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東京駅丸の内口界隈今年の六月、梅雨は予報が曇・雨でも乾燥した晴・曇りの場合が多く、快適な梅雨空である。かなりJRを利用したので”大人の休日倶楽部”から丁度ホテルで昼食をとる位のクーポンを貰っていた。気が付くと有効期限が6月一杯で梅雨の晴れ間を縫って東京駅の改修工事進捗度の確認を兼ねて八重洲北口直前に有るホテルメトロポリタンに出かけた。地下鉄大手町駅を降りて日比谷方向に進むと行幸通りに出る。この東京駅と皇居和田倉門を結ぶ「東京都道404号皇居前東京停車場線」は「行幸通り」と通称されており、道路幅は73mもあるが長さは700m余りである。 以前から「行幸通り」は”ぎょうこうとおり”なのか”みゆきとおり”なのか分からなかった。銀座の「みゆき(御幸)通り」と紛らわしいので多分”ぎょうこう”が正しいのであろう。この道路は外国大使が天皇に信任状を届けるため東京駅から儀礼用馬車に乗り変え、皇宮騎馬隊に護衛されて皇居に向かうための馬車道なのである。普段は歩行者に開放されている。馬車を選ぶか自動車を選ぶかは大使に任されているようだが殆んどの大使が馬車を希望するそうである。現在は東京駅がまだ工事中なので日比谷の明治生命館からのようで、車を選ぶ大使が多いが東京駅からの行列が復活すれば多くの大使が皇居に向かって真っすぐのこの”行幸通り”の馬車列を選ぶ大使が多くなるのではないだろうか。馬車道・歩道、イチョウ並木、車道、並木、歩道とあのシャンゼリゼよりも広い云う通りは高層ビルの都心に有って最も大きな空を持つ通りであろう。 例によって前置きが長くなってしまった。実はその行幸通りの下がすっぽり地下通路になっている。ちょうど丸の内ビルと新丸の内ビルの間を通り抜けている。こういった地下空間はよくあるが大抵は商業施設で埋まっているのにここは太い柱列があるだけで何もない。ラッシュ時は知らずウィークデイの昼時人影はまばらで柱だけが目立ち、正面が東京駅中央口とはとても思えない空間である。災害時避難所、放射能地下シェルター(?)など何かの都市計画コンセプトがあるのだろう。何しろ日本一のビジネスセンターの地下である。この地下通路の壁はフォトギャラリーになっていて界隈の景色や風物の写真で埋まっている。 今度じっくり時間をかけて見てみたいものであるがここで2,3紹介しておこう。江戸時代神田明神の神輿が江戸城に繰り出した、そこで春の明神祭りには丸の内界隈のOL達によって女神輿が丸の内仲通りを練り歩くそうである。江戸城天守跡、当然ながら江戸城には大阪城とほぼ同じ規模の天守閣があったが明暦の大火で焼失した。すぐ再建計画が起こり石垣までは完成した時あの家光の異母兄弟で名補佐役の保科政之の「財政逼迫の折今はその時に有らず」の言で取りやめになった。その石垣は今東御苑で一般公開されている。要するに天守閣で威厳を誇示しなくても江戸幕府の立場は盤石であるとの自信が天守の再建を辞めた理由であろう。 城の石垣と桜はいつどこでも良い取り合わせ。 濠に憩うオシドリ夫婦、離婚訴訟も例が無いと云う彼らの世界、夫婦喧嘩はどのように起こりどの様に修まるのだろうか。 地下街から地上に出ると東京の町も大分洗練されてきた様子が見て取れる。再開発されてすっかり洗練された丸の内仲通りには木陰にベンチがあったり花壇やオブジェが並び、ブランドショップなども有りパリやニュウヨークにも劣らない良い通りになった。この日確かめたかったものの一つに東京中央郵便局の再開発がある。東京駅に隣接するこの再開発は郵政民営化で一気に現実化し、計画がたてられた。当初は内部に資料室的な設計をしていたが時の郵政担当大鳩山邦夫氏が抜き打ち視察して激怒、設計し直させ外観下部に写真のように旧局舎の面影を残す設計になった。この辺りの再開発には日本工業倶楽部や銀行協会ビルなど同じコンセプトの再開発ビルが多く見られる。先日の新聞で中央郵便局のビルがオープンしたとの情報を得ていたので見学しようと訪れたが、オープンしたのはオフィス棟で郵便局は7月中旬のオープンだそうである。そのうち田舎の友に手紙でも書いて投箱しに行こうと思っているが今でも日付けの付いたスタンプを押して貰えるのだろうか。
2012.06.30
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アジサイの花先日の台風は大変でしたね。我が家は10階建ての8階に位置し、強風はサッシの窓ガラスに容赦なく吹き付けて凄い音を立てます。こんな時昔なら雨戸があったのだが今は直接ガラス戸なので恐怖です。お陰で夜も良く眠れず翌日外に出てみると花達もひどい目に有ったみたいでした。でも多くのアジサイは頑張ってました。先日のブログでアジサイの花は実は花ではなく萼(ガク)だと記しましたが、まだすっきりしないのです。そこで今日は台風で傷めつけながらもまだその面影を残す部分を少し頂いて帰り、じっくり観察することにしました。以下その観察記録です。小学生の自然観察みたいで面白かったです。 まず採集した試料をiPadのカバーの上に並べると意外と美しい絵になりました。まずピンクのガクアジサイから見て行きましょう 。左右のよく花と間違えられるガクを見ると、左の萼の中心には花の散ったあとがあり、右の萼には今まさに開花中の花がある。藍色のガクは4枚で小さな花弁も4弁であることがよく分かる。そして中央部がアジサイの花で全体を装飾花と言う。 中央部を見ると紫色の蕾、藍色の柄の先端が黄色い雄蕊のようなもの見える。 見やすくするために花房の一枝だけ残してみるとガクと雄蕊だけがはっきり見えるが花弁や雌蕊ははっきりしない。 次にガクアジサイではなく”手鞠咲き”の西洋アジサイについて見てみよう。これも分かりやすい写真を撮るために装飾花(ガク)群の内側の花枝を部分的に取り除き色々な角度で撮影してみた。これを見ると花の蕾、雄蕊・雌蕊、ガクが見分けられる。上の二枚の写真に見られる蕾の外皮は次の写真に見られるように開花するとガク(?)となって垂れ下がっている。この花の部分は多くのガク(装飾花)に隠されて普通は見えない。いっぽう花房の表面を覆い尽くしている装飾花は大きくて色付い中央部に花部がある。この花は中性花と言って雄蕊も雌蕊も退化して生殖能力は無いそうである。今まで漫然とは知っていたが今回のように写真にとって細かく観察したのは初めてである。 以上ガクアジサイ、西洋アジサイ、ガク咲き、手鞠咲き、装飾花、中性花など多くのことを教えてくれた今年のアジサイであった。 モデルを務めた花達に最後にもう一度登場してもらってフィナーレとするが彼女等も大分疲れてるみたいですね。
2012.06.23
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続 Mt. McKinley昨日のブログでMt.McKinleyでの遭難事故と関連して記したおり、資料として1995年にDenali 国立公園に行った時手に入れた冊子を取り出して眺めた。 思えばそれに先立つ1968年、当時ソ連上空は飛行できないため日本とヨーロッパの空路はアンカレッジで給油し、北極上空を飛ぶ北極航路(polar route)だった。ハンブルグからアンカレッジに着く前マッキンレ―の横をかすめる、陸地から直接海に流れ込む白夜の北極圏氷河に興奮していたら今度は白い山地にそそり立つマッキンレ―を見た時の感激は今でもよく思い出す光景である。 前ブログにも記したが南北アメリカ大陸の最高峰であるこの山は北極圏に近く麓からの標高差が5500mもあること(cf エヴェレストの場合3700m)、極地に近いため酸素濃度が薄く、気温も初期の登山隊ががキャンプに残してきた温度計は‐73.3℃を記録している。これらから赤道に近いヒマラヤ以上に厳しい山とも言われている。 1903年から1913年の間に少なくとも8隊が登山を試みている。・1903:アメリカの弁護士Wickersham が 約2500mまで・1906:ニューヨークの極地探検家Frederick Cook が約3600m(?)まで・1910:三つのパーティーがアタック、そのうち ”Sourdoughs” 隊は地元 Fairbanksが御当地の威信をかけて編成した”鉱夫”チームである。 この時代もうアラスカのゴールドラッシュは過ぎていたと思うが今度は 石油採鉱が盛んだったのだろう。 隊員:Peter Anderson, Billy Taylor, Charles McGonagahall, Thomas Lloyd(隊長)彼らは3600m地点にベースを置き4月3日隊長を残して自作の登山着・登山具を身につけ暖かいココアの入った魔法瓶とドーナッツ、そして星条旗を掲げるため5メートルのトウヒ(spruce)の旗竿を持って頂上をアタック、途中6000m付近でMcGonagallは離脱したがPeterとBillyはこの日登頂に成功し、3600-6194mの間 、約2600mを往復している。現在の登山家でもこの往復には2週間近くををかけるそうである。隊長のLloydは帰還後Fairbanksで大げさに伝えたが他の隊員は沈黙を守ったそうである。結果は誰もこの話を信じようとはしなかった。・1912: Fairbanksの新聞社が編成した隊は難しいルートを選び3000mに至る前に敗退している。そしてもう一つのBelmrore Browne率いる隊は頂上直下100ft(33m)まで達しながら悪天候に阻まれ登頂出来なかった。・1913: カナダの聖公会神父のHudson StuckがHarry Karstens, Robert Tatum,Walter Harperを隊員とする登山隊を結成してアタックした。そして隊が15000ft(4920m)に達した時、隊員の一人がマッキンレ―北峰を覗き見ると頂上すぐ近くにトウヒの旗竿が風に揺れているのをはっきり認めた。Lloydの報告談にはかなり粉飾があったとしても1910年Sourdoughs隊の登頂は事実だったことが判明したのである。北峰(5934m)は南峰(6194m)よりも少し低いためこの山の最初の登頂者はStuck隊と言うことになっているが。1910年犬橇で出発した ”鉱夫隊”の業績はそれにも勝るとも劣るものではない。その後よく示される登頂証拠としての写真には色々問題もあった、現在では頂上から発信すればGPSで即確認がとれるようであるが、昔の登頂記録には問題が残されている。上の例のように信じがたいような大きな業績は信じてもらえない。それは山に限らず科学や芸術の世界によくあることである。------ 今回の遭難は下山中に雪崩で氷河のクレバスに落下したことによる。下のような光景が目に浮かぶ。前記冊子の写真からロープに繋がった5人、そして下の写真のようにクレバスを飛び越えるのは文字通り命がけだろう。 もちろんマッキンレ―山を毎日遠望し至高の時を過ごしたが、私のしたことは山容に似合うような大それたことではない。ツンドラの大地が真っ赤に紅葉した、 のを眺め、ナキウサギからグリズリーベヤーと大小の動物を目で追い、 タイガとツンドラの境界に茂る真っ赤に紅葉したベヤベリー(Bearbery)の下に左手の掌を広げ、右手でゆさぶると甘い実がボロボロと落ちる、それを頬張ると実に旨かった。 脚が悪く、ドライブも辞めた身とあればもう思い出すだけのことであるが、思い出は結構良い味がするし栄養にもなる。バクは夢を食べて生きていると聞いたことがあるが、人間も思い出は老後に役にたつ。若いうちにせいぜい旅の思い出を作っておくことである。今回の遭難者のご冥福を祈ります。
2012.06.20
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Mt. McKinley(6194m)18日の朝刊によるとアラスカのMcKinlleyで宮城県の 4人の登山家が雪崩で遭難し、50歳から64歳までの男女4人が遭難し、69歳の男性1人が自力で下山したそうだ。5人は山岳会に属し、登山経験豊かなメンバーだと云う。マッキンレ―山は6194mの南北アメリカ大陸の最高峰で、日本人には今も氷河の下に眠る植村直己の名とともに忘れがたい名前の名山である。マッキンレ―より2700mも高いエベレスト山でも麓のチベット高原からの標高差が3700mなのに対してマッキンレ―は麓の平地からの標高差は5500mもある。地理学的にもエベレストが沖縄とほぼ同じ緯度に対してマッキンレ―は北緯62度付近で北極圏に近く、最初の登山隊の持参した温度計は頂上よりかなり下で最低ー73℃を記録している。また極地近傍とて酸素濃度は薄くますます登頂を困難にしている(酸素分子の磁気の性だろう)。今回遭難したパーティーのリーダーは毎年ヒマラヤに出かけ、マッキンレ―も2度目だそうである。計画に無理は無かったと云う。この季節h夏至前でここでは白夜だったと云い、雪が締まる夜間の行動だったのだろう。日中の午後は気温が上昇し雪が緩むために雪崩が起きやすい。雪崩に巻き込まれたのは午前2時過ぎだったと言う。5人はザイルで結びあいリーダーが最後に橇を結んで登頂を断念し、降りていた時後方上部から雪崩が襲ってきて一瞬のうちに流 されて全員クレバスに転落したそうだ。その時、橇がクレバスの割れ目に懸りリーダーだけは底までは落下しなかった。そこからピッケルを使って氷河クレバスの氷壁を登っ たそうだ。新聞記事を読むだけでもそれはもう映画の世界である。全員がこれから何百何千年も氷に閉じ込められてしまうより最後の状況を知りえただけでも遺族にとっては救いだろう。 1995年夏2週間ほどかけてAlaskaをドライブ旅行した際Denali国立公園に数日滞在し、Mt.McKinleyにほど近いところまで接近したことがある。その際求めたパンフレットの写真を2,3ここに転載する。Park入口への途中回り道してタルキートナと言う人口千人位の村にある”Latitude62” と言う名のレストラン・ホテルに立ちよった。ここは植村直己の定宿で亡くなる時の厳冬期の単独登攀もここから出発している。レストランの横に展示コーナーがあり、数々の展示品の中に植村のそれもあった。Latitude62は北緯62度上のホテルの意で、現在の登山隊はこの地からセスナで約2300mの登山基地に向かいそこから登山を開始すると言う。多分今回遭難した人達もここから出発したのだろう。夏の間はここからMcKinleyへの遊覧飛行が有って手軽にその雄姿にたっぷり酔うことが出来る。タルキートナからだと長いアラスカ山脈の横腹からすいとマッキンレーに近ずくので遊覧飛行そのものは別のルートでDenali Parkの村からのものが良い。切り立ったナイフリッジの峰、延々と続く氷河、紅葉のツンドラなどを眼下に見ながらの飛行が断然いい。私は幸い小さなセスナ遊覧をゲット出来、雲上のMcKinleyの峰を堪能することが出来た。一般車乗り入れ禁止で公園運営のバスで早朝出発・夜遅く帰還のツアーで大型ヒグマなど多くの動物たちを追いながら地上の景色も堪能することも出来た。
2012.06.20
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豊島園(2)・山アジサイ豊島園のアジサイガーデンも10年を経たとかでかなり落ち着いてきた。ここの特徴として小柄な日本古来種の山アジサイとくに四国や九州の品種が多く育てられている。 山アジサイは萼(がく)咲きが殆んどであるが中には下の写真のように小柄だが手鞠咲きの種もあるみたいだ。 山アジサイとは言え品種改良されたものが多、花火と名づけられた下のものは線香花火の火花の図柄そのものである。 萼と花びらの比で萼が主のものを手鞠咲き、花びらが主のものをガク咲きと称することは前に記したが、その中間的なものも有り次のものは両者がほぼ等しい。次のものは 萼>花びらに見え、次のものは花びらは退化してほとんど見えない。 次の萼咲きのアジサイは「藍姫」と言う私の故郷阿波の品種で濃い藍色(群青色、ぐんじょう)の花を咲かせる。群青はマリンブルーの顔料でラピスラズりの細かい粉である。アジサイと言う語は“藍色の集まり”を意味する”あずさい”に由来すると云う説(Wikipedia)もあることからアジサイ本来の色かも知れない。 マリンブルーは白い磁気の器で水に青インクを垂らした時の色であの地中海の色である。次も徳島産の「剣の舞」 剣はほっそりとした花柄と「剣山」を懸けた命名だろう。次も徳島産の「木沢の光」、ピンク色の萼はヘラ状で珍しく八重咲きのもの。次の純白のレースを思わせるものは「羽衣の舞」 写真がぼけてしまったが次は「白富士」 売店の横には盆栽仕立てのアジサイが展示されている、苗と苔を買うとこの苔仕立てを指導してくれるみたいである。 山ツツジにしては小柄で可愛さがあるのか前に記した「剣の舞」と「木沢の光」の盆栽仕立てが展示されていた。 寺社や個人宅の垣根で見かけるのは殆んど西洋アジサイであり、箱根など野山で見られるのは多くガクアジサイである。豊島園の山アジサイは珍しいものが多く、有料だけのことはあると思う。以上たかがアジサイ、されどアジサイである。
2012.06.18
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豊島園のアジサイ(1)梅雨も佳境に入り今は何処を歩いても垣根越しにアジサイの花が見える。先日豊島園のアジサイ園に行ったが雨が少ない時や日中暑い時でも綺麗に見せるため時々霧を発生させている。ビジネスとなると大変なことが分かる。プロのガイドツアーも行われているが私は時間制約が嫌で採らなかった。すれ違った時にしばし聞いていると「この頃になるとアジサイは開花しましたか」 とよく電話がかかるので困っているとのこと。彼の悩みももっともなことである。話をまとめてみよう。アジサイには大きく分けて”手鞠咲き”の西洋アジサイと”萼(ガク)咲き”のガクアジサイがある。後者は日本の古来種で前者は品種改良されたものである。萼は装飾花とも呼ばれるが植物学的には花ではなく葉の一種の萼(がく)、ところが多くの人はこの萼を花と思っているのだそうだ。 大航海時代から近代にかけてヨーロッパから多くのプラントハンターが東洋、南米、南半球へと繰り出され、彼らは多くの土地の古来種をヨーロッパに持ち帰り愛好家に広がっていった。ロンドンのキュウガーデンをはじめ多くのヨーロッパの植物園にはこれらが今も大切に育てられている一方多くの変種が造り出されている。あの長崎出島のシーボルトもアジサイの蒐集には熱心で或る種に愛妾「お滝さん」の名から”Otakusa"と名ずけたほど。残念ながらこの名はシーボルト自身により後で取り下げられている。 手鞠咲き・西洋アジサイ 萼咲き・ガクアジサイ信じがたいが下の写真では萼は紫色に色ずき、花は青く色ずいているがまだ蕾の状態にある。これを開花と言うべきか蕾と言うべきか。そして花房の小さな花の塊が開花したのが次の写真、クローズアップしてみると雌蕊、雄蕊、花弁がはっきり分かる。これがアジサイの花なのだ。一方手鞠咲きの西洋アジサイは花が普通は見えないで萼だけが見える。一寸失礼してクラスターの中を覗いて見ると萼の下に小さな花がひっそりと見える。そして大部分が萼の西洋アジサイ、反対に大部分が花で萼は殆んど無いのがガクアジサイと妙なことになる。 山アジサイにはガクも花もまばらなものが多く、種により相対数は微妙なバランスである。個人的にはガクアジサイに属する山アジサイが素朴で好きである。このアジサイ園にアメリカ原産で純白のアナベルと言う名のアジサイの一画がある。普通のアジサイは前年の夏すなわち花が終わるとすぐに次の年の花芽が出来るのに対してアナベルは春に花芽が出来るので三月に剪定しても六月には花を付けるそうである。 アナベルも手鞠咲きの装飾花らしいが枝分かれ状態がはっきり読み取れて開花前の姿がまた美しい。もうひとつ白花アジサイに変わった形のカシワバ(樫葉)アジサイがある。槍の穂先飾りのような形の装飾花も変わっているが葉っぱも切れ込みが入った樫の葉に似ていることからこの名がある。これもアナベル同様アメリカ原産で最近よく見かけるようになった品種である。もう一つここには蔓アジサイのトンネルがある。蔓アジサイと言うのが珍しい存在であるが、さらにこれは甘茶になるらしい。葉を乾燥して煮出したものが甘茶である、普通にはアジサイではないアマチャズルの葉を使うことが多いがお釈迦様の誕生日に飲むのは本来アジサイの方だそうだ。一方普通のアジサイは毒で、数年前季節感を出すため刺身をアジサイの葉に載せてサーブし、客がこの葉を食べて中毒を起こしたことが報じられたのを思い出す。いつか見たTV推理ドラマでアジサイの葉を毒として利用したのを見たことがある。そう云えば甘茶蔓アジサイからの甘茶には虫下しの意味もあったみたいである。また生薬としても日本薬局法に記されているとかである。
2012.06.17
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豊島園東京の梅雨もいよいよ本番を迎え晴れ間が貴重になってきた、年寄りの外出にはウイークデイと晴天が必要条件、体調が十分条件と言うことになる。14日はこの条件を揃えていたので光が丘団地を経て豊島園にアジサイ見物に行ってみた。光が丘団地は人口約3万、地方なら一つの市に相当する人口を抱え完成から30年近くを経て今や街も落ち着いてきた。バス停前のメタセコイヤの並木も伸び伸びと幹を上に伸ばしている。模型のように見えた公園の建造物も大分落ち着いてきた。椅子に座れば視界の空間は青い空とメタセコイヤの緑のカーテンですっかり覆われてしまう。ただこういう風に街が完成に近ずくと人口形態が変化して年寄り世帯が増え歪んだ街になることが心配されている。 週日昼間の遊園地はさしずめゴストタウンの様相、多くの遊具には係員の姿もあるがたまに通りかかる母子連れが興味を示すだけである。現代っ子はあまり興味を示さないがここには有名なメリーゴーランドがある。1907年ドイツで当時の技術と美術工芸を駆使して建造され、ヨーロッパ各地を巡業した後1911年ニューヨーク郊外のコニ-アイランドに移されてルーズベルト大統領も楽しんだ。私が子供の頃のアメリカ映画にはよく登場したことを記憶している。1971年維持できなくなったメリーゴーランドは豊島園に引き取られて修理・営業されている。このアールヌーボー様式の装飾は文化遺産としても貴重で2010年には機械学会が機会遺産に認定している。上下に揺れたりはしないが装飾は遊具とは思われないほどの美しさである。コニ-アイランドも豊島園も時代に遅れて存亡の危機に面しているらしい、海水浴場に隣接するコニ-アイランド、都内随一のプールだった豊島園ともに身売り話が絶えない(先日の石原知事の尖閣列島買収会見でもちらりと漏れた)その衰退は残念である。さてメリーゴーランドの近くに”あじさい祭り” の風船ゲイトがあった。今年はまだ始まったばかりだが使い古したと見えて古びた風船である。ゲイトを潜るとすぐに”アジサイツリー”と名付けた符入りアジサイを集めたオブジェがあった、そして西武鉄道開業100年記念の字が添えられている。100年を大々的に祝えない事業の苦戦ぶりがうかがえる。でもこのアジサイツリーには余り見かけない色んな色の符入り種が集められていた。これらはすべて西洋アジサイで正確には花ではなく葉っぱが変化したガクなので花の色と言っていいかどうか分からないが、見事なコレクションなのでここに記録しておくことにした。これらが”花びら” ではなく”ガク” とすると緑は本来の色なのだろうが、一般論としては”緑色のアジサイの花は珍しい” と植物学的には妙な表現になってしまう。
2012.06.16
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石神井公園・カメラテスト前ブログで新しいカメラでのマクロ撮影について記したが、今度は公園への散歩に携行して風景写真をテストしたので記録しておく。公園への途中に低い土塀の向こうに形の異なる2基の石燈籠を備えた小さな僧院を思わせる家がある。民家の庭園に多く見られるのは手前の石燈籠であるが、右側のは珍しい。底部、屋根と階層部が全て四角形のものは多重塔(五重塔など)、一方底部と屋根が四角で階層部が丸いものを多宝塔と呼ぶらしい。したがって右側のは多重塔型の石燈籠である。 梅雨空でどんよりした天候であったがデジタルで捉えた池の水面は明るい。フィルム写真では素人の手に負えない条件下でもデジタルは明るく捉えてくれる。 下の写真も撮影後の画面はあまり明るくなかったが液晶上で ”レタッチ”ロゴに触ると明るい写真に変換される。明るすぎる画面も調光してくれる。 この日の目的は池畔に咲いたセンダン(栴檀)の花。”栴檀は双葉より芳し” の句は有名だがあれは間違いで、本当はビャクダン(白檀)のことだそうだ。白檀なら香木として高名なので当然だろう。池端の栴檀には脇の茶店の人が出した段ボール紙の案内版があり、昨年の台風で枝が半分以下になってしまったが花の時期には芳香を放つとあった。確かに花に近ずくとかすかな芳香がする。 関東以北では余り見かけない木だが四国や九州の暖地では成長が早く涼しげな木陰を作るので校庭や公園によく植えられている。私が育った地域の学校の校庭には大抵その外域部に茂っており、初夏には芳香を放ち、真夏にはクマゼミが樹液を吸いに集まって大きな騒音をたて、晩夏には運動会の家族席を強い日差しから守ってくれていた。 この公園には木橋と言うコンクリート橋が幾つも架かっている。叩いて見ないと分からないコンクリート製木材、日本ではごく普通の材料だけれども諸外国でもポピュラーなのだろうか。そう云えばもう木製の電柱を見かけることは無くなってしまった。カメラの性能が上がっても”もどき”と本物の区別はできなかった。帰り道川渕にはキンシバイ(金糸梅)とビョウヤナギが今を盛りと咲いている。 この両者は花の色や形も酷似しており葉っぱも殆んど区別できずいつも混同される。しかし二つ並べるとさすがに簡単に区別出来る。上は花弁が重なり合っており、梅の花に花形が似ているだろう。下は花弁が離れており雄蕊も長い放射状で輪環状に生えてはいない。 これらの画像を基にはたして正しい選択をしたのかどうか新しいカメラの評価をしたい。ここには示さないがパノラマ写真もコンピュータにファイルを移さなくとも撮影時にボタンを選べば360度即座にカメラがやってくれる。次にレンズの性能について少し勉強して比較検討してみた。 デジタルカメラの光学素子は光が弱いところでも感知してくれるし、前述のレタッチ機能も使えるのでレンズの明るさ(F=(焦点距離)/(レンズ口径))はあまり重要と思えな。しかしあまり意味のない”ズームX倍”のカタログ用語よりもレンズに記載されている焦点距離がより重要と言うことに気が付いた。実際CoolpixP100のレンズ(4.6-120 光学26倍)とTZ30のレンズ(4.3-86 光学20倍)を比較してみるとワイド側では僅かにTZ(4.6 vs 4.3)、望遠側ではかなりP100が勝っている(120 vs 86)。このことは今実写テストで確かめたところである。 いずれにしてもカメラテストとしては合格である。今の私にはサイズと重量、機能価格を考え併せた場合最善の選択であったと自己満足している。
2012.06.12
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小さな花・カメラテスト ブログを始める前から何台かのコンパクトデジタルカメラは使っていた。ブログにも使える写真を撮ろうとすると当時コンパクト型ではズーム倍率が3-4倍止まりで使いにくかった。写真のために被写体に近ずくのは億劫がりの私には苦痛であった。かといって交換レンズの一眼レフはとても手が出ずかさ張るし重くて話にならない。数年前ミラーを内蔵せずレンズ交換も必要のない、一眼式ミラーレスカメラと言うのが出現し、パナソニックから12倍ズームのFZシリーズが発売されたので奮発した。極めて優秀なカメラで殆んどフルオート撮影で間に合っていた。後で倍率が2倍になるコンバーターレンズまで購入し愛用していたが、この世界は日進月歩、4,5年使った頃光学26倍光学ズームでさらに2倍デジタルになると云うNikon P100と言うのが安くなって出始めた。これはFZに比べるとサイズも重量もほぼ半分になっていた。それでもまだ110mmの厚みがあったがなんとかショウルダ‐バッグに入れることができた。これもお世話になり愛着のあるカメラであるが後期高齢者の仲間入りしてからこのP100がまた面倒になってきた。と言うのも近所の量販店に行くたびにさらにレンズ部が飛び出していない薄型のミラーレスが出てしまったのだ。半年くらい前から欲しいと思ったが高価でいつも見るだけ。最近店に寄ってみるとレンズ部がすっぱり胴体に収まり厚さ28mmでズーム20-40倍、デジタルズームで67倍のパナソニックTZ30が大きく割引販売されていた。多分モデルチェンジが近いのだろうが私には十分な性能とポケットに軽く納まるサイズと重量である。しかも前2種のカメラでは苦労しても成功しなかったマクロ撮影がかなり出来そうであった。同列の他社機種もカタログで十分検討してあったので後先考えずに購入してしまった。 昨年マンションの外装工事があり我が家のルーフバルコニーの花壇は土ごと半年間一か所に集められて避難させていた。そのせいか今年は復帰後も草木の成長が鈍いのである。大きなものも余り成長せず花も小さい、さらに避難中に他家の種が飛んできたりして今年初めて見る雑草(?)の花が咲いたりしている。野草の花の季節は普通ツツジのころが最も盛んで6月になるともう殆んど野草の花は終わっているが、花壇に咲いている1cm以下の花を使って新しいカメラのテストをしてみた。折角撮影したのでここで記録に留めておくことにした。今年の我が家花壇の小さな花集である。いずれもフルオートでの撮影であるがマクロ撮影もかなりいけてるのではないだろうか。 マンネンソウ(万年草) マツバギク(松葉菊)マツバギクはかなり大きいものだが今年我が家のそれはサイズが小さい。 ニワセキショウ(庭石菖) ニワセキショウ色んな色がるみたい。 カタバミ (片喰、酢漿草) カタバミゲリラ草の典型でなかなか退治できない。噛むとすっぱく英名はオキザリスで酸っぱい味はシュウ酸(oxalic acid)。羊が食べると腎臓が悪くなるので不評腎臓結石はシュウ酸カルシウム、私も何度かこれで七転八倒した経験がある。 ハナツルソウ(花蔓草) 小型のナズナ(ペンペン草)みたいな草 ヒメジオン(姫女?) サギゴケ(鷺苔)ハルジオン(春紫苑)との区別が難しいがハルジオンは蕾が下向きにつく。 ワスレナグサ(忘れな草、勿忘草、forget-me-not) ビオラワスレナグサの名は日本語が一番良いが、中国語、英語も皆素敵な名前である。花言葉も ”真実の愛”、 ”私を忘れないでください” ビオラは本来もっと大きいが前述したように今年の我が家に咲いたのはこんなに小さい。 ツユクサ(露草) トキワツユクサ(常盤露草)いたるところに生える典型的雑草。背の高い紫ツユクサとは別種、 ハハコグサ(母子草) ハハ(ホウ)コグサも多くの種があり多彩である。時期的にもいつでも見られる気がする。殆んど同系でチチコグサ(父子草)と言うのも有るがこちらは色が殆んどなかったり斑があったりでとても美しいとは言えない。
2012.06.12
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京都駅毎回ホテルの夕食は経済的にもきつい、かといって改まって名店を訪ねるエネルギーも無い我々である。竜安寺からの帰り京都駅でレストラン案内を見るとおばんざいの店と思われるブッフェレストランが8階に有った。エスカレータを乗り継いでみるとあの階段広場に面した側にそれは有った一寸面白い趣向で必ずしもおばんざいとは限らない野菜中心のブッフェである。旅行中の野菜不足を補ういい機会なので早めの夕食を取ることにした。箸置きマットに”三尺三寸走箸”という店名が記されており、全国に有るチェイン店だそうだ。マットに曰く ”三尺三寸(1m)の箸を使うのは難しい、極楽では二人向かい合って相手の口に御馳走を運ぶ、地獄では自分で食べようとして食べられない” のだそうだ。「情けは人のためならず」、そう人の喜びを自分の喜びとしましょう。さて食卓の写真は撮らないのがrakutenのモットーであるが人気のないブッフェであることと、吾ながら綺麗な絵が出来たと思いシャッターを切った。ローストビーフはこの日のサービス品とかで全員に配布していた。 カウンタ―席前面には吹き抜け正面側の窓に映る外の景色も有る。 食後外に出てみると長い長いエスカレータの下に騒がしい駅のコンコースがみえる。京都駅は本当に変貌してしまった。古いものと同時に京都のこの革新性が私は好きである。 階段を少し昇ると屋上庭園にで、京都の街全体を俯瞰する無料展望台である。 さらに石庭と苔の寺の庭園、嵐山の竹林を思わせる屋上庭園はよく出来ている。 京都旅行で余裕を持って駅に着いたときなど旅の余韻を楽しむには格好の場所である。今回も楽しい旅であった。
2012.06.11
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竜安寺石庭 さて話を竜安寺石庭に移そう。 ここを訪れる時いつも思うことだが狭い。25X10m の方形に白砂を敷き詰め15個の石を配したもので、禅の極地を表わすとされるが解釈は見る人の心によって異なるとか。室町時代の禅僧によって作庭され、作者は特定されない。この空間は独特の色をした土塀に囲まれているが、これは菜種油を土に混ぜて練った油土塀と言うらしい。時間の経過が色を作るそうだ。さてこのような囲まれた方形の海=世界、そしてそこに浮かぶ島々。昔ギリシャ人が考えていた世界観に似ており、禅の世界観もギリシャ哲学に相通じるものがあるのではと思われる。 上2枚の写真1枚目は左から2枚目は右から見たもので、冒頭の写真は正面から見たパノラマ写真である。幾つの石が認められるだろうか。方丈にジオラマ(?)が置かれていて数えると15個の石が見える。一番左の群島には五つの島が、2番目の奥の群島は2島から成る。(第一群島の5島目は主岩の右下に一寸だけ見える) そして三つ目の群島には三つの島が、四つ目群島には2島、 五つ目の群島には3島が群れている。 別の角度から見た島々の写真をいくつか示しておく。 以上ここでは写真と言う近代兵器を用いて一つのタブーを犯している。すなわちこの石庭はカメラで見るために造ったのではなく、あくまでも禅の心・心眼で見るためのものである。ここには15個の石が配されているが見る人の肉眼では最大14個の石しか見えないように配されている。最後の石を見るためには精神を統一して心眼で見透さなければならない。もう一度冒頭のジオラマ写真を採録してみると極左・極右の2個の小石が同時に見える場所は無い。 このように竜安寺の枯山水石庭は禅の修行をつまない者にとってはあまり意味のないものかもしれない。ここでブログを終わらせれば美しい話になる。だがそこはへそ曲がりのrakutenのことWebで調べてみると観光客立入禁止の方丈のある一点からは15個の石が望めると云う記述を発見した。高僧は修行の足りた修行僧を自然にこの点に導けば修行僧は心眼を開かれるだろう。観光客を安々とこの点に立たせてはいけない。禅の心は科学にも通じる深いものを持っている。
2012.06.10
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竜安寺 (1) 前日記したように金地院の枯山水庭園を見てきたが、これは森を取り込んだ自然の景色の中の枯山水だった。そうするとその対極にある枯山水の庭は竜安寺のそれだろう。と言う訳でホテルに帰って休憩後60年前から数回訪れたことがある竜安寺へと向かった。考えてみれば過去の訪問はいずれも夏か秋であり、この時期の寺域を覆う天井のような木立の中の訪問は初めてである。いつ来てもここの主人公は修学旅行の高校生たちである。かっての修学旅行は小旗を持ったガイドさんの後をぞろぞろ付いて行くことが多かったが、最近は数名のグループで行動する子らが多いみたいで、リーダー(大抵は女子学生)がメモと地図を片手に頑張っていることが多かった。今まで何度も訪問しながら竜安寺の蓮池の印象はなかったが参道脇には見事な鏡容池(きょうよち)があり、真っ盛りの睡蓮の花と石橋はモネのジベルニ‐の庭園に似ていないでもない - いやモネが似せたのだ。石庭とは裏腹に竜安寺の境内は緑にあふれ、苔むす寺域は落ち着いていて優しく美しい。 モミジの木には今まであまり気に懸けなかったがプロペラのような羽を付けたモミジの赤い種がみずみずしい緑と良い調和を見せている。竜安寺の見どころは石庭なのですぐ方丈に上がるが、ここでは石庭以外のことをまとめておく。ここの襖絵にも色々なグレードがあるのだろうが石庭に向かって一方全面が開け放たれた方丈の間は明るく、入室は出来ないまでも一番奥の間の襖絵まではっきり見ることが出来る。 そして方丈の裏側には有名な”つくばい”が水音を建てている。四角い”口”の字を中心に上に”五”、右に”隹”、下に”疋(上部の横棒無し)”、そして左に”矢”の文字が刻まれている。口に字を共通にすれば、これを「吾唯足るを知る」とよみ禅道の真髄を表わすとか。徳川光圀が寄進したものだそうだ。 多くに参詣者は石庭見物の後、来た道を引き返すが、睡蓮の池をやり過ごすには忍びないので池巡りをした。 水面に揺れる森の影が実にこ心地良かった。
2012.06.09
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三条大橋JR東海道線は東京駅から神戸駅までである。昔の東海道が日本橋から始まって京都まで通じていることは誰でも知っているが京都のどこが終点を知る人は多くない。京都の人には誠に申し訳ない次第である。竜安寺へのバスが京阪三条から出ると云うのでホテルのシャトルバスを三条で降りた時、相棒が東海道の終点(始点)は三条大橋の筈だから何かモニュメントが見つ かるかもしれないと云いだした。東京日本橋にはいろんなモニュメントがあることは前にこのブログにも詳しく記した記憶がある。橋の四隅を見ればよいので足 を運んでみた。四条大橋に比べてみすぼらしい橋ではあったが大きな表示板があり、橋自体は古く 室町前期にはすでに簡素なものがあったこと、秀吉の命で大改修が行われたこと、擬宝珠は天正時代のものと昭和のものが混在すること、ここが東海道五十三次 の西の起点であること、以来改修が繰り返せれたこと等が詳しく記されていた。 下の写真の擬宝珠には天正十八年「豊臣」の字が見える。 つ いで橋の北側に渡ってみるとそこにも案内板があり、そこが高札場であったことが印されている。今で言うなら官報のようなものであるが内容は道徳の範から公共料金の改定額まで要するに時の奉行が民に知らしめたいことなら何でもありであった。目に付きやすいように人の集まる所に高く掲げて示し、人々は字の読め る人も読めない人もここでいろいろ議論したもである。 高札場の横に天正の架橋で使った石の橋げたとその解説版が置かれている。それによると石は神戸御影から切り出した花崗岩であることが記されている。高級墓石にも多用される日本産の石の中で最も硬い石の一つである”御影石”である。 道路反対側の橋の袂には東海道中膝栗毛の ”弥次さん喜多さん” の銅像が建っている。東京日本橋のモニュメントは三条大橋のそれに比べて確かに大きいがここにはこんなユーモアがあることにホッとした次第。
2012.06.08
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蹴上(けあげ)近傍みやこホテルから金地院に行く時最初に潜るのは写真の煉瓦トンネル。こ れはインクラインの下を潜るためのトンネルだ。明治期、東山にトンネルを掘って琵琶湖の水を京都に曳く大事業が行われた。南禅寺脇の蹴上で姿を現した琵琶湖疏水は一部関西電力の水力発電所に向かい、日本で初めての市電を走らせている。 そして一部は疎水として哲学の道の景色を作りながら鴨川に逆行して京都の景観を作りだしている。一方トンネル運河を遡航してきたに舟はここでインクラインと呼ばれる水中にまで伸びたレール上の船貨車に載せられて一気に岡崎の運河溜まりまで登降され、鴨川・桂川・淀川と航行して商都大阪に繋がっていた。そのインクライン下のトンネル写真を見て気が付いたので部分を拡大、トリミングしてみる、と上部にかかった扁額は「雄観奇想」と読めた、雄観とは見事な眺め、奇想とは優れた考えを意味すると云う。明治期この一大公共事業を発想した京都府北垣知事の筆という。このレンガ積みは実に装飾的な産物である。扁額上下の枠の美しさ、アーチの美しさ、トンネル内部の石組の上の煉瓦積みは斜め積みで、アーチ表面の煉瓦列をそのまま延長したもので他にあまり例を見ない手法である。もう少し現地で注意深く観察しなかった基が悔やまれる。 三条通りのホテル側には広い水路跡があり、その傍らに雄々しい金色の男性像が置かれており、その銘板の言葉にも元気あふれる字が並んでいる。 この像とホテルの間に見える素晴らしい明治期の建物は関西電力蹴上発電所、 大飯原発再稼働で話題の関西電力の現役らしい。調べてみると発電能力は 4500kwで、4基有る大飯原発は一基で118万kw、蹴上の262倍である。 こんな小規模なものを260か所作れば原発一基分が発電できるとは驚きである。 下の写真を見るとよく分かるが水路跡には中央にインクラインのレールが 見える、かってはもうこの辺りは水溜りになっていて船は浮力でレールから離れ、 正面の岡崎舟溜まりに進んでゆく。蹴上から岡崎のあいだのインクラインを 観光用に復活させてはどうだろうか。更に進んで琵琶湖から東山隧道を通り 鴨川に至る観光クルーズが出来れば素晴らしいのだが。 まあ私に乗船機会は無いだろう。水路跡には菖蒲の花が咲き誇っている。 男性像の対岸には疎水記念館があり、地下には最初の水車が展示されている。 よく見ると分かるが右の車輪には水枡がそして左の車輪は発電機を回す ベルトを懸ける車輪が付いている。次回はここをゆっくり見学したいと思っている。 インクラインを下った水は岡崎公園の噴水に注いでいる。 雨中の週日とて屋根下のベンチに人影は無いが京都の子供たちにとって 動物園のあるこの公園は幼少時の思い出の場所なのだろう。
2012.06.07
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智恩院小雨が降ったりやんだりの中、ホテル近くの金地院と無鄰庵を見て回ったがまだ昼には早いので近くの知恩院を訪れることなり、タクシーに乗った。知恩院と言えばあの巨大な三門をイメージしていたが車から降り立ったところは門の横道を通って本堂横のタクシー乗降場であった。残念なことに円山公園からよく見える巨大は本堂は修復中で高層ビルでも建つのかと思われるほどの太い鉄骨に覆われていて壮大な甍を望むことは出来ない。阿弥陀堂から入場したが拝観料も要らないと言う。観光パンフレットには有料と有るので修復中の臨時処置なのだろう。広くて長い鶯廊下は歩むたびによく鳴く。堂内にはこの鶯廊下の仕組みが実物で示されていた。私は各地に有る鳴き廊下は単に板がきしんでいると思っていたが大違いで、それなりの工夫を凝らしていることが分かった。考えてみればそうだ、何百年もきしみ続けるはずがない。 本堂拝観は無理であったが有名な鐘楼を見に行った。 この寺鐘は毎年NHK除夜の鐘中継で見ているが実物を見るのは初めてだ。 高さ3.3m径2.8mという大物で除夜の鐘は若い僧17名により突かれる。あの体重を乗っけた青年僧たちのパフォーマンスも修行のひとつなのだろう。我が国最大級のビル7階位の高さがるここの三門も壮麗である。門上には仏堂も有るがこの日は参詣をパスした。三門から現世を眺めると仏の教えを学んだり物を考えたりするには集中出来ていい。京都が思考する僧・学者を輩出してきたことが頷ける。この門の持つ木組み建築の立体感と美しさ、数学的な図形の美しさは見ていて飽きないものをもっている。日本のお城にも豪壮なものは多くあるがこの門の前に立った時、城建築は張りぼての模型みたいに感じてしまう。そこはやはり明日焼け落ちないとも限らない城建築と悠久の仏の住む寺院建築の本質的違いであろうか。
2012.06.06
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無隣庵・無隣庵会議山縣有朋の京都別邸「無鄰庵」の庭園を見てきたが建物内部を見るとする。母屋の鴨居には山縣の書(?)と思われる額が飾られている。その部屋から軒下を通して見る庭園の景色は下の様で庭を流れるせせらぎは東山から流れくると思えないでもない。東山を借景にして狭い庭を広く見せる工夫は充分読み取れる。庭の中ほどには京都薮内流茶道の様式による茶室があるが、古びたせいとは言えこの茶道流派らしく質素なものである。先日NHK E-テレでこの流派のことを知ったばかりである。母屋とは流れを挟んでレンガ積みの洋館と称する倉庫のような建物があり、 山縣の写真とともに無鄰庵の名の由来や「無鄰庵会議」の説明がある。二階の部屋には江戸時代初期の狩野派の画が壁画として描かれている。この建物が明治中期のものであるにもかかわらず江戸初期の壁画が見られると云うのはどう云うことなのか。事実とすればどこかから剥がしてきて煉瓦の壁にはめ込んだのだろうたのだろう。当時飛ぶ鳥を落とす勢いで私利私欲にも定評がある山縣とすれば不可能なことは無かったのかもしれない。そしてこの部屋を有名にしたのは「無鄰庵会議」で当時の様子が保存されている。この会議の出席者は伊藤博文、桂太郎、小村寿太郎である。朝鮮・満州の覇権をめぐり角突き合わせていた日本とロシアはのっぴきならない事態に来ていた。総理大臣・桂太郎は外務大臣・小村寿太郎にハードなネゴシエーションを託すが、日露開戦止む無しと考えており、それには軍部の同意が不可欠である。そこで桂は政友会総裁の伊藤博文を伴って軍の実力者山縣を京都の別邸に訪ね、事実上日露戦争開戦を決意した。と言うのが会議の内容である。良しに付け悪きに付け日本の近代化と破滅的太平洋戦争に至る軍支配はこの時に始るとみても良いだろう。4巨頭が登り降りした階段室は痛んでなく、ここを歩む自分が明治期にスリップしているように感じたことである。
2012.06.05
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無鄰庵庭園ホテル近場の見どころとして金地院の外にもう一つチェックしておいたのは無鄰(隣と同意異字)庵庭園である。明治の元勲・山縣公爵の京都別邸で、庭造りを趣味とした山縣自身の設計を基に明治の造園家小川治兵衛が作庭したと言う。 ここで私の大好きな琵琶湖疎水について記さねばならない。明治政府は1890年開通した琵琶湖疏水の水と明治維新に際し廃仏令で南禅寺から召上げた寺領を利用して今で言うインダストリアルパーク(工業団地)を作ろうとしたがとん挫した。そこで当時の有力者が払い下げを受けてここに別荘村を作り琵琶湖疏水の豊かな水を引き込んで庭園造りをした。財閥や戦前の有力者の別荘がいわゆる「東山別荘群」として誕生した。昨年NHKテレビで東山別荘群の紹介が有ったが、番組内であの元総理大臣・細川 護熙さんが少年時代京都東山の別荘内の小川で魚釣りをしたなどと話しているのを聞いて、さも有りなんと思ったことである。今思うと当時の政治家・貴族の豊かな生活ぶりが窺い知れるが、結局は税金で開発した疎水や国有地を破格の値段で払い受け別荘とした訳で、先年公益法人が只みたいな値段で国の施設を民間に処分したことと重なり合う部分が有る。 さて無鄰庵に話を戻そう。今は京都市に寄贈され市の施設として一般公開されている。 ホテルの目の前、京都国際交流会館の前には無鄰庵の土塀が続く。母屋で受付を済ませると庭園への入口は作庭師用の小さな入り戸口、確かに見学者の数も少ないがそれ以上に昔の姿を残したいのだろう。 塀をくぐるとそこはもう無鄰庵庭園である。東山を借景にしてそこから流れ出る流れがやがて大河へと変わる姿を表現したかったのではないだろうか。たまたま居合わせた庭師の方の話では狭い空間をいかに広く見せるかに腐心しているとのこである。陸軍大将山縣公爵が造園家としても並々ならぬものを持っていたことになる。余談であるが東京目白の山縣の本邸(現椿山荘・ホテルフォーシーズン)も自身の設計と聞くが、街中に有って深山の趣が有る庭である。流れに沿って細道を辿ると流れの奥に人工の水源滝があり、そこから渓流が始っている。これがあの琵琶湖から取水され、東山を潜ってきた疎水である。苔の庭に石で四角に囲まれた区画が二つあった。作業していた庭師の方に伺うと枡の中央の盛り上がりは切り株の後で明治天皇から賜った松の木の株で今は4代目が横の小木ですとのこと。指差された方を見ると木の葉蔭に苔むした石標”御賜り稚松の記” が建っていた。作庭などと云うものは同じ庭師が一つのコンセプトの下に長い時間をかけなければならない。一方地方公共団体の事業は入札が原則であるけれども庭造りは安ければいいと云うものではない。そこで提案入札と言う方式が採られていると云う。それぞれの業者が異なる提案をし市は同じ造園業者のプランを妥当と認め発注すると云う方法がと取られているようである。色々知恵を絞っているようだ。庭園の出口近くに庭藤の紫が美しかった。我が家の鉢植えに比べると同じ植物と思えないほどのものである。 もうひとつ赤い物はマンリョウだろうかセンリョウだろうか昨年からの果実がまだ真っ赤な色で緑の苔地に印象的であった。
2012.06.04
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金地院今回の京都への旅で最大の目標は但馬竹田城訪問であった。観光初日に目的を達したので後は予備日みたいなものである。天気が良ければ翌日は比叡山に登ろうと考えていた。ところが残念、しとしと雨であった。そこで大降になればすぐホテルに帰れるように東山・蹴上のホテル周辺を巡ることにした。ホテル前の三条通りを渡りインクライン下の煉瓦のトンネルをくぐって暫く行くと金地院と言う南禅寺の塔頭が有る。この寺はもともと室町時代北山に有った寺であるが、僧嵩傳によって江戸時代初期南禅寺の塔頭としてこの地に移されている。嵩傳は家康に近しく幕府の会議にも参加して社寺を取り仕切り「寺大名」の異名があった僧である。 庫裡前の受付から庭に通じるところに唐風屋根の明智門がある、これは明智光秀が母の菩提のために寄進したもので大徳寺に有ったものを移築したもの。 明智門をくぐるとシーズンを迎えた睡蓮の花の浮かぶ弁天池があり、白花の睡蓮が美しい。ビロードのような苔の上を小さな亀の子が池に向かって一心に歩んでいた。 境内には家康の遺言により嵩傳が建立したと云う東照宮が有り、家康の遺髪が祀られている。家康を祀る東照宮は江戸時代大名がこぞって建立し、一時は500近い数だったそうで、私は日光の外に上野の寛永寺のそれに参ったことがある。金地寺の東照宮は当時日光東照宮にも比肩するものだったと言うが、現在は下の写真のような小規模なもの。 天井の鳴竜は狩野探幽の作、写真の三十六歌仙図は土佐光起の絵、詩は青蓮院宮親王の筆とあり、下段は近年の摸写である。こういった重要文化財の作品が開放された小さな堂の中に有るのは珍しい。梅雨時でも外気に開放されているのだろうか。周りの塀はさすがに古びた三つ葉葵の瓦である。この寺を訪れた目的は東照宮ではなく次の鶴亀の庭園である。まずは合成パノラマ写真で示そう。京都の寺には枯山水の庭園が随所に見られるが多くは中庭だったり塀に囲まれた空間である。ここのそれは森に直結し規模が大きい。小堀遠州作庭のこの枯山水は豊かな森が背景と言うよりも庭の一部として取り入れられている。そう云う意味では竜安寺の庭園のように閉じ込められた狭い空間に広い海の広がりを表現すると云うのとはかなり違ったコンセプトの枯山水で雄大な山と広大な海を併せ持つ一大パノラマ庭園である。前面の白砂は海に浮かぶ宝船と海岸線を表わし、左から見て行くと枯れ木を配した亀島の岩がある。中央には深山幽谷の前に島々が群れ、 蓬莱境をあらわしている。中国の伝説に不老不死仙人の住む蓬莱山は海中に有るとあるそうだ。そして右端には鶴島が配置されて庭を完成している。日本の不老不死伝説・浦島伝説では蓬莱橋を竜宮に見立てたものとする説も有り、鶴・亀・蓬莱山を配したこの庭はお目出度いものだろう。重要文化財の方丈は伏見桃山城の一部を移築したもの。この日は狩野探幽と狩野尚信の筆になる襖絵が一般公開されていた。 昼間照明するなどと言う発想が無い時代、金箔の襖は弱い昼の光を反射して堂内を明るくする手法でもあったのだろう。現代人とは少し違った見方をすべきなのかもしれない。
2012.06.03
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みやこホテル裏山京都都ホテル、箱根富士屋ホテル、東京帝国ホテル、日光金谷ホテルと言えば戦前まで外国人も含めてVipの宿で庶民には手の届かない存在であった。近年は国際的ホテル資本の進出で豪華なホテルが増え、これらのホテルも高級ホテルの一つになった感があり、昔のように威厳のある年配のドアマンが頑張っていて気後れするような光景は殆んどなくなった。それでもまだまだ「昔の名前で出ています」的な存在で多くの客には敷居が高い面がある。若かりし頃 London Savoy で金モールの肩章を付けたドアマンに「宿泊客ではないが中をみたいので入らせて下さい」と話すと「どうかごゆっくり楽しんでください」と丁重に引き入れてくれたことを思い出す。今でもこんな雰囲気が味わいたければシンガポール・ラッフルズあたりに行けば恰幅の良いドアマンが昔の元帥のような格好で迎えてくれるが、ここは殆んどの客が単なる買い物客なので何のバリヤーも感じないで若い娘たちがすいすいと出入りしている。最近欧米の良いホテルがWestin系列になる例が多く、日本の「京都みやホテル」 も ”Westin京都みやこホテル” になってしまった。なんだか格落ちした観がしないでもないが、経営的にはチェイン傘下に入った方が安定化するのであろうか。そんな既成概念の持ち主が交通費付きで格安の3連泊プランをJRが発売していることを見つけ興味本位で購入してみた。チェックインしてみると何と驚いたことに修学旅行の中学生が利用している。もっとも服装からしても相当豊かな私立校の様ではあり、食事なども別でロビーやレストランを騒がすことは無い。しかし我々の格安プランは彼らと同じ棟で、意外にも足音やドアの開閉音が聞こえる。バスタブも浅く小さく、期待した”みやこホテル”ではなかった。 窓の景観もなしで、これなら余り高い料金は取れないだろう。そんな訳で翌朝うるさかったことを告げると即刻部屋をランクアップしてくれた。今度は正面側の部屋で広くて景観抜群、バスルームも文句なし。 ホテルの裏側7階出口に繋がる広大な園地を持っているのはさすがに伝統ホテルの余裕だ。この出口からすぐの地にチャペルがある。建物は新しいのにホテルの結婚式場としては地味である。多分日曜礼拝もおこなわれるのではなかろうか。反対側には下の案内板とその燈籠がある。アメリカの富豪と結婚した祇園の芸姑お雪さんは渡米後夫と死別し、莫大な遺産を受け継ぐが排日法でアメリカを追われ、パリに移り住む。新しく伯爵の恋人をえるが結婚によって遺産を失うため結婚も出来ず、遺産も恋人の仕事に使ってしまった。お雪さんの生涯は「モルガンお雪」として1951年に帝劇ミュージカルにもなったそうである。このみやこホテルでモルガンと逢瀬を重ねた記念に下の石燈籠を寄付したそうだ。 燈籠の近くにはホテルの別棟”佳水園” がある。枯山水を摸した石亭を持っていたり、せせらぎには自然石の上を流れおちる湧水が音を立てたいる。 さらに歩を進めると下の表示板が有る。敷地内に稲荷神社や野鳥の森まで有るとはさすが戦前からの国際ホテルで日本離れしている。ロケーションは日光金谷に通じるものがある。 備え付けの杖を借りてお稲荷さんまで頑張ってみることにした。 その甲斐あって急に視界が開け部屋からのものよりも格段に見通しのきく洛西・洛北・洛東の景色が広がっていた。 上の合成パノラマ写真を分解してズームしてみるとみると、左端に見えていた赤い物は平安神宮の大鳥居で緑屋根は京都市立美術館。 さらに山門、本殿と認めることが出来る。 6階の部屋からは分からなかったがこのお稲荷さんまで上がるとはるか北の方に川を認めることが出来る。橋の下に多くの緑地が見えるところからすると写真の辺りは鴨川の上流で上賀茂神社や植物園の広がる賀茂川だろう。 パノラマ写真中央部の小山は京大が有る吉田山そして手前の三重塔山が見える山が法然さんの開基した金戒光明寺、俗称黒谷さんである。パノラマ右端に見える大屋根は南禅寺山門、歌舞伎で石川五右衛門が京の街を見下ろし「絶景かな絶景かな」と見栄を切る場所だが、なるほどこちらからよく見えると云うことは向こうからも良く見えると云うことだろう。 光明寺や南禅寺については一昨年秋私のブログに詳しく記したことが有る。
2012.06.02
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竹田寺町前ブログに記したように竹田城は山名宗全の配下太田垣光景の居城となり、幾多の抗争の後赤松広秀の居城となっている。現在はJR竹田駅のすぐ裏手に有る寺町通りに4寺が並び立ち、山名・太田垣、赤松に仕えた諸将が寺町の諸寺に祀られている。何れの寺も土塀に囲まれ塀の下を流れる清流竹田川に懸けられた石橋が山門に通じている。但馬には江戸期に建造された石橋が七つあり、そのうち四つが寺町通りにありこれら諸寺の山門に通じるものだそうだ。 街の通りとも思えない大名庭園の清流の雰囲気を感じる所である。 善証寺山門 この寺町も近年の整備で遊歩道の片方は見事であるが反対側は住宅地で 一寸頼りない観光スポットではある。 赤松氏の菩提寺法樹寺の山門と白壁の塀、それへと導く石橋はみごとな 調和を見せている。 法樹寺 赤松氏は政務は城で司ったが生活の場はこの寺町に有ったらしく、案内図 には寺の後方の森一帯が赤松氏居館跡と印されている。寺とは遊歩道を 挟んでJR播但線の竹田駅ホームとなっている。 播但線は本数も少なく和田山駅までは1駅なので帰りは和田山駅まで タクシーを利用した。時間が有ったので早めに改札を通りホームに出てみると、 目の前には空き地が広がり、明らかにSL時代の給水塔が残っている。 そ して同じ空き地内に煉瓦造りの工場跡が見える。左側の背の高い二つの エントランスはここにレールが引き込まれSLがここで修理整備されたことを 示してい る。懐かしい光景がそのまま凍結された風景にノスタルジーを感じ ざるを得ない時を過ごした。雑草の生い茂る空き地はレールが敷かれて貨物車 などが置かれて いたのであろう。播但線と山陰線が交わる和田山駅が重要な 鉄道拠点であったことが分かる。 遅い昼食を取ろうと案内を乞うと タクシーの運転手は街からお店が消えて しまったと嘆いていたがそれを如実に示す光景である。
2012.06.01
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