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今禁止薬物に触れている人がこの文章を読んでいるとしたら、もしあなたの近くにいる人が禁止薬物に関わっているとしたら、すぐに離れよう。離れるように言おう。だめなら警察に連絡する勇気を持とう。 これを読んでください。警察の連絡先も書いてあります。今ならまだ間に合うかもしれない。あなたの電話が誰かを救うかもしれない。麻薬でも、大麻でも、MDMAでも何でもだ。その薬物はあなたにとってそんなに必要なものなのですか?逮捕されてから、「この薬は人体に害はないんだ!」なんて言っても、警察は聞いてくれないよ。それでも薬物が大切かい?重い刑罰が待っていても薬物のほうが大切かい?もう一度言う。薬物から離れることだ。後で後悔しないように。こんなこと言っても、薬物に手を出す人は減らないんだよなあ(泣)「生物はどこからやって来たか?」(6月19日)と、昨日の「本当に命は大切か?」については書こうか書くまいか迷った末の日記だった。しかし両方とも反応はなし。これにはへこんだ。意味がなければ日記も書く意欲が失われる。私がとやかく言わなくとも、コメントがなくとも、みんな考えているんだろう。きっとそうだ。そうに違いない。みんな考えているよね?(以下秘密日記。気が変わったら別の日記に書き換えます。)
2004.06.30
命って大切なんだよね?「命は大切だ」と多くの人は言う。本当だろうか?「バカの壁」で有名になった養老孟司はある本 の中で、日本では障害児を間引きしているとの話を書いていた。以前、日本でも話題になったベトちゃんとドクちゃんのような結合双生児が日本で少ないのは、どこかで殺しているからではないかと言うのだ。障害を持って生まれる子どもについては、「トキオ」(東野圭吾)を読んで参考にして考えてほしい。答えはすぐには出ないだろうが、深い小説だ。命って大切なんだよね?堕胎罪は今や「ザル法」となっている。出生率が1.29だと騒がれているが、本当に子どもは必要なのだろうか?堕胎しまくりで生まれてきたら虐待で殺す親までいる。独立して呼吸するまでは胎児は「物」でしかないのか?「物」ならどうしてもいいのだろうか? でもその「物」は生きているんだよね?親の都合で殺していないか? どうしてこのことが問題にならないのか? 母体保護法もちろん堕胎で肉体が傷つく人もいるだろう。良心の呵責に苦しむ人もいるだろう。そしてどうしても堕胎が必要な人もいるだろう。私は「すべての堕胎が許されない」と言っているわけではない。「堕胎について考える余地はないか?」と言っている。 資料1命って大切なんだよね? 日本各地で凄惨な事件が起こっても、驚かない自分がいた。イラクで何十人死んでも、驚かない自分がいた。実は誰も命が大切って考えていなかったりして。ネットでも挨拶しよう!私の日記は書きたい放題の内容なので、批判が絶えない。それはそれでいい。覚悟の上でもあるし、反対意見も必要だから。しかし、反対意見を書くにしても挨拶くらいはしようよ。ましてやまったく知らない人のところに反論するのに挨拶もなしでいきなりでは、「この人ケンカ売っているのか?」と思ってしまう。私はなるべく「こんにちは」と最初に書くようにしている。読む人がいつ読むかわからないからいつでも「こんにちは」だ。ネットは「便所の落書き」であるという。なるほど挨拶も抜きで匿名で批判、批評するくらいだからそう言われても仕方ないだろう。7月14日「サピオ」の「新ゴーマニズム宣言」(小林よしのり)には「ぶちまけ言葉」という表現でこのことが書かれている。ぜひ読んでほしい。彼の発言には批判も多いが、ネットに対する批判についてはかなり的を得ている。「見ず知らずの人にいきなり抗議や怒りや批判を投げつける行為そのものが異常者のものである。道徳的行為ではない」なるほどその通りだ。自戒も込めて言うが、こうした礼儀に欠けた批判はやめよう。その第一歩として挨拶はしようよ。どこまでもネットという便利な道具を下らなく使うかどうかは、実はこうした挨拶から始まるのではないか?>追記こうした「挨拶」のことを書くと、「挨拶すれば何言ってもいい」という人が現れるんだろうなあ。今後とも挨拶だけでなく内容で判断し、書き込みは削除します。
2004.06.29
またもや批判を恐れず、今日は天皇について書く。天皇制が最近話題になっているのは「次の天皇」になる男が誕生しないからだ。秋篠宮以来、男が生まれていないとのことだ。皇室典範では第一条に、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」とある。だからこそ、このままでは皇室が絶滅してしまう恐れがあるのだ。「日本の象徴」が絶滅の危機にあるのに、話題にならないわけがない。これは建前だ。「それなら皇室典範を改正して女帝を認めよう」という声もあるようだが、この案には反対意見も多い。私は不謹慎なようだがこんなことを考える。もし、皇室典範が改正されて愛子が天皇になった場合、その結婚相手が黒人ならそれでも「日本の象徴」として認めるのか?また、その相手との間にできた子供は当然ハーフだ。だとしたらその子は自動的に「天皇候補」になるわけだが、日本国民はそれを認めるのだろうか?多分こんなことを考えるのは私くらいなものだろう。しかし私は気になるのだ。彼女には「結婚相手を選ぶ権利」すらないのだろうか?それとも、誰と結婚しても構わないのか?そして「純粋な日本人」と黒人の間には何か違いがあるのだろうか?そもそも「純粋な日本人」とはいったいなんだ?日本人の祖先は大陸から渡って来たかもしれない。人間に「区別」をつける意味があるのか?私は100年後、200年後には天皇制を廃止しても良いと考える。なぜなら、「天皇のことを考え必要としている人」なんて、本当にいるのかどうか怪しいからだ。そして天皇の存在に意味があるとは考えないからだ。本当なら今すぐにでも廃止していいが、それには手続き上の問題もある。多くの人は「象徴って何?」「天皇制の意味って何?」なんて考えていないのではないか?こうした疑問に答えられる人も少ないのではないか?日本の象徴なのに。そもそも天皇や皇室が存在する意味があるのだろうか?天皇と我々一般人との違いも私にはよくわからない。皇室の方々には体のどこかに菊の御紋があるわけでもないだろう。存在に意味がないなら、もう天皇制は廃止したらどうか?私の考える選択肢は、「天皇を必要とするか?それとも廃止するか」だ。天皇ってそんなに必要なの?なくてはならないの?追記 こんな話もある
2004.06.28
私の日記にはありがたいことに多くの方から反応がある。その多くは、「自分では表現できないからりゅうちゃん頑張って!」というものだ。「自分は頭がよくないから良い文章が書けない」という人もいる。私は断言する。「良い文章は頭の良さに比例しない」ということを。これを読んでもらいたい。 資料1 資料2有名な、野口英世の母が息子に送った手紙と、マラソン選手だった円谷の遺書だ。私はこの二つが「歴史に残る名文」であると信じて疑わない。野口の母が送った手紙には、ただ「息子に会いたい」ということしかない。それでもこの手紙はあまりに感動的だ。詳しくは渡辺淳一の「遠き落日」を読んでもらいたい。この作品には批判もあるが、これまでの野口英世像を破壊してくれる。それでも野口が偉大なことは何ら変わりがない。円谷の遺書は悲しいが彼の素朴さを十分に表現している。この文章から私の言いたいことを理解していただきたい。「上手な文章」はカルチャーセンターに行けば指導してもらえるし、多くの人は書けるようになるらしい。しかし、「上手な文章」は私にとっては面白くない。もし、「自分の表現がしたい」と思うのなら、ほとんどの人にチャンスはある。決して「頭の良さ」とは関係ない。いつも自分の日記を読み返して自己嫌悪に陥るりゅうちゃんでした。
2004.06.27
私は日記で言いたいことを書いているせいか敵が多い。 だが、「良くぞ言ってくれた!」という人もいる。こうした反応はありがたい。ありがたいが、私のため息の原因になるのは、「私は何もしない。人を敵にするのは嫌だ。でもりゅうちゃんには頑張って主張してほしい」という内容のメールだ。実際こうした反応は多い。私は批判を受けるための「生贄」でもピエロでもない。ましてやみんなの代表でもなく、特別人より頭がいいわけでもない。それでも「これは違うんじゃないか?」ということを今まで日記に書いてきた。人はその人特有の言葉を持っていて、それを表現するか否かはその人が「やってみるかどうか」にかかっているように私は考える。ルーサーキング牧師(アメリカの公民権運動をした人)みたいに、「私には夢がある」という演説ができる人はそう多くはない。それでも表現してみることを人に任せないでほしい。自分の言葉で訴えてほしい。私の日記に意味はあるのだろうか?私はいつも考える。私が何を言っても、何も変わらないようにも感じる。正直、「頑張れ」と言われるのにも疲れた。書きたいことは山のようにあるが、私は「頑張れ」と言われるために日記を書いているわけではない。登山家の野口健氏がテレビでこんなことを言っていた。「頑張っている人に頑張れと言わないでくれ」乱暴なようだが、私はこの意見に賛成する。彼とは直接会って話をしたこともある。彼も「言いたいことは自分の言葉で言う」男だ。私は何もマラソンをやれと言っているわけではない。怪力になれとも言わない。自分の考えをを自分の言葉で表現するだけのことだ。人に任せないで、自分でやってみないか?あなたにもきっとあなたにしかない表現があるはずだ。あなたの意見を、あなたの言葉で表現してみないか?人に任せるんじゃなく。あなたの意見を私は読みたい。(気が変わったらこの文章は削除して違う内容に書き直します)
2004.06.26
昨日に続いて韓国人のイラクでの殺害事件について書く。「韓国大統領ノムヒョンは政策によって家族を殺した」これが殺害された方の家族にとって当然の心情だろう。もし私の家族がイラクで拘束されて「軍隊を撤退させなければ殺す」と脅迫され、小泉がそれに従わず殺されたら私も同じ事を考えるしそう言うだろう。「家族が死ぬ」判断した政治家を恨むだろう。国籍に関係なく、多くの人がそう思うのではないか?昨日も言ったが、これが政治の現実だ。だからこそ「自由の国、民主主義の国」アメリカもまた、ジョージブッシュという男の判断でイラクに戦争を仕掛けた。彼こそは「民主的に選ばれた唯一の超大国大統領」だ。アメリカ人よ、いい人を大統領に選んでくれてありがとう!日本はブッシュを教訓にして直接選挙で首相を選ぶのは危険だと、多くの人に気がついて欲しい。さもないととんでもないことになるぞ。ブッシュは「自分こそが、アメリカこそが正義」であると信じているのだろう。だから国連もバチカンも関係なく戦争を始めてしまう。そしてアメリカ軍はイラクの刑務所でやりたい放題の虐待をしている。アメリカの高官が見ても「吐き気がする」内容の虐待を。イラク人のことをアメリカ人と同じ人と思っていればこんなことはできない。アメリカ人でないものはもはや人間ですらないのだろうか?「アメリカが認めないものはみんな敵」なのか?そしてそのアメリカに従うだけの「ポチ」もいる。ポチを投票で選んだのは誰でしょう?忘れてはならないのは、「公人の判断で簡単に人が死ぬ」ということだ。例えば裁判。裁判に関わる人たちは裁判が公平であると同時に、職務による影響が人生を変えてしまう「厳しさ」を胸にシンボルとして付けている。裁判官は「八咫の鏡」(すべてを映す公正さ)、弁護士は「テミスの天秤」(公正と平等の象徴)、検察官は「秋霜烈日」(刑罰に対する厳しさ)を示している。資料1公人はその判断で人をも簡単に殺してしまう。まさに今回の事件のように。「HERO」というドラマがあった。どれだけの人がこの場面を覚えているかはわからないが、木村拓哉演じる型破りな検事が権力の使い方で、簡単に人が死ぬことを「秋霜烈日」を説明しながら言っていた。もちろん裁判官も、検察官も、死刑執行の書類にサインする法務大臣も、やはり権力の使い方次第で簡単に人を殺してしまう。ハンセン病の方が偏見を受けなければならなかったのはどうしてか?薬害エイズの拡大を防げなかったのはどうしてか?公害も公人の行動によって死ななくてもいい人が死んだのではないか?国の元首ならなおさらのことだ。参議院選挙を前にして、「人殺し!」と呼ばれる覚悟ができている人が立候補しているんだろうな。「参議院だから」なんて言い訳は通用しないよ。本当に信じていいんだろうな?ノムヒョンにはこの「一人の死」を忘れてほしくない。彼が人なら忘れるはずもないと信じたいが。そして権力を持つ人には「いつか自分が人を死なせることになる」という覚悟を持ってもらいたい。ところで今回の殺害事件ではテレビで被害者の家族が泣き叫んでいた。私にはこの姿がすごく「当たり前」に見えた。「ノムヒョンから送られた花はどれだ!」といって母親が花を破壊していた。私は韓国でのこの事件を見から、どうしても日本の人質事件を思い出してしまう。日本での人質事件で「自己責任」を訴えた人が、「人質家族は政府の責任にしてみっともない」などと言うのはとても酷なことだ。その後の橋田信介さんの殺害事件で、奥さんが笑顔を見せていたことを「立派だ」と誉めたいのはわかる。実際に立派だった。しかしそんなに立派な人ばかりじゃないし、泣き叫んでも、政府の責任を訴えてもいいのではないか?家族が死ぬかもしれないのだから。私はそう考えた。みんなが立派なわけではない。家族が生きるか死ぬかの時に立派である必要もない。人質家族がマスコミ対応に経験のある人でなければなおさらのことだ。そんなに家族を責めるなよ。みんなが立派じゃないんだから。追記私が言いたいことを日記で書いているせいか、礼儀に欠ける人がコメントを寄せることが多いようだ。親しいわけでもないのに挨拶も抜きでいきなり反論を書かれても困るし、それは礼儀の第一歩を知らない人がすることだ。今後はそうした人には返信しないばかりでなく、コメントも削除の対象になります。どうかご注意を。
2004.06.25
昨日に続いてイラクでの韓国人殺害事件について書く。今回の事件を政治を司る人から見ると、「自国民の生命は軍隊のイラク派遣に劣る」ということになる。これは韓国でも日本でも同じだ。だからこそ日本でも人質事件で自衛隊は撤退しなかったし、韓国でも政策の変更はなかった。これが政治判断というものだ。誰かが言っていたが、「政治家は1000人を助けるため、時に10人を見殺しにする」のだそうだ。その決断こそが政治の正体だ。いつもは選挙を棄権する人も少しだけ考えてみてほしい。政治の現実を。あなたが放棄した選挙で選ばれた政治家が、あなたの命を救うかもしれないし、殺すかもしれない。いつのまにか神でもない普通の人間が、命の重さを天秤にかけて判断する。結果的に生殺与奪権を持つ。ここに政治の厳しさがある。ところが政治家は人間だ。だからいつも機械のように判断できるとは限らない。ダッカ事件のようにハイジャック犯人の要求を行ってしまうことすらある。「人命は地球より重い」と判断したのもまた政治家だ。ひとつ疑問がある。政治家はもし自分の家族が人質になって、ビデオを送りつけられ、「軍隊を撤退させなければ殺す」と脅迫されても同じ判断をするのだろうか?小泉やノムヒョンも判断を変えないのだろうか?その判断を我々はどう見るのだろうか?「人の命は大切」という大命題は欺瞞なのか?それとも「命にはランクがある」のだろうか?報道によると韓国では今回の殺害事件を受けて、「支援部隊」ではなく「攻撃部隊」をイラクに送るべきとの声が多くあるらしい。気持ちはわからなくはないが、憎しみをぶつけるだけでは事態は混乱するだけだ。韓国には是非冷静になってほしい。自国民を殺されて「冷静に」と言うのも無理がある。あるがそれでも冷静になってほしい。韓国の政策は韓国人が決める。決めなければならない。スペインのように撤退を決めてもいい。現実はそうではないようだが、もし仮に韓国人がイラクからの軍隊の撤退を決めたとしても、少なくとも私は「韓国人は臆病にもテロに屈した」とは言わない。ただ冷静になって議論して決めてほしい。結果も大切だが、経過もまた大切だ。さらに血が流れないように、後になって後悔しないように、韓国人にはしっかりと決めてほしい。歴史は正直だ。憎んだ結果、殺戮が止まらなくなってしまったこともある。イスラエルとパレスチナのように。是非とも過去の歴史を「他山の石」にしてほしい。同じことを繰り返さないために。この文章を読んでいる韓国の方へ日本には韓国人が嫌いな人もいます。残念ながらそれは事実です。しかし多くの日本人は今回の韓国人殺害事件を悲しんでいます。悲しむのに国籍は関係ありません。「一人が殺された」ということには変わりないのです。ご存知のように日本人もイラクで人質になりました。幸い殺害には至りませんでしたが、過去の経験から今回の事件を「他人事」とは思っていません。多くの日本人は亡くなられた方の冥福を祈っています。事件を嘆き悲しんでいます。大切な隣人として。同じ人間として。今回の事件が韓国人の冷静さを奪うことにならないよう、私は強く希望します。憎しみからは憎しみしか生み出しません。報復は新たな殺戮につながります。
2004.06.24
イラクで韓国人が拘束され殺害された。 これが記事です私は亡くなった方のことについては詳しくはない。ただイラクにいた「韓国人の貿易商」ということだけを聞いている。それでも人が死んだことには変わりない。国籍も関係ない。とても残念だし、悲しい。意味のない殺人だ。暴挙だ。韓国人がイラクの人々に何をしたというのか?戦争を仕掛けたか?殺したか?殺した韓国人は軍人ですらなかったというではないか?今でも「どうして人を殺してはいけないのか?」などと質問する人はいるのだろうか?それはいったん死んだ者が再び甦ることがないからだ。誰も再生することができないからだ。殺された韓国人も帰国してポジャマチャ(韓国の屋台)に行きたかっただろう。コンチ(秋刀魚)を食べながらソジュ(焼酎)も飲みたかっただろうし、サウナにも行きたかったろう。アカスリもしたかったろう。寒い冬にはスンドゥブチゲ(豆腐の辛い鍋)も食べたかっただろうし、チョンガクの除夜の鐘も聞きたかっただろう。韓国人は家族を大切にするから母親にも会っただろう。どれももう不可能になってしまった。殺されたことで。殺すことは「強制的に存在を失わせること」に他ならない。そんなことをする権利は誰にもない。誰にもだ。だからもう一度言う。何度でも言いたい。誰も殺すな!武器も持つな!殺せば憎しみが広がるだけだ。外国人を拘束して何かを得たか?殺して何か実現したか?何か得たものがあったか?殺して満足したか? 過去の日記からニュースで映像として見た。亡くなった方が「私は死にたくない!」と英語で叫んでいた姿を。今でもそのことを思い出す。冥福を祈りたい。このことで思い出すのは日本での人質事件だ。素朴な疑問だが、韓国の人たちは人質が拘束がされている間も、人質による「自作自演」を疑っただろうか?「人質になっている人たちは左翼と関係がある」などと言っていただろうか?そして日本同様に「人質の自己責任」を問題にしただろうか?まさか「自己責任論」は日本独自のもので、韓国との反応の違いは「日本人は韓国人に比べて非情だった」という結果にならないだろうな?疑り深い私としては、どうしても心配してしまう。今後も同じ騒動が起こらないように、こうしたことは今のうちに考えたほうがいいのではないだろうか?
2004.06.23
日本中に大きな被害を出した台風は去った。信じられないのは静岡での大学生が波にさらわれ二人が死亡したことや、防波堤に「大きな波を見に行って」3人が波にさらわれたことだ。 資料1思い出してほしいのだが、イラクで人質になった事件の時多くの人が「自己責任」を錦の御旗にしてバッシングしていたのに、今回は「自己責任」は問われないのだろうか?人質事件の時にはイラクのストリートチルドレンを助けようとしていた人も非難されていたというのに。とても不思議だ。漁業をしていて「自分の船が心配だから」と様子を見に行って事故に遭うのはまだ理解できる。しかし興味本位で「荒れた海を見に行く」のは理解ができない。ただ単に迷惑なだけだ。 台風という「非日常」を見たいなら、テレビの中だけにすべきだ。 資料2台風が来ているにもかかわらず海に近付くのは自殺行為以外の何者でもない。今後も台風は日本に来るだろうからこうした無謀なことをする人が現れないように言っておくが、波にさらわれた後に危険を顧みず捜索した人のことは考えないのだろうか?また、残された家族のことも考えないのだろうか?テレビや新聞も「台風のすごさ」を伝えるだけでなく、「興味本位で荒れた海に行くこと」がどんな結果になるかを繰り返し伝えるべきではないか。確かに日本には「死者を鞭打たない」ことが共通認識となっているし、それはそれで美徳ではある。しかし台風が来るたびに「なくてもいい被害、本来しなくてもいい捜索」が存在するのは無駄だ。美徳のために無謀な意味のない行為を注意できないのも考えものだ。本当は美徳を考えている人なんかほとんどいなくて、「他人のことなんかどうでもいい」という人が多数派であることは私はよく知っている。私は亡くなった人の名誉を傷つけるより、今後のことを考えたい。以前にも同様の死亡事故はあった。それでも今回こうして同様の死亡事故が起こるのは他人の行動を自分の教訓にできないためだ。「台風が来たら海に近付かない」ということは小学生でも判断ができる。このようなニュースが二度とないように望む。話は変わってNHK衛星放送の、「列島縦断鉄道12000キロの旅」が23日にゴール!旅の終わりはいつでも感動的です。資料1 この番組はカズンのテーマ曲もいい! この曲です
2004.06.22
「火の鳥」未来編で、汚染された地表に住めなくなった地球のことが描かれている。そこでは地下都市を作り人々はコンピューターに判断を任せて生活しているが、都市ごとに違うコンピューターが争いを始めて戦争になる。その結果人類は滅亡してしまう。 資料1私には手塚のメッセージのひとつは「どうして人が決めないで機械に任せるのか?」ではないかと考える。最近はスポーツでも判定にセンサーが使われるようになった。あの保守的なテニスの全英オープン(ウィンブルドン)でもサーブがネットに触れたかどうかをセンサーで監視している。エンドライン近くのボールもセンサーが見ている。だが最初はセンサーが暑さのために狂ってしまうこともあった。また、アメリカンフットボールではビデオを判定に使ったりしているが、あまりに機械的で私は面白さに欠けると考える。「機械を使っても最終的な判断は人がする」というのがある意味理想でもある。大事なのは「人間と機械はどっちが主か?」ということだ。「機械は道具で人が判断することにはかわりない」というのならいい。しかし人が機械に使われるようになったらこれはある意味危機である。いくらディープブルー(コンピューター)がチェスの世界チャンピオンに勝っても、人が決めることを機械に任せるのは大きな問題だ。 人間対コンピューターのチェス対決我々はそのうち人がすべき判断を機械に任せてしまうのだろうか?それって人類滅亡への第一歩であると考えるのは私だけだろうか?もうすぐ参議院選挙があるが、自分で考えないのは選挙もまた同じだったりする。あなたは自分で考えていますか?政治も人任せにしていませんか?今「火の鳥」はNHKで放送されている。昨日(20日)の放送で「火の鳥」が学校教材に使われていることが報じられた。こうした「教材」については異論はあるだろうが、私は「使い方」に尽きると思う。考えてみれば、「火の鳥」ほど宗教学的、哲学的な教材はないだろう。個人的には「太陽編」を教材にして欲しいのだが、公立の学校では「宗教に対する中立」が問題ともなるだろう。「太陽編」は村上春樹の「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」にも通じる話でとても興味深い。 「宗教と天皇制は政治に利用されやすいもの」というのが率直な感想だ。(追記) F1アメリカグランプリでの琢磨の表彰台はすごいニュースだ。ここ数レースは結果を求めすぎて本人が焦っていないか少し心配だった。マシンが壊れたり(壊したり)無理に追い越したりしてレースを終えたりもしたし。彼に足りないのは経験だけだ。「日本人にもできる」ということを証明してくれてありがとう。 3位になったアメリカグランプリの記事と琢磨のコメントですもちろん次に狙うは日本人初の優勝しかない。それでも私は琢磨の身を心配してしまう。マシンは壊してもいい。だから琢磨自身は怪我をするな。焦るな。
2004.06.21
6月20日のNHKスペシャル「ローマ教皇、動く“イラク戦争とバチカン外交”」は興味深い番組だった。イラク戦争にキリスト教の立場から反対するローマ教皇とバチカンの活動についてのものだった。バチカンのこうした活動は評価されるべきではあるが、結果的にはイラク戦争は始まり、バチカンの意見はブッシュ大統領には聞き入れられなかった。これは現代の「カノッサの屈辱」ではないか?1077年、ローマ皇帝ハインリヒ4世は教皇グレゴリウス7世と聖職叙任権をめぐる争いの末、破門されて教皇の許しを求まなければならなかった。キリスト教のトップが政治のトップに勝ったのだ。今回の反戦運動とは逆の結果になったのだ。現代のバチカンは影響力が弱まったのか?それとも冷戦以後「唯一の超大国」となったアメリカには、精神的支柱であるはずのキリスト教でさえも止めることができないのか?カトリック(バチカン)とプロテスタント(アメリカの主流)の違いこそあれ、バチカンの反戦運動がアメリカにイラク戦争の開戦を再考させなかったことは、「キリスト教の敗北」を意味しないか?イラク戦争を止めることができなかったことは国連だけでなく、バチカンの威信にも傷がついた。私はそう判断する。これが「イスラムとイスラム」の戦争なら「異教徒の言うこと」は影響がないのも理解できる。しかしイラク戦争を始めたのはキリスト教国のアメリカとイギリスである。アメリカを止めることはバチカンをもってしても、もはや不可能なのだろうか?キリスト教は戦争回避に役に立たないのだろうか?だとしたら誰もアメリカの暴走を止めることができないのだろうか?どこかで止めないとアメリカはイランや北朝鮮と戦争してしまうぞ。もはや国連決議も関係なしに何でもできるのだから。追記この日記の内容に反論が来るのはいい。しかしその大半が礼儀もわきまえないものであることはとても残念だ。しかも内容が単なる「言葉の説明」でしかないものには構わずに削除する。言いたいことがあるなら、自分の日記かホームページに書けばいい。「反論のための反論」にはうんざりだ。反論の必要もない。
2004.06.20
地球上にいる生物がどこからやって来たか?その答えは今でも見つかってはいない。キリスト教信者は「神が創造した」と言う。何故なら旧約聖書にはそう書いてあるからだ。それはそれでいい。宗教が科学に対して必要以上の干渉をしないのならば。生物の発生は、古くは「自然発生」であると信じられてきた。だから「生物起源論」などということは議論すらされなかった時代もある。早い話が「聖書に書かれているのだから都合がいい」ということだ。しかし時代が進んでくるとそうも言っていられなくなる。科学の進歩によって自然発生説を疑う物が現れるようになったからだ。資料1パスツールは「白鳥フラスコ」という特別製の器具を使って自然発生説が誤りであることを実証して見せた。それでは地球上の生命はどうやって誕生したのだろうか?自然発生説の否定後、コスモゾア説が出てきた。これは簡単に言うと「生命が隕石で地球にやってきた」というもの。ところがこの説には批判が出た。この説によると隕石でやって来た生命は、地球に到達する時の大気との摩擦熱で生命は死んでしまう。そこで今度はパンスペルミア説というものが出てきた。これは隕石に乗って生命がやって来たことまでは同じだが、「種」の形でやって来たのだという。これなら摩擦熱でも死なないというわけだ。ところがこの説にも批判があった。二つの説は「生命起源論」ということについては「宇宙からやって来た」というだけで根源の解答にはなっていないというのである。ただこの説は今でも一部の学者の中では信じられている。そこで今度は旧ソ連のオパーリンという学者が別の説を考えた。その説によると、「ある一定の条件では、生命の基礎となる物質が誕生する」というのだ。ある意味「新しい自然発生説」とも言える。 資料2 資料3こんな文章もあります。 資料A私が言いたいのは「宗教は存在意義があるのだから、科学の分野に口を出すのは控えたらどうか?」ということだ。「宗教は宗教、科学は科学」という区別がある程度必要ではないか?私は科学にはある程度の「宗教観」が必要だと考える。しかし「科学的事実」にまで宗教が発言することには理解ができない。地動説を信じたブルーノを火炙りにし、ダーウィンを弾圧し、それでもまだ聖書が正しいことを訴えるのだろうか?まだ生贄の血が欲しいのだろうか?現在でもまれに「聖書のみが正しい」と言っているキリスト教原理主義者を見かけるが、そこまで「何でも聖書」に拘らなければならないのだろうか? 資料4ダーウィンを攻撃したキリスト教の考えを示す有名な一文がある。1860年のイギリス学術協会でのことだ。ウィルバフォース(神学者であり主教)とダーウィンを信じるハックスリーの議論だ。ウィルバフォース「君は父または母が祖先に猿を持つというのか?」ハックスリー「猿であるか、それとも科学の重要な議論の最中に不真面目な言葉を用いる教育ある人間であるか、そのどちらかを選べといわれたら、私は猿を選ぶ」この言葉はキリスト教の考え方を示してはいないだろうか?もともと我々には「先祖を選ぶ自由」などない。そして先祖が猿であろうが何だろうが現在の人間は人間だし、祖先を恥じる理由などない。生命起源論については事実がまだ解明されていない。誰も見た者がいないからだ。従って「よくわからない」のが現状でもある。わからないからこそ、今までの常識ではない一見して下らなく聞こえるような考えが必要なのではないか?*********************************************************************科学的な内容については、「科学思想史」(武部啓、川井雄 著)を参考にしています。
2004.06.19
みなさんは「どうしてキリンの首は長いのか」と訊かれたらどう答えるだろうか?お子さんがいれば、こうした質問もされるかもしれない。「キリンも最初は首が短かった。しかし生活するのに便利なように、長い年月の中で首が長く進化していった」こう答える人は多いだろう。こうした回答をしている本も実際にはあるらしいし、「何でも質問箱」みたいなところでもそう答えているという。 ではここで私から質問。進化途中の、「中途半端な首の長さ」を持ったキリンはいたのだろうか?また、そうした化石は発見されたのだろうか?もし、長い年月を経てキリンが進化して長い首になったとしたら、その進化途中の化石が見つかってもよさそうだ。そうした「中くらいの長さをした首を持つキリンの化石」を見た人はいますか?いないだろう。私も見たことがない。「一つの説で多くの回答を満足させるということ」がこうした「安心理論」を生む。人は早く回答を求めるがあまり、時に「真実への探求」を忘れてしまう。この本はこうした常識を覆してくれる。答えはここには書かない。みなさん自分自身で考えてください。参考資料を用意しますので。資料1 資料2 資料3 資料4 資料5 資料6 資料7 資料8 資料9 資料10こんなのもあります。6月16日の日記のテーマに合っています。資料Aこうした現象は自然科学に限ったことではない。少年犯罪が起こると多くの人は早く回答をみつけて安心したいと考える。そして「映画が・・・ネットが・・・」と「犯人」を見つけてそれ以降のことは考えない。思考停止状態になる。これって何か間違っていないだろうか?「キリンの首はなぜ長い」という質問は、こうした現代にある問題まで考えさせてくれる。今回の教訓は「答があってもまず疑ってみるべきだ」「結果も大切だがその結果を出すプロセスもまた大切だ」「答を見つけるには時間がかかる場合もある」ということだ。答を焦って出す前に、もっと考えよう。何かを見落としているかもしれないよ。
2004.06.18
スタートレックはやはり映画だろう。2作目では「多数は少数に優先する」という大きなテーマがあったし、「コバヤシマルテスト」に対するカークの回答も面白かった。4作目の「故郷への長い旅」では環境問題を扱っている。日本人には鯨がテーマになっているので多少肩身が狭いかもしれない。しかし泳いだり、シーフードを本気で嫌がるスポックとか、コンピューターに話しかけるスコットとか古いファンにはたまらない内容になっている。個人的には脇役だったズールーの活躍は見逃せない。6作目だったかカークたちをエクセルシオの艦長として助けに行く場面はカッコよかった。いつでも冷静さを失わず、セリフにも上品さがあった。あのエクセルシオ嫌いのスコットでさえ彼を誉めたくらいだ。たくさんのシリーズがある中で、やはり最初のシリーズが一番印象深い。DS9なんかタイトルが「スタートレック」なのにぜんぜん旅をしない。ファンの間からも「失敗作」との声が出ている。だから途中からデファイアントを出して戦闘シーンを増やしたのだろう。これでは単なるSFにしかならない。最初のテーマを思い出してほしい。長く続いたTNG(ネクストジェネレーション)もいいが途中から見るファンのことを全くといっていいほど考えていないのはいただけない。専門用語の連発で、これではファンとケンカしているみたいだ。発案者のジーンロッデンベリーが見たら嘆くかもしれない。彼は今も宇宙空間から我々のことを見ているよ。(彼の遺言に従って遺骨は宇宙空間に散骨された)
2004.06.17
今日はいつもとは違ったテーマの日記になります。天国とキリスト教について書きます。先日ある人の日記で「天国」について書かれたものがあった。ドラマなどである「きっとお父さんが天国で・・・」という台詞について、「本当なのか?」と疑問を投げかけていた。殺伐とした世の中にあって、この日記はいい点に目をつけていた。私はこの疑問に興味があって逆の立場からこうコメントした。私は(死者が)天国にいると信じます。というか天国とは「死んだ者が行くところ」ではなく、「死者を送った者が信じる場所」ではないかと考えるからです。送った者が信じるなら死者は天国にいます。問題は信じているか否かなのです。嘘でもなんでもいい。信じたい者がいるならそれでいいではありませんか?(カッコ内は後から足したこの日記のみの注釈です)この考えに賛同してくれる人もいたが、全く違う考えの人もいた。これは仕方のないことだ。誰も天国を知らないのだから。だが、今でもこの考えは何も変わっていない。NHKで放送されていた人気海外ドラマに「アリーマイラブ」というものがある。シカゴにある弁護士事務所を舞台にしたものだ。この中で「私はサンタクロースだ」(実は彼の娘は弁護士だ)という人がいて、訴訟になる。裁判所でこの人は「信じるなら毎日がクリスマスだ」と言う。実はこの台詞はある有名な詩の一部だ。ドラマでしか考えられないようなくだらない訴訟と言ってしまえば簡単なことだが、私はこの「信じるなら」ということがとても大切に思える。信じるならそこに天国はある。当然目には見えない。信じる人の中にしか存在しない。それがたった一人でも、その一人のために天国は存在する。息子を亡くした人がこう言った。「戻ってこないところを見ると、きっといいところなんでしょう」ものは考えようである。こんな言葉は一流の哲学者が考えてもなかなか言えまい。また、天国について考えるなら、「いつでも会える」(菊田まりこ)を推薦する。絵本ではあるが、哲学的な内容をうまくまとめている。涙もろい人は号泣必至である。私は昨日の日記で「疑うこと」について書いた。私は今もキリスト教を信じてはいない。キリスト教は地動説を訴えた天文学者のブルーノ(イタリア)を火炙りの刑にした。理由は簡単。地動説はキリスト教にとっては都合が悪いからだ。だから「異端者」を殺す。命は大切ではないということだ。そこには「言論の自由」はなく、キリスト教の大原則である「許すこと」はなかった。進化論の提唱者であるダーウィンに対しても弾圧を加えた。そこにも「許すこと」は実践されなかった。ダーウィンの進化論が何でも正しいとは言わない。このことについてはまた別に語ることがあるかもしれないが、少なくとも彼の持論は科学にとっては「叩き台」にはなった。「言論の自由」はキリスト教の存在とは別に存在しなければならない。信じられないのはキリスト教信者にこれらの事を聞くと、歴史的な事実にもかかわらず、こうした弾圧をほとんど知らない。「良い面」ばかりではなく「暗い面」も見て欲しいものだ。事実は事実なのだから。キリスト教は確かに人の心に安定をもたらしただろう。その存在価値はある。しかし考えて欲しい。あのイラク戦争をしたアメリカはキリスト教の国ではないか?なのにイラク人に対する虐待事件まで起こしている。これはどうしたことか?イスラム教徒は「異端者」だから何をしてもいいのだろうか?CBSの報道によれば、キリスト教会では性的虐待が絶えないそうだ。「このままでは裁判による巨額賠償金で教会の存続がが危うくなるのではないか」とまで言われている。こんな文章もありますこれでは「ゲルマニウムの夜」(花村萬月)とその続編「王国記」の世界そのままではないか。こうした事件に対して、どうしてキリスト教信者は「自浄努力」をしようとはしないのだろうか?まさかキリスト教を宣伝する時だけ「聖書は世界で一番売れている」ということを言い、「アメリカで起きていることは日本には関係ない」と言うつもりではあるまい。だから私は今も「キリスト教は危険な宗教」という認識を変えてはいない。キリスト教に限らず、宗教は一歩間違えると大変なことになる。人の命など簡単に奪ってしまう。今までも何回そうしたことがあったか。ただ、信じる自由はある。「信じるな」と言うつもりもない。「少なくとも私はキリスト教を信じない」というだけの話だ。先日、村上宣道さんの話を直接聞く機会があった。この人は有名な牧師さんだそうだ。 なるほどこの人なら信用できそうだ。そう感じさせる言葉の力強さがある。しかし彼が言った「すべての問題はキリスト教に答えがある」というのは傲慢ではないか?年間3万人以上の自殺はともかく、年金問題までキリスト教で解決できるというのは私には信じられない。キリスト教信者は本当のこうしたことを信じているのだろうか?だとしたら私の目には「おめでたい人」にしか見えない。こうした点を村上さんに質問したいが忙しい方らしいので、それは無理だろう。残念だ。この方にはメールを出したので、必要があれば返信が来るだろう。信じることは大切だ。しかし盲目的に信じているとしたら、そこには危険な香りがする。信じるのも時と場面によるのか?ここからが結論になる。信じることは大切だ。しかし信じるだけではだめだ。つまり「いい面ばかりを見ていたら、成長はない」ということだ。キリスト教関係者には、是非この点を肝に銘じて欲しい。私は天国はキリスト教徒は別に信じる。それは祖母が今でもそこにいると信じているからだ。
2004.06.16
お知らせ。掲示板は再開しました。また荒れるようなら閉鎖します。長崎の事件だけではないが、あらゆることについて疑うということは大切なことだ。「国がやっていることだから正しい」などと言う人は最近は減ったようだが、それでもまだまだいる。長崎の事件でも今被害者の写真や実名報道が必要なのか?マスコミを疑ってみることは無駄ではないだろう。もっと疑ってみるならば、そもそも報道は事件の解明に役に立っているのだろうか?このことを後になって検証する人は少ない。考えてみて欲しいが、神戸の連続殺傷事件や、今回と同じ長崎での幼児殺人事件など、その後の事件防止に報道は何か役に立っているのだろうか?下手に報道した結果は個人情報をばらまき、「報道被害」を作りだすだけだったりもする。実際のところ「事件は単なるテーマ」でしかないように感じるのは私だけではないだろう。これは報道だけではない。教育の現場では何か過去から教訓を得て事件の防止ができたのだろうか?私は断言する。ほとんどの報道は役に立たない。ただ単に「売れるから」ということのみを見ている。売れもしなかったら単なる無駄だ。こうした人たちに「報道の自由」「表現の自由」を与えてもいいのか?是非疑ってみてほしい。報道関係のみなさん。あなたの伝えていることは何か事件の防止に役に立っていますか?自分自身を疑ってみてください。そして報道を疑ってみてください。加害者の個人情報流出も止まらない。どうにかならないものか。最終的には疑った先に信用は可能だと考える。大切なことは(以下秘密日記)
2004.06.15
もう手がつけられない。どうして個人情報に群がるのか?理由は一つである。(以下秘密日記)
2004.06.14
今日は長崎の事件について報道の面から書く。新聞各紙(6月13日)には、こんな記事が掲載されていた。被害者の父親が「勝手なこと」と前置きしてこうコメントしたというのだ。「もう名前や写真を出さなくても、ニュースや記事として成り立つのでは」すでに報道されているので多くの人が知っていることとは思うが、この父親は全国紙の支局長をしている。つまり「勝手なこと」というのは「親であると同時に新聞社勤務である」という板挟みになった心境を語っている。ここで「もし自分の娘でない人が被害者だったらどう報道するか?」ということをこの方に責めるのは酷であるし、意味はないと考える。だからこそ考えて欲しい。テレビ局関係者、新聞記者の方の中には同じくらいの子供がいる人もあるだろう。またもや「想像力」の問題だが、もし自分の子どもが殺された場合でも、今後も被害者の写真を出し、実名報道するだろうか?その意味は「売れるから」「注目されるから」という意外にあるだろうか?今回の事件は報道する意味はあるだろう。しかし「報道のやり方」についてはもう一度考えて欲しい。それでも今後被害者の写真を出し、実名報道しますか?その報道に意味はあるのですね?被害者が自分の子どもでも今後も写真を出し実名報道しますね?それが今後こうした事件の防止に本当に役立つのですね?
2004.06.13
またもやこの話題。 長崎の事件での「暴言」についてだ。私のところには多くの賛同者から激励のメッセージが来ているが、まだまだ理解できない人もいるようだ。残念ながら。同じ内容のの投稿を30回以上もする方がいるので、安全が確認されるまで、掲示板は閉鎖したままです。この場を借りて激励していただいた方にはお礼を言います。ありがとうございます。言いたいことがある方はメッセージでどうぞ。あまりにメッセージが多いのですぐに消しますが、一度は読みます。別に「すべての人が私と同じ考えでなければならない」というつもりはない。どうしても理解できない人もいるだろう。しかし何度読んでもあの「暴言」はあまりにひどい。どんな理由があろうとも加害女児に「よく頑張った」「ブラボー」などという事が許されるわけがない。そしてその暴言を注意できない人たちも私を失望させる。何度でも言う。これでは凄惨な事件はなくならないし、いじめもまたなくならないだろう。どうしてあのような暴言を表明してしまったのか?それは事件の加害女児にも通じる、「想像力のなさ」でしかない。加害女児は事件後に「謝りたい」と言ったと報道された。多くの人は「謝るくらいなら最初から事件を起こさなければいい」と考えるだろう。人は一年後、二年後のことは想像できない。しかし今日、明日のことは想像できる。だからこそ多くの人は人を憎んでも殺人者にはならない。加害女児がせめて一日後のことを考えていたら、事件は起こらなかっただろう。少なくとも今回の事件の結果と「加害者の自殺」を単純に比較するなどということは論外だ。どうして「自殺か殺すか」という単純な二者択一論になるのか、私には理解できない。そもそも「自殺を加害者が考えていたかどうか」もまだ明らかにはなっていないだろうに。今回の「暴言」にも同じことが言える。つまり「この文章を被害者家族が読んだらどう思うか」という点がすっかり欠けているからだ。被害者家族が読まなくとも、こんな暴言は表明すべきではない。これもまた「想像力のなさ」としか言いようがない。私は誰かとは違って「暴言」と「殺人」を同列には語りたくはないが、共通点はあると私は考える。もう一度「暴言」を読んでみて、もう一度考えてほしい。あなたの目で。考えてほしい。あなたの頭で。とりあえずこの話題は終了しようと考えます。あちらの対応次第ですが。また30回も連続投稿したりして。もう面倒になってこのホームページそのものを閉鎖するのもいい考えかもしれません。そうしたら喜ぶ人の顔が目に浮かびます。理解できない人とは話しても無駄です。今後はこうした暴言がなくなるように願います。いつのまにか20000ヒット。嬉しくもあり、悲しくもあり。
2004.06.12
まだわからないかわいそうな人がいるようなので、改めて言う。長崎で起こった事件での「暴言」は許さない。人には言っていいことと悪いことがある。これは「考え方が違う」という問題では決してない。ここ数日このことについて多くの意見をもらった。「相手にしないほうがいい」というものもあった。しかし「暴言」を放置したら今後は「暴言」がなくなるわけでもない。放置は解決にはならない。「勝利宣言を出せばいい」という意見もあった。しかし私は弁論大会に出ているわけではない。勝った負けたという目先のことが大切なのではない。逆に「りゅうちゃんの言うことが正しい」という激励も多くいただいた。ありがたいが、「暴言」に気がついた人は、どうか私に任せないで自分で注意していただきたい。私からのささやかな願いである。*****************************************************こんなコメントが来た。>最悪の事態は免れたのだからね。 いじめ自殺といじめっ子を殺してしまうのと、どちらが最悪だ? 俺は、自分が死ぬよりも、他人を殺してでも生きる方が生き物として誠実な生き方だと思う。そういう生き方を神に恥じることもない。つまり殺人事件が起きてもそれは「最悪の結果」ではないと言うのだ。この「屁理屈」には怒りもない。呆れるだけだ。そしてどこから「自殺」ということが出てきたのだろうか?彼は「自殺と殺人」を天秤にかけているようだが、その根拠はあるのだろうか?また、「殺すこと」が「誠実」だとも言う。これも暴言だ。「どちらが死んでもいけない」これが常識的な考え方ではないか?お里が知れるね。今後、投稿は予告なく削除します。***************************************************その後、私の言うことが正しいと判断される方が複数あらわれて、私自身が以前日記に書いた「ソドムとゴモラ」の意味を再び知ることになった。この世にはまだ救いがあった。そして私は救われた。賛同してくださった方々に、この場を借りてお礼を言います。本当にありがとう。******************************************************さて、それでは話を一歩進めよう。どうして「暴言」が発生するのか?また、どうして「暴言」を注意する人がなかなか現れないのか?答えは簡単。多くの人は「殺人事件は怖い、嫌だ」と思ってはいても、それ以上のことは考えない。だから事件そのものも防げない。事件について何が語られただろうか?ひどくなると「ネットが・・・映画が・・・」と、下らない「犯人探し」に躍起になってしまう。要するに「事件を真剣に考えてはいない」ということになる。学校関係者も結局はサラリーマンだ。「自分のところだけは事件を起こさないでくれ」と祈るしかない。今まで考えてこなかったのに、急に「命の教育をしよう」と言っても手遅れだ。やるならとことんやらねば。どれだけの人が真剣に事件のことを考えているか?私には大きな疑問でしかない。
2004.06.11
今日もこの話題。長崎の事件が「悪口」を動機としているか否かは私にはわからない。事実が明らかになるのはこれからだ。もし明らかになるならば。私は仮定の話は得意ではない。しかし昨日私のところにいじめにあっているという小学生から投稿がきた。いじめが今日あるのも残念ながら事実だ。私は教育には素人だ。「どうしたらいい」ということは無責任に言うべきではない。しかし「自分が今小学生ならこうする」ということなら言える。私なら「じたばたする」そして「相談する」のがいいと思う。「もういじめが嫌だから死のう」と考えるなら、何でもできるはずだ。近くにいる人に「自分はいじめにあっている。もう死にたいがどうしたらいい?」とじたばたして聞こう。この「じたばたぶり」こそが大切だ。「そんなことできない」という人もいるだろう。ならば相談しよう。ここにいる先生に相談しよう。きっと君の悩みを聞いてくれる。信用できる人だ。ここをクリック 私が考えるのはこんなことです。死ぬことも殺すことも人間はやろうと思えばできる。しかし殺したものは生き返らない。ならば「じたばた」してみよう。「悪口」や「いじめ」をしている人へ。あなたの言葉が人を殺すかもしれないと思ったことはないでしょうが、人を殺すか否かは別にして言われる人の身になってみましょう。悪口を言われて爽やかですか?気持ちいいですか?自分が言われたらどうですか?そんなこと考えたこともないですか?私は「悪口を言われたから殺す」ということは許さない。人の命と悪口は重さが違いすぎる。しかし私は同時に悪口も許さない。ここ数日の私の日記に対する反響からわかったことがある。話題になった「バカの壁」は正しかったということだ。「話せばわからない」が教訓になった。ありがたいことだ。この国には「表現の自由」があるが、「暴言の自由」も同じくあるらしい。今回の「暴言」は勉強になる。いい教材だ。その後の「暴言を発した人」の言い分を聞いていると、彼らにはまったくと言っていいほど反省がないのがわかる。大変珍しい種族である。そして「暴言」を注意する人もまた稀な存在だ。このままでは暴言があっても注意する人は滅亡してしまうんだろうなあ。また、「自分は注意する人を応援するが、自分では何もしない」という人にも失望する。何だか闘牛の牛にでもなった気分だ。私は人間なのだが。「自分は参加しない。でもあなたはがんばれ」と言われても・・・・人には人の事情があるのだろうが、自分が「バカを見る」のに疲れた。確かに誰も傷つきたくはない。しかし人にばかり期待するのもどうかとは思う。正直な感想だ。あなたはどうですか?今はこんな気分です。智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
2004.06.10
今日も長崎の事件について書く。私としては少しこの事件から離れたかったのだが、昨日のような「暴言」があるのでは放っておけない。(気になる人は昨日の日記を読んでください。)事件の原因が何であるか?その深い部分はまだわかってはいない。この解明には時間がかかるだろう。今言えることは多くはない。そのひとつが「今、被害者家族にむち打つようなことはやめるべきだ」ということだ。これは実に簡単だ。どうしてこんな簡単なことができないのか?私は理解に苦しむ。昨日のような「暴論」が何の役に立つのだろうか?重ねて言う。こんな「暴論」がまかり通る世界では、凄惨な事件はなくならないだろう。多くの人は被害者家族を悲しませるような「暴論」を放っておかないと信じたい。この件では以下のようなご意見をいただいた。>同じコメントが14来ているというのは、「書き込む」のボタンを押した時に更新がうまくいかず、何度か押しているうちにそうなってしまうこともあります。それを「荒らし」とばっさり言うのは、短絡的でいささか意地が悪いかと思いますよ、オレは。知らないというのは怖いことだ。私はこの14本以外にも20回以上の削除をしている。みんな同じ内容の投稿だった。果たして「更新」がうまくいかなかったくらいでこうなるものなのだろうか?一度や二度ではない。実に30回以上も更新のせいでこうなるのだろうか?そしてこれでも「荒らし」ではないのだろうか?コメントするなら内容を確認してからにしてほしいものだ。どっちが短絡的なんだか?知らないというのは怖い。見当違いの指摘もほどほどにしてほしいものだ。 もう一度昨日の日記を読んでほしい。そしてあなたの目で「暴言」を確認してほしい。こうした「暴言」が一日でも早くなくなることを望む。
2004.06.09
今日は長崎の事件には触れないでおこうと思っていたが、無理のようだ。一部の日記にはネットで「悪口を書く」ことが「殺す」ことと同列であるように書かれているが、本当にそうなのだろうか?仮にネット上での悪口が原因で殺人が行われたとしての話だ。これを書いた人は『殺人は許されないが悪口もひどい』ということが言いたかったのだろうが、これではどう解釈されても仕方ない。『加害者の児童に対して、やったことは正しくないけれど、「よく頑張った」とエールは送りたいですね。』『イジメられて、我慢するよりは相手を殺してもいいと思うんですよ。』などということまで言う。これって私には「暴言」としか受け取れない。掲示板は誰でも見られるものだ。だから被害者家族も見ようとすれば見られる。もちろん今は家族を失ったことで頭がいっぱいになって掲示板など見ないかもしれない。しかしここで考えてほしい。もし被害者家族がこうした発言を見たら、読んだらどう思うだろうか?「うちの娘は殺されても仕方なかった」と考えるだろうか?私は訴えたい。どうして誰もが読むことのできる掲示板にこのようなことが書けるのだろうか?ネットとはこのように被害者家族が読んだら無情を感じるような下らない使い方しかできないものなのだろうか?何故自分にしか読めない部分に書かないのか?そのくらいの「情」すら持ち合わせていないなら、こうした凄惨な事件は永久になくならないだろう。「悪口をネットに書く」ことと「悪口に怒って同級生を殺すこと」が同じだとは私は考えたくはない。*******************************************************「供述をいくら聞いても、トラブルの程度と犯行の重大性が結びつかない」 県警幹部はしきりに首をかしげる。30年以上、事件を見てきた中で「一番の謎」と言い切る。「幼い容姿、話しぶりから考えても、あんな残虐なことがなぜできるのか……」(yahooニュースからの抜粋)*******************************************************私にはこれが一般的な考え方であるように感じられる。私は間違っているんだろうか?よく考えてほしい。「悪口を書く」ことが「殺す」ことと本当に同列なのだろうか?これでは「悪口を書かれたら殺す」ことにしかならない。私の感覚がおかしいのだろうか?(ここからは差別の話)何年か前のこと、私は世界遺産であるルアンパバーン(ラオス)にいた。タイの国境から船でメコン川を二日かけて下り、疲れてこの地に着いた。ここでインド帰りの日本人男性と神戸の大学生、二人の在日韓国人女性(韓国語は話せず)と夕食後に話した。話が「差別」になった時、少し熱くなった。こんな話だった。今でも日本に差別はあると言われている。被差別部落に住んでいる人は結婚や就職で調査されて不当な扱いを受ける場合があると聞く。もし自分の婚約者が結婚間近になって「実はうちは被差別部落で・・」と打ち明けられた。こんな時にはどうする?インド帰りが「そんなもの、結婚するよ」という。私も自分はそうすると信じたい。そこで条件を少し変えてみた。もちろんこれは架空の話である。あなたは婚約者がいて、やはり結婚前に婚約者から「私の家は実は被差別部落で・・」と打ち明けられた。あなたは構わず結婚することを決めた。「自分はこの人を守る!」と決意してだ。ところがあなたには妹がいて、彼女もまた結婚を控えていた。妹の相手は名門で、あなたの結婚話を聞いて相手について調査した。すぐに相手が被差別部落の出だと言うことがわかった。妹の相手家族は怒ってすぐにあなたに対して別れるように言った。執拗な反対があり、「すぐに別れなければ妹の結婚はなかったことにする」とまで言い出した。あなたならどうするだろうか?「自分が強ければ差別なんてない」と言える場合だけではない。この問題は根深い。差別は今でもあると聞く。学校でも「寝た子を起こすな論」(授業で差別を取り入れると逆に差別が広がるから触れないほうがいいという考え方)というものがあり、教育現場では持ち出さないようにしている教師もいると聞く。あなたならどうしますか?私は今も考えていますが答えが出ません。*何度も言いますが、この話は架空です。ただしモデルとなったのはデュマフィス(「三銃士」の著者アレクサンドルデュマの息子)の「椿姫」です。興味がある人は読んでみてください。また、こんな調査もあります。ここをクリック**私は決して部落問題には詳しくありません。誤りがあればご指摘願いたいです。今日もまたこんなこと書いて非難必至である。しかし少しでも差別について考えてほしい。
2004.06.08
また長崎での事件について書く。「もう議論は出つくした」「結論は出ている」と言う人がいたらその人に聞きたい。同じく長崎の幼児殺人事件から、何か変わったのだろうか?事件は防げなかった。結論どころか話し合いはこれから始まるし、「事件の予防」という面から考えれば何も前進はないのではないか?簡単に言うと結論は二つしかない。こうした事件が再び起こるか、起こらないかだ。未来はどちらになるだろうか?どちらだと思いますか?この事件を数字で見るのもいただけない。少年犯罪が増えているか否かという問題はこの際置いておかないか?結果がどうであっても「ああそう」としかいえない。数字で事件を見ることによってその深い部分が語られないとすれば、それは大きな損失だ。死んだのが一人だから、二人だからという話には意味があるのだろうか?問題は「事件があったかなかったか」ではないのか?もう一度言う。話し合いと結論はこれからだ。
2004.06.07
このあいだ「報道ステーション」で民主党の岡田新代表が出演していた。古館アナは盛んに年金改革関連法案採決を阻止すべく「秘策」を岡田から聞き出そうと躍起になっていたが、国会がショーではないことを、古館は知らないようだった。古館はとても見苦しかった。視聴率が取れないのでどこかネジが飛んでしまったかのようだ。大事なのは民主党の「秘策」なのか?それとも法案の内容か?国会は議論する場所であり、ショーなら「シルクドソレイユ」が見せてくれる。岡田もどうして出演したか私にはわからない。頭がバーコードになったようなオヤジ達の見苦しいドタバタ劇を、そんなに見たいのだろうか?「秘策」に注目するのではなく、「中身」に注目しよう。ニュースは中身に注目させよう。ニュースでも「本質は何か?」という点から離れているように感じる。古館はもういい。選挙権がある人は参議院選挙でその力を見せるしかない。誰かが言っていたが、「マイナスの投票」というものがないだろうか?落選させたい人が多すぎる。
2004.06.06
長崎の事件で、いろんな意見が出た。しかし「議論は出尽くした」ということにはならないだろう。思い出してほしい。長崎ではビルの屋上から子どもを落として殺した事件があったのではないか?あの時この問題を語ろうとしたらある方から「専門家に任せればいい」との意見をもらった。ところが今回の事件は起こった。事件は防げなかった。またある方からは「少年事件が増えているということはない」との意見ももらった。今でも「増えている」という人と「増えていない」という人がいるが、そんなのは私にとってはどちらでもいい。ただ現実として長崎では今回のような事件が起こった。問題は数字ではなく、「事件があったかなかったか」ではないだろうか?誰か「死んだのは一人だから問題は小さい」などといえるのだろうか?言えるとしたら反戦映画「西部戦線異常なし」の世界だ。意味のわからない人は是非観てほしい。3日の追記と同じようなことを再び書くが、この事件で少年法の改正が安易に行われないように私は強く望む。思い出すのは死刑論争だ。死刑の存続と廃止の議論ではどうしても感情的になり、特に死刑存続派からは残虐な刑を望む声が出ている。ネットでは特にひどく、まるで魔女狩りのようでもある。正直「殺せ!殺せ!」の声は聞くに堪えない。少年法でも最終的には改正されるかもしれない。しかしその過程には感情的ではない部分が必要にもなる。映画「十二人の怒れる男」のように、我々は話し合うことが出来るのだろうか?小学生が同級生を殺すのも怖いが、事件の反動も怖い。今はそんなことを考えている。
2004.06.05
それは中学3年の時だった。K君が些細なことからカッターを持ち出し、T君の足(大腿部の裏側)に刺してしまった。私は刺したすぐ後になって現場に来たので何がどうなったのか理解ができなかった。私はすぐに救急車を呼ぶべく大声を出したが、H君が「騒ぐな!」と言って怪我をしたT君を両側から支えて保健室に行った。幸い怪我はそう重くはなかったのだ。私にとって長崎の事件は決して他人事ではない。今でも救急車を呼べばよかったと思っているし、それ以上に黒い制服のズボンが裂けてT君の足から血が出ていたことを思い出す。一歩間違えれば、長崎の事件は目の前で起こっていたかもしれない。今回の事件についていろんな人がいろんなことを言っている。命を大切にする教育に限界もあろう。しかし「諦め悪く」言い続けることが何より大切ではないか?また、「原因から見た結果の想像」も重要ではないか?今回の事件では加害者となった少女には「殺意」があったと言われている。だがその後の報道では「反省している。謝りたい」と言ってるとも伝えられている。つまり加害者少女は「一日後、二日後の世界」を想像できなかったからこうした事件を起こしたと言えるのではないか?殺すことは考えていても、殺した後のことは考えていなかった。刃物を手にした段階ではその武器と化した物体がいかに相手を傷つけるのかが想像できなかったりする。実際に大量の血を見たこともないだろう。だから後になって失ってしまったものの大きさに驚く。自殺が犯罪でないのは自殺権説(自殺者には自殺する権利がある)と、自殺者無能力説があると言われる。自殺者は飛び降りの場合、死ぬ覚悟をして飛び降りたにもかかわらず、途中で岩などに引っかかった時には「助けてくれ!」と叫ぶという。つまり正確な判断ができなかったと言うことだ。加害者少女が無能力だったかどうかは異論があるだろうが、この二つは何か関係があるのではないか?今はそう考えている。こんなこと考えるのは私だけかもしれないが。遅くなったが犠牲者の冥福を祈る。合掌。追記 どこかで加害者となった少女の写真が出回っているらしい。悪趣味もいいところだ。こうした下らんことをする人がいる国では、凄惨な事件もなくならないだろう。(泣)何度でも言う。ネットの世界は悪意に満ちていて、いつも「生贄」を探している。恐ろしい世界だ。加害者少女の写真を見たいですか? 見て楽しいですか?追記その2こんな発言もある。これって本当のことなんだろうか?大臣の人間としての資質が問われる。怒る前に呆れる、笑う(泣)。井上喜一防災担当相は4日の閣議後記者会見で、長崎県佐世保市の小学校で起きた女児殺害事件について、「元気な女性が多くなってきたということですかな、総じてどこの社会も」と発言。(時事通信 yahooニュースから抜粋)
2004.06.04
長崎で起こった事件では、ネットの書き込みが原因ではないかと言われている。私はここで「犯人探し」をするつもりはない。人はいったん手に入れたものを手放すことができないから、「ネットを廃止しよう!」とここで訴えるのは無理があるし、現実的ではない。しかしそれでもネットが悪意に満ちていることには変わりない。匿名が基本のネットでは、必要以上に「バカ」「死ね」などの言葉が相手に突き刺さるし、言葉を発した方も深く考えていない。ネットがあることで、確かに便利にはなった。しかし同時に弊害も出るようになった。ネットは今後どうなっていくのだろうか?ネットをうまく使っていますか?***********************************************************追記 今回の長崎の事件で加害児童の個人情報がネット上で流れないよう、強く望む。顔写真なども望むものがいるから面白がってネット上に出る。また、事件の作用が強く出て安易に重罰(少年含む)を望む風潮が出ることにも危惧する。厳罰は問題の根本解決にはならない。犯罪を犯した少年の情報を無制限に出すのも私は賛成できない。他の日記では「オウムの元教祖だった男の娘が大学に入学を拒否された。『合理的な差別は許される』と考える。」(Bruckner04さんの日記から)との意見が見られたが、私はこの意見にはまったく賛成できない。何故なら、オウム元教祖の娘は自分が犯罪に関わっているということではないからだ。そのため、東京地裁では彼女に学生としての地位を保全する仮処分決定を出している。「犯罪者の娘なら差別されても仕方ない」何てことになったら、それこそ法の支配の下から逸脱した社会になってしまう。従って私にはこの意見がまったく納得できない。行政が「差別は不当」という裁判を起こしたかどうかではなく、裁判そのもので「差別が不当」と判断されたら、その判決については意味を持つ。これは当たり前のことだ。今回の事件での教訓が「憎しみ」だけなら、それが最も悲しい結果だ。*******************************************************今日も批判必至だ。
2004.06.03
佐世保での凄惨な事件に、もう驚かなくなっている自分がいた。小学生が小学生を殺す。小学校も安全な場所ではないということか。人は人を殺せる。しかし一度殺してしまった者は再び戻らない。自分には何ができるのだろうか?少なくともここで叫ぶことはできる。誰も殺すな!武器を持つな!いくら憎くても、殺す他にも方法はある。佐世保でも、イラクでも、パレスチナでも、とにかく殺すな!武器も持つな!武器で守れるものが何なのか、もう一度考えよう。私は誰にも殺されたくはない。誰も殺したくはない。人は間違える。怒りにまかせてとんでもないこともする。しかし殺すな!それが願いだ。簡単なようで、実は困難な願いだ。******************************************************(ここから更新)話は変わるが、ホームページめぐりをしてたら、イラクでの人質事件でのこんな意見が見つかった。「自作自演説」を一刀両断にしていてとても参考になる。ここをクリックところで人質事件を「自作自演」と主張していた人は最近見かけない。どこに行ってしまったのだろうか?インターネットの世界は常に生贄を求めているのだろうか?だとしたら悲しい世界だ。いつまでこんなことが続くのだろうか?
2004.06.02
今日は君が代と日の丸について書く。久留米市(福岡県)では小、中学校での卒業式、入学式で君が代の声量を調べているそうだ。国旗や国歌が法律で定められてから、いたるところで問題にはなっているが、このニュースは耳を疑う。愛国心を声の大きさで測るというのだろうか?声が大きいと「日本人としての誇りを持っている」ことになるのか? 日の丸掲揚の有無についても調査したそうだ。学校は何を考えてこうしたことをするのか、私には理解に苦しむ。まさかこうしたことは全国で起こってはいないだろうな?教育者は教育現場に日の丸、君が代があれば満足なのだろうか?愛国心は教育現場での「押さえつけ」によって生まれるものなのか?これが記事です
2004.06.01
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