全16件 (16件中 1-16件目)
1
![]()
年末ご挨拶今年も一年間決して取り返せない時間と言うものを横軸に時の流れに従って縦軸には色々なことが印されました。そしてこの一年間いろいろな方のお世話になりました。来年もよろしくお願いいたします。 愈々庵 (rakuten0811 記)
2014.12.31
コメント(0)
![]()
箱根園水族館今回の箱根旅行はシーズン外でウイークデイのため格安の上にいろんなおまけが付いている。その一つに水族館の入場券があった。そこでこのブログもおまけの一編である。例によって大水槽には大きなイルカから小さな魚まで雑居しているが鮫などは害があるのだろう個別の水槽に収められている。これも多種多様でサイズも色々あるが姿形も多様である。きれいな模様の皮膚をまとったものから顔がナマズやフグに似ているのもいる。エイの類も多種多様でマンタのように大型のものから手のひらサイズまでいる、めがせなかがわにありくちやえらは白いお腹にある。まるで吸盤みたいにガラスに張り付いている。クラゲも多様な姿で泳いでおり半透明な体が照明に映りなんとも幻想的である。50年余り前に見たディズニーのアニメーション映画『ファンタジア』を思い出した。いそぎんちゃくに纏わりつく熱帯魚は水族館の定番である。ずいぶん前まだ小さい頃『ニモー』と叫んでいたことを思い出す。 海藻のように砂地から顔を出してゆらゆら揺れているチンアナゴを初めて見たのは池袋サンシャイン水族館がおーぷんしたときである。伊豆戸田港が有名な深海魚のタカアシガニは普通もカニが竹馬に乗っていると思えば良いが一生竹馬瀬カツも大変なことだろう。紅白の長い触覚爪を持った小さなエビはクリスマスを控えたこの時期主役を張っても良さそうである。
2014.12.23
コメント(0)
![]()
箱根駒ケ岳 の景観今回の箱根一泊旅行2日目、前日も次の日も寒くて雨も有ったりであったがこの日だけは穏やかで晴天無風、こんな日は山からの眺望を楽しむに限る。ホテル近くからロープウエイで箱根の主峰駒ケ岳(1356m)に登ることにした。箱根とは下の写真で見られるように墳火丘跡である双子山、神山、駒ケ岳などの周囲に出来た外輪山内外の温泉地を指して言い、その中央火口の一番高い所が駒ケ岳で箱根全体の主峰でもある。そんな訳でここの頂上は箱根一番の展望台でもある訳だ。高度が上がるにつれて前ブログに記した竜宮殿の全体像が鳥瞰図のように見えてくる。それにしても廃屋にするのは勿体なく早い時期の復旧が望まれる。頂上では360度の眺望が得られるが東北方面には箱根温泉街、外輪山、小田原や松田の街並み、その向うに大山・丹沢山塊がくっきりと見える。そして北西には日本一の不二の峰が。全体が真っ白な富士山も良いがそれでは季節の表情が読み取り難い。この日はちょうど5合目までの積雪、翌日の寒気中の雪ははもうかなり下まで白くなったことだろう。左下の茶色地帯は自衛隊の演習場である。もう古い話だがここがまだ米軍の演習場だった頃付近住民がその空薬きょうを拾いに入って古物商に売っていた。駒ケ岳頂上は萱かススキの枯れ野に込まれており赤い箱根神社本宮が目を引く、箱根はほとんどの交通機関が小田急系なのに対してここのロープウエイは西武系の伊豆箱根、そして極めつけはこの神社でロープウエイ開設時に西武の堤康次郎が開いたというのだから驚く。昭和30年代個々箱根は東急の五島慶太をバックにした小田急グループと堤康次郎率いる西武グループが激しく争っていた。数知れない訴訟合戦互いに嫌がらせの応酬で「箱根戦争」と呼ばれた泥沼の戦いであった。バスが互いに追い越し合戦をしたり客不在の争いは世間を騒がせた。今は協調関係に有ると言ってもいいが勿論その痕跡は多いに認められる。現在小田原ー湯本ー強羅ー湖尻―芦ノ湖は小田急、そして湖尻―芦ノ湖ー箱根園ー元箱根ー十国峠ー熱海間は西武と言う大まかな住み分けが出来ているように見える。この日暖かいとはいっても1300mを超える山の上さすがに道はほとんど凍っており笹には霜が降り、土には霜柱が突き刺さっていた。帰り道のバスは元箱根ー箱根町―箱根新道を経て小田原に抜けたが元箱根ではなんとバスが箱根神社の大鳥居をくぐって運行されていた。国道一号線を跨ぐ鳥居は他にも例があるのだろうか。お正月には関東大学箱根駅伝で箱根の山を駆け登った往路最終ランナーがここをくぐると元箱根のゴールはもう指呼の距離である、この辺りまで競い合いが見られれば興奮するが過酷な山登りで大きく差が出てこの辺りではもう独走シーンが多くなる。ちなみに箱根駅伝は関東の大学間の競技であるが前日本よりははるかに実力校が集まり、知名度もはるかに凌いでいる。
2014.12.22
コメント(2)
![]()
箱根竜宮殿箱根には度々足を運び芦ノ湖の遊覧船にも何度も乗ったことがある。その際船が湖尻を出て元箱根に着く前に見え何時も気になっていたのが下の写真の光景。中央に主棟を控え両翼に物見櫓のような塔屋を控え古い西洋の古城風にも見える純和風建築である。何度か見ているうちに十年位前に宇冶の平等院を訪れる機会があり、その際箱根の建物が平等院の似ていることに気が付いた。そして調べてみると果たせるかな平等院を何倍かに拡大して建てたホテルであることが分かった。プリンスホテルホームページより大分こじつけの観があるが昨日100周年を迎えてひと騒ぎあった東京駅に設計思想が似ていなくもない。下の写真は私が数カ月を過ごしたことがあるドイツKarlsruheの旧王宮である。ふっと記憶が甦ったので付記しておくことにする。昭和13年浜名湖畔に浜名湖ホテルとして開業した豪華ホテルは内部が准西洋式で豪華過ぎ、時代も戦争に向かいホテル経営は1年半で破綻しその後は軍部などが利用していたが戦後は廃屋として放置されていた。そこに目をつけたのが成長はなはだしい西武鉄道プリンスホテルである。西武は当時旧皇族邸や芝増上寺寺領などを譲り受け軽井沢、芝、赤坂、高輪などでホテル開発を行っていた。浜名湖で利用されていなかったこの平等院モドキの建物を購入し、舗装もされていない箱根の山道を運び上げ「竜宮殿」として和風内装のホテルとした。プリンスホテルホームページより上のモノクロ写真は完成前のものと思われ前庭はまだ工事中である。なおこの移築に際して平等院本来の正面な相当する側は芦ノ湖を向かいしたがってお写真に見る車寄せ玄関は移築時の増築である。これで建物の謎は解けたが箱根でのこの雰囲気は外国をもてなすのに適し、数多くの要人がここに宿泊している。今上天皇の若かりし頃の写真も見られた。さてういう所であればもちろんわれわれに手の届くところではありえず、私にとって長い間遊覧船から見る箱根の景色にすぎなかった。ところが最近或る旅行会社のパンフレットに客が一番少ない今月中旬のウィークデイに大衆価格以下で泊まれるという。パンフレットには小さな文字で「別館」とあり、何か裏がありそうな気がしたがそこはそれ何が目的と言うこともないので本館の見学が出来ればいいと思って出かけた。部屋からの眺望は前ブログの通りで満足できる景色である、そして竜宮殿に泊まっているのだという気持ちもあり満足していた。翌朝フロントで聞くと本館は東日本震災で傷みが激しく今は営業しておらず、敷地内もロープが張られ立ち入り禁止になっているとのこと。下に掲載した写真は外からズームを利かせたものだったり、ロープと言っても申し訳程度の杭に張られているものなので少し不法侵入でのものも含まれている。バス停わきの看板もまだしっかりしている。左翼の楼閣もまだまだ優美な形を保っている。ここから芦ノ湖に映る富士や月影を眺めたりするのは殿様のような気分であろう。よく見ると塔頭の擬ボウシにカラスが停まっている。平等院ではここに鳳凰が停まっているはずである。後で十円玉をよく見ておこう。中央の本屋も見かけはしっかりしており綺麗に見えるがおれだけ大きな木造建築となると客を迎えられるまでの補強には大変なことだろう。かっての飛ぶ鳥を落とす勢いの西武であればメンツにかけてもやるだろうがプリンスホテルもどんどん身売りしている今となってはどうなるのだろうか。玄関部分など増築された部分は新しいのかまだまだしっかりしているように見える。竜宮殿を後にロープウエイ駅に向かうと年末からの雪の広場営業を目指してせっせと人工雪を製造していた。あと一週間もすれば子供の叫びが聞こえてくることだろう。プリンスホテルでランチメニュウを楽しんだがここのホテルはレセプション棟とレストラン・宿泊棟が長い廊下で結ばれており、ずらりと西洋神話をモチーフにした鋳造メダルが飾られているほかにはなんの装飾も無く、遠近法の絵画を見るような光景である。今まで何ヵ所かのプリンスホテルを見てきたが、いずれもロビーが窮屈で落ち着かない雰囲気であったがこれならゆったりできそうである。
2014.12.21
コメント(0)
![]()
ホテル窓からの富士景色虚弱体質の私は寒くなるとすぐ体調をこわしてしまう。どうしても家にこもりがちになるがマンションからは雪に覆われた富士山が望見出来る練馬の我が屋からの夕日も冬至が近づくと富士山の南稜を過ぎてもう丹沢山塊に懸るようになった。富士の景色には雪が必要であるがそれとて裾まで真っ白になっても興が薄れる。富士山大好き人間の相棒があるホテルの特別安いプランを発見して箱根に行くと言い出した。こうなったら黙って付いて行くほかない、下手に抵抗して家事をストライキされたらお手上げである。昼ごろの小田急電車で箱根園に有るプリンスホテル別館竜宮殿と言うところに投宿した。宿は芦ノ湖湖畔の小高い丘の上に有り箱根の外輪山が迫って見える。ということはその上の富士山が・・と思いその方向に目を転じても雲があるだけで富士の姿は無い。暫くすると雲が流れ空と一体化した輪郭がやっと認められた。この夜は双子座流星群がピークとか言っていた、相棒は夜中にごそごそ起きて数分で流星を3個発見したそうだ。おかげで翌朝は朝食時間に遅れ電話で起こされた。あまり経験のないことである。カーテンを開けるとなんと空は快晴。外輪山の峰が低くなった湖尻峠の上に真っ白な富士の雄姿が。部屋の窓から見えるのはは五合目から上のようだ。どんどんズームアップしても見るに耐えるのはさすが「富士は日本一の山」である。宝永火口が大きく口を開けている。この宝永の噴火と宝永の大地震は時を同じくして起こっている。富士山にもう一つの噴火口なんて御免こうむりたいものである。頂上付近を見ると噴火口の御鉢の周りにはいくつかの峰がある。富士山は日本一有名な山であるが富士山と言う峰は存在せず一群の山群れを指す語である。こんな例は幾らもある、乗鞍岳、八ヶ岳、秩父山など、そして富士山には御鉢周りに剣ヶ峰、駒ケ岳、浅間岳、伊豆岳、成就岳、久須志岳、白山岳で剣ヶ峰が3776mの最高峰である。もう一つ驚くのはこの世界遺産の山の頂上一帯は国有地ではなく私有地なのだ、と言っても一個人のものではなく浅間神社の社領で「宗教法人浅間神社」の土地らしい。左端の剣ヶ峰には浅間神社の社殿が見える、そして右端には久須志神や頂上山小屋等が識別できる。このあたりかっては丸い富士山ドームがあり通年気象観測が行われていたが今は勿論気象衛星にその大役を譲って富士吉田市に引退して観光施設となっている。かっては我が家からも双眼鏡で良く見えたものである。視線を真直ぐ下に移すと湖上に海賊船がゆったりと航跡を残して進んでいた。
2014.12.20
コメント(2)
![]()
秋景色の石神井公園三宝寺と道場寺で紅葉を愛でた後いつもの散歩コースに戻り公園を縦断した。メタセコイヤや落葉の早いケヤキの枯れ葉が曳き敷いた公園広場は歩を進めるたびにカサカサと音を建て、大好きな秋の風情である。池の中の島に渡るアーチ橋の白さにモミジはよく似合う。公園と歩道を接した民家にも時々イロハモミジが植えられている。常に不特定多数の目に曝されているこのような家に住むのも大変だろう。公園には二つの池があり、その一つには釣り人が糸を垂れスワンボートが浮かんだりしているが、奥の三宝寺池は原則野生のままに保存されており、人工的なものは極力排除されている。そのためカワセミの止まり木があって一日中大きなレンズを付けたカメラを携えて人が集まっている先日はやはりオオタカにカメラが集中していた。大公望など言うがカワセミ任せの彼等はなんと言うのだろうか。池の向岸のメタセコイアの木立が色付くと秋も終わり冬の始まりである。小さな観音堂の裏で池に突き出た浮見橋を中心にモミジ葉が冴えてくる。池に映った梢の影が鏡のように澄んでいたかと思うと突然赤い嘴で黒毛の小さな鴨・バンが浮かび今まで真直ぐだった幹の影をゼンマイのようにくねくねと揺らして行く。公園を離れて帰る途中に元農家の庭に咲いた皇帝ダリアガ咲いていた。確かに超大型のダリアに似ているが、とにかく背が高いのが特徴である。この家も2階の窓から眺めると丁度いい高さである。花の後切っておいても翌年にはまた2m近くも伸びてその先に花をつけるので人の背より高くなり庭木には向かないとどこかで読んだことがある。10月に始まり2カ月に亘った今年の紅葉遍歴もこの回が最終である。願わくは来年もう一度このような華やかな景色を楽しみたいものである。そしてこう言う願いを一年一年繰り返して行きたいものである。
2014.12.11
コメント(0)
![]()
三宝寺・子育て地蔵堂壁画観蔵院・曼荼羅美術館を見学している時ひときわ鮮やかな屏風があった。これは?と尋ねると「観蔵院は三宝寺の塔頭で、この屏風絵は三宝寺の地蔵堂の壁画をデジタル化してプリントし、屏風仕立にしたものです」との答え。この六道図も染川画伯の作で「本物は三宝寺で何時でも見られますよ」と教えられた。六道は天・人・修羅の3善道、そして畜生・餓鬼、・地獄の3悪道でどの道に落ちた人も救ってくださるのが観音菩薩と地蔵菩薩と言うのだ。昔からそれら六道を一つの絵にまとめて仏教の功徳を説くのに用いられてきた。両寺は歩行圏に有るので早速帰り道に立ち寄ってみることにした。三宝寺はほとんど人影のない境内であったが目を見張る紅葉の中に有り、その様子は前ブログで紹介した。さて三宝寺にはもう何度も来ているがそんな地蔵堂を拝したことは無い。美術館の人に、目につかない殆ど人に気付かれない御堂ですと言われていたが確かに場所まではっきり知らなければ入るのに勇気がいる作りで、入り口もぴたりと戸が閉まっており、人が住んでいる家を思わせた。中に入っても真っ暗だ、壁にスイッチがあり、出るときはスイッチを切って下さいとの掲示がある。「切れ」と言うことは「入れ」ても良いのだと言うことで何個かのスイッチを入れると中央に地蔵仏が祀られ両翼に無数の木彫り地蔵像が並べられいる。 そして中央正面と側面に鮮やかな壁画が目に入った。この六道図の趣向は仏画でありながら画中の人間を実在の人物にしたことだと言う。このことを曼荼羅美術館の学芸員に聞いていたので細部を見ると確かによく知った人々が描かれている。上層の天国に行かれたと思われる西洋の人物の中にはマザーテレサ、ナイチンゲール、シェークスピア、ニュートン、望遠鏡のガリレオ等などの人物、そして東洋の部には聖徳太子、空海、芭蕉、二宮尊徳なども揃っている。近代の人を見てみると星の王子様のサン・テグジュべり、ファーブル、ジェンナー等々。東洋の人を見ると孔子、良寛、野口英世などを認めることが出来る。極めつけは双六のように六道をつなぐ絵図の中に現代の日本の世相まで描かれていて、下の絵の中央下のサークルには荒川静さんのイナバウアー斎藤祐樹さんのハンカチが青く描かれている。西洋の教会とかアラブのモスク、インドの寺院のような景色も描かれているが色々同定出来るのはごく一部でよくは分からなかった。三つの悪道、畜生・餓鬼・地獄は当然惨たっらしく描かれているのでここには記さないことにする。
2014.12.10
コメント(0)
![]()
石神井・道場寺石神井三宝寺と塀を隔てて道場寺がある。ここには鎌倉時代禅の学校・道場があり、道場寺の名はそれによると読んだことがある。一般には歌舞伎・娘道成寺で知られるように一字違いの道成寺が有名であるがここは禅の道場である。禅寺らしい簡素な構造の寺領もこの時期だけは鮮やか過ぎる位の華やぎである。山門を入ってすぐ左に三重塔がある。昭和48年の再建だそうで、実はその直後近くに引っ越してきた私は全体が白木の肌もそのままの塔を記憶している。当時から見事なモミジが色を添え美しかったが30有余年を経て寺院色に変わったいまさらに紅葉とよく調和している。ある人の探訪記に「まだ痛んでいないので比較的新しく江戸期のものであろうか」とあったが、とんでもない昭和期のもの。参道を挟んでもう一つの美しい鐘楼建築がある。周りを種の異なるモミジで囲まれ、見る角度によって色調の異なる葉色の変化は実に見ごたえがある。脇道の駐車場に通じる道もモミジのトンネルの様で陽の翳った裏道を赤く染めていた。こんな近くに京都の寺にも匹敵する素晴らしい場所があるのは驚きである。
2014.12.09
コメント(2)
![]()
石神井三宝寺今年はもう京都の寺社を訪ねての紅葉見物旅行をする元気もなく、山野の紅葉シーズンが終わりかけた今となっては少し寂しい思いをしていた。先日いつもの散歩コースから少し足を延ばして公園の先の三宝寺を訪ねてみた。特に紅葉名所として知られている訳ではないがさすがに古刹だけあって見ごたえのあるモミジが多くあった。大通りの土塀からはみ出した枝もおおいに自己主張して我が世の秋を誇示している。赤い葉幕の向うには鐘楼や本堂が透けて見える。古びた山門の木肌はけばけばしい赤を抑え気味で寺の佇まいを演出している。太田道灌によって滅ぼされた豊島氏の菩提寺でもあり、照姫伝説と共にある三宝寺だけあって多宝塔も堂々たる構えである。ここは古くから信仰の場所でもあり、境内には思えど果たせぬ武蔵の民のため四国八十八か所霊場のの巡礼石碑が並び一時で巡礼を果たすことが出来る。殿様が帰依した寺だけあって手水鉢や石灯籠も重々しく堂々としている。大伽藍に人影も無く大きなモミジの大木が孤高を保っていた。
2014.12.08
コメント(0)
![]()
観蔵院・曼荼羅美術館我が家から西武池袋線の線路を挟んで向う側に有り、歩いて10分ばかりの所に観蔵院という真言宗の寺がある。小さな目立たない寺で檀徒以外には近所の人もほとんど関心を示さない寺である。昨年この寺で落語の桂流本家・桂文治師匠の独演会があり偶然その落語会に出席した。その会場がこの寺に付随する曼荼羅美術館の広間であった。こうして知った美術館の存在だが、ここには現代仏画の巨匠染川英輔氏の曼荼羅絵や天井画が納められている。この寺の住職は以前仏教系大学の学長を務めた方で夫人も仏画研究家・画家とのことで曼荼羅絵の蒐集保存場所として平成14年に開館したという。その後ネパール人作家の作品なども加わり見ごたえのある美術館となっている。写真は撮れないのでその時頂いたパンフレットの小さな写真を転載して本ブログを記す。日曜日好天気に誘われて観蔵院を訪れてみると小さな寺庭の目にまだ新しい建物の美術館があり、無人であった。「御用の方はこのベルを・・・・」と言うことでボタンを押すと大学院で仏画の研究をしていると言う若い女性が現れて灯りをつけ案内してくれた。 曼荼羅は釈迦の教えを文字を用いないで表現したもので弘法大師が唐より導入したものだと言う。それ以来上左の「金剛界曼荼羅」と右上の「胎臓曼荼羅」が何時も一対で取り扱われ、「両部曼荼羅」と呼ばれている。日本では弘法大師の原本を繰り返し模写して真言密教寺の尊像として拝されてきた。そういう意味でこの染川画伯の新しい創作曼荼羅は大きな意味があるそうだ。住職夫妻をはじめ多くの研究者と討論しつつ新しい曼荼羅絵のイメージを作っていった。絹布の上に岩絵具を重ね極細の線で描かれており、その絹布は8尺幅でそれを織るのに織機自体の製作から始めねばならなかった。金剛界曼荼羅の九つの区画の一つの拡大が下の写真であるが、その各セクションにも多くの仏が描かれ、驚いたことに下の写真で四角い外枠の中に小さな点が見えるが、これも皆仏の顔である。そのように指摘されても肉眼では判別できない2,3ミリのサイズであるが用意されている虫メガネを当ててみると皆異なる表情の仏の顔であった。製作途中で絵の具や裁金で消えた線を描き直し、完成までに18年の歳月を要している。まさに僧の修行にも似た製作過程である。もう一つ濃紺の和紙に金銀で描いた「紺紙金銀泥両部曼荼羅」や仏の顔を描かず諸仏を象徴する梵語で表した両部曼荼羅もある。「悉曇」と言う変わった書も展示されている。悉曇は「しったん」と読み梵字の一種で古代インドで使われていた「シッダ・マートリカ」という文字が仏教とともに中国に渡り、7世紀前半に日本に伝わったものである。 日本では入唐僧が多くの梵語の文献を持ち帰ったことからその学習が始まっている。特に真言宗ではこれを如来の語として重要視した。左2書は毛筆で「金胎大日如来真言」と「光明」と書されているらしい。右ははけ筆で書かれた西洋のカリグラフィーに相当するもので「一字文殊」と書かれたこの寺の住職の墨蹟。いずれも読むことは出来ないがお塔婆に書かれた文字がこれであることを思い出す。インド・中国を経て日本に伝わった仏教とチベットやネパールに伝わりヒンズー文化と混じり合って発展した仏教があり、仏画にも違いがある。この美術館には観蔵院住職の研究成果をもとにネパールを代表する仏画師・ロク・チトラカールが描いたネパールにはほとんどない両部曼荼羅の壁画がある、そのほかにも多くの作品を納めており、世界的なロク・チトラカール作品のコレクションとなっている。 ロク・チトラカール作、 蓮華曼荼羅(左)と般若菩薩(右)(チトラカールは今も存在するカーストの一つで”絵師カースト” を指す、したがってロク・チトラカールは”ロク画伯”のような意味だそうだ)。
2014.12.07
コメント(0)
![]()
桜の紅葉今年も10月半ばの信州栂池高原に始まり緯度・高度を変えながら各地の紅葉を楽しむことが出来、12月に入って都心に近い自宅マンションの周りの紅葉も終焉を迎えています。ベランダのすぐ下の石神井川には20年くらい前に植えた桜並木があるがこのブログを書いている現在ではもうその赤い葉を殆ど残していない。桜やケヤキはモミジより早い様である。桜の紅葉はあまり人の目を引かないがそれは人間の目の高さと桜の枝の高さに原因がある。モミジやナナカマド・ハゼの類と異なり桜の葉は厚く、表と裏ではまるで色調が異なる。人の目に触れるのはもっぱら葉の裏側の枯葉色である。ところが並木を上から眺めると情熱の赤だったり恥じらいの紅だったりする。一工夫して桜葉が下を向いてくれれば人々は春も秋も桜を楽しめるのに残念だ。 個人的には春の桜よりも秋の桜を好む心情を吐露し、モミジばかり 注目されるが桜の名誉のためにこのブログをもの
2014.12.06
コメント(0)
![]()
行田・忍城今までのブログで「さきたま古墳公園」を記録してきたが、公園の博物館前に「埼玉県名発祥の碑」があった。今もここに前玉(さきたま)神社と言う社があり、奈良時代から前玉郡の地名があり埼(さき)玉郡などと記されていた。今もこの地の地名は埼玉県行田市埼玉(さきたま)である。そんなことからそれが埼玉の地名の発祥とされている。ここの古墳群は時として埼玉古墳と記されることがあるが、それは「さきたま古墳」と読まなければいけないみたいである。さてその古墳公園から循環バスで数分(と言っても午前・午後一本位しかない)の場所で市街地の中心部に「忍(おし)城」がある。城の手前に水城公園があり、これはもと城の外堀だったところ池の周りが公園として整備され、今は釣り堀と化して多くの釣り人が糸を垂れている。園内に櫓跡と記した石碑があって城跡であることを示している。池には無数の鴨が生息し、シラサギなども姿を見せる。イチョウの大木が見事に紅葉し、これも紅葉したメタセコイアの大木の下、落ち葉に足をすくわれないよう注意して城に向かう。ややって冠木門が見え門内ではモミジが美しく色付いていた。美しくい紅葉に囲まれた鐘楼を見ながらさらに鐘楼、太鼓門(?)を抜け本丸跡に建築された行田市郷土博物館へと続く。この資料館の一部が復元された御三階櫓で、これが古墳公園の丸墓古墳から望見出来た城である。博物館入り口で迎えてくれたのは丸に三つ引き紋の幟旗である。まさしく私の実家の家紋で我が家の屋号は「三つ引き(みつびき)」で家具などにはこの紋が焼き鏝で記されていたのを思い出す。館内には成田、大河内、阿部、松平の歴代藩主の家紋が示されている。したがって三つ引き紋は初代藩主成田氏の家紋である。この城主・成田氏こそ映画「のぼうの城」の主人公である。3千余りの兵と共にこの忍城に籠城した、周りは石田三成率いる3万の兵、城の周りは一面の湿地水田地帯。そもそも秀吉が小田原・関東攻めをした時、関東の諸城はことごとく落城していった。残った忍城攻めを石田三成に命じたのは元々役人の三成に戦功を挙げさせてやろうと小さな忍城攻めを命じた。この城は利根川と荒川の間が狭まっており湿地帯に位置しているので高松城の水攻めで味をしめた秀吉が水攻めを命じた。3万の多勢に3千の無勢、三成は武力攻撃すればすぐ落城と考えたが秀吉の命には背けなかった。せっかく作った24kmに及ぶ堰堤も破られ小田原城開城まで持ちこたえた。秀吉が落とせなかった関東唯一の城と言われている。この攻防を面白おかしく描いたのが映画「のぼうの城」である。野村万斎が城主を演じ狂言の味を出して好演していた。武士達が背負う戦陣旗が風に揺れて私の1日の行田攻めが終わった。
2014.12.05
コメント(0)
![]()
国宝神獣鏡・金錯銘鉄剣古代史を考える上で特にここでの発見は稲荷山古墳の発掘品で、その一つは下の「画文帯環状乳神獣鏡」。直径15,6センチの小さなものであるが中国で造られたものである。興味深いのは同じ鋳型で作られた同型の鏡が他に宮崎県、福岡県、三重県、千葉県、群馬県に亘る5か所から出土していることである。こうなると考えられるのは大和の王権がこれらを中国から輸入して各地の王(豪族)に配布したものと思われる。我々はこれらの地を陸地地図で考えてしまうが人物・文明・文化の流通路が海川水路に限られたであろう古墳の時代では港と港を結ぶ線であり、陸路での距離は意味が無かったのではなかろうか。稲荷山古墳から出土したもう一つのもので古代史に燦然と輝く資料は有名な「金錯銘鉄剣」であろう。1978年稲荷山古墳の副葬品をX線透視するとサビで膨れ上がった鉄剣に金象眼の文字が浮かび出た。古墳時代に鉄を彫り金を流し込んだ「金石文」と言うのが知られていたそうで、115文字に及ぶ銘文が発見された。この時大々的に報道され大いに沸いた記憶が鮮明に甦ってきた。私の記憶はその時で停まっていたが今回さきたま博物館を訪れてみると鮮やかな金文字が浮かび上がった鉄剣が二重ガラスケースに収められ酸化が進まないように窒素ガスで封印されて吊るされている。両面に金文字が彫られているので平置き出来ず吊るして展示されている。 思わず係の人にこれはレプリカですかと尋ねてしまった。「皆さんにそう聞かれるのですが本物の出土品で勿論一級の国宝です」との答え。奈良国立文化財センターの手で細かく錆びを剥がし、一部錆びでずれていた金文字を元に戻して修復したものだと言う。鉄剣の両面に金象眼された文字が輝いている。パンフレットの写真を再現すると下の様で折れることも無く文字も明瞭である。これを現代の名工が復元制作したものがあり、現在は浦和の県立博物館に収められているようである。銘文には表面に「辛亥の年7月これを記す。私の名はオワケの臣、遠い先祖の名はオホヒコ、その子の名はタカリのスクネ、その子の名はテヨカリワケ、その子の名はタカヒシワケ、その子の名はタサキワケ、その子の名はハヒテ」とあり、さらに裏面にはカサヒヨが続き、その子供がこの銘を記したヲワケの臣でこれらの先祖代々大王の親衛隊長として仕えてきた。ワカタケル大王がシキの宮殿に居る時代私は大王が天下を治めるのをを補佐した。「よく鍛え上げ、よく切れる刀を作らせて私と私の一族がこれまで大王に仕えた由緒を書き残しておく」とある。大王は現在の天皇のことで、ヲワケの臣さんはその親衛隊長であった。この辛亥の年は西暦471年か531年に当たり、ここでのワカタケル大王は雄略天皇か欽名明天皇と思われるが現在は前者と考える歴史学者が多いとのことである。いずれにしてもこんな歴史資料が金ぴかの文字ではっきり読み取れることには感動を抑えられなかった。
2014.12.04
コメント(0)
![]()
さきたま古墳埋葬品さきたま古墳からは多くの国宝指定された埴輪が出土し、博物館には数多くの国宝が展示されている。埴輪には前ブログに記した将軍山古墳を飾っている「円筒埴輪」のほかに人物埴輪、武具などを模った器材埴輪、家形埴輪、動物埴輪などがある。以前から馬形埴輪を見た時何時も大げさな頭部の形が気になっていたがここの将軍山古墳から発掘された埋葬品の中に下のような馬の顔につける鉄製兜があることを知った。なるほどこの鉄面(馬兜)を付ければ埴輪の馬の顔が理解できる。将軍山古墳の石室は今の千葉県鋸山付近の房州石が用いられており、かなり広い範囲で交易があったことを示すが、これも前に記したように地根川流域水路を考えれば不思議なことではない。この石室には漆塗りの鞍や馬の装飾品なども多く見られた。副葬品には大陸、ことに朝鮮半島からの渡来品が多く、前記したように同時代に朝鮮半島南部に同じ形式の前方後円墳が多く存在することとも呼応している。古今東西金は富・権力の象徴として珍重されて来たが副葬品に見られる金製品の保存状態は極めてよく、その輝きを失っていないのに驚く。装身具として新潟県糸魚川産のヒスイで作られた勾玉や大陸伝来の金鍍金を施した帯金具なども輝きを保った状態で出土している。上の「竜紋透彫帯金具」などの高度の装身具はほとんど大陸からの輸入や渡来人の工人の手によって造られたものだそうだ。先に房州石の搬入について利根川水路の可能性を記したが糸魚川のヒスイとは陸路運ばれたとも思えず、大和地方で加工されこの地に持ってこられたものであろう。したがって渡来の工人と言ってもこの地にまで渡来していたわけでもないだろうう。戦国時代のドラマを見ていると武将たちが上洛して朝廷に出仕することが大げさに演じられるが古墳時代にもう地方の豪族と大和の王権が結び着いていたことを考えると何だか滑稽な話に思われてならない。
2014.12.03
コメント(0)
![]()
さきたま丸墓古墳からの情景「さきたま古墳公園」で一番高いのは丸墓古墳で高さは19m頂部には桜の大木があり四方を見渡せる。此処での花見は殿様気分であろう。眼下には有名な「稲荷山古墳」がある。頂上には石室の再現があるので生垣で保護されているがここには階段がり、古墳に登ることが出来る。この角度から見ると前方後円墳の形がよく分かる。円部には埋葬室があり横にも縦にも狭まったくびれ部から前方部へと登って行く。この古墳からは多くの国宝が発掘されているので別項を起てることにする。稲荷山古墳の隣に将軍山古墳があり、全体に二段構造でその各段に埴輪が並べられている。また下の写真に見られるように円部のくびれに近いところに前ブログに記した方形の「造出し」が見える。この段差部分には多くの各種埴輪が配置されていた。それを再現したのがこの光景らしい。埴輪を並べる目的は種々であるが秦の始皇帝の兵馬俑見たいに死者を護衛する役目、殉死の代わり、土の崩れを防ぐ、装飾目的、玉垣のように神聖な場所を囲む等々の説がある。「造出し」も埴輪を飾る場所で一種の葬祭・祭礼の場であった。これだけ埴輪が並ぶと壮観で青空の下、なんだか古代にタイムスリップしたような気分になる。ここまで円形古墳、前方後円墳、を見てきたが古墳にはこのほかに方形墳、前方後方墳などもあり、サイズは大小色々ある。中でもごく小さなものは丸形や方形が多く、この公園内にも植え込みの形でその跡を示している。丸墓古墳の頂上からは近くの古墳群や平野部だけでなく行田から熊谷にかけての市街地を望むことが出来るが、街中の一角に「忍城」が目に入った。豊臣秀吉の関東攻めの時小田原とともに最後まで頑張った忍城を攻める際、石田三成がこの丸墓古墳に本陣を据え、この見渡す平野を水で満たしたあの水攻めの舞台である。野村万斎主演の映画「のぼうの城」のモデルとなったあの場面が浮かんでくる。丸墓古墳へ登る時老人遅足の横をすっと追い越して登った作務衣の青年(?)がいた。上に上がると古武士を思わせる風貌の御仁は鎧兜を3領(領と数えることを初めて知った)所持し、各地の武者行列に参列すると自己紹介した。先日甲冑展覧会を見たので兜の前立て(前飾り)はどうするのかと尋ねると各々の行列に相当する前立てを自作してたくさん持っており毎回取り換えるとのことである。具足の付け方など色々教えてもらって楽しいひとときを過ごした。話し終えた後武者はお城の絵を染め込んだ布袋からホラ貝を取り出して「忍城」に向かって朗々と鳴らした。本陣から石田軍への伝達事なのかお城への秘密の連絡なのかは分からないが、目をつむると戦国時代の水攻めの光景が浮かび武者奮いがしてきた。この気分を味あわせてくれた古武士に感謝である。
2014.12.02
コメント(0)
![]()
さきたま古墳公園行田市の「さきたま古墳の丘公園」に行ってきました。古墳時代は3世紀後半から始まり畿内を中心とする王権が広く各地に広がり2,3百年続いたが、短期間でその幕を閉じたようである。全国に大小合わせて約20万基もあるそうだ。前方後円墳は朝鮮半島南部にも多く存在しそのルーツは向うに有るのかも知れない。強力な権力者が大陸渡来の技術者を招いて作り上げたものとも考えられる。(朝鮮半島の古墳は大和の古墳よりも後期のものでこの説は成り立たないとの指摘を友人から受けた/12月5日記)ひろく関東平野・利根川流域の古墳の存在地を示したのが最初の図で、その右下の隅に「行田」とあるのが「さきたま古墳群」で、その詳細図が下のもので左上部に埼玉古墳群と記されているのが行田の古墳群である。(さきたま史跡博物館展示物より) 利根川流域は関東平野に入ると一面の湿地帯となって広がり、縦横に水路が開けている。上の図で茶色は山地、緑が陸地、薄緑は湿地帯と利根川支流の緩やかな流れである。一見して分かることは赤で示された古墳群はおしなべて陸地の水際に位置している。人々は水際に生き、集落を作って住んでいたことがよく分かる。そう言う訳で今の埼玉県内陸部も東京・千葉・神奈川も広く内海に面した一つの沿海地域で、ある種の集合国家群を作っていたのであろう。次に「さきたま古墳公園」の航空写真が下のもので歩いて見られる9基の古墳が集中している。「上から稲荷山古墳、丸墓古墳、将軍山古墳、双子山古墳、愛宕山古墳、瓦塚古墳、鉄砲山古墳、奥の山古墳、中の山古墳がそれぞれ現在は芝面となっている濠(現在は空濠)に縁取られ密集している。博物館の目前に有る瓦塚古墳。規模は小さいが多くの埴輪が出土している。愛宕山古墳は園内で一番小さい古墳で6世紀後半に作られた長さ53mの前方後円墳。多くの前方後円墳では方形の前部と後円部の間のくびれ部の辺りにコブのような突起がある(下の写真参照)。これは「造り出し」と呼ばれるもので、埴輪などはこの部分から多く出土し、祭祀の場と言われている。この園内の唯一最大の「丸墓山古墳」は文字通り円形で頭部には桜が茂り、階段で登ることが出来る。高さは19mと言うことで5階建てビルの高さである。ここに登ると360度展望が開け、行田の街や城がよく見える。古くから花見の名所だったと思われるが利根川と荒川の水路が狭まった平地がよく見渡される場所で階段手前の堤は「石田堤」と呼ばれている。豊臣秀吉の命で石田三成がこの古墳山に本陣を構え、ここからよく見える「忍城」を水攻めにした場所である。映画「のぼうの城」で描かれたあの水攻めの光景を思い出す。まさしくここがあの映画の舞台であった。古墳時代と戦国時代が錯綜するこの公園は実に楽しいところである。数年前までは東京から行田へは不便な行程であったが、近年は湘南から宇都宮・高崎へ直交する湘南新宿ラインが池袋や新宿から乗り換えなしで一気に運んでくれる。また春の桜の時期にぜひ再訪したいと思っている。
2014.12.01
コメント(0)
全16件 (16件中 1-16件目)
1