全27件 (27件中 1-27件目)
1
先週の合唱の舞台に引き続き、2月29日(日)にソロで歌う舞台(発表会)があります。去年のソロの舞台はパーティルームみたいな場所でしたが、今回はちゃんとした演奏ホールで歌います。一段高いところでソロで歌うというのは、初めての経験で、自分はどんな風に感じるんでしょうね?興味深々です。ワオ!声楽の先生から、演奏会の直前は、舞台でリラックスして楽しく歌っている自分をイメージする「イメージトレーニング」だけをして、あまり歌を歌わないようにと言われているので、今日(2/28)はノンビリ過ごすことにしてます。楽天で文章を書く作業はちょっとエネルギーが必要なので、今回も舞台が終了するまでお休みすることにしますね。月曜日には、報告もかねて書き込みしまーす。ちょっとドキドキでもこの緊張感がたまらなのよねぇ。それではまた、月曜日に!
2004.02.27
昨日からの続きですが、例えばお金持ちになりたいという欲求があったとします。すると毎日お金持ちになるにはどうしたらよいか考えます。そして様々な知識を集めて、いろいろな方法を試したりします。自分がこれは素晴らしい方法だと信じる方法に出会えば、他の人にも同じように思ってもらいたいと感じ、どんなに素晴らしい方法なのかを、皆に説明して同意してもらおうとします。同意してもらえないと、悲しくなったり、腹がたったりすることもあります。そしてついに、彼、あるいは彼女はお金持ちになることに成功しました。そしてその状態が長く続き、お金持ちでいることが当たり前のことだと感じるようになりました。その時には、その人は周囲の人に同じようにお金持ちになりたいと願う人がいれば喜んで自分の体験や今まで試してきた様々な方法を教えてあげるかもしれませんが、もうそれを相手に納得してもらう必要はありません。自分の中で確信してしまったからです。人のフィードバックはこの確信には何の影響もありません。それは分かち合いなのです、受け取るか拒絶するかは相手の自由意志に委ねられます。そしてお金持ちでいることが当たり前の状態になれば、それについて考えることもしなくなります。考えたり努力したり意識的に何かしなくても、呼吸するように無意識的に自分がお金持ちである状態でありつづけることができるからです。それは、一種のコツなのです。コツは自分自身で体験することで身につけるもので、ヒント以上のものをだれからも教わることはできません。でも、誰でもある状態になることを真剣に願い、試行錯誤していれば、ある日突然、コツが分かるのです。その後はもう忘れることはありません。こんなことを、私が書いていること自体、今、書いた内容を自分自身に確認させたいということです。(笑)では、改めて自分自身にもういちど納得させたい言葉を書きます。下記に転記したバーソロミューの言葉もジョセフ・マーフィーの「成功法則」も私にとっては同じスピリチュアルな観点から「宇宙の真理・法則」を教えてくれています。そして同じ事をちょっと視点を変えて書いてある、それぞれの本を読んだことで突然、腑に落ちました。バーソロミュー〈2〉大いなる叡智が語る神への覚醒(めざめ)バーソロミュー (著), Bartholomew (原著), Yoko Huey (原著), 陽子 ヒューイ (翻訳)「人生は旅です。どこに到着するのかを知る必要はありません。それにひとつのことをするために、別のことを諦めねばならないと悩む必要もありません。具体的なことを決めるのは、あなたの責任ではありません。あなたの責任は、自分の人生を生き生きと充実させ、爆発的に開花させるものを自分の中に見つけることです。その後は、あなたの運命が、あなたのエネルギーがあなたの存在の完璧性が、誰も傷つけないで、全ての人にとって最善のやり方でそれらを実現化してゆきます。」(P98-P99)そう、最近このことを確信したい、実感したいと願っていたのです。知識としては充分理解して、それが正しいことは知ってましたが本当には確信してなかったのです。でもそれが突然、「腑に落ち」ました。そして、そうなってみたら、考えれば考えるほどそれは「当たり前」のことでした。いや、考える必要がないほど「当たり前」のことだったという表現の方があってますね。「自分の人生を生き生きと充実させ、爆発的に開花させるものを自分の中に見つけること。」つまり自分の心が喜ぶことをやることだけに意識を向けて行動することで、すべて上手くいく。他は何も心配することはない。こんな嬉しい言葉はありませんが、それは真実だったのです。「他は何も心配することはない。」という部分で私はイマイチ確信ができてなくって、やっぱり心のどこかで心配していました。でも、本当に心配することなどないのだと突然「分かった」のです。そうなったら、今まで心配してたことを思い出さなくなりました。えっと、何を心配していたんだっけ?って感じです。(笑)私は急に夢から目がさめた感じがして、信じきれてなかった過去の自分が、とても遠く懐かしく感じるほどです。(笑)人はこうやって、地上でひとつづつ宇宙(神)に対する理解を深めてゆくのでしょう。
2004.02.26
ああ、私はようやく解放されたんだなあ。自分が今までこんなに不自由な意識状態だったなんて分からなかった。。。これからは、本当に何も心配することなく、自分の本当にやりたかったことができるんだ。自分が願うどんな人生も実現できるんだ。人生ってなんて、素晴らしく楽しいゲームなんだろう。ジョセフ・マーフィーの「成功法則」を読んだ、今の正直な感想です。今までの人生で、何度もこの解放感を味わってきました。心の鎖がはずされた感じです。スピリチュアルな世界に最初に触れたときや、あるいは、苦しい時、神に祈って答えを得たときなど、本当に解放された感覚になるときは、いつも同じことが起きています。今まで頭で分かっていたことが腑に落ちるのです。私たちは本当に安全な世界にいる。私たちは自分が思う通りの人生を生きることができる。心から喜んでやることを続けるための状況は必ず用意される。私たちは常に守られ導かれている。人生は常によりよいものが用意されている。こういう考え方は、いろんな言い方で紹介されます。「ポジティブ思考」「成功法則」「神への信仰」「スピリチュアルな法則」など。でも、それは分かってしまうと、単なる「知識」になります。1+1=2リンゴは手を離せば、重力に引っ張られて下に落ちる。地球は自転と公転を続けている。それと同じようなものです。「物理学」や「数学」なんて名前をつける必要もありません。そして、例えば、昨日の日記に書いたK-PAXというような地球より進化した文明をもつ星では、子供でも知っている当たり前のことなのだと思います。これは、いつも思うことなのですが、より高い視点から物事が見られるようになり、突然、分かったとき、腑に落ちたときは、大騒ぎするような興奮がありません。ただ、自分の中に解放感や平安が静かに広がってゆく喜びに浸る感じです。多分、自分の考えを人に訴えたいとか、納得させたいという思いがあるならば、その時は、まだ知識としては理解していても、本当には信じてはいないし、腑におちていないのだと思います。人は自分が信じたいことを話し、相手に同じように信じてもらいたがります。相手が信じてくれれば、自分も安心してより強く信じることができるからです。だから、自分が信じたいけど、なかなか信じられないときほど、周囲の人にその考え方を説得することに一生懸命になったりします。人は、本当に自分に腑に落ちたことについては、逆に関心を持たなくなるし、人に同じように考えてもらう必要性を感じなります。周囲の人が何をどんな風に信じていようが、自分の中で真実となったものは揺らぐことはありません。だから人の承認は必要ないのです。明日につづく。。。
2004.02.25
ハイヤーセルフからの勧めで、映画を見ることにしました。といっても時間もなかったので、レンタルビデオを観ました。「K-PAX 光の旅人」http://www.k-pax.jp/main.html精神科医マーク(ジェフ・ブリッジス)のもとへ、K-パックス星からやってきたと主張するプロート(ケヴィン・スペイシー)が患者として送られてくる。妄想にしては理路整然と宇宙の概念や哲学などを語る彼。やがてK-パックス星が実在することがわかり、さらにプロートの不思議な力は、他の患者たちをも魅了していく…。というような内容です。この映画は今日はじめて知りましたが、この映画を創った人たちは、相当意識が高いと思いました。もし、皆さん時間があればビデオで観てみてください。スピリチュアルな内容で、面白いし、とてもよくできています。K-PAXという星は、地球より進化した文明をもつ人類が暮らす星という設定です。その星から地球へ来たという宇宙人(主人公)の言動は、私が霊的に進化した存在はこうなるだろうなと想像していた姿とほぼ一致しています。主人公は自分が肉体に縛られていない、意識そのものなのだと完全に理解しているのです。だから瞬間的に好きなところへ移動することができます。K-PAXと地球の違いのひとつは、K-PAXでは「家族」という関係をもたないということです。だから婚姻という関係も、親子関係というのも地球と同じような意味では存在しません。霊的に成長するにしたがって、現在の人類がもっているような家族という絆はなくなります。私が知っているスピリチュアルな情報も同じことを言っていますし、そして私も本当にそうなるだろうと確信しています。血縁による「家族」ではなく「人類一家族」になります。互いの独占契約という意味での排他的な「結婚」はなくなり、代わりに全ての人がお互いを独占することなく最大限にサポートしあう「親友」になります。霊的に進化するということは、宇宙の法則や真理に対する理解が深まるということなので、「すべてはひとつ」「わたしたちは皆つながっている」ということが当たり前に理解できている状態です。排他的で固定的なグループを自分の意識の中で求め、そのグループにだけ特別な意識と愛情を注ぐのは、神や宇宙に対する理解の欠如=「恐れ」からきています。それを本当に理解していたら、ただ愛し、生活してゆくために、排他的、限定的、固定的なグループを創るという発想自体起きなくなります。そしてそのグループにだけ特別な意識を向け、そのメンバーに特別な愛情を注ぐということがなくなります。私たちには「特別」なものはないのです。全ては「ひとつ」なのだから、一部を特別視することは本当の愛ではない場合が多いのです。最も大切な相手は、今、この瞬間に関わっている人。次の瞬間に最も大切な相手は、その瞬間に関わっている人。それ以上でも以下でもなく、ただシンプルにそれだけの発想になります。「すべてはひとつ」「すべては私」なのですから、何の差別も区別もなく、ただ、目の前にいる人にありったけの愛情を注げばいいだけです。自分の内側の神とつながり、そこから全ての愛情と必要なものを汲み出すことができる「自立」した状態になることが、霊的な進化の最初の一歩です。人はこの段階にならなければ、本当に愛するということができません。どうしても相手に見返りを求めざるを得ないからです。ほんの少しでも見返りを期待する気持ちがあれば、それは純粋な意味では「愛」とは呼べません。でも、地球人類は、まだその霊的に自立した段階まで進化していません。自分の中の神と常につながっている訳ではないので、霊的飢餓感があり、愛情や安らぎを自分の外の世界や他人の中に探し回っている状態です。だから独占契約や特別に助け合わなければならないと思い込む関係が必要になります。それはお互い公然と、あるいは暗黙のうちに、要求しあうことで成り立つ、不自由ではあるけれど安心感を与えてくれる依存的人間関係です。お互いしばりあって保険を掛けているのです。それがいけないというわけではありません。その文明の霊的な進化の段階に応じて最も適した、学びの形があります。それが現在の人類にとっては「家族」「婚姻関係」「恋人関係」という排他的で限定的関係なのです。「家族」が必要なくなった社会は、人々はどのように関わり合うようになるのでしょう。人類一家族なので、子供はその社会の大人全員が責任をもって育てます。子供にとっては全ての人が親であり、兄弟姉妹、あるいは親友になります。ただし、子供は肉体が若いというだけで、魂は永遠の存在なので、対等で一体なのだと理解しています。自分に対する愛情や必要が満たされているので、相手に対して期待や要求をつきつける必要はありません。互いの愛情は大前提にありますが、独占欲、執着、嫉妬心などとは無縁になります。最も自然な生き方として、誰もが良心と自分の中の真実に従い愛と思いやりに満ちた行動をします。どんなときでも相手がありのままでいる自由を認めることができるので、ルールや賞罰などで、制限する必要がありません。徐々に、私たちも、現在の意味での「家族関係」や「婚姻関係」が大した意味を持たなくなってくるでしょう。
2004.02.24
今日は月ビタ(月曜ビタミンの会)がありました。いつもながらの楽しい時間を過ごし、また楽天に書くような内容のヒントも沢山いただきました。参加して下さった皆様、有難うございました。朝、起きたとき「本当に何でも好きなようにこの一日を過ごすことができるんだー。嬉しいなぁ」というワクワクする感覚があります。その感覚は日々強くなってきています。ずーっと前からそうだった訳ではありません。ここ何週間前からでしょうか。何か特別なことをしたから、そういう状態になったのではなく、何もしてない状態にリラックスするできるようになったということだと思います。よく「ありのままでリラックスすることができれば全て上手くいく。」と「バシャール」なども言っていますが、この余りにもシンプルな答えは、頑張ることに慣れている私たちにはにわかに信じ難いのです。でも、自分で実感してみると、楽しく生きることは本当にシンプルで最も自然です。そしてリラックスしているときの方が、明らかに人生はスムーズに進みます。ところで、今、はまっているのは、「マーフィーの成功法則」シリーズ(笑)とても有名な本なので、前から名前は知っていたけど、今までちゃんと読んだことがありませんでした。でも、縁があって手にとって読み始めてみたら、面白い!!何冊も彼の著書があるので、今日、図書館で3冊も借りてきました。何が面白いって、これは最高に「スピリチュアル」な内容なのです。「バシャール」が伝えていることとほぼ同じなのでびっくりしました。ジョセフ・マーフィーさんは、キリスト教の牧師でした。20世紀に生きた人です。潜在意識を使うことで何でも願いは叶うと言っていますが、彼は、潜在意識=神と考えていて、私から見たら、これは究極の信仰心、これこそ神への信仰という感じがします。また、一人本当に素晴らしい人生の先輩を見つけて、嬉しくなっちゃいました。そして、自分の中に改めて神さまを見つけて、深い安心感と嬉しさを感じています。明日の朝は、今朝より数倍、幸福な気持ちで目を覚ますことができそうです。さて、私の部屋には猫が3匹。早く電気を消して寝てくれないと、僕達が眠れないと言われているので、今日はこの辺で。。。
2004.02.23
今日の舞台は大合唱です。曲目はベートーベンの「ミサソレニムス」の中の最初の曲「キリエ」です。総勢50名の男女で舞台に上がりました。今回は4名のソリストにも参加していただきました。4名とも、芸大(東京芸術大学 http://www.geidai.ac.jp/ )の声楽科の学生さんだったのですが、んまぁーーーーー上手なこと、上手なこと。たまげました。(笑)私が音楽、特に歌に関心をもち始めたのは、ここ1、2年で、それまで自分の世界の中では、音楽好きな人 イコール 道端で歌ってるちょっとイカレタお兄ちゃん(笑)という狭い認識しかありませんでした。というのも、TVか道端でしか音楽に出会うことがなかったからです。ところが最近、急に音楽を仕事としてやっている人たちと出会う機会が増え、音楽関係の友人もできるようになって、彼ら、彼女らの才能に新鮮な驚きでワクワクしまくってます。私から見たら、彼らは全員「天才」なのです。一体、どうやってあんな美しい声出せるんでしょう。一体、どうやって作曲したり、楽譜見てすぐ歌えるんでしょう?一体、どういうしくみであんな風にピアノの上で自分の指を動かしているんでしょう?だいたいこんな人たちが、存在していること自体、私にとっては「神の奇跡」なのです。(笑)いや、大げさではなく本当にそんな風に思ってます。見るたび、聞くたびに「驚愕」してます。それほど、彼らは自分の知らない世界の人たちなのです。それほど、私は音楽の世界、音楽業界というものに無知なのです。だから、この音楽の世界の中での探求が楽しくて仕方ありません。プロでもアマでも音楽家、演奏家なんて人は、それだけで私にとっては憧れと尊敬の対象です。この状態は子供が世の中のいろんなことを知っていく過程と同じなのかもしれません。子供の頃は、毎日新鮮で驚きに満ちていたものね。でも、大人になったからといって、世の中のこと本当に知っているわけじゃないですよね。私たちが宇宙や世界、生命について本当に理解して知っていることなんて海の水の一滴みたいなものです。それなのに、私たち大人ったら、自分達はいろんなこと知っていると日常生活の中では思い込んでいるのよね。新しいやり方や考え方を試してみようとは、なかなか思わない。。。「野蛮で無知な知的生命体」の判断基準は「自分達は何でも知っていて、知らないものはほとんどない。」と思い込んでいるかどうかなのだと、本で読んだことがあります。確かにそうかもしれない。そう思い込めるほど視野が狭いということは、それだけで非常に柔軟性に欠けた、近視眼的な判断を下す可能性が高いのでしょう。地球人類の「知的傲慢度」はかなりハイレベルです。。。あれれ、話が発展してしまいましたが、そんなこともあり、「天才」たちと共演した、素晴らしい時間でした。だけど、彼らの頭の中とか身体はどういう構造しているんだろう??とても同じ地球人とは思えん。。。
2004.02.22
一応記録のために書いておきます。歌った曲はジョスカン・デ・プレの「アベマリア」http://www.yk.rim.or.jp/~guessac/TEXT17/text_17_28.html 私にとっては、アンサンブルグループでの初めての舞台でした。ハーモニーがとても美しい曲で、舞台では歌っている途中で、気分が高揚して鳥肌立ってしまいました。(笑)それほど楽しかったということです。舞台終了後に、メンバーで打ち上げに行きました。普段、練習の前後にはお互いあまり話をする機会がないのですが、打ち上げの席で近かった3,4人の方とゆっくり話しができてよかったです。帰宅したら、久しぶりにドロドロに疲れていたので、すぐに寝ました。また明日も舞台でーす。
2004.02.21
21(土)、22(日) 両日とも第24回 ヨコハマ・コーラルフェストという合唱祭で歌います。いろんな合唱団体が出演して、出番はそれぞれ10分位です。頑張って楽しくうたってきまーす。てなわけで、しばらくパソコン開けませんしばしのお別です。いってきまーす。
2004.02.20
そう、「世界はつながっていて、全ての存在の利害は本来一致する」(オープンシステム)なんてのは、理屈としては美しいし、理想なんですが、実際に自分の生活の中に取り入れて実践していくなんてのは、苦行僧並みの忍耐と、マザーテレサ並みの信仰心が必要になります。(笑)それは、出会った人とどんな事が起こったとしても、それはお互いの成長にとって最も必要なことだと理解し、たとえ悪意をもって、相手が自分にした行為であっても、全てを許し、批判せずにあるがままを受け入れようということです。相手に頭を殴られても最後には、「まあこんなに私を成長させて下さって本当に有難う」って笑って感謝できる位、そこから学んで気づきを深めるってことです。罪を憎んで人を憎まず(人間の心の無知を理解し、無知のためにそうせざるを得なかった相手に慈悲の思いをもつ)ということでもあります。それは最初は相手がどんな酷いことを自分にしようとしていても何も抵抗せずに、されるがままになりなさいということなのかと思いとてもそんなことはできないと思っていましたが、そういう意味ではありませんでした。オープンシステムでは、自分も相手も一体なのです。相手を愛することは、同時に自分を愛することで、自分を愛することは、相手を愛すること。自分が犠牲になっているように感じたり、自分自身を大切にする行為だと思えないならお互いの為に頑として拒絶しなければなりません。相手からの見返りを全く期待することなく、ただ与えることそのものが喜びだから与える。自分も他の人も何の理由もなくただ愛されるべき存在だから喜んで愛を与えそして受け取る。というのが、オープンシステムの世界観をもつ心=オープンマインドです。自分と相手が一体なら、自分(相手)に与えるのにどうして自分(相手)からの見返りが必要なのでしょう。もし、見返りを必要としているのなら、それは自分と相手の利害が一致していないと思っているから、自分の利益を優先してくださいと、賄賂を渡しているのです。賄賂は愛ではありません、ただの取引です。それも闇取引です。約束でも契約でもありません。(笑)もし、見返りを必要とする贈り物であれば、それを相手に与えることは自分(相手)を愛することにはならないので、相手に賄賂を渡したい欲求に打ち勝ってください。もらった本人も困ります。(笑)自分が受け取る側なら、きちんと拒絶するということです。それが、「WIN-WINの関係で愛する」ということです。この微妙なバランスはかなり難しいです。でも苦労して身につける価値は充分あります。オープンシステムを土台とした心=オープンハートでいること、そしてその状態での人間関係はとても快適です。私自身の体験からすると、オープンハートでいると、緊張しなくなるので人見知りをしないし、社交的で誰とでもすぐ友達になれるようになるので、ずいぶん生きるのが楽になりました。初めて会った人と前からの知り合いに対する親しみの感覚は、それほど違いはないように感じます。ただし、相性はあるので、最初から特に親しみを感じる人はいるし、できたらこれ以上は関わりたくないと感じる人だってたまには出会いますが(笑)それでも心の中では、相手と「つながっている」感覚はあります。「つながっている」感覚は、どんな感じかというと「親しい家族」であるということでしょうか。私は、いつの時点からか、例えば電車に乗り合わせている一人一人が自分の「父や母、兄弟姉妹」なのだと思えるようになりました。また、ホームレスや犯罪者も憎んだり批判したりする相手ではなく、可哀想な自分の家族の一人です。自分も同じ環境で育ち、同じ性格で生まれついていたら、同じ行動に出ただろうと思うのです。頭でそうだと考えてということではなく、自分の家族に感じている親しみに近いものを見ず知らずのその人たちに感じるのです。でも実際私たちは、文字通りひとつのものを親として創造された家族なのです。私たちは家族という運命共同体なのです。霊界にいる家族もふくめて運命共同体です。家族の中のひとりでも不幸で苦しんでいる人がいたなら、その家族は本当には幸福ではありません。
2004.02.19
スピリチュアリズムでは、人間が霊的に進化するにつれて、一体どんな風に感じ、考え、行動するようになるのかというのを明確に教えてくれます。将来的な自分のイメージをとてもハッキリ教えてくれるのです。苦痛から逃れて、楽に愉しく生きたい私には、「自由と喜びと愛情を思う存分味わえる人間」という、スピリチュアルな人間観はとても魅力的で、自分にぴったりでした。常に今の自分より一歩進化した状態を目指して、ちょっとづづ自分を変えてきました。もっと楽に愉しく生きるには、どうしたらいいのか?自分が望んだのはそれだけです。ただし、状況もかなり危機的だったので、真剣に望みました。(笑)それは、安易な現実逃避なのでしょうか?でも、実際にそれを実現しようとしはじめると、多くの人がもつ世界観と違うので、かなり大変です。何事も真剣に取り組めば、そこで人間は成長するものです。周囲の人を冷静に観察してみてください。一体どれだけの人が本当の喜びを手にしているのでしょうか?私は、周りの大人に質問して、自分が納得できる答えが返ってきたことなど一度もありませんでした。でも、スピリチュアルな世界観と自分の中の感覚は、いつも求めたときに的確な答えをくれました。人間関係というのは、本当は自分との関係です。自分に対して閉鎖的で否定的な感覚をもつとき、逆に自分を愛して受け入れている感覚があるとき、人は、その時々で目の前の人に対してもそういう感覚をもちます。自分が楽に愉しく生きることができれば、人との関係もそういうものになります。私にとって、一番欲しかったのは「心の平安」だったので、最もそれが手に入りやすい考え方をあれこれ試してみましたが、その結果はより「オープン」な考え方の方が、より安定した「心の平安」をもたらすということでした。私はスピリチュアルな考え方に出会い、自分の中に取り入れてくることによって今まで様々な恩恵を得てきましたが、一番感謝していて有難いと思っているのは、人間関係がスムーズになったことです。人生の中で多くの楽しみと喜びを与えてくれるのは、私にとっては人間関係です。「人間はバラバラに分裂していて個々の利害は相反する」(クローズドシステム)という宇宙観を持っているときは、人生は闘争で、人間関係はトラブル続きでした。でも、「世界はつながっていて、全ての存在の利害は本来一致する」(オープンシステム)という世界観をもつようになるにつれて、徐々に人間関係がスムーズにいくようになりました。といってもそれは簡単なことではありませんでした。長いので明日に続く(笑)。。。
2004.02.18
昨日は「オープンハート」のことを書きましたが、スピリチュアリズムの世界観からすると、宇宙はもともと、究極のオープンシステムです。「世界はつながっていて、全ての存在の利害は一致する」(オープンシステム)ということです。利害は一致するので、WIN-WIN か LOSE-LOSE の関係しかありません。単純に損得で考えれば、どちらも得するか、どちらも損するかのどちらかです。「つながっている」という感覚と共にいると、こんな風に言うことができます。あなたとわたしの幸せは一致しています世界の中であなたも私も一人ぼっちではありません。あなたには私がついているし、私にはあなたがついていてくれます。お互いに思いやり、共に幸福になっていく道を歩んでゆきましょう。もう誰とも戦う必要はありません。全ての人は私の味方です。どれほど生きるのが楽になるでしょうか。そしてこれは相手がどういう考えでいようと関係ありません。自分の中の理解だけでこのような心境でいられます。相手がどう言おうと、どんな風に自分を嫌い、分離している感覚で攻撃してこようと、つながっているものは、つながっているのです。この世界観を意識的に選択するためには、「オープンシステム」ではない選択肢も知る必要があります。1つしか候補がなければ、比較検討して選ぶという行為ができなくなってしまうからです。それが分離の幻想を利用した「クローズドシステム」です。「世界はバラバラに分裂していて個々の利害はめったに一致しない。」(クローズドシステム)という世界観です。この世界観なら、殆どの人は馴染みがあるし、実際、ほとんどの人が自分の世界観として採用しています。この世界観を選択している場合、完全に他と分離していて自閉状態なら、WINとLOSE(勝ち負け)の関係自体が成り立ちませんが、もし、関係が成り立つとしても、利害は一致しないので、WIN-LOSE の関係が基本です。得するものがいれば、同時に損するものがいる。「つながっていない」という感覚と共にいると、こんな風に言いたくなります。あなたとわたしの幸せは一致していません。世界の中であなたも私も一人ぼっちです。あなたも私も、世界で孤立無援です。お互いに思いやり、共に幸福になっていく道などないのです。だから、利害が対立する全ての人と戦う必要があります。全ての人は私の敵か、今後、敵になる可能性のある人たちです。どれほど生きるのが困難になるでしょうか。そしてこれは相手がどういう考えでいようと関係ありません。自分の中の理解だけでこのような心境になります。相手がどう言おうと、どんな風に自分を愛してつながっている感覚で接してくれようと、つながっていないものは、つながっていないのです。あなたは、自分で世界観を「選んで」いるのです。どんな世界観を信じて生きていくかは、毎瞬、自分で選択することができます。何を信じても、自分が信じたことが体験できます。私たちは否応なく子供の頃、体験したことを自分なりに解釈することによって、自分の「世界観」を創り上げてゆきますが、別の順番で「世界観」を変更することも可能のなのです。「世界観」を最初に変更し、その後の体験を今までとは違う新しい「世界観」のもとで解釈し、その「世界観」への信頼を深めてゆくということです。どの世界観も正解というのはありませんが、その世界観をもつことで、自分の望む感覚が得られているかどうかには敏感でいてください。そのためには自分がどんな感覚を感じていたいのか明確にする必要があります。あなたが感じたいのは、「楽しさ」ですか「退屈」ですか「喜び」ですか「不満」ですか?感じたい感覚を、毎日の生活の中で感じることができていますか?諦めないでください。必ず、自分が感じたいものを感じる方法はあります。絶望したり諦めたりしないで、自分を心地よくする努力をする。それが一番大切なことです。もし、心地よくないなら、今感じている違和感や不快感をヒントにして、自分の世界観をちょっとづづ修正していったり、新しい考え方を試してみる価値があります。あなたには自分の世界観を自在に変化させて、自分の体験することを変化させる力があります。起きることにただ翻弄されて、味わいたくもない感情に振り回されている必要はないのです。
2004.02.17
最近「オープン ハート」について考えています。「オープンハート」っていうのは、新しい状況や相手でも、自分から積極的に関心をもち、受容し、理解し、愛そうとする開放的な心。鍵がかかっていない心。ってことでしょうか。特に今の日本は経済的に厳しい状態にあるので、社会も個人も、大方はどんどん保守的で閉鎖的になり、新しいものを受け入れる柔軟性を失いつつあるようですが、一方で、これは日本の今までの閉鎖的で古いシステムを壊すよい機会だと思います。それに個人にとっても新しい生き方や考え方を始めるよい機会です。それをしないとどんどん苦痛になってくるからです。状況が後押ししてくれます。そして新しい生き方を心から求めれば、その答えは必ず得られます。赤ちゃんは生まれつき開放的でとても柔軟性があります。だからあんな短期間に沢山のことを学び、受け入れることができるのです。そして喜怒哀楽、様々な感情を味わいますが、感じ終えたらケロッとしてます。感情を溜め込んだり、蓄積させたり、腐敗させたりしません。多分人間は本来、そんな「オープンハート」な生き物なのです。しかし、成長するにつれて様々な恐れを植えつけられてきて、しかも、あなたは魂ではなく、ちっぽけで無力な肉体なのだと教えられ勘違いしてしまうので、次第に、消えてなくなる、はかない物質的なものや肉体を守る些細なものを守ろうと一生懸命になってしまいます。そして、子供の頃もっていた、好奇心や自由に対する憧れや、愛するものとの一体感、夢ワクワクする感覚、冒険心、驚きなどを手放してしまいます。ああ、なんて可哀想。。。もっともっと私たちは、そういう楽しく美しいものを求めていってもいいのです。この社会のマインドコントロールは一種の精神的虐待です。でも虐待してしまった人も同じように虐待を受けてその影響から出られなかった人です。誰かが目を覚まして、この虐待の因縁を切っていかないといけません。一緒にそのトラウマと虐待による自分に対する否定的なイメージを消してゆき本来の自分の人生を楽しむ権利を取り戻しましょう!!でも、「閉鎖的」になることで精神的な苦痛を味わうことはよい兆候です。「奴隷」であることに満足しきっていたら、「苦痛」は感じません。より自由で心地よい状態を求め始めると「苦痛」を感じはじめます。自分で求めなくても、時がくれば運命が、そのままでいたら苦痛な状況をつくって次の成長段階へ進むように促してくれます。できるだけ「苦痛」を感じないで、自分の世界を広げ、適応していくためのポイントが「オープンハート」です。「新しい状況や相手でも、自分から積極的に関心をもち、受容し、理解し、愛そうとする開放的な心。鍵がかかっていない心。」価値観、世界観を一種のエネルギーシステムだとすると、新しいエネルギーを取り入れるときには、今まで安定していたエネルギーシステムが混乱したり、抵抗したりします。でも、出会う人や状況は、次の理解の段階へ進むのに必要なものなのです。そう思ってあえて「困難」「苦痛」「危険」を承知の上で、自分の中に取り入れてみる。単純に信じるということではありません。それを使って理解を深めるということです。その時、自分があまりにも不自由な状態にあるのだと気がついて愕然としたり、今まで押さえ込んでいた様々な恐れやネガティブな感情が噴出してくるかもしれません。でも最終的には、「閉鎖的」であるときより「オープンハート」な時の方がよっぽど苦痛が少なくて済みます。
2004.02.16
私たちは誰もが「幸福」を望んでいると思いますが、恋愛関係を含め、全ての「人間関係」の目的は、私たちに「幸福」をもたらすことではないと思います。いや、「人間関係」だけでなく、私たちが人生で出会う全ての出来事、人、手に入る物や権利など、そして「人生」そのものもそうです。それらの目的は私たちを「幸福」にするためではありません。もし、私たちが「幸福感」を感じ続けることを第一に思っていたら、今、地上にはいないでしょう。霊界にいた方が、視野も愛に対する理解も地上ほど制限されていないので、よっぽど幸福だと思います。私たちは、その幸福感を一時的に捨ててでも、地上に来てやりたかったことがあったのです。スピリチュアルな観点からすると、地上生活の目的は、「霊的な理解を深めて、愛と真理に目覚めてゆく。同時に地上から争いをなくし、愛と思いやりによる関係を広めてゆく。」というようなことです。私たちは「幸福」を望んでいますが、人間的、霊的な成長は「不幸」と呼ばれるような困難や悲しい出来事や苦しい人間関係を乗り越えてこそはじめて手に入れられるものです。悲惨な人生だからといって、必ずしも人間的に、霊的に磨かれるとは限りませんが、かといって、「幸福」なだけの何も困難のない人生では成長するチャンスがなくなってしまいます。だから、人生には自分の理解を超えた事柄や、起こって欲しいと望んでいる以外のことが起こります。それは、ときに、理解に限界がある私たちの目には「不幸」と映るでしょう。でも本当は「幸福」なことも「不幸」なことも起こりません。ただ、私たちが霊的に成長するために必要な出来事だけが起こっているのです。私たちはその中で「学ぶ」ことだけが求められています。「霊的な理解を深める学び」というのは、決して深刻にとらえる必要はありません。私にとっては地上生活は「宝探しのゲーム」という表現が一番ぴったりきます。「宝」とは、「愛」「感動」「満足感」「喜び」「驚き」「面白さ」などのポジティブでワクワクする感覚です。宇宙や自分に対する霊的な理解が深まるほど、それらを感じる感受性が高くなり、人生に対して、いままでにない自由と喜びと安心感を感じることができるようになります。誰もが「宝探しのゲーム」をしています。知識、友人、恋人、権力、お金、衣食住、家族、その他あらゆる目に見えるもの、見えないもの全て。自分が欲しいと願っている様々なものを求めて活動しています。自分にとっての宝とは何か?宝はどこにあるのか?宝探しを邪魔する怪物(ネガティブな思い込みや感情など)とどうやって戦うか?付き合うか?宝を見つけてもその宝箱の鍵を開ける方法は?なんてことを真剣に考えながら発見していくプロセスは、大変なことも多いですが、、愛と冒険、笑いと涙の一大ストーリーでもあります。そのゲームの中で出会う人や出来事は、自分が探している「宝」のありかのヒントを与えてくれたり、これから出会うあるいは、行く手を阻む怪物を教えてくれたり、どうやって宝箱を開けるのかそのヒントを与えてくれたりしますが、本当に価値のある大切な「宝」は、全部私たちの内面にあります。それは長く困難な冒険の末にようやく自分の中に発見できる貴重なものです。その宝は、人から譲り受けるわけにはいきません。特に「人間関係」は沢山の学びと気づきの機会をあたえてくれます。愛と優しさ、勇気とはどんなものか身をもって示してくれたり、自分を縛り付けるネガティブな感情も見つけ出してくれます。例えば、あなたの目の前の人は、いとも簡単にあなたの地雷を踏んで爆発させてくれます。「ほら、こんなところに、あなたが隠している怒りや恐れがあるよ!」(笑)相手との関係の中で自分を知る。自分に気づく。そして今までとは違う選択をしてみる機会が与えられます。その人と関わることで初めて表面に出てくる感情や性格に驚き、自分でも気がつかなかった思い込みに気づかされます。その相手との関係を通じて、本当に欲しいものも変化します。人間関係は鏡であり、その相手は鏡に映った自分の姿です。宝探しの冒険家には欠かせないツールです。物質的なものが自分の宝なのだと思い込んでいる段階を超えて自分の内側に宝があると気づくまで成長したならば、急激に人生観が変化します。数年の間に全く別人になってしまったような感覚になるでしょう。「宝」は無尽蔵にあります。誰かと争う必要はないし、焦って手にいれる必要もありません。それに、この人生であなたが本当に得たい宝は最初からあなたの中に隠されています。楽しみながら、ゆっくりじっくり探せばいいのです。私たちが表面の意識で欲しいと思っているものと、深い魂のレベルで望んでいることは、往々にして違うものです。それは私たちが表面意識では「幸福」を願い、魂では「霊的な成長」をもたらす困難を望んでいるのと同じです。でも私たちは諦めずに求め続けたものは、必ず手に入れることができます。すでに自分に与えられているものを発見するということによって。。。
2004.02.15
ヴァレンタインデーでした。日本では、女性がいつもお世話になっている男性にチョコレートを上げる日らしい。。。いや、間違えた、本当は好きな人にチョコレートを渡すことで、愛を告白する日でした。何十年もそんなことしてないので、恋愛関係を進展させるために利用されているのを忘れてた(笑)そういう意味を込めてチョコを渡したのは、高校1年生だったかな。今までの人生で最初で最後だったな(笑)デパートや地下街のあらゆる所で見かけるチョコレート売り場、そしてそれに群がる若い女性たち。微笑ましくもあります。何よりスゴイ熱気なのです。彼女達は、まだ「恋愛」に対する夢が破れていないのでしょう。いや、こんなこと書くと私が「恋愛」に失望し切っている女性みたいですが、「恋愛」はスリリングでワクワクするゲームとしては、好きですよ。男性と、思いやりのあるいい関係を創っていく本当に初期の段階で、熱病にかかったみたいに意識が飛んでハイになって世界がバラ色に見えてしまう状態(笑)あんまり、ハイになってると後に夢から覚めるとき怖いですけどね。でも、最初からこれは期間限定の精神状態だと分かっているので、そんなときは、せっかくなので楽しめるだけ楽しんでおこうと思います。アルコールを飲んで楽しくてハイな気分になっているとき、アルコールのせいでハイになっていて、しばらくすればこの異常なハイな気分は元に戻るのだと普通分かってますよね。分かってても充分楽しめます。恋愛状態も、ハイな状態がアルコールという薬物によるものなのか、それとも脳内麻薬によるものなのかという違いこそあれ、状況としてはほとんど同じだと思っています。でも、この状態をちょっとした人生のスパイス程度の楽しみ以上に考えて、執着したり、常にそういう状態を求めたり、直面すべき現状からの逃避として使ったりした場合には、楽しみではなく苦しみが増えてきてしまいます。アルコール中毒症状と同じで恋愛中毒症状が出てきます。私たちは特に若い時には「恋愛関係」がまるで人生の不幸や悩みを解決してくれる特効薬でもあるかのように思い込むことがあります。成長する過程で「恋愛関係」を求めることは多分自然なことなのでしょうが、それが、人生の「特効薬」や「免罪符」のように思い込んでしまうのは、やはり社会の中でのマインドコントロールの結果だと思います。未婚の男女向けの雑誌の表紙や電車の中の吊広告をみるだけで、「恋愛」がいかに特別なものなのか、大騒ぎするような一大事なのかそれが上手くいきさえすれば、人生の殆どが上手くいくようなことが書き連ねて書いてあるので、これでは、ほとんどの人がだまされてしまいます。(笑)人生の何に対する「特効薬」や「免罪符」かと言うと、内面的な「空しさ」「寂しさ」「罪悪感」「自尊心の欠如」「自分の性別に対する誇りと喜びのなさ」「将来に対する不安感」「不幸感」「退屈」「目的のなさ」「生きがいや遣り甲斐のなさ」などなど。数え上げたらきりがありませんが、つまりは「幸福感や充実感」が欠けていて、自分の内面にある「愛と理解に満たされていない部分」を外側の何かで埋めようとしているのです。アル中になる人々も、原因はほとんど同じだと思います。でも、もちろん、それは自分が愛と理解を深める以外に最終的な解決策はありません。完璧なパートナーがいたとしても、いつまでもあなたの傍であなたがすべきことを代理でしてくれることはないでしょう。それでは、あなたが地上に来て学ぼうとしたことが台無しです。自分の中に「空しさ」を抱えた人間同士が「恋愛関係」をもつと、ほとんどの場合、天国と地獄をいったりきたりする遊園地のジェットコースター状態になってしまいます。上に上がればその分、きっちり下に下ります。ジェットコースターの原動力は相手に対する「期待」や「幻想」です。時間が経ち、それに気がついて2人でジェットコースターを降りて、穏やかでずっと乗っていられる乗り物に乗り換えることは可能です。相手が降りるのを拒否すれば、自分ひとりでジェットコースターを降りることもあるでしょう。でもその後は、大抵はまた退屈し始めて、またジェットコースターに乗ってみたくなります。(笑)静かな乗り物では、自分の「空しさ」を感じる余裕があるので、勇気をもってその「空しさ」と直面する努力を始めるか、あるいは、自分の「空しさ」を一気に魔法のように消してくれそうな(もちろん幻想ですが)相手と一緒にもう一度ジェットコースターに乗るかの二者択一の選択を迫られます。明日につづく
2004.02.14

おもしろい本を発見しました。「働かないって、ワクワクしない?」アーニー・J. ゼリンスキー (著), Ernie J. Zelinski (原著), 三橋 由希子 (翻訳)早速、読んでいるのですが、自分の「働くこと」についての思い込みがどんどん崩れていって、ウキウキする開放感を感じています。仕事を辞めようとしている人や、最近仕事を辞めて生活に変化がある人が読むと面白いかもしれません。あるいは、長時間の過酷な労働に嫌気がさしている人には特にお勧めです。でも、この本は、働くことについてというよりどうやったら私たちは本当に「自由」でかつ「幸福」な状態でいられるのか?ということについて具体的に分かりやすく書いてある良書なのだと思います。私の人生の中でも「自由を得る」というのは、とても大切なテーマでした。成人するまで、あまりにいい子ちゃんで育ってきて、親や社会のルールに疑問なく、あるいは疑問があってもそこから外れることなど考えられないほど従順に従ってきた結果、二十歳近くなってから、たまりにたまったストレスが爆発し、大反抗期が来てしまい、一夜で親不孝者に豹変し、親をだいぶ泣かせてしまいました。(もちろん今は大の仲良し?のつもりです。)でもそういうことがあったお陰で、「精神と行動の自由」は命をかけても守るべきものなのだと、人生の早い時期に、気がつきました。あまりに早い時期に、痛みと共に「自由」の大切さを知ってしまったばかりに、組織で働くことで得られる様々なメリット(安心感や協力して創り上げる喜びとか一体感とか、周囲の人に認められる嬉しさとか、世間体のよさとか、経済的な安定とか)一気にぶっ飛んでしまいました。そんなものよりなにより「自由」が命!になってしまったんです。私もかなり極端なところがあるので、なぜかそういう結論を出してしまったんですね。そして、「自由」を制限される可能性のある状況をとても警戒するようになってしまい、私は、ひとつの会社、あるいは組織に長期間働くという経験はほとんどしてきませんでした。それに、なにかにどっぷり所属するというのも避けて、正社員という形態では勤めなかったのです。かといって、雇われずに自分の創造性だけで収入を得るという発想まではいきませんでした。組織に片足を入れてる位の距離感と利用の仕方が一番心地よかったのだと思います。その後、様々な会社にアルバイトや準社員の形で勤めましたが、そこで、「正社員」と呼ばれている人たちが、私からみたら「不自由」な囚人状態で、しかもその状態に不平不満を言い続けているにもかかわらず、どうしてそこから飛び出さないか(今でこそ理解できますが)とても不思議に感じていました。まあ、でも周囲の人からみたら、安定性のない何の保障もない生活をしていた私の方がずっと「不幸」に見えたかもしれません。それにその人たちは、それほど「自由」の優先順位は高くはなかったでしょう。確かに「自由」であっても、最初のうちは「幸福感」は今ほどありませんでした。でも、「自由」が奪われるのは一番イヤだったのです。「自由」を「幸福」は別物です。「自由」が与えられていても「幸福」であるとは限りませんが、でも全く「自由」のない「幸福」というのもあり得ないでしょう。「経済的な安定」が保障されていても、「幸福」であるとは限らないっていうのと同じです。「自由」を堪能するには「精神的な自立」や「宇宙や自分に対する深い理解と信頼」が必要です。この本は、神とか宇宙という言葉は全く出てきませんが、「自由時間」をどうやって使ったら「幸福」で「楽しい」人生が送れるか、とても丁寧に説明してくれています。「自分を不自由で退屈で喜びのない状態に縛り付けたままにしておかないで。もっともっと大きな自由と喜びがあなたを待っているよ。」霊界にいる存在たちは、きっと地上にいる私たちをそう励ましてくれているはずです。「自由」を得るためには時に「命がけの覚悟」が必要かもしれません。命と引き換えででも「自由」を熱望するという思いがなければ、自分の中の様々な「恐怖感」に打ち勝つことはできないからです。だから不自由な状態でストレスがたまり爆発した人の方が怖いもの知らずなので、逆に「自由」を得るための大胆な行動に出たりします。「働かないって、ワクワクしない?」この本を読んでいると、自分は自由をもとめているつもりだったけど、もっともっと「自由」でいられるんだと、視界が開けた感じです。何でもそうだけど、「自由」についても、自分がこれだけ「自由」になってもいいと、自分に許可した分だけ手に入るものです。もっともっと大胆に、愛する自分に「自由」を与えてあげたいなと思います。
2004.02.13
OSHOの話には続きがあります。あなた方は、自分の楽しいこと、歓喜や至福を感じることは、いつも後回しにする。そして、先に手をつけるのは、心配したり、不平不満や愚痴を言うことばかりだ。だから、死を恐れる。だから、タイムリミットを恐れる。心配事は後にまわせばいい。先に楽しいこと、喜びを感じることに手をつけるのだ。毎瞬そうしなさい。そうすれば、いつ死が訪れても困らない。後に残っているのは心配事やくだらないことばかりだ。そんなものは、切り捨ててもかまわない。楽しいことはもう既に充分味わい尽くしている。そういう人生を生きなさい。OSHOは霊界がどうのとか、神がどうのとか、そういうことについいての理屈はほとんど話をしませんでしたが、自分の内面と繋がりそこに寛ぐことを繰り返し話をしてくれました。彼は私の生き方に指針を与えてくれた大先輩で、心から感謝し、敬愛しています。OSHOやその他の素晴らしい先輩達のお陰で、私は、徐々に「恐れ」や「心配」や「不安」と出会うことが少なくなってきました。私が人生で唯一願っていたことは、「心の平安」を得る事でした。それは、「恐れとは無縁の生き方」であり「絶対的な愛と安心感」に満たされていることです。自分の外の世界に求めるたびに失望することを繰り返していたので、ようやく、自分の外の世界に求めても得られないのだと分かりはじめ、内面を探し始めました。外側の世界での出来事は常に、自分の内面へ向かうようにと促してくれました。私が探す場所は間違っていなかったようです。確かに、日々、その素晴らしい内面的な安心感と豊かさは増えています。現在、私が肉体的に「死ぬ」ことへの「恐れ」を意識することは皆無です。「死」に対する「恐怖」がないことは、それだけで私をとても「平安」でいさせてくれます。自分にとっては、当たり前のことであっても、自分の周囲にいる人たちにとっては当たり前ではない場合が多いので、自分が死を恐れていない理由を考えてみました。自分が肉体ではなく、魂であり、永遠に「死ぬ」ことはないのだと知っている。霊界が自分の本来の住処なのだという意識がある。「生きたかったのに生きられなかった」人生というのが残っていない。過去出会った人や出来事の全てを 許し感謝しているので、過去は自分の中で完了してる。今、この瞬間、生ききることだけに焦点を合わせている自分にとっては「未練を残せる過去」も「期待をかける未来」も存在しなくなってしまった。自分も、他の人たちも、全ての存在は、充分神様と宇宙に愛され面倒を見てもらってるので、自分が死んだ後も、何も心配することはないと知っている。そんなところなのでしょうか?この先、生きていても、これ以上楽しいことがないと思っているわけではありません。この先も地上で生きている限り、地上ならではの楽しいことは山ほど待っていてくれるでしょう。でも求める本質は愛の喜びに満たされていることです。それはどうしても地上で体験しなければならないことではないし、霊界に戻ってから創造し、味わうことだってできます。肉体の死は私にとっては、制限の多い物理次元からの「解放」であり「人生学校の卒業」でもあります。自分が今回、学ぼうとしたことを学び終えることなくして、「死ぬ」ことはあり得ないと思っているので、死ねるとしたら、ちゃんと「卒業証書」をもらえるということです。事故死や突然死や医療ミスによる死でも、安楽死であろうと「死」が「この人生の卒業」であるという意味では違いはありません。死ぬ瞬間までは地上でのレッスンは続くので、死に方は必要に応じてセッティングされるでしょうが、自分の魂も、霊界のサポーターも全員一致で卒業してもいいとOKを出さなければ死ぬことはできないのだと思っています。そして、お呼びがかかるのです。「はい!合格!卒業していいよー」では次のワクワクする冒険の準備を始めようか!私は、その瞬間を心待ちにしています。今、この瞬間にお呼びがかかっても大喜びで飛んでいくでしょう。地上にいようと霊界にいようと、毎瞬、自分が最大限の喜びを味わえる状態を創造し続ける。恐れや苦痛を感じたらそれを使って自分の内面に深く入り、恐れを感じない全知全能の神の部分と繋がる。自分がやりたいことはどこにいようと、どんな状況であろうと本質は同じです。そして私たちは結局、心の深いところでは、何をしていても、どの瞬間も、こうして学び、自分を発見してゆくスリリングなゲームに心から満足しているのです。
2004.02.12
今日は近所の公園に散歩に行き、久々に大きな木と話をしてきました。梅が咲いていてとてもよい香りが漂い、小鳥達も可愛らしい声でさえずっていました。ゆったり落ち着いた、いい気分になりました。自然の中にいき、話をするたびに思うのは、「不幸」なのは、人間だけだということです。木々はもちろん、鳥も草花も魚も「不幸」を知りません。彼らは今に生きているので、苦痛があってもそれを「不幸」にはしないのです。淡々とただ自分に与えられた生命を精一杯生きているだけです。「不幸」というのは「過去や未来」という幻想と同様に、人間の頭の中につくられますが、その幻想の利用の仕方を間違うと今を精一杯生きることができなくなってしまう足枷になってしまいます。ここしばらく、「恐れ」について考えていたので、何かを「恐れ」ている人たちとの関わりがありました。恐れの感情に突き動かされると、混乱し平静さを失ってしまいます。そこでその「恐れ」は幻想なのだと見抜き、自分の「恐れ」を感じていない内面とつながると自分が人生の主人なのだということを思い出し、人生の主導権を取り戻すことができます。人間が「全く恐れを知らずに生きる」ことは可能だと思います。神や宇宙や愛についての理解が深まれば深まるほど、自然とそういう生き方になるでしょう。私は日々、そう在りたいと願っています。あるいは、一瞬にしてその境地を垣間見ることは日常の中でも時々あります。何かに熱中しているときや、自然の中でリラックスしているとき、愛する存在を前にして至福に満たされる瞬間。でも、ほとんどの場合、いつも自分が大切に持ち歩いている心配事に意識を戻してしまいます。「全く恐れを知らずに生きる」ようになる、ステップのひとつは、自分の肉体的な死を恐れない状態になることです。肉体的な死は、遅かれ早かれ、誰にでも必ず訪れます。私が敬愛しているOSHOと呼ばれている20世紀の精神的指導者がいました。彼の本は沢山ありますが、その中で「死」について、とても印象に残っている話があります。以下、私が共感した内容はこんな感じです。「私たちは、死を体験していないので、本当は死はどんなものか知らない。注射を一度もうけたことのない子供が、注射を怖がれないのと同じだ。死について、他の人が言っていることを怖がることはできる。だけど、その人であっても実際に死んだことがあるわけではないので、本当の死を知っているわけではない。「死」はもしかしたら「気持ちのよい」ものかもしれない。誰も体験していないのだから、誰も本当には知らない。誰が本当に知りもしないことを怖がれる?私たちは「死」を恐れているのではない。本当は生きられなかった「生」を恐れているのだ。ああすべきだった、こうもすべきだった。ああしたかった、これもしたかった。あれを味わいたかった、これも体験したかった。だけど、そんな「生きたかった」のに「生きてこなかった」様々なことを残して自分のタイムリミットが近づいてくる。死んでしまったら、自分が「生きて」体験したかった様々なことは不可能になる。それが怖いのだ。私たちは「死」という「不可知」なものに、「自分が生きたかったけど、生きられなかった」人生の終焉を投影しているのだ。もし、自分が生きたかった人生を全て完了し、完結させていたならば、タイムリミットには何の問題もない。いつ来てもいいと思うはずだ。」私はこの話に衝撃を受けました。本当にその通りだと思ったのです。
2004.02.11
今日は未来の自分からのメッセージを受け取りました。地球での最後の日の自分からのメッセージです。そのメッセージを受け取ってから、なんだか急にこの人生がとてもいとおしくなってしまいました。そのメッセージは突然、雷のように自分の中に落ちてきたわけではなく(笑)いつものように近所のファミレスへ行ってコーヒー飲みながら「バーソロミュー2」を読んでいたら、そういうワークについてあれこれ書いてあり、私も急に何かを紙に書いてみたくなったというわけです。でも、そんな衝動が起きるときは、本当に誰かがメッセージを伝えたい時なのです。実際に、それが、未来という別次元からの自分からのメッセージであろうが、宇宙人からであろうが、私の守護霊だろうが、自分の潜在意識だろうが、はたまた、霊界にいる愛するじいちゃんからだろうが、木の精霊だろうが出所はどうでもよいと思っています。(笑)実際に誰から来た情報か、証明できるものではないですし、結局は今の自分に役立てばいいのです。そして、「バーソロミュー」のような、本当に素晴らしく、信頼できる情報に触れているときには、自分の意識も広がっているので、アクセスできる次元も通常より高くなりとても有益な情報が得られることが多いです。バーソロミューは地球より進化した文化に所属している意識存在ですが、地球の進化をサポートするために、様々な素晴らしいメッセージを伝えてくれています。マホロバアートという出版社から何冊か出版されていますので、ご興味のある人は是非、本屋で立ち読みしてみてください。メッセージは想像力を使うことで受け取れます。難しく考えない限り、とても簡単です。遊び感覚でリラックスして、こんな風に想像してみてください。「今日があなたの地球での最後の日で、今から静かに死んでいくところです。あなたは、流れる川のそばにすわってくつろいでいます。この人生では、自分が心から求めていた豊かさと、感じたい創造の喜びを満足いくまで味わうことができました。今、どんな肉体的、霊的な感覚を味わっているのか。そして、この人生では、どんな豊かさや喜びを味わったのか懐かしく回想してみてください。」その時の私はこんな風に感じていました。ああ、故郷に帰る時がきたなあ。この人生、いつだって、私は幸せでした。私の人生は、このことを自分で発見してゆく旅だったんですね。一度たりとも自分が望んでいないことが起こったことはなく、一瞬たりとも宇宙から愛されていなかったことはありませんでした。私が創造してきたのは、「はちきれるような喜び」と「光輝く」体験の数々です。今日、私は地球での最後の日を迎えました。肉体は、ピンク色の美しい柔らかな花びらと羽毛に包まれ、心地よい暖かさを感じています。次第に肉体が軽くなり、全てのものがより鮮明に見えてきました。それと同時に目に見えるものすべてが光り輝きはじめました。すべての存在は、確かに光輝いているのです。肉体の目では見えなかった、美しい霊的な光です。そして人々は何を思い何を感じているのか、手にとるように分かります。自分の人生の全体像が見えてきました。全ての出来事がどんな風に繋がっていたのか分かります。全ては美しく、完璧でした。自分の人生に関わってくれた存在すべてに、感謝せずにはいられません。皆それぞれのやりかたで、心から愛してくれていました。そして沢山の気づきと癒しと喜びというプレゼントを手渡してくれました。誰もが皆、出会う約束をしていた仲のよい人たちばかりです。一番激しく憎みあったあの人でさえ、今はお互いに大笑いしてこのゲームを懐かしく思い出しています。私は、一旦その場を離れ、会いたい人に会いに行きました。会って伝えたいのは、感謝とそして永遠に愛しているという思いです。この人生の後半では、一人でも多くの人に、「無条件の愛」と「地球と人類の素晴らしい可能性」を伝えたいと思い、エネルギーを注ぎましたが、それは何よりも自分に深い喜びを与えてくれました。本当にこの人生は楽しい体験でした。地球で人間になるという選択をしないと経験できないことばかりです。故郷の霊界に戻って、少しゆっくり休養したら、また地上でのゲームに参加したくなるかもしれません。いつでも戻ってこれるけど、ここで地上にしばしのお別れをしましょう。愛する地球、愛する人々、愛する全ての存在。本当に楽しかったです。有難う。
2004.02.10
昨日のつづきです。私が出会ったどの人も、どの社会的集団も、宗教団体でさえも、程度の差こそあれ、何かを「恐れて」いました。愛は恐れを知りません。「無条件に愛されている」ことを信じていないから恐れているのです。だから時に人をコントロールして従わせる必要を感じるのです。私がカウンセリングをしていても、沢山の人が占い師や、霊能者や、相談した他の人たちに脅された過去がありました。悪い因縁があるから、家相が悪いから、先祖が怒っているから、印鑑の相が悪いから。。。私もある宗教団体を去るときは、そんなことしたら「地獄に落ちる」と言われました。なんでそんなことで、神が私達をいじめる必要があるのでしょう。例えば愛する子供のために、わざわざ落ちたら怪我をするような落とし穴を作っておくでしょうか?あり得ません。でも、それを言った彼や彼女たちの、神や愛の理解の程度からすると、それは本人にとっては真実に思えるのです。無条件の愛など嘘っぱちにしか思えないでしょう。家相、墓相、印相、すべて条件を満たさなければ幸福にはなれないと信じているのです。その宗教団体に属していなければ、地獄に落ちると信じているのです。どうか、あなたは無条件の愛を信じてください。私の中の神の声は、「無条件の愛と許し」の立場を崩さず、どんな時にも「恐れ」を感じさせるような信念を、それは真実ではないと言い続けていました。常に私が信じきれて、その通り行動できるとは限りませんが、やっぱりそれは真実なのだろうと思います。「あなたが失うものは何もない。失うことのできるものは全て幻想で真実ではないもの。ただの幻だ。価値がある真実のものは増えも減りもせず、永遠に貴方から奪われることはない。あなたは自分で思っているより、はるかに力があるし、大きい存在だ。」あなたは死なない。肉体を離れても永遠に魂として生き続けるどんな選択をしようと失敗することはない全ては平等で優劣はない見捨てられることはない不完全はなく、全て完璧だあなたは常に安全だ全て許されている誰もが正しい被害者はいない加害者もいない全ての存在が合意したことでなければ起こらない必要なことしか起こらない誰もが神だ誰もが無条件に無制限に愛されているそれらが私の神から聞こえてくる言葉の数々です。地上にいる親や社会が私に言うこととは全く違います。「無条件に愛されていること」が分かれば「無条件に愛したくなる」ものです。それは、新しいより幸福な世界を作っていくための「恐怖感」にかわる動機です。私が最も価値があり、得たいと思っていたのは「絶対的な安心感」「心の平安」です。これを手に入れている人は地上では、まだほんの一握りのひとたちです。そして彼らはこれらのことを深く理解できた人たちなのだと思います。そしていつか、この地上にいる人たち全員がそれを得られる時がきます。それほど遠くない将来。今、そのために私が自分とそして周囲の人々に対してできることを楽しんでやり続けたいと思っています。
2004.02.09
昨日の日記で、神様との出会いについて書きましたが、「無条件の愛と許し」の神を知り、絶対的な安心感の片鱗を知るようになって徐々に見えてきたものがあります。世界の多くの人はまだ「条件つきの愛」しか知りません、というか思い出していません。「条件つきの愛」は「条件を満たさなければ愛されない」ということで、「恐怖感」を引き起こします。そして、この世界では現在「恐怖感」に突き動かされて皆、動いています。私にとって本当の「信仰心」というのは、創造主つまり宇宙の無条件の愛を信じるということです。宗教団体に属することでも、手を合わせることでもありません。もし「恐怖感」を感じたら、それはどこか真実からピントがずれた合図だと思ってます。今は「信仰心」でも、近い将来は、きっと当たり前の「常識的な社会通念」となって私達を恐怖のない幸福な社会へと導いてくれるはずです。でも現在は、親も周囲の大人も社会も、私達をコントロールするために「恐怖感」を安易に使います。ある時は、愛情の名のもとに。ある時は、単に従わせるために。自分の神と宇宙に対する不完全な理解とそれに応じた程度の信頼を表現し続けます。そんなことするとバチが当たるよ。親にそんな言葉を使ったら閻魔様に舌を抜かれるよ。化けてでるよ。孤独になるよ。地獄に落ちるよ。不幸になるよ。捨てられるよ。誰にも相手にされなくなるよ。クビにするぞ。食べられなくなるぞ。枚挙にいとまがありません。こんな言葉による精神的虐待と脅しによるマインドコントロールは、家庭で、そして社会の中の人間関係の中で、結構当たり前に行われていると気がつきました。自分を檻に入れておくことに慣れてしまうと、自分が自由に動けることも忘れてしまいます。その虐待の結果、必ず身体にはストレス症状が出てきます。様々な心の歪みや病気や自虐や暴力的行為なども。。。暴力や残虐性などは人間の本質的な性格だと思われていますが、でも違います。それは無知とストレスのせいです。繰り返し真実でないことが教えられてきたせいです。嘘であると同時に、誰も幸福にしない不完全な理解です。飛ぶことは不可能で、それを考えただけで大変な罰が与えられると信じている親鳥。そしてその親鳥から口移しに愛情と信念と恐怖感を与えられて育った雛鳥。いつかその鳥の種族にとっては自分達が飛べないということはごく当たり前のことになります。私にも沢山の恐怖感が自分の中に渦巻いていました。神様は魔法の杖を使って、私の問題を一気に解決してくれるようなことはしてくれませんでしたが、もちろん、常に傍にいて私が成長するために必要な援助は常に与えてくれたので、どんなに苦しいときでも、自分が正しい道の上にいることは疑いませんでした。自分が苦痛を感じるたびに立ち止まり、その原因をみつけ、人ではなく、自分の行動と考え方(信念)を変えていく。その作業を延々とやるしかなかったのです。もぐらたたき状態です。(笑)いったいいつまで続くんだと溜息をついていました。時には、自分に起こったことがとても不当だと感じ、被害者だと思うこともありました。親や社会が言っていた「恐怖すべきもの」は存在するのかもしれないと疑い始めることも。でも、それでも「宇宙の無条件の愛と許し」を信じる努力を続けました。神以上に、信頼できるものはなかったから。許す以外に、精神的な苦痛を根っこから絶つことができないと分かっていたから。それにそれが真実でないなら、この世の人生など、本当に生きる価値がないと思っていたので、とことんやってみて、生きる価値がないようなものだと自分で納得できたら未練もなくなるそこまでは信じてやってみようと思っていました。明日につづく
2004.02.08
私が育った家庭は、日本ではごく一般的な仏教系宗教団体の檀家です。毎日、母は、仏壇に花とお線香とお供物を供えて鐘をチーンと鳴らす。お彼岸や命日などに法事をしたり、お墓参りをするという感じです。子供の頃に住んでいた家には、そういえば神棚もあったな。でも、私は子供の頃からキリスト教に関心を持ってました。子供ながらに、なんかカッコいいと思っていたのです。ステンドグラスに彩られた教会の雰囲気や行事は、お寺とは全く違うもので、とても洗練され美しく楽しく感じたのです。賛美歌を歌う聖歌隊の衣装はまるで天使のように可愛らしく見えました。家族で宗教に関心を持っていたのは、私ただ一人でした。両親はどちらかといえば、宗教嫌いでしたが、子供が日曜日に礼拝に行き、「両親を大切にしなさい」と教わってくることくらいはよいことだと思っていたのでしょう。その後も、正式にクリスチャンになることはありませんでしたが、縁があったときには時々、いろんなキリスト教系の宗教団体(ときには異端と呼ばれていた団体もありましたが)礼拝に顔を出していました。教会に行ったり、礼拝に出るとなぜか心が落ち着くのです。でも、私が成長するに従って、両親は宗教的なことに関心を持つことに危険性を感じて、次第にあからさまに反対するようになりました。「宗教は弱い人間が、頼るものだ。お前はそんなに弱いのか。」「宗教は危険だ。心に毒だ。」でも、両親に心配されながらも、私の宗教に対する関心は消えませんでした。私が求めている大切なものがそこにあると、なんとなく感じていたからです。私はその頃は、何故両親がそんな風に言うのか、理解できませんでしたが、今はよく理解できます。私はこの両親以外に、自分が信じて頼れる親となるものを探し続けていたのです。神を信じていない両親が怯えるのも無理はありません。私の両親は、本当に善人で真面目に生きている素晴らしい人達なのですが、私は、いつも絶対的で完璧に信頼できる何かを求めていたので、それは人間との関係、そして人間社会の中で得られるものではないのではないかと、うすうす感じていました。その後も、いろんなことがありましたが、私が神という「本当に信頼できる親」とやっと出会えたのは、20歳の頃です。その頃には、自分の人生がにっちもさっちも行かなくなり、絶望的な状態が続いていましたが、私はその頃に所属していた、やっぱりキリスト教系の宗教団体での中で祈りを通じて、神と出会い、親しくなっていきました。実際のところは、人間関係がことごとく上手くいかず、その宗教団体の外ではもちろん、内部でさえも、皆の嫌われ者となり問題児として誰にも理解されない孤独感の中で、神しか心を許せる話し相手がいなかったのです。私の出会った神は、どんなときも絶対的な「無条件の愛と許し」の存在でした。どんなに自分と人を責め、嫌い、疑っていても、その神からの声は「そんな貴方を心から愛している、すべて許している。安心しなさい」でした。一回だけの神秘体験というものではなく、常に祈りの中で答えてくれる静かな声として神の存在を身近に感じるようになりました。神さまは、怒りや憎しみや不安、嫉妬、欺瞞、不寛容、不親切、無理解、復讐心など、人間がもつ様々な否定的な感情を一切もたない、絶対的に「愛と平和」しかない存在でした。私は最初から神とはそういうものだと思っていたので、疑問なく受け入れることができました。その出会った神との付き合いは、その宗教団体をやめた後も続きました。宗教団体が信じさせようとしていた、自分以外の人間が創り上げた偶像の「神」ではなく、私は、自分の中にいる「神」と出会っていたからです。自分が神から、無条件に愛され許されていることを知ってから、私も神様のように、起きることすべて、出会う人全てを無条件に愛し許したいと思いました。今も、神の立場から理解してみようと日々試みています。でも不思議なことに、人々は「無条件の愛と許し」を本当には求めてはいません。それは私達が「完全な自由」を望まないのと同じ理由です。それには、自分の人生に対して、全面的な責任を負う意識が必要だからです。だれだって不都合なことは人のせいにしておいた方が楽だし、その方が慣れています。でも、本当はちっとも楽はないんですけどね。愛と自由と平和への道を阻止するのは、常に人の心の中にある「恐怖感」です。神と出会ってからは、私は自分の心の中の「恐怖感」消すにはどうしたらいいのか、ずーっと、ずーっと、考えて取り組んできました。神に出会った後でも、自分の人生が余りにも苦痛に満ちていたので、普通の人のように普通の平穏な日々を過ごしたいというのが一番の願いでした。次の日記では、この「恐怖感」とどう取り組んできたか、書いてみようと思います。明日につづく。。。
2004.02.07
こんな実験があります。小さな子供の目の前に、子供の好きなチョコレートを置きます。一皿には、ほんのひとかけら。もう一皿には、もっと沢山のチョコレート。そして、子供に尋ねます。今、食べるなら、ひとかけらのチョコだけ。もし、10分待てるなら、もっと沢山のチョコを食べてもいいよ。どっちにする?言葉がようやく通じるようになった3歳位の子供は、間髪いれず「今食べる」と言います。これは、その年齢の人間には、まだ時間の概念がないので、今手にはいらないものは、この先もずっと手に入らないというのと同じ意味だからだそうです。もう少し年齢が高くなると(正確な年齢は忘れましたが多分5、6歳だと思います)忍耐強い性格の子供は待てるようになります。そしてもっと年齢が高くなると、全員10分待てるようになるそうです。今、この瞬間のことだけに焦点を合わせて生きることが必要だとよく言われますが、それは、刹那的に、今さえよければ後はどうでもよいということとは違います。様々なスピリチュアルな情報からすると、地球に住む現在の人類の進歩の程度、つまり霊的な理解の段階は、例えて言うなら幼稚園から小学校の低学年生くらいだそうです。つまり、霊的には殆どそこで成長が止まっているということでもあります。TVでの国会中継の議員たちの子供の喧嘩みたいな様子を見ると、その話はやけに真実味があります。目の前の短期的な損得に対する判断はできるけれど、長期的な影響や因果関係による結果を考慮できない。そこまで宇宙の仕組みを理解してない段階です。未だに環境汚染を引き起こす行為をやめられず、長期的な争いに終止符を打てないという状況を見れば、人類は、あまり思慮深く賢い生き物とは思えません。先に待つ、より大きな幸福。それがイメージできたり、理解したり信頼することができないなら、私達は今、目の前のひとかけらのチョコを食べるという行為をやめようとはしないでしょう。誰もが、この10分待つという労力の後、得られるプレゼントが心躍るものだとはっきり分かっていれば、辛くても踏ん張って乗り越えて行けるのです。成長を可能にしてくれるのは、私達のイメージする力=想像力です。子供たちが成長するにつれて、今、手に入るひとかけのチョコを我慢できるようになったのは、この想像力が豊かになったおかげです。「10分後に今より大きな喜びを手に入れた自分の姿」を想像できるようになったということです。でも、一体私達人類そして地球はどうなってゆくのでしょう?今、刹那的な快楽や快適さや飽食などを我慢してまで本当に手にいれる価値のあるものなどあるのでしょうか?今、自分達人類の存続の危機に面していることはなんとなく分かるけど、その危機を本当に避けることができる方法などあるんでしょうか?そんな私達には、宇宙の仕組みや私達の進化の先にある姿を教えてくれるお兄さんやお姉さんの存在がどうしても必要です。特に霊的に幼い私達人類には大きな励ましと繰り返し霊的真理を教えてもらうことが必要です。もちろん、私達が助けを呼ぶ前から、沢山の先輩が地球の進化を万全な体制で援助してくれていますので、これからは、その援助を私達がいかに意識的に受け取るかがとても大切になってきます。宇宙でも地球の中でも、霊的な理解の深さは個々人によって差があります。それは、霊的に高いとか低いということではありません。全ての存在は神と呼ばれる生命エネルギーからできています。宇宙には唯一つの材料しかないのです。だから、他より劣った魂も、優れた魂もありません。皆同じで最高級品です。幼稚園生が大学生より劣っているわけではないのと同じように。自分自身を思い出すゲームをしている中で、先までゲームを進めている存在と、まだゲームの最初の段階にいる存在が一緒に楽しんでいるだけです。地球外の先輩たちから、人類の次の進化の段階について直接教えを得る人それを、地球上で霊的なことに関心を持ち始めた人たちに伝える人まったく霊的なことに関心ををもっていない人たちに、目覚めと気づきをの機会を与える人それぞれの霊的成長の段階で、その人にしかできない役割と仕事があります。どの役割も全く同じ様に、重要で貴重で素晴らしい宇宙に対する貢献です。そして、どの段階でも一歩自分が成長すれば、より大きな喜びと感激を味わうことができます。私達が今、地球にいるということは、この地球の霊的な理解の段階でゲームすることを何よりも刺激的で楽しいことだと思ったからです。それ以外の理由はありません。だから、今のこの段階でしか味わえないことを一緒に思う存分味わってみませんか?
2004.02.06
昨日、目の前で、ちょっとしたイザコザが起こりました。ほとんどのイザコザがそうであるように、原因は、ほんの些細なことです。ある人が自分の知らないところでされた決定を知り、自分がとても不当に扱われたと感じ、感情的になって文句を言った。文句を言われた人は、その決定をした本人ではなく、ただ、それを伝える役目の人だったが、文句を言われたことにとても傷つき、落ち込んでしまった。そして、決定した人は、誰かが決めなければならないことを知っていたし、文句が出ることも覚悟していたけど、全体と、そして一人一人が最大限に利益を得られるようにと誠意をもって決めてくれていた。その後はどうなったのかしらと気になりましたが、立場上、私があまり口を出せることではなかったので、そのままにしておきました。今日はゆっくり本を読みたいと思っていたので、ファミリーレストランに行き、コーヒーをお代わりしながら、本と一緒に時間を過ごしました。今日、読んだ本は、ニール・ドナルド・ウォルシュ著の「新しき啓示」です。「神との対話」シリーズという有名な本の著者でもあります。彼の書いた本は、どれも本当に素晴らしい内容です。その本を読みながら、昨日、目の前で起きた出来事を思い出していました。誰か一人の心の中から始まった怒り(恐怖)は、ドミノ倒しのように次々と人に伝わり、多くの人を傷つけ、そして最後は本人のところへ何倍にもなって返ってくる。。。それは、天罰ではありません、ただの「結果」であり「因果関係」です。あなたが世界に送り出したものが、旅をして、仲間をつれて、あなたのもとに戻ってくる。それが宇宙の法則だからです。それは「自分にして欲しいことを、人にもしてあげなさい」というイエスの言葉でもあります。どんなに潜在意識を使って願望実現をしようとしてアファメーションを唱えていても、この法則を外れては、出来事は起こりません。でも、一番最初にドミノを倒した人は加害者なのでしょうか?「国家でも集団でも個人でも、攻撃するとき、自分達を攻撃者だとは考えていない。みんな、自分は防御していると考えている。」(P205)そう、その文句を言った彼女も自分を守ることに必死だったのです。すでにそれ以前に誰かに攻撃されていると感じて、怯えているところに、さらに恐怖感を感じるような出来事が起こり、パニック状態になり、自分を守るにはもはや相手を攻撃するしかないと感じて、文句を言ってしまったのです。世界中で同じことが起きています。イラクもアメリカも、決して、自分達が加害者だとは思っていないでしょう。自分達は被害者で、このまま何もしなければ滅亡させられてしまうという恐怖に突き動かされて、相手を攻撃し、殺人を繰り返しているのです。「正当防衛なら相手に対して何をしてもかまわない」「報復なら、相手を攻撃する正当な理由がある」この考えを捨てない限り、争いは終わりません。全ての攻撃は、攻撃する本人にとってみれば「正当防衛」でしかないからです。イエスは攻撃に対し、「右の頬をぶたれたら、左の頬を差し出せ」と言っていました。それは、「正当防衛だと言って反撃してはいけない。あなたの所でその恐怖と怒りが世界にかけめぐるのを食い止めなさい。」ということなのだと思います。「人間はもともと、ひどいことをするようにはできていない。人間の基本的な性質は、愛だ。ひどい人間になるのは、信念のせいだ。だから(恐ろしい出来事のさなかでも)こうたずねてごらん。「私を傷つけなければ自分が癒されないと感じるなんて、いったい何にそれほど傷ついているのですか?」と。」(P204)怒りや憎しみを引き起こす「恐怖感」は「理解の欠如」からきます。神、愛、世界、自分などに対する霊的理解の欠如ということです。それは責めるものではなく、癒される必要のある霊的無知という「病気」なのです。「どうしてあなたがそう感じるか理解できますよ。」「あなたは、ひとりではありません、あなたは狂っているのではない。あなたのような信念や考えや体験があれば、他の人もそういう結論を出すかもしれませんね。」(P206)その言葉だけが、争いではなく、話し合による相互理解と問題解決への扉を開くことができます。私はそのイザコザを目にした時に、怒りに震える彼女に、何か言葉をかけてあげればよかったなと思いました。そうすれば、怒りの輪廻を止められたかもしれません。少なくとも、その輪を小さくすることはできたかも。今度目の前で起きたのなら、その怒りの輪を小さくする働きかけをしてみようと思います。
2004.02.05
何気なくTVを見ていたら、「こんなに自分が踊ることが好きで、踊っていればそれだけで本当に幸せなのに、お金まで貰ってしまっていいのかしら?と思いながら仕事をしていました。」という言葉が耳に飛び込んできてハッとしました。これが本来の私達の姿で、これが本来の仕事との関わり方であるはずです。確かにこれは真実だと私の心は言っています。でも現在、自分がそういう状態で収入を得ていないことに気がつきました。時間を忘れてまで、熱中してやれることは、「歌を歌うこと」と「文章で何かを伝えること(楽天日記)」でも、どちらからも収入を得ていません。私が実際に金銭的な収入を得ている「スピリチュアル・カウンセリング」の仕事は、無料でもいくらでもやっていたいという類の行為では決してないのです。もちろんやりがいや喜びもありますが、「責任感」「義務感」も伴い、どこかで身を削るような仕事です。私のこの活動を支えてくれている友人から、スピリチュアルカウンセラーの江原啓之さんも、自分の著書の中で、「自分にとって個人のカウンセリングは義務なのです。決して楽しい行為ではありません」というようなことが書いてあったと聞いて、江原さんもそうなのかと、とてもホッとしたことがあります。スピリチュアル・カウンセラーという役割は、霊的な医者みたいなものです。身体を主に扱うお医者さんに「この仕事は楽しいですか?」と聞いて、「毎日楽しくてワクワクしてるし、嬉しくて仕方ないよ。」という答えが返ってきたら、そのお医者さんに診察してもらいたいと思いますか?私だったら、自分が苦しいときはあんまりウキウキしっぱなしのお医者さんは遠慮したいです。特にその人がメスを握りながら「ワクワク」してる外科医だったら、ちょっと心配です。大抵のお医者さんが、一番嬉しい瞬間を聞かれたら、「自分の患者さんが元気になって退院した時」と答えると思います。それまでの健康が回復されるまでのプロセスは決して楽しいことばかりではありません。むしろ病と闘い、厳しい現実を受け入れ、辛いことの方が多いでしょう。でも、だからこそ、それを乗り越え、回復し退院するときの喜びはひとしおなのです。私達、霊的な医者も、本人の自己回復力と自己治癒力とそして成長への欲求を最大限サポートし、引き出し、励ますのが本当の仕事です。でもそれは、時には、一緒に苦しんだり悲しんだりすることでもあります。その感情を共有すること自体楽しいことではありません。結構シンドイし、重いのです。でも、カウンセリングを受けた後、その人が心からの笑顔を取り戻してくれると本当に嬉しくなります。それが私達がこの仕事を続けてゆける一番のエネルギーなのです。でもやっぱり、今の私が、この「カウンセリング」という行為を「人類に対する、隣人に対する愛と義務感」でやっているのは本当です。他にもっと楽しく人々を愛してサポートできる方法があるならば、そちらをやりたい。江原さんが、「自分の考えていることを本にしてより多くの人に見てもらう、知ってもらう」ということをメインにして活動されるようになった気持ちは、とてもよく分かるような気がします。ペンをもって「スピリチュアルな観点から真実を伝える」という方法は、とても効果的です。自分があまり辛い思いをせずに天界の法則を伝えることができ、沢山の人に愛と希望を伝えることができます。私も、江原さんと同じように、文章で伝えてゆくということの比重を高くしてゆきたいという気持ちが強くなってきました。私が「時間を忘れて熱中できること」「お金をもらえなくてもやりたいこと」という条件にも合います。もちろん楽天日記に書いているだけでは、本当に「お金はもらえない」のですが(笑)まあこれから奇跡的な事が起きて、収入もどうにかなってゆくでしょう。まずは、自分の「できること」と「やりたいこと」を丁寧に分けてゆき、それから、「本当にやりたいこと」に情熱を注ぐことで、それを続けてゆく環境は必ず用意される人間関係、経済的な必要性、その他の環境も含め、全て満たされてゆく。そういう宇宙の法則と流れを信頼しながら、今この瞬間、ワクワクすることに焦点をあてて、それに情熱を注いでゆきたいと思います。
2004.02.04
1月20日の日記で紹介した夢がかなう「10枚のカード」の使い方という本に従い、ちょっとしたゲームを楽しんでいます。心がフフッと喜ぶメニューを10個、本書についているカードにひとつづつ記入します。それを枕元に置いて眠り、朝起きたら1枚引いてください。カードの内容を、その日のうちに自分のために心を込めて行います。これを3週間続けると、自分に思いもかけない変化が訪れます。というゲームで、ご興味のある方は20日の日記を見てね。ゲームは21日間続けますが、今日は16日目でした。ゲームを始めてみると、「カードの内容を、その日のうちに自分のために心を込めて行います。」というのが、なかなか出来ないのです。現在、自分の自由な時間はたっぷりあるのでいくらでも時間とエネルギーを注ぐことはできるのに、いざ、カードを引き、それをしようとしてみると、ちっともワクワクしないし、楽しく感じていないメニューがいくつもあることに気がつきました。つい先日、自分が楽しめると思っていた事柄なのにです。そして一番、困惑してしまうのが、「手芸をする」というメニューでした。最初、ビーズ細工をやってみたいなと思ったので、もうちょっと広い意味で「手芸をする」というのをメニューに加えてみたのです。7日目に初めてこのカードを引きました。あまりワクワクしなかったので、適当に自分の服の修繕をして済ませました。15日目に再びこのカードを引きました。前回、手芸ということ、つまり何か手をつかって物を作るという作業にはあまり興味がわかないということが分かっていたのでウダウダとしてたら、また夜になってしまいました。(笑)仕方がないので、適当な理屈を考えてやったことにして、今日のことは忘れることにしました。2日間とも、ちっとも心を込めてなんてやってません。。。そして、昨日に引き続き、今日、16日目にまた「手芸」のカードです。カードを引くときは、今の自分にとって一番ふさわしいカードが与えられるという絶対的な信頼のもとで引いているので、このカードを引いたときは、「ゲゲッ」って感じです。宇宙がこの「手芸」を通じて、特別に何か伝えたいことがあるということで、そしてこのメニューで学ぶことはまだ完結してないぞと言われたのだと思いました。今まで、心を込めてメニューをしていなかったことを反省しつつ、今回こそはと思い、電車にのり、ビーズ細工の材料を買いにいきました。手芸店でビーズ細工の本を眺め、どんなものを作ろうかと考えたのですが、具体的に決めて動こうとすればする程、心が抵抗して重くなるのです。かなり長時間、その手芸店で粘り、自分がやりたそうなものを探し回ったのですが、結局最後にはっきり分かったのは、「手芸」なんてちっともやりたくないのだということでした。(笑)それに気がついたことで、そして好きでもないことは別に無理してやらなくてもいいんだと気がついて、ようやく重くなっていた心がすっきり軽くなりました。(笑)手芸店を出て、喫茶店に入り、自分のふふっと喜ぶはずだったメニューを、もう一度確認しました。頭の中では、「楽しめるし、やりたいこと」だと思い込んでいたメニュー。でも、実際、体験してみたら、面白くもなんともなかったメニューを3つほどピックアップして、他の内容に書き換えました。自分の人生のメニューも、それによって学ぶ必要のあることをしっかり学び終わり、気づきを得ることができたのなら、こうやって自分で書き換えられるのです。人は体験してみないと、本当の自分の欲求は分からないものですね。だから、まずは体験してみなさいと、心を込めてやってみなさいということだったのです。この手芸のカードはそれを教えてくれるためにあったという訳です。どんなことが楽しめるか、逆に楽しめないのか、体験してみるまでは分からないよ。だって、この世界はワンダーランド、驚きを楽しむ為にあるのだから。だから今、この瞬間、宇宙があなたに与えている人生のメニューを、心を込めて体験してみることが大切なんだ。宇宙のメニューは完璧で絶妙さ。あなたが、自分のワクワクすることを見つけるために一番近道のメニューを毎日用意してあげてる。だからあなたがやることは、ただ「心を込めてやること」それだけだよ。
2004.02.03

昨日のつづきです。霊的な自分が認識できるようになると、「どこまでが自分なのか」という認識が徐々に広がってきます。自分自身、自分の愛する家族、自分の所属する民族、国家、世界、人類すべてが自分だと感じはじめます。そして自分の永遠性と無限性にも気がつくのです。この宇宙は意識に満ちています。全ての物質には意識が宿っています。海や山や木や湖、地球や月、雪の結晶や水の分子、猫や犬や小鳥、岩や小石などなど生命が宿っていないと思われているものも、実際には霊的には生命があります。生命とは意識のことです。どんなものに対しても、コミュニケーションは成り立つことを知りはじめます。心の言葉で話しかければ返事が返ってくるからです。そして、自分は人間という特別な魂だと思っていたけれど、猫の意識や海の意識、木々や花の精霊たちと繋がり、それらと自分の魂は同じものだと分かるにつれて、自分と自分以外だと思っていた境界がますます曖昧になり、解けてゆきます。動物や植物、全生命、地球、銀河系、宇宙、そして全て。。。世界に存在する全て、目に見えるもの、目に見えないもの全てが文字通り自分そのものなのだという認識に到達します。「全てはひとつ、全てはわたし」という「自己認識」です。そこまで広がった意識にとっては、「信頼」という言葉は意味をもちません。「信頼」というのは、今この瞬間の「自己認識」を広げる(時には一時的に狭める)ために使う道具だからです。人は何を信頼するかで「自分」を規定します。「信頼」しかない世界の中では「信頼」は認識できません。「愛」しかない世界の中では「愛」は認識できません。何かを認識するためには、そうであるものと、そうでないものという比較できる2つが必要なのです。「そうであるもの」と「そうでないもの」「信頼できるもの」と「信頼できないもの」「愛であるもの」と「愛でないもの」私達は2つの間で揺れ動きながら、真実を見つけてゆきます。これこそ、この世界での私達のゲームです。「ゴラム」は何を「信頼」するかという選択に葛藤しながら、より広い「自己認識」を模索しています。彼が、自分にとって大切なのは、肉体を生き延びさせる事だけではなく、何かまだよく分からないけど、自分の心の中に感じる「安心感」や「優しさ」や「愛」それを感じさせてくれる人間との繋がり、そっちの方がより大切なのだと感じると、「自己認識」が変化するので、見た目もまったく違う生き物になるのかもしれませんね。「ロード オブ ザ リング」の第三話、早く見たくなってしまいました。(笑)
2004.02.02

昨日の続きで「ロードオブザリング 二つの塔」の後半を観ました「ゴラム」は何を信頼するかでいつも葛藤しています。自分を信頼して守ってくれそうな「人間」を信頼するのか。自分が考えている、誰も信頼せずに生き残る方法(たとえば万能の指輪を手に入れること)を信頼するのか。最初、「ゴラム」にとっては自分の肉体的生命を守ることが一番大切なことでした。でも、次第にフロド(主人公の人間)に信頼されることも大切になってきたのです。 宇宙や自分を信頼する。すべては完璧だと信頼する。「愛」によって全てはうまくいくと信頼する何をどの位「信頼」できるのか。私はすべてその人の「自己認識」にかかっていると思っています。「自己認識」というのは、一体自分は誰なのか?ということです。「アイデンティティー」とも呼ばれます。人の価値観というのは、この「自己認識」によって創られるからです。「自己認識」が変化すれば、「価値観」が変化します。逆に「価値観」が変化することで、「自己認識」が変化することもあります。自己認識(アイデンティティー)と価値観は同じコインの裏表なのです。そして、「自己認識」の広がりと価値観の純化こそが「霊的成長」です。「霊的成長」に伴い、内的な体験がより愛と至福に満ちたものになるのは言うまでもありません。一番狭い「自己認識」は、自分は、肉体でしかないという認識です。肉体を生き延びさせることが最も価値のあることとなるので、目に見える物質的なものに価値をおきます。彼らは肉体が心地よく感じることだけを求め、肉体を安全に保ち、肉体を養う食物を得ることのみに関心を持ちます。物質というのは、すぐに消えてなくなる幻想で、有限です。有限なものだけを求めているために、同じように考えている人たちとの間には争奪戦がくりひろげられ、常に戦いに勝ち抜かなければならないと思っています。次の段階は、目に見えない精神的(霊的)なもの例えば、「愛」「勇気」「自由」などに価値を見出すようになります。そして「自己認識」がより広がりをもつにつれ、自分は、肉体以上の存在であり、霊的な魂と呼ばれるものが自分の本質だと気づきはじめます。単に、肉体的に生き延びることにはあまり価値を置かなくなり、(かといって命を粗末に扱うということではありません)それよりも、霊的な成長が最も大切だと思うようになります。明日につづく。。。
2004.02.01
全27件 (27件中 1-27件目)
1


![]()