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新約の「ヨハネ伝」まで読み進んで来ました。英文でしかも現代英語ではありませんので、日本語の口語訳を随時参照していますが、意味が取りづらい所が何箇所も出て来ています。しかし、少しずつですが聖書・バイブルの文体に慣れつつもあります。 意味が取りづらい事の要因にはいくつかの要素があると思いますが、旧約聖書の知識が決定的に不足している事が、その最大のものと思われます。「ヨハネ伝」を一応読み終えた後で、旧約を読み直してみる心積りではおりますが、第二に私はユダヤ人では勿論ないし、時代も著しく違う異邦人でありますから、イエスの言葉をそのつもりで意訳して聴く必要があります。この作業が恐らく一番難しいことなのだろうと、内心で自分自身に言い聞かせながら、用心して読みすすめています。 ただ言えることは、イエスの言葉は絶対的に正しいという、直感を得ていること。これは間違いのない事であります。だから、イエスが今、私・草加の爺に直接語り掛けたとするなら、どんな事を、どんな風に言うだろうかと、想像を逞しくしながら読んでいるわけなのだ。 それも、本質的には原文に表現されている通りが大部分なのであろうから、結局、聖書を正しく読むという一事に帰結するのである。そう、心得ている。 それにしても、人生の最晩年になって、私の愛読書が「源氏物語」と「聖書」の二つに絞られたということは不思議でもあり、当然でもある、と思うえるのは、単なる偶然ではあるまいと感じている。むしろ、必然であったと言うべきなのか。 無理なく、光源氏とイエスとは非常に類似している。いや、酷似しているとさえ感じた、或いは、感じさせられた私なのであるから。 私、草加の爺の人生の結論と言っては、まだ早すぎるのであろうが、まだまだ五里夢中状態ではあるのだが、源氏物語と 悦子 と バイブル と言った、やや三題噺めいた、おぼろげなヴィジョンが浮かび上がって来ている。この深い意味合いを自分自身で可能な限り深めていく。これが当面の私の重要な課題なのだという自覚が、いま徐々に固まりかけている、確かに。 イエスの主張は単純明快である。自分を地上に遣わした天なる父・神を信じ、敬い、その命令に従え。そうすれば、お前は永遠なる生命を得るであろう。これが、イエスの言葉のエッセンスなのだから。 そしてそれは、一人の人間として絶対的に正しい事なのだ。どうして、その正しい言葉に耳を傾けなくてよいであろう。人間の従うべき掟は単純にして、明快至極。ではあるが、言うは易く、行うに難い。至難と言って良い。行動が常に問題なのだ。 自然界の動物たちの生き方を見てみるがよい。他者を文字通りに「食って」生きている。神の命のままに。根本のところに極めて難解なパラドックスが仕掛けられている。自然の儘の人間もまた、野生の状態では一動物にしか過ぎない。他者の生命を喰うことによってしか生きられない、何人であっても。原罪とはこれを言うのであろうか? 神の仕掛けられた深い罠…、? 仏教でも無益な殺生を禁じている。当然のことであるから。自分の命を保つのに必要にして、最小限度の「殺生」だけが生物には許されている。無益とは、過剰と同義である。過剰なる殺生、それは厳に慎まなければならない。人間が人間を殺す。殺人は無条件で悪であり、罪である。これが人としての最低限度の掟である。しかし、人類の歴史は戦争と殺戮の歴史であるといってよいほどの、悪と罪の連続と言って良い。何故、そうなっているのか? 簡単だ、明快だ、それは無上・無類に楽しい行為だから。 言葉では悪と言い、罪と呼んで否定しておきながら、人は、人類は繰り返し、繰り返し、人殺し行為を際限もなく行い続けている。愚かな、ならず者の集団、それが人間、人類の本質なのかしら。 悲しいね、泣きたいくらいに。「戦争、反対」などと善人顔して唱えている無辜の民の、何と多いことか。本当に、お気楽でいいね。芯からの善人とは、能無しの代名詞なのだろうか。いや、いや、そんな筈はない。きっとない。原罪から生まれた派生的な、無自覚的な、無知のなせる業。 だから、ソクラテスに学び、無知の知を体得しよう。ああ、考えてみれば、ソクラテスも「毒杯を強制されて、つまりは、殺されてしまった」ではないか。イエスの十字架上の死と、人類の師とも仰ぐ賢人の痛ましい死は、単なる偶然であるはずもない。愚かしさの極み。私もその集団の一部である、悲しい定めに生きる、儚く、侘しい存在。悔い改めよ。そして、最後の審判に備えよ! しかし、一体全体、最後の審判とは何を意味しているのか、今の私には分からない。 一般的な解説では、ゾロアスター教及び、アブラハムの宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラーム教)が共有する終末論的世界観であり、世界の終焉後に、人間が生前の行いを審判され、天国か地獄行きが決められるという信仰を言う。が、私にはよく理解できない。 つまり、真の善とは何か、本当の悪とは何かが分からないからだ。納得の行く理解が出来ないからだ。 現世では、曖昧な事柄が曖昧に処理されて、又は曖昧なままで放置されて、すっきりとした解決が得られないままで、いつの間にかあやふやに忘れ去られてしまう。だから、最後の審判のような事が行われ、明快な回答が下されるならば、生理的にスッキリするであろうとは、思うだけである。愚考する、のみ。
2019年10月29日
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新約聖書の「ルカ伝」まで一応は読み進んでいる。 最初に断り書きをしたように、一種のノヴェルとして読んでいるので、キリスト教信者の読みとは本質的に意味が違っている。尚、蛇足めいて付け加えるならば、だからと言って 不真面目に 読んでいるのではない。真剣そのものだ。 ノヴェルは日本語では通常 小説 と訳されているが、その表現に拘泥して言えば、謂わば 大説 として拝読しているので、救世主・イエスキリストとは、私にとって、76歳になる一人の老人にとって何者であり、私自身の対話の大切な 縁・よすが として謹んで向かい合っている。事実、そうしているつもりだし、一心不乱に読み耽ろうと努力もしている。 イエスには不可能という事がない。それは彼が神であるから、首肯出来る事。しかし、イエスは自分自身の為にはその万能の能力を行使しない。小さい者、力の弱い者、病気に苦しんでいる者などの為に超自然の偉大なる能力を惜しげもなく発揮するが、十字架にかけられて処刑される父なる神が定めた、ミッションには恰も屠所に就く家畜のごとくに、従順に従う。「アバ、お父ちゃん、何故に私をお見捨てになられるのですか?」という悲痛な最後の叫び声は、イエスの中の 人間 が弱音を吐いているに過ぎず、神の子としての揺るぎのない信頼、絶対的な愛・安心は露ほどにも、揺らいではいない。そう、無条件で私たちに感じさせるものが、根底に確かにある、間違いなく。 そうであるから、同じ神性を有しながらも、父なる神と、子としてのイエスとの間には截然たる差別・区別が、はっきりと置かれている。 と言うよりも、キリスト教における神の存在は唯一絶対なのである。そう言った方が、より正しい理解なのであろうか。 先ず最初に存在した者と、その存在から続いて生まれでた者との、秩序としての差異と言う方が良いのかも知れない。 ここで、父であり、息子であることの意味を詮索してみようか。キリスト教は男尊女卑なのか。然り、そして、否である。絶対的な存在にはそもそも男女の区別はないのである。 人間や動植物の位相に至って、種の伝達の為に、その便宜の方法として雌雄や男女の別が発現するわけで、謂わば二次的な、派生的な問題である。男である、女である、そのこと自体に大きな意味を置き、男尊女卑などという問題を持ち出すこと自体が、神から見れば次元の低い、重要でない問題なのだ。そう、自然に認識して、あとは不問に付して問題のない、些細な問題意識でしかない。つまり、一人の人間を見ればよいので、その中で、とりわけ性差にだけ注目するのは、少なくとも宗教上は邪道なのではなかろうか。ここでは、一応そんな風に片付けておこう。 すると自然に、神との関係と人間相互の関係の別が浮かび出てくる。人間の間の問題を神に頼るのはよいが、例えば神の責任にするなどという不心得は許されない事。やはり、次元の違う事柄と承知すべきなのであろう。 神が不在で、従って神などという存在を頭から信じていない現代人にとって、一見不必要と見える問題を持ち出したのは、理由がある。そもそも、人間に神は不要なのか? 人間などという愚かで儚い存在に生きる、よりよく生を全うするなどという難しい業・芸当は可能なのであろうか…。 現代の混迷、原始から綿々と続く大自然の脅威・圧倒的な暴力にどうして対処したらよいのか。それに加えての人間の愚かな所業に依る自然界の狂い、制御不可能な暴走化現象に如何に対処したらよいのか。 考えれば、考えるほどにお先真っ暗になるばかり…。 自分の死んだ後の、この世の事などに誰が一体責任が持てようか。なのに我々は、何と浅知恵で、思慮不足をも顧みることもなく、馬鹿な振る舞いに終始して、頬被りして済まそうとしている事か。 救いは、完全なる救済と安寧は、神なる存在との正しい関係の中にしか見出すことは、出来はしないのにも拘らず。少なくとも、いまの私には、そんな風に思えて仕方がないのだが…。
2019年10月22日
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マルコ伝によると、様々な病気は 罪 が原因である旨が、はっきりと書かれている。 この事実に着目しよう。つまり、イエスは魂の医者として人々に接しているのだ。 罪を許すのは、神にのみ許された行為なのだ。現世が肉体や物質を第一とすのに対して、天国は唯一、心、魂、精神のみを重要とする。ここが聖書を読む際の勘所と、私は気づかされた。なんとまあ迂闊であったことか。論語読みの論語知らず、ならぬ聖書読みの聖書知らずであったわけで。 目から、鱗とはこのことを正に言うのだ。( ここで、神に感謝申し上げよう ) 序でと言っては何なのですが、この度の未曾有の台風災害で様々な災難に遭われた方々に、心からのお見舞いを申し上げたい。こんな風に安気に、気楽に暇つぶしをして時間を消費出来ている身分を、被災された方々に対して相済まないと、自然に思ってしまう。 考えてみれば、何時、どのような形で私や近親者の身に不幸や災難が、降り掛かって来るかも知れない。他人事などと黙視してもいられないので、一言してみました。 そこで最近の天候異常は地球温暖化の流れの中の、一現象なのかも知れないなどと、私などは感じてしまう。昔の人ならば、さしずめ天の怒り、天罰などと感じてしまうのかも。 仮に天罰や仏罰、神の怒りと捉えたとして、その人力を超えた存在者達は何ゆえに、か弱い我々に、しかも直接には何の悪い事もしていない者に対して、「無作為」に災いや困難を体験させるのであろうか。もう少し、別のやり方や方法があるのではあるまいか、などと、またぞろ愚かな考えが浮かんで来てしまう。 理屈を言えば、何とでもいえる。例えば、全体を俯瞰できる絶対者の視点と、有るか無きかの、超微弱な部分とでは、視点は勿論のこと、認識・知覚・理解、その他諸々が全く異なる。井の中のカワズは実に大海を知ることがないのである。 微弱な小部分に出来る範囲の中で、ベストを尽くす。全部は一であり、一は全部であるとする仏教の教えに従えば、微弱と言えども、一人の人間は本質的に全宇宙に匹敵する存在でもある。 してみれば、そのベストとは途轍もなく範囲が広大であり、たかだか百年程度の寿命を無限回繰り返した所で、多寡が知れていると悟るのが賢明であろう。その上での、一種の開き直りがなくては、ニッチもサッチもいかないのだ。 座禅をするのもよい、芸術に生涯を賭けてみるのもよいだろう。一人の女にうつつを抜かすのも、これまたひとつの価値ある生き方かも知れない。但し、本人がそれで満足できるならば、という条件が伴うけれども。要するに、人それぞれで良い。佳きかな人生、笑ってこの世とおさらば出来るならば、何でもよいと、理窟は教えてくれるが、理窟通りに行かないのが、人生というもの。そこで、私なぞは大いに迷い、いい加減のところで諦め、諦め切れずにまたもや、中途半端に迷い、自分の長くもない寿命を持て余して…。 結局、元の木阿弥という結果に行き着いてしまう。これもまた一興と、臍を固め直して、浮世の花見や紅葉狩りと洒落こもうか。これ、大真面目で書いているので、伊達や酔狂などでは毛頭ありませんよ。
2019年10月15日
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聖書の「マタイ伝」を一応読み終えて、「マルコ伝」に進んだ。こちらはマタイ伝よりボリュームが少ない。しかし、量より質である、当然ながら…。力点の相違と解釈すべき事。( これ自戒の言葉 ) 私が直ぐに気になった箇所は、人々がイエスに注目するのは様々な病人を治したり、悪霊に取り憑かれた人々の体から、汚れた霊・悪霊を追い出して、正常な、健康な者にしてあげる業だという事実。 病人や「精神異常者」とを、意のままにを癒して健全な状態に還す。これこそは人間と神との決定的な相違であるから、どのような人間でも、驚嘆し、畏怖し、もしくは鑽仰する。そうしないではいられなくなる。論より証拠であろうか。 所で、旧約聖書で神は「父母を敬え、隣人を愛せ」と教えた。なのに、例えば食事の前に手を洗え、との先人の教えを墨守している者がいて、そうしない者を咎めたりする。 イエスは、そういう輩に対して厳しく叱責する。無条件で信じ、頼って来る「弱者」、「小さな者」を無条件に受け入れ、直ちに癒す、病気を治す。 然し、愚かで思慮の浅い私には、神の 深慮遠謀 が理解できずに、自分本位に考えて、全能の神ならば最初から病気やら悪霊の類から人間を守って下されば良いものを。などと、ついつい思ったり、考えたりしてしまう。能力として可能なのに、その能力を敢えて行使しない。これが神の流儀なのである。 しかし、考えてみれば、この力・能力は既に私たちの身体の中に、自然治癒力として備わっているし、善悪のけじめも生まれながらに、分別として持たされてもいる。 だから、我らの神はやはりご自分に似せて、人間を作り、愛されて居られる。ところが愚かな人間が、神の親心を理解せずに、誠にけしからぬ愚行を犯し、悪の道に走ってしまう。 それゆえに、基本的には神は我々と対等な関係を前提にしている。そう考えるべきと私には思われてならない。つまり、下世話に言うところの、親バカなのである。 逆に言えば、それほどに造物主は人間に深く、限りない愛情を注ぎ続けたのだ。 そして実に辛抱強く、我々の成長や発達の過程・段階に応じて、様々・色々な工夫を凝らして分からせようと腐心する。信じられないほどに、忍耐強く、我慢の限界まで許し、改心を期待して待つ。 我々としてはこの神の親心に過度に甘えてはいけない。誤りを知ったなら、直ちに改めればよい、悪びれずに、幼子の無垢な心根を持って、素直さを忘れないで。 斯言う私・草加の爺は、「小さな奇跡」を何度も経験させて頂いた、確かな覚えがあるのだ。身に覚えがあるので、その神の御心を忖度して、私流の解釈を「こじつける」のであります。 念の為に、いい添えますが、キリスト教を勧誘しているわけではなく、人類の一人として、正しいと感じたことを、勇気を鼓舞して吐露するのでありました、実に。 世の中には驚く程に、数多くの宗派、信仰の形があります。そのこと自体にあれこれ言うつもりなど、毛頭ないのですが、人として本来的に与えられている敬虔なる源・宗教心を忘れてはならない。そしてまた、自己の信じる「神」を強制してはならない。密かに信じて、世の為、他人の為、何よりも己自身の幸せの為に、大いに役立てるべきである。 ここで問題がある。何故、イエスキリストは弟子達に福音の宣教を命じたのか。弟子に選んだから、というのが現在の、私の回答である。彼は小さき者、力弱き者に奉仕せよ、と教えたので、入信を強制せよとは言っていない。信仰は飽くまでも個人的な信念の問題であって、声高に宣伝するものではないのだから―。
2019年10月09日
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第二十三章 イエスは群衆と弟子達に向かって、公然と強い口調で律法学者とパリサイ人を非難する。彼等には見せかけだけの偽りしかなく、一片の真実もない、と。 そして次の様に嘆いた。ああ、エルサレム、エルサレム、預言者達を殺し、お前に遣わされた人達を石で打ち殺す者よ。丁度、雌鶏が翼の下にその雛を集めるように、私はお前の子等を幾度集めようとしたことであろう。が、お前たちは応じようとはしなかった。私は言っておく、「主の御名によって来る者に、祝福あれ」とお前たちが言う時まで、今後再び私に会う事はないであろう、と。 第二十四章 イエスは世の終わり、彼が再び姿を現す時は、ノアの方舟の洪水の前のように、前兆は誰にも明かされないと人々に告げる。 第二十五章 天国を喩えるのに、十人の乙女の比喩。主人が旅に出掛けるのに、財産を預けた下僕三人の比喩。地上で、人々の中で最も小さな者にしなかったのは、つまり神の子たる私にしなかったのと同じことである。それらの悪人は永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るのだと、イエスは言う。 第二十六章 祭司長達や民の長老達がカヤパという大祭司の中庭に集まり、策略をもってイエスを捕まえて、殺そうと相談した。 イエスがベタニアで、らい病人シモンの家にいた時、一人の女がイエスの頭に高価な香油を注ぎかけた。弟子たちはそれを咎めたが、イエスはこの人は私の葬いの用意をしたのだ、と窘めた。 イスカリオテのユダの密告と裏切り。イエスの弟子達との最後の晩餐。そこでイエスはユダの裏切りを指摘した。そして、ペテロに言う、今夜、あなたは三度私を知らないと言うだろう、と。 ゲッセマネでのイエスの祈り。イエスの捕縛と裁判。その場でのイエスの沈黙。ペテロの号泣。 第二十七章 世が明けると、祭司長・民の長老一同はイエスを殺そうとして協議を凝らした上で、イエスを縛って引き出し、総督ピラトに引き渡した。 ピラトはイエスの処罰を民衆全体の判断に委ねた。結果、ピラトはイエスをムチ打った後、十字架に付けるように命じた。 二人の強盗がイエスと一緒に十字架につけられた。人々はイエスを罵り、嘲弄して言った。「他人を救ったが、自分自身を救う事ができない」と。 さて、昼の十二時から地上の全面が暗くなり、三時に及んだ。その時にイエスは大声で叫んだ。 「 エリ、エリ、レマ、サバクタニ 」― 意味は、我が神、我が神、どうして私をお見捨てになられたのですか、である。ピラトはイエスの墓の石に封印をさせ、番人を置いて番をさせた。 第二十八章 イエスは彼の言葉通りに、三日目に復活した。十一人の弟子達はガリラヤに行き、イエスに会い、拝した。イエスは彼等に近づいて来て言われた。 「私は天においても地においても、一切の権威を授けられた。あなた方は行って、全ての国民を弟子とし、父と子と精霊との名によって、彼等にバプテスマを施し、あなた方に命じておいた一切の事を守るように教えよ。見よ、私は世の終わりまで、いつもあなた方と共にいるのである」と。 ―― 以上、「マタイ伝」の要約です。
2019年10月07日
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聖書を読んでいる、新約聖書の「マタイ伝」から読み始めている。一人の日本人として、つまり、異邦人として、一種の小説・ノヴェルとして、だから、と言うのか、にも拘らず、真剣にできる限り心を傾けてて、自分の生き方の手本として、読みたいと心がけてはいる。 ところで、七十六歳の老人になった私・草加の爺の最大の関心は、いかに周囲に迷惑をかけずに死を、その瞬間を迎えるかの一点にある。そう言ってよい。 明日の事を思い煩うな、とイエスは教える。しかし、凡人の典型の如き私は、ともすれば理屈では分かっている些事に拘泥し、くよくよと思い煩ってしまう。つまりは、信仰心が薄い証拠であろうか。 あれこれと思い煩ったからといって、何がどうなるわけでもない。世の中の事はなるようになるのであるから。理屈とは、つまり、そういう事であり、この年まで生きてくると、様々な雑念が、つまらない知識とも言えない雑多な知識ばかりが蓄積されていて、迷いに、惑いに拍車をかけるようだ。 正しく、神を信ずればよい。結論はそういう事と頭では分かっていても、実行が伴わない。 誰であったか、いずれ仏教系の教えであったように記憶するが、惑う時には惑うがよい、と喝破していた。しかし、この思想にしても、私などは、大いに惑うことなど不可能で、適当なところ、というか、いい加減な惑いで切り上げてしまう。何をやっても、何を考えても、みんな中途半端で終わってしまうから、悟りや涅槃の境地などからは遥かに遠く、迷いと惑いの「地獄」から抜け出せないでいるのだ。 どうあがいても、もがいても、小人の境地を抜け出せないのであれば、これで仕方がないのだと、度胸を、覚悟決めてしまえば良いのだが、それも出来ないで、謂わば歯ぎしり、ばかりする毎日を送っている。 一つの悩みが眼前から姿を消すと、次なる困難や難儀が現れて、心を悩ます。 凡人の浅ましさ、この様な体たらくの連続で、毎日が、時間が経過していく……。 今の自分に出来る事、可能なこと、と言えば、精々自分の健康に気を付けて、国や、周囲や、家族・近親者に迷惑をかけないように、心掛けて、規律ある生活を送ること。 積極的に周囲に恩恵をもたらすことなどは、思いもかけられず、消極的に「 他人様の荷厄介にならずに静かに、目立たずに、この世をフェイドアウトする心掛 」くらいが、まあまあ、関の山なのであろう。 政府は 一億総活躍時代 などと景気のよいアドバルーンを上げているが、庶民の現実とは何とかけ離れた感覚を、為政者達は持っているのであろうか。 イエスの世も、今日も、小さき者、力の弱い者が苦しみ、悩み、喘ぎ、し続けるのが世の実相なのであろうか知らん。と、すれば、イエスが再び三度この世に姿を現して、虐げられた者たちに無条件の救いをもたらして下さることを、衷心より願わないわけにはいかない。 こう書いてきて、待てよ。キリストは既に復活を遂げて、私たち一人一人の隣に静かに立って居られる。日本の国柄で言えば、弘法大師空海・遍照大師様が莞爾として歩みを共にして下さっていらっしゃる。それに、それに、諸々の菩薩達も、救いの手を差し伸べて下さっていらっしゃる。後は、私達の心掛次第である。何も思い惑うことなどはなかったのだ。 自分で出来る範囲の事で、可能な限りの努力を重ねればよい。そうなのだ、自分に可能な精進を心掛、与えられた時間を大切に生きればよい。 そのために、杖となり、強い日差しを避ける笠となり、雨風を防ぐコートとして与えられているのが、神の教えであり、戒めなのであった。難しい事など一つもないのだ。 イエスは自分の十字架を背負って自分の後に従え。そう弟子たちに命じた。私は弟子ではないけれども、可能な限り「私の十字架」を究めながら、残された地上での生活を整えてみたいと、今は考えている。
2019年10月05日
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第十六章 パリサイ人とサドカイ人とがイエスを試み、天からの徴(しるし)を見せて貰いたいと言った。答えて言う。邪悪で不義な時代は徴を求めるが、ヨナの徴のほかは何も与えられない、と。 そして弟子達に彼等の教えを警戒せよと、教えた。また、私を誰だと思う、と質問した。シモン・ペテロが「あなたこそ、生ける神の子キリストです」と答えた時に、自分はこのペテロという岩の上に協会を建てよう、そして又、天国の鍵を授けよう、と仰った。更に、自分がキリストであることを誰にも言ってはならないと、弟子達を戒めた。 この時から、イエス・キリストは自分が必ずエルサレムに行き、苦しみを受け、殺され、そして三日目に蘇る事を、弟子たちに示しはじめた。それから、こう告げた。「誰でも私について来たいなら、自分を捨て、自分の十字架を負うて、私に従って来なさい、と。 第十七章 イエスの変身 ―― イエスはペテロ、ヤコブ、ヤコブの兄弟ヨハネだけを連れて高い山に登り、その三人の目の前で姿を変えた。顔は日のように輝き、衣は光の如く白くなった。すると、モーセとエリヤが現れて、イエスと語り合った。するとたちまち輝く雲が三人を覆い、その雲の中から声がして次のように言った。「これは私の愛する子、私の心に適うものである。これに聞け」と。 弟子達はこれを聞いて非常に恐れ、顔を地に伏せた。そして、一同が山を下りた時、「人の子が死人の中から蘇るまでは、今見たことを誰にも話してはならない」と命じた。 そして、弟子達はイエスに訊ねた、「律法学者達は何故、エリヤが先に来るはずだと言っているのですか」と。するとイエスは、確かにそのとおりだが、人々がそれを認めないだけなのだと言い、バプテスマのヨハネを指して言った事を、悟らせた。 その後で、イエスは一人の癲癇患者を治した。信仰が十分であれば、山さえも動かすことは出来ると諭した。 やがてイエス達一同がカペルナウムに来た時、宮の納入金を納めるように迫った。するとイエスは、海の魚の口から出た銀貨で、その金を収めさせた。 第十八章 イエスは弟子達に、天国で一番偉い者は幼子のように、自分を低くすることが出来る者であると、教えた。また、この世は罪への誘惑があるから災いなのだ、とも。もし自分の両手や両足が罪を犯させるなら、切って捨ててしまえ、とまで言い切った。 九十九匹の羊と、一匹の迷った羊の喩え話。どんなに小さな者であっても、滅びないように配慮するのが父・神の御心だから。 ペテロがイエスに尋ねた、兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度、許さなくていけませんか、七回でしょうか、と。イエスは七の七十倍許せと答えた。 第十九章 イエスはガリラヤを去り、ヨルダンの向こうのユダヤの地方に行く。群衆が大勢ついて来たので、治療行為を施した。 パリサイ人がイエスを試そうとして質問した。「夫が妻を、なにかの理由で離婚するのは、差し支えないですか?」と。「神が合わせられた者を、人は離してはならない」と言うイエスに、「それでは何故、モーセは妻を出す場合には離縁状を渡せと、定めたのですか」と追撃した。 イエスは、「モーセはあなた方の心がかたくななので、妻を出すことを許したのだ。不品行の故にではなく自分の妻を出して、他の女を娶る者は、姦淫を行うのだ」と言明した。 すると、一人の若い男がイエスに近寄って言った。「先生、永遠の生命を得るためには、どんな良いことをしたらよいですか」と訊ねた。イエスは「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証をたてるな、父母を敬え、自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ、との戒め・掟を守りなさい」と返事した。若い男は、「それは皆、守ってきました。ほかに何が足りないのでしょうか」と更に質問した。 イエスは言う、もしあなたが完全になりたいなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々にに施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして私に従って来なさい」と。すると、青年はすごすごと悲しみながら帰って行った。彼は沢山の資産を持っていたからである。 それからイエスは弟子達に言う。富んでいる者が天国に入るのは、難しい。駱駝が針の目を通るよりももっと至難である、と。更に続けて、おおよそ私の為に、家、兄弟、姉妹、父、母、子、もしくは畑を捨てた者は、その幾倍もを受け、又、永遠の命を受け継ぐであろう、と。しかし、多くの者は後になり、後の者は先になるであろう、とも。 第二十章 イエスは天国での事を説明するのに、葡萄園での喩えをした。家の主人が労働者を雇うために町に出かけて行った。彼は労働者たちと一日一デナリで契約した。朝早く雇った者にも、夕方遅くに雇った者にも、同じ賃金を、それも夕方遅く雇った者から順番に、約束の賃金を支払うのだ。働いた時間が長いか短いかに関係なく。ところが、最初の人々が来て、家の主人に不平を漏らした。主人は答えた、「友よ、私はこの最後の者にも、あなたと同様に払ってやりたいのだ。自分の物を自分がしたいようにするのは当たり前のことだ。このように、天国では後の者は先になり、先の者は後になる、と。 さて、イエスはエルサレムに上る時、十二人の弟子を密かに呼びよせ、言われた。私はエルサレムで祭司長、律法学者達の手に渡される。彼等は私に死刑を宣告し、嘲り、ムチで打ち、十字架につけさせる為に異邦人に手渡すであろう。そして私は、三日後に蘇るであろう、と。 その時に、ゼベダイの子等の母親が、子供達と一緒に来て、イエスにお願いした。母親は言う。「私のこの二人の子が、天国であなたの左と右に座れるようにしてください」と。するとイエスは彼等に言われた。「確かに、あなた方は私の飲む盃を飲むことになろう。しかし、私の右、左に座らせることは、私のする事ではなく、私の父によって備えられている人々にだけ、許される事だ」と。 すると十人の者が、これを聞いて、この二人の兄弟達の事で憤慨した。そこでイエスは彼等を呼び寄せて仰った。「あなた方の間で、偉くなりたいと思う者は、仕える人となり、頭になりたいと思う人は、下僕とならなければならない。それは、私が来たのが仕えられるためではなく、仕える為であり、又多くの人の贖いとして自分の命を与える為であるのと、全く同じである」と。 彼等がエリコを出て行った時、大勢の群衆がイエスに従って来た。すると、道端に座っていた二人の盲人が、「主よ、ダビデの子よ、私達を哀れんで下さい」と叫び続けた。イエスは彼らを憐れんで、目が見えるように治してあげた。目が見えるようになった二人は、イエスに従って行った。 第二十一章 エルサレムの近くオリブ山沿いのベテパゲで、イエスは弟子に命じて子ロバを連れたロバを調達することを命じた。それは嘗て預言者が言われた事を、成就するためであった。やがて、弟子達はロバと子ロバとを引いてきた。イエスはそれに跨りエルサレムに入る。人々は歓呼してイエスを迎えた。宮に入ったイエスは庭で売り買いしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを覆された。そして言った。「私の家は祈りの家であるのに、あなた方はそれを強盗の巣にしている」と。 その時に、宮の庭で盲人や足萎えが来たので、彼らを治された。しかし、祭司長や律法学者達はイエスのなされた不思議な業を見、また宮の庭で「ダヴィデの子、ホサナ」と叫んでいる子供達を見て立腹した。それからイエスは都を出て、ベタニヤに行き、そこで夜を過ごされた。早朝、都に帰る際に空腹を感じたイエスは無花果の実を食べようとしたが、実は一つもなかった。イエスはその木に向かって、「今から後、いつまでもお前には実がならないように」と言われた。すると、無花果の木はたちまちに枯れた。驚く弟子たちにイエスは言った。「もし、あなた方が信じて疑わないならば、無花果にあったことが出来るばかりではない。この山に向かって、動き出して海に入れと言っても、その通りになるであろう」と。「また、祈りの時に信じて求めるものは、皆与えられるであろう」とも仰った。 すると、祭司長や民の長老達がやって来て、言った。「何の権威によって、これらの事をするのですか。誰が、そうする権威を授けたのですか」と。するとイエスは言った。「ヨハネのバプテスマはどこから来たのか、天からか、人からか」と。彼らは相談したが、「私たちにはわかりません」と返事した。天からと答えれば、何故信じなかったのか、と言われるし、人からと言えば、人々が皆ヨハネを預言者と信じていたから不都合を起こす、と考えたからだ。 すると、イエスは続けて二つの喩え話をした。一つ目。ある人に二人の子供があった。兄は父の言いつけに対して「はい」と答えながら、仕事をしなかった。弟は「いいえ」と父親に答えたが、言いつけられた仕事を行った。二つ目。或る所に、ぶどう園の所有者がいた。それを農夫に貸して、旅に出た。収穫の季節が来たので、下僕達を送ってその分前を取ろうとした。ところが農夫はその下僕達をひどい目にあわせ、殺してしまった。また別に更に多くの下僕達を送ったが、同様にあしらった。最後に、自分の子供を送ったところ、農夫は彼を捕まえて、殺した。このぶどう園の主人が帰ってきたら、この農夫達をどうするだろうか、と。 祭司長や民の長老達は答えた、「悪人どもを皆殺しにし、季節毎に収穫を納める他の農夫達に、ぶどう園を貸し与えるでしょう」と。イエスは言われた。「よく聞きなさい。酒税人や遊女は、あなた方より先に神の国に入るでしょう。あなた方はヨハネを信じなかった。また、神の国はあなた方から取り上げられて、御国にふさわしい実を結ぶような、異邦人に与えられるであろう」とも。 司祭長やパリサイ人は、イエスの話が自分たちを指している事を悟ったが、イエスを預言者と信じている群衆を恐れて、捕らえる事が出来なかった。 第二十二章 イエスの喩え話。天国は一人の王が王子の為に婚宴を催すような、ものだ。王は僕を遣わしてこの婚宴に招かれている人達を呼ばせたが、その人達は来ようとしなかった。そこで王はまた、別の僕を派遣したが、彼等は知らぬ顔をした。一人は自分の畑に、一人は自分の商売に出て行った。また他の人々はこの下僕を捕まえて、侮辱した上で、殺した。そこで王は立腹し、軍隊を送ってそれらの人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った。その上で僕達に「町の大通りに出て行き、出会った人は誰でも婚宴に連れてきなさい」と命じた。僕達は善人でも悪人でもみな集めてきたので、宴席は客でいっぱいになった。中に一人礼服をつけていない客がいた。王は彼に言った。「友よ、どうしてあなたは礼服をつけないで、ここに入ってきたのですか」と。彼は黙っていた。そこで王は側の者達に言った。「この者の手足を縛って、外の暗闇に放り出せ」と。 イエスは、招かれる者は多いが、選ばれる者は少ない事を、教えられたのだ。 その時に、パリサイ人が来て、イエスを言葉の罠にかけようとして言った。「先生、カイザルに税金を収めてもよいでしょうか」と。イエスは彼等の悪意を知って言われた。「偽善者達よ。カイザルのものはカイザルに返し、神のものは神に返しなさい」と。彼等はこれを聞いて驚嘆し、イエスを残して立ち去った。すると、復活ということはないと主張していたサドカイ人が来て、イエスに質問した。 イエスは、「神は死んだ者の神ではなく、生きた者の神である」と答えた。群衆はこれを聞いて、イエスの教えに驚いた。 さて、パリサイ人達はイエスがサドカイ人達を言い込めたと聞いて、一緒に集まった。そして、イエスを試すために質問した。「律法の中で、どの戒めが一番大切なのですか」と。 イエスは答えて言われた。「心を尽くし、精神を尽くして、主なるあなたの神を愛せよ。第二は、自分を愛するようにあなたの隣り人を愛せよ。これら二つの戒めに、律法全体と預言者がかかっている」と。 そしてまた、パリサイ人達が集まっている時に、イエスは彼等に「あなた方はキリストを誰の子であると思うか」と質問した。彼等は「ダヴィデの子です」と答えると、「ダヴィデ自身がキリストを主と呼んでいる。イエスが彼の子であるはずはない」とイエスは言明された。 その日から、進んでイエスに質問する者は、もはやいなくなった。 ( 第二十二章まで )
2019年10月04日
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イエスは自分の敵を愛せ、と教える。 これは私に限らずに、誰にとっても難しい。と言うよりも、むしろ至難の業というべきかも知れない。 成程、自分に身近で親しい者や、友人、知人を愛する事は、自然の人情であり、誰にとっても容易い事であろうが、敵を愛すとなると、たちまち誰にも出来ない、人間の理想的なあり方になってしまう。 自分の敵を愛せたら、どんなにか素晴らしい世界がこの世に現出する事であろうか。しかし、それは余りにもハードルが高すぎて、出来ない相談ということになってしまう。 しかしイエスキリストは私たちに、汝の敵を愛せよ、と事も無げに命ずる。 これは一体、どういうことなのか? 所で、イエスにとって「敵」は存在したのか。敵がいたとしたら、それは誰なのか? しかし、その前に、教師としてのイエスを考える場合に、人々に教える事と矛盾する行動を彼が取るはずもないわけだから、彼・イエスキリストは確かに彼の敵を愛したに相違ない。その結果の十字架上の死だったとも言える。 すると、イエスは我々に十字架上の死を推奨している事に、なりはしないか…。しかし、しかし、これは通常人、俗人には不可能な事なのではないだろうか。 そして、人類の罪を一身に背負っての贖罪が、イエスの死の意味だと言われている。と言う事は、誰もが自分たちの犯した罪の、( この罪は謂わゆる原罪、アダムとイヴがエデンの園で蛇に唆されて知恵の実である林檎を食べた事に始まる、各世代に亘る罪の数々、と言う事になろうか ) 償いの為に、地上での生活の中で、各々、銘々がその分に応じて、贖罪を行う事を指し示し、そのような生き方を推奨していることにほかならない。そんな風に、私には感じられる。 人間は本来、素晴らしい、愛すべき、賞賛すべき存在であった。それがどうしたはずみか、道を踏み間違えてしまった。「悔い改めて」反省し、綺麗な身体と心を取り戻して、父の居る天国に入ろうではないか。そう、イエスは我々に呼びかけている。そんな解釈が可能だ。 これは、結論ではない、一つの解釈にしか過ぎない。格調高いイエスの教えが示唆する、ほんの僅かな理解の一部、その片鱗に触れるもの。 これから聖書を読み進める中で、私なりに理解を深めていきたいと、切望する。 所で、敵は即ち、隣人であるとの解釈も可能だ。つまり、同胞 即 敵対者 とするもの。だから、己自身も敵の中に含まれる。何だか、東洋の仏教的な思想が、知らず知らずに影響しているような気がしないでもないが、一即全、と言った教えが私の背後から、そっと囁くようだ。まだまだ、結論を急ぐ必要は全くないのだから、残された時間のすべてを懸けて、イエスと真正面から向き合う努力を続けたい。 そんな風に今は思っている、思っている。
2019年10月01日
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