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マタイ伝には一章から二十八章まであるが、以下はその要約である。 第一章 ジーザスクライストの系譜が述べられている。父祖アブラハムから始まり、ダヴィデ王を経て生母マリアの夫・ジョセフに至る。 アブラハムからダヴィデまでが十四代、ダヴィデからバビロン捕囚までが十四代、バビロン捕囚からキリストまでが十四代になる。 ジーザスクライスト、つまりキリストの誕生は嘗て預言者が、「見よ、処女が子供を身籠り、一人の息子を生むであろう、そして人々はその子供をイマヌエル(神は人々と共にいらっしゃる)と呼ぶであろう、と神からの言葉を述べた事の、成就であった。 第二章 東方から来た博士達によって、キリストの生誕を知ったヘロデ王は二歳以下の男の子を皆殺しにする。夢で神のお告げを聞いたジョセフは妻のマリアと幼子のキリストを伴って、エジプトに難を逃れていたが、再び神の使いの天使の言葉に従い、イスラエルの地に舞い戻る。しかし、ヘロドの後を継いだ王を恐れて、ナザレの街に住み着く。 第三章 その頃、バプテスマのヨハネが出現して、荒野で教えを宣べていた。エルサレムとユダヤ全土と、ヨルダン付近一帯の人々が続々とヨハネの所に来て、自分の罪を告白し、ヨルダン川で彼からバプテスマを受けた。彼は、パリサイ人やサドカイ人が大勢でバプテスマを受けに来たのを見て、それを拒否した。その時、イエスはガリラヤを出て、ヨルダン川のヨハネの所に来て、彼のバプテスマを受けようとされた。そのイエスにヨハネは「私こそあなたからバプテスマを受ける筈なのに」と言った。イエスは「今は受けさせてもらいたい」と答えたので、ヨハネは言われた通りにした。 イエスはバプテスマを受けると直ぐ、水から上がられた。すると天が開け、神の御靈が鳩のように自分の上に降りてくるのを、ご覧になった。 第四章 イエスは御靈によって荒野に導かれ、悪魔による試みを体験される。次いで、宣教を開始する。悔い改めよ、天の国が近づいている。それから、四人の漁師に声を掛けて、弟子とした。 イエスは大勢の人々対して教えを説き始めた。 第五章 山上での教えの始まりは、天の御国の宣言である。イエスは人々が地の塩として働き、灯火の如くに輝く事を望み、その立派な行いによって、天上の父が崇められるように行動せよ、と教える。 兄弟に対して怒るな、和解せよ。姦淫するなと言うが、欲情を持って女を見たものは、既に姦淫しているのに等しい。不品行以外の理由で妻を離縁する者は、妻に姦淫を行わせるのであり、離縁された妻を娶る者は、姦淫するものである。 一切、誓約してはならない。また、自分の敵を愛せ。天国の父のように完全であれ、と説く。 第六章 自分の義(自分が正しい事をしたり、言ったりすること)を、他人の目につくように人前で行ってはいけない。また、施しは人に隠れてせよ。祈りも自分の部屋でせよ。 そして、祈りの言葉を具体的に示している。 断食に際しても、人に隠れてするように。目は体のあかりである。澄んだ目を示せ。二人の主人に同時に仕える事が出来ないように、神と富とを同時に信奉する事はできない。 何を食べ、何を飲もうか、何を着ようか、などと心配したり気を使わなくともよい。ただ、神の国と神の義を求めよ。明日の事を思い煩うな。一日の苦労はその日一日だけで十分である。 第七章 人を裁くな、人から自分が裁かれないように。何故、兄弟の目にあるチリを見ながら、自分の目の中にある梁(はり)を見ないのか。 求め、尋ね、門を叩け。そして、狭い門から入れ。木の善し悪しは、その実によってわかる。 私の教えの言葉を実行する者は、岩の上に家を立てた賢い者に譬えられる。イエスの説法は、律法学者の如くではなく、権威ある人のようになされたので、聴衆は吃驚仰天した。 第八章 イエスは一人のらい病患者を治した。次いで、百卒長(古代ローマの百人隊の指揮官)の下僕の中風を治した。次に、ペテロの義理の母親の熱病を治した。また、大勢の悪霊に憑かれた者達を治療した。更に、嵐を鎮めた。その後で、悪霊に憑かれた二人の乱暴者に出会い、豚の群れの中にその悪霊を追い込んでしまった。豚の群れは海に飛び込んで死んだ。 この知らせを聞いた町の人々は、イエスにここを去ってくださいと頼んだ。 第九章 イエスは自分の町に帰り、中風患者を治した。収税人のマタイに声を掛けて弟子とした。自分が来たのは、義人をではなく、罪人を招くために来たのだ、言う。その後、十二年間も長血を患った女を治し、死んだばかりの娘を生き返らせた。それから、二人の盲人の目が見えるようにした。また、悪霊に憑かれた唖を治し、口がきけるようにした。 更に、全ての町々村々をめぐって、あらゆる病気や患いを治した。そして弟子たちに言った、収穫は多いのだが、働き手が少ない。だから、主に祈って働き手が増えるように願いなさい、と。 第十章 イエスは十二弟子を呼び、汚れた霊を追い出し、あらゆる病気、あらゆる患いを癒す権威を授けた。私があなた方を送り出すのは、羊を狼の中に送るようなものだ。蛇のように賢く、鳩のように素直であれ、と仰った。 あなた方が恐れるべきなのは、体を殺しても、魂を殺すことができない者ではない。体も魂もともに地獄で殺すことのできる力を持った、父なる神をこそ恐れなさい。 地上に平和を齎すために来たのではなく、剣を投げ込むために私は、来たのだ。 人々があなた方を受け入れるのは、私を受け入れるのだ。それはまた、神を受け入れる事を意味する。 第十一章 イエスは洗礼者のヨハネについて、こう言った。彼は、人間の女が生んだ者の中では最も偉大だ。しかし、天国では最下位に位する。 そして、次に数々の力ある業がなされたのに、悔い改めることをしなかった町々を責め始めた。 また、彼は言う。全て重荷を負って苦労している者は、私の許に来なさい。あなた方を休ませてあげるから。私は柔和で、心のへりくだった者であるから、私のくびきを負って、私に学びなさい。そうすれば、あなた方の魂に休みが与えられる、と。 第十二章 イエスの弟子が安息日に、麦畑の穂をつまんで食べた。それを目撃したパリサイ人(モーセの律法に厳格に従い、異邦人と関わりのある事を全て避けている事を誇りとした)がそれを咎めた。 しかし、イエスは「私が好むのは、憐れみであって、生贄ではない」という神の意図を知れ、人の子は安息日の主であるのだ、と教えた。 その後、会堂の中に片手の萎えた人がいた。安息日に良いことをするのは、正しいことだと言って、その手を治した。パリサイ人は会堂を出て、何とかしてイエスを殺そうと相談した。 イエスはそれを知り、そこを立ち去った。所が多くの人々がついて来たので、彼らを皆癒し、自分の事を人々にあらわさないようにと、彼らを戒められた。 人々が盲人の唖を連れて来たので、イエスは彼を治し、物を言い、目が見えるようにした。群衆は皆驚いて「この人が、或いはダビデの子ではあるまいか」と言った。しかし、パリサイ人は、「この人が悪霊を追い出しているのは、悪霊の頭の力によるのだ」と強く否定した。 イエスは彼等の思いを見抜いて言う。内部で分かれ、争う国は自滅し、内輪で分かれ争う町や家はたちゆかない。邪な世代は、神性の徴ばかりを探し求めるものだ。嘗て、南の女王はソロモンの知恵を聞くために、地の果てからはるばるやって来た。ソロモンより勝れた者、それが此処にいる私なのだ、と。 すると、或る人がイエスに、「ご覧なさい、あなたの母上と兄弟方が、あなたに話そうと思って、外に立っておられます」と言った。イエスは、私の母や兄弟たちは、此処にいると言われて、弟子たちに手を差し伸べられた。天にいます、私の父の御心を行う者は誰でも、私の兄弟、また姉妹、母なのです、と仰った。 第十三章 種を蒔く人の喩え、麦と毒麦の喩え、からし種の喩え、パン種の喩え、などなど。イエスが喩え話を用いるのは、人々が聞くには聞くが、決して悟らず、見るには見るが、決して認めないからだと説明した。 やがてイエスは、郷里に行き、会堂で教えた。人々は言った。「彼は大工の息子ではないか。これらの事を何処で習ったのか」と。 イエスは人々の不信仰のゆえに、そこでは力ある業をあまりなさらなかった。 第十四章 バプテスマのヨハネが領主のヘロデによって殺された。その知らせを聞いたイエスは、舟に乗ってそこを去った。そして、彼について来た大勢の群衆の中の病人を治した。また、五千人以上の人々に食事を与えた。夜になると海の上を歩いて渡った。 海を渡ってゲネサレの地に着いた。土地の人々はイエスと知って、病人を皆連れて来た。イエスの上着の房を触った者は皆、病気が治った。 第十五章 パリサイ人と律法学者とがエルサレムからイエスのもとに来て、「あなたの弟子達は何故、昔の人々の言い伝えを破るのか」と非難した。するとイエスは、「あなた方は、何故神の戒めを破っているのか」と反問した。そして、口から出ていく物は、心の中から出てくる。殺人、姦淫、不品行、盗み、偽証、誹りは、心の中から出てくる物で、人を汚すのだ、と諭された。 そこから、ツロとカナンの地方に行ったイエスは、信心深いカナンの女の娘を、悪霊から開放して、治した。イエスはそこからガリラヤの海辺に行き、山に登った。すると大勢の群衆が、足萎え、不具者、盲人、唖、その他多くの人々を連れて来て、イエスの足元に置いたので、彼らをいやされた。それを見た群衆は驚き、イスラエルの神を褒めたたえた。その後で弟子達は、「荒野の中でこんなに大勢の群衆に食べさせるパンがありませんが」とイエスに相談したところ、たちまちイエスは四千人以上に満腹するほどの食事を与えた。それからイエスは群衆を解散させ、舟でマガダンの地方に行かれた。 以上は一章から十五章まで、である。
2019年09月28日
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私は聖書を一種の小説として、ノヴェルとして読んでいる。 それは私が、少年時代から疑問としてきた、自分はどういう理由でこの世に生まれて来たのか、それを知りたいと願ったから。私のその願いは当初、非常に漠然としたものであって、誰に訊ね、誰に答えてもらうと言った性質のものではなかったから、自分の胸の中に、密かに秘めているしか方法がなかった。 そして、いつとはなく私はそれを「小説」を読み、自問自答する行為の中に見つけ出すしか、道がないことを朧げに自覚した。勿論、哲学書なども読みもしたが、直接には何も手掛かりを見つけることは出来ないでいた。 自分で小説の真似事を習作した事もあったが、浅学非才にして、中途半端におわってしまった。 無我夢中で生きて来て、いよいよ人生の終末期を間近に控えて、この懸案に決着をつけたいと思って、イエスの生き方に何事かを、出来るならば、可能ならば、学びたいと切に願っている。 私の神が私にお遣わしになられた妻・悦子からのプレゼントの一つ、聖書の本を精読してみようとする試みは、言ってみれば、こうした私の願いの総決算でもあった。 こんな風に書いてくると、なにか大袈裟で、御大層な行為の様に聞こえるかも知れないが、私自身にとってはごく自然で、当然の成り行きなのだから、現在を生きるベストな選択として、呼吸をし、食事を摂るのと同様に、ごくごく自然に、肩肘張らずに、しおおせてみようと考えている。 さっき、自転車に乗って二時間弱ほどの散策めいたものを試みて来た。出掛ける際には、少々肌寒さを感じたものだが、残暑の日差しは思いの外に強く、直ぐに暑さを感じ始めていた。 健康で、食事が美味しく食べられて、平穏無事な一日が経過する。それが、最高の幸せを結局は意味するのではあるまいか。 未来の事で、あれこれと思い煩うな ―― 例えば、イエスはそう教えている。 こんな一見、何気ない事柄でも、私たちには一種難しい事なのであるから、生きるとは、生かされてあるとは、やはり私のような人間には、難しい大仕事なのである。 生きるとは、苦しむ事の同意義である。そう、仏教などでは教えている。悟りとは、涅槃に入るとは、凡人にとって 死 を意味するのであろうか? 生きながら既に死んでいる。そう言う状態も、一種の悟りなのであるか……、もう少し様子を見てみよう、とにもかくにも。
2019年09月26日
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「マタイ伝」には様々な比喩表現が見られるが、私にとって一番強く印象に残るのが、野の百合とソロモン王のそれである。 栄華を極めた、かのソロモン王でさえ、野の百合程に豪華な装いを身に纏ったことはなかった、とある。 ソロモン王とは、旧約聖書の「列王記」に登場する古代イスラエルの第3代の王で、古代イスラエルの最盛期を築いたとされる。 野に咲いて、儚く枯れていく百合の花。その命は実に儚く、頼りない存在である。人間の中でも最高の権力を握り、栄華の極みを尽くしたその王が、その贅美を最高度に発揮した豪華な衣装も、野の百合の自然に纏っている美しい装いには、とても及ばない。そうイエスは事も無げに言ってのける。 この表現だけでも、キリストが一級の詩人であることが知れる。さりげなく言うのがすごい。 それで思い出したのであるが、花屋さんなどで売っている、人工栽培された花のことである。自宅の近くに市役所があるせいか、比較的、道路脇などに花壇が整備されていて、色とりどりの小さな草木が植えられおり、道行く人たちの目を楽しませてくれている。 ごく最近のことだが、何気なく目を遣った花壇の花が、何かけばけばしく感じられた。しかも、私たち可愛くて、綺麗でしょ。そんな風に、この花たちが語りかけている様に感じた。いかにも、型どおりに可憐で美しいのを絵に描いたようで、私は何故か嫌な気がして、思わず知らず顔を背けたくなった。やはり野に置けすみれ草かと、その時に私の脳裏をかすめたものだ。 私などは年齢のせいか、初心だったり、純真だったりではいられずに、気がつかないうちに擦れっ枯らしの大人の一人になってしまった為なのか、こういう現象を体験するのかも知れない。そんな風にも自戒されるが、やはり、自然、つまり神の御心のままに無心に咲き育っている、雑草の付ける花々が無条件に素晴らしいと感じてしまう。断じて、臍曲がりで言うのではない。 何事によらず、私たち人間のする業は、腰が座っていないと言うか、小手先の芸に終わっている場合が、多いのであるまいか。
2019年09月25日
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「マタイ伝」を門外漢として読んでいるわけだから、誰か専門家の解説でも聞かない限りは、意味が取れない所が多々ある。しかし、それはそれとして私の理解が及ぶ範囲で言うわけである。 彼・イエスキリストは人間の女性から生まれてはいるが、精霊によって身ごもったのであるから、実態は人間であって人間ではない。神そのものである。それは彼が媒介した様々な 奇跡 によって、何度も強調されている事実でもある。当時のユダヤ王であるヘロドが、東方から訪れた博士達の言葉を聞いて驚愕し、幼子を皆殺しにしたエピソードによっても、謂わば裏付けされている。 誰もがイエスの出現と、その神的な振舞に圧倒され、その奇跡の力に信服したかに見える。しかし、そうばかりではなかった。ヘロド王の行動に代表される人々の一団がいた。彼らはイエスの驚異的な力を恐れ、恐怖して、敵視する。自分たちが既に手にしている地上での権威・権力を、失う事を恐れたから。 だから、それらの人々にとっては訳のわからない、一種邪悪な、魔性の者の代表、悪魔・悪霊の仲間であると決め付ける。 一方で、イエスは人々に父親の国、天国の平安を告げるために、福音をもたらすべくやって来たことを告げ、ひたすらこの世で苦しみ、肉体や精神の災いによって苦しんでいる、弱者を無条件で救済する。 このイエスの行動は、そして言動は、当時のユダヤ人にとって馴染み深い、旧約聖書の様々な預言者達が過去において既に約束し、預言していた諸事績を実際に行ってみせる事、であった。 しかし、既得権を握っている 強者 を代表する人々には、メシア・救世主たる王者のイメージと眼前に現れたイエスとの姿とが、しっくりと一致しない。それどころか、著しく相違していた。自分たちに何か理由のわからない恐ろしい災いを齎す、邪悪なる存在、邪魔者としか映らなかった。 そして、イエスの方では、この蝮(まむし)の一族の反感と、憎悪とは百も承知であった。マタイ伝に記述されている事柄を虚心に読む時には、それは明らかである。 彼は破壊する為ではなく、何物かを地上に打ち立て、建設する為に、十字架上での無残な死を実地に実行してみせた。だから、彼の悲惨極まりない最後は、最初からの「目標」であった。つまりメシアとしての役割を達成するためには、このむごたらしい刑死は不可欠の要素と言える。 ここで私の愚かな感想を述べなければならない。全能の神は、何故に人間たちを善良なる性質・性格にお創りにならなかったのか? 先ず最初に、素朴な疑問として、私などはそう考えてしまう。 また、神は全知全能で、不可能な事は一つもないのであるから、悪魔や悪霊の輩をその力を揮って、打倒して下さればよかったのに、とも思ってしまう。 現実には人間は邪悪な者達が大半を占め、あまつさえ善人であっても、ちょっとした弾みで、悪に手を染めてしまう。現に、現代の日本国においては、殺人や弱いものいびりが横行して、仏教で言うところの末世的な堕落・頽廃の極に達しているかに見える。 つまり、可能な力を神は敢えて発揮されないでいる。悪もまた生命には必須であり、生きがいにとって不可欠だと考えているからに、相違ない、きっと。 造物主の立場に立った時に、悪を犯す能力と可能性を持った者が、主体的に、自らの意思で悪を捨て善を選ぶとすれば、自動的に、機械的に善を行うより、より嬉しいであろう。 敢えて言えば、造物主としての神は、人間を御自分に似せてお作りになられた。そう考えるのが自然であろう。私が、本能的と言ってよいほどに「機械」というものを嫌いだから、そう思うのか…。 便利よりも、手のかかる不自由な人間を、自由で意のままに従う自動人形よりも、より多く愛されたから、人間をそのように造られた。そんな風に考えるのは、私の浅知恵のせいなのだろうか?
2019年09月21日
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これからしばらくは聖書の言葉を媒介として、自己との対話の継続を図りたいと思います。勿論、キリスト教徒として聖書に対するのではなく、一人の人間としてごく普通に、しかし、真摯に誠実に、真剣に耳を傾けながら、可能な限りその真意をしっかりと受け止める姿勢を保持しながら、やってみたいと考えています。 さて、新約聖書の「マタイ伝」から始めます、有名な山上の垂訓の部分から。 ① 心の貧しい者は、幸いである。 ② 悲しんでいる者は、幸いである。 ③ 柔和な人 ④ 正義に飢え、渇いている人 ⑤ 憐れみ深い人 ⑥ 心の清い人 ⑦ 平和を造り出す人 ⑧ 正義のために迫害を受けて来た人 ⑨私・イエスキリストのために、人々から罵られ、迫害され 、又、様々な偽りの悪口を言われている人 以上の人々は、地の塩であり、世の光である。 私は宗教学者でもなければ、キリスト教の専門家でもない。したがって、ごく通俗的な解釈の文章から受ける、感想を主体に述べることしか出来ない。 心が貧しいとは、どう言う意味なのか、詮索し出たらキリがないように思えるので、心が富、栄えている者から類推して次のごとく、意訳してみよう。つまり、謙虚で、謙(へりくだ)っている心の状態をどのような場合でも変えないでいる人、と。 私たちは知らず知らずのうちに、驕り高ぶり、無意識のうち、傲慢になってしまう。どのような場合でも謙虚であり、心を虚しくしていられる者は少数者であろう。神の国・天国はこの心貧しい者のためにあるのだと、イエスは先ず最初に言う。 キリストの言う天上の神とは、何よりもまず、謙虚なる人々を迎い入れようとしている。イエスの言葉を聞いていると、少なくと私には絶対に無理だと思われるような、過激(?)な発言が目に付く。例えば、誰かが左の頬を打ったならば、右の頬を向けよ、と命ずる。また、狭き門から入れ、と。 してみると、人が心貧しく在る事は、常人には不可能に近いことなのであろうか? カエサルのものはカエサルに、とイエスは言っているので、イエスの関心は地上にではなく、神のいる天国にあることは明らかである。救世主たるメシアの目は天国に近い存在たる人々に向けられていて、地上での統治者たる者を、最初から無視している。乃至は地上での権力を問題にしてはいない。地上に関する限りイエスの心は 真空 なのであり、その意味では「心貧しい」人として私たちに君臨している。 しかし、私たちの大多数は、ひと握りの義人達を除いては、関心は地上での栄耀栄華であって、イエスの説く天国を頭に描く余裕は、皆無なのだ。そして、地上での僅かな幸せにさえ見放されたと自覚する羊の群れに等しい、善男善女が「藁」をも掴む思いで縋ろうとするのが、福音の内容なのではあるまいか? イエスは、少なくとも最初から、その事実を百も承知の上で、彼の教えを説き聞かせている、かに感じるのは、私の浅知恵のなせる技であろうか? 物質だけではない、心・精神・魂の世界が私たち人間の自由を保証している。普通の人間が物質という目に見える世界にだけ執着しているのに対して、宗教は真逆の世界、目には見えないけれども、確かに感じ取ることの出来る、無限の世界を人々に明示し、自覚させようとする。それを、信じるか否か、いやいや、そんな選択の自由など与えられずに、絶望の果てに、見ざるを得ない窮地にと、追いやられた惨めで救われない不幸者にして、我知らず知らされる福音。まるで、超絶技を駆使するマジシャンさながらに、凡夫をも苦もなく救い取ってしまう、文字通りの 神業 がイエスキリストの説く福音の言葉にほかならない。だから、彼の言葉は超一級の詩人をも凌駕する「逆説の逆説」ばかりである。実に、実に。 我々、凡人に格調の高い、高邁な理想をストレートに説く。そこに青年イエスのいかにも若々しい、精神界の王者たる面目が如実に現れ、示されている。そして、その妥協を排して憚らない清々しさに、イエスの神性の最大のものがあるのではないかと、老人となった私などには、強く感じられる所であります。 平凡人に敢えて不可能な精神的な潔癖を主張して譲らない。その特色が、十字架上の死を必然ならしめている。彼は短距離選手の如く、人としての一生を火のように激しく、真一文字に駆け抜けた。それは、人として誰も真似できない激越そのものの高邁さを有しながら、なおかつ私たちに人生の理想と、幸福に関する豊かで、鋭い洞察に富んだ教えを、詩の精髄とも称すべき表現を駆使して、優しく微笑むかのように、諭し、戒め続けてやまない。 空を飛ぶ鳥達を見よ、野に咲く百合を見よ、とイエスの指摘は適確であり、叡智の名に値する。彼ほどの詩人を私は知らない。衣食住に関して思い患うな、と適確な比喩で直截に説得する。 理想には手が届かない。しかし、彼の理想に少しでも近づきたいと思わせずにはおかない、不思議な魅力を私などには投げかけてくれている。やれば、出来る。自分の弱く、意気地ない足取りでよい。一歩、また一歩と歩みを継続せよ。天上の神は、いや、復活したイエスは、私のすぐ隣にいて、無言のうちに励まして下さっている。狭き門から敢えて入ろうと心がけること、その気概にこそ全てがあるのだ。 安息は、死後に必ず与えられる。苦しみ、嘆き、喘ぎ、無様に泣け、叫べ! 少なくとも、地上に在る間は…。死後は、我々の慈愛に溢れる父が、すべてを保証し、完全なる幸福をもたらしてくだsるのだから。そう、イエスは心の中で唱え続けている、今現在も。
2019年09月17日
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余生という言葉はあまり好きではないが、平均的な寿命から言えば、あまり多くは生きられないのであるから、常に自己の死というものを意識しないでは、いられない。してみれば、好むと好まざるとに拘らずに謂わば秒読み状態に入った我が人生の残りを、余生と呼んで然るべきなのかも知れない。 死はこの世に生を享けた瞬間から、すぐ隣にあって、いつ、何時どのような形で私を襲って来ても、少しも不思議ではなかったのでから、今更に言挙げして言うべき対象ではないのかも知れない、 しかし、年齢がそうさせるのか、最近では自分の死を、その到来が直間近に迫っていることを、強く、また少しの絶える間もなく意識させられる。 そして意識することは、自分の事としては、あまり周囲や他人に迷惑をかけたくない。可能ならば醜態は晒したくないと願う思いである。それにつけても、死というものは自分の意の如くにはならないものだと思う。それは厳然たる事実であろうか。そもそも、生が自分の意の如くにはならないではないか。 人間、自分の意などと言ってみたところで、なるようにしかならないのが、定めであってみれば、精々自分の力や能力の及ぶ範囲内で、精一杯の努力と精進とを、コツコツと重ねるよりほかにしようがないわけであって。 運命とか、命運とか、持って生まれた身一つを頼りに、自分らしいと思われる地道な人生を、最後の瞬間に至るまで誠実に、弛みなく続けるほか、人間に許された生きる道はないわけであって。 そう考えると、これまでの人生を振り返って、大過なくどうにかこうにか今日までやって来られたことに、心底からの感謝の念を捧げながら、一瞬一瞬を大切にする心構えを忘れずに、可能な限り人間らしく、そして又自分らしく、大地に足をしっかりとつけた、毎日を送って行きたいと念じないではいられない。差当って食生活に留意して、出来る範囲で体と心を健全に保つ努力を、倦まずに継続して行きたいものと、念願している。 結局それが、後から振り返った時に、自分らしいという事に帰着するのでは、あるまいか。 身の丈にしっくりと合った人生、あまり多くを望まず、そうかと言って、与えられたチャンスを自分から手放すような、極度に臆病で謙遜過ぎる態度でもなく、言葉の正しい意味での中庸を得た姿勢でもって、出来れば客観的に見てもバランスのとれた、普段着の自分を保持して、神の慈愛にふさわしい満足な感謝の念を胸に秘めて、この世を去っていきたいものと、念願しないではいられない。 生者必滅、会者定離、苦しみと悲しみとは生を享けた者がその幸福の代価として、当然に支払うべき代償であると心得て、恐れず臆せず、油断せず、可能な限り平常心を保つようにして、出来れば周囲に過大な迷惑や苦痛を与えないように注意して、明るく、朗らかに生き切ってみたいものと、切に念願してやまない。神よ、仏よ、どうか勇気と活力とを最後の瞬間まで、私に与え続けて下さいませ。
2019年09月13日
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朝晩は、秋の気配を肌に感じる季節を迎えた。年齢のせいか、今年の夏は暑さが骨身に堪えて厳しく感じられたが、これも年齢のせいか、夏の過ぎ去るのを実感する時には、幾許かの寂しさを感じないわけではない。 扨、自分との対話とは、良き話し相手を持たない私が、本音で何かを語る事を正しく意味している。つまり、相手の思惑などは丸で気にしないで、心に思う侭をそのまま率直に吐露する事を言う。その意味では、本当に有難い形式だと感謝したい。 私は、言うまでもなく一市井の、無名の老人である。誰に気兼ねもなく、有り体に自分の思いや考えを述べる事が出来るのだから。この事実は、思いの他に自由で、ある種特権的な立場だとも、無理なく言える。 この夏の大半を、私は芥川龍之介全集を読み返して過ごすこととなった。その間に、三島由紀夫の「金閣寺」、「永すぎた春」、「美徳のよろめき」を熟読した。才人、文章の達人とは感じたが、やはり好きにはなれなかった。やはり、と言うのは若い頃にいくつかの作品を読みかじった際の、漠然とした印象からそう言うのであるが。 理解が浅くとも、人生に未熟であっても、対象の好悪というものは意外と正確なのかも知れない。ふとそんな風に感じもした。 そもそも、夏目漱石の作品は、よく分から所を多分に含みながら、なんとなく心惹かれていた。「坑夫」などは若い頃には敬遠して読まずに過ごしていたが、ある時に思い立って読んでみて、一驚した。その異様な作品世界に引き込まれ、殆ど圧倒されてしまった。後に、この作品は漱石自身の体験ではなく、ある若者の持参した手記を基に、作者が創作したものだと知ったが、その真に迫る迫力に圧倒されて殆ど身動きすら出来ないような、深く、強烈な感銘を受けた事を、忘れないでいる。 それはまさに文章表現の卓抜さ、想像力の素晴らしさから生まれてきた、人間の真実、ある作り物ではない確かな手応えを感じさせる、見事な驚異の世界であった、実に。 「坑夫」を読み終えた後、私は殆ど呆然として漱石の文章表現の凄さを噛み締めた。勿論、私の読み親しんでいた漱石の世界とは異質な対象を扱っている、素材的には例外的な作品でありながら、作家・漱石の真骨頂を如実に示している、その圧倒的なパワー・エネルギーに驚異すら感じながら…。 森鴎外は、私が心の底から畏敬する作家であり、人物であるが、一見は地味で、枯淡で、幅広い教養を感じさせないでは置かない作品群ではあるが、本物の作家、正真正銘の血の通った人間が 此処に居る と言った感じを間違いなく、感じさせてくれる。軽佻浮薄とかセンチメンタルとか、そのほか浮薄で浮ついた気分や感情とは全く没交渉な、確実で、堅実で、手触わりの確かな質感を持った対象、とでも称したい物を、しっかりと表現している。まさに、大人の、本物の人間の行動や感情が間違いなく把握され、適確に提示されていると感じる。それが作家・森鴎外の文章世界だと思う。 芥川龍之介全集を読み終えたならば、鴎外の作品に再挑戦してみようと、今は思っている。
2019年09月04日
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