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昭和記念公園(3)・日本庭園前を歩いていた若者が叫んだ、「一体これは何だ、昭和記念公園のイメージがわかない、これは京都だよ」。そうこの公園は広大な芝生公園があるかと思えば樹林帯、花畑、並木、ガウディー風子供広場、プール、日本庭園、里山風景などなど多彩な構成の公園で子供から年寄りまで楽しめるように設計されている。チューリップ見物の後日本庭園によってみた。柄に似合わずここへ来るとたいてい盆栽園によることになっている。盆栽鉢はまだ枯れ葉の物が多く写真は載せないが「がまずみ」は珍しく盆栽に花をつけていた。若者が「京都だ」と叫んだのはこの光景。んんん分からないでもない。樹林帯に囲まれているがシャクナゲが咲き始めていた。個人的にはつつじよりは好きである。特に山登りで雪渓の残る岩間にこれを発見した時など感動ものである。池を一巡りしてみるとまた京都に出会った、後ろの竹やぶにはこの時期タケノコが育っていることだろう。気が付くといたるところにチョコレートをまぶした朝食フレークのようなものがいっぱい落ちている。拾い上げてみると檜かなんかの実(松ぼっくり?)である。この間までマスク屋を儲けさせた花粉をたっぷり含んでいたのだろう。ボタンも大柄の花を今まさに咲かせようとしているところだった。周りの樹林帯は今まさに緑なす若葉の季節思わず深呼吸をしてしまった。
2014.04.30
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昭和記念公園(2)・22万株のチューリップ先にも記したように立川国営昭和記念公園には22万株のチューリップが咲き乱れている。チューリップと言っても最近の物は我々世代が想像するあのランプシェードのような形の物は少ない。或る者は八重咲だったり多色花弁だったり、フリンジの縁を持ったり、にはとてもチューリップとは思えない形状の物もある。それらが華やかにデザインされた植え方をされているのだからもうオランダまで出かけなくてもう十分楽しめる気がする。またそのネーミングが面白くまず花を見て自分ならどんな名をつけようかと考えた後名板を見てにやりとしたり、自分の命名が良いなどと思ったりしながら楽しむことが出来る。アメリカンドリーム以前黒いチューりップや黒いバラが出来たと言って話題になったことがあったがどれを見てもせいぜい濃い紫色や紺色の物であった。北アルプスの高山にある黒いケシの花と言うのも見に行ったが紺色でしかなかった。上の写真のネグリタ(Negrita)もラテン語系ではnegra, nego, nero が黒を表すので命名の心は“黒いチューリップ”なのだろうがにはむしろ黒味がかった赤にしか見えない。ここまで書いてはたと思いついたのは黒とは「黒味がかった」と言う意味で「あのカラス少し黒味がかっている」は文法的に正しいだろう。「チャーミングビューティー」は頷ける。とにかく、あたり一面、白・黄・赤・黒いチューリップで埋めつくされている。さらにこの鮮やかな花壇を引き立てているのが透けるような木々の若葉である。この色も今に「黒」くなるのだが今はまさに「若葉色」である。このあまりにも黄色に赤の縁取りと細かなフリンジ、名板を撮り忘れたのは不覚である。私が名ずけるとしたら「お転婆娘」と言ったところである。純白ではっきりしたフリンジ縁は新婦のベールを思わせる、やはりこれは「honey moon」であった。「Black Hero」 この位黒味がかってくるとこれはもう「黒」しかないだろう。最後に付け加えておくと随所に鮮やかなブルーのムスカリがチューリップに挟まれている。これが抜群の引き立て役を務めている。華やかな舞台でも引き立て役が必ずいるものである。
2014.04.29
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立川・昭和記念公園 1春は相棒の花見の付き合いで忙しい。八重桜を見に行ったと思う間もなくチューリップが終わるので昭和記念公園に行くと言う。rakutenとしては選択の余地はない。この公園はとにかく広いので正門を避けてチューリップ畑に近い立川西駅口から入園する。入口に近いところに赤い花ミズキの大木がある。街路樹の花ミズキしか見たことがないのでその大きさに驚く。少し先には白花の花ミズキをある、いずれもその大きさに驚く。花ミズキは日本からワシントンに送られたソメイヨシノの返礼としてワシントンから貰ったのが我が国の最初とされている。事実関係は知らないがすくなくとも普及したのはそのせいだろう。花ミズキはジョージア州をはじめいくつかの州の州花になる位ポピュラーなものだそうだ。ちなみに我々が花と思っているのは花ではなく花のガクである。芝生広場を囲む桜はもうすっかりガクの色であるが、春咲のポピーが開花し始めている。渓流に沿ってチューリップが最盛期である。流れに沿った緩やかな傾斜地に22万本の株があるそうだ。広い畑と違って渓流脇の樹間にデザインされた園地はそれだけでもうアニメの世界。もうすっかり自分の物になっているが初期の頃はオランダ・キューケンホッフ公園のデザイナーを招いて監修を受けている。チューリップの数も半端ではないが見物人の数も半端ではない。カメラの種類や数も半端ではない。あまりにも脇役に過ぎるがダイコンのハナもまばらな人影に耐えて広い園地を飾っている。さらに今となっては目立たない存在は菜の花、園地の中を流れる水の枯れた川を渡る橋の上からだけ垣間見える名残の黄色である。
2014.04.28
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八重桜あれこれ新宿御苑には多くの種類の八重桜があるので有名である。株数が多いのは関山・一葉で実際品格は一番すぐれていると思う。他に写真メモを撮っただけでも 松月 江戸、朱雀 福禄寿 駿河台匂 大山桜、ウコン桜等それぞれ特徴と分類上の重要性を持つ品種である。特に駿河台匂は珍しく芳香を発する桜で近ずくだけでほんわりとした香が漂ってくる。残念ながら画像が混乱してしまい明示できないのは残念である。 関山 一葉に比べてややピンクが濃く花量は重厚 一葉 関山よりやや淡い、上品さも少し上かも 普賢象 二本のめしべが象の鼻のように曲がっている。 普賢菩薩が象に乗って登場するのでこの名が付いたのであろう。 白妙 これはもう名の通り、 純白色は清楚である。 兼六園桜 御苑内でも2本しか見つからなかった。 多分金沢では多いのだろう。 十月桜 寒桜などとも称され、一般に秋と春の二度咲きと 言われているが、秋に咲いた小ぶりな花びらが冬にしぼんで春になってまた 花ビラを出すのだそうだ。冬も咲き続ける「不断咲桜」と言うのもあるそうだ。 市原虎の尾 御苑には一本だけこの木がある。 花は特にどうと言うこともないが、やや太めの小枝は数珠を通したように珠を 重ねている。実はこの珠一つ成長するのに一年かかる、市原は京都の地名。 御衣黄 黄緑色の八重桜としてウコン桜が有名であるが、 ギョイコウでは花びらの中央部に赤い一本の線が加わる。咲き始めはウコン色 であるが時間が経つと赤くなる。昔の貴族の着る衣の色からの命名である。 八重咲き・雄蕊 一般に八重咲きの花の花びらは雄蕊が進化 したと言うことである。八重桜の花の内側の花びらの出来始めは雄蕊のように 脚があり成長して花びらになっている様子が分かった。こうして八重咲き花の 花びらは2-300枚を擁し、中には400枚近い物もあるらしい。 実はrakutenがこんなに物知りである筈がない。 実は園内でたまたま桜オタク(?)の人に巡り合って教えていただいたものだ。 氏は都内の桜名所の桜一本一本に関する自作データのファイルを持っている。 世の中にはいろんな人がいるものである。
2014.04.27
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春の新宿御苑甲信への旅から帰りホッとしていたらぐずぐずしていると新宿御苑の八重桜が終わるので急がないととせき立てる人がいる。しかも本人はいささか健康に問題があり同伴を要求するのだ、長い間苦労をかけてきたので素直に要求に応じることにしている。先日そこで行われた総理大臣招待・花見会はお札を乱発して何とかミックスを演出する安倍さんがここでも招待状を乱発して例年の三倍近い人数を招いたそうだ。新宿門をはいると多くの人は素直に芝生広場に向かうがrakutenは人の少ない樹林地帯を経て日本庭園に向かう。樹間から見える代々木のNTTビルの姿が大好きなのである。西新宿のように高層ビルが林立しておらずエンパイアステートのような姿の孤立が庭の風景に合っている。少し傾いでいる(腕のせいだが)のも斜塔の様で好もしい。後で見た西新宿のビル群も最近では北京のスタジアムに似たモード学園のビルが出来て少しアクセントが付いたが四角い形はいただけない。数年前に訪れた上海の高層ビルがその先端部のデザインに腐心しているのとは対照的である。八重桜の前に園内の巨木を追ってみた。ヒマラヤスギと思われるがこんな剪定もあるのかと驚かされる、まるでオランウータンである。公園のはずれでほとんど人が来ないところに巨株の桜の木が、よく知られているように桜は種からではなく接ぎ木で増える。これは親株に2種の異なる種の枝を継いだもので根元から分かれた二本の幹は異種の桜である。残念ながらもうすでに落花した後であった。明治時代に始めてアメリカから移植されたアメリカキササゲ、数十年前の落雷で枯れ今は手前のひこばえが育っているとの説明板がある。理解できないが「ノウゼンカズラ科」と記されている。この姿で数十年間立っているということはまだこれから数十年は御苑の祖先みたいな姿で立ち続けるつもりなのだろう。ケヤキの大木、落雷で痛んだのだろうか何年か前に見た時痛々しい幹であったが今は厳重に包帯で覆われ治療されている。何の木だかわからないが巨木三兄弟、幹の根元を見ると三つ子ではなく明らかに左から長男次男三男に見える。どう見ても三姉妹には見えない。これも有名な御苑のプラタナス並木、やはりここは秋の景色が良い。八重桜もかなり大木に育つものがある。八重桜に実が成ることは無く、一重の山桜や里桜は結果してもすぐ落実してしまう。このサクランボの命ははかない物である。満開を過ぎるとたちまち姥桜と称されてしまう花の命、今のうちに人生の宝となり生涯の命綱となるような経験をしておきなさいね、お嬢さん。紅葉(もみじ)の森を行く若人の後ろ姿は本当に心和む物がある。下の写真から二人の像を消し去ったら雰囲気がまったく別の物なってしまう。
2014.04.26
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片倉館諏訪湖畔を移動して上諏訪駅に近いところまで来た時道路の向かい側に煙突を備えた奇妙な洋館を発見した。案内図には片倉館とだけある。丁度駅に向かおうとしていたので立ち寄ってみることにした。玄関先に「天然温泉片倉館」とある。案内板によると片倉製糸2代目でシルクエンペラーと称された片倉廉太郎が欧米の視察で地域住民への福祉施設が充実していることに感銘を受け、地域住民の福祉施設を思い立ち基金を立ち上げて温泉浴場やサウナを備えた「片倉館」を立ち上げたとある。以来この地で原形を残した形で日帰り温泉として営業し続けていると言う。今回は入浴しないのでポスターの写真を引用すると内部は下のようになっており、タイル張りの大浴槽4隅には大理石(?)の女神像やステンドグラスを配した豪華なものらしく、国の重要文化財に指定されているとか。(影は私の亡霊)受付で聞くとレストラン利用だけでも出来ると言うので2階に上がった。畳敷きの大広間と間仕切りなしのレストランで信州そばを頂いたがこれがまたこしのある素晴らしい信州そばであった。大正昭和に亘る建築だけに大広間と言っても柱の数が多いがその柱には美しい漆喰彫刻が付いておりヨーロッパのテルメを思わせる造りである。丁度浴槽の天井に当たる2階の屋上テラスに出てみると諏訪湖の景色が開け、この「片倉館」の屋根部分を近くから見える。イタリアの教会の鐘楼のような塔は温泉の湯気抜きで煙突は冬の暖房用であろう。寒い諏訪の冬に温泉浴をし、暖房のきいた暖かい部屋で一日を過ごすのも贅沢だったろう。上の写真を見て教会以外を想像するのは難しいことだろう。階段手すりの曲線構造も木製のそれには深い味わいがある。階段を降りた玄関室の両脇には当地の2大スポーツ、スキーとスケートをする人の等身大の木彫像が飾られている。仏像以外にこんな大きさの木彫像はあまり目にしたことがない。 何の予備知識もなく訪れた「片倉館」であるが日本の近代化の原点ともいえる生糸産業。生糸の輸出で外貨を稼ぎ重工業資材を輸入して日本の近代化を成し遂げた養蚕・生糸産業が一方で女工哀史を生んだだけではなくこのような福祉にも寄与したことを知っていささか救われた気がした。
2014.04.25
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諏訪湖畔公園高島城を辞した後湖畔の間欠泉センターに移動した。間欠泉は熱水と蒸気が一気に噴き出す現象でかっては国内にも各所あった外国ではなんと言っても有名なのがアメリカ・イエローストーン公園のOld Faithful Geiserであろう。Old Faithfulは噴出時間が正確で、Woodward と言う人がが、噴出時間と噴出間隔の数学的な関係を導き出している。一回の噴出量は約1万5千リットルで30-50mの高さに吹きあがる。傍にあるロッジのロビーにはその日の噴出時間が分単位で掲示されており、 時間になると観光客が墳気孔を囲み待っていると池の水面が大きく盛り上がり一気に数十メートルの水柱と湯けむりが上がる。追力満点のショウに湯滴を浴びながらもみな拍手して喜ぶ。Faithfulの意味は時間に正確なことである。こんなことを思い出しながら諏訪湖間欠泉センターへタクシーでと急いだがそこに人影は無い。間欠泉展望室と言うのがあり屋外には石が積み上げられ、次回噴出は14:00とある。さすが日本の間欠泉はFaithfulどころじゃない正確すぎると思いきや、以前は50mもの高さに噴き出ていた間欠泉が近年噴き出さなくなり最近は圧搾空気を送り込んで決まった時間にバルブを開いて噴出させているのだとか!! 要するに温泉水のくみ上げすぎなのだろう。大分時間があるのであきらめて湖畔公園を歩くことにした。30分位湖畔を歩いてはるかなセンターを望むと湖越しに何やら白い煙が見えたのでデシカメをズームにしてみると確かに数メートルの湯柱と水蒸気が上がっており、いつの間にか見物人がいるではないか。しかしこれなら湯釜の蓋を取ったようなものではないか。長々と待ち続けなくてよかった。湖畔公園には咲けば見事な桜並木が伸びているがまだ1,2輪の花びらしか認められなかった。延々と続く湖畔の遊歩道には鉄のオブジェや石の彫刻が置かれていて楽しい散歩が楽しめる。湖畔には温泉ホテルが続くのでこれからは気軽に浴衣姿で散歩する人が増えることだろう。上のは今見てきた高島城のオブジェで天守閣や石垣が見事に表現されている。ここ諏訪は明治大正時代製糸業の街であった。伊那や飛騨から多くの農家の娘が峠道を通って諏訪に女工として働きに来た。「ああ野麦峠」の小説などで知られる女工哀史の舞台であった、その糸繰車のオブジェも見える。昔神社建造のために石を掘り出していると割れ目から血が噴き出した。そこで石工はその石に大きな仏の像を彫った。その伝説の石仏を祀る所がこの地にあるそうだ。野球選手に見えなくもないが有難い仏さまの像のオブジェである。芝生広場には大きな石の彫刻も置かれており沖合には浄瑠璃の演目にあると言う「八重垣姫の像」の像が建っている。
2014.04.24
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諏訪・高島城上諏訪駅に降り立ったのは高島城址を訪ねるためである。高島城は豊臣秀吉の家臣・日根野織部によって築城された。日根野は安土城や大阪城築城にも関わった築城名手である。完成当時は「諏訪の浮城」とも称され、諏訪湖の水際に建っていた。徳川の時代になり元の領主諏訪頼水が帰り藩主となり以後10代江戸時代を通して諏訪藩として栄えた。明治の廃藩置県で廃城となり、昭和45年に天守閣が復元されたものである。甲府ではソメイヨシノは終わっていたので、さらに高地の諏訪ではもしやと思ったが逆にここはまだ開花し始めたところであった。城内に入ってみるとまばらな人影の中に不揃いな一団の人々がいた。ある人は官庁の環境課を思わせる作業服にネクタイ姿、ある人はスーツ姿、ある人は大きなビデオカメラで咲き始めた花ビラを写している。そしてパーカー姿でメモをとっている人や大きなカメラを構えている人。桜見物をしている姿の「さくら」の母子と花を交互に写している。これは諏訪地方に桜の開花宣言を出すお役人と放送局・新聞社だろうと思った。ほかに人もいないのですれ違うとき、「夕刊の見出しは桜開花ですか」と尋ねるとそうなるでしょうね」との答え。多分この一カ月は日本の各地で同じ光景が繰り返されているのだろう。平和と言えば平和、平和ボケとも言える光景である、願わくばこんな光景がいつまでも続くことを祈るのみである。廃藩置県による廃城令で城が壊され公園として保存されていたため結構古い池や大木が聳えている。私が住む練馬は昔の武蔵野にあり、昔の農家の屋敷森にケヤキの大木が多く残っているがたいていは幹をすらりと高く伸ばし上で枝を張っている。しかしこれは根元から分枝した樹形で私としては興味をそそった。サンシュウが黄色い花を満開にしていたがこれも私が今までに見た中では最大級のサンシュウの木である。これに鈴をくくりつけランデブーの合図とした「ひえつき節」は宮崎県椎葉村の民謡。平家の落人部落でヒエを作り食した時の恋歌である。そんな悲恋をよそに岩の鳥は青春を謳歌しているかに見える。満開の彼岸桜と時計塔が天守閣に沿って美しい。結果的に脇門から入城し正門である冠木(かぶき)門・冠木橋から出ることになった。橋・濠・石垣・天守閣と揃えばなかなかの構図である、願わくば石垣に垂れ下がるしだれ桜の彩りだろうか。報道陣以外は2,3組の観光客を数えるだけの場内は素晴らしい時間を過ごさせてくれた。
2014.04.23
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甲府・諏訪間車中風景甲府で一泊した翌日のんびりと各駅停車の列車で上諏訪に向かった。この日も春霞でせっかくの南アルプスは鮮明ではないがはっきりと認めながら目的の旅をすることが出来た。甲州から諏訪に向かう線路は緩やかに勾配を登ってゆく。したがって甲府ではもう終わっていたソメイヨシノが沿線ではまだ咲き誇っていた。特急列車では早く過ぎ去ってしまう光景もゆっくり楽しむことが出来る。待ち合わせの停車も山の景色を楽しむには都合がよい。がらがらの車中、ベンチシートでは景色に向かい合って眺められることが有難い。今まで数えきれないくらい通過しているのに気がつかなかったが韮崎では街外れの小高い山に立つ真っ白な観音像が美しい。 甲府を過ぎると日本第二の高峰北岳や間ノ岳・農鳥岳の白根三山はもうほとんど目に入らなくなるがその分地蔵岳、観音岳、薬師岳からなる鳳凰三山が目に入り、続いて甲斐駒ケ岳の雄姿がじっくり眺められる。 反対側の車窓にはやがて八ヶ岳が現れ、甲州側では南面がそして諏訪に入るとその北面を楽しむことが出来る。上諏訪で下車するとそこの一番ホームには有名な駅の温泉がある。かっては本当の湯船があり山から下りた人がここでひと風呂浴びて電車に乗れるので愛好されていた。今は足湯だけになったみたいで無料となり、より気軽に利用できる。入り口の暖簾があり浴槽かと思ったが更衣室だけである。それにしても足湯に更衣室とは大げさであるが多分かっての入浴時代の名残ではあるまいか。
2014.04.22
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武田神社甲府歴史公園を訪ねた後武田神社に向かった。駅北口から一直線に伸びる2,3キロの一本道は桜並木になっているがもうすっかり散り去った後であった。甲府=武田の印象が強く、駅前・駅裏の甲府城が武田氏の城と思ってしまうが、甲府城は武田氏滅亡後の築城であり、信玄や勝頼は今は武田神社となっている場所の館に住んでいた。戦国の時代まだ天守閣を持つ城は無かっただろう。ただ館とはいってもさすがは天下統一を志す武将の物だけにもうほとんどお城である。防御の濠や石垣を備えている。さすがにドラマでよく見かける”風林火山”の幟が林立しており神社と言うよりは戦場本陣の雰囲気を感じる。現在は神社境内の外側の館跡発掘・公園化が進んでおり、発掘跡はまだ芝生広場となっているが土塁などが復元され歴史公園化が進んでいる。隣に大きな桜の老木があり、見に来る人もなく咲き誇っていた。その下に古くて読めない、と言うよりも字が読めても解読できない難しい石碑が建っている。端正な石垣とあわせ館の一部とばかり思っていたが空中写真を見ると農業用水ため池のようである。石垣も新しいところを見ると最近歴史地区にふさわしい様に石垣作りに改修されたのであろう。ピクニックテーブルにもさすがに「風林火山」と刻まれている。神社の石段から見ると甲府の街が一望できる。決して山城と言うわけではないが盆地の地形は外周に向かって緩やかに傾斜しており防御に適した山城の性格を持ち合わせていることが分かる。甲府の街を決して侵されないように聳える3千メートル級の南アルプス・鳳凰三山が春霞の中にもはっきり眺められる。甲府駅南口でバスを降り立ってみると信玄公がこの南アルプスをしっかりと見つめていた。甲府城内ではなく、いわば駅裏口に建っているのはやはり甲府城と信玄公が無関係であることのようだ。そう言えば歴史公園では「風林火山」の幟を見かけなかった気がする。
2014.04.21
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甲府歴史公園の太白桜前ブログにも記したように甲府城は山手門と本丸がJR中央線で分断されている。今回は駅北口の山手門側・歴史公園地区を訪ねた。甲府城は秀吉の命により築城されたものであるが江戸時代将軍家の持ち物となり後に柳沢吉保の居城となり整備されたものである。甲州街道の要所だったため江戸との交流が盛んで小江戸とも称されたそうだ。高い石垣に囲まれた堅牢な門である。復元されたものはすっきりしているが石積は穴太積みと思われる。その石垣に純白で大型花びらの桜が満開である。周りのソメイヨシノはもう盛りを過ぎて葉桜であるがこれは今を盛りと咲いている。傍らに太白桜の花碑なる新しい石標が出来ており小さな苗木が植わっている。そう言えば公園一帯に「太白桜まつり」の幟が立っており白い桜が咲き誇っている。「太白桜」とはあまり聞いたことがなかったが甲府近辺に多く見られる桜だそうで、わが国古来種でありながら絶滅していたのをイギリスで生き残っていたものを逆輸入して特にこの地方で広めようとしているようである。そしてこの駅北口歴史公園が新しい桜名所にしようとの魂胆のようだ。ソメイヨシノの後に来るのがみそであろうか。そう言えば「太白さくら祭り」に出演予定のお年寄りが山手門に続く土塁の上で練習に余念がなかった。
2014.04.18
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甲府の新観光スポット4月も中旬ともなると春爛漫、毎月の新聞休刊日に出かける一泊旅行を再開した。今回はまだ取残された初春を求めて甲信に出かけた。甲府駅は再開発で一新されている。かっては電車から甲府城の様子を窺い知ることが出来なかったが最近はすっかり復元がされて駅のホームからでも本丸が見えるようになった。地図の緑部分が復元された甲府城本丸跡である。昨年ここに上ったが眺めは抜群であった。今回は駅の反対側で大手門の復元がほぼ出来上がった歴史公園を訪ねた。地図上部の緑の部分である。地図を見て分かるように藩士たちが大手門をくぐり本丸へと進むまさにその位置にJR中央線が走り駅舎が位置しているわけだ。普通は線路を敷く場合お城は避けて通ると思うがなんと無神経な都市計画だろうかとも思うが明治政府の廃藩置県の考えがいかに徹底したものであるがが窺える。駅北口の歩道橋を降りると催しもの広場があり、明治の洋館「藤村記念館」がある。この日は広場で「桜まつり」が開かれており記念館の入り口は臨時ステージとなって歌や踊りが繰り広げられ、広場は屋台で埋まっていた。裏側の臨時入り口から館内に入るとこの洋館は明治の山梨県令藤村紫朗の命で山梨県下に建てられた擬洋館で、外の喧騒とは裏腹に無人の館内に入ってみると和服姿の女性が案内してくれた。再現された教室は意外に広く机や椅子も私にも馴染のあるもので時々ここで学んだ人が訪ねてきて懐かしそうに触ってゆくそうだ。広場と道一本はさんで新しく「夢小路」と言う昔の黒レンガ倉庫を模した造りの商業施設が出来ている。一部まだ入店していないスペースもあるがほぼ完成しており、すぐ横には時の鐘や明治館もある。夢小路は全体が黒壁の造りで統一されている。まだ落ち着いていないが植え木などが成長すると結構いい街並みになるだろうう。蔵の美術館も古瓦を使った土塀や季節の花桃が大胆に手水鉢の生けられていて落ち着いた感じである。各所に今を盛りの桃の花が飾られている。手水鉢の桃花は室内の生け花とはまた一つ違った景観を作りだす。室内のそれが人の創造力を掻き立てるに対してこれはもう自然そのものである。甲州と言えばワイナリーであるが、古いものはワイナリーと言うよりは日本酒の蔵元の感覚に近く、ワイン蔵と呼ばれているようである。そんなワイン蔵と時の鐘は似合っている気がする。
2014.04.17
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**のなる木で検索してみた桜に騙されて日々を過ごしている間に4月ももう10日を過ぎてしまった。振り返って長い間ブログ仲間であるみやこさんの4月1日のブログを見るとイギリス在住の人らしく話題はApril Foolであった。1957年のBBCの番組でスイスにスパゲッティのなる木があり、その年の収穫がなされBBCがそれを撮影したというものが放映れた。丁寧に収穫されたスパゲッティは天日干しにされ、その日のうちに料理されて食べられるという。日本人が梅に春の息吹を感じ、北米・カナダでは雪の残る林からその年の楓の樹液を採集してメイプルシロップを作り始めると春の風物詩として大きく報じられる。山国スイスでスパゲッティの収穫も遅い春の訪れとして格好の話題とにらんだのであろう。ただそれはスイスではなくイギリスBBCでのApril Fool報道だったことだ。 上はBBCのホームページからの写真。BBCにはこのスパゲッティのなる木の苗を買いたいと言う電話が殺到したそうだ。そこ ”*のなる木” で検索してみると出るはでるは、「金のなる木」 多くの人がこれは知っているだろう。ベンケイ草科の多肉植物で折れた枝からでも落ちた葉っぱからでも芽吹き、水をやり過ぎない限りほっといてもまず枯れない。私もほったらかし栽培をしていたが、昨夏なぜか根が腐って枯れてしまった。それでも枝が枯れ落ちてそこから今また何本かの新しい株が立ちあがっている。私には新無趣味は無いが枝の先に五円玉を載せておくとその穴から新芽が伸びて抜けなくなる。大きな鉢植えの枝にびっしり五円玉がなった木を見たことがある。しかしまだこの写真のように五十円玉がなっているのを見たことは無い。欧米ではあまり穴のあいたコインを見たことは無いが、 英語でもmoney(Dollar) plant というそうだ。今回のブログを書くためにWeb検索をしていると。本当の金のなる木が昨年オーストラリアで発見されたの言う記載がある。この場合は貨幣としてのお金ではなくゴールドの金である。金鉱のある山に生えるユーカリの葉っぱには金が含まれていることが分かったらしい。地中深くから吸い上げた金の微粒子はユーカリにとって毒なので幹を通ってすぐ葉に送られ解毒されるるのだと言う。もっとも金の指輪を作るには数万株のユーカリが必要だとか。そしてそれを取り出すためには莫大な費用がかかる。金細工の職人さんのウン*を集めたほうが速そうである。世の中には金持ちがいるのでユーカリの木から採った金で婚約指輪を作る人が現れるかも知れない。ほかにもweb上にはいろんな「なる木」が出てくる。「* のなる木」の*としてパン、酒、貝、米、卵、菓子等の「食品のなる木」は食べ物屋さんや料理好きのブログだろう。 歌、鈴、すず、音、芸術 星あたりはレストラン、カラオケ店、喫茶店等だろう。ハート、ネコ、子ザル、くま、ぶた 等は女の子用の雑貨店、火、カギ、 金(きん)はやはりブログのタイトルだろう。そしてずばり、株、一億円、カネは金持ち願望の人の思いを綴ったものだろう。
2014.04.12
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上野国立博物館上野の国立博物館・平成館で開かれている「栄西と建仁寺展」を見に行ってきた。何時も前売り券を買って気がついたら会期末になり慌てて混んだ頃に出かけことが多い。超寒がりの私にもやっと本格的春の到来を感じて上野の森へと出かけた。あまりの陽気に半そで姿の外国人観光客も多い中、上野公園は週日にもかかわらず多くの人ででごった返していた。特にアジアからの観光客が多いのにはびっくりした。上野公園は以前に比べて緑は少なくなった感じであるが大分あか抜けてきて、外国人観光客に来てもらってもあまり恥ずかしくない気がする。桜もまだ名残惜しく残っており、この陽気は観光日和であった。噴水前では保育園の子供たちが噴水と博物館を前にして楽しそうにお話をしていた。こんな場合の話題は何なのだろう。話に割り込んでゆきたい衝動に駆られる。 普通「国立**博物館」と言えば内容が良く分かるがここはただ「国立博物館」である。 要するに国立博物館が一つしかなかった時代の名残であろう。英語でmuseumと言うと 日本語で美術館、博物館、資料館、記念館などにみな含まれている気がするがここは 歴史博物館・民俗資料博物館、考古学博物館併せ持ったものと理解すべきだろう。今回の目的は平成館であるが本館前にある一本の桜が他を顧みず満開の様子。そしてそれが大きながらし窓に映ってとてつもなく多きな絵画に見えてくる。位置を変えると別の窓には違った景色が映ってうっとりする光景の絵が眺められる。新緑、桜花、冬枯れの枝そしてギリシャ建築風のエンタシスと日本建築の屋根それらは皆ちぐはぐなようで綺麗に調和している。ガラス上の景色を振り返ると表慶館の聖堂屋根が美しい。この建物はその存在があまり強調されることなく今に至っているが大正天皇のご成婚記念の建立だとか。日本人設計の純粋に日本人による建築であるがヨーロッパに出しても恥ずかしいものではなかろう。実はこのドーム屋根であるが年を経た緑青にしてはむらがなく実に綺麗な色調である、ある人のブログによるとこの部分は銅板ではなく木造なのだそうだ。私はまだ半信半疑であるがそう言われてみればそんな気もする。それにしても正面ファサードの両側にあるこのこの紋は何を現すのだろうか。我が国の皇属は個人紋を持っているがどう考えてもこれは大正天皇の紋どころではない。西洋の場合紋は個人に属するものであり、以前読んだことのある紋章学の本ではその紋からその人の出身家あやさらにその家の由来が分かると記されていた。改めてこの紋様を見るとあまりに装飾性が強く単なる装飾模様に見えてくる。日本でも地方の古い村に行くと入母屋作り屋根の下の漆喰作りの素晴らしい文様を見ることがあるが。伊豆の長八美術館の漆喰美術がその代表的作品であろうか。
2014.04.11
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花まつり4月8日はお釈迦様の誕生日、花まつりの日である。昔はこの日寺で甘茶がふるわれたり、お釈迦さまの像に甘茶をかけたりしたものである。この頃になるとさすがに春も本番で道端の雑草もオオイヌノフグリ、ホトケノザ、ヒメオドリコソウと言った早春から夏にかけて咲く続けるだけでなく芝桜やダイコンの花などが目立ってくる。山吹の花も咲き始めた、これには一重のものと八重の花がある。「七重八重 花は咲けども 山吹の実の(蓑)一つだに 無きぞ悲しき」と言うことで一重咲きには実が成るが八重には実がならない。太田道灌と田舎の少女の故事があった江戸川沿いの旧細川藩の下屋敷に近いところに小さな「山吹の里」の記念碑がある。桜と重なり花期の長い桃が今を盛りである。桃にもいろんな色があるようであるが果物桃の産地でもない限り桃の花の群生は都会ではあまりお目にかからない。我が家の近くのマンションには紅白の桃が綺麗に咲いている。生け花に桃の花がよく用いられるのは長持ちするためであろうが、桜が刹那的美しさを示すのに対して桃は連続性を、そして梅寒さに耐える姿を良しとするのであろう。
2014.04.10
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待たれる春本番・初夏今年も例年と同じく桜が開花すると直ぐ花冷えとなり花もちは良かったが今週初めは急に初夏を思わせる陽気となり裸の枝が目立つようになった。ただソメイヨシノから2,3日遅れて開花するしだれ桜はまだ色気を保っており、川岸の散歩コースにもさすがに宴を張っている人はもう居ないが年寄りがそぞろ歩いていた。桜の咲き始めにはあまり目立たなかった柳がすっかり若緑に染まっていた。川岸を見るとダイコンの花の横は花筏が流れてゆく。脇の石段を見ると散った花びらで綺麗な格子模様が描かれている。桜が終わるとやっと私が待ち焦がれている本当の春・初夏がやってくる。
2014.04.09
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光が丘公園そして皇居乾門通り春らしい天気が続いたので小さな散歩に出かけることが多くなった。この2,3日世間では桜ばかり注目しているが近所の光が丘公園出かけてみるといつの間にか落葉樹には緑の葉がそして常緑樹には黄色がかった新緑ですっかり春の準備をしている。週日の広場にはほぼすべて小さな子供連れの花見と言うよりはピクニックといった感じ。広場を囲む桜の林の下では大人たちが花見を楽しんでいた。両者に違いは無いが私はかってにブルーシートが花見で模様入りレジャーマットがピクニックと定義している。ここにはソメイヨシノ以外に白花の山(里?)桜の大木が多くしっとりした雰囲気がある。中には白花のしだれ桜もあり珍しい。写真の「舞歌、マイカ」さんと言う美しい女性が美しいオカリナの音色を奏でていた。Webで調べてみると広く活躍しているオカリナ奏者である。次の日(4・4)午後急に天気が好転した。新聞にこの日から天皇陛下の傘寿を記念して皇居の坂下門から乾門の間の桜並木が公開されると言う記事が目に入った。野次馬根性がうづき出かけたが東京駅から御幸通りあ人でいっぱい、自由に歩けないほどの人出である。内濠通りから皇居前広場を望むと東京中の人が集まったかと思われる程の人の数。お巡りさんは車上から閉門は午後3時だが2時前にもかかわらずこれ以上は入門できないので行列を締め切ったとのアナウンス。シャットアウトされた群衆が続々と引き返してくる。この日入場できたのは約6.5万人だそうだその倍くらいは集まったことだろう。今日は開門を繰り上げ門も広げて9万人余りを入れたそうだがそれでも早々に列を締め切ったそうだ。そして今日は閉門も遅らせるだろうと報じていた。 恐るべし日本人の野次馬パワー!!!内濠通りを赤い観光バスが通り過ぎたが2階建てオープンデッキの車である。ヨーロッパではよく見かけたが日本では珍しい。真夏の日本では耐えられないのではないかと思うが春は気持ちが良いだろう。早々にに引き上げて帰ってパソコンに向かっていると急に突風が吹いて東西の空は明るいのに上空だけが暗くなった。ややあって変な音がするのでベランダを見ると白い金平糖のような球がパラパラと落ちてきた。久しぶりの雹(ヒョウ)だ。野菜などには被害があるのかもしれないがなにか嬉しい気分にしてくれる雹であった。
2014.04.06
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飛鳥山公園と北トピア前ブログで板橋あたりで見た石神井川の桜を記したが見たが、この川は北区の王子あたりで隅田川に注いでいる。10年くらい前にずっと歩きとおして王子の飛鳥山公園に行ったことがある。今回はお手洗いを借りるため帝京大学病院に入ってみるとここから王子行きのバスが出ているので少しずるをすることにした。王子駅は飛鳥山の下にあるので2,30メートルであるが珍しいモノレールが運行されている。物珍しさからか長い列が出来ていた。上野寄りの出口に回るとJRをまたぐ長い歩道橋がある、そちらから公園に接近した。飛鳥山公園は新幹線で横を通り過ぎる時この時期になると桜が美しい。公園の下は東北本線、埼京線、湘南新宿線などの線路の横に東京では珍しい貨物線が健在である。たまたま通りかかった列車は本当に長く、子供時代が甦る光景であった。橋を渡り切って公園側に立つと一段高い位置を走る新幹線がよく見える。ここは東北、秋田、山形、上越、長野の各新幹線がそれぞれ異なる色や形でひっきりなしに通過するので子供にとっては楽しい場所となっており、ちびっこカメラマンが多く陣取っていた。江戸時代、桜の名所として上野の山と飛鳥山があったが上野には東照宮があったり、皇族が門跡を務める寛永寺があったりでここで庶民が花見の宴を開くと言うわけ にもゆかない。そこで徳川吉宗が庶民のために設けたという王子の飛鳥山では呑や歌えの宴会が自由にできた。そこで江戸中から人が集まったというのがこの飛鳥山である。多くの浮世絵版画にも名所として描かれている。今回面白い発見をしたのは一番奥のゾーンは小さい子供ずれの家族やお母さんたちのグループで占められ、中ほどには小さな子供の居ない壮年の家族連れやオジ チャン・オバチャン達、そして一番駅に近いゾーンには年寄りのグループがそれぞれに花見と言う飲み会を楽しんでいた。かって新入社員たちが入社最初の仕事として朝から花見の場所取りをしてシートの上で寝ころんでいたが最近ははあまり見かけなくなった。日本人も遅くではあるが進化しているようである。帰りは列に加わりモノレールに記念乗車してあっという間のスリルを楽しんだ。山を下って駅近くにある北トピアと言う17階建ての無料の展望室に立ち寄った。その一角に望遠レンズを抱えた小父さん達が群れていた。彼らが狙っているのは下の光景。コンパクトカメラではこのあたりが限界である。遠方に目を転じるとスカイツリーも根元から見える。この日は春特有のカスミではっきりしないが実際には至近距離にある。この展望室は17階と特に高層と言うわけではないが周りにほとんど高い建物は無く四方がよく見渡せて私の好みの展望台の一つである。
2014.04.05
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板橋界隈の石神井川前ブログに我が家の前の川沿いは長い桜並木の歩道があると記しましたが遊園地を挟んではるか下流にはもっと古い桜の並木があるのでウイークデイの昼間に出かけてみました。下流は改修時期も古いので桜の木々はもはや古木の域です。ソメイヨシノは人工種だけに寿命が短く50-100年と言われてい る。年を経た古木には枝や花のつき方にも自然と風格が出る。川の両側が桜であるが歩道の上の枝は払われ、川のほうの枝を残すため太い幹もみな川側にかしいで水面をおおうように垂れ下がった花の枝がその影を映している。空に現れた飛行船が見る角度によっては花をすれるように飛び去ってゆく。こ のあたりはもはや練馬区ではなく板橋区である。灯篭風の明かりがあるのは新板橋。「新」と言っても多分それは江戸時代の「新」であろう。なぜなら次の橋は 本当の「板橋」である。このあたりの地名も「板橋」であるが、その名は江戸時代よりもはるかに昔からこの橋にかかる”板橋” がその起源だそうである。木製にしか見えないコンクリート製の橋の欄干に垂れかかる桜の枝は何か江戸時代にタイムスリップしたようである。そして案内板にはここが中山道の板橋宿で大名本陣などがあったところで日本橋からの距離で10.64キロメートルの距離とある。参勤交代の大名達はここで行列を整えて府中に入ったのであろう。ここを過ぎると我々のこの日の終点帝京大学病院前に着く。昔の宿場近くにこんな巨大な建造物があるのを見たら昔の旅人たちはなんと言っただろうか。
2014.04.04
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我が家のベランダからの花見 今年もまた花の季節が来てしまった。「願わくば 花のもとにて 春死なん その望月の 如月の頃」 と歌った西行の心境には遠く、あと何回この春に巡り合えるかを案じ複雑な気分のrakutenである。そんな気分にお構いなく我が家のあるマンションの下では毎年花の饗宴が繰り返されている。わが相棒は桜に目がなく毎年4月中は花の追っかけをする習性があり、心臓に問題を抱える身とて一人歩きは心細く、長い過去の生活で迷惑をかけっぱなしのrakutenが頼りない同行者となる。そんな訳で4月のブログは花以外に材料がなくなる。我が家は川沿いにある、川と言っても市街地のそれとあってコンクリート壁であるが、何しろ真下が川沿いの桜並木になっている。 ベランダからの眺めを見ると、下流 眼下 上流 上流も下流もそれぞれ約1キロに及ぶ桜並木である。ただこの桜並木は3-20年前に川の改修に伴って出来た無名の名所なので近所の知る人ぞ知る花見場所。ところどころ小公園や広場がありボンボリ照明もなく静かな花見にはもってこいである。 川縁に降りて眺めると我が家も結構綺麗な構図に収まってくれる。このマンションは洗濯ものが目立たない構造で桜とのマッチングがまずまずである。下の写真は3日間の時間軸を通して異なるアングルからの写真である。今年の記録のために記録に残しておくことにした。
2014.04.03
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起雲閣・文豪の間起雲閣が旅館として使われていた時代裕福な文豪たちがここに滞在している。ここを熱海有数の庭園として整備したのは根津嘉一郎である、東武鉄道を発展させた根津は茶人としても庭園設計家としても著名で東京青山の根津美術館庭園をはじめいくつかの名庭園を残しているが起雲庵もそのひとつである。戦後から近年までは旅館として使われこの庭園を囲む部屋群は作家たちの創作意欲を掻き立てたのであろう。それにしても戦後の混乱期に週刊誌にいくつも連載小説を書くと言った現代作家でもない彼らがどうしてこんなに金持だったのだろうか。起雲閣に滞在した作家としてして資料が展示されている人たちの中に志賀直哉、谷崎潤一郎、山本有三、太宰治、武田泰淳、三島由紀夫、船橋聖一、池田満寿夫、杉本苑子といった人々がここを訪れたりここで執筆したりしている。熱海と言えば「金色夜叉」であるが明治時代にはまだ起雲閣は無かった。熱海と関係の深い文学者として「尾崎紅葉の間」と「坪内逍遥の間」が設けられている。 尾崎紅葉の間から庭を望む写真を撮った時そのガラス窓に何やら文字が書かれている。注意深く読んでみると「風葉は紅葉の亡くなった後 金色夜叉の後編を書きました お宮の松の傍らに建つ 「紅葉山人記念 金色夜叉乃碑」には右の句が刻まれています」とガラスに刻まれている。Webで調べてみると「宮に似たうしろ姿や春の月」と言う句である。小栗風葉は尾崎紅葉の門弟であり、紅葉が金色夜叉の完筆を待たずに亡くなり後編は風葉が書いたと言うのだ、こんな話は知らなかった。逍遥は早稲田を辞した後この地に住み、起雲閣から600メートルほど離れたところに住んだ。自宅に二本の柿の木があったことから「双柿舎(そうししゃ)」と名付けた。ここも現在市の史跡に指定され公開されている。谷崎潤一郎はこの起雲閣を好んだようである。 或る時山本有三、志賀直哉と同宿し、庭で記念写真をものしている。三人で鼎談をした直後らしく服装はちゃんとしているのに3人とも足元は旅館の庭下駄をつっかけているだけである。いずれにしても大家三人の揃い踏みは珍しいものだろう。正直に告白すると私は誰の作品も教科書以外でちゃんと読んだことはない。
2014.04.02
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起雲閣の建物群起雲閣はもともと海運王・内田信也が病身の母のために建てた邸宅と言うことで、玄関奥の和室「麒麟の間」は畳の部屋、敷居、畳敷きの廊下の間には段差がない。車いす生活の母への考慮だそうだ。現代なら大きな一枚ガラスの窓であろうが当時最大の板ガラスを木枠にはめ込んだ全面ガラス戸の造り、波打つガラスを通してところどころ歪んだ庭景色が美しい。部屋の内装はシンプルな中にも高貴さを感じさせる、かべは鮮やかな群青色である。現在の物は人工顔料であるがかってはラピスラズリの粉を使っていたらしい。二階部分は「大鳳の間」でこの部屋には太宰治が恋人山崎富江とともに滞在していたそうだ。この部屋から見下ろす庭景色はまた大正ロマンを窺わせるものがある。2階からは庭を取り囲むように建つほかの棟が見渡せる。「玉姫」棟の内装はアールデコ風作り。「玉渓」は英国チューダー王朝風の造りで暖炉周りの材は豪華で柱やなげしはわざわざチョウナ削りに仕上げている。、これ炉の洋室棟は根津によって増築された棟である。続いて文豪たちが滞在して文豪の間のある棟、ここに宿泊した文豪たちや熱海ゆかりの文豪たちにまつわる展示室となっている。窓辺に咲く豆桜がなんとなく文学的である。庭から見た主棟の純和風建築は1.2階とも前面のガラス戸が当時としては画期的だったことだろう。
2014.04.01
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