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三井寺 (3)松尾芭蕉は近江をこよなく愛し奥の細道の大旅行の後大津で2年間を過ごしたそうである。その折の句に「三井寺の 門たたかばや けふの月」と詠んでいる。西行と言えば桜・満月・吉野山を連想するが、芭蕉のこの句も琵琶湖を照らし三井寺の寺門を明るく照らす満月を彷彿とさせる句である(実際には中秋の名月を詠った句らしいが)。三井寺は大津市中に近いとはいえ比叡の山裾に位置するため境内は結構坂道になっている。地元の穴太衆積みと言う石垣や漆喰壁の塀の上からはみだす桜はこの時期は花、そしてやがて夏ともなれば日陰を作り参詣者を守ってくれる。漆喰塀から垂れ下がるしだれ桜は日本の春を絵にした風情と言えるだろう。坐骨神経痛持ちの私にはきついが、百段ちかい石段を登るとそこは琵琶湖や大津市街を俯瞰できる高台とそこに佇む観月舞台が有る。ここの案内板を見るまで知らなかったがここは謡曲「三井寺」の舞台であり、三井の晩鐘の音が美しく聞こえ琵琶湖を照らす名月を愛でる最高の舞台とのことである。観音堂から見る月見舞台と湖西の景色が春霞の中に浮かんでいる。舞台の脇から「南無観世音菩薩」の幟旗の長い石段を降りると”水観音”を経て琵琶湖疎水に出る。
2012.04.30
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三井寺 (2)三井寺の経蔵に続いて唐院があり、ここは開祖智証大師の廟所である大師堂、三重塔や修行道場の灌頂堂などもここにある。辺り一帯は高い木立に囲まれ上層の青空、中層の高い木立、そして下層はまさしく桜花の海である。 密教の道場灌頂堂と護摩堂はは桧皮葺きの簡素な堂であるがそれがまた桜の美しさを引き立てる。土塀の上部の空間も完全に桜花で満ちている。 花の下にて 春死なん--- 絵に書いたような涅槃の世界(天国)の光景である。唐院からの門を出ると苔むしたスロープの両側に並ぶ石燈籠も桜の天蓋に覆われている。それぞれの燈籠には丸に横棒三本の三井寺の寺紋が印されている。特別な関係は無いと思うが私の田舎の実家の家紋(屋号は三つ引き)がまさしくその紋なのでなんだか親しみが湧いた。 次に目指すのは一段と高い観月台を有する西国14番札所の観音堂である。 道すがらつい上を見上げてしまうが青い空に吸い込まれるように堂屋の屋根の線が伸び、どこも薄桃色の花ビラで飾られていた。 この季節近江路の三井寺はまさに春爛満の風景である。
2012.04.29
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三井寺 (1)今回の旅3日目は琵琶湖湖西を北から南に巡る予定であったが海津大崎の桜はまだ開花していないと云う、そこで朝一番に三井寺にタクシーで駆け付けた。9時過ぎとてまだ団体客の姿は無く、仁王門は両脇の桜に縁取られて静かに佇んでいる。山門をくぐると壮大な金堂もまた桜の冠である。三井寺の正式名は園城寺であるがここに天智・天武・持統天皇の産湯を汲みあげた霊泉が有るので三井寺の愛称で知られている。天台宗・門派の総本山であり、天台宗にはもう一つの山門派があるが両派はかって骨肉の争いを繰り返し、僧兵たちによる焼き打ちなどを繰り返してきた歴史がある。高い木立に囲まれた桜花の上には三重塔の宝輪が隙間見える。多重塔は釈迦の遺品をおさめるスチューバが原型であるが日本では三・五・十三重の塔などが有る。その多くは五重塔で、十三重の塔は談山神社のそれが有名であるが殆んどは石塔である。最近は東京スカイツリーの五重塔・心柱構造をよく耳にするがそう云われてみれば五重塔上部の宝輪はテレビ塔のアンテナ部に見えなくもない。近年はアンテナにも宝輪にも避雷針が取り付けられていることだろう。金堂の裏に回ると閼伽井屋(あかいや)と言う小さな社殿が有りその前に下の坪庭が有る。仙人の住む蓬莱山を摸した造りで我が国で最初の庭園だそうだ。 閼伽井屋の中には締め縄が張られた岩の間に湧き出る泉が有った、そして上部には左甚五郎作の龍の彫刻が飾ってある。この龍は夜な夜な琵琶湖に降りて暴れたそうだ、そこで甚五郎はその目に五寸釘を打ち込んで鎮めたと言う、その跡が残っている。下の一切経蔵は回転式であるがもちろん重要文化財とあれば触るわけにはゆかない。それぞれの引き出しには経文が納められており、このような経蔵の周りを廻ったり、回転させて行う簡易礼拝はチベットや中国の寺院で良く見られるがこれで功徳が得られれば便利で有難いデバイスである。前記したように延暦寺と三井寺は激しい抗争を繰り返していたが、その際もともと延暦寺の僧兵であった弁慶がこの鐘を比叡山に引っ張り上げて打ってみると「いのー(帰ろう)」と響いたので山から投げ捨てたものだそうだ。この”弁慶の引き摺り鐘”の脇に”弁慶の汁鍋”と言う巨大な割れ鍋が置いてあった。たまたま寺守の方が居合わせたので「何人分の汁ですか」と尋ねてみると「僧兵千人分です」との答えであった。弁慶の鐘とは別に寺内の鐘楼には広重の近江八景図で有名な”三井の晩鐘”が吊るされている。宇治平等院、高尾神護寺の鐘と共に日本三銘鐘で”残したい日本の音風景百選”にも入っているそうだ。脇に小さな札所が有り、鐘つき300円とあった。”晩鐘”を朝突いても仕方がないかと思っていたら一人のご婦人が登楼して「ぐぉおおーん」と突いてくれた。確かと聞いたので多分私にも御利益は降って来る筈である。福音を聞くにはこの風景は絶好なシチュエーションであろう。
2012.04.28
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安倍清明神社 神泉苑の規模が小さく、まだ少しだけ時間と体力が残っていたのですぐ近くの安倍清明神社に寄ってみた。これも小さな神社である。 磐田市に住んでいる次男が若い頃住んでいたアパートのお向かいに福王寺と言う寺が有り、平安時代そこに安倍清明が暫く滞在していたとかで清明を祀るお堂が建っていた。安倍清明と云えば有名な平安時代の陰陽師である。陰陽師とは単に呪術師、預言者、占い師ではない。星占いの基礎、天文道に通じていたことからしても陰陽師は科学者でもあった。実証的科学の存在以前では彼らは政治の参謀であり、将来計画策定の政策審議会座長であり、今風にいえば高い官位にある文部科学大臣でもあった。この種の人々が奉りごとの推進役であったことは古代エジプトの神官、ギリシャの巫女の例を見るまでも無くどの古代社会にも共通する。まずは清明の像が迎えてくれた。 私は無知であるが今昔物語や平家物語には「一条戻り橋」と言うのが出てくるらしい、そしてそこは洛中洛外の境でもあり、現世と瞑界の境でもあったようだ。そうなると清明の出番である。清明は下の石像ような死神を石棺に入れて戻り橋の下に埋め、この神が迷える人に予言を与えたそうだ。今も京都に存在する戻り橋は大きいがこの神社にあるのは元の戻り橋のミニアチュアだという。 テレビの影響か若い女性は占い好きである、この日も参詣者は殆んど若い女性であった。そしていわくあり気なこのこの御神木楠は強い「気」を発しているとかでうら若き女性が撫でまわしていた。近くに有る「清明井」からは名水が湧き、千利休もこれで点てた茶を秀吉に振舞ったとか。陰陽道にふさわしく水の出口は神泉苑の恵方社と同じく今年の恵方位である亥子の位置に注がれていた。その回転盤には五芒星が刻まれている。 五芒星は洋の東西を問わず魔術の記号として用いられ、とくに中国では五行(火土金水木)説の象徴である。l 内辺の正五角形を取ったものはどの文化圏でも星の記号である。またこの五芒星は一本の紐で円を結び、それを5等分して折重ねると出来るものだ。 五芒星間違いやすいがイスラエルの国旗の文様は六芒星であり、各辺の長さは等しくない イスラエル国旗・六芒星
2012.04.27
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神泉苑北野天神からバスで二条城前に移動し、堀端の通りを西に進むと、橋も無いのでその存在の意味が解せない西門が見える。二条城は徳川幕府の京都での本拠地、明治維新で大政奉還をしたのもここで、さすがに大きい。南北にはこの二条城を貫いて延々と延びる、決して大通りとは言えない大宮通りが有るが、1.5階建に格子戸の京都らしい昔のカフェが見える。 大宮通りを過ぎるとすぐ左に神泉苑がある。もともと神泉苑は御所の隣りに有り、もっと規模の大きい天皇や公家の舟遊の庭であったのをここに移したものだとか。今は寺であるが仏殿は申し訳程度で割烹料理屋の庭園となっている。高貴な人の遊んだ龍頭の宴船は今も料理屋の上等席である。 桜の時期ともなれば公達はこの池で舟遊びに興じたのであろう。池には赤い太鼓橋で結ばれた島が有り、しまのお堂の上には五位鷺が止まっている。屋根の両端には”し(氏へんに鳥)尾”として鳳凰の瓦が飾られることが多いがここは朝廷から従五位を授かった五位鷺がその大役を果している。この島には不動明王堂とともに石台の上に“大歳神”の小さな社が祀られている。これは恵方神社で毎年除夜の鐘と共に新しい年の恵方(方角)に回転される。今年の恵方は北北東の様である。礼拝の足場もぐるりと一周している。 その昔源義経が静御前と出会ったのがここ神泉苑だとされているので現代でも多くの女性を引き付けているのであろう。吾ら二人同じ場に立ちもっと早くここに来ていればもっと違った人生が有ったのではなどと異夢を見ていた次第。
2012.04.26
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北野天満宮北野天満宮は菅原道真が大宰府に左遷されて不遇の内に没し、その後御所に落雷などの災いが起こり道真の怨念からだと噂され、朝廷は道真の名誉を回復しこの地に神社を建てて天満宮と称し祀ったのが始まりで、全国に数ある学問の神・天神社はここから勧請されたものである。 皮肉をこめて書くと現代では入学試験合格祈願の神様になってしまっている。それと言うのも本来は学業向上を願うべきものを入学後は勉強しないので大学生となってしまえば天神さんに祈願することも無くなった。学業の向上と入試合格とは無関係の筈である。ともあれここの社殿は大宰府のそれと共に豪壮だ。 本来天神社はもっと質素な造りで良いものだけれどもどこも豪華なのは学問の向上が富者に繋がると誤解してのことであろう。 社務所別棟みたいな所に平安時代の楽士の格好をした人が立ち 笙のような楽器を持った人もいる。神官たちが立ち替わり出てきて手水で手を清めている。神事か結婚式がとり行われるのであろう。 皮肉屋rakuten0811は神社仏閣に詣でる際、信仰心の薄いことから鳥居や山門をくぐっての参詣よりも横道から参内することが多い。断っておくが天神社に御土居の側からは行ったからとていっまで裏口入学をした覚えはない。今回も本殿脇からすいと入り、鳥居から下社する前に横に抜けて湯葉料理の昼食を取った。境内馬場脇の料理屋に入ると何でもない表構えに対して屋内はなかなか凝っている、天神さんなので牛の置物は当然としても燈籠、手水鉢、緋毛氈と雰囲気はいい。 その脇に下の立て札が有り、連綿と続く名店であることを示している。普通はこのようなものは店の外に立てて宣伝にこれ努めるものであるが外にはただ湯葉料理の看板が有るのみである。 お腹を満たして馬場に戻ると太閤井戸の石銘、これは太閤秀吉が京都に聚楽第を建てたとき一大茶会を開き市民にも開放した時の井戸だそうだ。太閤さんは御土居と言いこの井戸と言い庶民には優しかったのであろう。 そして天神さんと言えばその象徴は梅である。幸い参道の梅花はまだ残っていた。石灯籠に梅と松や梁よく似合う間柄だ。も う一つの天神信仰は牛である。 道真の生年、没年が丑年ばかりでなく牛が命を救ったとか、左遷で出立の時牛が涙を流して泣いたとか、牛が遺体を運んで道真の 葬りの地を決めたとか諸説あるようであるが、全国の天神社には牛の石像が祭られている。北野にも多くの牛像が有るがこれだけ模様の複雑な石像は珍しく御利益を期して人々が撫でつけるのでピカピカで、とりわけ頭や目鼻がよく光っていた。
2012.04.25
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北野天満宮への道喧騒の北野神社を後に前ブログに記した桜小路に続く道路を辿って北野天満宮を目指した。静かな通りに面して桧皮造りの御屋敷が目に止まる。google の航空写真で見ても立派なお屋敷である。この屋敷を過ぎて天神さんに行くには住宅街を一画抜けなければならない。所々に奥の家に通じる私道は見当るががかなり先の交差点まで道路が見当らない。一か所一面草に覆われた小路が有ったが見通しが利かず私道か抜け道か区別がつかない。うっかり入りこんでお屋敷には入ったら大変である。躊躇しているとき隣家の人が出てきたので「天神様への道」を尋ねると「この小路を辿るのが一番近道です」と教えてくれた。このブログを書くに当たってGoogle地図、国土地理院の二万五千分地図を見てもこの道は発見できない。樹木まではっきり区別出来る航空写真を見ても樹木に覆われた住宅街のなかの未舗装路地までは分からなかった。この草道を抜けると突然鬱蒼と樹木におおわれた渓谷に出て眼下に小さな橋が有り、これを渡って崖のつずら道を昇ると”お土居”の立て札があった。そこはもう北野天満宮の境内でこの渓谷はその名も”天神川”である。”史跡御土居の紅葉”の石碑もあり、紅葉の名所だと思うが、今は春のウィークデイとて人影もほとんどなく知る人ぞ知る癒しの空間であった。さてその”御土居”であるが不覚にも私は京都がヨーロッパの古い街のように城壁にも似た土塁に囲まれた都市であったなどとは思いもよらなかった。戦乱で荒れた京都の都市改造の一環として豊臣秀吉が外的来襲と鴨川の氾濫から市街を守るため築いた土塁との説明文が有った。江戸時代そのほとんどが壊され、今はこの天神川沿いに数か所の遺構が有るのみらしい。そしてこの土塁の内側が洛中でその外を洛外と称するそうである。その御土居の脇に赤い欄干のステージが有るがここから眺める天神川の紅葉は素晴らしいものであろう。 「このたびは 幣(ぬさ)もとりあへず 手向山(たむけやま) 紅葉の錦 神のまにまに」の歌碑、菅原道真が宇多天皇を案内した時供物の代わりに境内の錦の紅葉をお供えいたしましょうとの意味だそうである。ぜひ秋に訪れてみたいものである。御土居と北野天神社は一体化している。
2012.04.24
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平野神社京都の観光案内を見ると桜の名所として必ずへ平野神社の名が有る。50種もの桜が有り約一ヵ月間楽しめるとある。一度は覗いてみなければと足を運んだが、鳥居をくぐる前のこの光景、いやな予感がした。 参道脇はこの状態。緋毛氈までは許せる、野点のそれは鮮やかな花であるがここに置くとゴミにしか見えない。露店のディスプレイはなんとかならないものだろうか。この状態が鳥居から拝殿まで続くのだからたまったものではない。本殿前の神楽舞台はなかなか洗練されており、そこには2台のハープが、なぜ神楽太鼓ならぬ弦楽器なのか疑問は残るが多分ギリシャの神様が日本の神様を寿ぎに来るのだろう。カメラを掲げて神楽舞台越しに見るしだれ桜は風情がある。多分演奏者は人の動きを無視すればいい気分に浸れるだろう。六体の神体を祀るとかで六張りの寄棟本殿は特徴が有って美しい。80種もの桜が植わっていると云ってもこの時期染井吉野に席巻されて他の桜は影が薄い、ただ下の「寝覚」だけは別格である。本殿近くに咲く真っ白な花びらの山桜(里桜?)は品格に満ちている。そしてその桜はこの一本しか見当たらなかった。淡白な染井吉野に比べて彼岸桜は濃い紅色でやや品格には欠けるがそれだけに生命力に満ちている。神域の余りの喧騒に帰りは露店、桜並木、ぼんぼり、石垣、街路樹桜並木の間に伸びる人気のない細道を辿った。すぐ横の喧騒が信じられないくらい風情のある通りでった。
2012.04.23
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原谷苑2人生の持ち時間を余り残していない人の春は忙しい。 西行の「願わくば 花の下にて春死なん その如月の望月のころ」 の心境とて遅い春を求めて信州への旅でブログが遅れたが京の春を続ける。京都原谷苑は桜の名所でもあるがもともと花卉農園なので桜木の下には生け花の題材になりそうな色とりどりの樹花が咲いていて桜と調和し巨大な活け鉢みたいである。春一番のレンギョウの黄色は安くて高貴な花である。 北国ではまだ残雪の季節である、ユキヤナギの白も清々しい。 私が時々通うクリニックへの道すがらに「七重八重花は咲けども 山吹のみの一つだに 無きぞ悲しき」 と里の少女が太田道灌に蓑の代わりに歌を贈った「山吹の里」の石標が有る。写真は逆に実のなる一重山吹である。 春一番に花を付ける三つ葉ツツジのピンクも薄からず濃からず絶妙の色合である。 桜の頃さくらに似た花を付けるカイドウ(海棠)はミニリンゴのような果実を付けることが有り食することも出来るそうだ。どんな味がするのだろうか。 しだれ桜、雪柳、三つ葉躑躅と三役そろい踏み。 オットット 連翹を忘れてはいけないこの実も漢方薬になるそうだ。 ともあれ見事な樹形のしだれ桜は4月12日、今少し待てと云っているようだ。
2012.04.22
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京都・原谷苑(1)今年も春の桜の季節がめぐってきた。私自身について言えばこの季節は底冷えがして埃っぽく人で溢れ、外景色も染井吉野一色になってしまうのであまり好きではない。桜も葉のない花だけの染井吉野よりは白い花と緑の葉っぱの調和が良い山桜や桃の花が好みである。「英霊となって靖国の桜の下で合おう」とか「七つボタンは桜と錨、故国のためにパッと散ろう」 などの言葉がよぎってしまう。一方で日本人の心を花で表すとすればやはり桜以外には無いと思う。我相棒は戦後就学のせいもあってか桜には全く目が無く、この季節桜を巡ってやたらと動きたがる。そしてお互い弱身のためお伴を命じられ、私もこの時期完全に桜色に染まってしまう。 時期は少し遅れるがまだ桜花の香りの残る頃になると毎年旅行会社は大バーゲンをする。今年も昼頃出発のこだまで東京から京都まで3.5時間余りの旅、大津プリンスホテルに3連泊してまた昼頃こだまで帰ると云う年寄り向けのパックが往復の正式新幹線代以下で買える。今年はどこの旅行会社もピーク時と設定した日には蕾も出ていないのが多い。時期遅れの名残を惜しみに行った京都・原谷苑のしだれ桜も今年はまだ咲き始めであった。京都の桜と言えば鴨川、哲学の道と言った川筋や神社仏閣のものが多いが、原谷苑は観光パンフレットには余り記されない花卉農園である。寺社のものとは違い見事な配列と言う訳にはいかないが、一つの谷斜面を埋め尽くした各種の桜や灌木花はそのボリュームに圧倒される。個人経営の花卉農園を春の2,3週間だけ公開しており、入場料も日によって300円位から1500円位まで日替わりで変わるそうで、我々が訪れた日は1200円であった。金閣寺から細い山道をタクシーで行ったが結構な人が訪れているのには驚いた。 何年か前に福島の花卉農場「花見山」を訪れたことが有るが規模は落ちるものの原谷苑は同類の桜の名所である。 満開に近いしだれの横はまだ蕾の木。 色の濃い紅しだれの隣りの木もまだ1分咲き。 満開直前の木々が揃った場所もある。 目の高さは結構満開である。 青い空にピンクの桜、時折さえずる鶯も京の春。色の濃いしだれはれいの舞妓さんの頭から垂れ下がっているもので清々しい。 花卉農園なので桜の根元には活花に使うのであろう季節の花が咲き乱れている。 園内は傾斜地に歩きやすい(働きやすい)散策路が有ってゆったり楽しめる。 斜面いっぱいに広がる各種の桜(特にしだれ)は神社仏閣のそれとは異なり私好みである。 京都のしだれ桜と言えば植物園や平安神宮を見たこちが有るが数量においてはここが一番であろう。
2012.04.18
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風船爆弾 (2) とんだ邪魔が入ったが前ブログで偏西風の蛇行南下が爆弾低気圧を発生させたことを記した。また本ブログには1950年代の大陸間弾道弾についても記載した。そこで忘れられないのが風船爆弾である。私がこれを初めて知ったのは1965年カナダの首都オッタワで戦争博物館を訪ねたときである。太平洋戦争時日本がアメリカを直接攻撃するために放った風船爆弾が展示してあり、説明パネルがあった。写真からも分かるように風船は直径10mで室内展示は出来ず写真と吊るされた爆弾・焼夷弾の不発弾が展示されていた。ロケットも使わず風船に爆弾をくくり付け偏西風に乗っけて日本で放ち、直接アメリカ大陸を爆撃するのである。映画「80日間世界一周」を思わせる何とも壮大な科学ドラマである。 Wikipediaより 良質の和紙に- 例の愛媛のギャンブル王の前身会社も協力したらしい。紙のティッシュ技術はこの時のものかも知れない?- コンニャク糊を塗り苛性ソーダを塗って貼り合わせて風船を作った。きっと昔富山の薬売りの叔父さんがくれた紙風船もそうだったのだろう。風船には水素を入れて浮かせたがこれを作るには高い天井の建物が必要である。そこで有楽町日劇、浅草国際劇場、有楽町宝塚劇場で軍事動員された女学生たちが紙を張り合わせた。苛性ソーダのアルカリ性で彼女等は指紋が無くなったという。風船は夜になると冷えて圧が下がり落ちてしまう、そこで簡単な圧力計を付けて圧が下がると導火線で吊るした砂袋のロープを焼いて切り離す。9000個余り上げた風船爆弾は約2昼夜かけて1割強がカナダやアメリカ北部の山地に落ちた。アメリカ当局もこのことは極秘にしていたためオレゴン州でハイキングしていた女性のグループが不発弾に触れて1人が死亡したそうである。第二次世界大戦中アメリカ本土で敵の攻撃により爆死した下ただ一人の犠牲者だそうだ。和紙・コンニャク・偏西風・女子学生・日劇・大王製紙御曹司と連想が続く。今考えてみるとこれは立派な大陸間爆弾である。日本軍のこの荒唐無稽で漫画チックな発想を私は称えたい。江戸博物館にも模型が展示されているが、和紙・コンニャク・日劇(NDT)・国際劇場(SKD)・宝塚(少女歌劇団)・爆弾・成層圏と思いめぐらすと、どちらかと言えばメルヘンな連想に釘を挿さしたのが官界の北朝鮮である。大きな声では叫べないが自国領海での爆破に安どしている。
2012.04.18
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ロケットもどき風船爆弾 (1) 前回爆弾低気圧について記してから大分時間が経ってしまった。この間京都・大津地区への4日間の花見旅行が有ったり、新しいiPADが届いたりしてブログに手が届かなかった。言い訳はさておき、爆弾低気圧、北朝鮮のミサイル打ち上げと来るとどうしても風船爆弾について記してみたくなる。 1950年代後半ソ連の権力者フルシチョフ、アメリカ大統領アイゼンハウアー共に好戦的で、冷たい戦争は最高潮に達していた。1958年赤の広場を革命記念日の軍事行進の頭には巨大なロケットが曳かれているのを映画館で見た。ソ連からアメリカを攻撃できる大陸間弾道弾(ICBM)の映像の型や大きさは今でも鮮やかだ、アメリカも翌1959年にはICBMを完成して盛んに映像を流した。今50年以上たって北朝鮮が食うものも食わずに大陸間弾道ミサイルの開発に熱を挙げている構図が滑稽である、もしアメリカを狙って打ち上げても太平洋上で迎撃されることは明らかである。アメリカの偵察衛星の察知を免れてミサイを打ち上げるなどと言うことは不可能だろう。とすれば韓国と日本がターゲットだろうがそのその技術はすでにデポドンで実証済みである。今回のような万全の迎撃態勢を取らない限り日本は危険である。 もともと人工衛星は地球の自転の速度を利用するために回転速度の大きな赤道近辺の回転推進力を利用してで東に向けて打ち上げるのが常道である。しかし機密保持から自国領土でこの条件に近い地を選ぶことになる。フロリダ、種子島(日本ロケット開発当初沖縄はまだアメリカの統治下に有ったため)で行われる。今回の南北周回軌道で打ち上げられた北朝鮮のミサイルは人工衛星で有れば地球の自転を利用できない技術的にもエンジンも高度なものを要求される、更に地球の両極を回る上空では電離層が変化するため通信が乱れ正確なデータを送ることが難しい。本当に人工衛星であれば実績のない北朝鮮がなぜこの軌道を選ぶかは理解できない、本当に100%観測衛星であれば政治問題を解決した後で日本列島上空に向けるのが筋であろう。もっともすぐ爆発するようなものをこちらに向けるはとても同意は出来ないが。
2012.04.18
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爆弾低気圧物騒な名前である。Wikipedia の記述を転載すると、 爆弾低気圧(meteorological bomb, 気象学的爆弾)とは急速に発達し、熱帯低気圧並の風をもたらす温帯低気圧を言う。MITの気象学者Sandersらが提唱した語であり、低気圧の発生緯度をφとし、24時間で ”24X(sinφ/sin 60°)hPa(ヘクトパスカル)以上の中心気圧の低下がみられたものを言う。日本、ニュ-ジーランド、アメリカ東海岸などで頻繁に発生している。ただし気象予報用語としては使用しないとされ、気象庁では代わりに「急速に発達する低気圧」と表現している。この言葉はよく放送されるが文字通り急に発達した低気圧としか思っていなかった。昨日(2月4日)の新聞記事によると24時間以内に24hPa以上の気圧降下がある温帯低気圧という解説があった、Sandersの式を適用すると東京の緯度は大体北緯35°近辺なので”24X(sin35°/sin60°=15.9hPa となり、日本近辺では24時間に16hPa以上の気圧降下があれば立派な爆弾低気圧である。2日から3日にかけては40hPaの圧降下があったので原爆級の爆弾だったわけである。 Wikipediaによると2002年ベルリン自由大学気象研究所が高気圧・低気圧の命名権の販売を始めた。2005年徳島市の男性が購入し、自分の名を付けて”低気圧TAKASHI”が誕生したとある。今回の爆弾低気圧の命名権も買えることになるが誰か名乗りを挙げる人はいるのだろうか。訂正と追加: 低気圧の命名権はドイツに上陸したものに限られるようなので今回の爆弾低気圧は範囲外のようだ。ちなみに高気圧の命名権料の方が高いそうであるが、それは一般に高気圧の寿命が低気圧より長いためだそうである。最近公共施設の命名権売買が目立つがついに大阪の泉佐野市が市名の命名権を発売するそうである。「爆弾低気圧市」なんてのも有り得るのだろうか。 5月前後に発生するこのような低気圧をMay Stormというらしい、じゃじゃ馬娘のような名前であるが、これは和製英語らしい。それにしても多くの和製英語には首をかしげるものが多いが ”May Storm” は愛嬌が有って優れた語感の和製英語である。 上手く説明できるかどうか分からないが ”May Storm” の原因を考えてみる。赤道付近で熱められた大気は上昇気流となる(下図で上向きの矢で表す)、矢は 地球の天辺から見た図まっすぐ上を向いて上昇するが地球は自転している。そのため地上で矢を放った人がみれば矢は左から押せれて右に曲がって進んでいるように見える、この見掛け上の力をコリオリの力と呼ぶ。このため地球から見ると成層圏近くでは西風が吹いているように見えるこれが偏西風である。ジェット機は成層圏と対流圏の境目(1万メートル前後)を飛ぶのでこのジェット気流(下層偏西風)を受ける。外国旅行をする場合、東周りは西回りよりも速く飛べるのはこのせいである。 次に地球を赤道方面から見てみると、偏西風は真っすぐなバンドではなく蛇行することが有る、その時寒気団を引き連れて来て日本の近辺で南太平洋からの暖気団とぶつかる。4月と言えば普通は寒気団は北上して南の暖気団が優勢になるのに、都合悪く日本海で激突してしまう。寒気団は重いので下に潜り込み 地球を赤道からの図暖気団は猛烈な上昇気流となり断熱膨張を起こして冷やされ、圧力が下がりロートをひっくり返したような形の低気圧となる。爆弾低気圧が発生する前日、日本海側でも気温が高くなった。これがいけなかったのである。急激な上昇気流がロート状の渦巻き気流を発生し、それが小規模の時は竜巻、大規模な場合は爆弾低気圧(温帯性低気圧)となり、発生場所が熱帯の場合熱帯性低気圧、台風、、ハリケーン、サイクロンなどと言う。これらはいずれも北半球の命名であるが南半球で発生する巨大低気圧はどのように呼ぶのだろうか。
2012.04.04
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山縣公爵・大隈侯爵に関するあれこれ 前々ブログに続いて早稲田大学大隈講堂の上からGoogle Earth で仮想的に北方を眺めてみると左下に大隈庭園やリーガロイヤルホテルがあり、中央左に熊本藩細川家の下屋敷跡である新江戸川公園、中央に椿山荘庭園、そして中央右に煉瓦色のフォアーシーズンホテルがみえる。そして中央部を真横に流れているのが神田川である。神田川の向こうの椿山荘のあるところは台地になっており、胸突坂を登ることは前ブログで記した。 フォアーシーズンホテルのある椿山荘は明治の元勲山縣有朋公爵の屋敷跡で、庭園造りが趣味だった山縣が作り上げた豪華なものである。そうは言っても所詮はアマテュアの作品である。京都の寺院や財閥が作った東山の別荘群に比べると品格で劣ることは仕方が無い。フォアーシーズンホテルの上から目白通りを挟んだ東京カテドラル方面の仮想的鳥瞰図が下のもので、丹下健三の設計によるこのキリスト教寺院のメタリックな本堂と鐘楼は多くの人の度肝を抜いた建築物である。一方大隈重信の庭園が早稲田大学大隈庭園である。こちらは江戸川の対岸に有る椿山荘に比べるとこじんまりとしている。前者が当時江戸川の水を利用した水田の真っただ中に有り、後者は目白台の御屋敷街だったのだろう。江戸時代には川を挟んで江戸と武蔵の差があったと思われる。そこで大隈と山縣を比較してみたいと思う。山縣は公爵、大隈は侯爵である。明治になってヨーロッパ式の貴族制度を模して華族制度を制定した時爵位として公爵(Duke)・侯爵(Marques)・伯爵(Earl、紅茶のアールグレイはGrey 伯爵のこと)・子爵(Viscont)・男爵(Baron)の5階級とした。最高位の公爵は皇族や元公家、徳川本家、島津など大大名家、それに明治初期の特別な偉勲者(伊藤博文、大山巌、山懸有朋、松方正義、桂太郎)、侯爵は紀州・尾張の徳川家、前田、細川、伊達、黒田と言った旧大藩主家、明治期勲功のあった大久保利通、木戸孝充(桂小五郎)、西郷隆盛、大隈重信らである。 さて椿山荘は陸軍元帥・第3,9代総理大臣・山縣侯爵の邸宅、一方大隈庭園は第8、17代総理大臣・早稲田大学創立者・大隈重信侯爵の邸宅である。この二人は細かいいきさつや変歴はおいて大雑把な表現をすれば山縣は軍人政治家、大隈は政党政治家と捉えることができる。生まれ(1838年)も没年(1922年)も同じくするこの二人、山縣は明治期を薩摩と共に支配した長州(山口)出身、大隈は薩長支配に不満な佐賀出身と生まれながらにして政敵の関係に有り、二人は犬猿の仲であった。このことは8代首相の大隈が引きずおろされて山縣が9代首相と言うことからも明白である。明治と言う時代に有ってどちらの羽振りが良かったかと言えば神田川を挟んで山縣邸が丘の上で細川藩邸の横に位置して川を見下し、大隈邸は川向うの田んぼ(早稲田)の中と言うことから明らかであろう。 余録: Web調査の中で大隈に関する面白い事実を発見した。1908年アメリカ大リーグチームと早稲田大学チームが対戦した。大学総長の大隈が始球式を行ったが投球は暴投に近いものであった。この時早稲田のトップバッターは総長の投球がボールとは失礼だとして大きな空振りをしたそうだ。すなわち大隈の投球はストライクと宣告されたわけである。これが日本式始球式のスタイルとして定着したそうである。確かに野球発祥の地アメリカではあんな始球式は見ることが出来ない。 1908年(M41年)大リーガー6人を含むオールアメリカン チームが来日して戦績17勝0敗。日米野球記念すべき第1戦となる11月22日の早大戦を皮切りに、慶応、東京クラブ、横浜連合、神戸連合などと合計17試合を戦った。 P.プラハティ(ボストンブレーブス)によるわずか40分のパーフェクト試合の記録もある。
2012.04.02
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2012 年桜開花今日は4月1日、6歳から67歳までの何らかの意味で現役時代の60年間は新しい年度の始まりで特別な日であった。今は単なる3月31日に次の日である。新しいシーズンの初めとしてなんかそれらしいことを発見してみたいという思いに駆られる。私の小学校一年の国語教科書第一ページは「サイタ サイタ サクラガ サイタ」であった。昔はカタカナを最初に学び、それから平仮名であったと思う。実際そのころは桜の開花は今より遅く4月上旬で新しいランドセルと桜は最高の取り合わせであった。 今年は桜の開花が遅れ気味で昨日3月31日に靖国神社の標準木に数輪の花びらが開き、気象庁は東京の開花を宣言した。”宣言” とは大げさであるが実際その位マスコミははしゃぎたてるのが常である。マスコミとは別に殆どの人は自分の標準木を持っている。私のそれはいつも散歩するマンション下を流れる石神井川畔にある。たぶん今日あたり満開を想定して企画したのだろう、朝から“エンジョイ ウオーキング”と名付けた歩け歩け大会の列が延々と絶えない。有難いことに彼らは川の片側しか歩かない。そこで私は反対側の川畔を私の標準木を探索に出かけた。 咲いていました!! これが私の標準木です。 この界隈では一番早い。 歩け歩け大会のおばさんの会話が耳に入った 「あー もう臨月だ」。私にはその感覚が理解できないが、昔の映画の題目に「私はそれを我慢できない」と言うのがあった気がする。 更に30分くらいかけて川を下る間に跡2,3本の木の2,3の枝先で見事に開いた花びらを発見した。 ともあれ今年も黒い眼で満開の桜が拝めそうである。まずはメデタシ !! 家に帰ってみると20センチ以上もある大輪のアマリリスが花開いている。宅急便の小母さんが置いて行ってくれたもので週一回コップ一杯の水を上げるだけでこの見事さ。でも桜ほどの感動を与えてはくれない。 何はともあれ桜が開花したので本日2題めのブログに記録しておくことにした。
2012.04.01
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胸突坂前ブログでGoogle Earthを使った日本の大学キャンパス巡りを行ったがその際早稲田大学上空からの鳥瞰図を見ると下の絵の中央部を蛇行する神田川を挟んで広い森が目に飛び込んだ。この辺りは私自身何度か散歩したことがあり、地理も手に取るように分かる。しかしそれはあくまでも地上からの印象である。そこで今回はGoogle Earthとい文字どうり飛び道具を使って鳥になったつもりで眺めてみたのが上のずである。手前の森を囲んでホテルフォーシーズン、椿山荘・椿山荘庭園、関口芭蕉庵、永青文庫、和敬塾、江戸川公園などが見えてきた。神田川の対岸には大隈庭園を中心にリーガロイヤルホテル、大隈講堂を含む早稲田の杜(大した杜ではないが校歌で名高い)が見える。川の点前が目白台地、向こう側が昔の早稲田の稲田。神田川と言えば古くは武蔵野の湧水を集めて市中に上水を届けていたがお茶の水あたりでは台地を掘って地狭水路を作り江戸城の濠に水を導いている。美しい “聖(ひじり)橋“ の懸るお茶の水駅ホーム直下の濠がそれである。方角が逆になってしまったが上の光景を地図で見ると左下のリーガロイヤルホテル前から右上に向かって伸びる一本の道が認められる。神田川に懸る橋を渡るとすぐ急な坂道となり左側に神田川の守護神 ”水神社” の小さな祠があり、そして坂道の右側に関口芭蕉庵がある。これは松尾芭蕉が俳人として一家をなし深川に庵を構える前に住んでいた所だそうで、小さな池庭に芭蕉の樹が植わっている。よく言われているように芭蕉と言う人物は伊賀生まれの”隠密”(現代で云えばシークレットサービス)だったとも言われ、ここに住んでいた頃は神田川の水利工事に関わっていたようである。水神社の続きは新江戸川公園、ここは肥後藩・細川家の下屋敷庭園であった。今ではいつ訪れてもほとんど人影のない池を中心とした静かな公園である。芭蕉庵の左手の杜の中には細川家の蒐集品を集めた ”永青文庫“ がある。ここも茶器に興味のある人がたまに入って行く位で人影はあまり見かけない。 Google Earth 図でまず初めにリーガロイヤルホテル上階を想定して大隈庭園を望んで見ることにしよう。 左から前ブログに記した250尺の大隈記念タワー、大隈講堂時計台、高層化された大学校舎などに囲まれている。この庭園は大隈侯爵の私邸跡で中央に芝生広場、その奥に回遊式池庭があり、大隈侯爵夫人の十二単の銅像がひっそりと建っている。20年くらい前まで大隈侯爵の屋敷が一部残っており、そこに有ったレストランは昔の用途を意味する”書院“と呼ばれており、卒業生の結婚式で何度か食事したことを思い出す。そんな大学から離れて神田川を渡ると冒頭に記した芭蕉庵や永青文庫がある急峻な坂道となる。今は舗装されて階段も備えられているがかってここは大変な泥んこ道の登りで、膝が胸を突く位でこの坂は ”胸突坂” と呼ばれ、東京でも有名な坂道であった。上の地図を見るとこの坂には更に ”和敬塾” がある。戦前の面影を宿す独特の思想で運営されるこの塾からは色々な人物が排出している。その様子は村上春樹の「ノルウエ―の森」の前半部の舞台として克明に描かれている。実際村上はここで早稲田での学生生活を始めた様である、確かに坂道の登り降りはあるが早稲田のキャンパスは川向である。
2012.04.01
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