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13「貧乏人は麦を食え・池田外相」12月7日・
池田 勇人 (いけだ はやと、 1899 年 〈 明治 32年〉 12月3 日 – 1965 年 〈 昭和 40年〉 8月13 日 )は、 日本 の 政治家 、 大蔵 官僚 、 全日本居合道連盟 創立者と初代会長。 位階 は 正二位 。 勲等 は 大勲位 。
大蔵次官 、 衆議院議員 (7期)、 大蔵大臣 (第 56・ 代)、 通商産業大臣 (第 2 ・ 7 ・ 56 代)、 経済審議庁長官 ( 第 3 代 )、 自由党 政調会長 ・ 幹事長 、 内閣総理大臣 (第 58 ・ 59 ・ 60 代)などを歴任した。
大蔵官僚を経て終戦後まもなく政界入りすると、 吉田茂 の右腕として頭角を顕し、吉田内閣の 外交 ・ 安全保障 ・ 経済政策 に深く関与した。
佐藤栄作 と並ぶ「 吉田学校 」の筆頭格である。 保守合同 後は自民党の 宏池会 の領袖として一派をなし、 1960 年 に首相に就任した。 19 世紀 生まれの最後の首相である。
所得倍増計画 を打ち出し、日本の 高度経済成長 の進展に最も大きな役割を果たした。
生い立ち
広島県 豊田郡 吉名村 (現・ 竹原市 )にて父・池田吾一郎、母・うめの間に7人兄弟の末子として生まれた。 旧制忠海中学校 の1年時に 陸軍幼年学校 を受験するが、 近視 と背丈の低さで不合格となる。 一高 を受験するが2度落第、 五高 を経て 京都帝国大学法学部 卒業。
大蔵官僚時代・挫折と生命の危機の克服
京都帝国大学法学部卒業後、 高等試験 をパスし 1925 年 、同郷の 政友会 代議士 ・ 望月圭介 の推薦を受け 大蔵省 へ入省。入省同期は 山際正道 、 植木庚子郎 、田村敏雄など。大蔵省の中枢は当時からすでに 東大 出身者で固められており、京大卒の池田は出世コースから外れた傍流であった。本来ならば地方の 出先機関 の局長や 税関長 止まりというキャリアで、入省後は相場の通り地方を廻る。 1927 年 、函館税務署長に任命される直前に、望月の秘書だった 宮澤裕 に勧められ 維新 の 元勲 ・ 広沢真臣 の孫・直子と結婚する。 媒酌 は時の大蔵大臣・ 井上準之助 だった。
宇都宮税務署長を務めていた 1929 年 、当時不治の病といわれた 難病 の 落葉状天疱瘡 を発症して大蔵省を休職、休職期間が切れたため 1931 年 に退職、以後3年間、吉名村の実家で療養生活を余儀なくされた。
原因不明の難病に対し、周囲には冷たい視線を向ける者もいる中で、栄進への道を絶たれたも同然の池田は、失意に沈み、出世の階梯を異例のスピードで駆け上がる、1期後輩の 迫水久常 に切歯扼腕する思いであった。少しよくなりかけた頃、 四国 巡礼をする。
闘病中には、看病疲れから妻の直子を 狭心症 で失っているが、やはり看病に献身した遠縁の大貫満枝との出会いといった出来事もあり(後に結婚)、 1934 年 に奇跡的に完治する。
医者も「どうして治ったのか判らぬ」と言っていたといわれる。再び望月の世話を受けて 日立製作所 への就職が内定したが、挨拶を受けた秘書課長の 谷口恒二 や 松隈秀雄 から復職を薦められる。同年12月に新規採用という形で、34歳にして玉造税務署長として大蔵省に復職した。 玉造 では、やはり病気で遅れて和歌山税務署長を務めていた 前尾繁三郎 と知り合い、以後肝胆相照らす関係が続くことになる。
財政家として基盤の形成
復職後は病気での遅れもあり、出世コースを外れ 税制 関係の地味なポストを歩み続けたが、やがて税の専門家として知られるようになり、税務を通じた産業界との縁は後の政界入り後に大きな力となった。
池田の徴税ぶりは有名で「税金さえとれば、国のためになる」と、 野間清治 や 根津嘉一郎 の 遺産相続 時の取り立ては凄まじかったといわれる。
当時省内では、 賀屋興宣 と 石渡荘太郎 の二大 派閥 が対立していたが、池田は同郷の賀屋派に属した。熊本税務監督局直税部長、東京税務監督局直税部長を経て、主税局経理課長として本省に戻り、しばらくは重要会議には全く呼ばれず、当分冷や飯を食わされたが、 1941 年 、蔵相となった賀屋の下で主税局国税課長となる。
本人は後に、国税課長昇進が蔵相就任時よりも嬉しかったと述懐している。丁度 太平洋戦争 と重なり、賀屋と共に、日本の歴史上最大増税を行い軍事費の膨張を企てた。
国家予算のほとんどは戦費で、財源の大部分が 国の借金 となり、国家財政は事実上の破綻に至る。 1942 年 、臨時軍事費を捻出するため広告税を導入した(1945年廃止)。 1944 年 、蔵相が石渡に交代して主流から外され、東京財務局長。出世の遅れに嫌気が差し、1期上の飲み仲間で当時 満州国 の副総理格だった 古海忠之 に「満州に呼んでくれないか」と頼んで承諾を得たが、母親に猛反対され断念した。
1945 年 2月に主税局長となり、出世の遅れはここでほぼ取り戻した。初の京大出身の局長として新聞記事になったほどの異例の抜擢だった。
この頃、家族を 埼玉県 春日部市 に 疎開 させる。5月25日の 東京大空襲 で大蔵省庁舎の一部が焼失したため、必ず狙われる都心を離れ、局ごとに建物を分散した。主税局は 雑司が谷 の 自由学園明日館 に移っており、同所で 終戦 を迎える。
終戦後、池田は 戦後補償 の担当者だったといわれ、 軍需会社 や民間の会社が大蔵省に殺到した。1945年9月、 連合国軍最高司令官総司令部 ( GHQ ) から「 日本の租税制度 について聞きたい」と大蔵省に呼び出しがあり、前尾を伴いGHQ本部に出向き、戦後の税制改革の協議がスタートした。
戦時補償 の打ち切りと 財産税法 創設問題に精力的に取り組み、 1947 年 2月、 第 1 次吉田内閣 (大蔵大臣・ 石橋湛山 )の下、主計局長だった 野田卯一 を飛び越えて 大蔵次官 に就任する。
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