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10「宗矩の評価
」
晩年は故郷である柳生庄に戻ることもあり、その際、陣屋に家臣や近隣の住人らを招き、申楽・闘鶏に興じるなどしていたという。正保3年(1646年)江戸麻布日が窪にある自邸で病む。同年3月20日、病が重い事を聞いた家光が見舞いに訪れ、病床の宗矩に新陰の奥義を尋ね、望みがあれば申し出るよう命じた。3月26日、死没。享年76。
遺言によって武州端芝で火葬の上、豊島郡下練馬の 圓満山廣徳寺 に葬られた。
広徳寺 (こうとくじ) は、東京都練馬区桜台六丁目にある、臨済宗大徳寺派の寺院。山号は円満山。
歴史
戦国時代、関東一円に勢力を扶植していた北条氏当主・北条氏政の三男で、岩槻城主であった太田源五郎が小田原に明叟和尚を招き、早雲寺の子院として開山したことが由来とされている。なお、太田源五郎は、かつては太田氏房と同一人物であるとされていたが、近年の研究で、氏房の早世した実兄が先に太田氏を継承して「源五郎」と名乗っていた事実が判明している。
天正18年(1590年)に豊臣秀吉の遠征により小田原城は開城し、北条氏が滅亡した際に広徳寺も炎上、焼失したとされている。
その後、秀吉の命により関東を所領とした徳川家康は、天正19年(1591年)に広徳寺の2世となる希叟和尚を招き、江戸の神田に広徳寺を再興した。そして寛永12年(1635年)には下谷に移り、加賀前田氏をはじめ、九州の立花氏、織田氏など多くの大名が檀家とする大寺院となった。
その広さは大田南畝の狂歌で「びっくり下谷の広徳寺」と詠まれたほどである。これは現在でも知られている地口の一つで、「恐れ入谷の鬼子母神」などと並んで知られている。
大正12年(1923年)の関東大震災により寺域はほぼ焼失。内務省復興局は、帝都復興土地区画整理事業において上野駅前の民有地の減歩率を抑えるため、公官署を駅前から広徳寺境内へ移転させることとした。
1925年広徳寺は墓地と境内塔頭の円照院を北豊島郡下練馬村へ移転する決断をしたが、移転先となった下練馬村は強い反対運動を行った。結局1927年から1929年にかけて移転が行われ、跡地は下谷区役所(現・台東区役所)、下谷小学校(1990年廃校)および上野警察署などとなった。
その後昭和46年(1971年)には台東区役所の拡張計画に応じる形で本坊も練馬に移転し、現在の形となった。
境内
墓地も含めた境内はおよそ2万㎡2で、加賀前田氏や久邇宮家より譲り受けた建物や立派な庭園などがある。紅葉が美しく、その静寂に包まれた寺域は東京都内とは思えないほどの静けさである。境内も墓地も基本的には拝観謝絶となっている。
その他、友人の沢庵宗彭を招いて開いた奈良市柳生下町の神護山芳徳禅寺にも墓所があり、京都府南山城村田山の華将寺跡に墓碑がある。また、鍋島元茂・鍋島直能により、現在の佐賀県小城市にある岡山神社内の玉成社に祀られてもいる。同年4月、その死を惜しんだ家光の推挙により従四位下を贈位された。
1万石の身で従四位下の贈位は異例であり、それだけ家光からの信頼が厚かったことを示すものと言える。
子には隻眼の剣士として知られる長男の三厳(十兵衛)、家光の寵愛を受けたが父に先立って早世した友矩、父の死後まもなく没した三厳に代わって将軍家師範役を継いだ宗冬、菩提寺芳徳寺の第一世住持となった列堂義仙の4男と他 2 女がいる。
剣士としては、江戸初期の代表的剣士の一人として知られる。将軍家兵法指南役として、当時の武芸者の中で最高の地位に位置し、「古今無双の達人」「刀術者之鳳 ( おおとり ) 」「父(石舟斎)にも勝れる上手」「剣術古今独歩」「剣術無双」など様々に賞賛されている。また、 新井白石 や勝海舟なども自著にて賞賛している。
新井 白石 (あらい はくせき)は、江戸時代中期の旗本・政治家・朱子学者。一介の無役の旗本でありながら6代将軍・徳川家宣の侍講として御側御用人・間部詮房とともに幕政を実質的に主導し、正徳の治と呼ばれる一時代をもたらす一翼を担った。家宣の死後も幼君の7代将軍・徳川家継を間部とともに守り立てたが、政権の蚊帳の外におかれた譜代大名と次第に軋轢を生じ、家継が夭折して8代将軍に徳川吉宗が就くと失脚し引退、晩年は著述活動に勤しんだ。
学問は朱子学、歴史学、地理学、言語学、文学と多岐に亘る。また詩人で多くの漢詩が伝わる。白石は号で、諱は 君美 (きみよし、きんみ)。
先祖は上野国新田郡新井村(群馬県太田市)の土豪だったが、豊臣秀吉の小田原征伐によって没落したといわれている [ 注釈 1] 。のちに父・正済は上総久留里藩に仕官し、目付をつとめている。
白石は明暦の大火の翌日の明暦3年(1657年)2月10日、焼け出された避難先で生まれた。幼少の頃より学芸に非凡な才能を示し、わずか3歳にして父の読む儒学の書物をそっくり書き写していたという伝説を持つ。聡明だが気性が激しく、しかも怒ると眉間に「火」の字に似た皺ができることから、藩主・土屋利直は白石のことを「 火の子 」と呼んで可愛がったという。
延宝2年(1675年)、16歳で中江藤樹『翁問答』(1649年刊)を読み儒学を志す。
利直の死後、藩主を継いだ土屋直樹には狂気の振る舞いがあり、父の正済は仕えるに足らずと一度も出仕しなかったため、新井父子は2年後の延宝5年(1677年)に土屋家を追われる。貧困の中で儒学・史学に励み詩文を学んだ。
その後、直樹が狂気を理由に改易されると自由の身となった白石は、天和3年(1683年)、大老・堀田正俊に仕えたが、その正俊が若年寄・稲葉正休に殿中で刺し殺されると、堀田家は古河・山形・福島と次々に国替を命じられて藩財政が悪化する。
白石は堀田家を自ら退いて浪人し、独学で儒学を学び続けた。
この間、豪商の角倉了仁から「知人の娘を娶って跡を継がないか」と誘われたり、河村通顕から「当家の未亡人と結婚してくれれば3000両と宅地を提供する」という誘いを受けたりしたが、白石は好意に感謝しつつも、「幼蛇の時の傷はたとえ数寸であっても、大蛇になるとそれは何尺にもなる」という喩えを引いて断ったという逸話がある。
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