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第 四百二十九 回 目 「 出世 景清 」 セリフ劇の試作 その2 京都六条河原 尾張・熱田の大宮司の娘・小野の姫が残虐非道な拷問を受けている。梶原親子が命令を下しての水責めが続いている。 小野の姫「もし、皆さん。私は夫の景清に教えられて、清水寺の観音様を深く信仰して居りますので、少しも苦しくは御座いません。夫の行方は存じませぬ」と苦しい息の下から叫ぶ。 梶原景時「さてもしぶとい女だな。この上は火攻めに致せ」と役人に命じた。 危うく薪に火が付けられようとした瞬間に、どこからともなく悪兵衛景清が妻の小野の姫を救助に姿を現した。 景清「待った、待った、ここに景清見参致した」と一同を睨みつけて大声で言い放った。 役人達が緊張して身構える中で景清は堂々として、落ち着き払っている。 景清「(けらけらと笑って)大騒ぎをするな。この景清は逃げも隠れもしない、妻や舅の憂き目を救う為に進んで姿を現したのだ」と、覚悟を既に決めている様子。 小野の姫「のう、景清殿、私や父上は生きていても甲斐のない身。御身は生きながらえて本望を遂げようとはせずに、何故この場に姿を現したのですか。無念に存じまする」と、大粒の涙を流した。 景清「よくぞ申した。あっぱれだと思うぞ。子供までいる仲の阿古屋は夫を密告した。それを汝は命に替えてこの身を守ろうとした。さあ、役人たち、景清を捕縛致すがよい。手出しは致さぬ」 時間経過 知らせを受けて六波羅から重忠が大宮司を同道で駆けつけて来た。 重忠「さてさて、景清、近頃神妙至極、しからば大宮司の父娘は共に赦免いたす」 景清はにっこりと笑い、自ら進んで役人の縄に捕縛された。大勢の見物人は皆一様に景清の潔さに感嘆し感動の色を明らかにするのだった。 六波羅南面に建てられた牢屋 牢内で身動きが出来ないようにと、景清は手足の自由が利かないように厳重に確保された上に、髪の毛も七つに分けて上下左右に結いつけられている。景清は少しの身動きさえ出来ない状態で、大勢の見物人に晒し者にされているので、番人や警護の役人などは一人もついていない。 今、近くに宿を取った小野の姫が食べ物や酒を用意してやって来て、自分の手で景清に与えている。 景清「この酒は一入身にしみて旨く感じる。御身の志は死んでも忘れはしない。それに引き較べても阿古屋の恨めしいこと」と鬼の様な眼に涙を見せた。 小野の姫「仰有ることは道理と思いますが、何事も運命と思し召して人をお恨みなさらぬが宜しかろう。いつまでもこうして居りたいのですが、人目も多く憚られますので明日また参ります」と、泣きなが帰途についた。 時間経過 京都近くの山陰に隠れ住んでいた阿古屋であったが、景清が牢に閉じ込められたと聞くや否や六波羅に駆けつけて来た。阿古屋は二人の息子を伴って、景清の所に近づき、 阿古屋「ああ、お労(いたわ)しや、景清様」と牢の格子にすがりついて泣いた。 景清「我を密告しておきながら、今更、どの様な料簡で此処に来たのだ。この犬畜生め」と眼に角を立て言い放った。 阿古屋「わたしの言い分も聞いて下さい。兄十蔵がお上に訴えようとしたので、何度も止めようとしていた所に、大宮司の娘とやらから親しげな手紙が届いたのです。女心の浅ましさで、前後の見境もなくなっての事。それもこれも殿御恋しさ、夫可愛さの一心から出たことです。この世での思い出にもう一度だけ優しい言葉を掛けて下さるならば、それを力にして自害致します」と、地にひれ伏して泣いた。すると傍らの長男の弥石が父親の姿をじっと見て、 弥石「ねえ父上、どうして父上程の豪傑が簡単に牢屋などに捉えられてしまったのですか。さあ、押し破って助けて差し上げましょう」と柱に手をかけたがびくともしない。すると今度は、次男弥若が、自由の利かない父親の脚に抱きついて、 弥若「痛いでしょうか、父上様」と泣いた。 景清「これ子供たち、よく聞け。父がこうなったのもみな、あの性悪な母の所業である。悪女の胎から生まれたと思えばお前たちまで憎い。父と思うな、こちらも子とは思わないので、早く帰れ」 阿古屋「ただ一言優しい言葉を掛けてやって下さいな。この幼い兄弟を可愛いとは思わないのですか」と必死の懇願。 景清「ええい、黙れ! 儂(わし)の気持ちは変わらない」と突っぱねた。 阿古屋は決死の形相で景清を睨みつけて、「もうこれまで」と言うより早く守り刀を引き抜くと、弥石の体を差し貫いた。それを見て弥若は牢の格子に縋って「明日からは良い子にしますので、助けて下さいい」と泣き叫ぶ。一度は躊躇した阿古屋であるが、弥若を刺殺し、自分も胸を差し貫いて自害して果てた。 この様を目の前にして、鬼の景清も大声を上げて泣くのであった。 この時に、阿古屋の兄の十蔵がこの場にやって来た。先ず三人の亡骸を手下の若い者に片付けさせてから、景清向かい、 十蔵「これこれ、妹婿の景清、内心ではお前の命を申し受けて、出家させようと考えていたが、もうこの上は勘弁が出来ない」と牢内の景清を睨みつけた。 景清「我は命が欲しくて自首したのではない。その方如きに好き放題はさせない」というが早いか、金剛力を発揮して忽ちに、頑丈な牢を粉微塵に打ち壊して、十蔵を瞬く間に退治してしまった。 景清はそのままで一町ほど走って逃げかかったが、このまま自分が逃亡したならば、大宮司や小野の姫が酷い災難に遭うことは間違いないと考えを改め、牢に走り入って内側から閂(かんぬき)を閉めて、元の姿で納まった。これを遠巻きに見物していた人々は皆一様に驚嘆しないではいられなかった。 奈良街道の小椋(おぐら)堤 諸国の大名を引き連れた頼朝の華やかな一行が通りかかっている。そこへ畠山重忠が息急き切って駆けつけ、頼朝が乗った馬の前に平伏した。 重忠「申し上げます。悪七兵衛景清は既に打ち首と聞き及んで居りましたが、いまだに牢の中で生きておりました」 頼朝「何と、不思議な事を申す。景清は二日前に佐々木に命じて打ち首にして、その首を余が直接に首実検致しておる」 重忠「お言葉では御座いますが、それがし今朝方に生きた景清の顔を、確かに見て参りました。間違いは御座いません」 そこへ佐々木四郎がさっと姿を現して、 佐々木「畠山殿、不条理な事を仰有るでない。景清は拙者が間違いなくこの手にかけておる」 重忠「貴殿は間違いなく打ち首にされている。拙者も生きている景清をこの目で見ております」 頼朝「両者共に事実を言っているに相違はない。この上は、京都に引き返して余が直々に確認致す」と、一同に命令を下した。 京都・三条の縄手(田の中のあぜ道) 景清の首が晒されて、その脇には高札が立てられていて「平家の一族で謀反人の棟梁・悪七兵衛景清の生首である」と墨書されている。そこへ頼朝以下、主だった重臣達が騎馬で登場。 頼朝「高綱、重忠、これを見よ」と下知した。それで近寄って皆がよくよく見てみると、景清の首と見えていた物が突然に強い光を周囲に放ちながら、千手観音の頭にと変化している。 丁度その時、清水寺の僧侶達が大挙してこの場にやって来た。そして中の一人が、 清水寺の僧「申し上げます。一昨日から観音像の御首が紛失して、その切口から血が流れ出しておりました。唯、驚き恐れてご注進申し上げます」 これを聞いた頼朝以下の人々は「あっ」と息を飲んで茫然自失した。暫くしてから、 頼朝「景清は深く清水寺の観世音に信仰心を寄せていたと聞いている。疑いもなく観世音が景清の命とお変えなされた証拠である」と感涙の涙を流された。 そして、観世音菩薩の御首を清めさせるようにと命令した。 清水寺の宿坊 盛大な観音像の御首を継ぐ法事の儀式を終えた頼朝が休息を取っている。そこへ佐々木と畠山が景清夫婦を伴って登場。 頼朝「景清か。我を平家の敵として狙い討とうとした汝の心掛けは、武士の手本とも言ってよく、実に見事である。その上に、観世音菩薩が汝の命の身代わりとなられた。この上はもう敵とは看做さずに日向の国に領国を分け与えるので、左様に心得よ」と、心の籠った言葉を掛けた。 景清「このように情け深い我が君様とも知らず、その御命を狙った拙者の心が間違いで御座いました」と、堪らずに涙を流して大声で泣き始めた。 時間経過 その場は和やかな宴会の席に変じている。大名などの混じっての盃の遣り取りが行われている。 重忠「景清殿、この様な目出度い席であり、その上に我が君頼朝公を御慰め致す為に、いかがであろうか例の屋島での有名なお話などを、聞かせては貰えないであろうか」と語り掛けた。頼朝を始め、一同が賛同して是非にと言うので、景清も断りきれない。 頼朝に一礼した景清は、過ぎ去った昔を語り始めた。語り終わった時、万座の人々は皆一様に感動の色を隠せないでいる。やがて、頼朝が席を立って景清に後ろ姿を見せた際に、景清は何を思ったのか、腰の刀をするりと抜くと頼朝に切って掛かる様子を見せた。一同が顔色を変えて身構えた瞬間に、景清はそこからぱっとばかりに飛び退いて、全身を床に投げ打ってから、 景清「(涙を流して)南無三宝、我が身でありながら情けない。情け深い我が君の御姿を拝していながら、この様な浅ましい所業。これもみなこの両目があるからこそであります」と、脇差を手に取って自分の両目をえぐり出してしまった。 頼朝「前代未聞のあっぱれな振舞である。末世に忠を尽くす仁義武勇の武士の手本である」と褒めた。 これが、出世景清と題する物語の一部始終であります。 《 完 》
2019年04月29日
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第 四百二十八 回 目 「 出世 景清 」 ―― セリフ劇の台本候補としての試作 原作:近松 門左衛門 翻訳と構成:葉月 二十八 前口上と粗筋 これは江戸時代の浄瑠璃作者の近松門左衛門の出世作となった作品を、現代の人に分かりやすく現代語訳し再構成したものであります。主人公の景清は源氏と平氏と激しく戦い結局源氏の勝利に帰したた、有名な源平合戦に於いて、平氏の勇将として活躍した平 景清、又は藤原景清を言う。悪七兵衛と俗に呼ばれるが、この悪とは非常に強い武士であることを意味している。能や歌舞伎その他、各地の伝承や民話などにも数多く登場する民衆の英雄の一人であります。 西国・四国の合戦で生き延び怨敵の頼朝の命を狙う景清であったが、頼朝の忠臣の重忠に何度も阻止されてしまう。そして遂に源氏方に捕縛され首を刎ねられてしまう。が、景清が深く信仰する観音菩薩が身代わりとなったのであった。景清は助命してくれた頼朝を、尚も敵として切ろうとした自分を恥じて、自ら両の目を抉り出して詫び、九州の日向(ひゅうが)の国に蟄居する。 熱田(現在の名古屋市)の大宮司の私邸 景清「拙者、非常な御厚恩にあずかっていながら、誠に申し上げにくい事で御座いますが、お願い致したき儀が御座いまして、本日お目通りを願いました」 大宮司「これは婿殿、娘の小野の姫も無事息災に暮らして居りますので、私も満足して宮司の勤めを安心して勤めることが、叶って居ります。して、お願いの儀とは如何なる事で御座居ましょうか」 景清「はっ、御承知の如く拙者は右大将頼朝公を討ち果たし、平氏の恥を濯がんものと長年耐え忍んで参りましたが、頼朝の家来重忠に邪魔されて、無念の涙を飲んで居りましたが、この度その重忠が、東大寺再興の奉行として奈良に下る由を、耳に致しました。早速奈良に向かい憎っくき重忠を先ず退治して、その上で頼朝の首をも頂戴しようと心を決め申しました」 大宮司「何と、左様であったか。宿年の本望無事に果たされるが宜しかろう」 景清「早速の御承知、千万忝く存じまする」 奥から大宮司の北の方と娘・小野の姫が登場。 北の方「お預かり致して居りました銘刀・あざ丸、大事の仕事に携行致されますよう」と、景清に一振りの大刀を渡した。姫は傍らで声を忍んで咽び泣いている。景清も、横を向いて涙を隠している。 奈良東大寺の復興工事の現場 畠山重忠の奉行する中で大仏殿修復の儀式が盛大に行われている。その中で一人の大工と思しき者が頬被りをしたまま通り過ぎようとした。家臣の頭・本田がその男に目を附けて、 本田「これ、ちょっと待て。この様な晴れの場で頬被りは無礼であろう、それを外して挨拶を致して通れ」と目敏く声をかけた。 男「(小声で)礼儀作法も知らない者で御座いますので、失礼をお許しください」とそのままで通り過ぎようとする。 本田「こやつ、何処へ行く。頬被りを取らない限りは通してはならぬ」と手下の者達に命令した。配下の者達が男を取り囲んだ。この時に、大工の棟梁が本田に声を掛けた。 大工の棟梁「本田殿、あいつは今日だけの日雇い人足です。分別もなく無礼を致したので、お見逃しをお願い致します」 本田「いや、そうではない。あの者は少し人に似ているので拙者が見とがめたのだ」 棟梁「これは乱暴な。人が人に似ているのは当然のこと。(頬被りの男に向かって)こら、そこの男。お前は賃金を多く貰いながらも、横着をして働かずにこのような事になった。頸にするので早々にこの場を立ち去るがよい」 男「へい、失礼を致しました」とその場を通り過ぎようとした。この一部始終を目撃していた畠山重忠が言う。 畠山「これ者共、あの男を逃がすな。あれは平家の落人の悪七兵衛景清に間違いない。この場は目出度い清めの庭である、前にある野原に追い出して討ち果たしてしまえ」と下知した。 命令を受けた大勢の侍たちが、たちまちに景清を追いつめる。 景清「これ、侍ども、拙者は落ちぶれ果てた浪人者ではあるが、悪人呼ばわりされる覚えはない。しかし、近くに寄るならばこの銘刀・あざ丸に物を言わせてくれる」と、忽ちにして十四五人を切って捨てた。そして尚も追撃する侍たちを相手に獅子奮迅の活躍を見せた後で、都を指して逃亡した。 京都の清水寺に近い遊女・阿古屋の庵 庭先で母親の阿古屋が息子二人、長男弥石(いやいし)六歳と弟弥若(いやわか)四歳に弓と小太刀の稽古をつけている。そこに景清が姿を現した。 阿古屋「まあ、これはお珍しい景清さま。如何なされましたか」 景清「我、平氏の御恩を報ぜん為に鎌倉殿を狙っていたが、その甲斐もなく三年程は熱田の大宮司に匿われていた。この度、東大寺大仏殿再興の工事が行われ頼朝の家臣・畠山が奉行を勤めると聞き、まず畠山から征伐しようと奈良に参ったが、無念にして仕損じてしまった。その場で自害しようと思ったが、汝や息子達の顔が見たさに、こうして参ったのじゃ」 阿古屋「それは、さぞ御無念で御座いましたろう。ささ、先ずはあれへ」と景清を座敷に招じ入れる。 景清「本当に、暫らく会わない間に子供達も大きく育ち、汝も女房振りが一段と増したようだ」 阿古屋「まあ、お世辞の上手な事。聞けば小野の姫とやらと深い仲とか、それも無理からぬ事。私は子持ちで卑しい遊女の身ゆえ」 景清「いや、いや、それは誤解である。我はそなた一人を心に掛けている」と阿古屋の手を取る。阿古屋も拒むことも出来ずに景清にしなだれ掛かった。 翌日の同じ場所・座敷 景清「我、久しく尾州に蟄居していて、観音様の参詣を怠っていたので、京都に居る間は参詣を致したいが、日参するのでは人目もあって憚られる。そこで清水寺の坊にお籠りしてから、再び帰参致す」と言い置いて、編み笠を被って外出した。弥石が門口まで見送りに出た。 時間経過。阿古屋の兄の伊庭十蔵が北野神社参詣から帰って、妹に告げた。 十蔵「これ妹、果報は寝て待てとはこれを言うのだ。実は、景清の情報を通報した者には、褒美の品は望み次第という立て札が立てられた。景清は何処に居る、六波羅に通報して恩賞に預かろうではないか」 その言葉を聞いて、阿古屋は暫らく涙に暮れていたが、 阿古屋「ねえ、兄さん。あなたは本気でそう言うのですか。私は曲がりなりにも景清の妻、ここに居るのは甥御たちではありませんか。窮鳥懐に入らば猟師もこれを撃たずと言います、情けないことを言わないで下さいな」 十蔵「(大声で笑い飛ばして)時代遅れな事を言うな。それにお前は夫よ、妻よと言っているが、相手は大宮司の娘を恋慕して、お前の事など何とも思ってなどいない。女賢しくして牛売り損なうとはお前の事を言うのだ」と飛び出そうとするのを押しとどめて、 阿古屋「兄さん待ってください。大宮司の娘の件は他人の無責任な噂話にしか、過ぎません。私にとって景清様は二世を誓った大事な夫です。どうしてもと言うのなら、私や子供達を殺してからにして下さいな」と兄に縋り付いて泣く。すると丁度そこに熱田の大宮司からの飛脚が来て、 飛脚「こちらは景清樣の宿で御座いましょうか?」十蔵「いかにも左様で御ざる。只今は留守に致して居りますが、預かってお渡し致そう」と文を受け取った。 兄妹して文面を読んでみると、小野の姫からのもので、恋心と便りひとつ寄越さない冷淡を恨みに思う気持ちとが綴られている。 阿古屋「悔しい、兄さん」と泣きながら文を引き裂く。十蔵「言わぬ事ではない、この上は六波羅に密告して鬱憤を晴らすばかりだ」と立ち上がった。その兄に取りすがって妹は、健気にも止めようした。しかし、兄は妹を振り払って駆け出した。泣き崩れる阿古屋であった。 清水寺の景清が参籠する清水寺の坊(夜) 景清が同宿の僧達と仲良く話などをしている。坊の外には大勢の六波羅の役人が幾重にも取り囲んでいる。それを見咎めた荒法師の一人が声を掛けた。 法師「此の寺は田村将軍以来の霊地なるに、狼藉は何事であるか」 清水寺に所属する荒法師達がこれに応じ、景清を加勢しての激しい乱闘が開始される。 常陸の栄範律師「慈悲第一を謳うこの寺で信者を討たせては、観世音のご利益は地に落ちてしまう。防げよ、支えよ」と大声で仲間の僧たちに呼びかけた。 この僧達の加勢もあって景清は助っ人の三十人と奮戦して、やがて六波羅の五百騎を劣勢に追い込んでしまう。雪崩を打って退却する手引きの十蔵を始めとする役人達であった。 それを目撃した大勢の人々は景清の人間離れのした活躍に対して、拍手と喝采を惜しまなかった。 そして、景清は悠々と東国を指して落ち延びたのである。 六波羅の新造の牢屋 熱田の大宮司が押し込められている。 梶原源太「汝は当家の大敵景清を婿に取っただけでなく、行方も知れないように逃亡させた。何処へ逃がしたのか白状しなければ拷問にかけるぞ」 大宮司「仰せの如くに景清とは縁を結びは致しましたが、行方については存じません」 重忠「言い分は尤もである。仮に行方を知っていても婿の訴人は出来ないのが、人情というもので御座ろう。しかし景清は仁義第一の勇士であるから、舅がこのように牢に捕らえられたと聞いたならば、必ず此処に姿を現すであろう」 数日の時間経過 梶原源太に伴われて旅姿でやつれた小野の姫が、乳母のお供で姿を現した。 小野の姫「ああ、お労しやお父上様。私が身代わりになります」と源太に泣いて訴えた。 源太「景清の行方を白状しろ。さもないと拷問にかけて白状をさせるぞ」 小野の姫「水責め火責めに遭ったとしても、夫の行方は存じませぬ。どうか、父上をお助けて下さい」と声を限りに泣きながら哀訴する。 源太「ええいっ、この上は六条河原に引っ立てて、様々に拷問にかけてやろう」と手下に命じて小野の姫を乱暴に引き連れて行った。
2019年04月24日
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第 四百二十七 回 目 プロとアマチュアの違いに就いて、セリフ劇との関連で書いてみます。 生まれた儘の人間が、いつの間にかプロフェッショナルとアマとに分かれる訳ではありませんから、人間には本来プロもアマも、その区別はない、筈であります。所が現実にはプロと呼ばれ、アマと称される一群の人々が存在する、確かに。 辞書的な意味では職業として事を行うのがプロであり、そうでないのがアマとなります。ですから普通に使う場合には職業人として演技を行うか否かであって、価値基準は本質的には無かったのですが、プロはアマよりも遥かに上手であると言う、先入観念が抜き難く出来てしまっている。 ところが、所がであります、私に言わせれば現実には演技の本質から見て、上手も下手もいない。おしなべて「下手」であり、むしろ「ド下手」と形容すべき代物が、プロと呼ばれているが故にあたかも上手乃至は巧者として通用している。これが現状であり、現実の状況です。 私の話はどうしても世の常識に反しているが故に、とかく誤解を招き易い。今では、誤解を恐れていては私の目指す目的が遠のいてしまうので、敢えて誤解を恐れずに直言する事にしている。 プロで名人上手と称され、スター扱いされている有名人達は例外なく、ごく普通の常識的なレベルの俳優であり、表現者であります。それでは何故彼や彼女は名人と褒め称えられる存在に登り詰めたか。それは、彼等の演技が所謂銭が取れるから、見世物として、舞台に立ち、或いは映像化された際に見栄えがしたり、姿形、声などがよく、素材として人気を博するのに適していたからにしか、過ぎません。虚像としてのスターの座に好都合だった。それだけの理由です。 本当の俳優とは、名優とはそこから先に期待される可能性として、感じられ、待望されるだけです。やっと俳優としてのスタート地点に立ったに過ぎない。 諄いようですが、セリフ劇の俳優には上手下手、巧拙、その他容易に人気を博し、銭が稼げるか否かの素質は全く不問に付される。 唯一つだけ問題にされるのは、一人の人間として本物であるかどうか、という点だけですよ。それはセリフ劇の場・空間ではゲストのカタルシスを進んで促進しようとする、純粋な善意・ホスピタリティだけが物を言うからなのであります。 従来の所謂俳優と、セリフ劇の俳優とでは同じ言葉を使っても、まるで判断基準が相違している。だから、セリフ劇の俳優は素人に始まって、終生素人精神を貫き通すことが、一番大切な要素となる。人間として本物かどうかが問われるとは、そうした意味合いでありますよ。 人間であることにプロもアマも無いように、セリフ劇では 素人の真心を籠める優しさだけが大切な要素となり、その他の要素は謂わば枝葉末節なのですからね。 そして、台本のセリフに真心を籠めるのは、表面的なテクニックではなく、テクニックを超越した善意であり、暖かなハートの自然な発露なのですよ、実際。 しかもそれが確かにしっかりとゲスト側に伝わったかどうかは、心の温かさが直に感じられ、皮膚感覚で確認できるそうした距離感だけなのでありまして、そうした俳優としての鋭敏で繊細な感覚を練磨するには、日頃の一個の人間としての弛まぬ精進と修練とが、在るだけのです。 たとえばのお話を致します。何度も書きましたので少々気が引けるのですが、学習塾でのことです。授業の合間などの雑談で女子生徒に対して何度か、お化粧の話をしたことがありました。君の内面を磨いて、最も効果的な、そして永久的で完璧な魅力を身に備えなさい、と。 私は何も化粧品メーカーに恨みや敵意を持っているわけではありません。勉強に積極的で、強い目的意識を持てないでいる生徒に、年頃の女の子なら当然に関心を抱いている筈の話題を持ち出して、君の嫌いな「勉強」でさえ、気持ちの持ち方次第では、モチベーションを高めることが出来る事を、強調したかっただけなので、その外には全く他意はありませんでした。 相手の女子生徒は幸い、例外なく好意的に私の話を受け止めてくれました。と、言うよりは、そういう生徒を選んで、そういうタイミングを見計らって、そういう話題を振ったわけですね。 ここで、こう書いて来て私は人類の偉大なる教師であるソクラテスの教育スタイルを、自然に思い出しています。 どういう事かと申しますと、書き言葉と話し言葉との違いに就いてであります。 書かれた言葉とは、現代では大部分が印刷されたものを、意味します。印刷された文章は視覚的には白い地に付けられた黒い染みでしかありません。その染みを誰かが文字と認識して、それを自分の声として発声した時に初めて、書き文字は再び、三度人間の言葉として再生する。 長い記録と保存に便利な文字は、誰に対しても同じ表情を見せ続けるだけです。これに対して話言葉の方は臨機応変に、相手により、場合によって表情を変え、様々なニュアンスを自在に付け加えることが出来る。現にそうしている。 こうした話し言葉の長所・利点を遺憾なく発揮するのが、私達のセリフ劇なのであります。 マンツーマンの場合にはその特定の個人に合わせて、二人以上では所謂集団的自我のレベルに合わせてそのグループに最も相応しい対応をする。つまり、共通のカタルシス・浄化を考慮して台本を選択し、言葉を使用する。 再び、こうしたスタイルこそソクラテス直伝であり、セリフ劇はそれを正当に継承し、教育の場だけでなくあらゆる人々との有意義なコミュニケーションに役立てる、そういうオールマイティで非常に人間的な営みと言えるものなのであります。 古代ギリシャの偉人にして哲人のソクラテスは毎日外に出て行っては、有能な若者を相手に問答、つまり話し言葉を通して直接に若者の柔軟な魂にダイレクトに、己の信ずる正しい教育を施したと伝えられている。注目して頂きたいのは「硬直して、自由の効かない」書物によってではなかった事実でありますね。ソクラテスの魂の言葉、肉声を通して、当面の相手である若者の魂に確実に伝わる事柄をです。 もう一つ注目して頂きたいのは、ソクラテスと若者との関係であります。教師と生徒という上下関係ではありませんで、一人の人間同士の自由な人間関係の中でこの「授業」が実施された、という紛れもない事実であります、はい。 一方が片方を説得するという当時流行していた弁論術ではなく、ソクラテスが創始した独特の問答形式によるもので、これはセリフ劇にそのまま受け継がれる善意対善意の自由な交流そのもの。しかも、セリフ劇では専らストレスだけを問題にし着目しますので、目的や目標は極めて明確になっていて的を外すことは全くありません。 茲で或いは唐突と思われる事を提起したい。実存と言う事ですが、我々にとっての在りの儘の存在を言うのですが、そう言われても何の事かさっぱり分からない、そう思われる方が大部分だと考えられますが、取り敢えず当人が生きていてどの様に感じているか、その実感と思って戴けませんでしょうか。 私は、実例として例示すれば、ごく幼少時には毎日が楽しくて堪らないと感じ、次には親の干渉や学校に通う強制を迷惑で嫌な事と思い、次には生きているのが非常に辛く苦しいと受け止め、と言った具合に、同じこの世にあってもその年齢の在り方、意識の持ち方で様々でありました。そして現在では幾多の変遷を経て、非常に充実した生活と感じて、大変に有難いと思いながら毎日を送っている。 しかし、私のこの世での在り方で根柢の所でずっと続き、共通している客観的な真実がある。それは人間である限りは誰でも免れることが許されない、絶対的な孤独であり、又そこから来る孤独感情でありましょう。 結論を先に言ってしまいます。本当はこの「絶対的な孤独」は間違いであって、本来は溢れるような愛情・慈愛によって包まれているので、それへの気付きが欠如しているだけなのですが。 しかし、通常は私達の実存としては絶対的な孤独の中にある。そしてこの孤独の故に私達は本質的に満たされない思いに、生涯にわたり駆られ続ける。これがストレスの生まれて来て止まない本当の原因であり、同時にこの孤独感によって連帯感も生まれる。仲間であるとの意識・紐帯を感じる。同じ生命、生、命の中に現在ただ今生かされてある者としての共通の感覚を実感する。 全てが此処に始まり、そして此処に終わる。そう言える。 円・サークルを思い描いてみて下さい。点のように小さなそれから、無限大に大きなそれへと。皆が同じ丸でありますから、形状は全く同じですね。合同ではないけれども、相似形なのです。だから同類として互いを正しく理解し、心を通わし合う事が可能なのだ。 私は「源氏物語」の現代語訳を既に十年以上の長きにわたって、鋭意継続中でありますが、平安時代の人々と間もなく令和という新しい年号で呼ばれる時代を迎える現代では、人々の意識は著しく相違してしまっている、同じ日本人とは言えない程に。しかし、上に述べた円の比喩を使えば容易に理解出来る如く、理解は可能なのです。共通項が丸であり、孤独感を、飢餓感を胸に抱え込んでいる存在であるが故に。 本質的な人間理解のポイントさえ外さない限りは。余計な価値観や、偏見や、色眼鏡を外して素直に、なだらかに対象を直視する事を行うならば、誰にでも、何処ででも実現出来る事なのであります故。もともと、造作もない、極めて単純な事柄に類すること。 今回のテーマであるプロとアマの違いについて言えば、どちらが良い悪いの問題ではなく、目的意識が異なる。プロは言うまでもなく喰う為に働くのに対して、アマは愉しむ目的の為に楽しむ。そういう違いであります。 食うために生業として俳優をする。他者の為に楽しみを与えるプレイとして、俳優役を演じてみせる。どちらが偉いとも、どちらが低級だとも私は申し上げるつもりは、金輪際ありませんよ、本心で。ただ、ストレスを解消しカタルシス効果をもたらすのは、圧倒的にアマチュア精神を失わない俳優であることを、指摘するだけに留める者でありまして、後は皆様方のご判断に委ねたいと正直考えて居るのです。
2019年04月17日
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第 四百二十六 回 目 前回には具体的な敬老精神の啓発に就いて、ほんの少し触れましたが、セリフ劇の効用はそれだけには留まりませんで、多くの利点・長所を備えて居りますので、今回はそれについて述べてみようと考えました。 生きる事の素晴らしさの実体験を、身を以って知ると言う事。例えば虐めに遭ってそれを苦にして自殺する子供達が大勢出て居ます。実に悲しい、痛ましい事でありますが、これには私を含めた大人たちの責任も大いにある。それを具体的に説明して、皆さんに共に考えて頂きたいと思うのであります。 子供達への教育で何が一番大切だとお考えでしょう? 今頻りに叫ばれている英語教育でしょうか? 道徳教育や愛国心を育てる事でしょうか? 将来宇宙飛行士になって火星への移住に備える科学する心を植え付ける事でありましょうか? 本当の宗教心を育てる敬虔な心を涵養させたいが、信教の自由が憲法で謳われているしするから、何をどう教えたらよいか分からないし、等等と色々と目移りしたり又確信が持てなかったりする。 私は一人の人間として、「この世に生きている事自体が無条件で素晴らしい事だ」と何よりも先ず、実感して貰いたいと念願しています。学校教育という狭い枠の中で考えるのではなく、広い意味での「教育」を考える場合には。 唐突ですが、生きることが、毎日の生活が楽しくて楽しくて堪らないと感じている者が、一体自殺などするでしょうか? 私の中の常識は 否 と即座に答えますよ。つまり死にたいと思うのは生きている事自体が死ぬよりも辛いと感じるから、ではないでしょうかね。 私達には、人間に限らず生命体の中に生きて在る者は、本能的に死を恐れ、嫌悪する筈ですから。現にこの私・草加の爺は十代の頃年柄年中と言っていいくらい、死の誘惑に駆られていた。結論を述べるまでもなく、今もこうして生きているのですから、死ななかった。と言うよりは強烈な恐怖感がそれを遮ったから。今にして思えば有り難い死への嫌悪であり、闇雲な恐怖の感情であります。健康な生命力が、誤った死への誘惑に勝利を収めさせた。再び、有難い事であります。 ですから、生きることがこんなに辛くて、しかも死ねないならば、いっそ生まれて来なければよかった、そんな本当に罰当たりな考えを、その後もずっと引きずって持っていた。 亡妻の悦子と出会った当時も意識の前面にではなかったが、そう言う暗い厭世的な感情が心の何処かに蟠っていたのではないかと、思います。それで、子供を持つことに関して家内と一寸した諍いが起こった。自分は自分がこの世に生まれて来た事自体を、無条件で肯定できないでいる。だからまだ生まれて来ない子供に、申し訳ないように既に感じてしまう。子供は無条件で好きだし、自分の子供ならさぞかし可愛いだろうとも、思う。が、こんな嫌な世の中に最愛の子供を呼び出して、辛く厭な思いをさせたくないと感じるのだ、生まれない先からね。―― 大体、こんな風な事を言った物です。すると家内は「ふーん」と唸ってから、そう言われれば貴男のそう言う風に言う気持ちも解らないではないが、そんな理屈は忘れてしまいましょうよ、とか何とか私を宥めに掛かったものです。結局、愛する妻に説得されて男の子を二人儲けることになった。そして、成人してから息子二人に以前、こういう事があったのだよ、と一種の笑い話の種として話したのですが、息子達は異口同音に「生まれて来てよかったよ」と手放しで自分たちの誕生を肯定して呉れました。それで、私は密かに安堵の胸を撫で下ろす事が出来たのでした。 念の為に申し上げれば、今現在の私は愛妻のお陰様を持ちまして、生まれて来て本当に良かったと実感しながら、毎日を充実して生きることが出来ています。これだけでも「神」に深い感謝の念を奉げないでは居られません、実際の話が。 扨て、話を前に戻します。虐めに遭って自殺する子供達は私達大人に明瞭で明確なメッセージを残していないだろうか? それを大人たちはやれ虐めが有ったの、無かったのと言った議論に余念が無いようである。大人たちは底抜けの馬鹿者ばかりなのであろうか、そうでない事を祈らずにはいられませんが、それでは大人たちは恍(とぼ)けて分からない振りをしているのでしょうか?必ずしもそうとも思えないから始末に困ってしまう。有り様は、大人達には本当に分かっていないのでありましょう。こんなにも明瞭に、何度も、何度も出されている天使の様な純粋で、無垢な子供達が発している悲痛なメッセージが、何の事やら本心から理解不能なのでありましょう、どうらや、悲しむべきことには。 だからこそ意味の無い責任のなすり合いがエンドレスに続いている。ズバリ、私・草加の爺のメッセージの読み解きを御披露致しましょうか、死んで行った子供達の声なき悲痛な叫び声の、実に痛ましい意味合いを。こんな世の中厭だよ! ボク・あたし、もう生きているのが堪らなく辛くて仕方ないよ、世の中の誰も、誰一人としてボク・あたしを助けてはくれないし、自分で自分を助けるより他に方法がないのだもの…。( 誰か、誰でもいいですから私・草加の爺を窘めて下さいませんか、おい、草加の惚け爺さん、寝ぼけた事を言いなさんな、真相はこれこれだよ、と ) もっとありますよ。世の中には所謂「極悪非道な行い」を犯す人間が掃いて捨て程に、数多くいる。しかし、考えても御覧なさい、誰が好き好んで極悪非道を行うでしょうか。意外な事に彼等はそうせざるを得ない、非人間的な立場に追い込まれてしまった。万止むをえずして行為に走ってしまった…、( これに関しては正直な所、自信がない。何故なら、殺人は人間にとって最高の快楽であるらしい、から )、( しかし、仮にそうだとしても、それはそうせざるを得ない、非人間的な或る極限の状況に追い込まれたからであって、好き好んで、自ら進んで、或いは喜々として殺人を犯す筈はない、と少なくとも私・草加の爺は確信している ) だからして、彼らはその時点での被害者である、窮鼠が猫を噛んだのであり、清水の舞台から飛び込まざるを得なかったわけになろう、とすれば彼等を殺人を含む極悪非道なる行為へと狩り遣った、極限の状況をこそ、正当に唾棄し大いに嫌悪しなければならないだろう。罪を憎んで人を憎まず、この論法が正当であると仮定すれば、少なくとも現行法はそう考えている、現代社会はそうした非人間的な過酷極まりない状況を日々数限りもなく、発生させている。その明確な証拠が私達に与えられた非人間的犯罪の愕くべき数の多さに、出て居るのではないか…。これが世界一平和で安全な国と自他共に 称賛して止まない 我が日本国の実状なのだ。純粋故に傷附きやすい子供達がその社会に敏感に反応して絶望したからと言って、誰が、一体何処の何方が非を鳴らしたり、叱責する資格を有していると言えるのであろうか知らん? ほんの一例を挙げたに過ぎません。このような現代社会の抱えている歪みやひずみ、最悪化した病根などの所在を、セリフ劇は私達に単なる理屈ではなく、身を以ってする貴重な体験として、教え、また諭してくれる無二の貴重な場所・空間となるのであります。 身近にいる父母や近親者からも「見捨てられている」大勢の若者たちを含め、純で無垢な故に今の閉塞的な不幸な環境から抜け出ることが出来ずに悩んでいる人々に、私・草加の爺は心から呼びかけたい、私達のセリフ劇のサークルの輪に参加してみませんか、と。 まだまだ犠牲者は驚くほどに大勢いる。そして、ストレス社会は益々悪化の一途を辿る様相を呈している。政治にも、経済にも、その他の多くの分野で余り多くを期待できない。 結局は、最終的に落着くのは 「 自己責任 」 という誰からも文句のつけようがない、現代社会の持つ構造的な、そして深刻な矛盾。 其処に対しても救いの、優しい、人間味のある手を差伸べようと言うのが、私達のセリフ劇であります。そしてそれを裏側で、根底から支えて呉れるものこそ、それこそ無尽蔵に生まれて来る人々の善意であります。金銭とは直接に結びつかずに後から後からと、汲めども尽きず、そればかりか使用すればするほどに豊富に、そして暖かさを増す。 こんな素晴らしい夢の様な場とチャンスと出会いとを、新たに構築しようとしている。それも営利を目的とする企業としての活動ではなく、世の為、他人の為を思う善意のグループとして発足し、その後も終始社会福祉的な意味合いの強いユニークな活動を展開し、大きな発展・成長を期すという従来には見られなかった独自な存在として、地元の町民ぐるみで支え合い、共に繁栄を謳歌しようと計画しているのです。 又、目指す物は飽くまでも人々の健康であり、平和な生活、協調と調和の精神であります。これ以上に望ましい団体やサークルは世界に類を見ない事は勿論、この画期的な目論見が成功した暁には、類は友を呼んで地球上に共感・共鳴の輪が広がるのは、必然でありましょう。 そしてこの新しい形のエンタープライズが大成功を収めると言う事は、日本社会のみならず、全世界に強いインパクトを与えずにはおかない筈で、人類史上に新たな曙を告げる事となり、人々の生き方に非常に好ましい結果を将来するに相違ありませんよ。 そうした善意に満ち溢れた未曽有な試みに対して、一人でも多くの方々に御注目頂き、暖かな御声援を賜りたいと衷心より念願するものであります。 そして、途中からでも構いませんので、大勢の方々の参加も大歓迎ですので、宜しくお願い致しますと同時に、様々なアドバイス等も心待ちに致しております。人々の善意が善意を呼び、それが更なる善意のうねりに高まりを見せる。それこそが今度の試みの精神であり、魂を形作るものでありますから。
2019年04月13日
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第 四百二十五 回 目 丁度、アメリカ大陸がコロンブスによって「発見された」如くに、私は奇しくもセリフ劇という人類にとって最大の福音を齎すに違いない、素晴らしい装置、仕掛を「発見」した。 コロンブスが発見する以前からアメリカ大陸はずっと存在していたのですが、圧倒的な文明を誇る人類のリーダー的なグループによって、新たに確認された様に、セリフ劇は太古の人類と共に親しく私達の身近かにあった。ただ、その途轍もなく巨きな可能性の発掘と、啓蒙や宣伝、並びに果敢なる実践とを愚直に行うのが私・草加の爺であるに過ぎない。 何も事新しく劇・芝居・ドラマに就いて新説を開陳する訣でもない。一応は、そうも言える。が、実際にはコペルニクス的な大回転、天と地が逆転するに等しい一大変革が起ころうとしている。いや、意図的に劇と人との関係を見直し、人々の生活に思いも、予想もつかなかった大きな大きな恩恵を与えたい、与えなければいけないと、密かに決意し、徐々に行動を開始しようと目論んでいるのが現在の私・草加の爺の立ち位置であります。 そして、現在私の前に聳え立っている 目には見えない大きな障害 が厳として存在している。それは私が説明する以前に誰もが既に理解してしまっている、と言う「思いがけない」事態なのですが、これがなかなか相手にすると手強い、難敵中の難敵なのであります。 この私だけが感じている頑強な壁とは何かを、落ち着いてご説明いたしましょうか。色々とあるのですが、俳優・役者という役割について、であります。俳優・役者とは何か特殊な人種であるといった偏見乃至は、先入観念や色眼鏡であります。 端的に言ってしまえば、少なくとも「私の新しく提唱するセリフ劇に於いては」という但し書きを附けますが、唯の人であります。特別な資格や能力、才能などを必要とはしません。強いて言えばただの人にちょっとした善意と努力の継続とを、持って頂ければそれで、それだけで十分なのです。これが、なかなか分かって頂けない。既に固定観念がみんなの中に出来上がってしまっていて、それを忘れて貰えないから。 もうひとつあります。従来の芝居・ドラマ・劇で言う観客に関する抜き難い「色眼鏡」でありまして、観客とは舞台で演じられる劇・芝居・ドラマを見る人、眺める人、せいぜいが鑑賞する者くらいの認識がせいぜいです。所が、これが大いに違っている。 セリフ劇では従来の観客と区別する為に、仮にゲストと呼んでおきますが、ゲストが劇の場に於ける真の主役なのであります。それではこの新しい主役は何をするのかと言えば、自分で自分に治療を施すのです、俳優の手助けを借りて。 ですから、このセリフ劇の場では心の治療が行われるのだと、肝に銘じて認識して頂きたい。つまり逆に言えば、俳優はゲストのカタルシスという治療の為に劇、乃至は言葉による語り等のパフォーマンスを行う。そう心得て頂きたい。 以上が、セリフ劇の核心となります。ゲストがメインで、俳優はサブである。この原則をしっかりと、少なくとも俳優サイドでは、飽くまでも守って頂く必要がある。 これは俳優が重要ではないという意味ではなく、医療の場での医者の役割を担うのですから、非常に重要且つ大切だと、逆に役目の重大さを強調するものであります。と同時に、従来の役者の通弊であった独りよがりや、悪しき自己陶酔、乃至、不必要な自己顕示等の悪癖を厳に戒めるものでもある。 ここまで来ると、冒頭に私が述べた俳優のイメージと著しく違うのでないかと、違和感を覚える方が相当数いらっしゃるかと考えますが、もしそうだとすれば私の説明の仕方が、上等でなかった為に生じたもので、故意にしたものではありません。 俳優の根本精神は善意に始まり善意に終わる。つまりは人間愛の権化が俳優という職能を特徴づけているので、演技力の巧拙とか、個性の強弱にポイントが有る事を意味しているわけではありません。とかく俳優が陥りやすい、そして演出家とか監督と称される人種の勘違いし易い、謂わば難所であり陥穽でありますので、念押しして置きますよ。 それから、善意を持つと一口に言いましても、その善意が相手・ゲストに伝わらなくては何もなりません。善意が十分にゲストの側に伝わり、その結果でゲストの心の中で十全なカタルシスが完遂するのでなくては、意味がありませんが、それはゲストの反応を直接に確認する事でしか、実現出来ませんよ。独りよがりは断じて許されない事です。 従って、ゲストの様子を仔細に観察し、時には様々に打診するなどすることが、どうしても不可欠になります。この辺の事情は、医学上の患者と医師との関係に酷似している。 名医は最初から名医ではありませんで、俗に「何人も患者を殺した末に名医が誕生する」と言われますが、その心は医者の患者に接する心得の全ては、真心をもって接した患者から直接学ぶという事です。医者の一番大切な点は正確な見立てとそれに応じた適切な薬や手当の処方にあります。そしてそのほとんど全てが患者からの情報を偏見無しに冷静にキャッチして、総合的に判断する事に尽きているのですね。 同様に、俳優はダイレクトに、親身になってゲストに接し、即座にそのゲストが今何を真に必要としているかを察知し、ベストの台本・詞章・言葉を最上のホスピタリティーを以ってして演じて見せる、パフォーマンスする。その場合に医者の処方する薬に相当するのが台本・詞章・言葉なのです。 医者が病気を治すのではなく、適切な投薬が、服用した薬が作用して患者の病気が治るのと同様に、演じられた台本の内容が適切に作用した時に、ゲストの心のストレスが緩和され、延いてはカタルシスが完了するのですよ、お判りでしょうか。変な言い方をすれば、俳優の手柄ではなくメインは台本・詞章・言葉の働きなのでありました。あたかも人体の持つ免疫機能が根本的に健康を保証しているが如くに。 又、医者は生命そのものを創りだせないし、俳優もストレスそのものを根本から退治することは出来ない相談ですよ。つまり、人間としての限界が其処には当然に存在する。必要以上に自己の能力や才能を過信してはいけないし、だからと言って過剰な自己抑制も禁物です。 これも一人の人間としての限界を知り、あたうる限りの可能性を正当に信じ、精進する努力を頭から否定するものではない。 人は個人としては脆弱で本当に頼りない存在だが、パートナーと結びつくことで最小単位ながら確固たる安定を得、そのペアーが結び合ってサークルを作り、神に近づく可能性を自分の物とした。同様に劇の場に於いても同好の士同士が手を差伸べ、チームワークを形成することで無限の発展性、将来性を期すことが保証される。実に劇の場こそ工夫次第で人間の理想的な平和を地上に実現させる、その雛形を眼前に示す本当に素晴らしく、有り難い仕掛であり、装置なのでありますよ、間違いなく。 参加の資格はと問われれば、人であれば誰でも、性別年齢、一切の資格を問わない。そして其処では誰もが自分を大きく成長させる事が出来るし、仲良く、協力して真の意味のウイン・ウインの関係を構築するのだ。そういう意味合いでは、地上で最高の祭典・フェステイバルと呼ぶべき歓び和む場所なのですね、実に。 そもそも人は誰でも一人の役者として生きている。私に例を採れば、私は生涯古屋克征という人物を演じて舞台を去って行く。誰でもそうです、貴方も、君も、そして何処かの誰かさんも。ですから俳優の役柄を演じるということは、特別な事でも大変な仕事でもないわけです、基本的には。 実人生で与えられている地の役柄とは違った役を、意識的に演じてみる。そうゆう事にしか過ぎない。無自覚でいた役者が自覚した役者に、一時的に変身してみる。無類に面白く、又他人にも自分自身にも非常に役に立つ、そういう行動でありパフォーマンスなわけですね。 扨てそこで、このセリフ劇を商売として成り立たせ、野辺地の町を活性化させなければいけません。無類に面白く、町の人だけでなく大勢の人々がこぞってやって来るようにしなければいけない。その為にセリフ劇を魅力溢れる娯楽・エンターテインメントに仕立て上げなければ駄目です。その際にも、セリフ劇の持つユニークな強みは遺憾なく発揮されます。 万国共通語の笑いを前面に押し出し、客を強力に惹きつけるのです。目下の所、私個人としてはチャップリンに匹敵する強力なキャラクターを造形するのが先決と考え、試作品を考案している最中なのですが、町の人々の御意見なども取り入れてベストな物に仕上げたいと、意欲を燃やして居る所です。 それと、町興しや地域活性化策の一環として役立てるには、セリフ劇と連携させて町全体で和みや癒しを目指したメンタリティーの構築も重要です。つまり、町の人同士の親睦・交流の活発化の促進などをセリフ劇の構築と並行して、乃至はこれを起爆剤として町全体を外部から人々を迎え入れるホスピタリティー溢れる土地として、大きく心構えを変革していく情熱を新たにする必要もあるでしょう。いや、その先頭にこれからセリフ劇に携わる人達が立つのだという、強い自覚を保持して頂けたなら、第一段階としての自前での産業育成事業は成功間違いないと、思われますよ。 ここで思い出すのは人生の先達としての老人たちの知恵であり、潜在的な力であります。世間の大きな流れとしては老人たちを人生の重荷、厄介者扱いする風潮が主流でありますが、私はその老人の一人として声を大にして申し上げたい。老人を頼りにしなさい、と。 確かに、老人は体力的にも精神的にも著しく衰えをみせます。しかしその反面で気力の充実、生きた智慧の充実その他のプラス面も沢山あるのです。その老人たちを正当に扱わない手はない。ゴミ扱い、余計者扱いされたら、ゴミにもなるし、余計者にもなりましょう。 しかし、上辺だけの敬老精神の掛け声だけではなく、本当の敬老精神、老人を正当に敬う道を開拓するならば、老人こそは人生の宝の宝庫。単なる言葉だけではなく、無尽蔵な生きた、輝かしい宝石の数々であることを、セリフ劇の確立のプロセスで如実に証明してみたい。 今、私はそう強く、強く決意を固めても居る。どうぞ、そうした意味からも期待と共に、深甚なる御支援・御声援を賜りたく、衷心よりお願い申し上げます。
2019年04月12日
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第四百二十四回目 私はセリフ劇では素人の下手さ加減を頻りに称揚して止まない。それでは俳優修業などは無用で全く必要ないのか? プロは一切必要としないのか、と申しますと、そうではありません。そこの所を少しく掘り下げて御説明致したい、そう思います。 結論から申し上げれば、ド素人の心情と真心をいつまでも忘れない、真の意味のプロフェッショナルを目指すのが、究極の目標であります。つまり、素人の良さ、プロの良さ、そしてその両方を兼ね備えた理想の俳優を実現させる。それが私・草加の爺の念願であり、セリフ劇だけが望み得る素晴らしい目標なのでありますね、はい。 事のついでにゲストに関しても言いたいことが山の様にある。本質論を言えば俳優もゲストも一人の人間の役割を便宜上で二つに分けただけで、両者は結局「一人」に帰着するのでありますから、当たり前と言えばこれ程当たり前な事はない。 人間修行に完成というものが無いとすれば、俳優にも、ゲストにも又完成や成就という事は無いのが当然でありますからして。 問題はカタルシス、人の心が癒される、心と心とが響き合い共鳴し、真の和みに到達すると言う事。人は機械とは次元を異にする命あるもの、儚くも、強靭なる有機体であると同時に瞬間瞬間に、一瞬また一瞬と激しく火花を散らす、時には静かな氷の火炎を燃やす、複雑微妙な存在であります。一期一会に全生命を賭けて散る瞬間の閃きであり、精緻微妙なる揺らめきでもあります。一瞬たりとも動くことをやめない切なくも愛おしい輝きそのもの。その生命同士が密接な交流を介して共鳴し、高まりを更に押し上げる、またまた更なる高みへと限りない誘いを、誘惑を、大きく激しい渦へと昇華させる。それが、それこそが極限に於ける魂の交流・コミュニケーションの極致というもの。 それだけではありません、劇場と言う場にはゲストは一人から数百という人々が想定され、その場に同時に居合わせたゲスト同士の無言の会話や響き合いが、大きな合唱やオーケストラの如くに更なる大きな巨きなうねりや波浪となって、天涯にも反響する。するとそれが又大きな巨大な谺を呼び込んで果てしも、限りも無く発展する…。 この様にして、一つの劇のパフォーマンスとその齎すカタルシスとは、一つの蝋燭に灯された火が次々に伝播して、瞬く間に全世界が、大宇宙が輝く光で埋め尽くされる無盡灯の比喩そのままに、無限の明るさで全宇宙を光り輝く美しい存在へと変える、そう、確かに、間違いなく。 こうした素晴らしい心的エネルギーや魂の力の中心、スタート地点、発生源として強力な潜在能力を有し、確かな起爆剤たるポテンシャルな存在たり得るのが、人間と言う魅力あふれる生命体であり、劇とその主要な参加者は想像を絶する影響力を行使する。少なくともその絶大な潜在能力を備えている、間違いなく。どうして自分たちの可能性を開発する努力を惜しむことが、許されるだろうか。 ここで俳優として人間として自分を充実させる方向と、ゲストとして人間性を豊かにし劇からのカタルシス効果をより強く、有効に受け止める方向との両面があるのですが、順序として俳優・役者・パフォーマーとしての完成を期す方から少し述べることに致します。 と言いましても、単なる技術の問題ではなく、根本の人間性の幅を広げ、ゲストへの影響力を増大させるのが根本であり、基本でありますから、上滑りする拙速ではなく、腰を据えたオーソドックスなそれでなければなりません。情操の問題、教養の涵養と言った人間として自分の人生をどう生きるか、これは俳優・役者という職業に限定された狭いものではなく、一人の人間としてより魅力的になる道をたどる事を、ただしく意味して居ります。 やはり人生をどうとらえ、どう生きるか、自分だけではなく他人から見ても十分に納得できる、その人らしさ、ユニークな個性を充分に発揮させるのでなくては、無意味でありましょう。 少し話が理窟っぽくなり過ぎた反省を致します。この春、本当に久しぶりに桜見物に惑溺する事が出来ました。私・草加の爺は四十歳を過ぎてから花粉症を発症して、以来春は憂鬱なだけの厭な季節になっていた。薬に頼ったり、お酒に逃げたりと、兎に角後ろ向きの消極的な対処によって春の季節を毛嫌いし続けた、三十有余年でした。 その私が、オーバー表現にしても観桜を楽しむに至るなど、吾ながら信じ難い現象であります。今も自転車で小一時間程近所の桜の名所、綾瀬川沿いの草加松並木の対岸にあるソメイヨシノの花たちと御対面して、気分爽快になって帰って来たところ。 此処で又思うのは、人と自然とその関係についてであります。人は同じ人間であっても、変化します。自然と言う環境も目にははっきり見えないにしても、変化している。当然に人と自然との関係にも変化が表れない道理がない。私と桜と、それを眺める私の気持ち、という具合に置き換えてみれば大きな抽象的に感じられた話が、急激に具体的になる。 更に話を劇に置き換えれば、俳優と、ゲストと、カタルシスの質に無理なく置き換えが可能です。 この三者の在り方も幾らでも高められる。或いは複雑に、より有意義に、より高品質に昇華し得る。 何が言いたいのかと申しますと、単なる暇つぶし、パスタイム、気晴らし・憂さ晴らし、上辺だけの興奮やバカ騒ぎ、などのレベルから、遥かに高次な質の高いものに変換させることが、可能だと感じて頂けるでしょう。 一つには俳優の人間的な素晴らしい魅力の発揮によってもたらされる。もう一つはゲストの側の劇に対する理解の仕方や受容能力の高い低い如何んで、その効果であるカタルシス自体にも質的な違いがおのずから出て来るのは、謂わば必然でありましょう。 私のテレビプロデューサー時代の最大の恩人がフジテレビの故能村庸一氏でありますが、氏からは実に公私共に大変なお世話になっており、例えば芝居や相撲の観方に就いても多大な感化を蒙っています。能村氏は学生時代から歌舞伎や新国劇の通で、歌舞伎役者の声色や新国劇の島田正吾や辰巳柳太郎の声色などは十八番中の十八番でした。大相撲にしても大変な観巧者でしたね。ファンと言うよりは通人と呼んだ方がより相応しい、そう言う特殊な特権的な芝居などの鑑賞者でありましたよ。ちょっとした思い付きで表現すれば、氏は「氏の信奉する理想的時代劇」のスペシャリストと呼んだらよく、対して私・古屋は劇・ドラマ・芝居のゼネラリスト的な存在なのだと、令和を真近に控えた今の時点では言えるような気がする。 それはそれとして、同じ芝居と言う言葉・表現を使うにしても、嘗ての能村氏を含む同好の士が使うそれと、私がセリフ劇に託している意味合いとでは謂わば次元を異にしている。よいとか悪いとかの問題ではなく、ベクトルの方向が全然違うのだと思われますね。 能村氏がスペシャルの中でも特別にスペシャルな存在だとすれば、私のほうはゼネラルの中でも特別に限定なしで劇・ドラマ・芝居に向き合える。従ってどの様な人であっても、またどのような種類のそれであっても何でもござれ、とにかく包容力が途轍もなく広く、寛大であるのです。要するに劇・ドラマ・芝居であれば何でもウエルカムなのです、本当に。 言葉を変えて言えば、素人よし、プロ又よし、と言う事になる。俳優に関しても、或いはゲストに就いても同様の事が言えるのですね。 但し、従来の狭い概念でのプロに関しては、その儘では直ちに肯定するわけにはいかない。その辺の事情について少々次に述べてみようと考えます。 現在ただ今、一流のプロとして通用している俳優・役者・タレントに共通して言えることなのですが、非常に厳しく言えば「物足りない」。心に響かない、琴線には触れて来ない。ないしはその力が弱い。一応は食えているどころか、高額所得者の地位を確保している彼や彼女ですから、私如き門前の小僧風情が偉そうなことを、今更にいう必要も無い。しかしセリフ劇の立場からすれば、或る意味でやっとスタート地点に立っただけにしか、過ぎないのでありますよ、有り体に遠慮なく言えば。目的や理想が違う、からでありましょう。 そして驚くべきことに、今述べた事柄は、芸や技を売物にしているプロの誰にでも当てはまる事なのであります。ただしは、全てのジャンル・分野の理想的見地から見るならば、という条件が付きますよ。誤解を恐れずに直言すれば、理想とは神の視点に立つと言う事を意味します。ですから一応自分の事を棚に上げておいて「偉そうに」物を言う事であります。 ですから、理想的な批評とは人間である自分を、仮に度外視する、無にして「大所高所」から直言する事に他なりませんね。 つまり、セリフ劇の理想的な境地とはまさに「神と共に遊ぶ」ことを正しく意味する。そういう理想を地上に招き寄せる行為なのであります。 別の言い方をすれば、人間である身を以ってして、同じ人間の力を借りて、協力し合い、心を一つにして「神」の世界に限りなく近づく行為なのだ、と言えるでありましょう。その様な離れ業をを、偉業を可能にするのがセリフ劇なのです。 そしてこの素晴らしいセリフ劇を「発見した」のは私・草加の爺でありますが、発見者は特別に偉いわけでも、別格なわけでも決してありません。ただ白い物を真っ白だと言うに過ぎません。眼の前に置かれた画布に特殊なペイントで色彩を重ねると、重ねれば重ねる程白く見える画布が透明度を増し、次第にその透明の度合いを、高度にしていく不思議を説くに等しいことなのですよ。ただそれだけの事。まだまだ言いたいことは尽きませんよ…。
2019年04月08日
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第 四百二十三 回 目 サンプル・ストーリー の 六 『 快傑 自来也 』 時代:江戸時代 主な人物:自来也 ― 義賊で忍者の主人公、綱手姫 ― 自来也の恋人でナメクジの精として妖術を駆使して自来也を助ける、大蛇丸 ― 蛇の妖術の名手で様々な事件で自来也を苦しめる パイロットのエピソード 「 お江戸の八百八町を救え 」 プロローグ ―― 江戸の町で大火が発生し、その急速な復興の為に各地から建築資材を始めとして生活に必要なお米を中心とした食料品など、生活必需品が日本の各地から大量に輸送される政策が幕府によって講じられた。所が、その大切な物資が次々と不埒な盗賊たちの一団によって襲われて略奪される事件が、発生していた。 当時、山深い秘境にあって忍術の修行を完成させ、免許皆伝の域に達した自来也は、師の仙人から罪もない庶民達の救済に立ち上がるように命じられ、直ちに俗界に推参する事となった。 海上 積荷を満載して江戸へと向かう大船団がある。その主船の中で船長が主だった部下を集めて檄を飛ばしている。 船長「今更わしが改めて言うまでもない事ではないが、陸上では盗賊による乱暴狼藉が多発して幕府はもとより罪もない江戸の庶民が、住む家も無く、米は言うまでもなく毎日口にする食糧にも事欠く重大事が、今日に到るも続いている。事は緊急を要する、もう江戸まで目と鼻の先に迫っている。しかし呉々も油断しないように」 一同「畏まりました」 その直後の事であった。あれ程に追い手に風を受けて快速で進んでいた船足が、突然にぱたりと止んでしまった。同時に、辺り一面に黒い霧が立ち罩め、昼間だと言うのに夜の闇の中に船団のすべてが包み込まれるという、一大変事が発生していた。 そして驚いた事には、何処から出現したのか小舟に分乗した海賊と思しき一団が、獲物に群がり寄る蟻の群れの如くに黒い霧のヴェールに絡めとられた様な、大船の集団に襲い掛かろうとしている様子が見て取れる。 が、又次なる瞬間には天地を揺るがすかと思われる一大音響を伴った雷が、続けざまに何度も何度も起こって、海賊共の小舟を粉みじんに撃破してしまった。 すると、大音声が周囲に轟き渡っていた。 声「ええい、小癪な。この上は空の上で尋常に勝負に及べ」 答えた別の声「もとより望む所だ」 雲の上 凶悪な大蛇丸と正義の味方・自来也とが鎖鎌と正宗の銘刀とを武器に対峙している。二人の周りには不気味な密雲が渦を巻き、強風が盛んに恐ろしい唸り声を発し続けている。 二人の息詰まる死闘が展開する ― 。 大蛇丸の紹介。大蛇丸も自来也と同様に人里離れた秘密の場所で、血の滲むような忍者としての修行を積んでいる。素質的には或いは自来也よりも一枚上手であるかもしれない。二人は忍者の世界に在っても傑出した逸材であることに、変わりはなかった。ただ、その志には雲泥の開きが見られた。為に一方は邪悪な悪の道へと突き進み、片方は弱者の味方、力弱き人々の協力者として勇名を馳せる結果となったのだ。 海の中 空中での激闘は勝負がつかず、どちらからともなく空の上から、瞬時に海中へと身を移していた。大蛇丸は巨大な大王烏賊に、そして自来也はグロテスク極まりない大蛸に変身している。互いに墨を相手に激しく吹きかけては、相手の勢力を弱らせようと図ったり、長い手足を使って相手を絡め捕ろうと試みたり、死闘はここでも延々と続く ― 。 綱手姫の紹介 と 三すくみの哲学 ここで再びこの勧善懲悪をテーマとしたシリーズの、三人目の主要な登場人物の紹介を致します。綱手は実は正体は人間ではありません。ナメクジの妖精なのです。自来也は師匠であるガマ仙人の愛弟子ですからガマの精神を受け継いでいます。そしてナメクジはそのガマの大好物とされています。シェークスピアのロメオとジュリエットではありませんが、謂わば敵対関係にある両生物界を代表する男女が、不思議な縁の糸で結ばれて、周囲の大反対を押し切って結婚するに至ったのでした。 大蛇のトーテムを標榜する大蛇丸、ガマの自来也、そしてナメクジの綱手姫の三角関係は、実に人間世界の勢力関係の縮図でありますので、この主要な三人が織りなすドラマは深遠な「三すくみの哲学」、つまり蛇はカエルに強く、カエルはナメクジに勝り、ナメクジは蛇を溶かしてしまう、とされている、の原理に立脚するものなのですね。即ち、この世には真の勝者などは存在しないとする教えを、理屈抜きで面白いストーリーの中に巧まずして内包している、そんな深みのある娯楽作品なのですよ、実際。じゃんけんのグー、チョキ、パーを想い出してください。 そして今後のシリーズとしての縦糸としてある因果関係を前以って説明すると、綱手の美しさに一目で魅了され横恋慕した大蛇丸が、それでなくとも恨みに思う自来也を倒して、綱手を自分の物にしようと執念を燃やし、自来也の行くところ悉くに敵対し、邪魔しようと敵意を露わにするのでした。自来也、危うし! 再び、三度場所を変え、姿を変えて相まみえる自来也と恐ろしい大蛇丸。 地上の大平原 大蛇丸が率いる軍勢と、自来也が指揮をとる大軍が対峙して、壮絶な戦いが今まさに始まろうとしている。スケールとしては天下分け目の関ケ原と言われた合戦よりも、遥かに人数も馬や様々の数の武器が装備され、目もくらむ様な地獄図が間違いなく展開される様相である。 戦闘の火ぶたが切って落とされた。この凄惨を極めた合戦は優に一か月を越え、まさに地獄図そのもの。そして、総大将同士の一騎打ちで雌雄を決する時が来た、遂に来た。 そして、自来也のトーテムがガマだと察知した大蛇丸は、接近戦の鍔競り合の際に、毒蛇の猛毒を自来也に吹き付けたのだ。 落馬した自来也を馬上から見下ろし、とどめを刺そうと手にした槍を構えた大蛇丸の手に、透明な無数の綱がどこからともなく伸びて来て、大蛇丸は忽ち身動きが出来なくなってしまう。妖艶なナメクジの王女・綱手姫の登場である。 大蛇丸は尻尾を巻いて退散する。その時である… 元の海上 一瞬にして黒い霧は晴れ、大船団は何事も無かったように順風満帆で、予定の航路を辿る。 江戸城の中 大老を中心とした重臣たちが参集して、会議が開かれている。 大老「この度の大災害の復興に際しては、貴殿方の献身的な尽力によって、最大の貢献が出来た事を将軍家におかれても非常にお喜びであり、感謝もされて居られる。拙者に致してもこれで少しは枕を高くして、寝られようと言うもの。しかし、災害は忘れた頃にやって来ると俗に申すが、考えるまでもなく何時なんどきに斯様な不幸な事態が、再び襲って来るやも知れず、安閑となどはして居られぬのが、現実で御座ろう。呉れぐれも油断なきよう、治に居て乱を忘れずの心構えを大切に致したき物」 重役「拙者も、全く同感で御座る。常住坐臥、戦乱にあるが如き心掛けを持ちたき物と存ずる」 別の重役「ところで、巷での単なる噂話しか過ぎませんが、町の辻々に掲げられた高札によりますと、自来也と申す盗賊共を束ね居る巨悪が、各地の野党などを引連れて乱暴狼藉の限りを尽くしたとか。大蛇丸と名乗る義人が征伐に乗り出したが、すんでの所で賊を取り逃してしまったとか拙者聞き及んで居ります」 大老「拙者も同様の噂を耳に致している。同じ時代に善と悪とが併存して、世の中の事はなかなか一筋縄では行かぬようである。天下の御政道に万々抜かりなきよう、方々抜かりの無きように御留意めされよ」 一同、「心得ました」と返事をしている。 筑波山の麓にある庵 自来也と綱手姫の夫婦が住む隠れ家である。綱手の懸命の看病が功を奏して、一時は一命も危ぶまれた自来也であるが既に危機を脱している。 旅烏のカア公ことひょうきん者の金太が久方振りに、夫婦の庵に顔を出している。 自来也「相変わらずお前さんは口数が多いね」 綱手「金太さんからお喋りを取ってしまったら、何も残らないじゃありませんか」 金太「おひい様、それは余りの仰り様でござんすよ。これでも町へ顔を出せば若い娘達から、様子のいいお兄さんとか何とか云われて、大変な持てようなんですからね」 綱手「これは失礼を致しました。妾、ちっとも存知上げませんでしたわ」 金太「これまた、随分な仰り様。おひい様がそれ程の美人で無かったら、笑って済ませるなどしないところなのですが…。ああ、そうそう、ついうっかり忘れるところでしたが、お江戸では自来也さんは相当の悪の大物で、幕府のお偉方もこれからは目を光らせて取り締まりに乗り出すとか、専らの噂でした。あっしは腹の腸(わた)が煮えくり返るほど腹が立って、腹が立って、仕方がないのですよ」 自来也「世の中とはそうしたものさ。大方、大蛇丸が私に負けた腹いせに、手下たちに命じて、そんな根も葉もない嘘を広めているのであろう」 綱手「家の人は世の為、他人の為に役立つことさえ出来れば、それで十分だと本心から考えている根っからの善人ですからね。そこにまた妾は、ぞっこん惚れ込んでいるわけなのです」 金太「これは、これは、毎度御馳走さまで御座います。ここらが退散の潮時でござんしょう。どうも、御邪魔様でござんした」とおどけた動作で席を立った。 夫婦は顔を見合わせて朗らかに笑っている。 霊峰筑波は今日も霞の中に秀麗な姿を際立たせているし、霞ケ浦は静かに早春の日差しを受けて光り輝いている。 《 パイロット 完 》
2019年04月04日
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第 四百二十二 回 目 今回は、セリフに心を込める、又は迫真の真心を籠めて表現する「技術」と、意味合いについて読者と一緒に考えてみたいと思います。 先ず最初にアナウンサーの喋り、もしくは語りについて掘り下げた考察を加えます。皆さんはどうお感じかは知りませんが、私は流暢な喋りや、立て板に水の語りをするプロのアナウンサーよりも、たどたどしく不器用な、もしくはつっかえつっかえでも一生懸命に自分の気持ちを聴き手に伝えようと努力する、素人の方が断然好きです。 お前が好きとか、嫌いとかは問題ではない。大した問題ではないではないか、そうお考えの方々に私は次の如くに返答致したい。実は、そこの所が今回のテーマにとって肝腎要の勘所なのであります。 少し回り道をするようですが、これに本質的には関連している事なのですが、普通には皆さんがそこまでは突き詰めて考えない、「重大な見落とし」があるので、その事を俎上に載せて検討を加えてみます。 端的にお尋ねします、チンドン屋と役者・俳優・タレント・芸人たちとどこがどう違うか? 私、草加の爺はこう答えます、同じだ、ちっとも違いがない、と。その心は、と申せば「生活の為に芸を売っている」から。ただ、相違点があるとすれば当人達の意識の在り方と、彼等を見る世間の見る目が異なっている。要するに、見栄えがよいか悪いか、プライドや虚栄心を満足させられるか否か、が多少違っていると言えば、そうも言えるだけで本質的には何も変わりはない。 伝統芸能の歌舞伎や能・狂言にしても、元を質せば「河原乞食」であったが如し。ただ、急いで弁明いたしますが、日本の誇る歌舞伎や能・狂言の世界を貶めるのが目的ではなく、常識と言う物の「過ち」を正し、色眼鏡を外したり、目に入っていた鱗を取って頂ければ、それで済む話です。 今の場合に、「芸」を生業にするか、それとも隣人に対する善意で修行を積むか、では質の違いやレベルの相違、乃至は人としての境涯の高さが大いに違うのではないか。そう私・草加の爺は皆様方の注意を喚起したい。そう切に願うのであります。 少なくとも、セリフ劇ではプロよりアマチュアが断然勝れている。心の籠らない「立て板」よりも善意に溢れた「ど下手」がよい。そう声を大にして主張する者なのです。 ここで一回立ち止まってみます。お前さんの言う事が仮に正しいとして、理屈ではそうかも知れないが、実際の受け止め方、実感は大いに違うのではないか。つまり、やはり素直に下手よりは上手な方がよいに決まっている。そう心の中で思われた方にお話致しましょう。 実はその私の実感から、私・草加の爺は上に述べたような確信を得たのでありました。私事で非常に恐縮では御座いますが、説明の都合上で触れなければならないので、少々御辛抱をお願い致します。私の亡くなった家内の母親、私にとっては義理の母親に当たる方の葬儀が全部終了した際に、まかど観光ホテルで参会者への食事の接待がありました。宴会の冒頭で義兄が喪主として開宴の言葉を型通りに述べたのであります。この折の義兄の挨拶の言葉が、その述べ方がたどたどしいものであった。はっきり言ってしまえば「ド下手」でした。しかし、少なくとも私は深い感銘を受けた。この場合の式辞の述べ方としては最高であり、理想であるとまで感じました。 私は長年芸能界に身を置いて居りましたので、冠婚葬祭の場に数えきれない回数身を置いて来ている。司会者は勿論の事、各種の挨拶を述べる人たちはプロ中のプロばかりで、実に見事の一言に尽きる物腰であり、口演でありました。当時の私はそれが当たり前であり、当然にそういう立場に立たされたなら、自分もそうある様に努力しなければいけないと感じ、身の引き締まる思いで聴き入っていたものです。 しかし、義兄の挨拶の言葉を聴いて強烈に感動した私は、目から鱗が落ちる思いに襲われていた。この場合の挨拶の言葉の述べ方はこれ以外にはない、と。 プロにはプロの良さがあり取柄もある。聞きやすく、聞き栄えもする。大体において滑らかな調子であり、当人も聞き手も安心している事が出来る。ただ、真心は何処にもない。いちいち真心などで表現していては、身が持たない。プロとして通用もしない。第一、プロとして要求されているのは一種の型であって、真心といったようなものではないから。 しかし、素人には巧まずして真心が籠る。真情の吐露が、表出が見られる。それが受け手の心の琴線を強打し得る。一期一会の痛切なる思いの自然な流出があるのだ。 これは何も私が特殊だからではありませんで、義母の葬儀の際の義兄の挨拶に就いて、少ししてから息子に語ったところ彼は「自分も同様の事を感じた」と思わぬ事を言ったのです。息子の貴信は芸能界とは全く無縁の、そういう意味ではずぶの素人だからです。感じ方にプロもアマチュアもない事は議論の余地もありませんので。 ここで又、寄り道のような話題に移ります。殆どの人が御存知ないでしょうが、笠 智衆という大根役者に就いてです。名匠の小津安二郎監督によって発掘されて、日本映画を代表する名優と称されるに至りました、その前には「箸にも棒にも掛からない」ような不器用で、ド下手な大部屋の役者に過ぎませんでした。 笠 智衆に限った話ではありませんで、日本の映画史を代表する名作「七人の侍」に主演した三船敏郎も志村 喬も厳しく言えば大根ですが、まあ世評に従って不器用な役者だと今は言っておきますが、主役の二人だけでなくその外の主要な「名優」たちも、学芸会に毛の生えた程度の演技しか示していなかった。にも拘わらず黒澤 明監督の揮った演出上の剛腕が、名作を名作たらしめる主たる要素であった。 私が申し上げたい事は、名作は必ずしも名演技者を必要としていない。この事実であります。 役者や演出よりも大事なのは台本の内容であります。これはショーであろうが、治療を目的としたセリフ劇であろうが全く変わりがありません。受け手の心に響いて来るメッセージ性や純粋な面白さ・愉しさであります。生きて生活している人々の心にダイレクトに届く魂の叫び声なのですよ、実に。 こう書いて来てしまったので、勢い内容の吟味を省くわけにはいかない。で、申し上げる訳ですが、「七人の侍」も「東京物語」も共に娯楽映画としては第一級に挙げられるだけで、カタルシスの効果と言う点からだけで評せば、幼稚であり、子供騙しの閾を脱してない。だからして、単なる娯楽や興行ではないセリフ劇は、最初から映画の名作と言われる諸作品を、遥かに凌駕し得る。 百歩譲って、その可能性を大いに蔵しているし、秘めてもいる。 このようにして私・草加の爺がセリフ劇の素晴らしさや、セリフ劇に於ける俳優の役割の違いや、更には「下手な素人で十分だ」などと「強引な」ことを口にするものですから、劇・ドラマ・芝居に「無知」であった大抵の人々の腰が引けてしまう。と、私の想像の中で妄想の如き思いが膨らんでしまう。 また、私がセリフの音読から始めてみれば、直ぐにセリフ劇のよさや魅力が体感・実感できる。などと、「旨い事を言って」嫌がっている人々をセリフ劇の世界に「無理やりに」誘い込もうと企んでいる。そんな風に、猜疑や疑いの心を徒に芽生えさせるだけ。との不安も生まれもする。 しかし、断じてそうではありません。私には今度の「体験」に酷似した実際の経験を積んだという思いがあるからですよ、はい。 それは何かと申しますと、学習塾に於ける小学低学年生から高校生、浪人生に到る生徒達との数えきれない出会いと交流の結果で、得たもの、手にし得たもの。貴重な実体験から直接に学び取ったものなのであります。 学習塾に来る生徒達は一様に、通っている学校で満足できる勉学の成果が挙げられていない。そこが共通する点であります。従って、勉強その物が好きでない。それどころか勉強と言う事を頭の中で考えただけでも、既にうんざりしてしまう。要するに「勉強そのもの」が大嫌いになっている。そいう生徒に対して私は必ずと言ってよい程に、次の如く言います。 勉強とは本来は楽しい事である筈。何故なら知らない事が分かる様になる行為だから。しかし、現実には「学びの行動」は楽しいどころか、苦痛で嫌なだけの、思っただけで嫌気のさすものになってしまっている。それには様々な原因があるのだが、それはそれとして、少なくとも君は成績を少しでも向上させるために、これから私と一緒に苦手な学科を学習しなければならない。そうであるならば、最初の間だけでも「自分は楽しいから勉強をするのだ」と、自分で自分に暗示をかけてごらん。私も出来るだけ楽しい授業を心掛けるので、君の方でも少しだけ我慢して協力するように、心掛けてくれたまえ。すると不思議な事に勉強は苦痛でも、嫌な事でもなくなるから。 大体、上の様な事柄を語って聞かせる。それと同時に私は次の如くに付け加えることも忘れない。私は非常な年寄りで、君たちの様に勉強する必要はないのだが、未だに勉強を継続している。何故なら、それがこの上なく愉しい事だから。誰にも強制されていないのに、みずから進んで毎日欠かさずに勉強に取り組んでいる。嘘などではなく、本当に、本当の事なのだ。楽しいからこそ続けられるし、文句なく愉しいからね。と、いった按配ですね。 生徒たちは皆が皆、一瞬呆れたような表情を見せますが、疑いの要素は皆無ですよ。若い人達は大人の嘘に対しては非常に鋭敏ですから、嘘は直ぐに見抜きます。私は長い間在籍した学習塾の名物的な存在でしたから、この変わり者の先生なら、そういう信じられない事もあるかもしれない。そう彼や彼女たちは考えるようでした。 話が長くなりましたので、区切りをつけましょう。私は野辺地町の人々に「教える」つもりは毛程にも考えては居りませんで、ただ、セリフ劇ごっこを町の人々と共に存分にエンジョイしたいと希望して、期待で胸を膨らませているに過ぎません。ただ、それだけにしか過ぎないのです。
2019年04月02日
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第 四百二十一 回 目 サンプル・ストーリーの 五 『 悪党バスター 見参! 』 ―― 現代の世に蔓延る様々な悪を懲らしめる正義の味方と言いたいところであるが、この物語の主人公達は一種の 愉快犯 で、相手を懲らしめる為なら手段を択ばず、目には目を、歯には歯をの原始法と同じ精神を実行する、フィクション上のグループである。 「 殺人以外はなんでもやれ 」―― パイロット・エピソード プロローグ 或るビルの一室にある詐欺グループのアジトを急襲する擬装した警察官の一団がある。 まるで外国の映画に出て来るように拳銃などで厳重に武装した男達である。悪のメンバーたちは忽ちの裡に手足を縛られ、目や口を粘着テープでふさがれ、床の上などに抛り出されしまう。その水際だった手際は見事の一語に尽きる。最後にボスらしい一人が110番通報して、風の如くに姿を消している。 事務所の中(東京都内の某所) 椅子にゆったりと腰を掛けた堀須達夫がテレビのニュースを観ている。 テレビのアナウンサー「このような奇妙な騒動が全国各地の都市で連続して起きて居り、警察ではその関連性と事件性を捜査本部を立ち上げて、本格的に調査する方針だと言います。次に…」 ビルの屋上 遥かに高層ビルが林立する眺望を前にして、堀須と若い二十代の娘が会話している。 娘「横山さん、例の俺々詐欺の被害に遭われた老婦人ですが、酷く落ち込んでしまって、病院に通う事さえままならない、本当にお気の毒な状態なのですわ」 堀須「(無言で頷いている)」 娘「私のように若い者でしたら、これからいくらでも幸運に巡り会うチャンスもある。そう考えて自分を慰めることも出来ます。でも、あのお気の毒な横山さんは、もう九十歳に近い御高齢です。私、一体何と言って慰めて差上げたらよいのか…」 堀須「宇宙から地球を眺める科学者には、我々の住む地球はまるで宝石の様に美しく輝いて見えるって言う。現に、あそこに見ているビル群の眺めは一見素晴らしい。でも、あの中に一度足を踏み入れれば、人間のどす黒い欲望が渦を巻いて、我々を呑み込んでしまう」 娘「ええ、何か不気味な感じが致しますわ」 或る地方都市の中央部分にある豪邸の応接室 この家の主人と堀須達夫が対決している。 主人「君のいう事は全部間違いのない事が分かった。私の部下や会社の弁護団に早速調査させたのだが、細部にわたって正確だった。彼等は皆舌を巻いて驚嘆していたよ。私としては君の要求は全部呑まざるを得ない。だから、罪もない孫娘にだけは何もしないで貰いたい」 堀須「中々に物分かりが宜しいですナ。私としてはこの際調子に乗って自分の事を少しばかり語りたい気分になったので、お付合いをお願いしたい。私は若い頃は法律関係のエリートだった。それ故に法治主義の限界を思い知らされた。そして金色夜叉ならぬ、法律無視の鬼となって悪党どもに私的なリンチと制裁を加えて、善良な被害者の鬱憤を天に変わって晴らそうと決意した」 主人「殺人以外は何でもやれ、それが君のモットーだとか」 堀須「その通り。悪党には死んで貰っては困る。せいぜい長生きして地獄の苦しみを、とことん味わってもらわなくては、いけないから」 主人「だが、可愛い孫娘は、悪とは無縁だ。無事に、無傷で返して貰いたい」 堀須「大丈夫、貴男が約束を守って自ら警察に自首して、洗い浚い犯した罪の証言をしたことが確認されれば、即刻に人質は母親の、貴男の娘の手に帰される。それは固く保証する」 主人「君の言う通りにしよう」と、さすがにがっくりと腰かけていた椅子に、深々と腰から崩れ落ちた。 新聞社の編集室 警視庁詰めの記者が編集室に駆け込んで来た。 記者「編集長、やはりこれは特ダネクラスの記事にはなりますよ」 編集長「私も昵懇の刑事さんに確認したのだが、確かに君のかぎ出した事件は、これまでの警視庁が扱った事件の中でも屈指の特異性があるらしい」 記者「それと先の異常事態との関連はまだ定かではないのですが、私の勘では何か繋がりが有る様に思えて仕方ないのです」 編集長「例えば、どういう点でかね」 記者「つまり、正攻法の捜査では直ぐにデッドロックに乗り上げてしまう困難な事件で、悪の方から警察に通報して来たり、今度の様に巨悪のボスが自分から悪の証拠を引っ提げて、警察に自首して来るというような、珍事が起こっている」 編集長「成程ね、日本だけではなく、世界的に見ても極めてレアな事例だと思うよ」 警視庁の記者会見場(数週間後) 担当警察官「事件の性格上詳細に説明することは現段階では出来ないのでありますが、世界の犯罪史上から見ても特筆するに値する幾つかの特異点がありますので、この点から先ず触れてみたいと考えます。第一点は、反社会的な高度に知的に構成されたグループの頂点に立つ者が、自ら進んで自分たちの広汎な犯罪行為を認め、しかもその確証となる幾多の証拠を自発的に提示して、自らを裁く裁判に積極的に協力するという、まさに驚異の姿勢を示している事であります。これは裁判の前に既に被告の有罪が確定している。そういう事を意味して居り、常識ではあり得ないことなので、これを申し上げている本官自身が正直信じられない思いであります…」 奥入瀬の渓流 その渓流沿いの径(こみち)をひとり辿る堀須達夫の姿がある。 堀須のモノローグ「私は特に正義感が強い人間ではなかった。しかし、大学で法律を学び、大学院でその研究を深め司法試験に合格して検事として社会に船出した際に、自己の限界、法律の限界に逢着せざるを得なかった。それは取りも直さず人間の限界でもあった」 堀須の回想・親友の死 自殺した二十代の男から届いた遺書としての手紙に言う。「僕は学校や社会の試験や資格検査では常に最高の成績を収めた。しかしそれが何になろうか、遂に自分の愛する女性からは不合格の判定を受けてしまった。彼女は金持ちの青年実業家を選んで昨日結婚式を挙げた…」、心友は私とは専攻も生き方も全く違う純粋な学問の心酔者であった。幼時に両親を事故死で同時に失い、孤児施設で育ち、奨学資金とアルバイトだけで大学を卒業している。我々は共に学問的なエリートではあったが、社会的な評価は謂わば両極端にいた。私は世に言う良家の子息であり、彼は身寄りのない貧乏人にしか過ぎなかった。法律の上では同等であり、憲法の扱いでは同列であるが、実際の生活の上では雲泥の差別が、厳格な差異が存在している。 元の奥入瀬の渓流 堀須のモノローグ「友の突然の死が私の生き方を急激に変えた。私は一種の狂人になってしまった…」 堀須の回想 ―― 図書館で調べ物をする若き堀須達夫。 モノローグの続き「私は法律の番人としてではなく、犯罪を犯す罪人や悪人の視点から法律を読み、法網を潜るにはどのような手法が有効なのかを専門に、各種の判例や裁判の記録をとことん研究した。その目的は正義の為に自己の知識を役立てる事にはなく、法の裏をかき重罪を遁れている真実の悪党を、私的なリンチにかけ、無辜の市民の代わりに鬱憤を晴らす目的である」 回想の続き ―― 盗聴の名人との会話 堀須「これは公的な仕事ではない。だから断って貰っても一向に構わない」 名人「はい、心得ております」 堀須「これも念の為に言うだけだが、当然報酬も無い。ないない尽くしの勝手なお願いだ。これははっきり言って私個人のエゴから発した勝手極まりない、一種の犯罪行為であり、思い上がった許すべからざる反社会的な、一般の犯罪行為以上に性質(たち)の悪い犯行だ」 名人「あなたの潔癖な倫理観が言わせる言葉ですね。そこがまた、あっしの好きな所でして、是非とも協力したくなる理由なのです。あっしだって少しは人の役に立てる、人間らしい仕事がしてみたいですからね」 堀須「有難う。宜しくお願いするよ」 元の奥入瀬渓流 堀須が歩みを止めて小休止している。モノローグの続き「一例を挙げればこのような具合で、コンピュータ―のハッカー、窃盗、読唇術、マジック、射撃、各種の武術、催眠術、などなど各分野の名人・達人のヴォランティア的な協力を得て、数週間から数年に及ぶ実に根気のいる緻密な事前調査を経て、これとは別個に隠れた悪のアジトを急襲する実行部隊を編成して、F B I や K G B も及ばない完璧な仕事を成し遂げるのである」 堀須達夫の日常 月曜日 ― 空手のトレーニング、火曜 ― 柔道の練習に汗を流す、水曜 ― スイミングのクロール、平泳ぎ、バタフライ、背泳ぎを最低でも一日に千メートル以上泳ぎ熟す、木曜日 ―ランニングに打ち込む、平地だけではなく山道や急坂などを織り交ぜて実施、金曜日 ― 剣道の大会等に出場するのがメイン、土曜 ― フットサルに興じて汗を流す、日曜日 ― 各種の資料に目を通し次なるターゲットに対しての予備知識を蓄える。以上は午前から夕方にかけての平均的なスケジュールである。 或る日の夜の会談(これは非常に大衆的な居酒屋で行われた実例) こじんまりとした個室での食事が堀須を囲んで行われている。今回は三十代の男女四人が参加している。 堀須「皆さんが私の事を必要以上に美化していると言うか、過大評価しているようですので、申し上げるのだが私は謙遜で無く率直に言って、人間の屑だと言える」 一同は一様に反対の意思を「えーっ」と言うような溜息とも嘆声ともつかない声を上げて、表明したのだ。 若者の1「先生、それはいくら何でも暴言でしょう」 女性の1「そうですよ。先生の活動を洩れ聞く者は誰でも心の底から尊敬しないでは、いられないのですから」 堀須「いやいや、大いに感謝しなければならない立場に居る者として、少なからず申しずらい事なのだが、これは事実なのです。私が仲間に指示している事は、法律を無視している。その点では犯罪者と同列なのだ」 若者の2「でも、相手が卑劣極まりない悪党ばかりではありませんか」 女性の2「そうですよ、天に替わって悪を懲らしめている」 堀須「確かに一面ではそう言える。が、法治国家で法律を無視するのは明らかに犯罪行為です。その点を心に留め置いての上での協力なら、感謝して諸君の御協力の申し出をお受けしたい。どうぞ宜しくお願い致します」 《 紹介編 終わり 》
2019年04月01日
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