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八王子市の鹿島地域で懇談会がひらかれました 4月27日(土)に、3回目となる鹿島地域の懇談会が開かれました。この会には5名が参加しましたが、望月しょうへい市議もきてくれて、懇談しました。おたがいの自己紹介からはじまって、鹿島地域で暮らしている中で日ごろ感じている問題や要望などが交歓されました。八王子市議会の動きを望月市議が紹介望月市議は、「八王子市議団ニュース」を提供してくれて、1月の市長選挙後の八王子市政と議会の動きについて紹介がありました。この中で、望月市議は、「市民の要求運動と市議団の共同が、実際に八王子市政を動かしだしているのを実感する」と感想を語っていました。具体的には、学校給食の無償化、子どもたちへの医療費助成、学校体育館へのエアコン設置、補聴器の助成などの8つの政策で、市民要求の新たな前進がはじまっていること。これまで、これらの市民の切実な請願は、議会で自民・公明により、否決されつづけてきたけど、市長選挙後に新たな変化の兆しがでていることが紹介されました。 これに対して、参加者から、八王子市政の具体化や進捗状況について、質問や要望、問題点などが交歓されました。〇「学校給食はいつから実施されるのか? すすみだしたのは良いことけれど、以前に住んでいた都心区ではとっくの昔にすすんでおり、それに比べると今の八王子市政の動きというのは40年くらいも遅れているんじゃないか」〇「学校のエアコン設置率が14%というのは、いまもそうした状況か。いつころまでにエアコンは設置されるのか。応急対策として各校2基の気化式冷風機を設置すると聞くが、すべての学校につくのか。東京都のエアコン設置の助成は、その期限が切れたときくが、八王子にも適用されるのか」〇「補聴器の助成はどこまですすんでいるのか。私が購入するに25万円もかかったけど、助成の具体化は切実になっている。購入だけでなく、メンテナンスなどの負担もたいへんで、アフターサービスについても具体化してほしい」〇「八王子は面積が広くて市役所に行くにも交通不便だ。モノレールの運賃も高いし、これにはシルバーパスが使えない。都心の地下鉄などの利便に比べるとたいへん不便で、これは三多摩格差の典型じゃないか。モノレール沿線の各市とも連携して、都知事選もあることだし、東京都に対してシルバーパスの適用と運賃値下げを大きく要求してゆくべきだ」〇「『市議会だより』の議員発言には、どうして発言議員の名前と会派が掲載されてないのか、これでは発言に対して、賛否の意見を言おうにも、その向けどころがない。八王子市議会の民主主義が問われる問題じゃないか」などの意見が出されました。高すぎる八王子市の国民健康保険税とにかく八王子市の国民健康保険税が高すぎる。7年連続増税しており、多摩26市で一番高い税率となってしまった。子ども二人の4人家族の標準世帯では、年収400万円に対して、国保税だけで58万5千円もの負担になっている。「均等割り」というのは、収入のない赤ちゃんまでも負担させるというもので、これでは事実上「子どもをつくるな」ということで、少子化対策との言っていることとやっていることが逆行している。「どうして、『値上げをやめて』との当然な市民請願を、自民党と公明党市議は反対するのか?その理由がわからない」との質問も出されました。また、「八王子から出ている自民党前政調会長・文科大臣は、いったい何をしているのか、これにどういっているのか」との疑問意見もありました。 「鹿島松が谷地域のまちづかい計画」鹿島・松が谷の地域の活性化対策についての質疑がありました。「鹿島松が谷地域のまちづかい計画」の報告書が、行政も参加して出されたそうだけど、この報告書はインターネットでしか見られず、少数の関係者だけしか知られておらず、とくに八王子市の端にある鹿島では、ほとんどの市民には認識になっていない。子育て、買い物、高齢化、団地の老朽化、交通などへの対応など、鹿島地域を活性化していくには、住民参加の計画が求められており、この点でも改善が求められている。などなど、さまざまな意見が交わされました。 これからも引き続き懇談会をかさねることにしています。
2024年04月30日
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八王子市鹿島で地域懇談会八王子市鹿島で、4月27日(土)に、3回目となる鹿島地域の懇談会が開かれました。この会には地域の5名が参加、望月しょうへい市議も参加してくれて、懇談しました。最初に参加者から、それぞれの自己紹介とともに、日ごろの暮らしの中で感じている問題や要望などが紹介されました。八王子市議会の市政報告望月市議からは、「八王子市議団ニュース」をつかって、市長選挙後の八王子市政と議会の動きについて具体的な紹介がありました。この中で、望月市議は、「市民の要求運動と市議団の共同が、実際に八王子市政を動かしだしているのを実感する」との感想を語っていました。さらに、具体的に、学校給食の無償化、子どもたちへの医療費助成、学校体育館へのエアコン設置、補聴器の助成など、8つの政策での、この間の新たな前進的な動きがはじまっていると、その様子が報告されました。これに対して、参加者から、八王子市政の具体化の進捗状況や、要望や問題について、質疑と意見が交わされました。〇「学校給食はいつから実施されるのか? すすみだしたのは良いことけれど、以前に住んでいた都心区ではとっくの昔にすすんでいる。それに比べると八王子市政の動きというのは遅れている。40年くらいも遅れているんじゃないか」〇「学校のエアコン設置率の14%の現状というのは、いま現在もそうした事態か。いつころまでにエアコンは設置されるのか。応急対策として各校2基の気化式冷風機をすべて設置するというのは、エアコンのある学校にもつくのか。東京都のエアコン設置助成は、期限切れといわれていたけど、おくればせの八王子にも適用されるのか」〇「補聴器の助成はどこまですすんでいるのか。個人が購入するには25万円もかかるわけで、助成の具体化は切実になっている。購入だけでなく、メンテナンスなどの負担もたいへんで、アフターサービスについても具体化してほしい」〇「八王子は面積が広くて移動するのに交通がたいへん不便だ。モノレールの運賃も高いし、シルバーパスが使えない。都心の利便に比べると不便で、これは三多摩格差の典型じゃないか。モノレール沿線の各市とも連携して、都知事選もあることだし、東京都に対して適用と値下げを大きく要求してゆくべきだ」などなどの意見が出されました。高すぎる八王子市の国民健康保険税とにかく八王子市の国民健康保険税が高すぎる。7年連続増税しており、多摩26市で一番高い税率となってしまった。子ども二人の4人家族の標準世帯では、年収400万円に対して、国保税だけで58万5千円もの負担になっている。「均等割り」というのは、収入のない赤ちゃんまでも負担させるというもので、これでは「子どもをつくるな」としているわけで、少子化対策とも逆抗している。八王子市民にたいし、この国保税負担のひどさを、あらためて知らせて、市・都・国のそれぞれに改善させるように、声を大きくあげたい。また、「どうして、値上げをやめての当然な市民の請願に対して、自民党と公明党市議は反対するのか?その理由がわからない」、などの意見や質問が出されました。「鹿島松が谷地域のまちづかい計画」また、鹿島・松が谷地域の活性化対策についての質疑がありました。行政も参加して「鹿島松が谷地域のまちづかい計画」の報告が出されたそうだけど、その報告書はインターネットでしか見られず、少数の関係者だけの理解にとどまっており、とくに端にある鹿島では、ほとんどの市民に知られておらず、その認識になっていない。地域を活性化するには、この問題でも事態の改善をはかるべきだ。など、さまざまな懇談が交わされました。引き続き、これからも懇談会をかさねることにしています。
2024年04月27日
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4月23日の小池晃議員の質疑は国民の声私などは、小田原のみかん園を手入れしているみかん農夫ですが。4月23日(火)、参議院予算委員会で行われた共産党・小池晃議員の質疑ですが、これは国民の声です。雨が降り出す前に、農家はひと仕事を済ませておかなければ・・・、これは当然のことです。その時間に行われた国会中継ですが、労働者・農民・中小企業者は、仕事中で見ていられません。当方も、4月25日に、インターネット中継で、その後追いで確認させてもらいました。参議院インターネット審議中継 (sangiin.go.jp)これで4月23日の参議院予算中継の小池質疑を見ることが出来ます。私などは、小田原から帰って、先ずはたまっていた新聞を読むんです。これが、今回帰京して、一番にとびこんできた事柄でした。今回の機会をのぞいて、日本の政界の政治の裏金問題について、襟を正す機会はありません。政権政党が、その全派閥が、その資金をどうやって、みずからが定めたルールにも反して、裏金をどのように集めていたのか、それが今、白日の下にあきらかにされたんです。当事者たちは、建前と本音で、発言とは裏腹に逃げ回っていますが。もしもですよ、この事実が、「わたしとしては知らない」とのことで、いいかげんにお茶を濁わされたら、どうなるか。これからの日本の社会で、そうしたことが一般に承認されるということです。日本は、今、その岐路にあるということです。だれであってもよし、このけじめを、しっかりと政治に通さなければならない、そのことが、今現在において、日本の政治に問われていることです。小田原のみかんの草取りと施肥から帰って、ポストにたまっていた新聞に目を通して、いそぎこの間に起きていた事態を追跡しています。その一番は、4月23日(火)の、参議院予算委員会での共産党・小池晃議員の追及でした。この小池議員の質疑ですが、日本国民は、たとえその時々はどんなに忙しかったとしても、この予算委員会の中継録画ですが、そのやりとりを確認しておく必要があると思うんです。今を生きる日本国民にとって、今を知るうえで一見に値すると思ったんです。私などが、先ほどですが、その録画をみての、その受けとめについてです一つ、小池晃議員の質疑には、無駄なところがないということです。政治家というのは、その答弁というのは手練手管で、質問をはぐらかす名人なんですが、岸田首相は、これまでも、今も、そのさえたる答弁ぶりだったんですが。小池議員は、そのはぐらかしを許さないんですね。岸田首相のはぐらかしの手口も天才的で芸術的なものですが、たいがいの質問者は、そうした答弁に翻弄されてごまかされちゃうんですが。もはや、政府答弁のごまかしの手口は、いっさい通用しないというのが、今回の小池質問でした。そうした質疑でした。それをぜひ確認して欲しいんです。二つは、その質問のやりとりの検証です。予算委員会の委員は、さまざまな会派の方たちがいるわけですが。音と姿。小池質問に対する、画面に映っている人たちの、一つ一つの反応です。「そうだ!」という声は、ふつうなら録画には音声というのは入らないんですが、ハッキリと伝わってくるんです。この声を、是非確かめてみてほしいと思うんです。同時に、まわりの予算委員議員の人たちのボディーアクションです。多くの委員の人が「そうだ!!」との、ボディーアクションをしているんですね。このことは、小池議員の質問というのは、党派を超えて多くの議員の人たちの、共通な主張だということです。これは、「言い逃れはなど許せない、これまでの真実をはっきりさせろ」とのまさに国民の声です。このことは、今の日本の政治動向にかかわってます三、同時に大事なのは、その質問の中身です。1、「岸田首相には、自民党総裁として、自身もかかわる特別な責任がある」。岸田氏自身の派閥も、会計担当者が起訴されているのに、自身の派閥については担当者の知識の単純ミスなどとして済まそうとしているところに、真相究明の実際が問われている。2、関係者の証言から森元首相がキーパーソンであることは明らかだけど。「電話できいた」「内容は明らかにしない」「質問時間もいえないし、同席者もいない」、これじゃあ実際を明らかにされたとはとてもいえないのに、『森氏は関与してない』との岸田首相の言明ですが。これでは、かっこづくりの、ありばいづくりでしかなく、こんなことでは誰も国民は納得しないと。3、加えて、政治献金と、それとみあう補助金支給の現実の問題です。どうして、くらしを押しつぶす軍事費の大増強が押しつけられるのか、どうして,地震大国の日本、東日本大震災も回復してないのに、原発推進を強行するのか、今の自民党政治が、どうして国民の声などといえるのか。食料・農家をどうしてかえりみないのか。問題は、具体的で、近代の諸問題は、この一点につながりますす。とにかく、この4月23日参議院の予算委員会での小池晃質問ですが、今の政治の、本質的な問題が、ズバリと見て取れる質疑であったと、私などはそう思います。それが嘘か本当か、是非とも実際のこの質疑の様子をみてほしいと思います。
2024年04月26日
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マルクス「ヘーゲル弁証法批判」17「自己意識の外化としての世界」、より道の2前回の発信ですが、マルクスはとどのつまりヘーゲルのどこを評価したのか?弁証法でした。しかし、それがもっている一面化の問題、そのための課題とは何か、ということでした。そもそもその弁証法とはなにか? この問題があります。この弁証法というものの理解の問題をめぐっても、いろいろな人が、その考えを、それこそ沢山の本になってだされています。私なども「ヘーゲル 歴史のなかの弁証法」として、冊子にしたんですが。さらに、今回の問題ですが。知人が前回の発信に対し感想を寄せてくれました。そのなかで、ヘーゲルの言っている「自己意識の外在化が物というあり方を定立する」とは、どういうことなのか?そのことを検討することと弁証法の問題とは、どのように関係しているのか?こんな問題がありました。ヘーゲルの表現というのは、私などの日常の言葉や文章からして、「なんじゃ、こりゃぁ???」となりがちなんですが。注意して読むと、私たちが日常に経験していることを、ヘーゲルはそれを哲学的に表現しているんですね。この場合も、「自己意識の外在化が物というあり方を定立する」とは、ようするに私たちが見ている外界の世界というのは、私たちの意識がとらえ・つくりだしているものだということです。それはそうですが、なんでそんなことが、今ここで大きな問題になるのか?との問題が問題なんです。このことをめぐって、マルクスは9文節(第24文節から第32文節)もの論評と議論を展開しているわけです。「素朴実在論」ということがあります。古今東西の認識は、カントやヘーゲルが問題にするまでは、外界の世界とひとの意識とは一致していた。意識は外界そのものをとらえているとの普通人の常識です。ところが、そこに「それは本当だろうか?」とカントからヘーゲルにいたるドイツの古典哲学は問題提起をしてるんですね。ふつうでは、「どうだっていいだろう、そんなことは」と済まされているんですが。ヘーゲルは、「自己意識の外在化が物というあり方を定立する」との見方を提起しています。私たちの見ている世界は、私たち自身の意識こそがそのように見ているんだ、と。では、世界は私たちの意識でしかないのか。そうした主観主義の唯我論との考え方もありますが、ヘーゲルは人の認識することを問い、自然を問い、哲学や歴史、法律や芸術や宗教といった、あらゆる分野をさぐってますから、「それは私の意識です」といっても、実在の対象をとらえようとしていますから、自己のことだけを問題にするたんなる唯我論じゃないんです。でわなんなのか?そこが問題です。そもそもこの「自己意識の外在化が物というあり方を定立する」が、それはどのような問題を検討する中で、そうしたことが問題になっているのか?ヘーゲルによれば、世界というのは人間の意識が対象としてつくりだしたもの、人がつくりだした世界というのは、自己の本質的意識とは違った、疎外されたものであり、個人の意識からしたらそれは疎遠な形である。理解しえないような、不本意な、巨大でなじみえないようなものとしてある。人はそのような形で世界をとらえている、ないしその姿をつくりだしている。それは個人にとっては、まぁたとえて言えば、私一人の力で車や時計をつくれといったようなものです。しかし人は歴史的な社会的力をもって、たしかにまわりの世界をつくりだしているとおもいます。弁証法の否定、規定はそれをつくりだしているわけですが、大事なところは、その疎遠なものというのはその人がつくりだしたものであり、同時にそのことは、その疎遠なものを人は自己のものとしてとりもどす面をもっている。この関係をヘーゲルは洞察しているんですね。そしてそれをマルクスは、偉大な業績として評価しているんですね。ヘーゲルもマルクスも言っています。「大事なことは、意識の対象を克服することであり、その運動なんだ」と。ヘーゲルは『精神現象学』で、その「序論」でもかさねて、実体というのは主体だと強調しています。「真なるものを実体としてではなく、同時に主体として把促し、表現することである」対象という実体は、人がつくりだしたものであり、それは取り戻せる、疎外された状態にあるのを回復することができる、「大事なことは、意識の対象を克服することだ」と。と強調しているわけです。そのことは、人間がつくりだしたものは、疎外された形にあるわけですが、それはその疎外された形を回復していく運動でもあると。なにか一種の精神論のように聞こえなくもないのですが、そうじゃなくてそれが弁証法の運動なんだ、と言っているわけです。そして、その一般性をヘーゲルは、ヘーゲル流に、『精神現象学』『歴史哲学』『法の哲学』『エンチクロペディー』などとして、個々にその論証を試みているんです。それを学んだマルクスとしては、「それは素晴らしい努力なんだけど、だけど、そのヘーゲル流のやり方(弁証法)には、一面的な誤りがある。人間の世界のあゆみについてもしかり」とみてとっていて、そのヘーゲル流の弁証法にはどこに一面性の誤りがあるのか、問題があるのか。その点を検討しているのが、今回のマルクスの『1844年の経済学哲学手稿』なんですね。ここでの探究というのは、そうした関係の中にあるわけです。したがって、一見すると素人の私などには、「抽象的で、どうでもよいようなことを、ゴタゴタと検討している」ように見えるんですが、そこには大事な大きな問題があるわけです。そのことは、疎外された今日の人間社会ですが、一般的、抽象的にみて、そこにも「いって、こい」「つくりだし、それを変えるとの弁証法がはたらいているわけで。そうした関係を解きほごして、疎外を克服することで、対象性をとりもどすことが出来る、そんな一般的な洞察が、ここにはあるというんです。それはあくまで一般的なレベルでのことですが、私などはそのように理解しています。しかし、これは過程としてあるわけですから、努力としてあり、運動としてあるわけです。ですから、安易に手軽な名著(真理)をなにか一冊読みさえすれば、すべてのことがわかるといった、そんなことじゃないんですね。このヘーゲルやマルクスの詮索していることの中身というのは、そうした内容をもっていると、私などは考えます。それは人類の大きな知的な成果であり、遺産だと思っています。今回も、やぶの中で捜査の道を見失わないようにとのことで、幕間での一つの整理であり、感想でした。
2024年04月26日
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御殿場線の旅東海道本線は、丹那トンネルが出来るまでは、御殿場線を通る道が本線だったことは知っていたんですが。その新東海道線が当たり前になっていて、御殿場線は知識の上だけでしか、知りませんでした。知人が山北に住んでいたので、わたしも50年前に国府津から山北までは行ったことがあるはずなんですが。遠い、昔の一度だけだったんで、まったく記憶がなかったんです。今回、「御殿場線を旅してみたい」とのリクエストがあって、小田原方面の関係者としては、案内するには下見しておく必要があったんです。今回、4月24日でしたが、天気予報どうり、朝から雨だったんで。畑仕事は出来きなかったんで、この機会に御殿場線を旅してみることにしました。午前9時10分国府津発の10時41分沼津着の1時間半の旅でしたが。これは沼津の駅前に、鉄道の歴史の記録として置かれていたものです。丹那トンネルが出来るまでは、丹沢から箱根・伊豆の山道をう回する線路だったんですね。国府津駅で客車の前後を蒸気機関車がはさむようにして、山道をこえていたんだそうです。この蒸気機関車が、引いたり、おしたりと活躍していたんだそうです。そういえば、昔は丹那トンネルの長いトンネルを通るときに、蒸気機関車のけむりがはいるから、窓を閉めるようにと、注意されたのを思い出しました。今は、旧東海道本線の御殿場線も単線となってます。1時間に1本くらいしかダイヤはありません、車両も2両とか3両なんですが、しかし立派に、いまでも活躍しています。インターネットの「御殿場線」をみたんですが、これが参考になりました。その昔の幹線のあとが、今にどう残っているのか、教えてもらったんですが。御殿場線は、特急列車もはしる東海道本線の大動脈だったんです。峠道を前後の蒸気機関車を助っ人にして、「なんだ坂、こんな坂」と、ぐんぐん押し上げていたんです。それにより西と東の日本を一つにつないでいたんです。赤字だ黒字だなんていう、損得の問題じゃなかったんです。その苦労した面影が、ポリシーが、御殿場線には、今にかんぜんな形で残っているんですね。ものみな、もうからないものは切りすてて、廃線にしちゃえ、といった今の風潮の中で、どっこい、旧東海道本線・御殿場線は、規模は縮小されたとしても、しっかりと残されているんです。これって、貴重な日本の近代史の歴史遺産だと思います。電車が、単線の勾配のある山道を登っていくなかで、そう感じました。御殿場からは世界が変りますそれと、もう一つ感じたことがあるんですが。御殿場を過ぎると世界が開ける。そして、沼津という街を再認識しました。同時に静岡県の全体が、歴史的な、人情的にもそういう存在なんでしょうが。第一印象はとっつきにくいけど、あたたかいおもてなしの心があるんです。確かかどうかは、まだ材料に乏しいんですが、間違いないと思います。それは私などの、遠い昔の記憶でもあるんですが。しかしいまの交通は、JR東日本と東海です。15両連結の電車が、三両連結の電車になっちゃうんですが、ひとつづきではなく、乗り換え時間待ちも必要で、しかも1時間に1本とか2本になっちゃうんですが。しかし、それはうつせみの世界です。そんなことで、人は変わりません。おそらく、それは徳川時代からつちかわれている文化といったもがあるとおもいます。街並みも、自然も、素晴らしい、一つの空間ですね。私などは、真鶴生まれなんですが。これまでは、自然と世界は東京に、東の方に向いてたんです。背中の側にあった伊豆とか、静岡の方面は、ほとんどまったく知らなかったんです。箱根を境にして東西の世界が違う、漱石の『坊ちゃん』でしたか、そんな話がありましたが。私なども、知らず知らずに、実際にそうなっていたんです。しかし、今回の御殿場線の旅で、関東の端に生まれた私でしたが、すぐ隣の世界をもっと知らなければ、井の中の蛙だったと、感じさせられました。いろいろな記憶がよみがえってくるんです。箱根山の向こう側には、素晴らしい世界が広がっていたんです。しかし、そこからの情報はなかなか伝わってこなかったもので。日本中が東京の方を向いていたような風潮にもあったんで。確かに意識してみれば、そことの交流は昔からあったんですが。しかし私などの意識はそれに疎かったんです。時流に流されたとの感じもするんですが。しかし、とにかく今回の沼津港での海鮮丼は、最高でした。以前に西伊豆の戸田でも感じたんですが、人に対するおもてなしですね。せこい観光ずれした一弦商売とは違うんです。これが暖かさの底流ですね。それと、この日は天気が雨だったんで、富士山の姿はまったく見えなかったんですが、御殿場線の「富士岡」「裾野」などの駅の名からして、おそらく、ほんらいなら富士山の絶景も見えるところじゃないかと、雲を見ながら、雲の彼方の富士山を想像しました。きっと富士山が見えたら、最高ですよ。今回のこの御殿場線の旅でしたが。私などは、すぐ隣に生まれ育ってきたのに、ちっとも意識しなかったけど、そんな世界が、すぐとなりにあったんですね。知らないというのは、まったくもったいないことでしたが、しかしまだ遅くはない。この土地柄と風土は、そんな大切なものがあると感じました。これまで、小田原のみかん園を紹介してきたんですが、機会をつくって、それと同じように、この方面の魅力も紹介すべきだ、と感じて。また一つ、新たな世界が、山の向こうにある魅力を開いてみせてくれました。
2024年04月25日
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マルクス「ヘーゲル弁証法批判」16 「自己意識が外化したものとしての世界」についていよいよマルクスのヘーゲルの『精神現象学』「絶対知」の論点に対する批判にはいります。ここからが問題ですが、ここで、道に迷わないよう歩いてきた道を確認します。一、これまでの考察をまとめてみると、ヘーゲル哲学の功績ですが、それは否定(することは、規定すること、うみだすこと)の弁証法をとらえたこと。それは、結果的な事実というのは、運動として、過程の成果としてある。しかしそれは、類的なもの(社会的な総労働)によっているわけで、個々の人には疎外された(疎遠なもの)としてある。自己も一員となってつくりだしているこの疎遠なもの全体をとりもどす。ヘーゲルは『精神現象学』の中でこうした思想(世界観)を打ち出した。しかし、そうしたヘーゲルの弁証法の成果を確認した時、そこには一面性の誤りがふくまれている。それを分析してゆがみを正すことで、弁証法を正確な姿にたてなおす必要がある。この歴史的な宿題があるというのがマルクスの課題認識です。その問題の中心的内容は、すでに、これまで学習してきたなかで提起されてます。二、今、ここで問題にしていることですがそうした結論をみちびき出しきた過程、すなわちマルクスが具体的に探究・検討した過程についてです。その成果とゆがみは『精神現象学』の提起の中に、とくに「絶対知」章の表現に典型的にでているとのことです。2つの点をとくに検討しています。1、「自己意識の外在化が物というあり方を定立する」(第24文節 全集P499)2、「対象の外在化と対象性を揚棄して、自分のうちにとりもどしている。すなわち他在のもとにおいて自身のもとにある」(第33文節 全集P502)わたしなどは「なんじゃ、こりゃぁ???」ですが。マルクスは、この二つのヘーゲルの見解について、とことん検討しています。そのことから、ヘーゲルの「ゆがみ」を正せたようです。まぁ、私などは、これからその検討をさぐろうとしているわけですが。三、これまで学習の回をかさねてきて、わたしなどが感じることですが。1、この「ヘーゲル弁証法批判」を検討にあたって、依然として達磨大師ですが、しかしポツポツとまわりある努力が見えてきています。しかし、人というのは謎の言葉が提起されると、自己流にそれを「解釈」したり、中身について自己流に「考案」しようとしがちですね。わからないとは言えないし、自分は理解しているんだとの自尊心もかかわっているようですが。そんな様子を感じます。まぁ、わたしなどは素人ですから、無知というのは当たり前で、すべては白紙の様なものですから、自分で理解できるところと、理解できないところを、なるべく確認するようにすることをもって、それで良しとしたいと思ってます。2、こうした問題を探究するのは、日々の諸々は忙しくて、仲間もなく、疎遠になりがちだと感じることもなくはないんですが。なにしろ、ヘーゲルは1831年に、マルクスは1883年に亡くなっていますから、今から150年から200年も以前の哲人たちの議論・探究です。日本では江戸時代末期から明治の日清戦争の頃でのことでして、とにかくむかしのことです。また、今日の現行憲法のもとで、「平和」を建前としつつ軍備の大増強に突っ走る、国民が主権者のはずなのに歪んだ政治によりおしつぶされている。選挙じゃないけど、木が沈んで石が浮かぶような、日々に世知辛くも、無茶苦茶な事態に直面させられているわけで、なんとも歯がゆい事態わけですが。しかしこの探究も、古今東西そのどこかで、こうした問題を正す力をつくることに、どこかでつながっていると思います。わたしとしては、周りの世界に注意を払いつつも、ここをすすめるということです。今回は、幕間の休憩でした。
2024年04月23日
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マルクス「ヘーゲル弁証法批判」15 新たな地平を刻んでます1844年に、24-5歳のプロイセン(ドイツ)の若ものが、ヘーゲル哲学と格闘した。そして『法の哲学』を、そして『精神現象学』の最終章「絶対知」を吟味せざるを得なかった。それらがヘーゲル『法哲学』の国法論批判であり、この『経済学哲学手稿』でした。今から200年近くの時をさかのぼる努力ですが、私などは「なんじゃそりゃぁ」などとおもいつつ、学んでいます。一、文章の基軸の理解が大切だと思うようになりました以前に読んだとき、マルクスはヘーゲル『精神現象学』の「絶対知」章のたった1ページを、8つのパートに分けて、なおかつ二項と六項の、たった二つの項を徹底して吟味しているのに驚かされました。『精神現象学』は大部なものです。しかし、そのたった一ページの問題を検討しているかのように見えたんです。しかし、今回、思うんです。それは叙述の関係であり、問題とするところをもっともよく示している箇所だったからであり、やはりその基礎には、『精神現象学』とその「絶対知」の章についての全体的な検討があると。その基礎があるからこそ、この8つの項を批判できるんですね。なぜ、マルクスはこのようなややこしい難書に挑戦したのか。それは、マルクスが唯物弁証法と唯物論的歴史観を発見し、それをまとめようとした努力の記録だったとおもいます。1845年にフランスから国外追放されたことで、出版する契約までしていたのに、草稿のままお蔵入りとなり、90年の時を経て1932年にソ連ではじめて刊行されました。マルクスは、このヘーゲル哲学、その『精神現象学』の「絶対知」について、この難書を正面に、三重にわたって説明しています。(この論文に、文節ごとに通しナンバーをつけてみました。問題となる個所をはっきりさせるためですが。私なりには全体で64の文節ありました)一つは、「ヘーゲルにおける二つの誤り」、第12文節ですが。おもうに、これはマルクスの結論を端的にまとめた叙述だと思います。二つ目は、「あらかじめ次のことだけは言っておこう」(第16文節)の箇所と、それと問題の「その要点は」(第17・18文節)です。この二か所で書いているのは、同じことかとおもいます。これからヘーゲルの叙述を検討していくうえで、あらかじめヘーゲルの叙述で、何が問題なのか、どこに問題があるのか、難儀している人に対して、それを理解しやすくするために、「あらかじめ」頭をならそうとして、いろいろな角度から、予備的にその中身を紹介しているものとおもわれます。その上で、問題とされるのは『精神現象学』の最終章「絶対知」の冒頭のところです。そのものを8つの項に区切って、マルクスは確認しています。第22文節ですが。「絶対値」の章からたった1ページですが、それを8つの項に区切ってを抜粋しているわけです。「その要点は」(第17・18文節)それ以前の二つの箇所というのは、その本論を理解しやすくするために、「序論」的なものとして、いわば思考トレーニングをしているといった性格の部分なんですね。そのうえで、具体的な検討に入っていくわけです。したがって、その事前の案内部分ですが、ちょっと読むと「藪から棒」の託宣的に述べているよう聞こえもするわけでして。理解するのに苦労させられる。いったいどのように解釈したらよいのか。いろいろな人が、それぞれ自己流の解釈をしているところでもあります。私などが思うのには、マルクスのあらかじめの説明ですから、そこだけで完全な理解が出来るといったような性格のものではないわけでして。その後の本論部分に具体的な検討があるわけです。その関係が、あまたの解説者たちが、完全な理解を示そうとして、苦労させられているように思われます。その結果、その人流の恣意的な、というか勝手な「解釈」をもって、説明してきた。そのために、いっそう混迷するような状況があるように思われます。いくら解説書を読んでも、ますますわからなくなるのは、そんな原因も関係してるんじゃないでしょうか。したがって、結論です。この序論的な部分については、そうした議論の組み立て、性格を理解しておくことが大切で、マルクスとしては「ある程度のことを理解したら、その先にすすむように、その先に問題の検討や解明があるよ」といっているんじゃないかと思います。実際に、マルクス自身が言っていることを紹介します。「ところでヘーゲルの一面性と限界については、われわれはこれを(この後に行われる)『現象学』の結びの章(絶対知)のところでくわしく示してみせるだろう。ちなみにこの章には現象学の要約された精神、『現象学』と思弁的弁証法との関係もまたこれらの両者およぞ両者の相互関係にかんするヘーゲルの意識も含まれている」と。(第15文節 ME全集第40巻 P196)一から十まで、完ぺきな理解を求めているわけではないんです。二、「貫徹された自然主義、ヒューマニズム」の謎が解ける私などには、これまでなぞの一節があったんです。少し先になりますが、第26文節です。「ここにわれわれは、貫徹された自然主義、あるいは貫徹されたヒューマニズムがいかに観念論とも唯物論とも異なりながら、同時に両者を統一する、両者の真理であるかをみる。同時にまた我々は、いかに自然主義のみが世界史のいとなみを把握する力があるかをみるのである」(P500)わかりますか、この意味が。わたしなどは、なんじゃこれは??? これまでずーと謎だったんです。苦し紛れに、あれこれと考案しようとしていたんですが。今回、蛍光灯のように、頭がひらめきました。もちろん前後の文章にそのヒントがあるわけですが。同時に、自分流に仮説を立ててみることにしました。ということで、これは、あくまで私などの仮説なんですが。一つは、「貫徹された自然主義」ということですが。ヘーゲルは対象というのは自己意識の外化したものとみています。人間の意識から独立した対象的存在というものを見ようとしていません。あくまでそれは人間の意識がつくっている。その点からしたら世界というのは意識がつくっているものでして、ようするに唯心論なんですね。この意識の外側の世界を認めようとしない。自然というものの人間からの、自己意識からの独立性を認めていないわけです。そこのところに自然に対する不徹底さがあるわけで、貫徹されない自然主義があるわけです。マルクスとしては、人の意識の外側にある自然の存在そのものをみとめている、ようするにそれは唯物論なんですが、そこに自然主義の徹底した姿があることを指摘しているものと読みました。もう一つ、「貫徹されたヒューマニズム」とは何なのか? この問題です。ヒューマニズムというのは人間を、その尊厳を大切にする立場ですよね。それがマルクスによって、ここで突然に『ヒューマニズム』なる言葉が出てきた。どうしてなのか?どの様な意味なのか?どうしてここでてきたのか?ここには説明はありませんから、 なぞでした。そもそもヒューマニズムというのは、ルネサンスの人間復興や、モンテーニュやラブレーといった人が思い浮かびます。「われおもう、ゆえにわれあり」、人間の尊厳を近代の入り口で確認した言葉です。それがどうして、ここにでてくるのか? ここからは私などの仮説ですが。私などが想像するのに、「神は人間がつくりだしたもので、あくまで人間こそが主人公である」、これはフォイエルバッハが『キリスト教の本質』や『将来の哲学の根本命題』で強調している根本的な立場であり、考え方ですね。このことが、中世から近代へのヨーロッパで、ルネサンス、啓蒙思想などなかで、ここに大きなテーマがあった。神を中心とする考え方から、人間を中心とする立場への大きな転換です。マルクスは、この唯物論の立場にこそ人間中心のヒューマニズムの精神がある、そのことを指摘しているんじゃないでしょうか。さらにもう一つあります。これまで、精神ということの尊厳、精神の能動的な役割、理想的な精神をもとめる、などということは観念論の世界の中で探究されてきた。それはカントの理性の批判、ヘーゲルの情熱や自由論、これらはいずれも観念論のなかで大事なテーマとして鍛えられてきた。これにたいして18世紀の唯物論やフォイエルバッハの唯物論は、これに対してどのように問題が取り上げられ、検討されてきたのか。これはこれで大問題です。根源性の問題だけでなく、精神の果たす役割の問題です。唯物論にも色々な特徴があるけれど、それまでの唯物論には機械論的な特徴がみられ、それをもっと発展させなければならない。ようするに、「観念論とも唯物論とも異なりながら、同時に両者を統一する、両者の真理であるか」ということですが。それがしめしているのは、新たな能動的な、精神の活動の尊厳をも生かした唯物論というものを、弁証法的な唯物論が課題となっている。マルクスはそのことを強調したかったんじゃないでしょうか。それでは、唯物論的な弁証法というものを、その可能性をどの様に現実的な切りひらくのか、この探究課題が問題になっているんじゃないでしょうか。さらに、もう一つあります。これは「同時にまたわれわれは、いかに自然主義のみが世界史のいとなみを把握する力があるかをみるのである」-この言葉が意味することですが。これもまた、私などの推測ですが。ヘーゲルは「歴史哲学」にみるように自由の発展ということを洞察していました。しかし、その事実の根拠はどこにあるのか。ヘーゲルは精神の自由への発展という精神が確信でした。しかしその大勢の流れは正しいとしても、いったいその根拠はなんなのか?この問題ですね。意識はそれ自体から解きほごせれるものではなくて、そうした意識を規定するものがある。これですね。これは世界史のすすみゆきに対して、その自由な精神というものを規定するところの問題がある。ようするに、それが唯物論の立場、唯物的な歴史観を洞察し、探究することだったんですね。私などはそのようにとらえてみました。これらは、あくまで、私などの推測ですが。これから、本論となる「絶対知」の具体的な検討に入っていくわけですが。おそらく、そうした事柄が、これから出てくるんじゃないかと、わたしなどは期待している次第です。今回は、ちょっと先走っていますが、しかしそれは、大事なことだとおもうので、紹介させていただきました。もしも誰か、このことを解説されている人や、そうした文章があったら、紹介してほしいのですが。今回は、以上です。参考文献、『ヘーゲル「精神現象学」入門』(加藤尚武編 有斐閣選書 1983年刊行)
2024年04月19日
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小田原の魅力とは何か、みかん園の再生活動新緑が目立ちだすころというのは、雑草が繁茂しだす時でもあります。毎週、東京・八王子から小田原のみかん園に通って、手入れをしています。自然の力というのは、すごいですから、ヘトヘトにさせられてます。縁あって、この小田原のみかん園での活動ですが。その魅力は何なのか、ヘトヘトになると、ついついそんなことはどこかに消えてしまいます。「もう、ヘトヘトで、嫌になっちゃうよ」ついつい愚痴っぽくなりがちですが、その魅力を考えてみました。というのは、そこに暮らしていると、ついついその魅力が当たり前になって、日々のくらしの苦労もあって、その宝が忘れがちになっているんですね。それで、あらためてまとめてみました。小田原の魅力は何か。第一は、相模湾を一望できる、その景観のすばらしさです。この写真は、去年の5月15日のものですが。第二は、その歴史です。日本の歴史に、少なくとも二つ。一つは鎌倉幕府の頼朝の旗揚げ古戦場であり、二つは秀吉の全国統一のための小田原攻め。ともに石橋山の古戦場、小田原城と石垣山の一夜城の跡が残っているんですね。第三はみかんと梅です。都会のすぐ近くに乱開発が規制されて、大自然のみかん畑がひろがっている。「みかんの花が咲いている」、この唱歌はこの地でつくられたんです。そして曽我の梅林。第四は、海鮮料理です。相模湾の豊かな漁場が美味しい海鮮料理を提供してくれる。時とともに魚種は変わっても、新鮮で、多彩な地魚です。蒲鉾や塩辛も。第五は、温泉です。箱根の玄関であり、箱根七湯の多彩な泉質を楽しめますし、箱根山には自然の癒しがあるんです。第六は、交通の便のよさです。東京から片路2時間くらいと利便がよくて、日帰りもできます。また、東京の消費者にたいして、美味しいみかんを届けれるわけです。第七は、人情のよさです。これは人それぞれにいろいろに個性がありますが。私などは感じるんです、一見気難しそうな一国一城のあるじの農家の人たちですが、知り合うとよい人たちばかりなんです。第八は、芸術文化です。「文学資料館」がありますが、さまざまな政治家も文化人たちも、交歓の歴史があります。数日前に、音楽家のホームコンサートを聞けたんですが、文化の輪があるということです。あくせく働いていると、ついつい忘れがちですが、こうした社会背景の中で、明日をひらくために努力をしていると、70歳は、まだ若手のうちでして、80歳・90歳代で、ますます生き生きと健康にくらしている人もおられるんです。その共同の輪になっているんです、当人たちが気づいているかどうかは知りませんが。もちろん、今の社会ですから、世知辛く、愚かな事態も多々あるわけです。かつてのみかん畑の30パーセントが、今、耕作放棄地になっているわけで、せっかくのみかんでも、姿かたちが劣ると、美味しいミカンが捨てられている。また、若ものや子弟たちが、今の農家では、とてもやっていけないわけですから、農業の苦労は、ほとんど高齢者の肩にかかっている。まともな社会的な支援というのは、私などが体験する限り、ほとんど働いてないんですね。屁理屈ばかりで、かっこだけつけている事態です。こうして、明と暗、こもごもですが。そうであればこそ、私などにもできうることで、その魅力を引き出せるように、「石垣山みかん園を再生させる」活動として、努力、協力していくということです。
2024年04月19日
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みかん園の草刈り行き4月16日から18日まで、小田原・早川のみかん園の手入れに行ってきました。これが、その苦労の結果を示す全景です。陽気も暖かくなり、みかんの木への元肥を撒く時なんですが。肥料を撒くためには、みかんの木の根回りの雑草をおさえなければなりません。小木であれば、半径1メートルくらいを草取りすることで済むんですが。というのも、絨毯のように雑草の根が地表を覆っています。いくら地面の表面を草刈りしても、雑草の根がカーペットのように覆っていますから、それでは、雑草に肥料を与えるようなものなんです。大きなみかんの木ともなると、草取りは除草剤を使って対処するしかないんですね。右側の木は樹冠の下の雑草が抑えられています、これは園主さんが手入れをしたいるものですが、左側の木の方は、樹冠の下を春草がすっかり覆っています。これが当方の手入れをしている木です。当方は、これまで草刈り機でこの草を刈って、その後に施肥してきていたんですが、みかんの木の葉の色が黄色っぽいでしょう。これは肥料不足が原因でして、木が悲鳴を上げているんです。肥料はそれなりに撒いてはいたんですよ。しかし草取りが甘かったために、せっかくの肥料がみかんの根には届いていなかったんですね。1-2年が過ぎたら、ご覧の通りです。それまでたわわにみかんの実をつけていた巨木でしたが、1-2年を経るなかで、完全にみかんの林は消失してしまいました。「畑の様子を見るたびに、おれはがっかりしちゃうよ」園主さんが、私の手入れにたいして嘆いています。「草取りが甘いから、せっかくの肥料が、みかんの根に届いていないんだよ」「除草剤をうまく使わないと、草刈り機だけでは、これだけの広さともなると無理だ」と。私のポリシーとして、なるべく除草剤を使わずに、草刈りをしてきたんですが。みかんの林を、そのために、たった2年くらいで消失させてしまいました。長年、丹精込めて育ててきた園主さんでしたから、肩を落とすのも当たり前なんです。それで、当方としても、昨年の10月から方針を変更しました。除草剤も活用するようにして、施肥する前に、雑草の根をたたくこと。草刈り機をふりまわすだけでは、100本以上のみかんの木を維持することはできないと。これが、この2年くらいみかんの手入れの結果なんですね。体力のぎりぎりの限界にまで挑戦して、草刈り作業をしたんですが、それでも多数の成木を枯らしてしまった。園主さんが二世代にわたってそだててきた40年生の木でしたが、それを消失させてしまったわけでして。枯らしてしまったみかんの成木をきって、その枯れた木々を集めて、今回も野焼き処分している次第です。残念ですが、手痛いことで、大事な経験であり、反省です。
2024年04月18日
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マルクス「ヘーゲル弁証法批判」14 ヘーゲル弁証法の成果と課題今回は、前回と重なる部分もありますが、ヘーゲル哲学を、『精神現象学』、『エンチクロペディー』と、全体を一べつしての成果(弁証法)と問題点です。一、ヘーゲル哲学の成果としての弁証法について(第14文節)二、しかし、ヘーゲル哲学には一面性がある、さしあたり明らかな点(第16文節)一、ヘーゲル哲学の成果としての弁証法について第14文節ですが、マルクスはヘーゲル哲学の最終成果として弁証法にあると指摘しています。そのヘーゲル弁証法とはなにか?マルクスが初めて意識的な解明に挑戦しているわけです。「運動させ産出する原理としての否定性の弁証法」-これがマルクスのここでの規定です。(もちろん人により、また同じ人でも場合により、弁証法にはいろいろな規定の仕方があると思うんです。その中身をどうつかむかは、それぞれが探っていくべき課題ですが。)マルクスのヘーゲル弁証法に対する評価です。「ここにあるヘーゲル(弁証法)の第一のすばらしさは、人間が自分自身の産出を、結果としてだけでなく、一つの過程としてとらえたこと。対象化することを、対象性をなくすこととしてとらえたこと、言い換えれば、外化を外化の止揚としてとらえたこと。(結果をとらえるだけでなく、それをつくられつつある過程として、運動としてとらえている。ものをつくる、対象化することは、それを実現すると対象というものはなくなると。また、対象としてあったものが働きかけにより、自分のうちにとりもどされる、と)第二に、それは、労働の本質をとらえており、人間自身というものを自分の労働の成果としてあるものだとらえている点にあること。第三に、人間は類的な(社会的な)存在であり、それに対する一人の人の能動的なかかわりについて。人間は類的な(歴史的な総労働の)存在として、まわりにかかわるし、その成果を享受する。ただし、その類的なことは一人の人からしたら疎外された形においてのみ可能になっている。」(この類的な人間と一人の人について、前回、私なりの理解として、このことを私流に理解すれば、今の現在人の生活というのは、車や電車を使って移動し、電気釜でご飯を炊いて食べているわけですが、これらの技術手段はこれまでの人間たちの総労働によって、その歴史的な成果によって成り立っているわけでして。しかし、私などの一人の個人からしたら、電気理論も鉄鋼製品の加工技術も知らないわけで、その類的な成果に対して疎外された(無知な)関係にあるわけですが、しかしそのご利益にはあずかって暮らしている。人類の歴史が生み出したこの歴史的成果をというのは、無知な私などの労働もその一因としてかかわっているわけで、無知な人間の全体が集まって今の全体の社会をつくっている。個人にとって社会全体(類的な人)は疎遠な他者といった関係になっているけれど、これは自身も一因になってつくりだした関係であるわけでして、その疎遠になっているつながりを、個人がとりもどすことが大事になっており、それは疎外されてる人間の、疎外から自身を回復するということであり、類的な人間全体を、しがない個人がつかみかえし・とりもどすということだ、と紹介しておきました。)以上が、第14文節です。マルクスがとらえたヘーゲル弁証法についての「終極的成果」です。同時に、マルクスが問題とするのは、そこには「一面性と誤り」がふくまれているということ。この検討が、次の第15文節以降の内容ですが、じつに、このことが全体の中心的な問題になっているわけです。二、ヘーゲル哲学にある一面性、さしあたり明らかな点つぎは、ヘーゲル哲学の全体を通して、特徴となっている「一面性」の問題です。まずマルクスは、ヘーゲルが人間の労働の本質をとらえていること、それは「当世の国民経済学者たちの立場にたっている」と、これを高く評価しています。人は労働することにより対象物・生産物をつくりだしている、それとともに人間自身をつくってきた。イギリスの経済発展の富・価値というのは、労働にその本質があるとするスミスやリカードの経済学説ですが、人の労働により、人間社会の富がつくられている。これとヘーゲルは共通する労働観の認識にあると評価しているわけです。しかし、問題はそこからです。そのヘーゲルの労働観には一面的な点があると、マルクスは問題点を指摘しています。その問題点の指摘です。第一は、労働の肯定的な面のみを見て、否定面をみていないこと。マルクスは、ヘーゲルの場合は労働ということを、人をまるごと外化したものととらえているわけで、そこにある問題点を見ない。それもまた国民経済学に共通する立場ですが。『経済学哲学手稿』の第一手稿には「疎外された労働」の探究があります。その背景には「ライン新聞」に掲載した「森林窃盗取締法に関する討論」や「モーゼル通信員の弁護」など、農民の労働状況についての体験があるわけです。第二は、ヘーゲルはまた抽象的な精神的な労働しかみてない。外在化のあらわれについてそれら哲学に・学問としてとらえることこそを労働の内容としてとらえている。第三に、先行する哲学のすべてを、行為として、そしてヘーゲル自身の哲学の契機をなすものとしてとらえるから、ヘーゲル哲学こそが最高の総括的な絶対的な存在ということになっちゃう。以上が第16文節ですが。マルクスは、ヘーゲル哲学の全体を一瞥して、その全体からみてとれる労働の一面化について、さしあたってこの三点の問題を指摘しているわけです。しかしこれは「ヘーゲル哲学」の全体から見てとれる特徴でして、このあとマルクスは、『精神現象学』の「絶対知」の章について、その冒頭の箇所を具体的に検討することで、本格的に問題点を探っていきます。ここからが本題です。しかし、それはまた次回とします。
2024年04月15日
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学校給食の無償化へ八王子市も動く本日、共産党の八王子市議団ニュース(3月29日 第11)が届きました。八王子市は、今年の1月21日に市長選挙があったんですが。このチラシは、選挙では敗れはしたものの、八王子の新たな息吹を感じさせてくれます。そのタイトルは「市民の願いが市政を動かす―学校給食の無償化を市長が約束」です。これまで、市民の無償化を求める請願は、くり返し否決されてきたんです。しかし、市長選挙に際しては、これまで反対してきた自民・公明の市長候補でも、この学校給食の無償化を掲げざるを得なかったんですね。これまで、八王子市というのは、市民のくりかえしの願いに対して、かたくなに、冷たくも、否決しつづけてきたんです。自民・公明が市議会40議席の過半数をしめてますから、市民の声など聴く耳がなかったんですね。頑迷さの象徴のような八王子でしたが、それが動かざるを得なかったんですね。市長選挙の結果は、50万都市の八王子で6000票の差で、もう一歩のところで与野党が逆転する状況をつくったんです。小池都知事まで最終盤には、自民・公明の応援に、なりふり構わずやってきたんです。まあ、それはとにかく。八王子市民が、あらためて自ら置かれている状況に、保守系の人たちも含めてですよ、「今の状況は、何とかしなければだめだ」と動きだしたということです。確かに部分的には市民要求に改善もあもるですが、しかし大勢はこれまでと変わってないんです。市議団ニュースの裏面です。国民健康保険税は7年連続の値上げしてますが、これからもさらに上げようとしています。おそらくこれは、全ての東京都の区市町村の自治体で最悪の事態じゃないでしょうか。公けに発表されているデーターですが。八王子市は、子ども二人の夫婦の4人家族で、年収400万円の標準家庭で、今年、新たに46,800円も負担が引き上げられて、年間の負担が、58万5000円になるそうです。考えられますか、国保税だけで、58万円も支払わなければならないなんて。教育費もあるでしょうし、家賃もあるでしょうし、当然食費もあるじゃないですか。しかし、市民の請願は、否決です。八王子市というのは、萩生田・前自民党政調会長の地元です。自民党政治が、そのおひざ元の市政でも幅を利かせているわけです。くらしや福祉はそっちのけで、市バスにはシルバーパスが使えない。その路線は駅につなごうとしない。市民サービスをどんどん削ってるんですね。他方では、国は軍事費ですが、同じように市ではジャカジャカと無駄遣いにふりむけてます。国民無視・市民無視の村政治がおこなわれているということです。私などは八王子市が遠く感じていたんですが、それは私自身の側の問題だけではなく、こうした市民に背を向けた八王子市政の議会や行政の側にも原因があることが見えてきました。しかし、そのひどい事態ですが、それがここにきて市民の目に具体的に見えてきたんですね。八王子市長選挙の結果がそれを示している。それが今、進行中の八王子市の事態だと思います。もう一つあります、東京都もひどいんです。「東京民報」4月7日付 第2324号 からですが。3月26日の予算特別委員会ですが、共産党・立憲民主党の都議の質問にたいして、「速記録から削除せよ」との動議が、自民党・都民ファースト、公明党から出され、それが、多数で可決されたというんです。共産党都議は、朝鮮学校だけに東京都の補助金が出されてないのは問題で改善せよ、との質問。立憲民主党都議は、小池都知事がみずからに批判的な質問にたいしては、答弁に立とうとしない点を問題とした質問とのこと。もしもこれが事実であるなら、言論の場であるはずの議会ですが、気に入らない質問については議事録から削除せよ、などということが現実に行われた。事実であれば、政治的民主主義をわきまえない、とんでもない多数の勝手な事態が、東京都議会においてもおきているということです。国の方もひどいけれど、日ごろ情報の少ない東京都や八王子市についても、そこに目をむけなければ、そこでもとんでもないことがまかり通りかねない。今の日本の社会では、そんな事態があちこちで進行しているということです。
2024年04月13日
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4月前半のみかん園の手入れ小田原のみかん園ですが、4月9日にその畑の手入れに行ってきました。今回、初めてですが、イノシシの親との出会いがありました。4月9日(火)は天候は雨でしから、10日(水)の早朝にみかん園を見回った時のこと。当方としては、この間に出た枯れ木を野焼きして始末する課題があったんです。これがその模様ですが。昨夜までは雨模様でしたから、草木の湿り気が野焼きが出来るかどうかを確かめに来たんですが。午前6時20分ですから、まだあたりには人の気配はなかったんです。すると、なにやら動き逃げていくものがいました。イノシシです。これは初めての遭遇だったんですが。この野焼きをしている場所にいて、そこからとんで逃げていったんです。これまで、イノシシの動いたあと、その痕跡はいくらでもあったんですが、その子どもの「うりぼう」は見たことがあったんですが、その親の姿を、その実物を見たのは初めてでした。1メートルくらいの大きさでしたが、30センチくらいの、まるまると太ってました。それがウサギのように飛び跳ねるようにして、奥の林の方に消えていきました。それこそ、あっという間のできごとでしたが。いま全国の農地でイノシシの加害が問題になっています。小田原でも野菜はもちろん、みかん畑も、畑を鉄柵で囲わなければ、ほとんどの作物が、イノシシのえさとなってしまいます。しかし、それは、一面では農家の高齢化もあり、人の畑の管理力が落ちているためでもあります。耕作放棄のみかん畑は原野となり、イノシシのねぐらになっている。それが広がっているわけです。人と猪との、一進一退の綱引き、攻防戦が行われているわけです。その一コマでした。さて、本題の、みかん畑の手入れですが畑にある切り枝を野焼きして片付けること。そして、暖かくなって繁茂しだした雑草の草取りをして、その後に元肥を施肥する。これが、いますすめていることです。みかん園の手入れは、春分の日を過ぎて暖かくなった今は、雑草の繁茂と競争している日々です。これは、数年前に山林化していた元みかん園だったところを再開拓した場所です。イノシシの住家になってましたから。その開拓したあと畑に、みかんの苗木を25本植えました。「石垣山みかん園を再生させる」活動です。私のところでも、少なくとも4名の方たちが、共同してくれています。農家の方たちだけでは、手の回らなくなったみかん畑を、何とか維持しようとの「援農」です。雑草の繁茂がはじまりだしている今、その雑草のみかんの木の回りの草取りをして、その後に元肥の施肥をしているわけです。これが、みかん畑の手入れの基本中の基本です。しかし、みかんの木が100本くらいになると、なかなか手が回らないんです。この根回りの草刈り施肥の基礎作業ですが、植えたばかりの小さな苗木や小木についてはこのように、1本1本の手入れは完ぺきなんですが、それでも木の本数が多いわけで、仮に50本あったとして、1本を処理するには30分とすると、25時間かかる。くたびれてくると効率は落ちてきますから、単純な時間計算では片付きません。この草取りをしっかりしないと、みかんの木の栄養補給の元肥を撒くことができないんです。しかし問題は、みかんの木の大きくなった成木に関してです。これだけ大きくなると、地べたをはっての草取りは、簡単にはいかないんです。施肥をする前に草取りをしておかないと、そうしないといくら肥料を撒いても、それは雑草にたいして肥料を与えるようなことになりますから、より雑草が繁茂するわけです。せっかく肥料をまいても肝心のみかんの木にはゆかずに、みかんの木は枯れだしていたんです。緑の草むらは、みかんの木の枯れたあとです。昨年の10月に、みかん園の園主さんから注意がありました。「あんたの草刈りは甘い。それじゃぁ雑草に肥料をやっているようなもので、木に届かず、木がどんどん枯れてっている。まかせたんだけど、がっかりしちゃうよ。これだけ広い畑を、草刈り機をふりまわすだけではダメだ、不可能だ。草刈りを徹底するには、うまく除草剤も使わないと、全体を手入れするのは不可能だと」。それで、私なども昨年の10月からですが、除草剤の使用を試しだしたんです。さらに一昨日、園主さんより注意がありました。「あんたは広い面ばかり除草剤を使っているが、肝腎な樹冠下が散布されていない。大事なのは肥料を撒く前提として、その箇所にこそ除草剤の散布が必要なんだ」と。私などは、木の周辺を除草剤できれいにして、樹冠下はカマで草取りするつもりでしたが、実際には、100本余りのたくさんの木にたいして、カマで草刈りすることは不可能だったんですね。「肥料を撒くために、草を枯らしてるんだから、まっさきにそこの除草剤散布をしなければだめだ。着手すべき箇所についての手順が違う。通路なんて人の行き来で自然に抑えれるから後でもよいんだ」とのアドバイスでした。これは、小木の草取りだけでヘトヘトになってしまっていて、巨木をまえにしては、その作業の大変さからたじろいじゃって、結局手が回っていなかったんですね。このために、巨木が疲弊してしまい、次々と枯らしてしまった。この木の枯れ込みをみていてのアドバイスなわけでした。「それだ! それだったのか」と、蛍光灯の頭にもスイッチがはいりました。ほんらいなら、早々に荷物をまとめて、帰京する日だったんですが。この問題を知った以上、それは次回への先送りするわけにはいきません。そこで、この日は予定を変更して、除草剤散布です。朝から5ラウンドもの、樹冠下にたいする除草剤の散布をおこないました。これは晴れ間が続く時ににしかできない作業です。私がみかん園で作業できる日も、時間もつ、限られてますから、まさに「今日」という日の、帰途につく前の午前が勝負のがタイミングだったんです。それで、すでにへとへとに疲れた体ではありましたが、もうひと頑張りしたわけです。はたして、その効果のほどはどうか、しばらくたつと、2週間の時間がたつと、その結果が見えてきます。すくなくとも、みかん農家がこの時期に努力していることの一端が、今回新たに一つ分かったわけです。その効果のほどは、この後2-3週間の時間がたたないとわからないんですが。とにかく、これまでは、体がくたびれ切ってしまい、手当てができていなかった領域です。みかんの木の手入れにとって、この半日間の苦労でしてが、これはこれまでとは違った、新たなみかんの木の手入れの大事な前進になると、私などは思っています。
2024年04月11日
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マルクス「ヘーゲル弁証法批判」(その13) 何が問題で、ヒントはなにかここでマルクスが検討の対象としているヘーゲルの『精神現象学』ですが。哲学者の故・真下信一氏ですが、昭和の初めのころ京都での学生時代に、教授から聞いたそうです。「古今東西、哲学の書は数えきれないほどたくさんあるが、そのなかの三大難書の一つがヘーゲルの『精神現象学』だ」、と。(『時代に生きる思想』新日本新書 P194)その道の大家の人たちが苦労した古典の大作です。ですから私などが、すんなりとすすみっこないし、発信しても無反応なこと、それはグズグズ言っても仕方がないんですね。泣き言はおいて、とにかくすすんでゆくということです。それと、今回から、この学習の主題に関連して、入手できた本や論文ですが紹介させていただきます。今回から問題になるヘーゲル『精神現象学』の「絶対知」です。一、そもそも、なにが問題なのかマルクスの『経済学哲学手稿』「ヘーゲル弁証法批判」の学習ですが、今回は13回目です。いよいよ「本論」に入っていきます。テキストは「マルクス・エンゲルス」全集の第40巻に掲載の『経済学哲学手稿』(真下信一氏訳)を中心につかっていますが、P490から512の33ページ分、その各文節に通しナンバーをつけると第1文節から64文節となります。なんで今ごろ、そんなことを学習発信しているのか、何が問題なのか、ですが。私などが思うのに、この内容は、マルクスはヘーゲルの弁証法をどの様にとらえたのか、それをどの様に批判したのかですが。ようするに唯物弁証法です。混迷する今の社会にあって、なかなかままならなく、混迷することがいろいろ目につく現代社会ですが。私などはその中を73年生きてきて、この社会にあっては、とくに基本的な姿勢が大切だと感じるようになってきているんですね。まぁ、一般的な方法論、生きる姿勢の問題として、それがこの哲学の唯物弁証法なんですが。しかし、それは、このヘーゲルやマルクスの著作をちょっと開くとわかるかと思いますが、そうそう簡単に理解することはできないんです。私などは、そこに現代を生きる人たちにとって、生きていく上で役立つ基本があると思ってるんですが、しかし、なかなかそれを周りの人たちにうまく伝えれない、このもどかしさがあるんです。それで、このブログ発信をしている次第です。二、今回は、本論に入るにあたっての見取り図です前回、マルクスがヘーゲル哲学の一番の業績として弁証法の発見にあると指摘したのを紹介しました。それは一つの結論でした。全体の中で、それはどういうことなのか、問われています。そもそもその弁証法ってなに?ヘーゲルの弁証法を批判したって、どのように?マルクスが新たにつくりだした「唯物弁証法」って何なの?マルクスといえば唯物論的歴史観の確立者とされるけれど、それは何で、唯物弁証法とどのように関係しているの? マルクスといえば『共産党宣言』だけど、共産主義って何? マルクスといえは『資本論』の著者だけど、それとどうつながるの?つぎつぎと問題はつながるんですが。しかし、ここでは、問題は限定されます。『経済学哲学手稿』の「本論」の筋書きについてこれまでは、トンネルの先も周りも見えない中ですすんできましたが。今回は、当たってるかどうかは分かりませんが、一つの仮説です。今回、マルクス『経済学哲学手稿』「ヘーゲル弁証法批判」の全体を大まかに区分してみました。1、序論にあたる部分を学習してきました。第1文節-14文節。 ア、ヘーゲル哲学の大流行の中で、その基本に対する無自覚 イ、フォイエルバッハが、そのなかでヘーゲル批判に果たした唯物論の貢献、しかし課題が。 ウ、ヘーゲル哲学の全体からの批判-疎外を思想としてしかとらえず、克服も知ることだった。 エ、その問題をかかえつつも、ヘーゲルの最大の貢献は初めて弁証法をとらえたことだ、と。以上が、前回まで学習してきた流れでした。これからは、今後の学習への予告です。これからのことについては、私などはまだよく読めていませんから、あくまで仮説です。私などは、前回の2012年にこれを一度学習してます、これはそれによるものです。2、あらかじめのマルクスのアドバイス(第15-16文節)「ところでヘーゲルの一面性と限界については、われわれはこれを『現象学』の結びの章(絶対的知)のところでくわしく示してみせるであろう。ちなみにこの章には現象学の要約された精神、『現象学』と思弁的弁証法との関係も、またこれら両者のおよび両者の相互関係にかんするヘーゲルの意識も含まれているのである」(P496 第15文節)そして、あらかじめの指摘。(第16節)これはマルクスの確固とした評言ですが、これはこれからの「本論」を検討した後によるものでして、だからこそくだせる私たちへのアドバイスです。3、『精神現象学』の「絶対知」の要点。(第17-21文節)4、その「絶対知」から、ヘーゲルの8つの論点。(第22文節)これが『精神現象学』の問題とされる箇所です。冒頭のたった1ページなんですが。マルクスはそのことから、そのことを問題にしているんです。集中力、意識性を示していますが、マルクスの学習の仕方もそこには見てとれると思います。5、その検討1、「自己意識の外化が物性を措定する」(第23-32文節)6、その検討2、「他在のもとにおいて自身のものとなる」(第33-46文節)7、ヘーゲル弁証法の肯定的な諸契機。(第47文節以降)以上が、見通しです。勝手ながら立ててみました。とにかくこれがないと、先の見えないトンネルになりかねませんから。これから、これを念頭にして本論にすすんでいきます。最後に、参考文献ですが。1、「経済学批判の方法を探るマルクス」(長久理嗣著 『経済』2022年2月号)2、レジメと、「誤解されたヘーゲル」(岩佐茂著『精神の哲学者ヘーゲル』創風社2003年刊)3、「共産主義の運動をつうじて社会主義へ」(細谷昴著 『経済学・哲学草稿』有斐閣新書1980年刊)
2024年04月07日
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ヘーゲル弁証法の成果(その12)マルクス『経済学哲学手稿』の「ヘーゲル弁証法批判」を学習しています。今回は、12回目ですが。「序論」と本論の区別と、ヘーゲル弁証法の最終的成果とは何かです。ようやく本題にとりかかったところです。一、はじめに、『経済学哲学手稿』の日本語訳、つまり翻訳についてですが。手元には、『経済学哲学手稿』の3つの翻訳があります。①藤野渉訳 国民文庫 1963年3月15日刊②城塚登・田中吉六訳 岩波文庫 1964年3月16日刊③真下信一訳 マルクス・エンゲルス全集 第40巻 1975年3月31日刊この3つです。私などにとってマルクスの『経済学哲学手稿』というのは、必ずしも読みやすい本ではなかった。何を言っているのか、理解するのに苦しむところが多々ありました。それで、以前には、この本のむずかしさは、それを日本語に翻訳した訳者のせいじゃないか、などと不遜にも思った時もありました。しかし、最近では、そうじゃないんです。訳者の人たちは、それぞれその人なりに原文を正しく理解しようとしており、その結果を読者に一生懸命に伝えようと努力していると感ずるようになりました。しかしそうなると、問題は読む方の問題です。読む側においても、それなりに努力して心眼をきたえることが必要なんだ、最近そう思う様になりました。なかなか理解できないので、苦し紛れに自分勝手な、それこそ勝手な解釈をおしつけがちです。が、そうじゃなくて、「学んで、時にこれを習う」-こうした態度が必要なんじゃないかと、最近ですが考えるようになりました。二、私などの『経済学哲学手稿』の「ヘーゲル弁証法批判」学習は、その発信は二度目なんです。前回は2012年でしたが、その時は、この部分について、マルクスの言っていることの初めから終わりまで、すべてを理解しようと頑張ったんですが。学びとしては、当然なんですが。しかし今回、ふたたび「ヘーゲル弁証法批判」の学習を必要と感じているんです。というのは、現代は、テーマとなる弁証法について、ますますそれらを理解する必要があるのではと感じているのと、同時に、以前に発信した時の理解については、自分でも不十分さを感じるようになってるからなんですが。そもそもこの小論ですが、マルクスの主題は、ヘーゲル弁証法をどのようにとらえ、それをどの様に批判したか、つまり唯物論的な弁証法をどのように明確に確立したかということですが。歴史上はじめて、新たな世界観、唯物弁証法というものが問題になったわけで。どうしてそうした問題が、どの様な前提となる素材をもとにして、どうして課題として問題が意識にのぼるようになったのか。結果となると当たり前のようですが、新規に開拓しようとするとなると、単純ではありませんね。マルクスにとっては、そうした問題だったということです。私の前回、2012年の学習というのは、いわば私が初めて東京に出てきた時の印象のようなもので、見ること聞くことそのすべてが新しいことがらで、まったくその新しさに右往左往して、始めから終わりまでそのすべてを、まったくキョロキョロと、白紙状態において見聞しだしたようなものだったんです。しかし今回、同じ対象ですが、あらためて当たってみると、その認識が違ってくるんです。違いの第一番は、その中身ですが、以前はトンネルの暗闇をただ突き進むだけだったんですが、今回あらためて読んでみると、そこには起承転結の構成がある。それを大きくみると、そこには「序論」と「本論」の二つの部分があること。最近のことですが、そのことに気がつきました。「序論」というのは、第1文節から第14文節までで、そのあとに「本論」の『精神現象学』の「絶対的な知」そのものの検討に入っていく、この二つの部分です。三、その「序論」ですが、ME全集の真下訳では、P490の第1文節からP496の第13文節までですが、そこには5つの指摘があります。それは次の5つです。1、ヘーゲル弁証法に対して無自覚なのが一般的な状態であり、その検討こそが必要だと。第1文節から。多くの人がヘーゲル弁証法について語っているけれど、しかしその弁証法に対する意識性がないと。2、そうした中で、フォイエルバッハのヘーゲル哲学批判がすばらしく、画期的だと。第4文節から。フォイエルバッハの3つの偉業、しかしそこでもヘーゲル弁証法に対しては認識が弱いと。3、フォイエルバッハのヘーゲル哲学の部分批判でなく、ヘーゲル哲学の全体を視野に。第10文節から。ヘーゲルの体系「エンチクロペディー」、そのヘーゲル哲学の全体がもっている特徴について。4、そこにはへーゲルの二重の誤りがある。マルクスのヘーゲル哲学批判。第12文節から。人間の疎外を思想としてしか見ない、その取り返しは絶対知を認識しようとすることでしかない。5、『精神現象学』の最終的な成果というのは、弁証法をとらえたこと。第14文節から。だいたいわかりますか。ヘーゲルの根本的業績として弁証法をとらえたことと認識しつつも、その人間疎外は思想問題でしかなく、その疎外からの人間回復は認識努力でしかない、それがマルクスの批判です。これが「序論」です。マルクスはいろいろな意味深長なことを述べているでしょう。しかしその内容を理解するのはなかなか厄介です。最近、思うんですが、この「序論」の性格を理解しておくことが大切だと思うんです。これまで「序論」を理解するのは、わかりにくくやっかいだった。突然に、藪から棒に重要そうな断言が出てきたり、そこで議論ですがいったい何が問題になっているのか、なかなかわからないわけですから。そうした言葉の意味(概念)を、あれこれ一生懸命に解釈しようとするじゃないですか。わかったようでも確信がなく半信半疑の状態になる、それが前回の学習発信した時の、悪戦苦闘した時の状態だったんです。苦し紛れに「訳者の、その訳の仕方に問題があるんじゃないか」などと勘ぐったりしていたんです。しかし最近、達磨大師は、周りで知った研究者の人たちと話す機会があったんですが、長年研究してきた人たちのなかにも、同じような苦しみがあること。やはりその苦しさのあまり、一生懸命にマルクスや他の権威者の言葉を引用することをもって、自身の説明にかえたりしている。また他にも、権威者の文章を分析することで悟性的に納得している人たちもいるわけで。なかには、自分こそがマルクスの一番の理解者だとの態度をしながら、じつは自分勝手な「解釈」を並べてるような人もいるといったわけです。これでは私などの一般人が、問題の事柄を理解したくてあれこれの解説書を読むんですが、それを漫然と聞いていると、それによりますます問題がわかりにくくなってしまう、そうしたことを感じさせられることも多々あるんです。やはり他力本願ではだめで、自分自身で納得するまで苦労する覚悟が必要だということです。続きですが、私など思うんです。この「序論」部分というのは、「本論」を理解するうえでのマルクスのアドバイスじゃないかと。実際にそれは、「本論」を検討をした結果による事柄もあるんです。ですから、その結論的な事柄を読んだだけではすっきりと理解することは不可能でして、そこにいたるまでの「本論」の考察過程をたどることが必要なわけで、この部分を読んだだけですべての事柄を得心できるといった性格のものではないということも感じてくるんです。ただ結果だけをみたくらいで、すべての苦労の中身が分かるといったものじゃ決してないわけです。ということは、ここだけで完璧に理解することが出来なくてもよし、だいたいそういうことが結論としては出てくるかもしれないから、今はこれをアドバイスとして念頭に置いておき、さらに先にすすむようにしてほしい。そうすれば、「本論」で検討していることも理解しやすくなるんだから。けっして苦し紛れの勝手な解釈などを信じたり、ふれまわったりして混乱させるようなことをしては駄目だよと、マルクスは言っているんじゃないでしょうか。私などはそのよう読みました。四、そのように見たとき、ここでマルクスが「ヘーゲルの『精神現象学』の最終成果における偉大なものが弁証法だ」との点についてですが。第14文節です、全集ではP496です。最終的にヘーゲルの偉大な成果は弁証法だと、これがマルクスの評価です。ここれは「本論」を通しての結論だろうと思いますが、しかしあらかじめここで示されている概観については、確認しておきます。第一に、ヘーゲルは人間の自己産出を、原因と結果からではなく、一つの産出過程として理解していること。その産出過程の結果として対象化するということ、さらに同時に対象性の除去として、外在化したものを取り止めと(とりもどし)としてつかむところにある。第二に、このことは、ヘーゲルは労働の本質をつかんでいること。それは対象としての人間は、現実的で真にある人間というのは、彼自身の労働による成果としてつくりだされたものとしてある、ヘーゲルのこうした労働に対する認識をマルクスは評価しています。このことは、労働が人にとっての対象物をつくりだしている、それとともに人間自身をつくってきた。ルターが対象としての崇高な神というのは、人間自身がつくりだしたもの、その人自身の心の中にあるとの認識。イギリスの経済発展の富・価値というのは、労働にその本質があるとするスミスやリカードの経済学説。いずれも人の労働が、人間社会の基本にあるとの共通する認識ですが、ヘーゲルもまた、その労働の役割・意義をことをとらえていた、マルクスはそのことを評価しているわけです。第三に、「類的な人間の存在」に対する一人の人間としての接し方、現実的な能動的な対処の仕方ということが、ここで言われています。このことを私流に理解すれば、今の現在人の生活というのは、車や電車を使って移動し、電気釜でご飯を炊いて食べているわけですが、これらの技術手段はこれまでの人間たちの総労働によって、その歴史的な成果によって成り立っているわけでして。しかし、私などの一人の個人からしたら、電気理論も鉄鋼製品の加工技術も知らないわけで、その類的な成果に対して疎外された(無知な)関係にあるわけですが、しかしそのご利益にはあずかって暮らしている。人類の歴史が生み出したこの歴史的成果をというのは、無知な私などの労働もその一因としてかかわっているわけで、無知な人間の全体が集まって今の全体の社会をつくっている。個人にとって社会全体(類的な人)は疎遠な他者との関係になっているけれど、このつくりだした関係があるわけで、そのつながりを個人がとりもどすことが大事で、それが疎外されてる人間の疎開から回復することであり、類的な人間全体をしがない個人がつかみとりもどすということであり、そうした類的なものをとりもどす運動が「共産主義」というものなんだ、と。これは「ヘーゲル哲学批判」が、『経済学哲学手稿』の他の緒論、経済学や社会主義思想とも、大きく関連していることをしめしています。マルクスが、短期間に壮大な理論の開拓努力をしていることが見えてきます。以上、この「序論」部分ですが、あらかじめの予告として示唆しています。そうしたことが「本論」からみちびきだされてくるこがらなんだと、それがマルクスが「本論」の探究の結論としてみえてくるんだと予告している、そうした指摘をしているものとして私などは読みました。まぁ、それが本当かどうか、これから探究していくことですが。今回は、ここまでです。次回からはいよいよ「本論」にはいります、ヘーゲル弁証法の検討に入っていきます。
2024年04月05日
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柿の木が移住してきました東京・八王子の裏高尾から、小田原の石垣山みかん園に柿の木が移住してきました。柿の木は大きいので、根付いてくれるかどうか、まだわかりませんが、事情があって、4月2日に、小田原のみかん園の片隅に移植しました。大きな木だったんですが、搬送してきました。うまく根付いてくれると良いのですが。作業をしていたら、すぐ近くなんですが、キジがときどき鳴くんです。オスとメス、二羽のキジが15メートルくらい離れたとこで、何やら地面をついばんでいました。カメラを取りに行った間に、雌のキジはどこへ移動したのか、見えなくなったんですが。オスのキジは、羽ばたいて鳴きました。みかん農家の人たちが大事にしているようで、すぐ近くで作業をしていても、悠々としていて逃げようとしないんですね。おかげで、そのきれいな姿を撮ることが出来ました。
2024年04月04日
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