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2011.01.25
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ハワイの日本人も聞いていた

「浅間丸来る」。戦前の新聞では千人余りを運ぶ豪華客船の入港が記事になった。横浜港の近くに住んでいた伊奈正明さん(85)は十代のころ、何度か見物に出かけた。
 外洋べ向かう出航の光景は圧巻だった。色とりどりの紙テープが何百と船から投げられ、大きな汽笛が「ボー」と鳴って鼓膜を震わせた。
やがてテープは海に落ち、1万5千トンを超える船が小さく消えていく。
「航海をゆっくりと楽しむ船旅は、非常にぜいたくなものに思えました。とてもかなわない夢だった」
 1937年の ( ) ( こう ) ( きょう ) 事件に始まる戦争は人々の生活に影を落としていく。レコード店を営んでいた伊奈さんの家では、次兄が召集された。シャツの首元にスカーフをあしらうようなしゃれ者だった兄は、中国北部の戦線で散る。父は神棚の前に伊奈さんを正座させ、「こんなに早く戦死するとは」とうつむいた。後日届いた小さな骨つぼには、骨など入っていなかった。
 45年5月29日午前9時過ぎには、横浜の上空に600機を超える爆撃機B29と戦闘機P51が現れた。米軍は計2570トンにも上る焼夷弾を降らせ、市内の3分の1を焼き尽くした。当時二十歳の慶応大生だつた伊奈さんは、港北区の下宿で、落ちてきた焼夷弾をとつさに素手でつかんで窓から放り投げ、九死に一生を得る。自宅の方向を見ると、もうもうと黒煙が上がっていた。
 翌日、線路伝いに自宅へと歩いていくと、無数の遺体が転がっていた。犠牲者は1万5千人超ともいわれる。町内会の役員をしていた父は町内の女性たちを引き連れて逃げたというが、結局行方不明のまま電車の高架下に山と積まれた焼死体は男女の別さえわからなかった。
 その3カ月後、戦争が終わった。


 この年の春、伊奈さんも古い材木とトタン板で父のレコード店を再建し、駐留の米兵相手に流行歌を売った。同年に発売されたのが「憧れのハワイ航路」だった。徹底的な長音階が明るく軽快な印象を与える。
「ハワイなんて行けるわけもないし、想像すらできない。だけど不思議と勇気づけられた」と、伊奈されは振り返る。

この歌はハワイでも流れていた。
日系2世のギルバート・キムラさん(72)は50年代、父親がダウンタウンで経営していた1100人収容の国際劇場で、映画「憧れのハワイ航路」を見た。歌のヒットを受け50年年、岡晴夫主演で作られたものだ。
終幕、岡がハワイに向かう船上でギターをつま弾いて歌う。「とてもハンサムな人でしたね。今でもハワイの日系人はカラオケであの歌をよく歌います」とキムラさん。
 ハワイで生まれたキムラさんも戦争を経験した一人だ。真珠湾攻撃の時は3歳。たまたま山口県岩国市の祖父をおばと訪ねていて、ハワイに帰れなくなった。父親は戦時中、米国本土の収容所に送られた。終戦の3年後、父親がやっと迎えに来た時にはキムラさんは10歳になっていた。「元気だったか」と自分を抱きしめて泣ぐ男がだれかわからず、困惑するばかりだったという。
 ダウンタウン周辺はホノルルの政治経済の中心だ。中でも「J タウン」と呼ばれた地域は、国際劇場のほか、東洋劇場、日本劇場、ホノルル座といった日系人向けの映画館が立ち並んでいた。移民として海を渡り、サトウキビ農場で過酷な仕事に従事していた日本人にとって、映画鑑賞は数少ない娯楽だった。
 週末になると、普段はサトウキビを運ぶ列車に乗って労働者たちがやって来た。「日系人はゾロゾロと連れ立つて映画館をはしごしていました。夕暮れ時になると日本食のレストランで食事をとり、家路についたのです」とキムラさんは回想する。

 映画「憧れのハワイ航路」が公開されたころ、俳優の月丘夢路さん(88)は日系の興行師の招きでハワイを訪れた。まだ多くの日本人が日々の生活に追われていたこの時期、「憧れの」海外旅行を実現させた人はごくわずかだった。
 「日本の女優が何度も使えるガーゼで化粧を落としていた時代に、あちらでは一般の方もティッシュを惜しげもなく使っていてね。豊かだなと実感したわ」と月丘さんは懐かしむ。
 当時20代後半。宝塚歌劇団の娘役トップスターから松竹の看板女優になつていた。後に大卒者の初任給が1万円の時代に、映画1本で300万円を稼ぐ大スターになる。

直行はできず、手前のウェイク島で給油をしてようやく到着した。
 月丘さんは楽団とともに島々を回った。出演映画の上映の後、ステージで歌を歌い、踊った。観客の移民には同郷の広島県人が多かった。
「語尾に『じゃけんのう』となまりがあって良くしてくれました」
 日本人は「戦争に負けたかわいそうな人たち」でもあった。日系人たちは洋服や米、砂糖を袋に入れて持たせてくれた。家に招かれては、タロイモを原料とする現地食「ポイ」を振る舞われたという。
 米ドルが貴重で、月丘さんは自らサイン入りのプロマイドを1枚数ドルで売った。「夜、ホテルに帰るとベッドの上にドル札を広げて数を勘定したのよ」と思い出す。



                  参考文献
                    朝日新聞、中島耕太郎記者の文
                    朝日新聞、be on Saturday





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最終更新日  2013.01.08 08:41:56
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