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若一(にゃくいち)神社京都市下京区七条御所ノ内本町JR東海道線西大路駅より北へ徒歩5分 平安時代の末期、平清盛が六波羅に住んでいたころ、この地に「西八条殿」と呼ばれた別荘を持っていました。当時、この辺りは風光明媚な土地だったそうです。仁安元年(1166年)、清盛が熊野詣をしたときに「土中にある御神体を見つけて祀るように」という御神託を授かり、戻って邸内を探したところ、土の中から若一王子の御神体が出てきたので、社殿を建てて祀ったとのことです。若一王子は、若王子(にゃくおうじ)あるいは若宮などとも称され、熊野三山に祀られた熊野十二所権現(くまのじゅうにしょごんげん)の一つです。熊野信仰が盛んだったのでしょう。建立の翌年の仁安2年(1167年)、清盛は従一位太政大臣に任じられます。そのことから、開運出世の神として信仰を集めているということです。西大路八条の交差点近く、車道ぎりぎりに御神木があります。迂回するようにして歩道が設置されています。この木は、樹齢800年を超す大樹で、太政大臣に任ぜられたことに感謝して、清盛自らがお手植えしたものだと伝わっています。
2015年02月26日
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機関車庫転車台(左から)C62 1、C58 1、D50 140「義経」号8630号機(8620形)シューっという音とともに白い蒸気を吐き、ポウっと短く汽笛が鳴ってそれが周囲にこだますると、蒸気機関車はまるで生きているかのようです。SLというより、敬意をこめて蒸気機関車と言いたくなります。C58 1新しい博物館になると、ずらっと並んだ蒸気機関車の風景は無くなるのでしょうか? 黒光りする鉄の車体。永遠であってほしいと願います。
2015年02月25日
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梅小路蒸気機関車館京都市下京区観喜寺町JR京都駅から西へ徒歩約20分先日、梅小路蒸気機関車館に行ってきました。休日で、寒いながらも、子ども連れの家族などで賑わっていました。昭和47年(1972年)10月に開設されて以来、長く蒸気機関車の保存を続けております。現在、17形式19両の蒸気機関車が展示保存されています。うち、動態保存は7両。これだけの数の蒸気機関車を揃えるのもたいへんだったでしょうが、それを動態保存するには、いろいろな苦労があるのだろうと思います。館の入口は、山陰本線の旧二条駅の駅舎です。平成8年(1996年)、二条駅~花園駅間の高架化によって役目を終えた二条駅を移築し復元されました。動輪を使った記念碑玄関右側には、蒸気機関車の動輪を使った記念碑があります。碑文の日付は開館の年、昭和47年(1972年)10月10日で、「鉄道100年にわたる蒸気機関車の栄光をたたえ」たものです。英国国立鉄道博物館との姉妹提携記念植樹平成12年(2000年)4月、英国国立鉄道博物館と交通科学博物館、梅小路蒸気機関車館との間で、姉妹提携協定が結ばれました。入口左側の樹は、2010年に各館長が集まったときに、提携10周年を記念して植樹されたものです。昨年(2014年)4月に閉館した交通科学博物館(JR環状線弁天町駅)はすでに閉鎖されました。梅小路蒸気機関車館も、今年(2015年)8月30日でいったん閉館します。来年(2016年)春に「京都鉄道博物館」がオープンする予定で、隣の敷地で建物を建設中です。交通科学博物館や梅小路蒸気機関車館の収蔵資料等が移設展示されるということですので、楽しみです。中の様子は、次のページにて。
2015年02月24日
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真宗興正派本山 興正寺(こうしょうじ)京都市下京区堀川通七条上ル花園町JR京都駅より北西へ徒歩約10分興正寺は、本願寺(いわゆる西本願寺)の南隣にあります。かつては西本願寺につながる門跡寺院でしたが、明治9年(1876年)に真宗興正派として独立し、宗派の本山になりました。明治35年(1902年)に火災でほとんどが焼失してしまいましたが、明治45年(1912年)に再建されました。御影堂(ごえいどう)境内の紅梅三門を入ると、満開に近い紅梅が美しく咲いていました。白梅はまだちらほら咲きでしたが、着実に春がやってきていますね。ちらほら咲きの白梅阿弥陀堂
2015年02月22日
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耳塚京都市東山区茶屋町京阪本線・七条駅より北東へ徒歩約7分豊国神社の鳥居の西、正面通沿いの南側に、「耳塚」があります。豊臣秀吉が朝鮮半島に侵攻した、いわゆる文禄・慶長の役(1592~1598年)のとき、戦功のしるしとして持ち帰った鼻や耳が埋められているそうです。この時代、戦いで敵将を打ち倒したときには、それを証明するために首級を持ち帰っていました。武将以外の場合は鼻や耳を持ち帰ったようです。朝鮮出兵時にも、塩漬けした鼻や耳を持ち帰ったようです。その数は2万人とも3万人とも言われています。秀吉の命により、ここに供養するための耳塚が建てられたということです。当時はそれが習わしだったのかもしれませんが、現代の感覚で見れば、なんとも残虐な行為で、聞くだけでやり切れない気持ちになります。歴史の負の遺産として、現代に受け継がれています。
2015年02月21日
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方広寺京都市東山区大和大路通七条上ル(豊国神社北隣)京阪本線・七条駅より北東へ徒歩約8分「方広寺の鐘」の話は、学校の歴史の時間に学ばれた方も多いのではないでしょうか。豊臣秀吉によって造られた大仏は、文禄5年(1596年)の慶長伏見地震によって倒壊しました。秀吉の死後、豊臣秀頼が大仏を復興しようとしましたが、慶長7年(1602年)、火災によって大仏殿とともに失われてしまいます。それでも、慶長13年(1608年)に再建が始まり、慶長17年(1612年)には大仏がほぼ完成、慶長19年(1614年)には梵鐘が完成します。ところが、開眼供養の日を待つというときになって、徳川家康から梵鐘の銘文に対して横槍が入ります。「国家安康」の句が徳川家康の「家」と「康」を分断している、「君臣豊楽」の句が豊臣を君主としている、とみなされ、開眼供養を延期させられます。「国家安康」「君臣豊楽」の句いわゆる「方広寺鐘銘事件」で、これをきっかけに大坂の役が起き、豊臣家滅亡を招いたとされるものです。現在もこの梵鐘は現存し、いつでも見ることができます。重要文化財に指定されています。
2015年02月11日
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大仏前交番京阪本線・七条駅から東へ4分ほど歩いたところ、大和大路七条の交差点に面して、「大仏前交番」があります。とは言っても、現在、ここに大仏があるわけではありません。天正14年(1586年)、豊臣秀吉は奈良・東大寺のような大仏を造ろうとして、大仏殿と大仏の造営を始めました。文禄4年(1595年)には大仏殿がほぼ完成し、高さ約19メートルの木製の大仏が安置されます。ところが慶長元年(1596年)の大地震によって大仏は倒壊してしまいました。大仏殿の場所は現在の豊国神社付近だそうですが、その境内は、現在の国立博物館や三十三間堂、智積院などを含むといいますから、ほんとうに広大な土地だったようです。大仏殿の石垣大仏前交番から大和大路通を北に行くと豊国神社があります。大きな鳥居の前を過ぎた辺りに、フェンスで保護された石垣があります。手前の石碑に「大佛殿石垣」と書かれているとおり、ここに大仏殿の石垣の一部が現存しています。ちなみに、その後も何度か大仏は造られましたが、地震で壊れたり火災で焼けたりして現存していません。天保年間に造られた4代目の大仏は、肩から上だけの木造でした。昭和48年(1973年)、火災によって焼失してしまいました。正面橋豊国神社から西に続く通りは「正面通」と呼ばれています。また、正面通が鴨川を渡るところには「正面橋」が架かっています。正面とは、大仏殿の正面という意味です。大仏は無くとも、いまだにその存在感を示しています。
2015年02月08日
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六孫王神社(ろくそんのうじんじゃ) 拝殿(京都市指定文化財)京都市南区壬生川通八条角JR京都駅八条口から西へ徒歩約15分先日訪れた鎌倉の鶴岡八幡宮は、鎌倉幕府の初代将軍、源頼朝ゆかりの神社として有名ですが、武家としての源氏の祖は、源経基(みなもとのつねもと)まで遡ります。源経基は、清和天皇の六男・貞純親王を父とし、天皇の孫ということで、六孫王と呼ばれたそうです。15歳で元服し、源の姓を名乗ります。清和天皇から出た源氏ということで「清和源氏」という呼び方をされます。経基は、平将門の乱や藤原純友の乱にも出兵したようです。各地の国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍に任ぜられます。この場所は、経基の邸宅「八条亭」があった場所といわれております。「龍となって池に住み子孫の繁栄を祈るから、この地に葬るように」との遺言に基づき、子の源満仲が墓所を建立しその前に社殿を築いたことが、六孫王神社の始まりとされています。その後、長く荒廃していましたが、江戸時代、5代将軍綱吉の時代に、現在の本殿や拝殿などが再建され、現在に至っています。六孫王神社、清和源氏発祥の地にある多田神社(兵庫県川西市)、河内源氏(清和源氏の一つ、源氏の主流)発祥の地にある壺井八幡宮(大阪府羽曳野市)を合わせ、源氏三神社と呼ばれることもあるそうです。
2015年02月07日
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