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三島由紀夫の「金閣寺」を読んだ。巧い文章だと思ったが、深い感銘を受けることはなかった。 小説は文章によって構成されているのだから、文章が巧みであり、華麗であるに越したことはあるまい。その点で、三島は殆ど間然するところがない。だから、ケチをつけるつもりはない。 ケチをつけるのではないが、何か私の心にしっくりとこないものが残ってしまう。以前に、若い頃に読んだ時にも同様な感想を抱いたものだが、今も、今度も又同じ印象をぬぐい去る事はできなかった。 余りに 観念的に過ぎ 、作られすぎている、という思いは残る。作文としては抜群に上手い、が、それだけ、との思いが頻りにする。 念の為に、あと幾作品かを読んでみるつもりであるが、結果は同じであるような、予感がある。その予感が外れることを、おかしな表現になるが、密かに待望しているのだが……。 対比的に言うと、芥川竜之介の文章は、理知的であるとか、自己韜晦的であるとか言われる事があるけれども、隱約の間に彼の自己が露出している様が伺われて、私には何処か好ましい印象を与えてくれる。 芥川も三島と同様に技巧的な文飾を縦横に駆使してはいても、どこかに「稚拙」な部分が透けて見えていて、人間らしさを、血の通った平凡な人間の在り来りな色合いを垣間見せて、読む者をどこかほっとさせる。 その点で、三島は取り付く島もないほどの完璧さを、さもさりげなさそうに文章に盛り込むので、血の通った人間味を、少しも感じさせない。その謂わば過度に人工的な装飾過多な措辞が、人を冷たくはねつけるようで、冷血な生きる姿勢を露骨に、ダイレクトに感じさせてしまうのかも知れない。 三島由紀夫も芥川竜之介も、共に理知的であり、抜群に頭が切れる。洗練された、高度な文章世界を構築して読者に「娯楽」を提供してくれている。 しかし、文学に寄せる二人の態度には、著しく相反するものがあると思う。それは何か、非常に難しいのだが、敢えて言い切ってしまおうか。 片方は、人生の真・善・美を無条件に信頼しきっている人のそれであり、片方は、何か人間そのものの存在を全的に是認出来ず、全てに「添削」を加えなくてはいられない、ある 傲慢 極まりない精神のあり方を、どことなく垣間見せている。それ故に、彼の本質的な脆弱性を裏切り示しているのが、その文章作品なのだ。そんな風な感想を、ふと、持たせる要素がある、と感じている。 一言で言えば、不自然に過ぎるのだ。過度に自然さを逸脱しているのだ。 同じように、自殺した文学者であるが、死の謎自体にも、その人柄の全部が反映している。そう感じている今日この頃の私である。
2019年08月23日
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今日の目覚めは何故か爽やかであった。 生は、生きて今日あることは、無条件に良いことであり、全肯定されなければならない。 それにつけても、八月は我々日本人にとって忘れることのできない月であり、戦争の惨禍と、様々な悲慘な死を嫌でも思い出さずにはいられない。 爽やかな目覚めは、過去の戦争や、原爆投下による地獄の様相とは、意識の上では結びつかないけれども、全く無縁とも言えないだろう。 祖先の霊を迎え、一時期を共に過ごす、習俗は殆ど形骸化しているけれども、無意味であるわけではない。何故ならば、生者は死者とともにあり、幾多の死によって支えられている存在であるのだから。 個人としても、社会としても、あらゆる人間悪を嫌悪し、憎みつつも、歴史を振り返れば悪を繰り返し犯し続けている存在。それが、私たちのあり方だと知れる。 各個人はそれぞれの置かれた環境の中で、懸命に生きる。その集積として例えば戦争という、人殺し行為が繰り返し、連綿と続けて行われている。 この事実を、私たちは、私こそ、先ず冷静に受け入れる必要があるだろう。 私達人間は、善を思考して止まないと同時に、悪とともに永遠に有り続ける存在であることを。そして絶対的な善が無いように、純粋な悪もまたないことを、冷静に受け入れる必要があろうか。 それは、個人の幸せを築く上での、根本の姿勢であろうから。 個人は社会や国家の中にある。当然であろう。個は部分として全体と釣り合いをえている。自覚があろうとなかろうと。 よい社会がなければよい個人の生活もないし、逆もまた然りで、よい個人の生活がないところに、よい社会が成立しようがない。持ちつもたれつ。 個人のレベルでベストを尽くすことが、そのままで社会の為になるであろう。これは、理屈の上のことだけではなく、事実でもある。 無条件に戦争は嫌だ。個人レベルでは喧嘩や諍いはしたくないと、反省する。しかし、現実には、我々の個人的な思いは、切実で、強い願いは、常に裏切られてしまっている。誰が悪いのか? 心無い、ある種の人がいて、そのために世の中全体が、悪く、住みにくいものになっている。そう考えて済ましていられれば、気楽でもあろう。自分とは、無関係に、悪が発生しているのだから。 だが、だが、そんな風に気楽に考えて済ましていられる人は、幸せなのか。それとも、とんでもない過ちを犯しているのか。然りであり、否でもあろう。 何故とならば、個人は、部分はそれ程に強くも立派でもない。個人には、限界がある。つまりは、完璧を期することはできないのだから。だからといって、個人に全く責任がないとも言えないのだ。 全体は、必ずバランスを取るであろう。ただ、それがどのような形なのかを、私が知らないだけ。私にできることは、全体を無条件に信じ、強く、全身全霊を以て、信じきること。それ以外には、ない。
2019年08月07日
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永遠の現在がある。そして、私は今に生きている。生かされてある。 そして、やがて死がこの私の生・現在に取って代わる。生が何物であるかを知らない私に、死が何物であるかがわかる道理もない。生物の一員である私は本能としての死というものに対する、漠とした恐怖の感情を抱いている。何であるかを知らずに、その当の死を恐れるのは矛盾であろうか。そもそも、本能とは何であろうか? 恐れると言うからにはそれが何であるかを、ある程度「知っている」からではないか。 死とは、本能とは私達がこの世に生を受けたと同時に身につけてきた、ある種の知識のようなものに相違ない。 それと、生きる中で他者の死に様々な形で遭遇した、「死」の経験がある。しかしそれは、飽くまでも他者の死でしかなく、私の死ではない。死は一様に死であるけれども、私の死ではないからと言って他者の死と、私の死が同一であると簡単には言えない。言い方によっては、全く同じだとも言えようし、そう見做して悪いわけもなかろう。 生物は、人間は一定の期間、この世での生を与えられ、死によってこの世を去る。それが、常識的な生と死のあり方である。 こうして言葉による表現では、何も始まらないし、生を極めたり、死を明らめたりする手助けには、少しもならない。絵に描いた餅のようなもの。 我々にとって生は無条件によいもの、そして死は反対に無条件に忌むもの、唾棄すべき対象。そんな風に理解する。それで、何も不都合はない。 しかしながら、私は同時に既に知ってしまってもいる。死はある種の救いであり、安らぎとさえ言えることを。大局的に見れば、ある個体の消滅は、他の新しい生命体の為に役立つ故に、好ましいことでもある事実を。 一粒の麦もし死なずば、一つにてあらん。死ねば多く実を結ぶであろう、と。 要するに、この世にある事柄は、全てに意味があるのであって、良いとか、悪いとか、ただ一向きだけに限定してしまうことは出来ないし、そうしてしまうのは正しくないのだ。 私は自分に与えられた人生を完全燃焼させることだけに、意を用いればよい。それ以外のことは無駄であり、意味のないこと。そうは思い至るのであるが、完全燃焼するとは、現在を十二分に生ききるとは一体全体どうしたらよいのか。それが問題だ。 しかし、翻って考えてみれば、それも下手な考えは休むに似たりで、瞬間瞬間に命を傾注して判断し、そして、潔く行動する他にはない。 この事実を、私はもう遠の昔から知っていた。いや、知らされていた。今更に、ジタバタしても始まらないではないか。感謝あるのみ、今ここに生きて苦しんであることに…。
2019年08月03日
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