全10件 (10件中 1-10件目)
1
![]()
親の遺産をもらったナッシュが一攫千金を狙ってギャンブラーのポッツィと組んで金持ちにポーカー勝負を挑むものの、負けて労働させられた末に死んでしまう話。●あらすじジム・ナッシュは離婚して姉のドナに娘のジュリエットを預けていたが、父親の遺産を相続して、衝動的に消防士の仕事をやめて、恋人に振られて、行く当てもなくドライブしていたところ、血まみれのジャック・ポッツィを拾って世話してやり、ポッツィのポーカーの資金を出すことにする。宝くじが当たって大金持ちになったストーンとフラワーの家に行くと、成金趣味でミニチチュアの街や城壁を作ったりしていた。ポーカーの勝負中にナッシュが模型からフラワーとストーンのミニチュアを盗んでいる間にポッツィは調子を崩してポーカーで負けて、車もとられてしまい、50日間トレーラーで暮らしながら城壁を作る作業をして一万ドルの借金を返すことにする。マークスに見張られながら作業して約束の50日が近づくものの、一文無しで社会にもどってもどうしようもないので、二人は50日を過ぎた後も働き続けることにして、ポッツィは新たな門出を祝うパーティを開いて娼婦ティファニーを呼んで楽しくやるものの、契約書に食費は経費扱いされておらず、まだ三千ドルの借金があることを知り、ナッシュが穴を掘ってポッツィを逃がしてやると、翌朝ポッツィが死にかけた状態で戻っていて、マークスがポッツィを病院に運んでいる間にナッシュが逃げようとすると穴が埋められていた。ナッシュは孤独を紛らわすために電子ピアノを用意してもらい、マークスに感謝しかけるものの、マークスがポッツィを半殺しにしたのではないかと疑念を持っていて、ナッシュはマークスの孫のフロイド・ジュニアが穴を掘っている場面を見て告げ口したのではないかと疑い、子供を殺したい衝動にかられる。ナッシュが精神的に消耗して風邪で寝込んでいると、マークスはポッツィが病院を脱走したと告げる。ナッシュはマークスを信用しておらず、真相を知るために娼婦のティファニーを呼んで病院に確かめてもらうことにする。ティファニーからの手紙は来なかったが、ナッシュは借金を清算して、マークスと街に飲みに行き、帰りに久々に自分の車を運転して、ラジオでクラシック音楽を聴きながらスピードを上げて調子よくドライブしていたら、マークスがラジオを切ったせいで驚いて、スピードをあげて対向車に突っ込む。三人称でナッシュの回想を書く形式。アメリカのB級映画にありそうな訳あり負け組みコンビの友情を書いた月並みなエンタメで、ポッツィの生死が不明なままナッシュが事故死して終わるというオチも雑。訳者のあとがきによるとこの小説は低予算で映画化されているそうだけれど、この小説が映画のノベライズといわれてもわからないほど小説らしい見所がない。きれいに章立てして各場面を丁寧に描写しているのはよいものの、プロットとしてはギャンブルの場面に面白みがないというのが決定的につまらないし、ギャンブルに負けたところでたった数ヶ月の肉体労働で返せる程度で、絶望するほど切羽詰った状況というわけでもないし、負け組みが反撃の機会がないまま負けっぱなしというのもつまらない。タイトルで音楽に関係ある話しかと思っていたらほとんど関係ないというのも余計につまらない。ポール・オースターの本ということで何かしら純文学的な要素があるかと期待してあらすじも読まずに古本屋で買ったものの、こんなにつまらないB級映画もどきの内容だとあらかじめ知っていたらそもそも買わなかったかもしれないし読まなかったかもしれない。★★★☆☆【楽天ブックスならいつでも送料無料】偶然の音楽 [ ポール・オースター ]価格:637円(税込、送料込)
2015.05.21
コメント(0)
19世紀半ば、アメリカに鉄道が建設され、機械化して工場ができ、南部に奴隷制がある時代に、三十代のソローがウォールデン湖の森で自給自足の生活をしてみた様子と思想を書いたエッセイ。古典からの引用が豊富で表現力があり、優れた観察眼で生活の様子を精細に描写していて、地味な内容ながら退屈しないで読める。当時のウォールデンの森の生態や周辺住民の描写、当時のDIYの手法の説明など、アメリカ史の資料としては充実した内容。ソローは環境保護の先駆者としてみなされているらしいものの、私とってはウォールデンの森の生態よりもソローの思想の部分のほうが重要なので、気になったところを適当にメモしておく。●生き方について・ソローが森に行ったのは、思慮深く行き、人生の本質的な事実のみに直面し、人生が教えてくれるものを自分が学び取れるかどうか確かめてみたかったからであり、死ぬときになって、自分が生きてはいなかったことを発見するようなはめにおちいりたくなかったから。深く生きて、人生の精髄をことごとく吸い尽くし、人生といえないものはすべて壊滅させるほどたくましく、スパルタ人のように生き、生活を隅まで追い込み、最低の限界まできりつめてみて、もし人生がつまらないものであることがわかったら、その真のつまらなさをそっくり手にいれて世間に公表してやろうと考えた。・働きづめの人間は毎日を心から誠実に生きる暇など持たない。他人と男らしくつきあっていくゆとりもない。労働の市場価格が下がり、機械になる時間しかない。・自分自身を奴隷監督官にしている人がいるのはやりきれない。自己の行為が勝ち取った評判の奴隷となり、囚人となっている。世間の評価は自己への評価に比べれば気弱な暴君に過ぎず、自分というものをどう考えるかがその人間の運命を決定、示唆する。・贅沢品は不必要なだけでなく人類の向上を妨げる。古代の哲学者たちは貧しい人以上に質素で乏しい生活を送ってきていて、外面的な富は最も貧しく、内面的な富は最も豊かな階級に属する。近代人も自発的貧困に立脚しなければ、人間を公平な賢い目で観察することは出来ない。農業、商業、文学、芸術でも贅沢な生活からは贅沢という果実しか生まれない。哲学者になるということは単に難解な思想を抱いたり学派を築いたりすることではなく、ひたすら知恵を愛するがゆえに知恵の命ずるところに従って、簡素、独立、慣用、信頼の生活を送ることである。人生の諸問題を理論的にだけでなく実践的にも解決することである。生活に必要なものをいったん手に入れたら、さらに余分なものを手に入れる代わりにすることがある。つまらない労働から解放されて休暇が始まったいまこそ人生の冒険に乗り出すときである。・仮に大多数の人間が、やがてはあらゆる改良を加えた現代的な家を持つか借りるかできるようになったとしよう。文明は家屋を改良してきたが、そこに済む人間まで同じ程度に改良したわけではない。もしも文明人の仕事が未開人の仕事以上に価値があるわけではなく、文明人が生涯の大半をもっぱら生活必需品と慰安物を得るためにのみ費やすのだとしたら、なぜ文明人は未開人よりも立派な家にすまなくてはならないのだろうか。・人間は自分の内部に生活の根拠を持たなければならない。先住民族のような生活は同胞諸君には怠惰の極みだが、自然の一日は穏やかに過ぎていくから人間の怠惰を咎めたりしない。自然そのものと同じように、一日を思慮深く過ごそうではないか。・自分と子孫のために財産を築き上げようが、一家族、一国家を建設しようが、よしんば名声を獲得しようが、われわれはみな死ぬ運命にあるのだ。ところが真理を扱うことになれば、われわれは不滅となり、変化や偶然を恐れる必要はなくなる。・人生の価値が最低となる老年期にあやゆやな自由を楽しもうと人生の最良の時期を金儲けに費やす人々を見ていると、インドでひと財産作ってからイギリスに戻って詩人の生活を送ろうとしたイギリス人を思い出すが、この男はすぐさま屋根裏部屋へ上がって詩人の生活を始めるべきだった。●交際について・大部分の時間を一人で過ごすのが健康的。相手がいくら立派でも人と付き合うと退屈するし、疲れてしまう。人間同士の交際は一般に安っぽすぎる。我々は頻繁な出会いをなんとか我慢できるものにし、公然と戦争を引き起こさないですむように、礼儀作法と呼ばれる一連の規則をつくらなくてはならなかった。↑北朝鮮ではしばしば不敬罪で幹部が粛清されているけれど、権力者に会わなければならない人にとっては礼儀作法は死活問題だろう。やくざがやたら丁寧で仰々しい挨拶文を使うのも、礼儀作法がないと戦争が起きるからなんだろうか。・慈善にも天才が必要である。善行は自分の体質に合わない。社会が押し付けてくる善をなすために、たとえ宇宙を破滅から救うためであろうと、自分に与えられたかけがえのない天職を意識的・意図的に捨て去るべきではない。↑いわば戦闘民族の天職を全うできれば宇宙が滅んでもかまわないというベジータみたいな人なのだ。●学問について・思考や行動の方式は、いかに古くからのものであれ、証拠なしに信じることは出来ない。今日はだれもが口をそろえて正しいと言い、黙認していたものが、明日は間違いだということになるかもしれない。むかしのひとができないと言っていたことでも、やってみればできることがある。むかしの人にはむかしの、いまのひとにはいまのやり方があるのだ。老人は教師として青年以上に適任であるとはいえないし、かえって劣るかもしれない。歳をとると、獲得したものよりも失ったもののほうが多くなるからだ。・書物はそれが書かれたときとおなじように思慮深く、注意深く読まれなくてはならない。書物を書くのに使われた言語を話せるというだけでは十分ではない。話し言葉と書き言葉、聞く言葉と読む言葉との間には顕著な隔たりがあるからである。雄弁家はその場限りの感興に駆られて、目の前にいる群衆、つまり耳で聞く連中に向かって話しかける。だが、日ごろからもっと落ち着いた生活を必要とし、雄弁家を鼓舞する事件や群集を前にするとかえって気が散ってしまう文筆家は、人間の知性と心情に訴え、自分を理解してくれる、あらゆる時代のあらゆる人々に向かって語りかけるのである。↑現代でも大衆が政治家の演説の美辞麗句にだまされるパターンが多い。選挙は街頭演説のパフォーマンスではなく文章で政策を記したものをじっくり比較するべきだろうと私は思うのである。・人間がしなくてはならないあらゆる労働から計画的に逃れることによって、ひたすら待ち望んでいた余暇と引きこもり生活とを確保した学生は、経験という余暇をみのりあるものにしてくれる唯一のものを愚かにも自ら放棄し、かわりにくだらない無益な余暇を手に入れるに過ぎない。学生諸君は社会がこの金がかかるお遊びの費用を出してくれるからといって、人生をただ遊んだり、学んだりしてすごすのではなく、終始一貫して人生を真剣に生きるべきだ。いますぐ生きる実験に取り組む以外に、青年が生きることに習熟するよい方法があるだろうか?大学ではあらゆることを教え、練習させるが、生きる技術だけは教えてくれない。↑ハーバード大学に対する批判でさえこの有様。ソローでなくても、現代人にとってFラン大学なんかは時間の無駄にしか映らないだろう。・大学についていえることは、いろいろな現代的改善についてもいえる。現代の発明は、いつもわれわれの注意を大切な事柄から逸らしてしまうきれいなおもちゃだ。こうしたものは、改善されない目的を達成するための改善された手段に過ぎない。その目的にしても、鉄道がボストンからニューヨークに通じているように、いまやあまりにもやすやすと達成できるものになってしまった。われわれは大急ぎでメイン州からテキサス州まで電信を敷設しようとしているが、通信しあわせなくてはらないほど重要なことなどなにもない。まるで肝心なのは早口にじゃべることであって、思慮深く話すことではないようだ。一分間に一マイル走る馬に乗った男がもっとも重要なニュースを届けに来るわけではない。↑ソローは鉄道の賃金を稼ぐために時間を使うよりも徒歩のほうが早く目的地につくから鉄道は無駄だと言うが、これは現代だと徒歩移動よりも交通費を稼ぐほうが明らかに早い。情報の伝達速度と民主主義政治が関連している現代においては、情報の手に入りさすさは社会を構成する根本的要因になっているから、ソローの科学を軽視する考え方は現代には役に立たない。伝達される情報が重要か否かの判断は個々人に任せて、知る権利を国民に平等に保障するのが民主主義国家のあるべき姿だろう。飛行機もインターネットもない南北戦争前のローテク時代の人の思考だからしょうがないともいえるものの、ハンドメイドの生き方にこだわったソローは科学的先見性はなかったようだ。●芸術について・ひとびとは心理が太陽系のはずれとか、アダム以前なり、最後の人間の後に存在すると考えているが、時間や場所や機会はすべて、いま、ここにある。宇宙はいつだって素直にわれわれの思索に応えてくれる。急いでいくにしろ、ゆっくり行くにしろ、われわれの軌道は敷かれている。そうであるなら思想を懐胎することに生涯を費やそうではないか。過去の詩人や芸術家がどれほど美しく気高い構想をいだいたにせよ、少なくとも、構成の人間がそれを完成させることができないということはありえないのだ。・美しい絵や彫刻を生み出せるのはすばらしいことだが、その日の生活を質的に高めることこそ最高の芸術である。・人間は自分が作った道具の道具になりさがってしまった。腹が減ると勝手に木の実を摘んで食べていた人間は農夫となった。木下に立って雨露をしのいでいた人間は家を管理している。我々はいまではもう野宿をすることもなく、地上に定住して天を忘れている。われわれがキリスト教を採用したのは、それが天ではなく、地の耕し方としてすぐれていたからにすぎない。最高の芸術作品とは、こうした状態から事故を開放しようとする人間の戦いの表現なのであるが、われわれの芸術派、単にこうした低い状態を居心地よく思わせ、より高い状態を忘れさせる作用を及ぼしているにすぎない。・諸国民は建築物によってではなく、抽象的思考能力によってその名を後世に伝えようとするべき。東洋のあらゆる遺跡よりも『バガヴァット・ギーター』のほうが賞賛に値する。塔や寺院は王侯の奢りである。簡素と独立を尊ぶ精神の持ち主は王侯の言いなりに働くものではない。野蛮な異教徒の宗教や文明は壮麗な寺院を建てている。けれどもキリスト教と呼ばれるものがそんなまねをするはずがない。↑森に掘っ立て小屋を建てて貧乏暮らしをしたソローの名が抽象的思考能力ゆえに後世に残ったことがソローの思想の正しさをある程度裏付けている。しかしキリスト教をはっきり批判できなかったあたりはソローもまだ社会的慣習にとらわれていたのだろう。ソローは生活に必要とされる以上の贅沢を好まず、服や住居の流行をあほくさいと考えて質素にして、精神の向上に励む因習打破主義者で、学問的探究心がないまま思考停止した労働厨を嫌っていて、社会の慣習よりも個人の思想を重視する自由主義者で、肉体労働よりも知的労働を推奨する孤独好きな人だったようだ。当時なりにワークライフバランスを考えて、自分のやりたいこと(思想にふけること)をやるために社会慣習を打ち破り、生活を変えることにしたようである。自分の信念を実行に移し、なおかつ思想を後世に残したという点ではソローは人生の目的を思い通りに達成できたようだ。しかし個人の生活に関するリバタリアン的思想に終始して、国家の運営と国民の義務、社会的分業制度にまでは思想が至らないあたりが残念。★★★★☆
2015.05.21
コメント(0)
![]()
発行した本のせいでパリで逮捕礼状が出され、カルヴァン教徒に襲撃され、友人とも絶縁して孤独になった晩年のルソーの愚痴や思想を書いたエッセイ。自ら自然の中で孤独にポジティブに暮らしつつまた社会に戻って柔軟に生きたソローに比べて、ルソーは社交に未練たらたらでようやく自然観察に楽しみを見出したような孤独で、読んでいて見苦しくてうんざりする。人間からよりよく理解されようとする欲念は消えただの、原稿を奪われようが捏造されようがどうでもいいだの、この世ですべての希望を失っただの、散歩中に夢想するのが楽しみだったのに犬に体当たりされて大怪我しただの、小説を出版したX夫人に利用されたので絶交しただの、自分が死んだという噂がながれただの、死ぬ間際になって生きる方法を学ぶ時間はないだの、老人がなすべき勉強は死ぬことを学ぶだけだの、友人を信じていたのに裏切られただの、前半はネガティブな愚痴が延々と続くものの、後半になるとルソーは若干自信を取り戻したらしく、自分は潔白だの、サン・ピエール島での孤独な生活は最高だの、苦い経験は無駄ではなかっただの、もし自分が自由で孤独だったら善いことしかしなかっただろうけど文明社会に適していなかっただの、植物を研究してどん底の中で平穏を見出しただの、彼らなんかお構いなしで自分で自分を楽しむだの、自分の子供を孤児院に入れたせいで悪人扱いされてるけど子供の観察は楽しいだの、少女たちに煎餅を奢ったり少年たちにリンゴを奢ったりして満足しただのと言い出す。愚痴がない部分を探すほうが難しいくらい愚痴だらけになっていて、ルソー研究者とかでなければあえて読むほど面白いものでもない。ソローが批判するような人生に失敗した老人像に当てはまるので、反面教師としては役に立つかもしれない。★★★☆☆【楽天ブックスならいつでも送料無料】孤独な散歩者の夢想改版 [ ジャン・ジャック・ルソー ]価格:464円(税込、送料込)
2015.05.21
コメント(0)
![]()
「カラ売り屋」「村おこし屋」「エマージング屋」「再生屋」の四編の経済小説集。「カラ売り屋」はウォール街で仲間と空売り専門の投資会社を経営している北川がギニア湾で海底トンネル工事をしている日本の建設会社を空売りしているものの建設会社に反撃されて苦境に立ち、北川は工事現場に乗り込んで、そこで通訳として働いて会社の問題点を目の当たりにしていた菊谷から情報を入手してレポートを発表して株をクズ値で買い戻して大儲けする話。小説作法としては「ジュ・ヴィアン、ロゥット・スゥイット(今、いく)」とカタカナ外国語に括弧をつけて日本語で説明するのが読みづらくてうざったい。外国の雰囲気を出すためにわざわざ外国語を混ぜているのだろうけど、後の会話が全部日本語になるなら最初から日本語でいい。北川の視点と菊谷の視点を使い分けて、建設会社に問題があるということを最初から読者に対して明らかにしてしまって空売り屋が勝つ結末が見えてしまうのは読者には物語がわかりやすくなるものの面白みに欠ける。「村おこし屋」は福岡県の村議になった「わたし」が入札偽装事件で捕まった同級生の堀井の半生と事件の顛末を語る話。いかにもエンタメ作家がナラトロジーを理解しないまま書いた一人称という感じで、文体がぎこちない。「エマージング屋」はロンドンの銀行で働いている西が行内の抵抗勢力と戦いつつ、IRAのテロにもめげずにジンバブエやらサウジアラビアやらの新興国債権市場を開拓する話。三人称。専門職の仕事内容を書いていて細部にリアリティがあるという点ではこの短篇集では一番よくできているものの、新興国債券市場をめぐる物語というよりは抵抗勢力との内部抗争の物語になってしまっている。西の目的が何なのか、金儲けして成り上がるのが目的なのか、会社に貢献するのが目的なのか、仕事に執着する動機が不明で主人公の人間性や生活感が見えてこなくて、主人公に魅力がないのはよくない。「再生屋」は35歳の弁護士の「わたし」がホテルの民事再生をするものの、二社のスポンサーが再建に名乗り出てもめる話。普通は弁護士は守秘義務があるので担当案件のことを語らないし、主人公の心理描写があるわけでもないので、一人称にする必然性がない。著者は銀行、証券会社、総合商社で勤務して経済の知識はあるらしくて金融や経済の説明は充実していてよいものの、文章技法としては素人っぽくて短文での改行が多くて描写が乏しく、物語の魅力を引き出しきれていないのが惜しいところ。この作者に限らず経済小説の作家は文章が下手で、いかにも他分野からきた人が見よう見真似で小説を書きました、的な仕上がりなのがどうももったいない。下手にフィクションにするよりノンフィクションにしたほうが面白かったんじゃなかろうかと思う。★★★☆☆【楽天ブックスならいつでも送料無料】カラ売り屋 [ 黒木亮 ]価格:781円(税込、送料込)
2015.05.21
コメント(0)
![]()
転時能力者の元製薬会社勤務の作家の速水洋介は、分身して江戸時代にタイムスリップして治療をして仙人扱いされていて、仙術としてカメラで写真をとってやったり、潮干狩りに行ったりして楽しくすごす話。三人称。私はエンタメには疎いのでこの作者は知らないものの、巷で売れているシリーズものの第7作らしい。シリーズものというだけあって文章は書きなれているらしくて読みやすいものの、時代小説かと思って読み始めた私のような初見の読者には何の説明もなく、当然の事のように主人公がタイムスリップしている冒頭部分にまずつまづく。江戸の説明がやたらと多く、物語がなかなか展開しないのにもつまづく。江戸の街を散歩するだけのシーンが数十ページあり、しかもそれがプロットにまったく関連しておらず、作者が調べたことを垂れ流すだけの押し付けがましい説明になっている。タイムスリップものの時代SF小説として何か面白い点はあるかというと、カメラで写真を撮って江戸時代の人を驚かせているだけなので、SFとしてはつまらない。タイムスリップして現代の知識で医療をほどこすという設定もどっかで聞いたことがあるやつで目新しさはない。この設定でなければ書けない部分は、東京にいるもう一人の自分と記憶が入れ替わりつつ妻の流子と江戸の愛人のいな吉と交互にセックスする場面くらいしかない。登場人物たちが楽しく過ごしている場面の合間に江戸の説明があるだけで、プロットも伏線もなく、長編小説なのに物語が展開しない。もしこの小説がシリーズものでなく誰か新人が書いた長編小説だとしたら、小説未満の資料集もどきとしてボツになっていそうな出来栄え。それでも刊行されるというのは、現代人向けの江戸観光案内と若干の濡れ場がこの小説の見所で、ストーリーの面白さよりも時代物のエロ小説に興味がある年配の男性読者向けに需要があるのだろう。なぜ私が自分の趣味から大幅に外れているこの小説をわざわざ読んだかというと、エンタメ小説がどんなもんかという市場調査で親父の本棚にある小説を適当に読んでいるのである。こんなプロットのない資料集もどきの小説でも小説として売れているのだから不思議なものだ。たぶんエロシーンのおかげなのだろう。★★☆☆☆【楽天ブックスならいつでも送料無料】大江戸妖美伝 [ 石川英輔 ]価格:679円(税込、送料込)
2015.05.21
コメント(0)
![]()
誘拐された過去を持つ小説家がその誘拐事件を書いた「残虐記」という原稿を残して失踪する話。●あらすじ小説家の小海鳴海こと生方景子がケンジからの手紙を読み、「残虐記」の原稿を残して失踪して、夫が妻の指示通りにその小説を編集者に届ける。「残虐記」は景子が10歳のときに25歳の安倍川健治に誘拐されて、鉄工所の上にある部屋に一年間監禁されたときの回想。ケンジは昼の顔と夜の顔を使い分けて、昼は乱暴に景子を脅し、夜は小学生のふりをして景子と仲良くなろうとする。ケンジは景子をみっちゃんと呼び、なぜみっちゃんと呼ぶのかと景子が聞くと、みっちゃんは病気で死んだのだといい、部屋には「おおたみちこ」のランドセルがあった。景子は隣の部屋のヤタベさんに助けを求めようとヤタベにメモを残すものの、ヤタベは共犯で覗き穴から景子を見ていたのだった。メモは消え、ヤタベはいなくなり、景子はヤタベの部屋を掃除に来た社長の奥さんに発見されて家に戻るものの、家庭は崩壊した。景子は大人を信用しなくなり、ケンジと交換日記をしたことを検事にも話さないことにする。その後、おおたみちこという名前の行方不明の子供はおらず、発見された死体は子供ではなく、18歳のフィリピン人娼婦アナ・マリア・ロペスと判明する。みっちゃんとは誰なのか、助けを求めたメモはどこに消えたのか、ヤタベはどこに行ったのか、様々な謎が残り、景子はケンジの性的妄想を想像する性的人間になって妄想で真実を見つけようとする。ケンジが赤いランドセルを買ってみっちゃんと名乗って女子小学生ごっこをしていると、ヤタベが買った女にオカマだと馬鹿にされて殺したという妄想。景子は絵画教室で会ったタナベという耳が聞こえない用務員がヤタベだと確信して、ケンジはヤタベの息子として引き取られてホモセックスさせらていて、ケンジがヤタベを喜ばせようとしてマリアを連れてきて、ケンジは寮のミノルがケツを掘られているところを目撃したことを思い出して興奮してマリアをみっちゃんと呼んで監禁して、マリアが子供を産む際に大量出血して死亡してヤタベと一緒に埋めたというのが事件の真相だと検事に言い、ケンジに恋をしたと書いて「残虐記」は終わる。最後に夫は編集者からの電話に対する返信を書き、「残虐記」はノンフィクションではなく一部が改変されたフィクションだと言い、鉄工所の社長夫婦も共犯でケンジがメモを見て景子を助けたという説を提示して終わり。景子の夫から編集者への手紙の一人称と、作家が自身の体験をつづる体裁の一人称。文章は描写のペースが安定していて読みやすく、エンタメ小説としては文章がよく書けているものの、あちこち雑な部分がある。たとえば単行本の188ページに「ケンジは指示を仰ごうと廊下に出て、ヤタベさんの部屋の扉をノックしたが、ヤタベさんは現れなかった」という描写があるが、ケンジはヤタベは耳が聞こえないと知っているのに扉をノックする行為がおかしい。設定と矛盾する描写を校正が見落としたんだろうか。それに140ページでマリアと書いていたのが194ページ以降ではアナと書いていて表記にブレがある。景子の妄想の変化を区別するためにあえて呼び名を変えたのか、あるいは単なる呼称の統一ミスなのか判断がつかない。景子は「私が死んでもこの稿がパソコンの中に留まって誰の目にも触れないこと、それが私の唯一の救いである」と原稿に書いたのに、夫によると原稿が印刷してあって編集者に送れとポストイットに書いてあったという、動機と行動の不一致に意味があるのかないのかもよくわからない。物語の見所は真実がどこにあるかという点。最後に夫が新しい解釈として「社長夫婦とヤタベとケンジは共犯で、ケンジは末端の拉致役だったのにすべての罪をかぶせられて、ケンジが景子のメモを見て景子助け出して、景子は出所したケンジの手紙を読んでキモイ夫を捨てた説」を付け加えて、妻が妄想で導き出した解釈とは違う解釈で物語が終わる。最後に解釈をつけたす部分を物語の面白さとして作者は意図したのだろうか。語り手を疑うというのはナラトロジーにおける一つのテクニックである。しかしそれをやると、物語のリアリティの根幹まで揺るぎかねない諸刃の剣となる。物語における現実の軸をどこに置くかで物語が面白くもなるしつまらなくもなる。この小説の場合は編集者に手紙を送った景子の夫を基準にしているらしいけれども、語り手を疑うことができるということは景子だけでなく夫も疑うことができることになる。夫が事実を書いていると仮定するなら景子が書いていることはうそになるものの、景子が事実を書いていると仮定するなら夫の編集者宛の手紙は嘘になる。読者が語り手を疑うという場合では、私のようなひねくれた読者は作者が想定していない解釈をあえてやりたくなってしまう。「景子を殺したか監禁したかした自称夫と名乗る誰かがいて、景子がノンフィクションとして書いて公表するつもりもなくパソコンに残していた原稿を入手して、自発的な失踪に見せかける隠ぺい工作としてフィクションとして解釈できるように歪曲して編集者に信じ込ませようとした」という解釈もできるかもしれない。「誘拐事件のトラウマで独身をこじらせた景子が自分には夫がいると想像を膨らませて架空の夫になりきってしまい、妻の景子が失踪したと思い込んでいる」という解釈もできるかもしれない。「桐野夏生という作家がどうせ週間アスキーの連載だからミステリ好きな読者は誰も読まないだろうと手を抜いて、どうとでも解釈できてオチがないミステリ小説を適当に書いた」という解釈もできるかもしれない。語り手の言葉が疑われている状況において別の疑わしい語り手による疑わしい解釈を付け足したところで、それは私にとっては物語の面白さにつながらないし、むしろ技術的失敗にみえる。私としてはエンタメ小説は一つの筋道だった面白い物語を提示してくれればそれで十分で、解釈の多様性はいらない。ミステリにおけるどんでん返しはそれまでにもっともらしく見えていた論理を完膚なきまでに論理的に覆すからこそ面白いのだけれど、この小説のように一つの解釈に別の解釈をぶつけるだけでどっちが論理的に正しいかもわからない状態では物語にオチがつかない。ヤタベは捕まっていないし、失踪後の景子がどこでなにをしているかも不明だし、景子と夫のどっちが嘘をついているのかも不明。真相は誰も知らず、語り手も信用できず、読者が小説内の手がかりで論理的に真実を証明することができないというのがミステリで一番しらけるパターン。帯では『誘拐。監禁。謎の一年間。そして、25年後の「真実」。』『誘拐犯と被害者だけが知る「真実」とは……。』とやたらと真実を煽っているものの、結局真実ってなんだったのよさ?真実がどうこうを売りにするなら真実がわからないのは小説の構図として失敗だし、悪く言えば帯の文句は読者をだます詐欺である。そもそも証拠に基づく推理をするのでなく、真実を妄想しただけでオチがないというのはミステリとしては欠陥品で、こんなのがミステリ扱いされてしまったら警察も名探偵もいらんがな。というかそもそもこの小説はミステリではなく、作者はポルノを書きたかっただけなんじゃなかろうか。まじめに真実を考えて損した気分。★★☆☆☆【楽天ブックスならいつでも送料無料】残虐記 [ 桐野夏生 ]価格:464円(税込、送料込)
2015.05.21
コメント(0)
![]()
猫の似顔絵師の銀太郎が探し猫の似顔絵を描いたことから毒猫で将軍の暗殺をたくらむ陰謀に巻き込まれる話。●あらすじ猫の似顔絵師の銀太郎は、謎の老人源蔵、貧乏神売りの丹三郎、かりんとう売りのきの、貸本屋のおさえたちと仲良く暮らしていたところ、銀太郎は町方同心の大吉郎に猫探しのための似顔絵を書かされる。銀太郎は謎の女にも呼び出され、猫の似顔絵を依頼した人物を問い立たされる。銀太郎が商売のために猫明神に行くと、薬草採りの庄兵衛に猫明神についていろいろ教えてもらい、そこでは猫がかつおぶしを選ぶ富くじが行われていて、兵藤家が金儲けのためにやっているらしい。兵藤家にぼやが起きて、銀太郎が火消しを手伝っていると、商売の旗が盗まれてしまう。銀太郎は謎の女の住所を突き止めたところ、女たちは逃げていて、銀太郎は男たちに襲われたところを唐辛子売りの伝助に助けられ、走って逃げて汗をかき、丹三郎と一緒に風呂に入り、銀太郎は庄兵衛を見かけて丹三郎の着物を借りて追うものの見失い、銀太郎の着物を着た丹三郎は銀太郎と間違えられてゴミさらいの連中につかまるものの逃げ出す。銀太郎は謎の女の素性をしり、貸し本屋にかくまうことにすると、そこに丹三郎や源蔵やおさえもやってきて、事情を話し合う。謎の女たちは兵藤家に養子にとられて大奥に行った姫と女中のおとくで、飼い猫の鈴に毒が塗られて女中が死に、姫が犯人だと疑われて天然痘を装って逃げてきた。銀太郎は兵藤家の放火犯扱いされて、放火仲間連中は銀太郎が盗品を持っていると思って追っているらしい。皆で協力して姫を逃がすことにして相談していると、付近で放火による火事が起きて、皆でその場を離れる。銀太郎は猫を見つけて追いかけたところを放火魔たちに拉致されかかり、伝助に助けられるものの、町方同心に捕まってしまうと、そこには何ものかに襲われて怪我をした大吉郎がいた。銀太郎が大吉郎に助けられて貸本屋に戻ると、追っ手が探しに来たので隠し通路から逃げて船に乗ったら、大吉郎も船に乗っていた。大吉郎の話だと追っ手の市助は敵と通じていて、大吉郎を襲った一味の仲間で、大吉郎もはめられた。大吉郎に猫探しを依頼した黒幕、つまりは猫を使って将軍家斉の暗殺をたくらんだのは老中の白神因幡守で、出世を夢見た兵藤家が老中に取り入って猫さがしをしていたのだった。大吉郎が仲間になり、知り合いの宿を借りると、そのあるじの八兵衛は丹三郎を襲った連中で、銀太郎の生け捕りを指示したのは芥取請負の平吉だといい、そこに平吉がやってきたので捕まえて、武家から出たゴミに書いてあった秘密を買い取らせた相手をはかせる。兵藤は老中の弱みとなる旗本の岩田嘉門の遺書を持っていて、それを放火で盗まれたように装っていたのだった。銀太郎たちは大吉郎の実家の錠前直しの仕舞屋に隠れ、姫とおとくはきのとおさえのふりをして、銀太郎たちは絵を売って路銀を稼ぎながら姫の故郷に旅をすることにするものの、姫の路銀が盗まれ、姫は寝込んでしまう。銀太郎が路銀を稼ごうと街をぶらついていると庄兵衛と出会い、客を紹介してもらうと、その人は伝助で、姫は本物なのかと銀太郎に言う。銀太郎がおとくに確かめると、おとくと姫は入れ替わっていた。大吉郎は敵が献上用の猫をつくるために催淫剤を使ってゴミの埋立地で猫を交配させていることを突き止めて一人で行ってしまい、一同は大吉郎の救出に向かうと、白神に差し向けらて遺書を探しに来た侍と戦い、大吉郎を見つけて救出する。兵藤たちはそこで将軍暗殺用の毒猫を育てていたのだった。兵藤の追っ手に囲まれた銀太郎たちはゴミの本に火をつけて人目を集めて難を逃れる。取り調べが進まない中、銀太郎たちが花見に行っていると手がかりの猫を見つける。伝助は将軍直々の用を勤める御庭番だったらしい。三人称。短文で改行が多く文章表現力は乏しい。猫の似顔絵屋という職業設定は独特でよいものの、描写が少ないせいで登場人物の外見の描写と性格の描写が乏しく、キャラ立ちしていないのはよくない。唯一の濡れ場の銀太郎と姫を襲った場面も中途半端で、書くなら仔細まで書いてほしい。姫が銀太郎に惚れていたから丸く収まったものの、そうでなければレイプ事件である。それにそもそも姫が貧乏絵描きの銀太郎に惚れる理由が不明。全体的にプロットを詰め込みすぎで描写が追いついておらず、物語の展開が雑になっている。老中白神、兵藤家と蓮池屋、姫とおとく、銀太郎たちと立場が違う人たちが入り乱れ、その複雑なプロットをつなげるために庄兵衛や伝助といった第三者による偶然の助力に頼りすぎていて、主人公たちはほとんど巻き込まれ損で活躍らしい活躍がない。源蔵が絵筆に仕込んだ吹き矢も見せ場がないままで、小道具が伏線になっていない辺りにもプロットの雑さが見える。小説はプロットだけ読めればいいというものでもないので、ひとつひとつの見せ場をきちんと書いてほしいところ。360ページくらいあるのにどの場面も描写不足なせいで、場面が印象に残らず長編小説としての読み応えがない。★★★☆☆【楽天ブックスならいつでも送料無料】猫も杓子も猫かぶり [ 出久根達郎 ]価格:2,052円(税込、送料込)
2015.05.21
コメント(0)
![]()
表題作の短編小説とその他の掌編小説集。「ゆで卵」は「俺」の一人称で、ケイコの家でゆで卵を食べながらその日の朝に起きた地下鉄サリン事件に巻き込まれたことを回想しつつ、ケイコの膣にゆで卵を入れたり墓場でセックスしたりする話。ゆで卵の匂い、ケイコの膣の匂い、サリンの匂い、ニョクマムの匂いという強烈な匂いを対比させて、生と死と性に絡めて展開していくやり方。短編ということもあるだろうけど、ゆで卵を生の象徴、ニョクマムを死の象徴にする構図ありきで書かれたような意図が前面に出てしまってあざとくなっているのはよくない。膣からゆで卵が産まれるという行為や墓場でセックスをするという行為を生死のメタファーとして読んでくださいねというわかりやすい解釈を作者に差し出されているようで、私のようなひねくれた読者としてはこういう素直な解釈には浅学無知なくせに知ったかぶりする阿呆をコケにする恐ろしい罠があるんでないかと警戒して素直に物語を読めなくなってしまう。物語は地下鉄サリン事件やニョクマムの逸話や友人の自殺に回想が飛び、友人が自殺した後やサリンで大勢人が死んだ後にゆで卵を食っている俺もそのうち死ぬのだ、ということで臭い屁をこいて話を締めくくっている。地下鉄サリン事件を取り上げた割には事件の核心部分である誰がこのテロを起こしたのかという点には触れていなくて、あえて触れないことで事件を主題にするのではなく生死に関する考察を物語の主題にしたいということなのかもしれないものの、それなら地下鉄サリン事件を取り上げなくても友人の自殺だけでも物語は成り立つので、地下鉄サリン事件に対する掘り下げが中途半端に見える。友人の自殺か、地下鉄サリン事件か、どちらかひとつだけを掘り下げて展開したほうが物語の軸がぶれなくて、生死を主題にした小説として完成度は高くなったかもしれない。われわれ読者だって友人や家族の死は経験しているし、テロや地震で大勢人が死ぬ場面にも遭遇している。読者が実体験したリアリティとは違う何か、読者が読むに足る魅力をこの小説が提供できているのかと考えると、ゆで卵を食べながらしみじみと生きていることを実感するという「俺」の死生観は特に魅力がない。他の人にとってはゆで卵は別に生の象徴でもないし、ゆで卵を食べなくても生きていることは実感できる。ポクポクとゆで卵を食べたり、ふぐふぐと匂いをかいだりする独特な擬音交じりの下品な一人称が物語を特徴付けているものの、主人公に魅力があるわけでもなく、読んでいて面白い物語というわけでもない。結局主人公の「俺」が誰なのかわからないというのも物語のつまらなさにつながる。エッセイではなく小説として書かれたようだから、誰の物語なのかはっきりしてほしい。その他の掌編小説は食べ物をテーマにしたもので、どれも一人称。ほとんどは「俺」「ぼく」の一人称だけれど、「くずきり」は「あたし」の一人称、「ステュウ」は「わたし」の一人称になっていて、男性作家の思考のまま女性の一人称にするとリアリティがなくて女性が主人公というよりオカマっぽくなってしまっている。三人称の小説がないのは三人称が書けないのか、あるいは一人称にこだわりがあるのか知らないけれど、一人称の自分語りの似たような構図の話が続くのは読者としては飽きる。語り手を変えただけで違う小説を書いた気になるのはエンタメによくある平凡な工夫にすぎなくて、一人称で書くにしても、いつ、誰が、誰に、なぜ語っているのかというナラトロジーの根幹部分を押さえていないのはよくない。ナラトロジーを追求しはじめるとどんどん物語のリアリティにほころびがでてくる。この作家はエッセイは面白かったような記憶があるものの、小説は全体的に演出があざとくてその分リアリティがない。外国が舞台の物語なら異国情緒のインパクトで多少のあざとさはごまかせるものの、日本を舞台にするとあざとさが際立ってしまってよくない。さもリアリティがあるっぽいような表面的な演出で素人読者を騙すようなハリボテのような感じ。どんなに演出に凝ってもリアリティがないということはつまり心に響かないということだ。エンタメとしては及第点の面白さだけれど、芸術としては不満な水準。★★★☆☆【楽天ブックスならいつでも送料無料】ゆで卵 [ 辺見庸 ]価格:514円(税込、送料込)
2015.05.12
コメント(0)
江戸時代の小咄集。冗談やら誤解やらを含んだ短い会話の応酬でオチがつくやうになつてゐるショートショートみたいなもの。たとへば「はららご」といふ小咄を端的に書き直したらかうなる。「はららご汁を食ったよ」「はららごはいいもんだ」「いいもんかしらんけど今日のは目しか入ってなかった」はららごといふのは鮭の卵、つまりは筋子の汁じゃで、筋子を魚の目玉と勘違いしたといふだけの話なんじゃよ。こんなとんちの効いたようなくだらないやうな小咄が詰まってゐる。小松屋百亀のWikipediaによるとこの本の出版で小咄の大流行の基礎を作ったさうだけれど、当時の生活を知らぬ現代人としては落ちがピンと来ぬ。それにかういふ話はやはり江戸っ子の口調で語られたもんぢゃないと風情がないのでせう、デジタルの画面をつらつら眺めるだけだと物足りぬ、されどもまんが日本昔話風のナレーションを想像しながらゆったり読めばよいかもしらぬ。ちなみに小松屋百亀の本業は浮世絵師で春画を描いていたさうな。おらは草書は読めねえもんで、昔の言葉の勉強がてらに大正時代に印刷されたほうを読んだんじゃが、ただで読めるもんじゃで興味ある旦那は見てくりやれ。近代デジタルライブラリー 聞上手★★★☆☆
2015.05.09
コメント(0)
![]()
夢、イマージュ、狂気等についての考察。博識なフーコーの思想を理解するにはフーコーと同等の予備知識が必要なわけで、これを読むのは大変である。冒頭の「ビンスワンガー『夢と実存』の序論」からして、『夢と実存』を読んだ上で、フロイトの精神分析、フッサールの現象学、サルトルの存在論等々を理解してから読まないといけない。「ルソーの『対話』への序文」も先にルソーの『対話』や『告白』を読まないと理解できないように書いてある。難しいことが書いてあるというわけではないものの、メルロ=ポンティ、ニーチェなどの哲学、心理学、文学全般の予備知識が必要という点で初見では理解しにくいことが書いてあり、かなり敷居が高いので他人に勧められる本ではない。すでに心理学と哲学の専門書を何十冊も読んでビンスワンガーもルソーもとっくに読んでそれに対するフーコーの考察を知りたいというごく少数の研究者には参考になるかもしれないものの、心理学や精神分析学になんとなく興味があるという程度の人ならこの本の優先順位は後回しにしてもよいかもしれないし、あるいはフーコーの思想を解説する別の本を読むほうがよいかもしれない。フーコー自身はフロイトのように実際に精神病の患者と向き合って研究をしたというわけでもなく、先行研究を引用してあーだこーだと言ったり対談したりしているだけなので、その点でも具体性が乏しくてあまり面白くない。そのうえテーマ別に似たような論文を集めたといっても各論が短くて説明不足で、結局フーコーが何がいいたいのかよくわからん。個人的に面白かったのは「父の<否>」で、ルネサンス時代に弟子が師匠を超える英雄的天才芸術家の狂気について考察した部分だけれど、これも短いのでもうちょい掘り下げてほしいところ。★★★☆☆【楽天ブックスならいつでも送料無料】フーコー・コレクション(1) [ ミシェル・フ-コ- ]価格:1,512円(税込、送料込)
2015.05.01
コメント(0)
全10件 (10件中 1-10件目)
1

![]()
![]()