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第 三百二十六 回 目 今回からは俳優としての人間と、台本・言葉・作品との関係について、私流に書いてみようと思います。 最初はデカルトの「吾、思う故に、吾あり」から始めます。コギト・エルゴ・スム cogito ,ergo sum I think ,therefore I exist. 私は一人の俳優として、デカルトを演じてみようとします。私とデカルトとは生まれた国も、時代も、考え方も、何から何まで違いますので、私としては哲学者としてのデカルトの一番の本質と思われる所を、先ず第一に真似てみようと考えます。彼は徹底して物事を疑ってかかった。そしてかの有名な「吾思う故に吾あり」の結論に達したと言います。 私・草加の爺は元来がごく素直で、どちらかと言えばお人好しのきらいがある方ですので、あまり人を疑ったり、周囲に疑問の目を向けると言うことは、慣れてもいなければ、得意な事柄でもありません。 私がこの世で物心がついてから感じたことは、自分は「この世界に、何の目的でやって来てしまったのか?」という、言葉に翻訳すれば漠然とした疑問でした。幼時期の私は「遊び戯れる」ことが無性に楽しく、ただただ愉快に感じられ、小学校に上がってからも勉強などよりは、圧倒的に遊びの方が面白く感じられていた。遊びの事を考えてそれに打ち興じていさえすれば、毎日が楽しく、文句なくあっという間に時間が経過した。しかし、周囲の大人達、両親や学校の教師達はそれを許そうとは決してしなかった。で、仕方なく、全く心ならずも勉強の世界に足を踏み入れざるを得なくなった、実際問題として。 中学から高校に掛けて、私の生きる道は勉強に打ち込む以外には何処にもなかった。少なくとも、当時の私にはそう思われた。で、無理してがり勉に走った。辛くて辛くて、世の中が真っ暗闇に見えた。真っ暗闇だから何も見えなかった。出来れば自殺したかったが、怖くて、闇雲な恐怖感からそれも出来ない。全くの八方塞がり状態。幸いと言うか、たまたまがり勉が功を奏して、自ずから一筋の細い道が行く手に見えてきた。その道を厭も応もなく辿る裡に、大人の仲間入りを果たしていた。 またしても幼少期に抱懐した疑問が私の頭の中に、どっかりと腰を据えていた。「どうして、この様な嫌な世界に自分は来てしまったのか?」と。 それで、私がデカルトという人物を可能な限り似せて演じる場合には、内面から入るより仕方がないと腹をくくる。彼は徹底して神や宇宙を疑って掛かった。その目的は徹底して自分自身の理性の力を駆使して、神や神が創造された宇宙を確かに信じたいと願ったから。そう私は彼を理解した上で、私に可能な役作りを始めます。肖像にある姿形に似せることなどは、初めから諦めて掛かる。 デカルトが徹底して疑ったのは、徹底して信じたいが為であると、私は想像もする。少なくともそういう確たる対象を自分自身の手でつかみ直したかったに相違ないと。 所で私・草加の爺であるが、ある女性と偶然に(― 断って置くが、偶然とは必然の同義語である。何故なら必然は偶然の連鎖によって構成されるのが常であるから)出会って、その結果で彼女の愛によって教育され、人生の目的の何たるかを悟るに至った。そいう私としてデカルト役を演じる。それ以外にはそもそも演じる手掛かりがないのだから。これは誰かが何者かの役柄を演じる際の心得を、実際に則して具体的に解説したに過ぎません。 これまでの俳優や役者について申し上げましょう。日本の場合に、男優ならやくざ者、そして女優なら娼婦役が誰でも様になると言われました。事実、そうだと思いますが、それは何故でしょうか? これも私の持論ですが、人気先行の興行主義の影響で役者に長い時間をかけて役作りの余裕がなく、柄なり生得のキャラクターだけで勝負せざるを得なかった、台所事情、裏事情が大きく影響している。つまり、役者としての基礎的な修行が著しく不足していて、「銭になれば取り敢えず良しとする」現場の促成栽培的な営利主義の弊害が、顕著に出た現象でありますね。 本来の役作りからすれば、ヤクザ者にしても、娼婦にしてもそれぞれに独自のキャラクターが必要であり、生得の柄だけで十分な役を演じることは出来ない筈なのですから。少なくとも私たちの目指す「理想のセリフ劇」に於いては、完全なカタルシス・浄化作用を期す意味からも、中途半端な役作りでは目的の達成は実現出来ないでありましょう。長い年月をかけた人間修行の裏付けが必須ですよ。 最初の第一歩たる音読の奥深さとは、実はこの含みを意味している。気軽に入門することは可能ですし、特別な資格や能力の有無は問題とされませんが、完成という境地が無い程に極めて奥が深く、同時に横の幅も限りなく広い。これは人間としての修養や精進の奥深さと全く同等なのですね、実際の話が。 そしてセリフ劇と銘打っている通りに、セリフが飽くまでも主体になりますから、背景の大道具から持物の小道具類、衣装などには基本的に頼らないでドラマを進行させるのが原則です。つまりは身振りを含めた言葉の表現力を最大限に生かす工夫と、その為の演技者の能力が最終的には問われるもの。 俳優たる者は日頃の弛まぬ精進と努力が欠かせない所。男性が女性を演じることは勿論、幼児から老人に至るまで、職業や性格や特徴を細部にわたって演じ分ける必要もある。古代人は当然、必要ならば未来からの人物も、そして身も知らぬ他国の人であっても、悪魔や鬼、様々な神々さえ演じる能力と用意とを備えている必要がある。つまり、生きとし生けるもの全てに感情移入出来、それらしく、そして自分らしさを殺さずに演じ切る。その心構えと、技量とが非常に大切なのですね。 閑話休題、最近の世相を見ていて非常に気になる事柄がありますので、一個の、一人の人間としてとても気になるので敢えて発言したい。悪の問題です。殺人はそれ自体が悪であるから死刑もまた悪であると決めつける主張が、もっともらしい社会正義やヒューマニズムの仮面を被って、大手を揮って大道を闊歩しているかに見える。世の識者と言われる人間がいて、何か賢げに、或いは思慮深げに沈黙する。そこに一理がある様な態度をしてみせる。 これに対して私は一人の常識を備えた者として、次のように言いたい。癌細胞を切除する外科医を生命体を損傷する行為として、あなたは糾弾しますか、と。凶悪な殺人犯は明らかに健全な社会を根柢から危険に陥れる「癌化した細胞」に等しい存在である。速やかに切除するに如くはない。 もうひとつ、弱者の問題です。弱いという概念は相対的な問題です。現在の強者が明日の弱者に転落しない保証はない。また、弱者は悪人とは根本的に違う。またまた、民主主義とは一種の弱者が考え出した自己保身の為の社会保障的制度なのです。その社会で弱者を糾弾するなど、自己矛盾も甚だしい。 私がどのような社会問題について憤懣やるかたない怒りを爆発させているか、分かる方には直ぐにお解り頂ける筈ですから今はこの程度にして置きましょう。 私の人間理解には極端な考え方は少しもありません。社会常識という公道・大道のど真ん中を歩いているだけで、人間を極端に理想化もしない代わりに、無闇に軽蔑もしないだけであります、ただそれだけのこと。 再び、俳優論に戻ります。聖徳太子・厩戸皇子(うまやどのみこ)は同時に十人の人の訴えを聞き分けられたと伝えられている。この賢人にして聖人の太子を演じるとなったら、俳優は一体どうしたらよいでしょうか? 「らしさ」を芸の力で出すと言っても、現代では真の賢人も、それこそ聖人の名に値する聖人らしい人も皆無ですから、お手上げ状態になってしまいます。ですから、ここからが本当の俳優・役者としての真価が問われることになる。無論、台本の内容・質にも依るのですが、俳優の人間的な大きさやスケール感などが問題にならざるを得ない。つまりは、まな板の鯉でありますから、小手先の小細工などは頭から排して、虚心に、己のその時点での最良のものをすべて曝け出す覚悟で、役柄の中に「身を投げる」しか仕様がないでありましょう。日頃の精進努力が大切と言われるのは、この時の事を言うのでありましょう。己に無い物は表現の仕様もないのですから。 ヤクザ者や娼婦なら、適当な演技で「誤魔化し」も利くでありましょうが、世の中には「らしさ」を出すのさえ至難な役柄が無数にあるのですから。それらに備えて日頃から奮励努力して、人間としての幅や深さを極限まで究める修行が、人間としての鍛錬が不可欠な所以でありますよ。 誤魔化しの多い、上辺だけの演技は見物し眺めているだけの客は騙せても、真実に体験し、実感しようと待ち構えている「真実の客」には通用し辛らく、どうしても不満足感が残ってしまうでしょうから。それでも「劇通の本物の客」はその人自身の人間的な技量によって、役者の不足を上手に補う術を心得て居るでしょうから問題ない、と言えば言えるのですが、善良なる通常の客には、消化不良が起きたり、カタルシス不全が生じたりの、好ましからぬ悪しき結果を齎すことになりかねないのであります、残念ながら。 ここで寄り道のような文章を差し挟むことにします。人を殺す行為の是非ではなく、人間は何故「不明な理由で」しばしば殺人を犯すのか、という問題です。私は基本的に次の如くに考えます。 人もまた動物の一種として、他の生物の命を自分の体内に取り入れる必要がある。生存の為の摂理でありますので、それに就いてとやかく論議するのは無意味とまでは言いませんが、あまり生産的なことでは有りませんので、「神がそのように御作りになられた」と取り敢えずは済ましておくとします。野生動物の場合には実に厳しい自然の掟があって、飽食や過食には一定の歯止めがかけられている。しかし半分以上野生状態を脱している人は、この歯止めが非常に緩くなっている。しかし動物本来の野生が完全になくなっているわけではない。それで、食事行為に伴う直接、間接の殺傷行為には必然的に「快感」が存在する。自己の生存を保証するものとして。人の行動が時に著しく常軌を逸し、果てしない暴走をするかに見えるのは、その為なのではないか? 飽くまでも、個人的な仮説であります。 しかしこの見解には一つの裏付けの様な体験もありますよ。子供の頃の話ですからかれこれ70年近い昔に、父方の祖父から聞いた実話です。祖父は明治の生まれですから、日露戦争や日清戦争の戦争体験を持っていました。そしてこれは若かりし祖父の誰かから聞かされた伝聞であり、直接の体験ではなかったようですが、幼い私にとっては相当なショックをもたらした「お話」だった。その内容は、実弾の飛び交う戦場での実体験者の実話として紹介された。つまり、実際に人を、生きている人間を銃であれ軍刀であれ殺すという行為は、限りもなく大きな快感を齎すものだ、という恐るべき告白なのです。 そして、告白の続きですが、始めこそ躊躇や戸惑いがあるけれども、や(殺)るかや(殺)られるかの戦地では連続して殺人行為を実施していると、果てしもない快感を伴う行為だけと化してしまう。途轍もなく恐ろしい事にだ。 この一事を以ってしても、戦争は非人間的行為の最たるものだ、と伝聞者は祖父に教え伝えたと言う。 このショッキングな体験が、私の人間観と戦争観に異常な影響を及ぼし続けている。そして半世紀以上を閲した今も影響は消えないでいる。
2018年07月30日
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第 三百二十五 回 目 今回は、人間の魂(たましい)について書きたいと思いました。草加の爺による俳優論の十一回目。 またまた例によって手元にある辞書によって魂の項を調べてみましょう。「生きている動物の、生命の原動力と考えられるもの。死後は、肉体を離れると言われる。仕事を支えるものとしての、人間の精神。気力。霊とも書く」、念の為に古語辞典も引いてみました。「タマ(玉・珠)と同根。未開社会の宗教意識のひとつ。最も古くは物の精霊を意味し、人間の生活を見守り助ける働きを持つ。いわゆる遊離霊の一種で、人間の体内から抜け出て自由に動き回り、他人のタマと逢うこともできる。人間の死後も活動して人をまもる。人はこれを疵つけないようにつとめ、これを体内に結びとどめようとする。タマの活力が衰えないようにタマフリをして活力を呼び覚ます」 このような古代日本人の伝統的な霊魂観を踏まえて、肉体と精神から成り立つ人間の健全な生命体としての発現・発露を「たましい・たましひ(火)」と捉える、新しい表現を提唱したいと思うのです。 更には、生命体全体の いのち の根幹であり中枢である、生命に共通で固有の不可思議な、少なくとも直接には目に見えないながらも確かに存在する、或るダイナミックな活動の状態、という具合に魂・たましひを定義し直す。その上で、セリフ劇とは人々の魂にダイレクトに働き掛け、その琴線を激しくゆさぶり、新たなる活力を与え、延いては生命をリフレッシュする最高のエンターテインメントを言う。そう説明したいと考えます。 その上で、手当てと言う原始的な治療が発展して今日の合理的で科学的な医学的な治療法になったように、こちらは「魂に直接的に働きかけて癒しをもたらすセリフ劇」の完成を目指す。と、言い直すことにしましょうか。すると、これはもう 別の形の神祭り の提唱と全く同義であることにお気付きでしょうか? 一般的には、古い年の神の死を促し、新しい年神の再生と復活を願うものと解釈して、比喩的に人間の古く衰弱した魂のクリーニング行為を介して、新しく再生・復活した魂の誕生を期し、人々が共に集い、遊び戯れる場と機会の創出こそが、それでありますから。 つまり、「魂の新陳代謝」を促す、積極的で楽しい、純粋なプレイなのですね、実に。 さて、現代では神なき時代を象徴するように様々な 神の代替物 を中心に、色々な 似非お祭り が各地で盛んな盛り上がりを見せ、活況を呈しているかに見えます。オリンピックを始め各種のスポーツ競技、音楽会、有名アーチストを囲んだコンサート、多種多様なテーマを掲げたイヴェント等々。更には文字通りのお祭り、フェスティバルなど、見方によっては人類史上でかつて例を見ないような一種の「お祭り」フィーバーの過熱ぶりとさえ言える。しかし、実情は如何でしょうか? 半ば形骸化して中身の薄い、それこそ魂の根底から揺さぶられ、純粋な大感動の渦に巻き込まれ、命が、生命全体がリフレッシュされる体験は皆無に近いのではないでしょうか……。 この様な時代だからこそ、尚一層の純粋にして本格的な「お祭り」が、そしてオーセンティックな「神輿」が待望されて然るべきなのではないでしょうか。その有力な祭りの場を提供し、新しい時代の本物の神の出現を実現するパフォーマンス。それが理想形としてのセリフ劇なのでありますが、ここではあまり深入りはせずに、この程度に留めておきたいと思います。いえいえ、自信が無いからでは決してありませんで、逆に自信満々だからこその抑制であります。 つまり、セリフ劇に向けての 最初の第一歩 に全ての要素が既に満載されており、あとは地元の方々のご協力を戴いて、それらを実感・体感してもらいさえすれば、如実に御理解が得られ、直ちに納得の行くことなのですから…。 カタルシスを体感する「観客」として、舞台上でその観客のカタルシス体験を促す「俳優」として、勝れた芸能・芸術作品としての台本の恩恵によってカタルシスが自己の魂の内部で実施される過程・プロセスをつぶさに、具体的に味わい知ることで、生命全体の流れの中にどっぷりと浸かり本物の愉悦を通過する。自己の絶対的な孤独感から解放されて、仏教でいうところの涅槃・ニルバーナに達する。 この際の己に沈潜しながら、しかも限りなく浮揚する高揚感と恍惚感、これは一種の「フロー現象」とも見做すことができますが、これがオーソドックスな 全体との真実の一体感 に直結している。 言葉で表現するのが非常に難しいので、実践、体感するのが一番の近道。論より証拠とは、まさにこの事実を言うのでありましょう。誤解を恐れずに言えば、禅の方で勧める「只管打坐」と言う事になる。 さて、魂の話に戻ります。現代病と言われる一群の疾病がありますが、その大部分は肉体的な異常がなく、所謂精神の分野に何か問題があると見られます。私は60歳から65歳までの五年間だけ、都内の私立高校で虐めに遭って学校に通えなくなった生徒を専門に、一教師として教育に従事したことがあります。生徒は学校に通えない状態にありますので、担当講師たる私は生徒たちの自宅に通って学習のサポートをする。当然、文科省で定められた指導要領に従って、正規の高校教育で定められた全教科を指導することになる。御蔭で私は、生徒と共に自分の得意教科でないものまで色々と勉強する事になり、元来が勉強好きな者としては望外な恩恵に浴す結果となった。 それは兎も角として、問題は生徒達の生活状態です。私が五年間で担当する事になった十人程の生徒はその学校の中でも「重症な患者」とでも称すべき、教師として対処するのが不可能に近い、「問題生徒」ばかりでした。これは多分でありますが、「変な爺がやって来たので、駄目もとでやらせてみるか」ぐらいの感じだったのではなかろうかと推測されますが、大変と言うよりは対処に窮してしまう。 最初から教師ズラをして「勉強しなくてはダメだよ」と一声を発した瞬間に、万事は休すでありまして、生徒は自室に閉じこもったまま二度とは顔も見せなくなってしまう。私は何も自分の苦労話や、また例によっての自慢話を繰り広げようとの魂胆では、さらあらありません。彼等、生徒達の心の在り方を問題にしたいのであります。見たところ部屋に籠りっきりで外出も出来ない状態ですから、色白でひ弱そうな印象は受けますが、医学的には何処にも問題はない。ただ、心の深い部分に深手の疵を負っている事だけは間違いない、らしい。 問題なのはこの「らしい」なのです。身体に受けた傷であれば一目瞭然、誰にでも分かりますが、心に受けた疵などと言っても本人以外の誰にも見えません。ですから、これが問題を長引かせ、重症化する原因となっている。私は、生徒と対面する前に誠に付け焼刃ですが、図書館から借りたその種の専門書の数十冊を読んで心の準備だけはしておきました。兎に角、生徒自身の心からの声に耳を傾けよう、と。これ、御存知の方も大勢いらっしゃるでしょうが、カウンセラーなどが使う専門用語で言う「傾聴」に正しく相当する。 そして私はキャリアカウンセラーの資格を取る以前に、ドラマのプロデューサーとして職業柄から自然にこの 傾聴の極意 を極めていた、たまたま。それがどうやら幸いしたようでした、結果から見れば。 私は「小さな奇跡」を繰り返し実現し、周囲を驚かす結果になったことは、以前にも何度かブログに書いております。心の疵から魂が病み、生活に重大な支障を来たす事例は、今日では枚挙に暇がないほどであります。未病から魂の疲れや病にいたるまで、各種の心の障害状態に対処する方策が、精神医学界以外からも早急に模索され、適切な手段が施されなければ非常に危険であります。それこそ人類全体の魂が病み疲れて、恐ろしい狂気を呼び込む恐れさえ感じさせられる昨今なのです、実に! これは現段階では私の個人的な「私見・管見」にしか過ぎませんが、理想のセリフ劇がその役割を担うべく胎動を開始するのであります。これも繰り返しですが、人類の歴史を大まかに概観すると、Sacred King から War king そして現代の Pop king へとつながり、来るべき近未来には、ここからは予言になってしまいますが Art king へと連なる。そして Art king 即ち Sacred king でありますから、新たなる円環をなして歴史は繰り返しながら、新ステージを迎える。 ここで言う Art king の最たるものが完成されたセリフ劇における俳優・役者なのであります。Art King とは創造的な技術を駆使して人々に幸福と恩恵を与えて支配する王者という意味でありますから。 そもそも人間には破壊や殺戮は出来ても、命を造り出すことは出来ない。命を新たに創造する力や能力は与えられていない。それは、ひとり神にのみ固有の御業なのであります。 ただし、人間には人々の魂に訴えて、その活力やエネルギーを活発化させる事は出来るし、その行為は神の後ろ盾を得て正しく行われてこそ、多大な恩恵を人類全体にもたらし得る。 これこそが、私たちの知っている Sacred king の真の姿でありました。人間の理解には常に限界が付き纏っている。合理的な物だけではなく、不合理な要素をも多大に包含している絶対者たる神は、何度でも、何度でも、繰り返し問い直されなければならない。私たちからすれば繰り返し問い直すに値する偉大なる対象なのですからね、実際のはなしが。 以上の事柄を、念の為に数学好きな科学者に倣って証明じみた説明を、蛇足と知りつつ試みてみましょう。有限をいくら加えてみたところで無限にはなりません。そして、御存知の通りに無限にも多くの無限が有り、その大小も決められる。奇数も偶数も共に無限であるが、奇数と偶数とを同時に含む整数は、これも無限であるが偶数・奇数の無限よりも大きい。そして、如何なる有限も如何なる無限よりも小である。如何ですか? ここまでは問題ないと思いますが…。ところで人間を含む生命体は一個二個と数えられますから確かに有限的な存在であります。ところがであります、その個々の生命は有限性を帯びながらも同時に無限の生命現象に連なる性質をも、立派に有している。 問題を分かりやすくする意味で話を人間に限定してみます。人間は社会的な存在ではあっても個々人は部分であり、有限であります。しかし祖先から現在の私を経て未来の子孫へと連綿と続く、生命の流れに着目すれば、少なくとも人間的な理解力に則していえば、無限の領域に半分は足を踏み入れている。これを称して半神半獣と古人が言ったのでありましょう。そして、個人は単なる部分ではなく、どう考えても一つの宇宙そのもの。つまり無限でもある。そう見做さざるを得ないでありましょう。 要約すると、人間は有限であると同時に無限でもある。仏教ではこれを、一即全と喝破した。実に見事としか言いようのない一大見識でありますよ。 この人間存在の本質的な有り様を、中間に位すると唱えた。空間的にも、時間的にも、更には物質と神的な霊を分かち持つ者と言う意味からも。 最後に、結論めいた事柄を付け加えておきましょう。私の言う「絶対者としての神」とは、数学的に定義すれば無限の最大の物を意味している、と。
2018年07月26日
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第 三百二十四 回 目 夜がまた来る 思い出つれて おれを泣かせに 足音もなく なにをいまさら つらくはないが 旅の灯りが 遠く 遠く うるむよ / 知らぬ他国を 流れながれて 過ぎてゆくのさ 夜風のように 恋に生きたら 楽しかろうが どうせ死ぬまで ひとり ひとり ぼっちさ / あとをふりむきゃ こころ細いよ それでなくとも 遥かな旅路 いつになったら この淋しさが 消える日があろ 今日も 今日も 旅ゆく ―― 流行歌「さすらい」(詞:西沢 爽) 私・草加の爺の俳優論の十回目ですが、何故この歌詞を冒頭に引用したのか? 私の書くものは真面目で、硬すぎて肩が凝ってしまう。その様に反省されたので、少しばかりリラックスして臨もうと考えたからでありますよ。 旅に病んで 夢は枯野を かけ廻(めぐ)る ( 松尾 芭蕉 最終の吟 ) 俳聖と言われる芭蕉の句と、歌謡曲とを同列で論じてみようという気なのでありますよ。 「さすらい」では、夜、想い出、俺を泣かせに、辛くない、灯りがうるむ、などのフレーズが並び、他国を当てもなく彷徨っている男の姿が描かれています。楽しい筈の恋も出来ず、死ぬまでひとりぼっち。この男は淋しさだけを道連れに今日も昨日と同じように、旅を、さすらう人生を、続けるだけ…。 この劇の主人公は「粋がっている」だけで、実に惨めで女々しい時間だけを生きている。誰だってこんな人生は御免蒙りたい筈。それに引き比べて芭蕉の句は、勇ましさの極みである。悲愴でもある。枯野とは分かっている人生だが、現実には、現身ではもう叶わなくなったわが身ではあるが、せめて夢の中で自由自在に荒野という人生を、思うさま奔放に駆け巡ってみたい…。前の後ろ向きの男に較べて、芭蕉は超積極的でありますよ。少なくと理想を死ぬまで、死の瞬間まで諦めない男の野望を表現し得ています。 私・草加の爺はどちらが良い悪いを論じようと言うのではありませんで、この二つの表現の根っこの所にある「俗情」は同じだった、と主張したいのであります。表現しようという人の思いには大差がなくく、違うのはただ、表現の手法であり、その結果なのであります。 人の平等とか自由とか、権利、義務を言う場合に、人の俗情は平等であると使うのが、一番しっくりとくる。そう私は思っています。俗情とは何か? ごく普通に言う喜怒哀楽の感情を指しますが、人様の嬉しさと自分の嬉しさが同じであるとは、厳密に言えば証明不可能な筈なのですが、日常生活では無条件に同じ、同等だと見做して支障がないわけです。実際には同じわけがないのですが、少なくとも通常の生活の場ではその差を無視して、問題はないとして済ましている。問題が生じない限りにおいては。 さて、歌謡曲は俗に三分間のドラマだと称されます。で、さしずめ歌詞は「台本」と言う事が出来ましょうが、歌手は俳優・役者です。情緒たっぷり、雰囲気一杯に一人芝居の主役を演じ切る。聴き手の方も美声と名調子に酔いしれながら、自分もまた芝居の主人公になったつもりで陶酔に耽る。 これを称して私はカタルシスの萌芽と呼んでみたい。下世話に砕けて「ストレス解消」と言っても構いません。私たちは通常の日常生活では、これが経験できない。悲劇にしても、喜劇にしてもドラマティックなシチュエーションが無いのが、日常と言う名の時間なのですから。 通常の場に置かれた、通常の人にはそもそもドラマの如き始まりも無ければ、終わりも無い。だらだらと平板で退屈な時間が「だらしなく」流れて行くだけ。人々はこの「締まりのない」時間に飽き飽きしている。退屈し切っている。もっと変化を楽しめるような、わくわくドキドキした充実した瞬間瞬間を十分に満喫したい。そう願っている。それに、そうした人々の本能的とも言える願望に答えてくれるのが、劇であり芝居であり、ドラマであります。少なくとも理想の在り方としては、という事でありますが。 ここでもうひとつ嘗て流行った歌をご紹介します。詞:清水みのる、歌:菊池章子で大ヒットした「星の流れに」。 星の流れに 身を占って 何処をねぐらの 今日の宿 荒(すさ)む心で いるのじゃないが 泣けて涙も 涸れ果てた こんな女に誰がした / 煙草ふかして 口笛ふいて あてもない夜の さすらいに 人は見返る わが身は細る 町の灯影の 侘しさよ こんな女に誰がした / 飢えて今頃 妹はどこに 一目逢いたい お母さん 唇紅(ルージュ)哀しや 唇かめば 闇の夜風も 泣いて吹く こんな女に誰がした 大分昔の時代になりましたが、敗戦後の日本に、東京には焼野原と、戦災孤児と、パンパンと蔑視された進駐軍の米兵を目当てにした俄か売笑婦が、大量に出現したのです。これはそうした悲しい少女の身の上を流行歌にしたもの。反戦歌と見る向きもあったのですが、パンパンの身にまで自分の身を落として生きる若い娘を表面的に見て、「こんな女に誰がした」などと自分の卑しい生き方を社会のせいに転嫁する最低の生き方だと、無責任な批判をする人々も大勢いた。最近の異常豪雨の被害に遭った人々に対して、やれ防災意識が低かったの、やれ地方行政の防災体制に問題があるのと、余りにも上から目線の批判を展開する評論家がいるとしたら、何と人情を解さない鬼の如き大人だと慨嘆しないで居られません。同様に、当時の状況下で全員がとは申しませんが、非常に悲しい環境に置かれたこの歌詞にある様な若い娘を鞭打つような非人情は、人間として恥ずかしいと考えるべきと、今の私は思いますよ。 ところで、「星の流れに」ですが、幼い妹や母親ともはぐれて、父親は戦地で死んでしまったのかもしれませんね、身寄りもなく若い女の身空で、いわば徒手空拳で生きて行かなければならなかった。だから、人情などは解さない無情な風でさえ、泣いて吹くのであります。 これも、歌の上のだけで、歌が終われば綺麗さっぱりと忘れてしまう。それが出来る鑑賞者達には、とても「素晴らしい三分間の体験」になり得る。気軽な気晴らしとしての効用がある。 対岸の火事という言葉がありますが、実際に自分の家が火事になったら堪りません。最悪の災害でありますが、これが対岸の、一応自分とは無関係な立場で見物する事を許された者にとっては、こんなに楽しく愉快な見ものも無い。無上な「娯楽」ともなり得る。また、他人の不幸は蜜の味とも、言いますね。自分が当事者であったなら目も当てられない悲惨極まりない不幸も、無関係な第三者にはこの上もない「甘くて美味しい」蜜のような味になり得る。残念ながら、人間性の裏側にはこのような非常に嫌な一面が隠されている。序でといっては何ですが、戦争が何故亡くならないか。また所謂悪が何故この世に蔓延って止む事が無いのか? お答えいたしましょう。戦争が、大量に人を殺す行為が人間にとっては無上の喜びをもたらすから、であります。悪も同様で、楽しい愉しい愉悦をもたらすから、なのでありますね。怪しからん、そんな事を言うお前のような奴は、先ず真っ先にこの地上から抹殺すべきである。そう根っからの善人だと自己を信じて疑わない「愚か者」は、正義の名のもとに私を抹殺して、能事終われりと欣喜雀躍するでありましょうか? そうです、自分だけは例外だと心底信じ切っている「善人」こそが、戦争という大罪を繰り返し地上に繰り返させている、張本人なのであり、大盗賊の石川五右衛門がいみじくも喝破した如く、盗人の種は果てしもなく尽きない。また、様々な正義の士や自称善人が大量殺戮を際限もなく、引き起こし続けるのでありましょう。つまり、人間がいるから、戦争が起こる。人間がいるから悪がはびこる、のであります、現実には。もしこのリアルな現実無視の理想論ばかりが横行するとしたら、私たちの未来は暗さを増す一方でしょう。 何だか、とんだ横道に逸れてしまったように一見は思われますが、そうではありませんで、私の俳優論は同時に人間論でもありました。人間の厳粛な本質的な在り方を見据えない、浅薄な人間論は私たちの幸福にとっては、少なくとも無意味になってしまうでしょうよ。それに、理窟を言えば絶対的な善もない代わりには、反対に純粋な悪もないわけですから、現実の生活の中ではそれぞれが置かれている特殊な立場立場によって同じ事象を見る見方が異なるのは、或る意味で当然の事だと言える。つまり、絶対的な意味、価値、役割なども存在しない。そう考えるのが賢明でありましょう。 さてさて、カタルシスを呼び込む癒し術としてのセリフ劇を将来、それも近い未来に確立するための土台作りの作業としての「音読の奨め」運動なのですが、稚拙、下手がベストであるとする私の持論を開陳致します。またしてもへそ曲がりな、異説、珍説と映るやも知れませんが、そうではありませんで、従来の現実の方が様々な事情で正常で健全な発展を遂げていなかった為に、私のきわめてオーソドックスな主張がねじ曲がっていると、誤解され易いだけなのですね、実際は。 私は前に映画スターを例に出して、彼らが自分自身をしか演じられない「大根役者」だったと、決めつけました。そればかりか、主要な脇役もワンパターンの役柄だけしか本当は演じられない、これも又大の大根だったと切って捨てている。事実、そうなのですから事実のままにそうだと言っただけのこと。もう一度辞書による役者や俳優の意味を思い出してください。「演劇や映画などで、監督の指図に従って演技する事を職業とする人。役者」とあります。そして私の言う俳優・役者というのは、人間の監督や演出家の指示にではなく、絶対者の神の意図や指図に従うのだ、とも主張しましたね。 再び辞書的な演技の意味を見てみましょうか。「俳優・芸人などが、見物人に見せるために演じる事、又はその芸」と書かれている。私の場合には演技、乃至は、演戯とは見せるものではなく、自ら体験してカタルシスをもたらすプロセスなのだと強調しますよ、はっきりと。 人間は、役者としてもそうですが、振られた役柄に関して基本的には「大根」であります。つまり下手な役者であります。ですから生涯にわたって自己の大根さ加減と附き合って、辛抱強く味を出していくより手はないのであります。実際の舞台においても、実人生という檜舞台においても同様であり、その運命からは免れ得ない。少なくとも、そう心得ていた方が間違いがないでしょうね。 すると、何だか俳優として立っていくのが、プロの道を選択して歩んで行くのが怖いような、恐怖感に捉われるかも知れません。心配は何もありませんので。何しろセリフ劇の真の演出家は人間ではなく、万能の力を発揮する「神様」なのですから。ただ只管に努力に努力を重ねる。倦まず弛まずに、その時点でのベストを発揮するように努める、脇目も振らずに。 これはセリフ劇の舞台に立つ俳優にも、実人生を生きる自覚的な自己表現者にも、共通して言える事柄なのであります。ドンマイ、ドンマイ、ひたすらに精進を続けるのみ。またまた申し上げますが、理窟は簡単明瞭なのですが、実行や実践が思いの外に難しい。それもしかし問題ではなくなる筈。信念と情熱とを失わない限りは……。
2018年07月20日
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第 三百二十三 回 目 私の俳優論の九回目。そろそろ核心部分に入る時期が来たようですので、一番難しくて肝腎要の台本に就いて話を進めましょう。取り敢えずは、これまでの劇・演劇・ドラマ・お芝居などとこれから私たちが本格的に目指そうとしているそれとが、何処がどう違っていて、どの部分が同じなのか、大体ではあっても御理解が成立したと思うからです。そして、分からないお人には当分はお解り頂けないと感じるからでありますよ。それと、何よりも私・草加の爺自身の為になるからでありましたね、実際の話が。 さて、パスタイムや単なる娯楽・気軽なエンターテインメントと違い、正式な医者の臨床での治療行為以上に大切で、より日常的な私たちの生活に密接に係わりのある「心理的なストレスや魂の疲れ」に対して意図的・意識的に働き掛けて、カタルシス・心の完全清掃を齎す理想的なセリフ劇の 在るべき標準的な台本 とは、一体どのようなものであるのか。もしくは、どのようにあるべきなのか、を最初に出来るだけ平易に解説してみたいと思います故、どうぞ御協力の程を宜しくお願い申し上げます、何度でも、衷心より、平に…。 先ず最初の大切な第一歩が音読の励行です。私はこの音読にこれ以降に発展させる重要な要素の全てがあると考えていますし、事実そうなるだろうと確信もしております。音読とは文字通りに文章を声に出して朗々と読み上げる行為です。この直ぐ次に続く読み聞かせの土台でもある。 どのような作品を、どの様に読み上げたらよいのか。簡単です、やや大きめに声をだして、素直に自分の普段着の調子で読めば宜しい。何も特別なことは必要ではありません。只管に音読の行為自体に慣れ(馴れ、熟れ)親しむこと。その一事に尽きる。何時からでも、何処ででもできる。その気になりさえすればの話ですが。普通に考えられる、立て板に水的な流暢さを目指す必要はさらさらない。むしろ稚拙ではあっても心の籠った、内面の温かさが直に感じられる調子を狙って欲しい。それも自分自身との対話を深めるプロセスが非常に重要なのですが、これも実地の体験の中で体得するしかない、人間としての修行を必然的に伴う、究めれば究めるほど奥深さを改めて実感する筈です。 作品は何を選んだらよいか。何でもよいのですが、出来れば自分で音読して楽しいものを選択する方が長続きするでしょうから。長く続けなくては何んにもなりませんでしょう。継続こそは力なのでありますよ、実際。音読を継続して励行すれば、それだけで既に功徳が顕著に現れる。効果は覿面です。第一に楽しいし、健康に非常に良い。気分が晴れ晴れする。これだけでも十分に音読に力を入れる価値があるではありませんか。しかも、それだけではないのですからね。その気さえ奮い起こせば、家族や友人知人を楽しませ、元気づける効果を発揮できる。第一に他人が、自分以外の人が愉快な気分になったり、明るくなったりすれば、他ならない音読から読み聞かせへとステージを上げた人自身が、喜びで包まれる。励みが出る。弾みがつく…。そうなれば後は苦も無く更なるステージにと、健康さを増した心が、体がおのずから前進を期待するようになる。そうなればもう占めたもので、何等の苦労も努力も必要でなくなる。とまあ、こういった正のスパイラルが自然に生まれ出るのであります。 こうした事柄を私・草加の爺は一体全体、何から、どの様にして学び得たのか? 自分自身での学び・学習の体験から始まり、今現在も継続して続けている子供や若者への「学習アドバイス」の過程で自然に身に附けたものであります。当然に今日に至るまでには様々な数えきれない程の試行錯誤がありました。悪しき体験が、善き経験への絶好のチャンスを疎外している。 例外が無いと言ってよい程に、教師や親たちの闇雲な学習への使嗾が、子供たちの健全な学習意欲を妨害している、疎外していると言って間違いない。私・草加の爺の過去の経験から見ても、教え子の生徒たちの学習の在り方から見ても、全く同じ事が言えるし、仮に例外があったにしても今の場合には除外しても問題はないでしょう。 要するに、悪い生活習慣がついてしまっているので、ごく自然で、健全な生活の習慣が育たない。育ち難い環境が目には見えない形で、前途を塞いでしまっている。その状況を冷静に、客観的に俯瞰しさえすれば誰でもが容易に事情を呑み込むことが可能なのですが、諸事情が、そして既成の悪しき習慣ばかりが幅を利かす結果に終わっている。そして、自ずからに負の、不健全なスパイラルに落ち込んでしまう。現状はおおまかに、その様に分析して、ほぼ間違いがないのでありますね。 さて、セリフ劇の台本の話です。人の心の琴線に触れる名作という事ですが、私たちがこれから目指しているのは単なる理論上の理窟やテクニックを云々するだけで済む気楽な、余裕を楽しんでいるだけの場合ではなく、実践してそれが結果として覿面な効果や成果を出すものでないと、意味がない。無意味でしかない。つまり、理想ばかりを追求していては達成は覚束ない。即実践、即成果、という最高に厳しい条件が課せられているのですから、或る程度の妥協と言うか、本質ではない要素も少なくとも最初の段階では止むを得ない。止むを得ない処置として、所謂不必要な要素をも積極的に取り入れる賢明さが要求されますよ。つまり、文句なく理屈抜きで面白い新しい娯楽としての立場を確立するのが、焦眉の急でありましょう。 此処で私は現在一世を風靡しているかに見える「ナンセンスコント」に変えて、旧時代の「人情寸劇」を推奨したいと考えるものであります。人の情というものは何時の時代でも変わりません。変わると見えているのはほんの上辺の事にしか過ぎない。しかも更に言えば、この極めて俗な人の喜怒哀楽の感情こそが毎日の日常生活で、謂わば「フラストレーション」を起こして知らず知らずの裡に私たちの心に「有害なガス」を撒き散らしては、精神衛生に多大な害毒を目に見えない形で与えている、張本人なのですから、まんざら最初から節を曲げて世俗に妥協するばかりとも、言うに当たらない返し技・奥の手・秘術だったのであります。正直に申し上げて、私はこの事に考えが及んだ際に「出来る」との、確信を掴むことが出来た、本当ですよ、安心が行った訣。 端的に言って、手っ取り早く分かりやすい「セリフ劇向きの新スター」を誕生させようと、商売上の戦略から借用しようという太い魂胆があった。何しろ勝てば官軍であり、負けてしまえば賊軍呼ばわりされてしまうのが、この世の悲しい現実であり、処世の冷徹な掟なのでありますから。どの様な綺麗亊の理想を説いた所で、実践で破たんを来たしてしまったのでは、身も蓋もないことになってしまいますのでね。 これは私・草加の爺が既に幾通りかの試作品をものしているババ物であります。自分の粗雑な粗悪台本を元にして偉そうにあれこれと論(あげつら)うのは、先人たちの最も忌み嫌う所でありますが、今の場合では止むを得ない緊急の処置と、平に御容赦をお願い致しておきます。 さて、このババ物の台本ですが、誰が演じてもほどほどに面白く、一定の効果が保証されている。勿論ですが名優が演じた暁にはストレス発散・解消に抜群の効果を発揮することは、間違いない、太鼓判であります。そればかりではありませんで、名優どころか、大根役者が演じた方が却って見方によっては、魅力が増す。従って、カタルシスも容易になるという、おまけまでついている御丁寧さ。 何故にお前さんはそんな自信たっぷりな、偉そうなことばかり言えるんだい。そういう至極ご尤もなお声が例によって例の如く、何処からともなく聞こえてきましたよ。お答えいたしましょう。私・草加の爺は大昔の「松竹新喜劇」の藤山寛美が演じたところの「馬鹿ガキもの」を頭に描いているからなのであります。藤山寛美などと言っても、現在ではほとんどの人が御存知ではないでしょうが、役者バカの典型のような破天荒なお人柄で、私の子供時代に、テレビの初期段階の頃でしたから、当然にモノクロ、白黒の画面でしたが舞台中継がありました。愚かな子供が賢がっている大人共をけちょんけちょんに遣り込めると言う、ワンパターンの内容でしたがこれが無類に面白く、魅力に溢れるものでありました。 寛美さんは天才肌でしたが、今の私から見れば半面で「嫌味」の多い演技に終始していました。何も稀代の名優を腐そうと言うのではありません。今回のセリフ劇ではこの種の名優は謂わば「お呼びでは御座いません」ので、後味さっぱり、清涼感の残る「大いなる大根」の役者が切に望まれている。そのことを強調したかったのに過ぎません。どうぞ、寛美さん、その周辺の関係者の御方、どうぞ気を悪くしないでおいてくださいな。 さてさて、台本の基本を誰にでも分かりやすく、図式化して説明します。劇的とかドラマティックと表現する場合の劇とかドラマの本質とは、そもそも何なのか? 物理的な比喩で言えば高低差に譬えるのが分かりやすいでしょう。つまり、高い所から低い所までの落差が大きい程、劇的だし、ドラマティックだと形容できる。つまりは、人生の最高の高みにあった人間が、急転直下地獄の底に転落する。実例を上げれば、シェークスピアのリア王ですね。人間として最高の王位に就いていたリアが、己の愚かさの故に単なる裸の二足獣にしか過ぎない人間のなかでも、最も哀れな狂人になってしまう。 勿論、沙翁の天才を以ってしてもその生涯にこの最高傑作はたったの一つしか生み出し得なかった。単なる机上の力学的計算だけでは、勝れた台本は生まれよう筈もない事。 もうひとつ、取って置きの偉大なる最高傑作を御披露して置きましょうか。日本の古典の中でも最高傑作と世評の高い、しかしきちんと正当に評価されることの皆無に近い歌物語「源氏物語」であります。まさに宝の持ち腐れとは、このことを指すのかと思うほどの、奇異な運命がこの作品には誕生の瞬間から、付き纏っていた。きちんと読みもしない者達が寄ってたかって貴重な作品に難癖をつけた挙句に、作者の紫式部はこの作品を創作した罪で地獄に堕ちたと、これ以上はない無法狼藉をほしいままにしている、いわくつきのもの。 本居宣長の「もののあわれ論」は源氏を理解し得た最高峰でありますが、私の源氏解釈はその上を行くものと、密かに己惚れる程に源氏の世界に傾倒している私・草加の爺は、次の如くに作者のテーマを把握しております。人類史上で血筋から言っても、人間性の上からも、そして現実にこの世の最高権力者の地位に就いた理想の男性が、実はその勝れた人間性のゆえに、人類切っての心の地獄に堕して、孤独と苦しみとの最悪の悲哀をなめ尽くして、この世を淋しく哀れに去って行った。この様な、俄かには信じ難い人間の一生がつぶさに、リアルな描写で描かれているのですから、本当に驚嘆の一語に尽きるのです。人類の奇跡、神業としか称する言葉がない。図式化するにしても、これ以上の人間ドラマは少なくとも人間技では不可能であります。想像を絶している。騙されたと思って原文を熟読玩味して欲しい。特に若い世代の方々には、是が非でも、どうぞ。
2018年07月17日
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第 三百二十二 回 目 私の俳優論の八回目。相撲つながりで、前回の補足を少し加えておきましょう。日本文化全般に言えることですが、非常に融通無碍と言いますか、柔軟性に富む所があります。 例えば和式の部屋、畳敷きの部屋ですが、寝室になるし、客間としても使用可能だし、居間でも、食堂でも、書斎にも兼用が易々と出来る。自由自在の多目的使用のフリーな空間として、最初から設定されている。洋室のように固定的では無い所が、最大の特徴となっている。 そこで、土俵に女性を上げるなのタブーですが、相撲の取り組み以外で土俵を利用する場合には、意識の上でよいのですが、もうそこは土俵であって土俵ではない。そいう自在な発想を応用しさえすれば、何の問題もなく解決する事柄だったのですよ。如何でしょうか…。 更に付け加えますが、「賤しい格闘技」の場である土俵の神聖とは、女性の不当な蔑視とは何の関係もないもの。むしろ女性上位の趨勢が勝っていた古代の文化からすれば、尊重すべき女性を命がけの死闘を繰り広げる戦闘の場から、大切な女性を敬するが故に遠ざける意識の方が、多分に勝っていたと想像される。百歩譲って、仮に発生の当初にその様な意識がなかったとしても、後付けでもよいからその様に理由づけすれば、全てが丸く収まるのですから、そう説明すれば良いのですよ、実際の話が。 学問とか、事実に基づいた歴史的な真実などと言われると、それだけで恐れをなし、尻込みしてしまう軟弱なインテリとか学者、知識人に警告を発して置きたい。何のための真実であるか、と。 まあ、ここはこのくらいにして、俳優論に戻りましょう。 質問、俳優とはそもそも何者であるか? どのような人の在り方を目指すのか? 答え、何よりも俳優は、人を人として最大限に愛し、その愛情を自分の声とジェスチャーによって観客に伝える最上の技術を体得している者である。 自己への最大限の愛情に始まり、他者への限りない愛情表現にきわまる。その円弧は更なる自己への深い愛情に繋がり、その延長として更に多くの人々、より大きな愛情の放射として光り輝く。愛は限りなく高まりを示しつつ永遠の彼方へと連なる。 自己に始まった愛情の運動は、絶対の彼方を支点として再び自己へと回帰を遂げる。そして、その愛情の描く円は波紋の如くに放射状に拡大し、しかも質的な発展を遂げるのだ。大掴みなイメージを心の中に描いて頂ければ、取り敢えずは結構です。部分が断片として切り離されてはいない。大きな愛情の絆でしっかりとつながっている。その全体が、更にまた一段上のステージへとスムースに結ばれていて、次々と友愛の輪を美しく形作る。そうした理想の全体を朧げながらにでも心に描いて頂けたなら、申し分はありません。 ですから俳優は次の様に定義することも可能である。つまり、俳優は人間の素晴らしさ、生命の賛歌を見事に歌い上げる最高の楽器であり、その楽器の理想の演奏者でもある、と。 それではその目的は何かという点が問題になりますが、それは「心の、精神面の、いわば新陳代謝を継続して促進する必要から」と説明するのが、一番実情に合ったものと言えるでしょうか。 それでは、その心の新陳代謝とは一体どういうことなのか、について解説をしましょう。 先ず言葉の意味ですが、古いもの〔=陳〕が去り〔=謝〕、新しいものが代わって現れること。生物体が生存・活動に必要なものを体内に取り入れ、不必要なものを出す事、であります。小学校や中学校の理科の教科書などに詳しい説明が載っていますので、必要があれば参照して下さい。 私たちの身体は実によくできている。身体に必要な作用・活動は必ず精神の方でも行われなければ、いけないのであります。所が、身体的な所見は目で見たり、観察が一応可能でありますが、心の中の事柄は目には見えない。想像力を働かせたり、感じたりするわけですが、これが非常に厄介極まる仕事である。ここに精神活動の諸問題発生の根源があると言ってよい。 しかも、身体や物質の世界は一応ではあるが合理的な解釈がなされ、様々な法則がこれも仮説と言う形ではあっても、或る程度まで万人が納得し得る体系が示されてもいる。物理学とか化学とか、生物学、地学等々の諸科学が曲がりなりにも成立している。 翻って、精神や心の分野ではいまだに手探り状態が続いている、と言ってよい。言ってみれば分からないことだらけ。フロイトとかユングなどという精神医学の巨人が、病理的な側面からの偉大な業績を打ち立てはしたが、未開状態を完全に脱したとは御世辞にも言えない、でありましょう。 そして、私たちはどうして自分自身の気持ちや、他人の気持ちが理解できるのか? 自分がいま嬉しいとか悲しいとかはっきりした感情に関しては、明確な判定が可能なのですが、もやもやした自分自身でも原因や理由が分からない気分などについては、判断がつかないし、それをどう次の行動につなげたらよいのか、迷う場合もしばしばですね。そして、他人に関しては、もっと分からない事が多くある。大概のケースでは、密接な利害関係が無い時には、見ても見ないふりをするというか、要するに無視してしまえばそれで済んでしまう。しかし例えばの話、最近のように「誰でもいいから人を殺したかった」などといって、実際にとんでもない行動に走る人間が少なからず出て来ている現実を知りますと、それこそ他人事では済まされなくなる。私たちとしては無視し続ける態度を改めなくてはならないでしょう。が、一体どのような防止・予防手段があるのか、本当に厄介で、複雑な問題を数多く抱えている事実だけは、どうやら間違いがない。 誰でもよいから殺したかった、と言って殺人を犯した人間を逮捕して、裁判にかけるのが関の山でしょうが、そこにも問題が待っている。その殺人者に「責任能力」があるのか、ないのか? それは専門家の長時間にわたる審問・鑑定に委ねなければならない。もし仮に、責任能力がなかった、犯行当時は精神喪失の状態にあった場合には罪に問えない。罪に問わない制度がとられている。 要するに、この事件一つ取り上げても、私たちの住む現代社会は「未開で、野蛮な原始状態」が依然として継続している模様である。それだけは、どうやら間違いなさそうである。 さて、私たちは自分の心理も十分には理解出来ないし、他人のことはなおさらに理解が難しい。それでも一人では生きていけない以上は、お互いの相互理解を大幅に深め、意思の疎通を活発にしなければならない。が、その決め手が見つからずに困り切っている。大きくは国際政治から、国内の政治や社会問題、小さくは友人や知人との関係や、親子などの家族関係にいたるまで問題は山積していると、言うのにです。一体全体、どうしたらよいというのか? どうしようもない、打つ手はないのだ。そう言ってこのまま放置しておくわけにはいかない。さあ、どうする…。 人任せ、政治任せにする態度を根本から改めて、個人で、一人で出来ることから始めて、徐々に大きな輪に広げて第一に御近所の為になる事をおこなう、積極的に。 そしてその延長線上で、町起こし、地域活性化、県の健全化、国の振興、交際社会の一体化へと前向きで肯定的な活動を推進する、全力を挙げて。断って置きますが、予算と言う名の「巨額な資金」は無用であります。元気という町民の「資源」さえ掘り起こすことに成功すれば、の話でありますが。 そのとっておきの素晴らしい「奥の手」は何か? お答え致しましょう。新しいコンセプトに基づいたセリフ劇がそれである、と。 新しいという意味合いは、色々とあるわけでして、例えば劇場といった特別な設備を必要としていない。人と人が出会える空間があり、そこに言葉による愛情溢れる交流がある場が設定されるならば、それで十分なのだ。その他、様々な相違が存在するわけなのですから、もしかしたら違う名前で呼んだ方が少なくとも誤解は生じない、だろうとも思うのですが、翻って考えてみるに、伝統的な「お芝居」の要素もそこには色濃く残っていることからすれば、その類似性を頭から否定する必要もなさそうです、どうも、つらつらと考えてみるに。 端的に言って、従来から呼びなれ親しんで来たお芝居のたどり着く 理想の形 であり、その完成形だと規定するのが、無理のない自然なことだと思われますよ、そもそもが。 どこに力点を置くかがポイントでありまして、それによって全体の様相ががらりと変わってしまう。「劇場」の場における主役が「舞台」から「客席」に移り、謂わば主客の逆転現象が生じる。セリフ劇の場では「ショーや見せるお芝居が行われる」のではなく、心の癒し、魂の清掃・クリーニングが行われるのですから「観客」ではなく、体験者の心の中である種の治癒行為が施されるのですから、「主役」は舞台上にはいない。舞台の役者は「客席」の主役に代わって、被治験者の心の中で行われる癒しのプロセスを促進させる補助手段としての演技が、パフォーマンスとして実施されるのみ。同時に、グループとして劇の場に参加した人々同士相互の精神的な交流と、「舞台上」の役者との親密な心的な交流と交感乃至は交歓が、もっと言えば精神の共鳴・共振が加わって、輻輳的に相互の高め合いが混じり合い劇的な場としての目的が達成される。 この様相を比喩的にクラシックの演奏会場になぞらえてみると、舞台上の役者たちは集団として一つの指揮者としての役割を果たし、客たちはそれぞれに得意の楽器を演奏する楽団員に匹敵する。この場合の聴衆は「神」でありましょう。真の絶対者との交流交歓が成立した場合に、真実の意味のカタルシスがその場全体としても完結する。目出度し、めだたし! ここまで言及したのですから、もう申し上げてしまいましょう。人間、人類としての神祭りの最高の形こそ、セリフ劇なのでありましたよ、実のところは。
2018年07月14日
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第 三百二十一 回 目 私の俳優論の七回目。今回、私自身の為に、そして野辺地町の住人の方々の為にも、延いては世の中の善良なる人々の為になるように、少し「教科書」風な解説を可能な限り施してみたいと考えました。文章というものは、或いは広く言葉の表現世界と言うものは、試みてみないと分からない部分が大半で、海図の無かった時代に大海原目指して、手漕ぎの小舟で旅に出るのとまるで変わらない、実に五里霧中といった不安この上ない心境なのですが、とにかく乗りかかった舟ならぬ、自分から好んで招いている困難な事態ですので、ここは遮二無二突き進んでみようと思います、男らしく蛮勇を鼓して…。 私は俳優を次の如くに定義致します。 俳優とは、神の演出に従って台本の指定する役柄を演じて、人々の心にダイレクトに働き掛け、その琴線部分に触れ、完全なるカタルシスをもたらす者を言う。 私が新たに申し上げたい事柄は、この定義の言葉で全て尽きて居りますので、残るのは実践あるのみ。と本当は申し上げて、事を済ましたいのでありますが、そうは問屋が卸さない困難極まりない諸事情がありまして、正直、私と致しましては難渋致して居る所なのであります。 俳優論は即ち人間論だと、私は言いました。そうです、人は生まれながらに一個の俳優である。しかも例外なく名優や名女優たる十分な素質を備えた、という付帯条件・資質さえ加えられているのですから、その有難い、本当に感謝の言葉も直ぐには浮かばない好条件ばかりなのですから、それをそれぞれの人生に役立てない手はない、断じてない。と、せっかちで先を急ぐ癖のある私・草加の爺はとかく結論を言い出したくなってしまう、どうしても。でもしかし、ここはじっと腰を落として、しっかりと構えなくてはいけない。( これ、私自身に向けての、戒めの言葉でありますよ ) つまり、私の俳優論は「才能に溢れた者であるならば」、万巻の書を物する事が出来る程の私たちにとって非常に、格別に重要な、最重要テーマなのであります。現代のドン・キホーテを自称する私・草加の爺でなくては恐ろしさにしり込みしないではいられない、底ひ無き態の、掘り下げても掘り下げても極め尽くせない奥深さを、深く広く蔵している。 ではありますが、私にいま与えられているミッションの重大さと緊急性に鑑みて、たじろいだり、怯んだりは絶対に許されてはいないので、再び三度、蛮勇を奮い起こして前進にこれ努めることに致しますので、どうぞ御寛容をもちまして拙文にお付き合いの程、宜しくお願い致します。 演劇とは見るものでは決してありませんで、体験するものであります。しかも、読書とは違って一人切りで、孤独な体験をするのではなく、大勢の仲間・同士・同胞と共に歓喜して、勇躍して全身で、体当たりで経験する最も大切なイニシエーション・儀式の形式なのであります。 結果はどうなるか? 生まれ変わるのであります、 新しい人間として再生・蘇生・甦生するのであります。 神と共に生き、生きることの真実を実地に噛み締める、身も心も完全開放を遂げるプロセスこそが、演劇・芝居・ドラマ・劇の醍醐味であり、真骨頂なわけでありますよ、全くもって。 では所謂プロの俳優はどういう役割を果たすのかと言えば、絶対者の「神」と人間とを結び合わせ、その「霊的な交信」を活発にさせる触媒の役割を果たす人物・機能を、正しく意味している。その意味からしても演劇の場に集まった善男善女を代表する、観客代表でもあるので、俳優の果たす役割は神との交信・交流の促進能力の良し悪しに、全面的に依存している、確かにそう言える存在。 さてさて、言葉での説明は以上で尽くしている。分かる人には十分なのですが、分からないお人には百万言を費やしても無駄でありましょう。井蛙の譬え話を持って来れば済むのですが、そうも言っていられないので、私の能力の及ぶ範囲で最善を尽くしてみようと存じます、はい。 絶対者とか、神だとか「訣の分からない言葉」をいきなり持ち出すから、急に話がこんがらかってしまう。それくらいの事は私も先刻承知して居りますので、ご説明致します。 私が使っている絶対者とか神とかの表現は、例えば一神教の天上の神でもないし、仏教で言う如来や仏とも違います。強いて言えば一神教や仏教で言う「神」や「仏」の遥か彼方に想定される、フィクションとしての神であり、絶対的な存在者なのです。物理学でいうところの梃の力学で説く「支点」に相当します。どのように重い物でも、これを利用すると軽々と動かすことが出来る。 人間は弱い存在であり、実に儚く短い生を終えて、死を迎えなければならない。己の弱さ微弱さを心得ている健気な動物でもある。その人間は「真実に頼りになる強い存在」を、根源的に渇望して止まない。常に希求し続けてもいる、それを、「本質的に強く頼りになる対象」を。無意識の裡であっても…。 ここに、この心理的な現実にフィクションとしての絶対者が必然的に要請され、その強い願望に促されて、どうしても、厭が応でも出現させずには置かない。心理的な側面から見れば必然なのであります。必要は発明の母とも言います。かくて、神は、絶対者的な存在者は、少なくとも人々の心理上では、極めてリアリティに満ち満ちた実在と化す。―― 如何でしょうか、幾分合理的な説明、解説となったでしょうか? 非合理な実在を合理一点張りで割り切ろうとすれば、どうしても無理が残ってしまう。 自分たちの勝手な要請から神をも造りだした人類は、自分たちの信仰心の薄さ、生命力の希薄化と共に神殺しを敢行した。ニーチェがいみじくも言った如くに「神は(文字通りに)死んだ」、「殺された」のでありますが、人類の根源的な強い欲求である神的存在への渇望・強烈な願望は衰える事はなく、一旦は伏流水として地下深くに潜り込んだのだが、なし崩し状態であちこちと様々な機会をとらえては、地上に噴出している。 健全な演劇・ドラマが切に希求されなければならない必然性が、近年とみに顕在化している。人類全体としての生命力はまだまだ健康な生命力を失わずに、健在を誇っている証左でありましょう。 ここで、演劇の定義をしてみましょう。 演劇とは、根源的に途轍もなく巨大且つ深遠な神の愛情に包まれる人類最高の儀式を、良好な台本に基づいて行う集団パフォーマンスである。この演劇のプロセスで人々の魂は完全なるカタルシスを体験し、心を根柢から清掃し、罪や穢れを祓い清めることが可能となる。 もしくは、目下のところはその理想の形を目指して試行錯誤の状態にある、人間の最高の営みである。 ここでも、言葉での表現は稚拙ではあっても、これで尽きている。完全に表現し尽くしてしまっているので、残るは 実践・行動・パフォーマンス あるのみと言って済ましたいところなのですが、短気は損気、最後まで懇切丁寧に解説・説明を続行したいと、考えます故に、どうぞ宜しくお付き合いを申し上げますよ、誠実に続行したいので。 さて、日本は神の国、神ながらの国柄と言われますが、もしくは嘗て盛んに言われたことがありましたが、その意味合いについて私・草加の爺なりの考えを申し述べたいと、この際思いました。 日本の国技とされている相撲、大相撲についてであります。先ごろ、土俵上で挨拶をされておられた市長さんかどなたかが、急病で倒れてしまった。女性が土俵上に上がってはいけない旨の放送を、若い行司さんが行ったのが問題だと、マスコミなどでも大きく取り上げられて、一種の社会問題化した。 これは現代人と神との関係を考える上で、非常に参考になる好材料だと思うので、取り上げることに致します。御断りしておきますが、私は大相撲に関してあまり造詣が深い方ではありません。専らラジオやテレビ桟敷での観戦が主体であり、一時期それさえも途絶えてしまった期間が多い、非常にずぼらな相撲ファンとも言えない市井の隠れファンの一人であります。 ただし、大の日本贔屓ではありますので、大相撲が辛うじて残し得ている「古き、佳き時代の日本文化のエッセンスの残り香」には、こよなく惹かれる所がある。 例えば取り組みのスタイルですが、序の口から始まり一番毎に序列の上の番付の取り組みへと、順序よく取り進み、最後は大関・横綱の取り組みで閉める。これは和歌の歴史の歌合せに始まり、連歌、俳諧連句へと連なる日本古来の伝統を、奥ゆかしく忠実に踏襲している典型的な日本文化の様式美なのでありますよ、実は。まだありますよ、お相撲の極意である、押さば引け、退かば押せ。これも日本文化の誇る精神分野での奥義にその儘で通じている、実に奥深いリファイン・洗練の極みに達した心得でもある。 しかも、見世物・ショー・興行でありながら、神事であるという伝統を頑ななまでに固守して、単なる近代的なスポーツとも一線を画する伝統的なプライドを捨てない。体重制限などという世界の趨勢に目もくれず、無差別を貫き通すアスリート魂は、見事の一語に尽きる。横綱の土俵入り、行司や呼び出し等の役割分担、礼に始まり礼に終わる作法、塩撒きによる清め、水を附ける所作、弓取り式での土俵の納めの儀式などなど、いちいち挙げていたらきりがない程に、徹底して儀式に拘り、神と人との交わり交流を重視する態度。全部が全部、人々の心や魂に働き掛け、癒しに、心のカタルシスに焦点が合わされている。そう言う意味では、目指すところは演劇と同類であると、断定して差し支えがないでしょうね。 そこで、日本と言う国のお国柄としては「神国」という表現を日本人みずから好んで使用するのですが、その心はというと、神と言う最大限に不合理な対象と附き合う事において、非常に長けている。伝統的に長じている。その意味では正に、精神性においての先進国であると主張してよい。そういう資格を十二分に備えている。自国に対して当然の自信を持ち、それを深めようではありませんか。 特に私・草加の爺としては今の若い世代に、自国の事をもっともっと積極的に知ろう。そう声を大にして訴えたい。自国の歴史を、文化を、人々の生き方を、先人の考え方の根底にあった大切なものを、親身になって探求しよう。結局それは、自分自身をより深く掘り下げて知るきっかけになるに相違ないし、真の意味で生きることの大切さや意義を教えてくれるだろうし、延いては人生を肯定的に、積極的に生き、その延長として生きることを心底から楽しむ・エンジョイする姿勢に直結すること、請け合いだからなのです。「学問の勧め」ならぬ、「人生積極肯定のすすめ」の序なのでありました。
2018年07月12日
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第 三百二十 回 目 私の俳優論の六回目ですが、少し横道に逸れた話から始めますよ。 今月の五日と六日に青森県に行ってきました。青森県上北郡野辺地町の五十嵐 勝弘氏を訪ねるのが目的でした。八戸までは新幹線で、青い森鉄道に乗り換えて四十数分で、私にとって既に心のふるさととも呼ぶべき存在となっている野辺地の町の玄関口と称すべき、閑散とした野辺地駅にただ一人で下り立ちました。7月だと言うのに冬を思わせるような「寒さ」なのです。 駅前でタクシーに乗り、亡妻の生まれた土地である馬門(まかど)に向かってもらう。遍照寺という家内の実家の墓地があるお寺の庭にタクシーを待たせたまま、私は氷雨の如き寒冷な雨が降る中で、大急ぎで義父や義母の眠る墓前に線香を手向けて、傘を差しながら合掌する。墓地に居るのは勿論私ひとりきり。次いで、直ぐ近くにある小さな神社にタクシーをまわしてもらう。線路脇の緑の生い茂った小さいながらも神さびた趣き深い御社・熊野様。二礼二拍手一礼。これは言ってみれば今は亡き妻の悦子の導きの賜物。いえ、いえ、愛妻は私に命令など一度たりともしたことはありませんよ。もっとも、命令した所で、自分で心の底から納得しない事は、断じて拒否する、私の頑迷この上ない性格をとことん知りぬいていたから、無駄な事を最初からしなかったまでのこと。 それは兎も角として、このような行動をとったについては、深い謂れがありまして、私にとっては珍しい行動のパターンなのです。と、申しますのも、本はと言えば旧姓柴田悦子との出会いから発した今回の町興しミッションですので、筋から言ってもこうあらねばならなかった。 タクシーの運転士さんにはとんだ御足労をおかけしたのですが、彼は非常に快く私の勝手な指示に従って、車を走らせて下さった。そして目的地の中央公民館に到着したのは、午後の一時三十分頃のこと。 館長には直ぐお目にかかることが出来た。名刺の交換をする。名刺の一番上に「野辺地町教育委員会」とあり、中央公民館長(図書館長・歴史民俗資料館長 兼務)と肩書が記されていました。 そして六十手前の温厚なお人柄の五十嵐氏と、非常に打ち解けた会話を交わすことが出来た。また会談の最後の頃に、これを差し上げますと、御親切に『野辺地方言集』を贈呈して下さった。これには感激しましたね、なにしろいずれは方言の事で、御相談を持ち掛ける折も、先に行ってから適当な時期に作らなければと、考えていたものですから、有難かったのであります。 今回は、直接にお目に掛かっての御挨拶が目的で、会話の内容は電話で予め御聞きしていた範囲を越える事項はなかったのですが、何か安堵感の様なものが、私の中に生まれて居ました。そいう意味で有意義な訪問だった。「時間が必要でしょう」と氏は丁寧に仰った。時間がかかることは私も既に覚悟が出来ていて、焦りや焦燥感のような物は正直のところ無かった。 話を終えて、中央公民館から徒歩で駅前の宿泊先の旅館に向かう。途中で学校からの帰りらしい小学生たち五六人と出会う。閑散として賑わいのない町中でも、子供たちの姿は活気を感じさせてくれて、なんとなく嬉しい。宿に着いて、部屋に入り、着替えをしてから、翌日に挨拶で訪れる予定の熊谷(くまがい)礼子さんに電話する。ご不在とのことなので、電話に出られた女性に明朝九時から十時の間に伺いたいが御都合が悪ければ、その旨をご一報願いたいと伝言する。 翌日、午前六時に朝食を摂った私は時間を持て余して、義妹夫婦が住む家から徒歩で十分程の場所にある港湾自動車工業㈱まで、散歩がてらぶらぶらと歩いてみようと、急に思い立ちました。 前回に野辺地を訪問した際には、馬門公民館まではタクシーで十五分ほどの感じでした。12月中旬の日曜日でして、馬門の自治会長さんで馬門公民館の館長さんである、柴崎民生氏にお会いする目的でした。柴崎氏はお休みの日にも拘わらずに、私一人の為に公民館を開けて、対応して下ったのでした。確か81歳という御高齢と御聞きしました。三時間近くに渡って私が一方的に話をするのに合わせて、熱心に耳を傾けて下さった。そして、帰りは御自分の車で義兄夫婦の家までわざわざ送って下さっています。 果報は寝て待て、という諺がありますが、私に欠けていたのはズバリ心のゆとりでありました。それも、俯瞰して客観視してみれば無理もないことと、自分でも自然に思うのですが、さにあらず、私の付け焼刃の信仰心が不足していたから、余裕が、平静さが持てないでいたのでした。 悦子は私と今は「一身同体」ならぬ「一身同魂」でして、絶対者・神の御意思を、その声なき声を私に仲介・媒介・翻訳する役割を演じ続けている。言葉では神の無制限な慈愛をこの私も受けている、しかもダイレクトに、と言いながら、本当の所では狐疑逡巡を度々繰り返している為体(ていたらく)ぶり。それを悦子は私にだけ通じる仕方で、これでもか、これでもかと念を押し、諭し導いてくれています。 いったんは旅館を出て、徒歩一分の距離にある野辺地駅に向かう。温かな暖房のよく利いた待合室で休息を取る。まだ午前の八時前なので電車通学の高校生たちが十人ほどスマホなどをいじりながら電車の到着を待っている。青森市内に出かけると言う年配の婦人も数人混じっている。私は最初此処で持参した小林秀雄の翻訳書を読んで時間をつぶす予定でいたのだが、前夜殆ど睡眠がとれていないせいもあって、読書に集中ができない。 それで、冷たい雨がそぼ降る中を、礼子さんの居る港湾自動車まで歩いて行こうと、ふと決めていた。 昨日の歩きを入れて、この土地での歩きでの場所移動は、距離が極端に限定されている。しかし延べの時間数というか、ここで過ごす日数は相当の日数になるので、何となく大体の土地勘があるような気になっている。しかし、念の為にスマホを取り出して町の地図で道順を確認してみる。サラリーマンの現役の時にはフジテレビの能村庸一氏と、日本各地の田舎道を闊歩した記憶がある。体力維持の為にも一人での徒歩旅行を楽しむのもまた一興とばかり、八時過ぎには駅舎を後にしていた。 地図で見ると簡単な道順なのだが、車で連れて行ってもらうのとは全く感覚が違っている。途中で予定していた心算の道順を間違えてしまっていた。しかし、気楽な一人散歩である。全く慌てたりはしない。余り早く着いて礼子さんに迷惑をかけるよりは、たっぷりと時間をかけたほうが却って好都合と考え、強行突破した。それでも全行程、かなり遠回りをしたが、九時過ぎには目的地にたどり着いていた。 熊谷礼子さんは亡妻悦子の幼い頃からの無二の親友である。当初、私はせいぜい一時間ほどで失礼する心づもりでいたのだが、ついつい長居をして昼食まで御馳走になってしまい、果ては駅まで車で送って頂く仕儀になってしまった。言い訳をするわけではないが、親友悦子の永遠の不在を深く嘆き、未だに心の整理が完全にはついていないと語る礼子さんの姿を目の前にして、私以上に悦子の魂が感動している様が如実に伝わって来る。私は安んじて礼子さんの厚意に甘えることにした。妙な表現になるが、不思議な心地善さを味わう時間であったから。「もっと居たい。克征さんも今日は許してあげるから、彼女の望む儘に応対してあげて…」、そう耳元で呟く声なき声が伝わって来る、確かに…。 悦子は最後の最後に当たって、自分の「我儘」を貫き通した。野辺地や青森の親類縁者はもとより、あんなにお世話になった浅草今半の社長にさえ「お見舞いに来ないで下さい。私が永眠した際には、既に書き終えて夫に預けてある手紙がお手元に届きますので、元気な私の姿を記憶に留めて置いて下さい」と見舞いや葬儀への参列をきっぱりと拒否していた。これは悦子の優しさがたどり着いた究極の形。我儘の仕納めでもあった。 よくも悪くも、私と悦子の夫婦は似た者同士で、お互いに強烈な影響を与え合って、今日に至っている。馬門出身の田舎娘は東京一の老舗料亭の看板御姐さんへと変貌を遂げた。克征は克征で、自分のことしか考えられないエゴイストから脱皮して、世のため社会のために身を捧げる覚悟を固める、ナイスボーイに変貌を遂げることが出来た。 ―― こんな風に書いて来てふと我に返ってみると、私・草加の爺は74歳という老齢をも顧みず、ぬけぬけと「惚気(のろけ)ばなし」を始めていた。私は息子たちから屡々こう言われていた、「結局は、お父さんの昔話って自慢話ばかりなんだね」と。自分では自慢している意識は全くないのだが、悦子以外の誰かが聞くと目一杯の自慢話の類に聞こえる、実際に。 宜しい、もうこうなったからには、居直ってしまおう。意識してもしなくても結局は自慢話やらおのろけ話になってしまうならば、堂々と自慢し、惚気倒してやろう。何を血迷ったのかこの耄碌爺さんが、いい齢をして駄法螺を吹いていること。それで、大いに結構。所詮は「駄法螺」の類(たぐい)に類するものなのでありましょうから。 ここで遠慮なく申し上げましょう。悦子は類まれなる名女優であったと。自分を常に厳しく鍛え上げ、努力に努力を重ねて、しかも、驚くべきことにそのプロセスを楽しみ、謳歌しながら、目一杯精一杯に生きた。六十四年の人生を百メートル走の如くにダッシュして終えた。見事の一語に尽きる、ただもう凄いと唸るだけ。しかもしかも、古屋克征(ふるや かついく)という「稀代の名優」をとことん、徹頭徹尾、愛し抜いて、愛し抜いてなのだから猶更なのだ。うーんと、思わず知らずに絶句してしまう。
2018年07月08日
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第 三百十九 回 目 私の俳優論の五回目。今回は「他人の真似をするな」とは、一体どういうことなのか、について考えを追及してみます。 この世に生を享けた人は、誰一人として同じ人はいない。顔の作りから、背格好、性格から趣味趣向までことごとくが違っていて、全く同じと言う人は居ない。クローン人間なら同じではないか、という疑問も浮かびます。同じような人間ばかりが出現すると想像はされますが、恐らく細部には相違が出る事でしょう。それよりも私にとって心配で気懸りなの事があります。人間の意識上の「クローン指向への著しい傾斜」への趨勢です。 つまり、誰もがイケメンで、美人で、スタイルが抜群によくて、性格が優等で…。そうした全ての面で優秀な「理想的な人間」ばかりが居る「理想社会」を想像してみて下さい。少なくとも私にとっては想像するだけで「ゲップ」が出る程に、退屈で、飽き飽きする環境であります。何故って、何もかもが整っていて「優秀な人」ばかりな世の中になれば、第一に優秀な人など「存在してはいない」から。 こういう事柄について、あまりあれこれ言う必要はないかも知れませんよ。何故なら、「神」が全てを織り込み済みで展開されて居られる「御業」に抜かりはなく、それ故に私たちとしては与えられた諸条件の中で最善・ベストを尽くせば事足りるのであります、余計なことなどに愚にもつかない考えを廻らしている暇があるのならば。 結論めいたことを申し上げれば、実はこれ私・草加の爺の「持論」なのですが、例えば『神の存在証明』などと小賢しい事をほざいていないで、潔く、信じられるのなら無条件で信じ、信じられないのであれば、虚無・ニヒリズムに走ればよいのでありますね、実際の話が。 信じる者は直ちに、即刻に救われるし、信じない者もそのままの状態で、広大な愛情の直中に掬い取られる、定め・運命の下にあるのですから、所詮は、根本においては。 話が横道に逸れてしまいました。私が申し上げたかった事はただひとつ、十人十色、それぞれに素晴らしい。神様のなさることは「全部が全部」、「何から何まで」素晴らしい。そう、諸手を挙げて称賛し、讃美したい。それだけのこと、なのであります。 そうすると、何処かにへそ曲がりなお人がいて、「殺人者やテロリストの、一体何処がどう素晴らしいと言えるのだ」などとちゃちゃを入れて来ます。( 本当のところを率直に言えば、この様な言いがかりをまともに受けて返答する必要もないのですが、ここではただ只管に愚直に、それ故に誠実そのものにお答えいたす所存です ) 普通、私たちが行う行為・行動には二重三重の意味・意義が有る。直接的なそれと、間接的なそれとですが、ただそれだけにはとどまらない。殺人者には殺人者の言い分があるでしょうし、被害者の方にはそれこそ数えきれないほどの「言い分」がある。当然のことですよ。そして、この事件の関係者や関係の無い人。色々、様々です。知らない人まで含めると無数の「関係者」が想定できる。 事件や行為行動との関係性の厚薄によって、或いは強弱に従って、色々様々な意味が考えられる。しかし、通常は我々人間のレベルでの考えしか反映されない。考慮の範囲は人間の力の、能力の及ぶ範囲に限られている。しかし、絶対者・神の広大無辺な配慮が常に働いている。ピンポイントでは負・マイナスの価値しか見いだせない部分でも、実に行届いた繊細極まりない手当が施されている。そう考えて間違いない、絶対に。 我々個人・部分・断片は当然ながら全体性を自分のものとすることができない。ただ、只管に全体性に絶対的に、無条件に帰依することによって、心の平安を得、安心して「無」に没入するのみ。安心立命とはこいう心の平静清浄さを言った物。此処からあとのことは、実地に学ぶことしかない。実践あるのみ。 ここで私はプラトンの書簡での言葉を思い出さずには居られなくなる。つまり彼は次の様な事を言っている。「一番大切なことは、言葉では表現出来ない」と。私はプラトンに全面的に同意するものであります。あの大部な述作を残したプラトンにしてからがそうなのです。私に出来る事は言葉で以って、その方向を指し示すことだけ。あとは実地に、各人が独自の創意工夫を凝らしに凝らして、実践に努めるほかに仕様がないのでありますから。 持論つながりでもう一つ付け足すと、人間として最も大切な能力は何かと訊かれたなら、今の私は即座にこう答えます。それは、信ずるに値する対象を知って、もしくは信頼できる人から教えられて、愚直に信じ切る能力である、と。しからば、その真実に信じるべき対象とは一体何か? それに対して、こう答えましょう。無限大の、広大無辺な愛情であると。 そして又、素直ではない現実の頑固な不信心者に対して、絶望感を抱きながら、次の如き「幼稚な譬え話」をするでありましょうね。井戸の中の蛙は大海を知らず、と。 生まれつき井戸という狭い、狭い世界に成長した一匹の蛙が、海という限りもなく広大な世界の話を誰かから聞かされた。しかし当然ながら、その蛙には途轍も無く広いと言う、その海の広さのイメージが湧かないし、認識がそもそも出来ない、 そこで蛙は自分のお腹を膨らまして、その海の大きさとは「このくらいなのかい?」と相手に尋ねます。「いいや…」と相手はそっけなく首を横に振る。更に蛙は自分のお腹を膨らまして尋ねます、「このくらいなのかな?」と。こうして哀れな蛙は自分のお腹の皮を膨らまし過ぎて、自滅してしまったとさ。 もう一つ。大馬鹿者がいたとします。彼はまともな事を何一つとして理解・把握出来ない。そういう前提で御話が始まる。意地のとても悪い人が居て、この稀代のバカ者に向かって「彼が途轍もないバカだと言う事を、納得させろ」と、貴方に命じます。さあ、どうしますか? 不可能な事は土台無理なのでありますよ、最初から、そもそも。 如何でしょう、不心得な不信心者に対した際の私の絶望と、やるせなさを分かって頂けたでしょうか。 さて、話を「他人の真似をするな」に戻しましょう。念の為に申し添えますが、「安易な」という形容詞・修飾語が付きますね。それは一体どういう事か? 自己に与えられた「唯一にして、無二の特質」を何よりも先ず、大切にして前面に押し出して行こう。そういう意味であります。が、以前にも言いましたが、働いている「神の御業」は広大無辺であり、そう簡単には把握・認識出来ない。それ故の、自己究明、自己探索、要するに人生修行の大切さがポイントとなるのですが、己を知るとは言うべくしてなかなかの難事である。長所の発見もさることながら、短所や欠点の把握・認識がこれまた同様に容易ではない。それでは、一体どうしたらよいのか? 「他人の振り見て、我が振り直せ」でありまして、見易く批判が簡単な他人の、自己以外の人の様子を注意して観察し、自己反省の糧・道具として利用する。 背が比較的に高い低いから始まって、運動が得意だとか苦手であるとか、食べ物の好みがどうであるとか、色は緑が好きで茶色は何となく嫌いであるとか…。 そう言ったこまごまとした傾向や趣向など、それ自体は取り立てて良い悪いが定め難い、と言いますか、各自の好き好きに任せて一向に構わない特色とも言えない「特色」を、様々に取り混ぜた混合体が言わば私たち普通人の姿。そのありのままの「在り方」を、意識的に改めて積極的に受容し、把握した上で、改めて積極的にかつ肯定的に強め、進展させる。大切に、優しく、温かく見守り、「親心」を持って見守り育てる。こうした地味で地道な努力と精進を日々続けて行く。これが「俳優」・「人間」としての自己を高め向上させる極めて重要な土台となる。 人の目につきやすい、そして流行やはやりに左右されやすい「人様の長所や美点」に、心を惑わしたり不安を感じたりの愚を潔く離れ、ゴーイング マイ ウェイ の精神を貫き通す、終始一貫で堅持する。その不動の精神力、独立自尊自立の姿勢こそが肝要なのであります、何にも増して。 そして、その不動の土台を根柢の所で支えるのが、真実の、誰もが生まれながらに植え込まれている、各自の魂の中に確固として保持している、信仰心の萌芽を堅実着実に、すくすくと成長させること。 結論から言えば、人間教育の中心の柱は、この真実の信仰心の萌芽を常に大切に世話し、成長させ、やがては亭々たる緑滴る大樹に育て上げる仕事。このことに尽きる。その外は、どうでもよい謂わば枝葉の事にしか過ぎない。そして、この人間教育の真に値する営々と続けられるべき重要な仕事は、先ず家庭において、両親や祖父母の手によって行われるべき筋のもの。当然に、学校教育の中心にはこの精神が力強く打ち立てられていなくては、無意味であり、存在意義は消滅する。 要約しましょう。俳優は(従って人間は)神の無尽のエネルギーをインスピレーション(霊感)によって自分に常時取り込み、汲み入れて、その豊富な滋養に満ち溢れた、実に有難い「神通力」を通して周囲の人々に積極的に働き掛けて、人々の魂に癒しと安らぎと新しい活力とを与え続ける、そうした有効な能力を有する様に、日々に努力を重ねて生きなくてはならない。人々の為に、そして、何よりも自分自身の為に…。 各自が自己に特有の個性を発揮して、社会全体、人類全体としてフルにその持てる特色を発揮できた時に、素晴らしい未来が間違いなく今と言う瞬間に手繰り寄せられ、爆発的な輝きと光彩を放つに相違ない。それは次なる、更なるベターなステージへと無理なく連なり、この世がその儘でさながら理想世界に変貌を遂げる。それが絶対者・神・仏の願いそのもの。私たちの願望と目には見えなくとも厳として存在する真実の存在者たる 絶対者 の慈悲心とが、完全に合致するならば、極楽・天国・桃源郷・ユートピアは思いのままに、たちどころに現実社会に姿を現す。この事実は、永遠の真実なのですから、間違いなく、実際に到来する。 私たちは一人の例外もなく、「即身成仏」出来る可能態としてこの世に生を享けているのでありますから、「他力」と「自力」との出会う場所と瞬間において、時々刻々と即身成仏し得る存在なのでありました。それ故に雑音に妨げられることなく、周囲と仲良く手を携えて、自己鍛錬の努力をエンジョイするべきなのですね、喜々として、勇躍して。しかし、急がず、焦らず、こつこつと忘我の境地に入って、「苦しいと感じられ、困難と受け止めざるを得ない」難事業に対しても、勇敢かつ細心の注意を払って、粉骨砕身しなくてはいけないのです。世の為、他人の為、自分の為にも…。 ピンチはチャンスなのですから、今困難や危機が目前に迫って在るとした、これこそは最大の好機、絶好のチャンスの時到れりと前向きに捉え、積極的に対処する嬉しさを思うべきでしょう。 さあ、あなたと共に一歩を前に、希望へと進もうではありませんか!
2018年07月07日
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第 三百十八 回 目 私の俳優論の四回目です。蛇足ですが、これは新提案の「音読を楽しもう」の会に野辺地の人々を勧誘するのが主たる目的ですが、その他の方々にも大いに参考になるに相違ないと、自負する人生論も兼ねていますので、是非とも熟読玩味の上で、毎日の生活にお役立ていただけるなら、これに過ぎる幸いはありません。兎に角、私自身は真剣そのもの。私・草加の爺がこれまでの人生で学び得た人生のエッセンスを全部が全部、余すことなく開陳し尽くしたいものと、衷心より念願いたして微力を傾注いたしますので、どうぞご愛読の程、重ねてお願い致しておきます。 さて、俳優・役者になるには何が一番に必要なのか? 答えはいたってシンプルですよ。決して他人の真似をしない事。これに尽きています。原理や理窟は何時の場合でも簡単そのものなのですが、それを実行するとなると非常に難しく、困難であります。大概のケースでは、途中で放り出してしまう。三日と持たずに諦めてしまう。そうと、相場が決まっている、十中の八九と申したいが、十人いれば十人に限りなく近い人が、その様になってしまう。横道に逸れて、安易で惰弱な性質に適した方向に、われ知らず舵をとっている。 何故なのか……? 大体が人生を舐めてかかっているから。子供は親の背中を見て育つと言いますが、その親からしてふやけた根性しか持ち合わせていないから、子供も自然に感化を受けて、安(易)きに就く生き方を選択すると言う意識もなく、無意識に選択している。これが、先ず世間の相場と言うもの。 おい、待てよ! 草加の爺さん、随分と偉そうな御託を並べてくれるじゃないか。お前さんは、一体何様だと言うのだ。お前さんだけは例外だ、とでも言うのかい。―― こんな例によって例の如き御叱正の厳しい声が飛んで来そうです。私は答えて申します。経験者は、語る、と。 私の「偉そうな物言い」は謂わば「神の目線」から見た場合の事を申し述べるのでありまして、断じて私自身が僭越至極にも「上から目線」で、あれこれ論評するものではありませんので、くれぐれも誤解の無いようにお願い致しておきますね。 次に大切な事、これも同様に言葉にしてみれば簡単なように思えるが、なかなかどうして簡単どころの話ではない。つまり、自分自身と正しく向き合い、それを少しづつ日々に高める。或いは徐々に深めて行く。すると何が起こるか? 自他ともに人生が楽しくなり、言葉の正しい意味での向上心が生まれ、益々自己と正対する作業に熱が入る。すると、益々生きることが楽しく、周囲の人々との連帯感が、絆が強くなり、いよいよ益々生きる意義が大きく広がる。こうして、正のスパイラルが精彩を放ち、この世がまさにその儘で極楽、天国と変ずるに至る。以上は理窟であり、道筋でありますが、実践には強固な信念とそれに伴う強靭な意志の力が必要であり、段階を経て高みを目指さなければ、挫折が、失敗が悪魔や、時には天使の誘惑として訪れ、忘れ去られることになる。人生の陥穽、エアポケットがいたるところで待ち受けていて、私たちを苦しめ続けるから。 「 言うは易く、行うは難し 」、人生の大事などと言っても、この平易で簡単な言葉に尽きている。大体の君子が、まことに変わり身が早く、君子豹変すで、大部分がそこそこの所で「大成」してしまう。女性、淑女の場合にも全く同様の事が言え、真の大成など思いも及ばない、実に悲しいことに。 頑固一徹の大ばか者、虚仮の一念を押し通す大うつけ者、「大物の」たわけが世には中々出てこない。本当に悲しむべきことでありますよ、実際のはなしが。皆が皆、小悧巧を目指す末世・濁世においては尚更なのです、ああ! 以上で俳優として、また、まっとうな人間として生きる上で最低限必要な心得は、全部申し上げました。あとは、それを生かして如何にして実践し、鍛錬を継続して行くか。その実践方法であります。とにかく上手下手は度外視して、実践にこれ努めていただくしか手はないのですが、それでは余りにも冷淡に過ぎ、少しく邪険、意地悪とみる御仁も少なからずいらっしゃると愚考致しますので、一般論としての平均的で無難なアドバイスを、可能な限り具体的に述べることに致します。 本当は、実地に際しては、具体的な個性に則して、適切に助言するやり取りなり、コミュニケーションのプロセスが必要、且つ、不可欠なのでありますが…。これは教育、学習の上での生徒との接触に際してと、全く同様なのでありますが、隔靴掻痒で、当方としては歯痒い思いが頻りなのですが、この際は致し方御座いません。 私は「他人真似をするな、自分と向き合え」と申しましたが、俳優としては第一歩を踏み出す時に、素直に自己の地(じ)を曝け出しなさい。自分の欠点を恐れるな、と言いたい。いわゆる良い声でなくとも構わないので、兎に角、普段着の声と調子で、自分自身に語り掛けること。そして、自分が発した声音(こわね)に謙虚に耳を傾ける。もし、耳障りに聞こえたら、どうしたら耳に少しでも快く響くか、工夫を凝らしてみる。トライしてみてください。 イージーで簡単そうに見えるけれども、自分と無縁な「猿真似」は厳に慎むべきであるが、逆に有効に利用でき効率よく活用できるものは、徹底して取り入れる、貪婪とも言えるほどまでに。そういう姿勢も大切でありましょう。自分を客観的に見つめ、評価する能力。それはそのままで、他者を冷静沈着に把握することに直結している。 この辺の見極めに際しても、自己との向き合い方、欠点や短所を含めた己の特性を、日頃どれだけ深く掘り下げることが出来ているか。それが物を言う。 例えば、感じの好い言い方とはどのような調子なのか。その反対は…。逆に、実に意地の悪い物言いとはどのような物なのかに注意を集中していれば、意地の悪い人も、自分に貴重な教えを知らせてくれる、恩人と化すであろう。自己の心掛け次第で、世の中の空気も変化して感じられる。先方を指図して自分の思うように動かしたり、考え方を改めさせたりは出来ないが、こちらの工夫と心掛け次第では、思いも掛けなかった宝物の発見が、思わぬ場所に待って居たりもする。セ ラ ヴィ! この考え方を積極的に推し進めて行けば、地獄も極楽も思いのまま、大魔術さながらに不思議の連続が、眼前に展開する。あーら、不思議、まあ、驚いた、なのでありますね、たちどころに。 要するに、音読やセリフの発声を訓練する段階では、自分の心の中心に届く、琴線に触れるにはどのようにしたらよいのか。この一点に注意を集中すればよい。これが基本中の基本であり、完成地点のゴールでもある。あとは、この技術の応用で、さまざまなバリエーションが無理なく展開できる。そういう次第であります。徹底して、目標を目指して一直線に突き進む。進んで、進んで、また進む。本当は、完成もゴールもない、人生に完成が無いと同じように。 もし、演技に完成があるとしたら完全燃焼した時々の瞬間的な「花」としての開花と結実だけ。しかし、それを実現した暁には、さらなる美しい大輪の「華」を咲かすべく、新たなるスタートが切られる必要が生まれる。そして更なる高みへと、人々と共に歓喜の直中に飛び込む「義務」がある。人として生まれたからには、人として見事な死を迎えるためにも。 ―― 風よ吹け、うぬが頬を吹き破れ。いくらでも猛り狂うがよい。雨よ降れ、滝となって落ちかかれ、塔も櫓も溺れ漂うほどに! 胸をかすめる思いの如く速やかなる硫黄の火よ、槲(かしわ)をつっさく雷(かみなり)の先触れとなり、この白髪頭を焼き焦がしてしまえ。おお、天地を揺るがす烈しい雷(いかずち)、この丸い大地の球を叩き潰し、板のごとく平たくしてしまってくれ。生命の根源たる自然の鋳型を毀(こぼ)ち、恩知らずの人間どもを造りだす種を一粒残らず、うち砕いてしまうのだ! ( 沙翁作 の 「 リア王 」より ) この絶対的なリアの怒りの叫び声を、一体誰が、どの様な名優が完全に、完璧に表現し得ようか。恐らく、リアルな人間には、血の通った私たち人間には表白は不可能でありましょう。しかし、俳優にはそれが許されている、たとえ名優でなかったとしても。シェークスピアという天才の傑作と言う土台がしっかりと根柢の所で支えてくれているので、安心して、彼の能力の及ぶ範囲で、精一杯の演技力を発揮しさえすれば、それで事足りるのであります。 次に福田恒存の解説から引用しておきます。『リア王』はシェイクスピア悲劇の最高峰である。のみならず、この作品においてシェイクスピアは彼のみが書き得る、紛れもなく彼自身の刻印を持った悲劇を書いたと言える。これを書いていた時の彼は、他のいかなる悲劇詩人の目も届かなかったほど深く世界の核心に入込み、その秩序の崩壊と、引続いて起こる醜怪な不条理の様相とを、まざまざと眼前に眺めていたのである。これに較べれば、ギリシャ悲劇の最高のものすら影が薄くなる。アイスキュロスやソフォクレスにおいてさえ、作品の裏側で常に理性が神々の世界と取引きをしていないか、その帳尻(ちょうじり)が必ず零(ゼロ)になるような安定感に支えれれていはしないか。この作品の主題は、第一に親子の間の愛情と信頼に関わるものである。そして、第二のそれは虚飾の放棄である。リアは言う。「必要を言うな、如何に賤しい乞食でも、その取るに足らぬ持物の中には、何か余計な物を持っている。人間、外から附けた物を剥がしてしまえば、皆、貴様と同じ哀れな裸の二足獣に過ぎぬ」と。 それから又、―― 花のいろは 移りにけりな いたずらに わが身よにふり ながめせしまに (小野 小町 ) この絶唱を、この最高度に理知的に構成された名歌を、どの様な女優が如何に技巧を凝らせばと言って、説得力ある表白が、独白が可能だと言えるでしょうか? 絶対的に不可能でありましょう。が、しかし、女優たらんとする者には、それが仮に女形(おやま)であったとしても、この人間技では不可能事にチャレンジする資格が、少なくと許されている。理由は「リア王」の場合と、全くおなじでありますよ。つまり、作品そのものが、傑作の持つ独自性が自己のユニークそのものの作品世界を保証しているから。どの様な凡手であっても、カタルシスは自ずからに達成される。そういう物、そういう性質の物なのであります、表現の持つ「目出度さ」というものは…。
2018年07月02日
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