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竹田城 (2) 「日本のマチュピチュ」とか「天空の城」などと表現される兵庫・但馬の竹田城私のカメラワークや季節事情など考えるとやはりプロにはかなわないと駅前で絵ハガキを求めておいたのは正解であった。竹田の街を挟んで反対側の峠から見た晩秋の竹田城址、晩秋から初冬にかけて円山川から立ちこめる霧が谷間を埋め、城は雲上の楼閣と化す。まさに「天空の城ラピュータ」か黒沢映画「雲の巣城」の出だしの光景である。 この季節天守跡から下界を眺めると下の光景になる。 そして冬、穴太衆積みの城壁も白黒の世界となる。 そして春はまさに城壁に沿って咲く桜と楽しみが多い。 絵ハガキの写真は季節や光の具合など条件を揃えたもの、それに比べて 我が写真館には真上からの日差しと春霞ではっきりせず、霧の演出も無い のは残念。本丸跡から望む下界の街の写真には佇む桜木を添えるも良し、 城壁と柔らかな城郭跡をを近景とするも良しである。 上は本丸より南千畳を望み、下は本丸より北千畳を望んだもの。 楼閣の先は北千畳、南千畳と呼ばれる広場となっており、かってはここで 戦訓練なども行われたのであろう。 帰り道は健脚組なら別のルートを辿るべきだが足痛の私には無理で、またもとの亀さんコースを辿ることにしたが、行きには眼前に広がっていた天守の光景が見返りの景色になるのも名残惜しさを感じていいものである。この3翼からなる城跡の各翼突端には大抵一本の松か桜が植えられている。 後先になってしまったが、この城は室町時代の守護大名山名宗全の家臣太田垣の築いた城郭でもともと砦に近い小規模なものであった。戦国時代一時秀吉の弟秀長の居城と もなるが、秀吉に投降した赤松秀広に与えられた。今のような大規模な山城になったのはこの赤松の時代と言われる。赤松は関ヶ原では西軍に組みし、曲折を経て最後は家康により廃されている。関ヶ原以前には山名・赤松の戦いが何度も有り、城の下には山名・赤松両陣営の戦で散っ武将・雑兵たちの慰霊塔が建ってい る。 城址には正しく ”兵どもが夢の跡” を象徴するように小振りな草花が静かに咲き乱れていた。
2012.05.31
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竹田城 (1)今回の京都への旅での観光冒頭は兵庫但馬の竹田城である。まず山陰本線で福知山へ、急行列車が福知山に着く直前山の上に秀麗な福知山城の姿が見られた。前ブログには記さなかったがこれも立派な山城である。次の機会にはぜひ訪れてみたいところだ。山陰本線が京都から始まると云うのは違和感を伴うが、さらに驚いたのは京都発の山陰線が福知山からは山陰に向かわず舞鶴に向かい山陰本線の和田山に行くには大阪発の急行に乗り換えなければならない。さらに竹田へは播但線で一駅、ここから目前の竹田城址が有る虎臥山への登りは私の足ではとても不可能、結局和田山からタクシーを呼んで山上の駐車場まで行ってもらう。タクシーは大回りして途中ローマの水道橋を思わせる景色の中を進む、この辺り良く霧が立ち込め竹田城を演出する所である。駐車場から城址へのウサギさんコースが無理な私は亀さんコース遊歩道で約20分、城址の石垣が見えてくる。 取っつきの北千畳からは大手門を通して見える石組が壮大である。この山城は全ての城郭が石垣の上に建ち、その石垣が完全な形で残っており史跡としては楼閣のないほうが却って風格を醸している。しかもその石垣は一目で分かる”穴太(あのう)積み” である。大きな自然石を積み上げ隙間に”挟み石”と呼ばれる小石を打ち込んで安定化するこの工法は近江・坂本の穴太衆が編み出したもので先月のブログに記しておいた。 大手門、三の丸、二の丸といずれも石垣で囲まれた楼閣跡の台地を過ぎると三葉のプロペラのような形をした竹田城の一番高い地点、本丸にたどり着く。ここは三つの尾根が合わさる所でここからは四周に展望が利き、それぞれの尾根筋に向かう城郭の石垣と眼下に広がる街や田園そして近代的な高速道路などが一望できる。しかも霧が立ち込めると城は雲上の存在となり外敵からは隔離される。 とは言え私達が訪れた日のように見通しの良い日には絶好の眺望が得られ当然ながらそこには地理院の三角点が置かれている。
2012.05.30
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天空の城 (2)yorosikuさんのブログに浅井3姉妹の育った小谷城があり、下の案内図から見るとここも山の尾根上に長々と続く山城である。物語で余りにも有名なこの城が殆んど城の姿を留めていないのは残念なことである。 外国に目を転じると、ザルツブルク城も私には2度訪れた思い出の城である。城のテラスから眺めるアルプスや美しい町並みは印象的である。 ピンク・ラフランスさんのブログに登場するBurghausenはドイツとオーストリアの国境に立つ美しい城のようである。山城と言うより丘城かも知れないがWikiではヨーロッパで一番長い城とある。丘の上に1kmも続くそうだ。ここでは城の定義も大切で多分城壁で囲まれた区画を言うのであろう。 中国の長江の切り立った険しい斜面の上に立つ、李白の詩で名高い三国史の白帝城も一種の山城には違いない。劉備や諸葛孔明が祀られているこの城に立つとあの大浪漫がしぜんと頭に浮かんでくる。この城は本来長江に突き出た岬の山上のものであったが、私が訪ねた時は三峡ダムの完成で水位が上がり完全に川中島の山城であった。万里の長城は要所要所が砦にはなっているがあとは尾根上の石垣なので山城には入らないだろう。これとほとんど同じく国境の外壁であった北イングランドにある”ハドリアヌスの長堤” もRoman Wall とかHadrian’s Wallと呼ばれ長城とは呼ばない。 最後に下の場面は黒沢・三船・山田五十鈴・千秋実と言った芸達者達が作った1957年公開の映画”雲の巣城”の一場面である。何とこれはシャイクスピアのマクベスを忠実に翻案して日本の時代劇に仕立てたものである。能の動きが取り入れられたり、霧の中に城が浮かびあがったり、森が動き出したりする破天荒で素晴らしい映画であった。この霧の中に浮かぶ天空の城が冒頭に掲げた竹田城の光景に非常に似ていた気がする。半世紀以上たった今でも狂った王が最後に何本もの矢で首を撃ち抜かれ目を見開いた形相は忘れられない。映画と言えば最近のアニメ”天空の城ラピュタ”も記憶に新しいところである。
2012.05.29
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天空の城 (1)吉永小百合さんのTVコマーシャルで知られるJR東日本の”大人の休日倶楽部”がシーズンオフに格安ツアーをやっている。今回は京都みやこホテル3泊4日の超格安プランである。といっても安いには理由が有る。 東京午後発新幹線こだまで3時間半以上、初日は行くだけ帰りも同様に京都午前発こだまで観光は不可。まあサンデー毎日の老人しか利用しないプランである。JRもホテルも空気を運んだり泊めたりするよりも従業員に仕事をと言うことだろう。 そんなことはどうでも良い。今回の旅の最大目的は倶楽部の会員誌で紹介されていた兵庫県朝来市にある竹田城址を訪ねることである。数年前から一度訪ねたいと思っていたら ”日本のマチュピチ” とか”天空の城” などともてはやされ、近年急に注目を浴びている地味な観光地である。秋から初冬にかけて川から湧き出る霧が谷間の平地にかかり、下の光景が出現する。写真を見ると城郭の広がりに見えるけれどもこれはほぼ完全な形で残っている城の石垣なのだ。それだけに松の樹影が美しい。下の地形図を見てみ分かるように独立峰の山上に築いた典型的な山城である。 竹田城についてはもう一度稿を改めるとして、私が今までに訪れたことのある山城について記してみよう。下の写真は上杉謙信の居城春日山城のある春日山とその頂上部に有った遺構の案内図である。当然ながら平城と違って方形ではなく城郭の配置は山の地形に支配されている。残念ながら上杉を継いだ堀氏は治世に不便な山城を捨てたため、城材や石材は持ち去られ案内板が無いと城址と認識出来ないほどであった。NHKで直江兼次のドラマが放映された後のこともあり、史跡公園として整備されていたが、ロープウエイもなく足の悪い私には大変な難行であったことを思い出す。津和野城も切り立った山の上に有った城で、リフトを降りてからでもまるで登山のような気がしたことを思い出す。ただ城址の眼下には森鴎外、西周、安野光雄などを育てた津和野の美しい街が広がっている。戦国時代には砦としての機能優先のため多くの山城が築かれたが明治の廃城令によってその殆んどが壊されたのは誠に惜しい限りである。昨年ブログに記したが犬山城も一種の山城であろう。長良川に面した崖の上に位置し、川側から見ると山上に見えるが町側から見ると平城にも見えるので美しい。室町時代の建設であり近年まで個人所有の城として有名であった。もうひとつ岐阜城を忘れてはならないだろう。ここも昨年ブログに認めておいた。その他にも国内に多くの山城城址が有るだろうが私が訪れたことが有るのはこの程度である。
2012.05.29
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電波塔そして日蝕顛末記・その22012年5月22日昨日の金環日蝕は素晴らしくラッキーであった。自分で確かめられたのは我が生涯最初で最後である。過去何度かあった時にはわざわざ金と時間をかけて見に行く余裕など有る筈がなかった。日本列島の大都市を席巻し、人口のかなりのパーセントが観察できる世紀どころではない世世紀(?)来の大宇宙ショウである。当然昨日からWeb上では美しい画像や動画が溢れ多くの人がその成果を誇っている。一方rakutenは惨めな敗北感を感じてこの報告書を書いている。rakutenとてこのブログに美しい画像を載せたかった。前々日近所の量販店に日蝕用のカメラフィルターを買いに行ったがその店では取り扱っていないと言う。電車に乗って都心まで出れば手には入ると思ったが、ここで妙な挑戦心を起してしまった。まず相棒が1か月も前に購入していた日蝕メガネを借りてレンズにかざせば何とかなるだろうという甘い考えが浮かんだ。しかし実際にやってみると下のようになってしまった。当然ながら金色ではなく未熟のトマトのような色とガラスが厚いための反射光のせいかぼけて惨敗。次いで前日用意したのはリノリューム床材の残りを使ってカメラのレンズ口径に合った筒を作り一端にアルミフォイルを張って中央に細い針で穴をあけてピンホールレンズを作った。以前部分日蝕の際アルミ箔に穴をあけ紙の上に投影して綺麗な蝕を見たことが有る。ただこれだとせいぜいアズキ大にしかならないがそこはズームカメラを使って拡大して撮影しようと考えた。結果は下の画像が精一杯であった。要するにズームアップした場合フォーカスできる距離にクリアな像を結ぶことが出来なかったと云うことだろう。ピンホールカメラだからどこでも焦点が合うと考えたのが失敗である。対称の焦点振動は無限大でもズームレンズを通した場合やはりレンズの焦点距離は重要らしい。いずれにしても使い物にならないので日蝕メガネを使って肉眼観察に専念した。リングを過ぎて暫くすると地球が雲のフィルターを作ってくれた。裸のカメラで綺麗な1日月か2日月のような蝕を捉えることが出来、移りゆく雲の流れで刻々と変化し実に美しい光景を見ることが出来た。当然ながら色ガラスでは黄金色は見られずオーロラと月を見ている感じであっった(と言っても実際にこんな光景は経験がない)。悔しいので最後にピンホールレンズそのものを映してみるとアルミフォイルに丸く開けたつもりのピンホールは丸型どころか全くアぐりーな形状である。 ところで色々調べている内に気になることが出てきた。人によって金冠と書いたり金環綴ったりしている。確かに両者とも頷ける、冠は夢が有り、環は正確な表現である。天文学上英語の重要度は判断しかねるが 英語ではannular solar eclipse で annularは環状の意、eclipseは重なりの意なので”金”の色はどこにもない。”金”は夢が有り優れた命名と思うが、昔の日本人は色眼鏡で日蝕を見なかったと云うことだろうか。そう云えば私が初めて日蝕を見たのはガラスにロウソクの煤を付けて作った自作のグラスだったが、それでは実物以上に金色に見えた記憶がある。 さらに”蝕” と ”食”も混同されている。日蝕と月蝕を合わせて表現する場合は”蝕”なので”日蝕”が正しい用法と思うがいかがだろうか。ついでに今回初めて知った言葉に”bailey bead(ベイリービーズ)”がある。日蝕の始りと終りの瞬間に月の起伏が太陽に投影されてリングがとぎれとぎれになることで、日本の探査衛星”かぐや”が集めた正確な月のデータとこのbailey Beadを組み合わせて太陽の大きさがkm単位で計算できると言う。太陽の大きさは今でも数百kmの誤差でしか知られていないそうである。”たかが日蝕、されど日蝕、あな恐ろし” である。 以上悔し紛れの考察で繕って撮影惨敗の記とする。
2012.05.22
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電波塔そして日蝕顛末記・その12012年5月22日ここ数日どのテレビ局も金環日蝕とスカイツリーにかこ付けたプログラムばかり流している。そして昨日は日蝕そして今日はスカイツリーの一般公開初日である。それぞれ一大イヴェントではあるが何の関係も無いように見える。ところが大有りなのだ。1958年(S33)12月24日当時世界一と言われた東京タワーが一般営業を 開始している、そしてなんとこの年4月19日には鹿児島県で金冠日蝕が見られた。その後もう一度1983年沖縄で見られているが今回のように九州から関東にかけて多くの大都市を巻き込んだのは平安期以来だと云うではないか。今回も金環日蝕とスカイツリーの営業が見事に重なったいる。世の噂雀たちはこれらの年何れも巨人が優勝しているとか、58年のそれが見られたのは悪石島だったとか、東京タワーはゴジラに壊されたがスカイツリーにはどんな怪物が現れるだろうとかかしましい。平和ボケのうわごとではあるがまあ平和に越したことは無いので良しとしよう。 rakutenはこの種のから騒ぎを喜ぶ性質ではないが東京23区の対角線上に位置するこのSky Tree(天空樹)は食卓の我席の正面に見えるので嫌でも目に付いてしまう。残念なことに今日は昨夜来の雨である。大変な苦労をして今日の入場券を手に入れた人はべそを?いていることだろう。世界一の塔から日本一の富士の峰を一番に眺めようとした人にはどんな思いが去来するのだろうか。 私がこの天空樹を初めて目にしたのは2010年の正月で、下の写真に見える近くのマンションの青い水道タンクの左側に突如現れた。正確に言うと私の食卓席からはこの水道塔と完全に重なり、クレーンだけが見えていたが確認は出来ていなかった。ところが隣りの部屋からはっきりと区別できたのが1月4日で持ち合わせのズームカメラで捉えることが出来た。小さな部屋の右と左で見えたり見えなかったりするのは驚きである。太陽の400分の一の月が太陽をかくしてしまう月食と同じである。あんなにも遠い存在の太陽が東京では金環、新潟では部分日蝕になることが実感できる。 2010.1.4分かってしまえば食事のたびに自然と目が行きその成長が肉眼でもはっきり分かるようになった。鉄骨構造が一段落した後アンテナ部が大分上に伸びてきた。下の写真では右のマンションは約2km先、そしてツリーは直線で我が家から13-14km離れているのに奇跡的によく見える。 2011.3.18 2011.8.4これからは空気が澄んだ日にはイルミネーションが楽しみである。
2012.05.22
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近在の桜の記録 私自身にはあまり思い入れは無いのだが桜の時期になると相棒はじっとしておられずせわしなく動き、大抵はお伴を仰せつかる。せわしない日々だったが昨年12月24日石垣島で桜が開花し、今月の14日ついに稚内でエゾ山桜が開花したそうだ。したがって丁度この週末をもって日本の花見が終わることになる。逼迫した世相にあって、まずは平穏な日本の花見であった。トピックスとしては5月2日旭川で開花宣言がなされ、同日午後にはいきなり満開宣言が出たと言う。北国では冬の次は初夏だとよく聞かされる。私自身も昔ボストンで暮らしていた時、街路樹が芽吹いたと思ったら一週間くらいでもう青々と茂ったのにビックリしたことがある。それにしても日本最北の街とは言え一日で開花~満開とは珍現象である。花見の宴が終わりかけるともう散ってしまったなどと言うこともあり得、開花6日後の今日はもう葉桜かもしれない。 今年も京都・近江、信州へと桜見物に出かけたが、我マンションの真下は石神井川の川畔で無名とはいえ素晴らしい桜並木がある。そんな訳で一応今年の近在の花を記録して今年の花見ブログを閉じることにする。 何気ない通りの橋の手摺りも最近塗装されて桜とマッチしている。 我が家から歩いて5分くらいの処にY型の”みあい(三会?)橋”があり、街灯もこの時期だけは似合っている。楢の木に見える塀は無粋なコンクリート製である。橋の上から眺めると両岸から差し出された枝が着飾ってデートしているみたいだ。上流の都営団地内には水面に近い遊歩道があり、花の時期は賑わっていた。 さらに数分川をさかのぼると石神井公園・三宝寺池が有りしゃれた邸宅や観音堂・池上東屋などがあり、それぞれ桜に縁取られて良い風情を醸し出している。ひらひらと舞うように揺れる柳の若葉と桜の組み合わせもなかなかのものである。 三宝寺池はなるべく手を加えず自然の生態系を保護するよう努めているので都内では珍しい野鳥の宝庫でもある。睡蓮や枯れた葦の中に混じった花も良いがこの桜木の辺りにカワセミの巣が有りここからよく餌を取りに飛び立っている。特筆すべきものでもないが今年の桜を締めくくるため近在の記録を残しておく。
2012.05.20
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富士の山今回の連休三日間の家族合宿は一日中富士山を眺めながら神奈川と静岡に暮らす3人の孫達に共同生活を経験させてFamily Tie を意識させ、将来誰かが苦境に面した時助け合える関係を築いておくのが目的である。これを築いておかないと経済的援助は出来ても精神的援助には至らいと考えるからである。そんな訳で私は財的なものを残さずこのような関係を残しておきたいと思い、正月・春の連休・お盆休みに忙しい息子達に代わって老妻が企画・準備・手配など一切を引き受け10年来この家族合宿を実行してきた。幸か不幸か孫達に母親方の従兄がおらず彼らにとっても3人だけが従兄同士の関係なので息子達のお嫁さんも気持ち良く協力してくれる。 さて富士山であるが前ブログに記したように5月3日は雨、翌日も終始曇り空、ありがた山に登ってみても第二東名高速の橋桁の向こうにすそ野が垣間見えるものの富士の姿は無い。 この丘で面白い木を見つけた。俗に言う”ハンカチの木“である。中国原産のこの木は日本語では「ハンカチの木」とか「幽霊の木」、 英語ではDove Tree(ハトの木)と呼ばれるそうで、ハナミズキの仲間。ハナミズキ同様白いのは花ではなく花の近くの葉(苞葉)が変色したものだそうだ。多年草の”ハンゲショウ”がそうであるようにこの白い葉は後には緑化するのであろう。3日目の朝Peter Rabbit Houseの丸屋根の上に白雲と富士の峰が見えた。 東屋からも良く見える。 朝食後早速おもしろ山へ上ると青空・白雲・新緑のコラボレーション。 すっかり花びらを落とし今はもう紫色の花柄も見えず、みずみずしい新緑の桜木が美しいつかの間の季節である。 美しい景色に汚点を画すのはいつも電柱である。我が国の場合風景の中に必ず人の住む場所が共存していると云うことだ。 老木の桜に出動願って電柱を隠すも電線は消えず。 それでも新緑の扇で雲を吹き飛ばして貰ったら端正なお山の姿が、んんーやっぱり日本一の山だ。中腹の窪みは宝永4年(1707)の大噴火口である。 宝永噴火について少し調べてみる。宝永3年10月4日東日本から南日本の太平洋側で南海トラフを震源とするマグニチュード8.5~8.7の大地震が有った。昨年まではこの地震が我が国の地震史上最大のものと記録されており、犠牲者は5千~2万人と推定されている。この時の津波は最高25.7mとされている。前の年号の元禄16年にも大地震が有り、さらに赤穂浪士事件やこの地震の験(げん)改めのため年号を目出度い「宝永」に改号した効果は全くなかったようである。 そしてその49日後の宝永4年11月23日富士山は大噴火、大量の火山灰を関東地方にまで降らせ、江戸でも昼間提灯を灯したと云う。この噴火はいわゆる火砕流噴火でここ御殿場では3mもの憤石・火山灰(火砕流)が堆積したと云う。平安時代貞観年間の大地震では火山岩・マグマ流が主でこれは山の反対側に流れ青木ヶ原を形成した。余談になるが戦後しばらくこの青木ヶ原で自殺する人がかなりいた。その理由はここが余りにも鬱蒼とした原始林で昼なお暗く、ここに迷い込むと方向感覚を失い昼間でも外には戻れず、捜査も入らないので遺体も出ず、みじめな姿をさらすことも無いとされた。当然小説では失恋した多くの女性がここで永遠の行方不明者になった。確か松本清張の”白い巨塔”でもここがエンディングだった記憶がある。今回の我が家の合宿の場所もさかのぼれば色々な歴史を秘めた場所でもあったわけだ。
2012.05.14
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おもしろ山・ガ‐ゴイル(Gargoyle)先日京都の安倍清明神社をブログ種にしたとき、死神像の写真を掲載したらヨーロッパの古い建築に見られるgargoyleみたいだと教えてくれた人がいる。目的は少し違うが屋根の装飾という観点からは日本本土の鬼瓦、沖縄のシ―サ、中国の建物にも屋根の稜線に竜や英雄の像を見ることが有る。そう云われてすぐ思い出したのがあのパリ・シテ島のノートルダム寺院である。昔見た“ノートルダムの背虫男”と言う映画で見た無気味な怪物の像である。ノートルダムガ‐ゴイルとは本来怪物などの彫刻をを付けた雨どいのことらしい。 雨どいの水の排出口としての機能を持ち、語源的にはフランス語のgargouilleに由来するとされるが、この語はもともとラテン語で水が流れる時のゴボゴボと云う音に由来するそうだ。そう云えば英語の”うがいーgargle"も同源であろう。前置きが長くなってしまった。時の栖・おもしろ山の登り道には創作ガ‐ゴイルがズラリと置かれている。犬の怪物 ?犬、ワニ、ペガサス ?孫悟空の孫 ? カメレオンの怪物 ? 耳が生えたトカゲ ? アルマジロの怪物? ガラパゴスから出張 ?疲れたライオン ?手を見るとこれは人間だろう、よく見かける怒れる老人羽の生えたブルドッグ ?ところで私はbulldogとは雄牛のような犬でbullとdogの併せ言葉と思っていたが、昔英国で犬をけしかけて雄牛をいじめるbullbaitingという見世物があり、この犬をbulldogと呼んだそうだ。いずれにしても色んな想像を掻き立てるおもしろ山の参道である。
2012.05.13
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おもしろ山・はにわ群時の栖には3つの丘が有り、一番高い丘は”ありがた山”で坂道の両側には無数の観音像が配置されている。それぞれ個人の名前が記されており、寄進することが出来るようだ。つぎに園地の反対側の丘は”おもしろ山”で、ここの頂上付近には”はにわ神社”と称する赤い鳥居と社があり、前の広場には埴輪の大群がいた。埴輪と言っても形は色々で明らかに子供の作品から考古学的考証をしたと思われるものまである。春の連休中はクローズされていたが山の下にやきもの工房が有り、赤土を重量で売っている。これを買うと塑造方を指導してくれる。焼きあがったものはもちろん持ち帰りも出来るがここに飾っておくこともできるようである。下の一群は人物大のサイズで形も良く明らかに玄人の作品である。本来ならこれらの写真の背景には画面一面の富士山が有るはずであるがこの日は全く姿を見せなかった。別の一角には創作埴輪が飾ってあった。王冠を付けたキング、我らが皇后陛下のような帽子を付けたクイーン、お供がちょんまげのの武士とは?マーク。離婚を迫られている夫婦像 ? こちらは円満な夫婦像、バスケットを下げて仲良くショッピング?
2012.05.12
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時の栖・スローハウスビラ 今年の春の連休家族合宿は御殿場の”時の栖(すみか)”に行ってきた。5月3日、前日東海・関東地方は豪雨に見舞われたが当日の東京は小雨であった。一日3-4便ある小田急新宿からJR御殿場線に乗り入れる特急が有るので発売日に予約した、ところがこの豪雨で御殿場線が不通とのアナウンス。途中の新松田までは運行すると云うのでとりあえず乗り込んだ。車中で色々ルートを研究している間に御殿場線は不定ダイヤで運転を再開したとの車内アナウンス。とりあえずその日の内に着けば良いとJRに乗り換えることにした。1時間くらい待って松田からの電車は発車したがノロノロ運転で、特急で20分の処を1時間半かけてなんとか3時間遅れで御殿場に着いた。静岡からガラガラの第二東名高速をつかって午前中に着いた次男一家の男の子がお兄ちゃん従兄と遊ぼうといらいらしながら待ちかまえていた。 時の栖はホテル、旅館、コッテージ、ユニットハウス、パオ風スロウビラ、ティピ風テントと色んな宿泊施設があり、今回はパオ風スロウビラ3棟を借りた。すべて丸型の白壁造りで屋根はスレート葺き、 イタリアのアルベロベッロを思い起こさせる屋並みである。アルベロベッロ室内は普通のホテルと同じである。部屋は4ベッドとロフト部屋のユティリティータイプ、私たちの部屋は同じサイズに2ベッドなのでソファーやテーブル、マッサージチェアーが付いていてスペースに余裕があり、皆で集まる場所に適していた。各棟には外壁に綺麗な壁画が描かれている。今回我々が泊まった区画には綺麗なワイルドフラワーが描かれていた。 街灯もガス灯風で中心広場には東屋風の屋根が。 我が家の玄関は至ってシンプルである。 私達の区画は野草壁画であったが、隣の区画はピーターラビットの区画で各棟には外壁に綺麗な壁画が描かれている ヴェアトリクス・ポターの絵本に登場する小動物たちが描かれている。私は内部を知らないがグラスやベッドカバーにも彼らの絵が付いているそうである。小さな子供ずれには動物たちと一緒に寝られて喜ばれることだろう。 我が家の女の子は隣のブロックのピーターラビット村に泊りたかったみたいだが今回は前もって申し込むことを知らなかった。ピーターの村は少し宿泊代が高いみたいである。
2012.05.11
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高遠城址松本城を後にしていよいよ今回の旅のハイライトである高遠城址に向かった。ここはいつもは静かな観光地だが桜の時期は伊那路を辿っても諏訪路を辿ってもほぼ一本道のため大渋滞し、何時間もかかることが有ると脅されていたが土曜日にも関わらずそれほどでもなかっ た。今年の開花がかなり遅れたため団体旅行の多くが開花前企画され済んでしまったせいかもしれない。とは言っても狭い駐車場に百台以上のバスがっ止まっている情景は圧巻である、そして駐車場の周りはもう高い木立の桜一色。高遠城は二つの川が出会う河岸段丘の突端に位置し、上から見ると平城にしか見 えないのに他の三方からは川より80mも高い山城に見えるそうである。 上記のようにここは諏訪から伊那に抜ける交通の要所であり、高遠藩は武田信玄に侵されてしまい、後に織田信長の攻撃にもさらされている。満開前とはいえ週末の花見は最高潮である、桜も多いが人出も半端ではない。満開前の利点は晴天時、空の青、白い雲、ピンクの花びら、曲がりくねった幹が連動して動いて見える。テレビの常套手法として遠景と近景を同じ画面に納めカメラを移動すると立体画面に見えるがここでは雲が流れてその効果を出してくれる。 ここの桜は”高遠彼岸桜”であるがこれは明治初期の廃城令で取り払われた後の城址全体に植えられもので、樹齢130年位のものが多く今その壮年期ではあるまいか。場内には空濠が多くあり”桜雲橋” の下の空濠の小さな池では花見客の騒音に交じって蛙の鳴き声が響いていた。 春にしては異常に暖かい日で何年振りかでなめた”桜ソフトクリーム” は実に美味しかった。 城跡とて大小多くの顕彰碑や句・歌碑が建っている。私が一番気に入ったのは下の”無字の碑” である。碑文のない石碑を見たのは初めてである。写真が暗いせ いではない、本当に何も書いてない。余計なことに横に説明の石碑と説明板が有る。一人の高遠出身の郷氏の顕彰碑を建てようとの動きを知った本人は「政治家 の頌徳碑を建てるのは間違いである。人間の価値は棺の蓋をした時に初めて分かる」と固辞した。顕彰会も諦めず碑文を刻さない碑を建てたのだそうだ。この人 物は警視総監・台湾総監督・東京市長・貴族院議員を務めさらに郷里の治山治水につくした井澤多喜男である。この碑のミニアチュアを作っ全ての政治家に配っ てはいかがだろうか。 異様な赤球が見えるがオリエンテーリングの符牒であった。 何はともあれ高遠の桜は素晴らしい。とに角花の量が半端でない。 へそ曲がりにとっては染井吉野でないのが気に入った理由の一つである。 太鼓楼は江戸時代から1943年まで時間を知らせ続けた塔屋を再現したもの。江戸期にあっては常に番人を置き予備の刻み打ちを繰り返した後時の数だけ大太鼓を打って時を知らせたそうだ。 最後にもう一度”タカトオコヒガンザクラ” の艶やかな姿を!
2012.05.10
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松本城ツアーバスは上田城の後、須坂臥竜公園に立ちよったがここは開花したばかりで特筆すべきものななかった。そして宿は白馬、ここまで来るとさすがに北アルプスの里である。左から杓子岳、白馬岳と続く後立山連峰はまだ真白な山容で白(苗代)い馬形が現れるのはまだまだ先の様である。 この日朝一番の訪問は松本城、上高地・乗鞍地域を訪れた際度々松本は通過しているがこの名城を訪ねたことがない。初めて目にした時その黒く落ち着いた色調と五層の天守を気に入ってしまった。よく似た姿かたちに熊本城が有るがこちらは平城で内濠に面して建っており水面に映る姿が美しい。この天守は矢狭間・鉄砲狭間や石落しを備えた砦の性格と江戸以降の平和な時代に増築された開放的な月見櫓などが同居している。 下の写真で左に突き出ているのが月見櫓で戸を外す三方が見渡せる構造。その月見櫓から見る庭園越しの春の風景である。 庭園に降りてみるとやはり目に入るのは北アルプスの山々、戦国大名達にとって東の国境はこの山岳であり、最大の防御壁であった。もっともこの山脈よりもはるかに高いヨーロッパアルプスを象部隊で越えイタリアに攻め入った古代のハンニバルやナポレオンの軍勢を思うと、これに比べて戦国時代日本の戦はコップの中の渦みたなものだったのかもしれない。何年か前ナポレオンが進軍したアオスタ渓谷を訪ねたことが有るが昔の軍士の発想に驚いたものである。 この時期松本城から信州の山々を望むとそんな戦国の時代よりも月見櫓の粋人達の豊かな風流の心しか浮かんでこない現代もまた平和な時代である。。 天守閣から北方を望むと重文・松本開智学校がよく見える。ここもまだ訪れたことがないが明治の洋館特有の左右対称性、中央望楼、2階バルコニーなどがはっきりと見て取れる。明治期日本の棟梁達が建てた模擬洋館は西洋のそれのように装飾的ではないが端正なフォルムで建築史的に見ても傑作ではないかと思う。 もう一度”春高楼の----” と口ずさみたくなる姿を留めることにする。
2012.05.09
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信州上田城前週の京都・近江路の花見見物でさくら色にはいささか食傷気味であるが我相棒の花欲は旺盛である。今度は信州の桜だと言う。逆らうと後のたたりが怖いのでいろいろ条件を付けて従うことにする。信州の桜ベストは高遠城跡、毎年激しい渋滞を繰り返している。滞してもOK のトイレ付バス旅を発見して申し込んだ。この旅最初の訪問地は上田城址公園、ここは言わずと知れた徳川を悩ませた勇猛真田の城。少年時代講談本で読んだ真田十勇士の物語を思い出した。三好青海入道、猿飛佐助などの超人的活躍に心躍らせたものである。関ヶ原の戦い・大阪城の陣などで大いに名をはせた真田幸村であるが超人的なこれらの人物の何人かは物語上の創作だったようだ。 さてここは一昨年秋に紅葉見物に訪れている、その時はタクシーで入口の櫓付近まで乗り付けたが今回はとてもそんなことは出来ない。旧外堀のさらに外の駐車場から埋め立てられた外堀を歩いて櫓門へ向かう、この濠跡はかって上田電鉄の鉄路が有った所で、今は見事な並木路である。桜や紅葉の時期電車で通れば気分が良いことだろう。濠跡から上がり入口の櫓門に出る。南櫓・東虎口櫓・北櫓の三つを繋げて現代上田城跡の城門としたもので、後者二つの櫓はそれぞれ北櫓・東櫓を移築したものと思われる。考証的には問題もあろうかと思うが、通常、城の4隅に位置する櫓を移築して併築し豪壮な公園門とするのはよく考えたものだ。 南櫓東虎口櫓北櫓 解説書を読んだわけではないので間違いかもしれないが、多分東虎口櫓は寅の方位に近い東側の櫓門で南櫓門と共に城の正式門だったのをこの南櫓と併せて公園の主門としたのであろう。何れの櫓も満杯の桜花に覆われて見事な季節を満喫している。真田の勇士たちもこの風景を愛でたのだろうか。 内堀の水面に映る白い影はトランキライザー10錠分くらいの薬効が有りそうだ(もちろん冗談、こんなに飲んだら命に関わるかも知れない!) 元の位置に復元されている西櫓、見張所・武器庫としての本来の櫓の位置でありその姿だろう。彼岸桜の系統であろうか染井吉野よりはやや色の濃い花色に黒い櫓がよく似合う。
2012.05.08
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東寺今回の京都旅行は新幹線コダマと大津プリンスを組み合わせた格安プランなので帰りも昼過ぎの出発、そんな訳で最後の日の観光は新幹線口のすぐ近くの東寺に行ってみた。余りにも有名なこの場所はいつもポスターで見かけるのでとっくに行ったようん気分になっていたが、考えてみればまだ一度も訪ねてない所だ。近いとは言っても歩くと時間がかかるので近鉄で一駅の東寺駅から歩く。 東寺は都が奈良から京都に遷都した時西寺と共に建てられたもので、当時の御所は現在のそれよりもかなり西に有ったため、当時、東寺は御所より東に位置していた。そして東寺は昔の位置に残り今も東寺と呼ばれている。真言宗総本山・教王護国寺が正式名である。ここは後に弘法大師・空海の主な活動の場となり、皇室とも深い関係がある。西寺は東寺との雨乞い祈?に敗れ、今はその遺構を残すのみである。九条通りの壮大な南大門から入るとすぐ左に土塀に囲まれた灌頂院の大屋根が目にはいる。さらに左側に続くのは本坊(小子坊)の唐門、寺院の唐門は朝廷からの勅使を迎える門の場合が多いが、ここは室町時代の混乱時後醍醐天皇に抗した光厳天皇が座し祀りごとをした場所でもあり、扉上部には菊の紋どころがみえる。南大門の正面には壮大な金堂があり、中央に薬師如来像が祀られ両側に日光・月光の脇菩薩がしたがっている。全体金箔の巨大な仏像であるがもちろん撮影禁止。 そして金堂の後ろ並びには巨大な講堂がある。講堂と言えば仏法を説くための大広間を思わせるが、ここは堂全体が立体曼陀羅となっている。弘法大師のデザインで大日如来の像を中心として二十一躯の仏像が安置され、仏たちが極楽浄土の愉悦の世界を具現していると言う。文字を解さない民衆に仏法を説くための手段としてあの世・この世の入り混じった模様を書いた絵画を一般に曼陀羅と称するが空海は仏像を立体的に配することでよりリアルに表現している。ここには国宝や重要文化財の仏像が文字通りごろごろしている。 東寺と言えばどのパンフレットでも見かける五重塔と桜の景色を示す。この五重塔は高さ55メートルで日本一の高さ、塔と言うより高層ビルだ。池面に映る五重塔と枝垂れ桜のコラボレーションは無信心な私にも涅槃の域に見えてくる。 不二桜の左側から見た塔も絵になる構図、この”不二桜” はまず岩手県で芽生え三重県の園芸園で成長し、平成18年に三重県から移植されたもの。樹齢120年の桜で千二百年の歴史を持つ東寺に有ってはほんの新参ものである。“不二桜“ は品種名ではなくこの木のニックネームらしい。 この日(4/13日)そろそろ花びらが散り始め、旧堂が建っていたと思われる丸い礎石の周りはピンクの花びらで覆われ始めていた。 帰り道のどこから眺めても絵になる桜と塔の組み合わせである。 一枚くらいは桜のない塔も良いかも知れないと最後に白鷺に登場してもらった。柳の新緑と雪柳の白も結構塔を引き立ててくれる。
2012.05.07
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坂本の街(連休のFamily Tieも無事終了、また爺婆の静かな時間・空間のはじまり)里坊のほとんどは“穴太(あのう)衆積み”と称する石垣に囲まれている。穴太衆積みとは下の写真に見られる”野面積み”のことで、自然石を使って平らな壁面を造ったもの、全国どこでも見られるが坂本の近くに「穴太」と言う里が有り、そこの石工が全国に展開して 作ったものが多いそうだ。穴太は旧仮名使いでは”あな(穴)” ”太(ふ)”がなまったもので、そう云われてみれば不可思議な読み方でもない。なにしろ私は 小学校3年生までは旧仮名使いで教育され、よく時代を揶揄するのに使われる”てふてふ(蝶々)” もそんなに不自然に感じない世代である。坂本は坂の町であり多くの家屋は傾斜地に有るため一般家屋でもこの穴太衆積みで溢れている。参道脇のお休み処芙蓉園は旧里坊・白毫院で喫茶部屋の前には小規模ながら苔むした回遊式庭園が有り、池に映る枝垂れが桜が一杯のコーヒーの味を上質にする。脇の塚には穴太積みの洞窟が有った、説明版によると昔飢えに苦しむ人々を救うための一種の公共事業で、宗教的云われは無いそうである。脇に真新しい貼り紙が有り、最近テレビ放映されたドラマで”大阪城(?)のプリンセス” と言う番組で千姫が脱出する隠れ道として使われたそうだ。参道近くに有る古い商家は何を商っていたのだろうか、今はサラリーマンの住屋なのだろうか。 近くに見事な樹形のしだれ桜が目に付いたがカメラにはどの角度でも電線が邪魔になる。隣地に天台宗宗務所と記された門があったが“非公開”の掲示。邸内を覗くと2人のお坊さんが外でタバコを吸っている、顔が合ったので樹形を褒め門の中で写真を撮らせてもらえないかと問うと、「建物には入らなければどうぞご自由に)と有難いお言葉。それにしてもこの喫煙光景はサラリーマンがトイレの隣りの喫煙所でもくもくやっているのと違わぬ光景である。 この桜については何の知識も持たなかったが、Webで調べてみるとやはり銘樹で、”太閤ざくら“ と称され秀吉の侍医の住まいだった場所に有ると云う。今もそこには“薬樹院”という里坊がある。薬樹とは医者らしくて良い名である。坂本駅に降りて最初に入った蕎麦どころ鶴喜は創業二百八十年続いているそうで、上げ棟3層の造り、写真を眺め返して感心したのは2階外廊下の鶴の透かし彫りである。均一的な模様なら驚くに値しないがよく見ると全ての図柄は鶴の異なる姿である。 私がわざわざ尋ねてこの店を訪れたのは何年か前京都四条河原町に有る鶴喜そばでその名を知っていたからだが、正確には両者は兄弟企業の様である。駅への帰路街中の神社にはばっさりと切られ、そこから新しい枝が出始めた楠が見えた。 特筆すべきものは何もないがその異様な樹形に思わずレンズを向けてしまった。
2012.05.06
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坂本・日吉大社琵琶湖と比叡山に挟まれた坂本の町は三塔十六谷三千坊と言う比叡山と琵琶湖の水運が結びついた一大商業コングロマリットでもあった。ここで言う比叡山は今の延暦寺だけを言うのではなく山麓の日吉神社も一体のものである。日吉神社の神輿を担ぐのは山法師と称する比叡山の僧兵である。明治維新までの日本の宗教では神仏習合で、神社と寺は一体化したものであった。今でも大きな神社や寺の隣りに寺や神社が位置し奇異な感じを受けるのはこのためである。明治政府は神社を寺より上位に配し、政治に利用したので多くの僧侶が世俗に帰したり神官に鞍変えしたりしている。日吉神社の名は日枝(比叡)に由来するそうで坂本の日吉神社は全国3800余りの日吉・日枝・山王神社のの総本宮である。上の日吉大社の鳥居は異形であるがこれは神仏習合のなごりだそうだ。 日吉大社は西社、東社2つの本宮を有するが、下の写真は西社の3基の豪華な金貼りの神輿で、前ブログに顔を出した東社には4基の神輿が有る、そして山王祭りのこの日(4/13)の夜、宵宮落しと称する4基の東宮神輿が西宮に渡り、下の3基と並んでこの神輿舞台に並ぶ。翌4月14日には7基揃って”神輿振り”の後”船渡御”と称する琵琶湖への船旅が有るとのこと。神輿振りとは昔荒ぶる僧兵たちが神輿を担ぐさまを言ったものらしい。二千百年以上の歴史を秘める神社とて境内には色々な高貴なものが見える。徳川家の家紋三つ葉葵は実存せず、下の双葉葵に一葉を添えたもの。風雨であろうか落雷であろうか中折した檜の巨木からは新しい孫(ひこ)芽(ばえ)が育ちそれがすでにかなりの大木である。 苔むした石も昔何らかの神が座したものであろう。東・西両社の間に室町時代建造の7基の重文指定の神輿が展示されている。もちろん時代的には遡るが平安時代比叡の僧たちが担いで都に”強訴”したのもここ日吉神社からこの神輿を担いでである。先日放映されたNHK”平清盛”の強訴シーンで清盛が矢を射かけた神輿はこれそっくりであった。時代考証はこの神輿を参照したものであろう。境内を出てかっての里坊跡の芙蓉苑と言うお茶どころに立ち寄ると、そこに昔の道案内が再現されていた。写真を掲げたのは囲みの記で今はケーブルでカーで片道11分、840円の道程の篭代が「80銭」とある、さらに驚いたのは「腰押し40銭」とある。重い篭を二人で担いでも一人40銭の稼ぎなのに腰押しでも同じ40銭とは驚きである。それにしても腰を押されて登る自分を想像してもどんな姿勢で歩くのだろうか実感が湧かない。日吉神社の参道周囲には延暦寺の隠居僧が暮す「里坊」と称する寺院が50余りあり、それぞれ小規模ながら素晴らしい庭や寺屋の佇まいを見せている。
2012.05.03
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日吉大社山王祭り・稚児武者行列三井寺と琵琶湖疎水取水溝をめぐり京阪電鉄三井寺駅から坂本の街へ移動し、鶴喜で蕎麦を頂いて外に出てみると何やらじゃらじゃら音がして行列が見える。よく見ると鳶の格好をした人、少年武者、紋付き袴、袈裟の坊さん、礼服姿の人達が長い花山車を従えて近ずいてくる。この日は坂本の日吉神社の春の大祭・山王祭りの日で午後、稚児武者行列が有ると知った。参道に出てみると大通りの車交通は止められて広い参道の両側に賑やかな露店が並んでいた。そしてその大道の中央部に一族を率いた少年武者が十数名腰かけて待従している。 行進が始まるまでまだ時間が有るので鎧は横に置いている子、 「ママあのお菓子買ってよ」「着物が汚れるから駄目よ、辛抱して」お父さんは武者の取った相手の首を入れた袋と刀をもってスニーカー ? 「僕疲れたし 熱いよ」 と裾めくりの武者、 お付きは半纏につっかけサンダル。「大人は楽しそうだけど わらじは気持ち悪いし腰のひもは太いし 刀や扇も使い方知らないし、この帽子何って言うんだ。もう早く行こうよ」 ややあって神主さんが榊をかざして白い洋傘差して「ダダ今より武者は神域に入ってよろしいぞ」と言ったかどうか、とに角神様からの使者として伝令だろう。いよいよ稚児行列である。私には稚児行列とは振り袖姿の女の子しかイメージできなかったが延暦寺僧兵の里坂本ではいさましい男の子のパレードである。 まずは先だちのお兄さんが大きな袋を肩に懸け、何やら金属棒を路面に打ちつけて派手な音を出しながら五色の布で先導する。警備のお巡りさんが人懐こく観光案内してくれる「昔あれは刀だった、今は音を発てる金属棒になったのだ」 そして一族郎党を従えて堂々の武者行進が練り歩く。も一組の兄弟武者。こちらの兄弟武者もお父さんに太刀を持ってもらいフライドポテト、フランクフルト欲しいな。弟武者はたこやき食べたそう。行進の後、御神輿の並ぶ御旅所で一人づつ神官と巫女による祈?が行われ 紋付き袴のお父さんに手を曳かれ、奴さんの裾持ちを従え、さらに礼服姿の一族郎党を従えての行進。 祈?が終わると早くも鎧を外して横に置き「熱いよ!!」 「もう一寸頑張って、もう一度鎧を付けてこれからみんなで日吉神社の東社・西社への参拝に行くのよ」 とはママの言葉だろう。近郷の人の話によると、行列参加は各地区から抽選で選ぶが、該当者がない場合その地区から余所へ御嫁に行った人の子供が参加することもあると言う。「何しろ衣裳の新調、一族での祝宴、神社へのご祝儀と百万円位は軽くかかるらしいですよ。誰でもと言う訳にはいきませんよね」だそうだ。
2012.05.02
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琵琶湖疎水三井寺の観月舞台から水稲荷を経て一気に石段を下ると急に緑の樹林地帯になる。下の方を眺めると斜面の下に何やら屋根の形のものが見えてきた。これは琵琶湖疏水大津側の取水口トンネル入り口である。 琵琶湖からここへの直線水路は深い切り通し水路で両岸は見事な緑地となっている。そして両岸には通りとの間に青銅製のこの季節にピッタリの桜文様の塀がならんでいる。 塀の合間から水路を眺めると屋根を載せた水路トンネルの入り口が見えた。なかなかの風格である。 緑の斜面には各種の桜が植えられ、芝生には鮮やかな野草タンポポが咲き乱れている。 坂道を下って石橋の上から水路を眺めるとそこはもう桜の天蓋、芝生の緑、石組、水路脇歩道、水の流れが直線的に登っている。この石橋はカメラファンの撮影定点らしく多くの愛好家がここに望遠レンズを構えていた。その夜ホテルに帰ってテレビを付けるとブラウン管(おっと、今は液晶画面)にその景色が再現されていた。ヨーロッパの街中に時々このような水路公園が存在するが、ここを船で下ったらさぞや気持ちが良いだろう。下ると書いたが水は傾斜に逆らって琵琶湖方向から比叡山に向かって登っていように見える。水流はここからトンネルにもぐって比叡の山を越え京都・山科の地で地上に姿を現す。その後またトンネル水路に潜って東山を潜り南禅寺近くの蹴上で再び姿をあらわし、以後哲学の道を潤しながら鴨川の流れに逆上して賀茂川に注いでいる。蹴上で一部分水された流れはタービンを回して電気を生み、かっては荷駄船が台車に乗せられてインクラインを下り岡崎の船溜まりっていた。琵琶湖疎水については昨年拙ブログに詳細記したことが有る。ヨーロッパの運河をさらに連想させるのは橋のしも(実際は上流)を見ると右に取水コントロールの水門と左側に船の航行に必要な水位調節の水門(閘門、ロック)の2重の堰板が見え、そのそばに写真のような手動の堰板昇降装置が有った。そしてデモンストレーションとしてであろう、2基の堰の間に小さな船が舫ってあった。昨年も記したがこの疏水は京都に近代産業を興そうと計画し、その水源ならびに水運路として造られたものである。逢坂峠を貫通する鉄道の開通によってその目的は無に帰してしまった。しかし今は疎水なしでは京都の景観が成り立たない位である。地元の古老話では琵琶湖疎水に観光船を運航しようとする案が浮上したものの、明治以来放置したトンネルの修復作業費を考えてとん挫したとか。運河ファンとしては残念な話である。
2012.05.01
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