全5件 (5件中 1-5件目)
1
最近のニュースを見たり聞いたりして頻りに感じる事があります。それは大企業に代表される組織の枢要に在る人々の精神的な堕落の在り様なのです。 高級官僚の堕落は夙に指弾されていましたが、最近相次いで発覚している企業による不正は、企業だけの問題ではないかも知れませんが、その影響が甚大なだけに放置しておくわけにはいかない、社会的な大問題ですね。誰が一体悪いのか? 誰でもない市民である私達一人一人にも、その責めが帰せられるべき事なのです。そんな莫迦な、と人々は言うに相違ない。しかしそういう社会的な風土を作り上げ、支持しているのは他でもない、私達自身なのですから。 つまり、天に唾した報いを受けただけの話ですから。一体全体どういう理屈なのか? あまり罪の意識のない大多数の 純粋無垢で、善意の塊 のような市民の皆様方に、懇切丁寧な解説と説明を試みてみようと思います。 昔、と言ってもそんなに遠い時代ではありませんが、制度として階級社会が定着していた時には、社会的に大きな問題が生じた場合には、支配者やそれに連なる所謂支配階級の非を鳴らしていれば、一応事が済んでいた。しかし、押しつけでも拝受した物であっても、民主主義が制度として定着して久しい今日は、形式的には国民乃至は市民と呼ばれる我々一人一人が主権者でありますから、社会の重大事は最終的には主権者の責任であって、逃れるすべはありません。当然に問題を起こしたり、罪なり重大な過失を行った当事者は法律によって罰せられる必要がある。しかし、今日の悪人は、それも性質のよくない極悪人に限って、己の罪などから責任逃れをする術に長けている。穿った見方をするならば、そういう、ポテンシャルとして「社会悪」を犯すことの巧みな「指導者」を出し易い社会制度なり教育の仕組みが張り巡らされていて、容易には人の目に付かないようになってしまっている。ずばり核心を突いて暴言めいた発言をするなら、罪を犯すそのこと自体は「悪」なのではない。その隠れた悪を隠し切れずに、起訴されて裁判で争う場合に明白な証拠を残したのが、責められるべき「過失」なのだ。誰もが、言葉には出さないけれども、胸のうちで温めている「大人の知恵」が、私達の健全な市民社会の底辺の「裏文化」となってしっかりと、いつの間にか根付いてしまっている。健全な倫理観の腐敗そのもの。 昔の日本人は、嘘を吐いたり、悪い事をしたりすると、「天知る、地知る、己知る」と誰も知らないと思う事でも既に 三者 が知っているのだから、天地神明に恥じない生き方をするように、「目に一丁字も無い」無学な、社会の最下層に生きる庶民であっても、いや、そういう貧しさや困難を強いられる人々であったからこそ、清潔で正しい生き方を保持していた。 所が、昨今ではその様な「単純で素朴な」生き方は地を払ってしまっている。激烈な競争社会を生き抜かざるを得ない現代人は、他人を出し抜いてでも、敢えてズルや悪を冒してでも、兎に角勝ちぬかざるを得ない事を骨の髄まで叩き込まれ、教え込まれている。「勝てば、官軍」の歴史の教える教訓は健在そのものなのですね。 いや、それどころか遥かな時を隔てた太古からの不文律の掟、弱肉強食の大原則、生物界を大きく貫いて揺るがない唯一の鉄則は、今日の人間社会においてこそ猛威を振るい、猖獗を極めている。ただ、文明と言う見せかけ、まやかしの衣裳が人々の目を欺き、本質を見えにくくしているだけに過ぎない。つまり、敢えて断言すればダブルスタンダードなのだ。建前の「民主主義、自由平等、人権の国家に依る保証、生命・健康・財産の安全保障、etc. 」と言った偽善そのもののペテンの文化主義と、本音の「勝った者、強者が正義」の動物的な本能主義と。 そもそもがデモクラシー、民主主義とは歴史的・伝統的な「強権主義」のある特定な強者だけが様々な特権を独り占めにするやり方に、強く、強く反発し、反対し、異を唱える所から発して、互いが互いを警戒して監視するシステムとしてスタートしながら、その根底に潜んでいる人間一般に対する不信感や猜疑心を無意識に恥じ、嫌悪する感情からか、それを隠蔽しているうちに自己欺瞞の最たる醜悪な最下部に堕してしまった。だから、人々は「朱は赤だ」と言い切る蛮勇(?)、乃至は、真の勇気を持たなくてはいけないのだ。または、衣の下に鎧が透けて見えている、と大きな声で叫ばなければいけない。 それも歴史上の豊富な実例が私達に教えている、権力のヒエラルキー(ピラミッド型の階層組織)の頂点に立った支配者がどの様な振舞に出るかを。それは一つの例外もなく、自己一個の保身、永世への飽くなき追及と、物欲等に対する貪欲で満足する事のない欲求の、これまた果てしの無い充足・拡充への執着・我執の凄まじさとでありました、一人の例外もなく。 今やグローバルな世界企業として地上に君臨する巨大過ぎるメガ企業の行動は、人体における癌細胞に酷似した振る舞いと化して、一国の近代国家の法律の手の届かない「無法地帯」を気随気儘に闊歩している観があります。誰の目にも余りにも巨額過ぎる暴利を貪り過ぎていると、判断しない訳にはいきません、実際の話が。 ことほど左様に、人は誰彼の別なく際限のない欲望に駆られて暴走する、欲望の権化の如きの動物であります。歯止めやブレーキが利かなくなったが最後、地獄の果てまで権力や物欲を希求して止まない、何とも浅ましい限りの存在である。人間存在を根柢から否定するモメント、絶対者の神を「殺して」我利我利亡者と化した化け物たちが、その予備軍も含めて五万と居る。 この絶望という名に本当に値する事態を眼前にして、私達は茫然自失しているわけには参りません。神におかれてはこの様な事態は既にして織り込み済みなのですから。私達は粛々と、何度でもこの地獄さながらの世界から希望に向かって立ち上がり、静かに歩を進めなければなりません。頑張ろうではありませんか、御同輩諸君! そもそも考えてみるまでもなく、利益至上を目的とした商業や企業の行き着く先に、公共の福祉や安寧という理想や夢は生まれる筈もなく、人類全体の平和や幸福を追求する、全く違った発想やコンセプトに基づく全く新しい、そして真の人類的な希求に発する行動が待望される時代を既にして私達は迎えているのでありました。 そして、本音の、そのまた本音を言えば今度の読み聞かせに始まるセリフ劇構築の活動は、こうした時代の要請に敏感に反応して、新しい時代の幕開けを自らの使命とする、本当に画期的なムーブメントの先駆けとなる模範的なアクティビティー・行為行動と位置づけられるべきものなのです。一隅を照らす光はやがてそのままで、全世界を輝かす大きな希望の灯へと躍進し、大発展を遂げるのは謂わば必然なのです。私達はこれから、その大切な第一歩を粛々と、確実に大地に印したいと念願するばかりなのであります。 私達がこれから示す実に ささやかな半歩、否、百分の一歩、千分の一歩にも満たない踏み出しでさえもが、大局的に俯瞰して見た時には 巨大な前進 を意味することが、ご理解ご納得頂けるならばこれに過ぎる幸いはないわけであります。当事者である「選ばれた」町民の方々御一人御一人には勿論の事ご協力をお願い致すのですが、周囲で温かい眼差しを向けて見守って下さっていらっしゃる人々に対して、此処に改めて熱烈なる御指導御鞭撻の程を衷心より、伏してお願い申上げる次第で御座います。平成最後の年の年末近くに際して、草加の爺・古屋 克征 謹白。
2018年11月27日
コメント(0)
第 三百八十七 回 目 「 酒場川 」 詞:石本 美由起 あなたのにくさと いとしさが からだのなかを 流れます 子犬のように 捨てられた 女の恋の みじめさを 酒と泣きたい 酒場川 / 男のこころも よめないで おぼれるだけの 恋でした 死ぬよりつらい 裏切りを 怨んでみても 無駄なのね 涙こぼれる 酒場川 / 私と暮らした アパートで あなたは誰と いるのでしょう グラスの酒に 酔いしれて 心の傷を 洗いたい ネオン悲しい 酒場川 今回から古典の『 平家物語 』を読み聞かせの台本候補として取り上げてみたいと考えました。歌謡曲の「酒場川」は練習用として、口馴らしと心得てお気に召されたら、トライしてみて下されば十分です。 まず最初に平家物語の あらすじ をご紹介します。 保元の乱(天皇家と藤原家の政治主導権争い)と平治の乱(保元の乱で勝利した平清盛と源義朝の勢力争いで、平氏の優勢を決定づけた戦乱)を経過して、平家は強大な権力を得て、全国の半分近くを治める一大勢力に伸長する。特に、平清盛は武士で初の太政大臣にまで登りつめた。 しかし、威張り散らす平家一門に世の中の不満が爆発する。以仁王(もちひとおう、後白河天皇の第三皇子)の令旨(皇太子・皇后などの命令を記した文書)を受けた源の頼朝が、富士川の戦いで平家方に勝利し、頼朝は鎌倉を拠点に東国の長になる。 源義経の快進撃が開始する。一ノ谷の戦い、屋島の戦いで平家を追撃し、壇の浦の戦いで遂にとどめを刺して決着させる。平家は徳子(清盛の娘)を残して滅亡した。 檀の浦の戦で活躍勝利して平家滅亡に大きな貢献をした源義経であったが、兄の頼朝に恨まれて殺害されてしまう。 このように、平家物語でヒーローとして描かれた義経が、平家を滅ぼして目出度し、目出度し的には終わらず兄・頼朝によって殺されてしまうラストの締めくくりとなっている。 平家物語 巻(かん) 第一 [ 祇園精舎・ぎおんしょうじゃ ] ―― 人が諸行無常(しょぎょうむじょう、世の中の事が常に移り変わり)、盛者必衰(じょうしゃひっすい、時を得て勢いが盛んな者も、やがて必ず衰えて姿を消す)という道理に抗しえなかった例として、最近の平清盛の運命ほど言語に絶したものはなかった。平氏は桓武天皇から出ているが、代々の官職は諸国の受領(ずりょう、地方長官のことであるが、それまでの中央の貴族から見れば番犬にも等しい賤しい存在でしかなかった)であった。 祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響きあり。娑羅雙樹(さらそうじゅ)の花の色、盛者必衰のことわはりをあらはす。 おごれる人も久しからず、只春の夜の夢のごとし。たけき者も遂にはほろびぬ、偏(ひとへ)に風の前の塵に同じ。 遠く異朝をとぶらえば、秦の趙高、漢の王莽、梁の朱异、唐の禄山、是等は皆舊主先皇の政(まつりごと)にもしたがはず、楽しみをきはめ、諫めをもおもひいれず、天下(てんが)のみだれむ事をさとらずして、民間の愁(うれふ)る所をしらざッしかば、久しからずして、亡(ぼう)じにし者どもなり。近く本朝(ほんちょう)をうかがふに、承平の将門、天慶の純友、康和の義親、平治の信頼(しんらい)、おごれる心もたけき事も、皆とりどりにこそありしかども、まぢかくは、六波羅の入道前(さきの)太政大臣平朝臣(たいらのあッそん)清盛公と申(まうし)し人のありさま、傳承(つたへうけたまは)るこそ心も詞(ことば)も及ばれね。 次には、物語の最後に近い所から 屋島の戦い における那須与一の活躍を描いたエピソードを取り上げます。 [ 那須与一 ] ―― そのうちに、阿波讃岐で源氏に味方する者がぼつぼつやって来て、義経の勢力は三百余騎になった。夕刻、小舟に女房が乗り、扇を竿の先に立てて沖に現れた。那須与一が見事にその扇を射落した。 ―― さる程に、阿波・讃岐に平家をそむいて、源氏を待ちける者ども、あそこの峯、ここの洞より、十四五騎、二十騎、打ち連れ打ち連れ参りければ、判官(ほうがん)程なく三百余騎にぞなりにける。「けふは日くれぬ、勝負を決すべからず」とて引き退く處(ところ)に、尋常にかざッたる小舟〈しょうしゅう〉一艘、みぎわへむいてこぎよせけり。磯へ七八段(たん)ばかりになりしかば、舟をよこさまになす。「あれはいかに」と見る程に、舟の内より齢十八九ばかりなる女房の、まことにゆうにうつくしきが、柳のいつつぎぬに、紅のはかまきて、みな紅(ぐれない)の扇の日いだしたるを、舟のせがいにはさみたてて、陸(くが)へむいてぞまねひたる。判官、後藤兵衛(びょうえ)実基(さねもと)をめして。「あれはいかに」との給へば、「ゐよとにこそ候めれ。但(ただし)大将軍(たいしょうぐん)矢おもてにすすんで、傾城を御らんぜば、手だれにねらうてゐおとせとのはかりこととおぼえ候。さも候へ、扇をばゐさせらるべうや候らん」と申す。「ゐつべき仁はみかたに誰(たれ)かある」との給へば、「上手どもいくらも候なかに、下野國の住人、那須太郎資高(すけたか)が子に、与一宗高(むねたか)こそ小兵(こひょう)で候へども、手ききで候へ」。「證據はいかに」との給へば、「かけ鳥(どり)なンどあらがうて、三(みつ)に二(ふたつ)は必ずゐおとす者で候」。「さらばめせ」とてめされたり。 与一その比は廿(にじゅう)ばかりのおの子也。かち(褐)に、あか地(ぢ)の錦をもッておほくびはた(大領端)袖いろえたる直垂(ひたたれ)に、萌黄(もよぎ)おどしの鎧(よろい)きて、足じろの太刀(たち)をはき、きりふ(切斑)の矢の、その日のいくさにゐて少々のこッたりけるを、かしらだかにおひなし、うすぎりふに鷹の羽はぎまぜたるぬた目のかぶらをぞさしそへたる。しげどうの弓脇にはさみ、甲(かぶと)をばぬぎたかひもにかけ、判官の前に畏まる。「いかに宗高、あの扇のまンなかゐて、平家に見物させよかし」。与一畏まって申しけるは、「ゐおほせ候はん事は不定(ふじょう)に候。射損じ候(そうらひ)なば、ながきみかたの御(おん)きずにて候べし。一定(いちじょう)つかまつらんずる仁(じん)に仰付(おほせつけ)らるべうや候らん」と申す。判官大きにいかッて、「鎌倉をたッて西國(さいこく)へおもむかん殿原(とのばら)は、義経が命(めい)をそむくべからず。すこしも仔細を存ぜん人は、とうとう是(これ)よりかへらるべし」とぞの給ひける。与一かさねて辞せばあしかりなんとや思ひけん、「はづれんはしり候はず、御定(ごじょう)で候へばつかまッてこそみ候はめ」とて、御(おん)まえを罷立(まかりたち)、黒き馬のふとうたくましゐに、小ぶさの鞦(しりがい)かけ、まろぼやすッたる鞍置いてぞのッたりける。弓とりなをし、手綱かいくり、みぎはへむひてあゆませければ、みかたの兵(つはもの)どもうしろをはるかに見をくッて、「此の若者一定(いちじょう)つかまつり候(さうらひ)ぬと覚(おぼえ)候」と申しければ、判官もたのもしげにぞ見給ひける。 矢ごろすこし遠かりければ、海へ一段(いつたん)ばかりうちいれたれども、猶扇のあはひ七段ばかりはあるらんとこそ見えたりけれ。比(ころ)は二月十八日の酉の刻ばかりの事なるに、おりふし北風(ほくふう)はげしくて、磯うつ浪もたかかりけり。舟はゆりあげゆりすゑただよへば、扇もくしにさだまらずひらめいたり。おきには平家船を一面にならべて見物す。陸(くが)には源氏くつばみをならべて是を見る。いづれもいづれも晴れならずという事ぞなき。与一目をふさいで、「南無八幡大菩薩、我國の神明(しんめい)、日光権現宇都宮、那須のゆぜん大明神、願(ねがは)くはあの扇のまンなかゐさせてたばせ給へ。是をゐそんずる物ならば、弓きりおり自害して、人に二たび面をむかふべからず。いま一度本國(ほんごく)へむかへんとおぼしめさば、この矢はづさせ給ふな」と、心のうちに祈念して、目を見開ひらひたれば、風もすこし吹きよはり、扇もゐよげにぞなッたりける。与一鏑(かぶら)をとッてつがひ、よッぴいてひやうどはなつ。小兵といふぢやう十二束三ぶせ、弓はつよし、浦ひびく程ながなりして、あやまたず扇のかなめぎは一寸ばかりをいて、ひィふつとぞゐきッたる。鏑は海へ入(いり)ければ、扇は空へぞあがりける。しばしは虚空にひらめきけるが、春風に一もみ二もみもまれて、海へさッとぞちッたりける。夕日(せきじつ)のかかやいたるに、みな紅(ぐれない)の扇の日いだしたるが、しら波のうへにただよひ、うきぬしづみぬゆられければ、奥(おき)には平家ふなばたをたたいて感じたり、陸には源氏ゑびらをたたいてどよめきけり。 あまりの面白さに、感にたへざるにやとおぼしくて、舟のうちよりとし五十ばかりなる男(おのこ)の、黒革おどしの鎧きて、白柄(しらえ)の長刀(なぎなた)もッたるが、扇たてたりける處にたッて舞(まひ)はじめたり。伊勢の三郎義盛、与一がうしろへあゆませよッて、「御定ぞ、つかまつれ」といひければ、今度はなかざしとッてうちくはせ、よッぴいてしや頸の骨をひやうふつとゐて、舟底へさかさまにゐたをす。平家の方(かた)には音もせず、源氏の方には又ゑびらをたたいてどよめきけり。「あ、ゐたり」といふ人もあり、又「なさけなし」といふ者もあり。
2018年11月21日
コメント(0)
第 三百八十六 回 目 ―― 天才喜劇役者・渥美 清の光と影 ―― 「 捨てられて 」 ( 詞:鈴木紀代 ) でもね あの人悪くないのよ 噂信じた私が悪い そうよ一人に なるのがこわくて 尽くしすぎて ささげすぎて捨てられたの / どんな愛でもいい すがれるものなら どんな愛でもいい やり直せるなら でもね帰る部屋は 部屋はもうないの だからだから 今夜はつき合ってよ / でもね あの人憎めないのよ ひどい男というのはやめて そうよ 悲しい嘘がなければ あの人よりやさしい人いないはずよ / どんな愛でもいい つめたくされても どんな愛でもいい そばにいられたら でもね 大事な鍵も 鍵も返したの だから だから今夜はつき合ってよ / どんな愛でもいい すがれる ものなら どんな愛でもいい やり直せるなら でもね 帰る部屋は 部屋はもうないの だから だから今夜はつき合ってよ ご存知の通り、長山洋子の往年のヒット曲です。私もこの曲に惹かれた一人ですが、男なら大概こんな風に女性から下手に出られたり、甘えられたりしたら黙っては居られなくなる筈ですよ。ただし長山洋子程のいい女だったら、という条件が付きますが。これが酷いブスだったりしたら忽ちに興ざめしてしまうでしょうけれども。( ここで、私としては言い訳をしておかなくてはいけないという気持ちに襲われますので、一言だけ弁解させて下さい。私は男として女性に所謂ブスなる形容に適合する人は居ないと、固く信じている者であります。この事に関しては以前に一冊の本にするくらいの分量を書き連ね、私の意見を述べて居りますので、極めて簡略に表現するだけに留めます。つまり、ブスという言葉に附き合えばその女性は人間ブスなのであって、女性としての魅力に欠ける訳ではないと言う事です、お解りになりますでしょうか、神様が人間をそのように御作りになられたのだから、であります。では、先を急ぎましょう )絶世の美人でなくってもちょっと見が可愛くて愛嬌があれば、一晩くらいなら附き合っても構わないか、という気分になるでしょう。しかししかしです、大勢の男達から文句なくちやほやされるセクシーな美人というものは、なかなかこの歌のように下手には出てくれない。そうと相場が決まっている。だから彼女の存在価値が謂わば低い所で、低止まりして、見る目を持った男から不当に侮蔑されたりもする。同様の現象が所謂イケメンの男にもよく当てはまる次第となっている。でも労せずして一時のパートナーに恵まれる彼は、大体において成長が、人間としての成長が低い所で停止してしまう。 ここからが最初に掲げた 渥美 清 論の主題に入ります。彼も役者として自分を売り出すからには恰好いい二枚目をやりたかった筈であります。しかしながら、彼の持って生まれた風貌が、風采がそれを許さなかった。反対に、極端な三枚目を演じるにはうってつけ、と世間の非情な視線は彼に教えたし、聡明なことに於いては人後に落ちない田所康男は悟るのだ。アホな役柄を演じて人々の笑いを誘う、これ以外に自分がスターへの階段を駆け上がる道はない。そして彼は車寅次郎というはまり役でスターダムの頂点に上り詰めた。巨万の富と同時に国民的な人気者としての地位を不動のものとできた。 同時に、その反動というか、大きな見返りが要求されていた。フーテンの寅イクォール渥美清というジレンマなのだ。私自身俳優の経験はないし門前の小僧として数十年を、芸能界の人々の身近にあって生活してきた 岡目八目 的な観点からすれば、人に笑われて人気稼業とするのはある種人間技を越えた途轍もないエネルギーを必要とするようで、とても傍目に見る「気楽な稼業」などと嘯いていられる、生易しい業ではないようであります。ずばり神業に近い所業だと断じておきましょうか、少なくとも天才と呼ばれる程の名人上手にとっては。 国民栄誉賞に輝いた天才人気役者・渥美 清はまさにその典型でありました。私とてあの晩年の映像記録を見なかったなら、あれ程の孤独地獄が輝かしい栄光の陰に色濃く浮き彫りされていた事実に気付かなかったでありましょう。田所康男の賢明さと、その彼の聡明極まりない所業が結果した虚構の栄光の蔭での、巨大な孤独と塗炭の苦しみ、砂を噛む様な空虚さと。このジレンマ、矛盾、真空の矛盾、煩悩そのものの煩悩、人間存在そのものに発した暗黒の虚無…。 彼の境地は、荒野に叫んだ狂気寸前のリアの怒りと悲しみに酷似していたと、敢えて断言しよう。更に言えば、救世主と称されるイエスキリストの対極に置かれた、ピエロとしての負の、余りに悲し過ぎる「救いの人」であった。人間の身で、誰が一体よくこの業苦に耐え得ようか…。 そうです、少なくとも生身の人間には不可能なのですね。男からも女からも文句なく愛され、憧憬と羨望の眼差しで見られる恰好いい二枚目俳優には、逆立ちしても理解出来ない惨めで侘しい限りの悲哀が、零下百度以上の凍える孤独の痛さ侘しさの極みが身を苛む。それはもう想像を絶した心の寒さそのものなのですから、堪ったものではありません、実際の話が。 私は何故に今頃になって亡くなった喜劇役者の話を持ち出したのか、それは落語家が解り易くその例を示しているように、語りと言う芸の力が笑いを呼ぶには最も重要だと言う事を示したかったからにほかなりません。医学上の最新の研究成果である免疫キラー細胞の増加現象を持ち出す迄もなく、笑いが精神や肉体に及ぼす良い影響は、過去の経験的なデータからも伺い知ることの出来ていた重要な事実でありますが、この笑いを取ることは役者個人の技量に負う所が非常に大きいのであります。台本の構成やセリフ回しだけではカヴァーし切れない要素が大なのです。つまり天才型の役者の出現に頼らざるを得ない。 どうしたらよいか? ただ辛抱強く待つしか方法はありません。相互に切磋琢磨を繰り返しながら、その時期を待望しながら、根気強く待つのです。天才は、不世出の喜劇の名人上手は必ず生まれて来る筈なのですから。そして、この段階を迎えたら人材を野辺地以外から募ってもよい。無論外国人であっても一向に構いません。国技と呼ぶ大相撲でハワイやモンゴルその他の諸外国から助っ人を呼び、発展に貢献を仰いでいる例がありますからね。 天才的な喜劇役者待望論は謂わば最後の仕上げに属する事で、それなくしては私達の考える本当の意味のセリフ劇が成立出来ないという意味合いでは、決してありません。相撲の例を挙げた序でに言えば、横綱や大関の存在は大相撲全体の華と言えますが、関脇以下の関取や幕下から序の口に至る力士の全体が、大相撲と言う組織を構成する大切な要素をなしている事実と同様に、役者や俳優を志し人々に貢献しようと言う人々全体が、重要であり、社会全体として待望されなければならない大切な役割の担い手である事に、間違いはないのであります。 又、事の序でに申せば、大相撲が神事に始まりその伝統を受け継いで発展を期する物であるならば、これから新たなスタートを切るニューセリフ劇もまたその中心に神事の部分を蔵して居り、それを大切に継承発展させる事で、人類全体への基礎的であるが故に極めて重要な寄与が期待される大事業なのでありますね、実は。 皆さんも御存知の如く相撲の原理はシンプルそのもの、土俵と呼ばれる円の中で廻し意外は身に付けない力士同士が勝ち負けを争い、勝負の決着をつける。原理原則は単純にして明快ですが、内容的には極めて多彩にして、内容豊富でありますね。それはまるで人生その物を象徴するかの如くであります。その極意も、押さば引け、退かば押せ、が基本でありながら、突き押し、投げ、打っちゃり、すかし、掬い、ひねり、足技などなど多岐にわたりますし、土俵上での勝敗は一瞬にして決まる場合が殆どなのですが、日頃の絶え間ない血の滲む様な厳しい鍛錬と修行がそれを支えている。実に、実に奥が深いのであります。まさに伝統的な日本文化の精華であり心髄の名に相応しい存在であります。 新たにスタートする私達のセリフ劇も、この大相撲に追いつき追い越せ、いやいや、可能性としては数倍ものスケールと重要性を秘めているどころではなく、明瞭に顕在化させてもいる、間違いなく。心と肉体とは密接なつながりによって結びついて居り、どちらが主体でどちらが客体という区別もありません。健全な身体があってこその健康な精神ですし、逆もまた然りであります。どちらから入っても行く着く先は円満なる生命体そのものであり、活力に溢れた魂の十全な在り方であり、その豊富なエネルギーの放射活動でありましょう。 そして何事でも基礎や基本の所が肝腎であります。放置しておくと知らないうちに病気や障害に発展しかねない、未病状態の些細なストレスの残滓を取除き、延いては我々の人生を根柢の所で保証してくれる、そしてまた、明日への新たなエネルギーと活力、喜びを齎す素晴らしいエンターテインメントとしてセリフ劇を育て上げる意義は、どれほど強調しても強調し過ぎと言う事はない筈です。それが今、私達の目前に準備されているのです、さあ、皆さん方もどうぞそれぞれのお立場でご協力と御支援とを惜しまないで下さい、どうか。 それから、今回の冒頭に何故わざわざ渥美 清の例を持ち出したのか、ということですがそれはこういう理由でした。つまり、従来型の芝居や劇の在り方ではこの様な悲劇は、起こるべくして起こった実に痛ましい悲劇でありますが、我々の目指すセリフ劇ではあり得ない事です。主役たる観客も、そしてその真の主役を支えるドラマを演じる役者の側にも、健全な成長と自然な発展だけが保証されているウイン・ウインの関係だけが存在しますので、「犠牲者」が出る要素は皆無なのであります。その事実をアピールする目的で、具体的な解り易い例としてお話させて頂いた次第です。
2018年11月15日
コメント(0)
第 三百八十五 回 目 以下の文章は私が野辺地の町の人々に向けて趣旨を説明する機会に恵まれた場合の、防備録として纏めたものであります。参考にして頂けたなら幸いであります。念の為に申し添えますがこれは万人に向けた行動白書としても、利用可能ですので、御一読願いたいと切に念願いたしますので、どうぞ宜しくお願い申し上げる次第であります。 なぜ今、野辺地なのか? 音読読み聞かせの会 発足の呼び掛け 通常の 予算 を使わずに、潜在している 資源 の有効活用を図るのは、一体何故なのか…。 東京や大阪といった大都会には大勢の人々が集まり、溢れかえるような盛況を呈している。それに反して地方の田舎は寂れる一方です。中央政府の内閣も夙(つと)に地方創生を声高らかに唱えて、懸命の努力をしようとしているかにみえます。しかし天文学的な財政赤字を抱える現状では、決め手を欠く感がぬぐえません。焼け石に水、自分達の所までは乏しい予算はとても廻っては来ない。そうした絶望や焦燥が強く人々の上にのしかかっている。 自分達の事は自分たちで解決せよ。地方創生とは所詮、天はみずからを助ける者をしか、助けない。そう駄目を押しているに過ぎないでしょう。 そこで、地方に何があるか、野辺地町に一体どのような可能性と未来の発展に向けた、明るい道筋や展望が許されているか……?! 野辺地には様々な資源が眠っています。豊かな自然環境、緑豊かな山々と多様な魚介類を育み育てる広大な海・陸奥湾。そしてその土地に密着した伝統ある味わい深い文化。人々の優しく奥床しい、温かな心根とニュアンスに富んだ言葉と。 今回、よそ者としての私・古屋が着目しているのは、方言の醸し出す魅力と、人々が生まれながれに身に備えている優しい心根であります。それだけ、なのであります。 わざわざ莫大な予算を無理して工面する必要もないのです。少なくとも、最初の段階では人々の善意の奉仕精神さえ得られれば、万事は O K です。嘘ではありませんで、その後も序でに申し上げれば、ほんの少し奉仕精神を持続して頂ければ、全て上手く運ぶに相違なく、少なくとも金銭的な面での心配は皆無でありましょう。 そんな莫迦な、そんな上手い話がある筈がない。世の常識はそう言いますが、そうなのです、この計画は常識外れの話には違いありませんが、現在ただ今世に蔓延っているペテンや詐欺の類とは、別次元の発想から生まれている、正真正銘、掛値なしの本物のチャレンジ的試みなのです。 第一に騙す意図もありませんし、騙される筈もないことです。最初から最後まで徹頭徹尾に堅実その物ですし、嘘や偽りなどが入り込む余地は全くないのですから、ご安心下さい。 原理は単純明快ですし、その効果は即座に万人が実感し、即時に証明可能ですから、疑いや不審の入り込む余地もありません。 そこで、原理とは何かについて最初に御説明致しましょう。古代に 手かざし という原始的な治療法、つまり癒しのテクニックが広く活用されていました。 手あて とも言い、手当つまり治療の語源ともなっているごく手軽で、誰にでもそれこそは子供にでも利用可能な「手軽な医療行為」であります。 これを身体ではなく心、精神、魂に応用する。その場合に手ではなく言葉を使用する。つまり、心の中の患部に「翳し・当て」て健全な状態に戻してあげる。私達の内面にある心理面の軽い癒し効果を意図的、意識的に行い心の健康と平安とを維持・強化する。これが本質的な目的であり、目標であります。 そして、身体の場合には手を使ったわけですが、心には言葉を使います。但し、その場合に言葉は心の内部の軽度の痛みや疵、炎症などに有効な「工夫され、洗練された一連の詩句・散文」を用います。ただそれだけの違いしかありません。そしてヒーラー・治癒する者としての人(俳優・役者)が治療を受ける側の人(観客・見物人)に可能な限りの温かな気持ちを込めて言葉やセリフを発語する。この一事が決め手であり、非常に重要な要素となります。 ですから、私達の目指す新しいコンセプトに依る読み聴かせやセリフ劇では、読み手や役者はプロである必要性は全くありません。むしろ、稚拙でたどたどしい素人の方がより相応しいとさえ、言い得る。弁舌爽やかで立て板に水の如くに澱みなく話す人には、人の真実の心、優しさや温かさが籠りにくいためであります。 しかしながら、町興しという目標を実現させるためには、その素人集団の中から、それを生業(なりわい)とするプロフェッショナル・職業人が登場することが、是が非でも必要なのであります。が、それは追々考える事として、当面は誰にでも可能な素人の「手当人」が一人でも多く名乗りを上げて頂く事が、今後の展開を容易にするという点で、重要かと思われます。 しかし、と人は用心深く警戒するでしょう。その目的が仮に素晴らしい目的に役立つとしても、それだけでは、私達はこれまでしていなかった新しい活動や行動を、自ら進んで積極的にしようとは思わないし、思わない事に意欲的に参加するのは難しいし、それを継続させるのは猶更に困難でありましょう。 御心配には及びません。私達はどんなに無口な人であっても生まれながらに言葉を発して、生きて行く習性があるし、生活の必要上からも会話して相互の考えや欲求を伝達し合う、生活習慣を維持する必然があります。言葉を発する事自体はごく自然な事であり、特別な事柄ではありません。 そして発語してみれば直ぐに解ることですが、言葉を発する行為は健康増進に役立つばかりではなく、それを継続すると非常に楽しく、愉快なことであることが納得出来る筈です。それも一人の例外もなく。 それが自分一人の楽しみや満足の為だけでなく、他の人の役に立つ、更にはその心の癒しや治癒に貢献し延いては、広く世の為、他人(ひと)の為に大いに寄与する重要な行為に無理なく繋がって行くのですから、喜びや遣り甲斐はいやが上にも大きくなろうと言うもの。 ここで、話はちょっと飛躍するように感じられるかも知れませんが、非常に大切な点に触れさせて頂きましょう。つまり、この音読や読み聞かせ、そしてセリフ劇に発展する一連の活動が目指す所は、申すまでもなく野辺地の町起こしなのですが、その最終的な目標は日本中はもとより、世界中から人々を招き寄せる爆発的な起爆剤にする事にあります。その際に、新鮮な魅力あふれる有用なセリフ劇公演を中心にして町全体が真心からのホスピタリティー精神を発揮して、ゲストを迎え入れ歓待することであります。 町の人々の温かな心と、そこから発する衣、食、住、自然環境の全ての要素に工夫を凝らした持て成しの在り方が肝要であります。全ての面での、隅々にまで神経を通わせ、行届いた用意の万端なのであります。それでこそ、画期的なコンセプトに基づく「癒しの町」が本当の意味で成立するのでありますから。 今の時点では、この程度にととどめておきますが、この最終の目標に向けた町民の意識改革に関しましては、音読・セリフ劇活動と並行して説得力のあるアピールを、継続して辛抱強く行う必要もあるでしょう。一見して、気の遠くなるような青写真のように感じられるかも知れませんが、そうではありません。 一旦取り掛かったら一瀉千里、心を一つにする事さえ出来れば、それこそ一息で理想は達成出来る。不可能を可能に変えるのは私達の心次第なのであります、本当の所。 私がこのような文章を書いているのは野辺地の人々を説得する目的ではありません。もし説得という事を言うのであれば、その説得すべき第一の対象は私自身でありましょう。私は劇と野辺地の町興しを結び付けて考えた時に、直観的にその成功を確信しました。ただ迷っているのは、確信が無いのはそのプロセスや手順に関するものだけなのであります。ただし今では、それも迷いの霧が晴れつつあります。つまり神様の言う通りに、という一事によって。私は絶対的に目に見えない手によって守られています。 ですから迷ったり、心配する事など少しもないのです。その時点でのベストを尽くすこと。それだけなのです。 自分が今の時点で出来る最善と思われることを専心に行う。機が熟せば自ずから熟した実が樹から落ちるように、自然にその時が向こうからやって来る。そう信じる事が出来た今日この頃なのであります。 ここで少し話題の方向性を変えてみようと思います。私は今度の音読並びにセリフ劇での役者や俳優には誰でもなり得る、特別な資質なり条件は無い、ただ発声する言葉・セリフに人間としての温かさなり、優しさを込めればそれで十分なのだと、主張致します。ここは俳優論・役者談義を長々と開陳する場所ではありませんので、ごく手短に端折って、誰もが素朴に抱くであろうと想定される、疑問に添う形で述べることにしましょう。 もし仮に、全くの初心者がこの度の話を耳にして、何となく興味を惹かれたので、何の経験もない自分に役者のような真似事が出来るのだろうか、と考えたと致しましょうか。 それに対して私は即座に次の様にお答えします。大丈夫です、特別な事は何も必要ではありません。普通に「人様の為に何か役に立ちたい」というボランティア精神さえ取り敢えず発揮して頂けるのであれば、と。 皆さん方はきっと私の答えに違和感を覚えるかも知れません。何故なら世間で通用しているドラマや劇ではスターやらアイドルと呼ばれる美人やイケメン男性が登場して…、と言うような先入観念を持っておられるからです。それはショーとして見せる物としての従来型のそれであり、私達の提案する新しいコンセプトによる物は似て非なる物と、ひとまず考えて頂いた方が解り易いかも知れませんね。 そもそも劇や芝居の本来の形、或いはオーソドックスな在り方を考えた場合には、私達のこれから展開しようと考えている方が本式なのであって、世間で通常行われている物は邪道だと此処では正直に言い切っておきましょう。 つまり、芝居や劇が行われる場所・劇場に於いては、主役と呼ばれるべきなのは平土間や桟敷席にいる観客であるべき筈のものなのです、本来は。それが様々な事情によって歪(いびつ)で片寄った形態として発展を遂げ今日通常行われている形に定着した、のに過ぎないのですよ。ですから私達の新提案は何のことはない、芝居や劇を本来の形に戻そうという、極めて正常そのもののパフォーマンスであり、表面的な奇を衒った怪しげなまがい物などでは断じてありません。 従って、舞台上で真の主役を、観客を本当の意味で盛り上げ、サポートする役者や俳優側は自己の正しい役割を弁えた行動とセリフ廻しを、本質から考え直し演じる必要があるのです。 こう述べて参りますと、ますます役者なり俳優の存在が難しく、困難な仕事をこなさなければいけない様な印象を受けるでありましょうか。ドントウォ―リィ、御心配は御無用。ただ、本物の人間であるように心掛ければよい、そう申し上げましょう。役者修行、俳優修業とは結局、人生を正しく人間らしく生きる事に直結している。その意味で難しく、奥が極めて深いと言い得るでしょうが、特別な事柄ではありません。何故なら私達は各自の人生を現に、そのように生きているのでありますから。 そして、役者・俳優としての極意を一言に要約して申せば、自分らしさを最大限に与えられた役に籠めて演じる。この事に尽きる。人生という舞台でも私達は神から振られた自分と言う役柄に、真摯に向き合って誠実に生き切る、それだけが真に求められている様に。人真似ではない、自分らしさの追求だけが真実に求められている。それもフィクションの上では、王様から乞食まで、性別を越え、通常のキャラクターの枠を逸脱して、殺人者から偽善者はもとより、極悪非道な独裁者、卑劣な裏切者から清浄無垢な聖者まで、およそ人間がなり得る限りのタイプになり切ってパフォーマンスする「特権」を与えられてもいる。一人一代にして極限最多の人間性を体験し尽くす神業をも、可能性としては取得できる、そうした一種特別な立場が役者・俳優の役割であり、特性でもある。 セリフについても一言。上手であるよりも、温かさや優しさを言葉に込めることが肝要です。言葉を大切に発声して、意味が相手に伝わりやすいように心掛ける。これだけが肝腎要のポイントで、その他の事柄は枝葉末節に類することにしか過ぎません。 最後に残るのは、慣れる事であります。最初は誰でも大変と感じるかも知れませんが、案ずるより産むが易しという言葉の教えの如く、慣れが全てを解決してくれます。安心して、取り敢えず最初の一歩を踏み出してみることです。その後の事は、神様がお守りくださり、お導き下さいます。心配御無用、さあ、及ばずながら不肖私も全力を尽くし、お手伝いさせていただきますので、さあ、さあ、どうぞ!
2018年11月09日
コメント(0)
第 三百八十四 回 目 芝居台本 『 リア王 』 その五 18 〔 第四幕 第二場 〕 アルバニー公の館の前 ゴネリルとエドマンドが登場。 ゴネリル ようこそ、我が館に。 オズワルドが館から出て来る。 ゴネリル あ、旦那様はどこにおいでだった? オズワルド 奥にお籠りです。敵軍の上陸、奥方様の御帰館、グロスター殿の陰謀、その御子息の御忠節についても、委細お話し申上げましたが、公には手前を間抜け呼ばわりまでなさり、言う事があっべ(逆様)だとの仰せ ― ゴネリル (エドマンドに)では、あなたはお会いにならないで。お戻りになって、エドマンド、弟の館へ、そして一刻も早く召集を終わるように促し、その指揮を取って下さいまし。(形見を渡しながら)これを。では、御機嫌よう。 エドマンド たとえ一命を失おうとも、すべてはあなたの御手に! ゴネリル またお目に掛かりましょう、グロスター伯爵!(エドマンド退場)ああ、こうも違うものかしら、同じ男と男で! オズワルド あれに旦那様が。(言い置いて退場) アルバニー公が登場。 ゴネリル この間までは口笛の御挨拶位して頂けましたのに。 アルバニー おお、ゴネリル、安心できぬのはその気性だ、己の命の源を蔑ろにする情知らずに人の道が守れる筈が無い。 ゴネリル もう沢山! そんな事は愚にも附かぬお説教というもの。 アルバニー 智慧も徳も悪人の目には悪としか映らぬらしい。 ゴネリル あなたの肝は白い乳で出来ているらしい! 既にフランス王はこの平和の領土に旗を翻し、兜の羽飾りも勇ましく御領地を狙っているというのに、あなたは教訓好きの阿保よろしく、「ああ、何故こんな無法な事を?」と歎いているだけの事。 アルバニー 己の顔を覗いて見るがいい、悪魔! ゴネリル ああ、阿保がたわいもない事を! 使者登場。 アルバニー 何の知らせだ? 使者 おお、一大事にございます、コーンウォール公がお薨(かく)れ遊ばしました、御自分の召使の手にお掛りになって、は、グロスター伯の残った片眼を抉取ろうとなさったので。 アルバニー グロスターのまなぐ(眼)を! 残った片目を失ったと言うのか? 使者 は、両目共に。この手紙に、奥方様、至急御返事をとの事、お妹様からにございます。(手紙を渡す) ゴネリル (傍白)見様によっては、それも好都合、ただ夫に死なれた独り身になった妹の傍には私のグロスターが。でも、見方をを変えれば、満更不吉とも言い切れない ― 読みましょう、返事は直ぐに書きます。(退場) アルバニー 息子はどこに居たのだ、父親が眼を抉取られ、酷い目に遭わされていた時? 使者 奥方様のお供でこちらへ。 アルバニー ここには来て居らぬ。 使者 は、存じております、お戻りになるところを、途中でお目に掛かりました。 アルバニー この非道の仕打ちを知っているのか? 使者 は、それどころか、みずからお父上を中傷し、わざとその場をはずし、公爵夫妻に思いのままの御処分が出来るように仕組んだのでございます。 アルバニー グロスター、この身は必ず生き永らえて、王に尽くしてくれたお前の真心に礼を言い、抉られた眼の敵は取ってやるぞ。さ、奥へ来てくれ、なお知っている事は何でも聴かせて貰いたい。(二人退場) 19 〔 第四幕 第三場 〕 ドーヴァー附近の仏軍陣地 ケントと紳士が登場。 ケント 何故フランス王にはこうも慌しく御帰国なさったのか? 紳士 何か本国に大事を控えての事とか。 ケント 後の指揮は誰が? 紳士 元帥ラ・ファー将軍に。 ケント 例の手紙をお読みになって、お妃にはさぞかし深くお歎きの事と思うが? 紳士 左様。直ぐその場でお目をお通しになられ、一二度、切なげに おど様(お父様) と如何にも胸を絞るような声をお漏らしになりました。 ケント で、それ以来、お目に掛かっては居られぬのだな? 紳士 左様、一度も。 ケント 実は、御受難のリア王の事だが、今この町においでになる。だが、何としても姫君コーディリア様にお会いになりたがらぬのだ。余りの恥ずかしさにお心怯むからであろう。さて、これから国王のもとに御案内しよう、さ、どうぞ一緒にお出でを。(二人退場) 20 〔 第四幕 第四場 〕 前場と同じ 軍鼓、軍旗、その後にコーディリア、侍医、将士の一隊が登場。 コーディリア ああ、確かに父上に違いない! 直ぐにも捜索隊を出しておくれ、人間の智力よって、人間の乱れた心を元に復(かえ)す道はないものだろうか? 侍医 方法はございます。休養、まさにお父君には欠けておいでなのです。 使者が登場。 使者 お知らせ申上げます! ブリテンの軍勢がこちらに向かって攻寄せて参ります。 コーディリア 予想通りです、敵を迎え撃つ準備は既に整っている。ああ、お父様、御為を思えばこそ、こうして出て参りました。思い上がった野心から、好んで戦(いくさ)を起こしはしない。(一同退場) 21 〔 第四幕 第五場 〕 グロスター伯の居城 リーガンとオズワルドが登場。 リーガン でも、兄上の軍勢はもう出陣したのだろう。 エドマンド卿はお館に着いても公爵とはお会いにならなかったとか? オズワルド はい、左様で。 リーガン エドマンド宛の姉上の手紙というのは、どういう用向きなのだろう? オズワルド 内容は存じませぬが。 リーガン 実は、あの人は大事な使命を帯びて急に旅立ちました。父親の生命にけりをつける事と、敵の兵力を探る目的で。 オズワルド それでは直ぐお跡を追わねば。 リーガン 何もかも解っている、あの人にしてみれば、お前の所の奥方よりは私の手を取る方が手っ取り早いというもの。あの人に遭ったら、(何か形見の品を渡して)これをお渡ししておくれ。では、行っておいで。(二人退場) 22 〔 第四幕 第六場 〕 ドーヴァー附近の田舎 グロスター 、続いて百姓姿のエドガーが登場。 グロスター まだ大分掛かるだろうか、例の岡の頂きまでは? エドガー 今、それに掛かるところだ、この通りなかなか骨が折れる。 グロスター 何だか平らなような気がする。 エドガー ひどい登りだ。それ、潮騒(しおさい)が聞えよう? グロスター いや、何も。 エドガー それはおかしい、してみると、目の激しい痛みの為に、ほかの感覚まで痺れてしまったのかな。 グロスター なるほどそうかもしれぬ。お前の声も変わったような気がする。それに言葉遣いも話す事柄も前よりましになったようだ。 エドガー とんだ大間違いだ。さあ、ようやく着いた、動いてはいけない、恐ろしくて目が眩みそうだ。もう見るのはよそう、目が廻って、引きずり込まれでもしたら大変だ。 グロスター そのお前が立っている所へ私を連れて行ってくれ。 エドガー さあ、手を。よし、ここは崖縁まで精々一フィートしかないぞ。 グロスター 手を放せ。さ、これを遣る、別の財布だ、宝石が一つ入っている、貧しき者の手に渡れば結構一財産になる。別れの挨拶をして、去って行く足音を聞かせてくれ。 エドガー では、これで、御機嫌よう。 グロスター お前の事は忘れぬぞ! エドガー (傍白)人の絶望をこうまで弄ぶのも、詰りはそれを直してあげたいからだ。 グロスター ああ、大いなる神々! (膝まずく)私は今、この世と断ち、心静かにこの業苦を振捨てようとしております。もしエドガーが生きておりますならば、おお、何とぞあれをお見守り下さいますよう! さあ、いよいよお別れだ。 エドガー それ、離れていますよ、御機嫌よう! (グロスターは前に倒れ、気を失う)だが、積もりだけで大事な命を失う事が無いとは言えぬ。(声を高くして)生きているのか、死んでいるのか?おい、如何した!(傍白)こうして一度は死んで貰おう、が、やがて生返るのだ。(声を高くして)お前さん、何処の人だね? グロスター 行け、死なせてくれ。 エドガー 蜘蛛の糸、羽や空気ならいざ知らず、あんな高い所から落ちたのでは、まずは卵よろしくぺしゃんこになるところだ。生きているのは奇跡というものだ。もう一度、物を言って呉れ。 グロスター だが、俺は飛び降りたのでは? エドガー うむ、この白い絶壁の、それ、あの恐ろしい天辺からな。上を仰いで見な。 グロスター 情けない事に、その見る目が無いのだ。 エドガー さ、腕を持ってあげよう。どうだね? 脚の具合は? グロスター 何ともない、何とも無い。 エドガー 不思議な話があればあるものだ。さっき、あの崖の頂きで、誰かお前さんの側(そば)にいたようだが? グロスター 哀れな乞食だ。 エドガー 下から見ていたが、あれはてっきり鬼か何かだ。全く運のいい父つぁんだよ、まあ、神様は何もかもお見通しなのさ。 グロスター 始めて肝に銘じた。今後はどんな苦痛にも堪えてみせよう。 エドガー もう怖れる事は無い。気を大きく持つことだ。 リアが登場、野生の草花やイラクサ(刺草)を冠にしている。 エドガー 待て、誰だ、あれは? 正気の持主なら、あんな恰好(かっこう)はしないね。 リア 黙れ、俺は国王だぞ。 エドガー (傍白)おお、胸が張裂けそうだ! リア あいつの弓は何だ、まるで案山子(かかし)だな。おお、当たった、ひゅうっ!合言葉を言え。 エドガー 花はマヨラナ。 リア 通れ。 グロスター あの声には聞き覚えがある。 リア はあ! ゴネリルだな、白い鬚など生やしおって? ふん、奴等の言う事は当てにはならぬ。 グロスター あの声音(こわね)は忘れぬ、王では? リア (自分の冠に手を遣り)うむ、指の先まで王だぞ! 頼む、薬屋、俺の頭の中を浄めてくれ、さ、金を遣る。 グロスター ああ、大自然の傑作がとうとう廃墟に! 私がお解りになりますか? リア その目でよく憶えている。さあ、この果し状を読め。 グロスター おお、神はいまさぬのか! 紳士が侍者数名を伴って登場。 紳士 おお、ここに、さ、お押さえして。申上げます、姫君の御命令により ― リア さあ、俺の命がほしいなら、足で取れ、さ、さ、さ。(逃げ去る、侍者達その後を追う) エドガー もしもし! 紳士 やあ、失礼。御用か? エドガー 何か御聞き及びですか、戦いが始まると言う噂ですが? 紳士 確かな事実だ。 エドガー 有難うございます。(紳士退場) グロスター 神々の御慈悲にお縋りする、今こそこの息の根をお留め下さいまし、私の内に住む悪霊に唆され、お召しを待たずに死を選ぶことの二度とありませぬよう! エドガー その祈りは大出来だ、父つぁん。 オズワルド登場。 オズワルド 賞金附きのお尋ね者だ! 老いぼれの謀反人め、今の裡に早く懺悔を済ませろ、剣が待っている、どうでも命が欲しいとな。 グロスター おお、その慈悲の手に力を籠めて突いてくれ。(エドガーが遮る。両人戦い、オズワルドが倒れる) オズワルド やい、この財布を取れ、俺の墓を建ててくれ、それから懐にしまってある書面をエドマンドに、グロスター伯に渡して呉れ、ああ、ここで死のうとは!(息絶える) エドガー 貴様はよく知っている。 グロスター これ、死んだのか? エドガー まあ腰を下ろした、父つぁん。休んでいるがいい。懐中を捜してみよう。(手紙を読む)、「私達の間に交わした誓いをお忘れにならぬよう。夫を手に掛ける機会はいくらでもあります…、あなたの(妻、そう言わせて下さいまし)お心のままに、ゴネリル」 ああ、果てしのない女の欲! グロスター 王は狂っておしまいになった、それを、この俺は。(遠くに軍鼓の響き) エドガー 手を、父つぁん、お前さんをどこか知合いの所に預けるとしよう。(二人退場) 23 〔 第四幕 第七場 〕 フランス軍の陣営 コーディリア ケント、侍医、紳士が登場。 コーディリア おお、ケント、いつになったら、そしてどうしたら、お前の志に報いることが出来るだろう? ケント そのようにおっしゃって下さるだけでも分に過ぎた御報償ににございます。 侍医 王には、まだ眠っておいででございますが、如何にございましょうか、お起し申上げてみましては? コーディリア 思う様に計らうがよい。 国王の衣を纏ったリアが椅子に眠ったまま、召使達に運び入れられる。穏やかな音楽。 コーディリア ああ、おどさま(お父様)、わの唇に霊薬の働きが籠り、二人の姉に与えられた深手がこの口附けよってお直りになりますやら。 リア 酷い事をする、よくも俺を墓から引きずり出しおった。 コーディリア 私がお解りになりませぬのか? リア おお、精霊だ。笑わないで呉れ、この女人は、間違いない、娘のコーディリアのように思うのだが、俺は今フランスにいるのか? 侍医 お妃さま、奥にお這入り遊ばすようお勧め下さいまし。 コーディリア 父君、奥へお這入りになりませぬか? リア 頼む、この俺を許してくれ。(ケントと紳士以外、すべて退場) 紳士 コーンウォール公が殺されたというのは確実でしょうか? ケント 間違いない。 紳士 総大将は? ケント 噂によると、グロスター伯の庶子だとか。 紳士 決戦は血生臭いものになりそうですな。では、御機嫌よう。(退場) ケント 今日の一戦で万事が決まる。(退場) 24 〔 第五幕 第一場 〕 ドーヴァーに近きブリテン軍の陣営 軍鼓、軍旗、エドマンドとリーガンが将兵を引連れて登場。エドマンド 作戦はかねてのお考え通りか、アルバニー公の意向を伺って来い。(命を受けた仕官が一人去る) リーガン ところで、姉上の事を思っておいでなのでしょう? あの人と親しくなさらないで。 エドマンド 御心配無用。 軍鼓と軍旗、続いてアルバニーとゴネリル、その将兵が登場。 ゴネリル 〔傍白〕むしろ戦いに敗れたほうがよい、あの人の事で妹に負けるくらいなら。 アルバニー 妹のリーガン、会えてなによりだ。伯爵、己の信条として、正義を信じ得ぬ戦に勇気は起こらぬが、直ぐにも戦の手筈を決する事にしよう。 エドマンド 即刻当方より御本陣の方へ伺いましょう。 リーガン 姉上、私共の方へお出でになりません? ゴネリル いいえ、結構。 リーガン その方が何かと好都合だと思うのだけれど、さ、参りましょう。 ゴネリル (傍白)ふ、ふむ、その謎は解っている ― (相手に)では、そうしましょう。 一同退場し掛かるところへ変装したエドガーが登場。 エドガー 賤しい者にございますが、お許し願えれば、一言申上げたい事がございます。 アルバニー 後から行く。(アルバニーとエドガーを残して一同退場) よい、言え。 エドガー 戦いの前に、一先ずこの書面を。なにとぞ文運長久を! アルバニー 読んでしまうまで待て。 エドガー そうしてはおられませぬ。 アルバニー そうか、この書面には目を通しておく。(エドガー退場) エドマンド戻って来る。 エドマンド 敵は早くも姿を現しました、(書面を渡し)ともあれ、ひとえにお急ぎの程を。 アルバニー では、潔く一戦を。(退場) エドマンド 姉、妹、いずれにも良い顔を見せてしまった。どちらを取っても楽しくはない。(退場) 25 〔 第五幕 第二場 〕 英仏両陣営の戦場 警報、フランス軍と共にコーディリアがリアの手を導いて現れ、舞台を通過ぎる。その後にエドガーとグロスターが登場。 エドガー 丁度いい、父つぁん、この木に蔭を貸して貰うのだな。 グロスター 神々の御庇護を! (エドガー退場) 警報が直ぐ近くに聞こえる。やがてフランス側の敗北、退却が続く。エドガーが戻って来る。 エドガー 逃げるのだ、リア王側の敗北だ、さ、行こう。(二人退場) 26 〔 第五幕 第三場 〕 ドーヴァーに近きブリテン軍の陣営 軍鼓、軍旗と共に勝利者エドマンド、囚われのリア、コーディリアが登場、その他、隊長と兵士達。 エドマンド 士官のうち誰かその二人を連れていけ! (リアとコーディリアは番兵に連去られる) エドマンド 隊長、ここへ。(紙片を渡し)二人の後を、牢へ。 隊長 御命令通りに。(退場) トランペットの吹奏、アルバニー、ゴネリル、リーガン、その他の将兵登場。 アルバニー エドマンド、貴様を捕らえる、反逆の大罪人としてな、(ゴネリルを差し)同時にこの上辺を金色に塗り飾った毒蛇もだ。ところで、妹殿、これが既に伯爵と再婚の約を取交している、で、わはこれの夫としてあなたの婚約を拒否するのだ。 ゴネリル そんな茶番は止めにして! ―― この後、リーガンは姉ゴネリルに毒殺されたこと、姉自身も短剣で自殺。エドマンドはエドガーとの決闘で負けての死、更にはコーディリアとリアの死が観客に告げられる。エドガーと忠臣ケントの名誉回復が宣言され、ケントの他国への旅立ち、アルバニーによる国を挙げての服喪と新秩序への誓いがあり、次のセリフで終幕となる。 エドガー この不幸な時代の重荷は我々が背負って行かねばなりませぬ、最も老いたる者が最も苦しみに堪えた、若い我々は今後これ程辛い目に遭いもしますまい、これほど長く生きもしますまい。(死骸が運去られ葬送曲と共に一同その後に随う) ( 以 上 )
2018年11月04日
コメント(0)
全5件 (5件中 1-5件目)
1

