法政府として国際的に認められることとなった [2]


以下の日付は、断りのない限り旧暦で記す。


戊辰戦争は研究者によって次のように規定されている。


日本の統一をめぐる個別領有権の連合方式と、その否定および天皇への統合を必然化する方式との戦争(原口清)


将来の絶対主義政権をめざす天皇政権と徳川政権との戦争(石井孝)


石井はさらにこれを次の三段階に分けた。


「将来の絶対主義的全国政権」を争う「天皇政府と徳川政府との戦争」(鳥羽・伏見の戦いから江戸開城)


「中央集権としての面目を備えた天皇政府と地方政権・奥羽越列藩同盟(遅れた封建領主の緩やかな連合体)との戦争」(東北戦争)


「封禄から離れた旧幕臣の救済」を目的とする「士族反乱の先駆的形態」(箱館戦争)


薩摩藩など新政府側はイギリスとの好意的な関係を望み、トーマス・グラバー(グラバー商会)等の武器商人と取引をしていた。また旧幕府はフランスから、奥羽越列藩同盟・会庄同盟はプロイセンから軍事教練や武器供与などの援助を受けていた。戦争が早期に終結したため、欧米列強による内政干渉や武力介入という事態は避けられた。






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最終更新日  2024年09月06日 05時56分40秒
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