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入笠山で見た花・その2 エゾリンドウ ワレモコウヤナギラン オトコエシ? ヤマホタルブクロ マツムシソウ ウツボグサ(種穂) ノコンギク(野紺菊) サワギキョウ ? ヤナギランはその葉が柳に似ており、花がランに似ているいるところからの命名で あるが和名は良い名を貰っている。英語名はFire Weedで典型的な荒れ地の 山野草である。山火事の後すぐに荒れ地を覆うところからの命名であるが他の 雑草より背が大きく目立ち夏は鮮やかな赤紫、秋は紅葉の赤で大地を色どる。 オミナエシ(女郎花)の名の起源は知らないがオミナエシの音は良い響きなのに 対して当て時はひどすぎる。その同族いしゅで秋に昨白い花がオトコエシ(男郎花) これも気持ちの悪い当て時である。
2014.09.29
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入笠山で見た花・その1入笠山ゴンドラ山頂駅から湿原に行く途中に高山植物・山野草園がある。そこで見かけた写真を記録しておくが貰ったパンフレットに記載のあるものや知っているものは名前を掲げておく。今回は花の名を調べ上げる元気がなく名なしのままで掲載しておく。写真の数が多く一報では収まらないので2部に分けて記録する。 ツリガネニンジン ヤマキキョウ クガイソウ? イブキトラノオ? 月見草? トリカブト イブキジャコウソウ ? ウメバチソウ ハクサンフウロ ? エゾカワラナデシコ花の写真をとる場合よく名前標識を同時に撮影する、今回は記録はなく記憶にとどめようと思ったが空洞だらけの我が脳みそはことごとく記憶を削除していた。 嗚呼ーさすがにトリカブトには名標を付けてなかったが結構多く見かけた。数年前埼玉で起こった保険金目当てのトリカブト殺人事件を思い出す。単なる旅の付録写真なので一度に記録したかったが容量オーバーしてしまったので続いて(2)部を掲載する。
2014.09.29
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入笠山今回のツアープランは帰路茅野から特急あずさに乗ることになっており、途中茅野近くの入笠山によることになっていた。中央線を挟んで八ヶ岳の反対側に位置するこの山はスキー場としてのほか湿原やお花畑が有名である。結構長いゴンドラに乗り標高1780mの頂上駅から徒歩約10分で湿原に着く。途中気が付くと近くの峰の上に富士山が現れゴンドラが登るにつれて段々大きくなって行く。何だか手前の峰が劇場のカーテンみたいな感じである。湿原の入口には芝居小屋の舞台みたいな戸がある。湿原は電線で保護されており人間が囲い込まれるようになっている。他の湿原同様鹿の害はひどいのだろう、このような不自然な自然保護策は滑稽だがこれも人間の勝手なのだろう。さてこんな時期に湿原に行っても何もないだろうと決めてかかっていたが白樺に囲まれて草モミジが始まった湿原は結構綺麗であった。そしてそこは一面のエゾリンドウの群生である。今街の花屋の店頭に溢れているリンドウは幹全体に花をつけているがここのエゾリンドウは幹の頭部にしか花をつけていない。北方にも育つのでエゾの字が加わっているが北海道の特産と言うわけではなく、花屋のリンドウはこの改良種だろう。ウメバチソウはの形が梅鉢紋に似ているところからの命名ワレモコウもまだあるのかと思うが結構群生していた。漢字の「吾亦紅」はちと無理が有りそうな色であるが赤から黒までいろんな色の表現が有ったなかである人に「私は赤です」と花自身が告げたのでそうなったとか。人目に付く赤ではないが小さくともすっくと立ち上がり背は高く風にもなびいて強い、「自分もまたこのような生き方がしたい」と言うのが私の意見である。何の花の痕だろうか花びらは無くとも細い白髭がわが身を思わせ看過できなかった。入笠山は八ヶ岳に対していると記したが写真は八ヶ岳南端の網笠山、権現岳の部分である。この部分は主峰赤岳、横岳とはちょっと離れており、富士山型のコニーデ火山の山体が噴火で山体崩壊し下半身が岩峰となったものらしい。一説によると富士山と背比べをして八ヶ岳が自分が高いと言ったため富士山が怒って上半分を蹴っ飛ばしてしまったとのことである。帰りのゴンドラでは夕刻の雲に浮かぶ富士大きなシルエットを浮かばせていた。下りのゴンドラ船中から対抗する船を見るとマウンテンバイクを持った人が乗っている、注意して下を見ていると山道をバイクで突進している人がいる。ゴンドラで頂上まで行き登山道を駆け降りるのがここの名物スポーツと言うことでマニアが集まるそうである。見ているとガードは付けているもののがれ場の曲がりくねった道を突進している姿はとても危険に感じたが世の中にはいろんなことに楽しみを見出す人がいるものである。
2014.09.28
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乗鞍岳エコーライン平湯峠から岐阜側のスカイラインを通って乗鞍岳に登ったが下りは松本方面に出るので信州側のエコーラインを通って乗鞍高原に降りる。ざっと40年前に子供達とキャンプをした所だ。まだ雪渓が残っていてこの猫の額のようなところで今でもスキーをする人がいるとのこと。私たちが行った前日の最低気温は氷点下3度と報じられ、翌々日はテレビや新聞は畳平の鶴池に氷が張ったと伝えていた。這い松しかなかった山頂付近と違ってぐんぐん緑が深くなり、今まで見下していた周りの山々が今度は仰ぎ見ることになる。樹林帯が始まると栂の木の枝が山麓に向かって流れている。ここでは標高1500mの乗鞍高原からの登り標高差1260mのマウンティンサイクリング登山が盛んだとか、ツールドフランスのアルプス超えも有名だがそれでも標高差は585mだと言うのでそれにも勝るかもしれない。今年の記録はこのコースを49分49秒で登っている。この日も外人夫婦がチャレンジしていた。たっぷり着こんでいるが下り道のせいだ、特殊なブレーキが装着されているのだろう。ママチャリブレーキやバンドブレーキでは直ぐに焼き切れてしまうだろう。レースは駐車場までの舗装道路であるがさらに3026mの剣が峰まで登山道を走る(?)人もいるみたいで頂上で自転車を担ぎあげる人の写真がブログに有るのには驚いた。バス下山中最後に認めた前穂高岳から槍ヶ岳までの北アルプスの雄姿である。乗鞍高原まで下ると広葉樹も増え今まさに紅葉前線がすぐそこのコーナーあたりまで忍び寄ってきている感じである。上高地と違ってここは広葉樹が多くナナカマド、ハゼなど真っ赤に色ずく樹種が多く、山裾を真っ赤に染めるとはバスガイドの案内である。
2014.09.27
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乗鞍岳からの山景色旅の最終日は朝から快晴、この日は乗鞍岳に登る(バスで)。乗鞍岳へは飛騨側の平湯峠から登る乗鞍スカイラインと信州側の乗鞍高原から登る乗鞍エコーラインがあり、いずれも岐阜県道・長野県道で無料であるが環境保護のためマイカーは乗り入れ禁止である。したがって下の駐車場から上はシャトルバスかタクシーを利用することになる。かっては有料だったこれらの山岳道路もこの方式で渋滞もなくすいすいと登れる。特にこの時期観光バスの数も少なく前後にほとんど車影は無かった。しかもこれが日本一標高の高い山岳道路で頂上の畳平は標高2702mもあり、北アルプス、南アルプス、八ヶ岳から遠くは加賀の白山まで望見出来るを雄大な展望を誇っている。ちなみに乗鞍岳と言う名の峰は無く一群の山塊を示すが、その中で最高峰は3026mの剣が峰である。バスが高度を上げるに従って次第に展望が開け下の写真で枯れ木のすぐ左に名峰槍ヶ岳がかすかに見える。この山は森林限界を超えても岩峰はほとんど見当たらずカルスト地形を示している。この高度でこの優しい地形は珍しい。カルストと言うことはこの辺りはかって海底に有ったことを示している。とすれば海産生物の化石が有ってもおかしくない、調べてみると果たせるかな穂高から乗鞍にかけての一帯は化石の産地だそうで、奥飛騨の福地温泉には化石博物館が有るとのことだ。ガイドはこの温泉が隠れ宿の里で忍びの滞在が多いと盛んに吹聴するだけで化石について触れなかったのは残念である。それにしても3千メートル級の高山でこの優しい山容は貴重である。しかも道路は整備されており、ハイヒールでも裸足でもこの地に立てる。かと言って山は荒らされることなく結構綺麗に保全されている。時間もなく脚も悪いので畳平から一番近く20分弱で頂上に立てる魔王岳(2763m)に登った。途中這い松の中に一羽の野鳥を見つけ、すはライチョウとシャッターを連射したがあとで調べてみるとホシガラスと言う種で本来もっと山麓に住み、夏の終わりからは這い松の実を食べるために登ってくるらしい。ライチョウは何度か見たことが有りこんな姿形ではないと確信したが、たまたま隣にいた人はライチョウだと言ってきかなかった。魔王岳からの展望は抜群である。北アルプス方面を見てみると左から槍ヶ岳、大喰(おおはみ)岳、右手前には西穂高岳が見える。そして中央部には主峰奥穂高岳から吊り尾根が垂れ下がり右の鋭い峰は前穂高岳である。吊り尾根の中央部から扇沢、奥穂の左からは天狗沢が下り、下部の岳沢に下る道筋がはっきりと見える。扇沢には万年雪の白い雪渓が見え、もう後2,3週間もすればこの辺りも新雪に覆われることだろう。やはり名峰槍ヶ岳のアップ写真も必要だろう。視線を約90℃右に転じると松本平の向うに霧ケ峰連峰が有り、さらにその上に八ヶ岳連峰が横たわっている。その八ヶ岳連峰のさらに左側に位置するのが北八ヶ岳でその左端に富士山型の蓼科山が見えてくる(下図)。この山は私が初めて2千メートルを超えた記念すべき山である。畳平から見る山岳道路は直ぐ下で飛騨側のスカイラインと信州側のエコーラインが交わっている。その場所は岐阜県であるが飛騨と信州を分ける現代の野麦峠と言ったところだ。
2014.09.26
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河童橋からの光景宿泊していた奥飛騨は西穂高岳を挟んで上高地とは至近距離に有るがそこは3千メートル級の峰に遮られた異国である。まさしく「山のあなたの空遠く 幸住むと人の言う ・・・・」と言い合う関係だったのかもしれない。昔は山の向う側には何があるか分からず互いに無限の希望を抱かせる関係だったことだろう。地理的にも観光地としても上高地の中心点は河童橋である。その命名には諸説あってはっきりしないが芥川龍之介の小説「河童」で一躍その名が人口に膾炙したことは間違いなさそうだ。私はまだ「河童」を読んだ記憶がない、さっそく青空文庫で探してみることとしよう。ここから眺める景色が上高地の象徴である。梓川下流から眺めると穂高連峰を中心に広大なカールの谷・岳沢を中心とした雄大な背景を控えている。反対に梓川下流方向を望むと活火山焼岳が聳えている。要するに上高地とは上流の穂高岳と下流の焼岳の間の梓川流域のおおきな窪地である。そしてその中心に位置するのが河童橋と言うことになる。河童橋の上からの景色を記しておこう。下の写真で手前右の山は明神岳、雲で頭が隠れているのが前穂高岳、そこから玄を張ったようななだらかな尾根が吊尾根でその左端のピークが奥穂高岳である。奥穂高は富士山、北アルプス北岳に次ぐ3190mであるがその鋭い岩峰・岩壁は全2者の比ではなくロッククライミングの聖地である。残念ながら私にはその実力がなくまだ登頂を果たしていないが、高校時代朝日新聞の連載で読んだ井上靖の名作「氷壁」に描かれたシーンに深い感動を覚えたのはもうはるか昔のことである。頂上付近をズームして見ると鋭い岩峰のジャンダルム(3163)と奥穂高が鋭いキレットを挟んで対峙している。奥穂高から前穂高の間の吊り尾根を先ほど玄のようなと書いたが詳細にみれば勿論小さな岩峰の連続である。したがって登山道は尾根を避け直ぐ下の斜面を横切っている。河童橋の袂の薄の穂も真っ白で風になびいている。あと2,3週間もすれば岳沢の色も黄色く変わっているだろうう。もう一度橋の上から下流を眺めると最後に色着くカラマツの林の上に忘れないでくれとばかりに焼岳がその雄姿を誇示していた。
2014.09.25
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上高地大正池今回のツアープランで二日目は上高地へのバスツアーである。前日に天気とは打って変わって朝から快晴であった。上高地へは3年前にも行っているが何時も大正池は素通りしてきた。そこで今回は大正池ホテル辺りから田代池、田代橋を経て河童橋まで歩き、ゆっくりと昼食をとることにした。正面の焼岳が大正時代に噴火して梓川が堰き止められで出来たのが大正池だがその泥流跡が今もはっきりと見て取れる。火山墳火には溶岩流が流れるもの、火山灰・火山弾(火砕流)が流れ出るもの、さらには焼岳のように水蒸気爆発によって山体が崩壊し泥流が流れるものがあるが、最後の方は川をせき止めて湖沼を作り出すことが多い。この大正池の水をダムを造るのではなく鉄パイプで8キロも山中を導き梓川下流の東京電力霞沢発電所まで運んで発電に利用している。驚いたのはその取水法である。湖尻にゴムテューブ製の堰を設けて水位を保ち取水している。チューブに入れる空気量を調節することで堰の高さを調節して大正池の水位を一定に保ちながら発電用の発電用の取水をしている。最初は信じられなかったが同じゴム製ダムは他にもあるようである。ダム建築では景観や生態系の破壊が起こるがこの方式だとその両方が保たれる。ただダム方式に比べて保守管理が大変だろう。大正池には雪崩や急流で浸食された大量の土砂が流れ込み、沈殿池としての大正池はどんどん小さくなっている。私がここを初めて訪れたのは40年くらい前であるがその時に比べて随分小さくなってしまった。上の写真の砂浜などもその時は水の下だったはずだ、今では毎年冬の時期東京電力が浚渫を行い水深を確保しているが放置すると10年を経ずして大正池は単なる川になって仕舞うらしい。東京電力のものなので原発事故と無関係とも言えず、風と桶屋の関係のように浚渫が停まると上高地の景観にも問題が生じる。大正池と言えば湖面から立ち上がった枯れ木の景色であったが今やその景色は湖頭の一部に残るだけである。梓川からちょっと外れて田代池がある、小さな池であるが周りは湿原になっていて夏の間は種々の水生植物が美しいだろう、今はさざ波の水面に映る雲や湖畔の樹が小気味よく揺れている。整然と並んだサルノコシカケがあった、腰かけと言うよりは階段であるが、はてさてサルは階段など無くとも木には登れるだろう。あと2、3週間すると焼山を望む梓川周辺の色はすっかり変わることだろう。ただし上高地の紅葉はカラマツやシラカバ・ダケカンバの黄色が主だとのこと。確かにナナカマド、、ハゼ、モミジ、カエデ、ツタの類は余り見かけなかった。御存じウオルター・ウエストン神父の像がある、1911年ウエストンはその書で案内人嘉門次に案内されて踏破した上高地の豊かさ・美しさを世に知らしめて今日の上高地がある。嘉門次の子孫は今も明神池の近くに嘉門次小屋を経営している。気の早い木もいてこのカエデはもうすっかり秋の気分である。白樺の葉もすでに真夏の色合いを失い、細い幹はますます白さが目立ってきた。わが身と樺の木に頑張れ!と励ましの声をかけて梓川の清流を遡上した。昼食は人の多い河童橋周辺では落ち着ける五千尺ロッジのレストランでイタリアンを頂いた。
2014.09.24
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新穂高ロープウエイ今回の信州への旅は久しぶりに旅行社のパックツアーを選んだ。宿は上高地をよぎって平湯温泉から奥飛騨温泉郷を深く入りこみ、その一番奥に有る新穂高温泉である。午後3時を過ぎていたがホテルの隣から出ているロープウエイで標高2200メートルの穂高口に上った。ここからは遠くに槍が岳を望み眼前の穂高諸峰が望めるはずであった。残念ながら途中からホテルの背後に聳える笠が岳の方面に雲がモクモクと沸いてきた。反対側の穂高岳連峰にもどんどん雲が広がり始めた。午後遅い時間になると谷間から噴き出すように発生する雲はあっという間に峰を覆ってしまう。穂高口に着いた時あたりはもう濃いガスに囲まれて遠景は消えてしまった。ここから見える飛騨側から見る穂高の姿を楽しみにしていたが見事に裏切られてしまった。仕方なく道端のスミレの花など見ながら周りの遊歩道を歩いていると、石碑があり「案内板に「播隆(ばんりゅう)上人」とある。1821年からこの地で念仏修行し、1822年には笠が岳登山道を開鑿しており、1828年には槍ヶ岳にも登頂して開山している。ウエストンが上高地を紹介したのが1896年(明治29)であるから、信仰登山とは言え70年も早く北アルプスの山々を開山し登山道を整備した人がいたわけである。映画「点の記」で剣岳の初登頂が記録された時そこに行者が遺した錆びた鈷(杖金具)が遺されていたあの場面を思い出す。山中で朽ちる覚悟で行をした昔の修験道の厳しさを彷彿させる播隆上人であるが、私を含めほとんどの人の脳裏に浮かぶ名前ではない。この地では毎年5月11日に「播隆蔡」が執り行われているそうである。石碑だけが新しいが新しいのに取り換えられたのであろう。ロープウエイの中継点にはもう一つの新しい石碑がひっそりと建っていた。よく見るとクルッケンハウザー教授の碑とある。氏はオーストリア国立スキー学校の校長だった人で、日本の近代スキー競技に大きな貢献をした人とのことである。八甲田山雪中行軍の惨事に懲りた陸軍がオーストリアの武官レルヒ少佐を招いて近代スキーをとりいれたのが1911年、その後も日本の近代スキーいつもオーストリア・チロル地方のスキー関係者に負うところが大きい。この人の名も知る人は少ないが碑には”War hohe steile Berge liebe muss HOTAKA gehen"とあり、名訳とは思えないが「高い険しい山々を愛する人は穂高に行かなければならない」の訳が添えられている。
2014.09.23
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上高地への道最近は季節の移り変わりも速い、地球の一生は天文時間で動くのでゆったりしているのだがその天文時間的生活の僅かな揺らぎを捉えてせっかちな人間は今年は異常気象だとか言って騒ぎ立てている。悪乗りして記すと「暑さも寒さも彼岸まで」と言うのに今年は秋分の日を前にして敬老の日あたりから急に冷え込む日が多くなった。一寸した気流の気まぐれだが人々は相変わらず「今年は秋が速い」と、今年のせいにしてしまう。人の動かない晩夏にと思って出かけた信州は結構寒かった。寒冷地の諏訪湖の周りにも結構稲田がある。田植えの終わった稲田も美しいがなんと言ってもこの黄金色の広がりはこれこそ日本の秋である。信州と飛騨を結んだ野麦街道は山深いところを通じている、沿道に続くダム湖はあくまでも深い谷底に有り、昔の女工たちが歩んだ景色とは違うのだろう。最初の稲核(いねこき)ダムと二番目の水殿ダムを見下ろす高台に「風穴の里」と言うあか抜けした道の駅があり、バスは皆ここで休憩をとる。ゴミ箱一つにもコマクサ、フキノトウなど可愛らしい装飾が施されている。手入れの行き届いた季節のフラワーポットが並んでいる。体形からして蛾であろうが蝶にも負けない優雅さで花に戯れていた。谷底のダムの対岸に有る峰の頂上に不思議な板が立っている。避雷針は備えているがどこを探しても給電線が見えない。契約期限の切れた看板塔と思ったがそれにしては遠すぎるし避雷針はおおげさだ。人にも聞いてみたがみやげ物屋には目もくれずにそんな景色を探すrakutenに「そんなことどうでもいいじゃないか」と言いたげな顔である。 同じものがその日の宿の対峰にもあった。峰の上に有って集落に正対している。多分何かの反射板だろうと思って調べてみると案の定「無給電電波反射板」と言うものらしいことが分かった。通信に使うマイクロ波は直進性が強いため山間では通り難いので反射板を設けて谷底の設備に電波を届けるもので、いわば電波の鏡である。常に谷底に有る発電所との通信には大量のデータが流れるためほとんどのダム発電所にはこの反射鏡があるそうだ。このブログを送信している無線LANもマイクロ波を使っているので鉄筋家屋は通り難い。我が家では奇跡的にWIMAXの電波が通る場所があり、それを利用している。実を言うと我が家より2階上の屋上にWIMAXのアンテナがあるが「灯台もと暗し」、我がマンション内には届かない。LANの電波は鉄筋や鉄板に吸収されると思っていたが私の勘違いで反射されていたのだ。今回の上高地観光が思わぬことを教えてくれたことになる、これから無線LANを使う上での戦略に加えなければならない。
2014.09.22
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気象庁練馬気象観測所関東平野は本来色々な支流を集大成した利根川が作りだした広大な扇状地と言うことが出来る。利根川は今でこそ千葉県銚子に河口を持つが、元々その水系は主として越後・上州の山系に端を発し、江戸湾に向かって広大な湿地帯を形成していた。丁度ロートの断面の様な地形である、一方空気の流れはと言うと冬は日本海の蒸気を含んだ気流が越後にたっぷりと雪を降らせ、冷たくて乾燥した空っ風を西・北方面から上州や関東に吹き付ける。一方夏は湿った太平洋からの南・東からの気流が首都圏で放出された大量の熱を吸収してロート状地形をさかのぼり上州方面に集まってくる。上州で山にぶつかった温・湿気流は上昇気流となり夏の積乱雲を生む。水蒸気が水滴(液体)になる時には凝縮熱を発生して空気を温める。長い前触れとなったがこれが冬の越後の豪雪と上州の空っ風、そして夏の前橋、高崎、館林の真夏日における超高温の気象を生んだいる。さて我が練馬区は首都圏の西北部に位置しロートで言えば広がりが狭まったところに位置している。私は毎日ベランダの温度計を眺めるが都心に比べて冬は1℃低く、夏は1℃は高いのが普通である。昨年か一昨年38℃を越して日本一になったことがある。誰も気にしていなかったが新記録が報道されだすと、一体どこに観測所があるかが区内で話題になった。昨年までは区内の武蔵大学の構内に観測所があった。私も探し当てて見に行ったが確かにビルに囲まれて適地とは思えなかった、さすがに気象庁も気にしだして昨年三宝寺池の傍らの日銀グラウンド跡に新設された区立公園に移された。前ブログに記した練馬区立ふれあい文化館の隣に有る下の写真の小高い土盛りの上である。風向・風量計もその辺に見られる風見鶏風向計の方がはるかに立派である。武蔵大学時代は立派な植栽に囲まれ、真っ白い百葉箱やロート状の降水計などもみられ、色々配線が見えて如何にも観測している様子が窺えたが新しい練馬観測所は何ともそっけない限りである。転倒ます型雨量計と掲示があるので原理的には今もロートを逆さにして図っているみたいである。この観測所で一番大きな設備はスティールの箱に入ったポンプとその排水蛇口、よく見ると傍にマンホール蓋があったので雨量計で受けた雨水を排水する装置なのだろう。こんな簡単な観測所からのデーターが今でもよく首都圏ニュースで報道されるデータ元と思うと一寸御拍子抜けである。気象庁が気を配り練馬の温度が少し下がったが、今統計を見てみると今年も猛暑日数のベストテンに顔を出している。いくら観測所を町中から公園に移してもやはり暑いものは暑いらしい。ただこの観測点からからの景色は広い芝生広場が有ったり、文化資料館が有ったりと悪い景色ではない。
2014.09.07
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練馬区ふるさと文化館ー松本零士・五味康祐・檀一雄練馬区立美術館で「あしたのジョー展」を見た翌日も涼しい散歩日和であった。いつもの散歩コースの延長上に有る新しい区立公園を訪れた。ここは三宝寺池の隣に位置し、日本銀行の福祉施設を区が買い上げてこの4月から新しい公園を開いたばかりだが、夏の暑さでまだ訪れたことが無かった。公園内に新しいふるさと文化館が出来ている。施設見学を兼ねて訪れてみると練馬区にゆかりのある文化人の紹介コーナーがあり、今開館記念展として松本零士展が開かれていた。奇しくも二日続けて手塚・松本と言う漫画・アニメ界の巨匠の展覧会を見たことになる。松本零士は展覧会のパンフレットに次のように記している。「九州国から東京国へ移民する。当時はそれくらいの距離感と道の土地に対する緊張感があった。・・・・・ 当時は沿線も暗く、時折人家の窓の灯りや電柱の外灯が前方から後方へと流れて行った。私は眠るに眠れずぼんやりと景色を眺め続けていた。次第にその光は星の流れへと変わっていった。気がつくとその星の海をバックに横顔を見せて絶世の美女が座っていた。彼女の後ろを星がどんどん流れて行った。彼女は私に話しかけはしなかった。ただ黙って座っているだけだ。・・・・・・ふと気がつくと彼女の姿は消えていた。彼女は私が生んだ幻だったのだろうか」銀河鉄道999に乗って向かい合った髭面の松本少年とメーテルの構図がパンフレットを飾っている。思えば私が上京したのは松本に2年先んじていたがこちらは小倉よりは別段に鄙びた農村からの船出である。松本のロマンチックな玄想に僅かな重なりではあっても共感を感じることが出来るのは同世代のせいだろう。それにしても何と私とは違った感性を持ち合わせていたことだろうか。松本は夜行列車を銀河特急に見立てたが、私の場合は夜間飛行のジェット機で世界を旅することを夢見たことは確かである。戦争中パイロットを父に持つ松本少年は父の影響を受け大空(宇宙)や乗り物に限りなく愛着を持ち漫画を描き続け、これをアニメーションに作り上げたいと思い下の写真の自作撮影台を作成したりしている。多くの原画が展示されているが残念ながら私にはあまり馴染の無いものばかり。しかし銀河鉄道999の登場人物は頻繁に目にしている。と言うのも私の部屋からよく見え且頻繁に利用している西武鉄道には銀座鉄道999をラッピングした車輛が走っており、何輌あるのか知らないが結構頻繁に目にし、時々はその車輛に乗り合わせたりすることがある。戦後幾多の剣豪小説を書いた作家の五味康佑も練馬在住でオーディオマニアとして著名で真空管時代のオーディオ装置のコレクションは常軌を逸している。没後法定相続人が無くなり、このコレクションを練馬区が譲り受け、新しく出来たこの文化館で展示している。驚くのは電機部品の多さとともにスピーカーの大きさと数である。これらの装置は五味が直接外国から取り寄せたものがほとんどである。これらの装置はメインテナンスを兼ねて現在でも定期的に音出しを行っており、全国からファンが集まるとのことである。他にもっと大きなスペースをとって復元されているのが作家・檀一雄の書斎である。私は読んでいないが石神井池に程近い場所に今も有るその家は彼の書いた「火宅の人」にもよく登場するらしい。30数年前から石神井公園への散歩の途中時々通りかかるが、かってはお嬢さんの女優壇ふみさんの表札もあったが随分以前から表札はなくなっている。そこから百メートル位の所に作曲家・神津善行さんと女優中村メイコさんの家もあったがこれはマンションになったもう久しい。
2014.09.06
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あしたのジョー、の時代展9月に入って肌寒い程の涼しい毎日である。涼しさに誘われて散歩かたがた近くの区立美術館に出かけた。今丁度「あしたのジョーの時代展」と言うのが開かれている。私の世代にはなじみ深いと言うわけではないがいわゆる全共闘世代にとっては大きな意味をもち、大きな変革期を導いた漫画作品である。私が30代の頃ヨーロッパや日本の大学であるいは社会で大きな意識革命が吹き荒れていた。そんな時学生たちがこぞって「少年マガジン」に連載されたまんが「あしたのジョー」を読みふけっていた。少年・漫画と名のつく雑誌に読みふける若者を見て大人は嘆息し、世相はこれを非難した。学生たちの鞄には教科書よりも分厚い「少年マガジン」とその競争誌「年サンデー」があった。この時点でいわゆるエスタブリッシュと若者の間には大きな断層が生じておりこの断層こそが学生運動となり若者特有の過激な自己表現となって世相を騒がせていた。若者の鬱積した気持ちを吸い取ってくれる存在の一つがこの漫画に集約されていたのだろう。当時過激な学生運動家は大学の本部や講堂を占拠し封鎖したが彼らが排除された後には常に漫画雑誌が散乱していたと報じられたことを思い出す。「あしたのジョー」は高森朝雄(梶原一騎)の原作を「ちばてつや」が劇画に仕上げたものである。実を言うと千葉は当時も今も練馬区の住人で私のマンションからすぐ近くに住んでおり、近くのテニスコートで良く見かけたことがある。練馬区には多くの漫画家が住んでおり近隣にも関係者が多い。そんな関係で今練馬区美術館で「あしたのジョー展」がそして石神井文化センターで「松本零士展」が開かれている。いずれも我が家から散歩を兼ねて覗くには恰好のロケーションである。有難いことに老人は入場無料であるがチケットはちゃんとくれ、ジョーの体に沿ってミシン目が入っており、はがすとファイティングポーズのジョーが立ちあがった。もちろん館内には漫画の原画がふんだんぬ展示されているが撮影禁止なので入り口の拡大絵をパチリ、小さな原画をここまで拡大してもなんら不自然さが無い。線画の精巧さ緻密さには驚くばかりである。パンフレットが何枚か造られフリーなのでそれをこのブログのコンテンツにしてみた。ジョーの育ての親丹下段平、無鉄砲で暴れ者正義漢の矢吹丈を世界的ボクサーに育て上げた男である。ジョーのライバル力石徹、ジョーとの戦いに勝った後それがもとで死んでしまう。この力石の死は当時の大事件で漫画の登場人物の死に寺山修二達は盛大な告別式を執り行い、長い焼香の列が出来たことを新聞で読んだことがある。打たれてもうたれても立ち上がり血まみれになりながらも相手に立ち向かうその姿は既成社会の矛盾に抗議する当時の若者の共感を得ていた。”Stand up Joe"の叫びは無力感に満ちた青年を鼓舞し、あのよど号ハイジャックを犯した田宮高麿は「我々は明日のジョーである」との一文を雑誌に発表している。この展覧会では百点以上の原画とともにこの時代の関連資料として寺山修二による力石徹の葬儀の祭壇、暗黒舞踊と称するものや秋山裕徳太子と言う人の肉体舞踊表現の動画なども紹介されている。彼等は私にはなじみの薄い表現者達であるが彼等はジョーと同じ時代を生き、空気を共有した芸術家と言うことらしい。私はこの世代の前の人間であり、正直言ってジョーの世界にはほとんど触れたことが無いが、当時の若者の熱狂を身近に感じることが出来る立場にいたので、物語のディテールは知らないがその後テレビでアニメ化されたり、映画化されたりで現在でもまだまだ強い共感を得ている。
2014.09.05
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