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明日から4月ですね。4月1日と言えば、エイプリルフール。日本語では、歳時記によれば「万愚節」と言うそうです。季語ですね。もっとも直訳ではないようで、ルーツは造語だそうですが。 その万愚の節は、私の一年の中でかなり大きな意味を持っています。そうこの日は、ソウル・マエストロ、マーヴィン・ゲイ(1939-1984)の命日なのです。マーヴィン・ゲイの歌を聴いて、ガツンと一撃されてからすでに15年以上が経っていますが、その後数多の名シンガー、名アーティストが登場しても、私にとっては永遠のナンバーワン。彼の人生のすべてが評価できるとは思いませんし、破天荒な一面が彼の音楽的才能の根源のすべてだとも思いません(一部にはそういう考え方もありますが、もし彼があのように生き、あのように死なず、聖人君子として生きていても、きっとあれだけの偉業を遺したと私は思っています)が、彼の人間的なもろさ、繊細さ、スタイリシュな部分、そして嘘をつけず、偽ることに罪悪感すら覚えて自分を責めてしまう強迫的なまでの優しさは、まさに彼の歌声と才能に、歯がゆいまでのセンシティヴィティと、身悶えするような孤独感、シルキーなナイーヴさを与え、褪せない光沢感を与えているのではないかと思います。 マーヴィン・ゲイその人が、私の人生のあり方、生き方や思考のモードそのものを、決定してしまいました。その後の人生は、マーヴィンとの同化を求め、それに拒絶されて懊悩する日々と言っても過言ではなく、だからこそ“マーヴィン・マニア”の筆頭エル・デバージにもライバル心と共感を抱くのですが(それは言い過ぎか)。 なぜマーヴィンか?と問われれば、その理由はいくらでも挙げられますが、一番端的に言えば、「私の悩みを聞いて、スティーヴィーは泣いてくれないけど、マーヴィンは一緒に苦悩してくれるだろうから」と答えます。そういうことです。 1984年4月1日。日本では CNNの放送が開始された日ですが、その第一報 が、マーヴィン・ゲイが実父に銃殺されたニュースだったそうです。実に、マーヴィン・ゲイ45歳の誕生日の前日の事。そのニュースを移動中の車のラジオで聞いたスティーヴィー・ワンダーは、旧友の悲報に接し「エイプリル・フールだからって悪い冗談だ」と言って信じようとしなかったとか。 今となっては誰からも真実を聞く事はできないのでしょうけど、ずっと気になって頭を離れないのは、デュエットのパートナーして“理想の恋人同士”を演じ合ったタミー・テレルとの仲は、ただのビジネス関係だったのか?ということ。デュエットアルバムのジャケットで見つめ合う姿や、その絶妙な掛け合い(“Ain't No Mountain High Enough”の中で、マーヴィンがタミーに「僕が君を自由に(君らしく)したの覚えてる?」って歌いかけるんですが、それは実は逆で、タミーの存在が、公私ともに八方塞がりだったマーヴィンを生き返らせたのです)を聴くたびに、惹かれ合いながら互いに愛する人を各々持ち、一緒に歌う時は完璧な恋人同士の世界を築き上げる。収録が終わると、一抹の甘酸っぱさを残しながらまた互いの私生活上のパートナーのもとに帰って行った。「じゃあね」と言って、背を向け合って。セクシュアリティを排除した、徹底したプラトニックな愛情。後のセックス・シンボルであるマーヴィンの、シャイで生真面目な、真の姿が垣間見えます。こんな想像を禁じ得ません。 二人で巡っていたツアーコンサート中、タミーがマーヴィンの腕の中に昏倒し、若くして白血病で急逝した後、マーヴィンがステージ恐怖症、人間嫌いになったのも、ただその繊細さによるものではなかったのかも知れません。 せめて万愚説の時くらい、マーヴィンと、そのミューズたるタミーが天国で逢い引きをして、「あぁ、かつて二人は恋人同士だったよ」と、世界中のファンを虚々実々の伝説で煙に捲いてくれたらな、なんて思っています。(了)マーヴィン・ゲイ☆Marvin Gaye / 61-84(CD) (Aポイント付)マーヴィン・ゲイ/ホワッツ・ゴーイン・オン マーヴィン・ゲイ ☆ Marvin Gaye / Very Best (CD) (Aポイント付)マーヴィン・ゲイ/ベスト・オブ・マーヴィン・ゲイ マーヴィン・ゲイの真実【VABS-2】 =>20%OFF!《発売日:03/07/23》*ちなみに私、マーヴィンはかなり聴き込みましたが、あえて絞り込むと、好きな曲は“Sexual Healing”“God Is Love”、好きなアルバムは“Let's Get It ON”“I Want You”“Midnight Love”とタミー・テレルとのデュエットアルバム、です。あ、でも全部捨て難い!!一曲一枚なんて絶対に選べません。
2005/03/31
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サッカー、勝ちましたね、日本。快勝と呼んでいいのかは微妙ですが、結果が残って良かったです。子供の頃ブラジルで観たサッカーは、今のようにショーアップされていなくて、どこか恐ろしくて、ちょっと治安の悪い印象があり、隔世の感アリなのです。それが影響してる訳でもないのでしょうけれど、私は人並み程度のサッカーファンでしかありません。それでも、やはり日本の試合には熱くなります。 かつて、Jリーグ草創期、選手の浮ついた行動が非難されて、「歯を見せて笑うな。ヨーロッパや南米を見てみろ。サッカーはスポーツじゃない。国の威信を賭けた戦争なんだ」なんていう声があったりもしました。ブラジルの事を思い浮かべると、確かにそんな意見もあながちハズレでなかったような気もします。 で、ホームでのバーレーン戦。そこにあったのは、熱狂的な日本国民の声援。そのたゆまぬ努力で、一時は苦しんだJリーグおよび日本サッカー界もここまで日本人の心をつかんだのか、とあらためて痛感。もはやそこに軽薄なムードはなく、国の名誉を背負って世界に立ち向かう選手たちの、引き締まった表情が印象的でした。 しかし。しかし、です。同時に垣間見えた、スポーツを通じた愛国精神が今度は妙に気になりました。フェアネスの精神を第一とするスポーツにおいて、全力で対峙する両チームに同じだけの拍手を送りたい、と願うのは理想主義なのでしょうか?ヌルい精神力では世界には通じず、しかし国が一丸となれば排他的になる危険もある。大衆を駆り立てる事象はすべからく、きわめて不安定な秤の上にいるのだな、と強く感じた次第です。(了)
2005/03/30
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見出し:ルネッサンスを体現した画家の絵巻。小川 正隆 (著)、ボッティチェルリ(イラスト)『ボッティチェルリ 新潮美術文庫2』(新潮社) その絢爛で、幻想的な色遣いは、日本人の趣味に合うだろう。絢爛。蒔絵に通じると感じるのも、あながち的外れだとは思わない。ルネッサンスの華を担った陽気な画家の作品集。ルネッサンスの光を象徴したかのような絵の数々に目を奪われる。そのボッティチェルリの晩年が、惨めなものであることを思うにつけて、その一瞬の輝きが際だつ。(了)
2005/03/29
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SF映画を中心とした映画系コレクティブルアイテムが充実。ハリウッドコレクターズギャラリーさん。私も利用します。↓マスターレプリカ社 スターウォーズアナキン ライトセイバーレプリカ エピソード3バージョンマスターレプリカ社 スターウォーズダース・ベイダーEp4ライトセーバー レプリカマスターレプリカ社 スターウォーズダース・ベイダー FX ライトセーバー
2005/03/28
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そうそう、HPを開設して一ヶ月に満たないのですが、少しずつ毎日いじっているうちに「色んなコトができるのだな」と日々勉強中でして、このたびHPのデザインを模様替えしました。HPのタイトルに合わせて、少しエスニックというか、砂塵舞うモロッコのような、そんなイメージに。 デザインテーマを変えると雰囲気もガラリと一変して、楽しいですね。自分でも気に入っています。そろそろどなたか、リピーターの方からツッコミがないかな?なんて思っています。(了)
2005/03/28
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過去の日記にも関連コラムを書いていたので、すでに訪問していただいた方にはバレているかと思いますが、私はスター・ウォーズの大ファンです。初めて観たのは、『EP5』所謂“帝国の逆襲”です(ちなみに『EP4』の時はまだ赤ん坊だったのです)。ブラジルに住んでいた時、向こうの映画館で観たのですが、内容はともかく、そのキッチュな映像世界が強烈に脳裏に焼き付いていまして、その後ずっと「心のSF映画ベストテン第1位」なのです(スター・ウォーズシリーズもジャンルとして“SFベストテン”第1位ですが、『EP5』だけを単体で見ても、作品として図抜けています)。 氷の惑星ホスのヘンテコな雪男(ワンパ)、偏屈師匠ヨーダのインパクト(新三部作のおかげで、今やすっかりジェダイの大御所&賢者感がありますが、覚えてますか!!あの頃のヨーダ、ルークの食料とかせびったり、結構人間小さかったですよね。人間じゃないけど・・・)、そして、衝撃の真実。「俺はお前の父だ」「うそだぁ~(フェイドアウト&落下)」。 スター・ウォーズには独特の体温があります。それは、言葉にはしにくいのですが、ハッキリと示すことはできます。『EP4』『EP5』にはあって、『EP6』からなくなってしまったもの。善し悪しではないのですが、その境目にあった何かこそが、私にとってはスター・ウォーズそのものだったりするワケです。勿論、その後の『EP6』、『EP1』、『EP2』も好きですけど。 この夏、いよいよ待望の新作にして、スター・ウォーズ伝説の完結編『EP3』が日本でも公開されますね。何でも、毎度のことながら「先行公開のアメリカに、一足先に鑑賞に行こう」ツアーもすでに組まれているとか。強者は行くのでしょうね。私も、今かと公開を待ち望んでいるのですが、ここの所、雑誌やサイトでスター・ウォーズ特集がかなり目立ちます。もはやお祭り状態です。 で、興奮してうっかり買ってしまったのが、スター・ウォーズの代表キャラクター、ダース・ベイダーのライトセーバーのオモチャ(マスターレプリカ社製)。マスターレプリカ ダース・ベイダーFXライトセイバー これまでも、実は関連グッズはかなり集めていたのです(フィギュアは勿論、ノベルティグッズや、昔のガレージキットなど。変わりダネは、『EP1』公開時に出た、化粧箱入りアナキン君ペプシ缶、シリアルナンバー入り。今見ると、「これって???」って感じはしますけど)が、今ではかなり手放して、本当に手元に置きたいモノのみに絞り込んでしまいましたが、そのコレクションに、思わず加えてしまいました、ダース・ベイダーのライトセーバー。まさにダークサイドにはまってしまいました。 で、使用感ですが、コレすごいわ。こんなすごいモノが手に入る世の中になってしまったんですねぇ。メーカーサイドの説明では、「厳密な意味ではプロップ・レプリカではない」と但し書きがついていますが、なかなかどうして、本体部も精巧で重量感ある作り(モデルは『特別篇』の中で使用されたライトセーバーとか)。さらに、このFXシリーズの特徴である、発光&サウンドギミック。ポリカーボネートの刀身は、半永久的に発光するライトが内蔵(電源はアルカリ電池)。さらに、振動や接触を感知して、劇中で使用されたソースをそのまま使用したサウンドが。スイッチオンで、いきなりブーンなんつって、徐々に刀身が光ったりすると、もう、呼吸がスーハーです。ま、人様にはお見せできませんけど。 今まで、ハズブロ社が出していた子供向けのライトセーバーのオモチャもありましてそれはそれで楽しいのです(FXシリーズは12歳以上対象ですし)が、このFXシリーズは、もう芸術品ですね。別物です。大袈裟ではなく。 昔は骨董品的に刀剣をコレクションしてる硬派な方々がいましたが、もうその刀剣コレクションの域ですね。 実は、本当のライトセーバーのプロップ・レプリカ(マスターレプリカ社製)も一本所有していまして、こちらは刀身がなく、本体のみの完全に飾り用なのですが、これはもっと値が張る(6~7万)ので、その意味ではFXシリーズは手が出し易いかなぁ、なんて思います。ちなみに所有しているのは、ドゥークー伯爵のライトセーバーのレプリカです(ドゥークー伯爵を演じたC・リーが昔から好きだったので)。 本当は、このお祭り騒ぎに乗じて、大本命のダース・ベイダーのライトセーバーのプロップ・レプリカもずっと欲しいのですが、すぐに手を出すと、この夢が終わってしまいそうで怖いのです。それになんと言っても、『EP3』を観て、ダース・ベイダーというキャラクターが矛盾なく立ち現れて来て、全6作を締めてくれるかどうか、それを確認してからでないと手を出せないのです。コアなファンとしては。 『EP3』で全貌が明らかになるダース・ベイダーの真実。何十年もの間、世界中のファンを虜にしてきただけのキャラクターであるのかどうか?は『EP3』を目撃して初めて判断できると言えるでしょう。期待に応えたダークっぷりを存分に披露してもらったら、安心してレプリカ買います。それまでは、FXシリーズで迷わずスーハーです。(了)
2005/03/28
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今日沖縄の知り合いから、タコが送ってきました。離島の方なのですが、その海で採れたそうです。で、電話で「タコのシガイが採れたから送る」って・・・。タコの死骸???気味悪いです。 新鮮そうでもないし、かといって、採れたタコを生きたまま送られても、ちょっと困る。タコに巻き付かれた自分を想像。嫌です。 で、送って来たものを開けてみると・・・。ん!? 普通です。いたって普通。タコです。イキはいいけど。死骸??? 何のことはない、その離島で採れるタコはシガイと呼ばれるそうで、方言なのか、地元の呼び方なのか、とにかくただのタコだったのです。安心して、いただきます。(了)
2005/03/27
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私はつくづく日記に向いてないと、最近よく思います。というのも、つい読み返して、自分の日記をチェックしてしまうのです。そうすると、あるわあるわ、誤字脱字に変換ミス、気に入らない表現や不適切な表現。 今日も、半日誤字脱字の修正をしておりました。って、そこまでやると、消耗してしまって新しいこと書く元気もなかったりするのですが、入れ込み過ぎない!!ってのが私にとっては長続きの秘訣のようで。ユル~く行かないとこりゃ駄目だな、なんて思いました。私、大体、昔から本気で入れ込んだコトって、長続きしないんです。精神的な癖なんでしょうかね。 今日は暖かかったし、久しぶりに髪を切りました。昔は美容院、10分床屋、など色々と、その時の気分に応じて、好きなトコロで切ってもらっていましたが、最近ハマっているのは、下町の床屋さん。色んなお客さんが来てましたけど、皆常連さんらしく、自然と会話サロンのように!!スパイク・リーの世界ですよ、まさに。洗髪、按摩、ヒゲ剃りも、美容院とはまた違うテイスト。極めつけは、帰り際に缶ジュースを必ずくれるんですよね。これにつられてたりして・・・。(了)
2005/03/26
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私は、ファミリーベーシック(パソコン?)やPC-98を除いて、本格的にパソコンと付き合い出したきっかけは、知人のマッキントッシュを触らせてもらってから。その後は、5台ほどマシンのチェンジをしましたが、ずっとマック一筋です。 マックにスタンダードな商品ラインナップとしてバリエーションが出たのも、実は結構新しいことで、マイクロソフト社の快進撃の煽りを受けるまでは、「マックである事自体」に価値があったり、それが素晴らしいだけで、使い易さを除けば、むしろ無愛想なメーカーでした。 それが、時代の趨勢か、マイクロソフト社がPC業界に台頭してからは、マックにも「選ぶ楽しみ(悩み?)」、「買う楽しみ(悩み?)」が広がった訳です。それまでは、せいぜい拡張性を吟味する程度でしたけど(何せマシンが高い時代だから、お財布と相談すると、殆ど選択の余地はなかったのです)。 と、前置きが長くなってしまいましたが、これ、半分言い訳で、パソコン選びの基準、と言ってもマックの話で、ウィンドウズ搭載のマシンをご使用の方とは同じメジャーでは測れません。悪しからず。 とはいえ、共通する選び方もあるのでは?とも思います。何せマックにも選択の幅が増えましたから。 やはりまずは資金の確保。ここから全てはスタートします。予算と相談しながら、最初に絞り込むべきは2点。1:「デスクトップかノートか?」2:「どういうシーンで、何を目的に、どう使用し、どれくらい先までメインマシンとするつもりか」 実は、項目1は、殆ど2と連動していますが、予算からさかのぼって。先にカテゴリを決めるのもひとつの方法かな、と思います。 そして、やはり重要なのは2ですね。a:「仕事用か、自宅用か」b:「持ち歩くか、ワークステーション的に使うのか」c:「文書データメインか、画像処理、画像保管もするのか」d:「映像編集をするのか」e:「音楽のデータも扱うのか」f:「数年先にはどういうポジションを与えてやることが考えられるか」 といった項目が検討できると思います。aとbはリンクもしますが、携行のし易さを優先し過ぎて、モニタが小さいのを選んだばっかりに、自宅でメインとして使うには不便だった・・・などというメリットの相殺やコンフリクトもあり得ます。モニタの大きさは、案外重要ですよ。 cは、今や PCのスペックも格段に向上しているので、そんなに気にする所ではないかも知れませんが、デジカメなどを多用する予定のある方は、留意が必要でしょう。これと関連してもう一点、本格的な画像処理や、重いアプリケーションの使用をしない方で、ポータビリティを追求したいユーザーは、ノートパソコンを選んで、処理速度は最高じゃないモデルを買い、浮いた予算分でメモリを足す、などの裏技もあると思います。 出先で使うソフトと言ったら、ワードとエクセル、それにIEとOutlookくらい、という方で、文書データを沢山持ち運ぶ方には、このスタイルもお勧めですね。シンプルな合理性を重視、ということです。 eは私はあまり分かりませんが、昔は映像端子や出入力ポートの有無が、拡張性の判断材料にもなりました。また、最近はDVDやテレビの録画機能なども発達しているので、一応検証しておくのが無難でしょう。 eは、最も今時らしい検討材料でしょう。iPodをはじめ、MP3データを再生する音楽メディアを使用する方は、そのメインデータの保存先としての、PCのキャパを考える必要があります。メディア側の容量にもよりますが、沢山の音楽データを扱うつもりであれば、一言。音楽データは想像以上にメモリを食います!!私もヤられてます。 fも、ハードのライフサイクルが短い今時らしいですね。ですが、自宅なりオフィスなり、どこであれスペースは無限ではなく、かと言って、使いづらくなったらすぐ処分、というワケにもいきません。数年後の自分の生活や、もしもう一台マシンを買った場合のことも考えておくのもいいでしょう。ちなみに私は、PowerBook G3は出先で、主にテキストデータのみを扱うつもりで再利用。iMacは、サブのiPodを一つつなげて音楽データを管理、あとはメールやネット、データのバックアップに使用中。同時並行でメインマシーンと違う作業をするのにも活躍しています。 今、メインで使用しているのは、iBook G4。と言っても、私は原稿データの扱いで使用することがメインなので、このコンパクトなサイズとスペックでオッケーなのですが。 かなり長くなってしまいましたが、私なりのパソコン選びの基準は、上記の項目を、段階を追って検討することです。それを元に、お店に足を運び(ありきたりですが)、実物のマシンに触り、スタッフに質問しまくります。別のお店で買うとしても、質問してしまいますよ。失礼にならない範囲で。 情報集めだけでなく、足を使うだけでもなく、そこにシーンやシチュエーションをシミュレートする作業を入れると、自分によりマッチしたPCに巡り会えるのではないでしょうか?(了)
2005/03/25
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見出し:若きロルカの情熱の滾りF.ガルシーア・ロルカ(著)、その他『血の婚礼 他二篇―三大悲劇集』(岩波書店) 若い頃のロルカは、詩集の刊行には当初興味を示さなかったそうだ。それが後には、スペインを代表する現代詩人になるのだから、まさに一芸に秀でる者は何とやら、である。そのロルカはまず劇作家としてセンセーションを巻き起こしたスペイン文学の革命児であったのだが、本書は彼の劇作家としての情熱を紹介する一冊。詩人ロルカの多才ぶりが伝わる。(了)
2005/03/24
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本日、『愛・地球博』ランドスケープアーキテクトの戸田芳樹氏に取材敢行してきました。事前にプロフィールなどを拝見して察するに、学者肌の方かな、と思っていましたが、実際にお目にかかると、非常に気さくで、取材にも丁寧に応じて下さいました。 もともと、ある媒体の企画で、別の方を取材候補者に挙げていましたが、駄目モトでアタックしましたら、快諾して下さり、急遽取材が実現したのでした。 戸田氏は、まだランドスケープデザインという言葉が一般的でない時代、それが「造園」と翻訳された黎明期より、手探りしながら、この領野の開拓と普及に邁進してこられた方で、そのエネルギーの源に、幼少時代に親しんだ原風景である、故郷の広島県尾道での体験や、庭師として修行しながら、自身の方向性に違和感を抱き、東京でランドスケープアーキテクトとしての修行をされた模索時代の初心が、脈々と息づいていることが、今日の取材でよく理解できました。 と同時に、建築でもなく、庭作りとも厳密には異なる、ランドスケープデザイン=造園が、関連分野とのコラボレーションにおいて、日本ではまだまだ土壌として未成熟の時期にあるということも知りました。 取材では、そのような状況下で開催される『愛・地球博』が、まさにランドスケープアーキテクチャーの根底にある思想、つまり「自然の中に都市があり、そこに人間がいて、生活があり、自然とのふれ合いや体験がリアリティを持って伝わる美しい景観作り」への挑戦と舞台であったことが述べられました。 「“自然と対決する”、という発想を棄てて、自然の中で、現代人が失った様々な“縁”や“つながり”を取り戻す。そのきっかけづくりに、ランドスケープデザインが貢献できれば嬉しい」と語る戸田氏は、自然と都市、そして人間の理想的な融合を夢見、それに挑戦し続ける(例え、その試みが時に誤解されようとも!!)ロマンティシストでした。 自然を相手に、テクノロジーでもって解釈/表現する、ということは、非常にタフな作業であり、またあらゆる条件や批判を納得させるのに時間のかかる作業だな、と感じ入った次第です。これは、かつて石井幹子氏(『愛・地球博』で照明部門の総ディレクションを担当)に取材をした時にも、奇しくも私が感じたことでした。 自然との共生への試みが、自然に手を加えることと混同されないためには?そう誤解された時には?あるいは、実は無意識的/意識的に自然を加工していたら?これらの問いと背中合わせに取り組む仕事は、常に理解と無理解の狭間をたゆたい、やがて泳ぎ切る信念とエネルギーを宿す者だけが、共感を勝ち得るのかもしれません。(了) 戸田芳樹氏関連ページ:http://www.expo2005.or.jp/jp/T0/T1/T1.6/T1.6.1/T1.6.1.9/ピンズバッジ A〈ぬいぐるみ〉モリゾー/L〈ぬいぐるみ〉キッコロ/L
2005/03/23
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仕事で少し縁があって、その商品価値に対する認識を改めたのがDELL社のパソコン。海外では公共事業分野でのシェアは圧倒的かつとっくにナンバ-1なのに、日本国内ではなぜか「通販」のイメージが・・・。 これ、完全に日本でのPC市場への食い込み方に問題があったわけで、価格競争が当たり前の米国スタイルが、かえって日本では「安価」で「手頃」、でも「国産PCほどの価値がない」的な受け取り方をされてしまった結果。 それが、ここへ来て日本にも“ソリューション”という言葉が定着して若干旗色に変化が!!個人レベルで要求される“ソリューション”(法人や組織なら、事業内容や規模に合わせたシステム構築でしょうけれど)とは畢竟サポートにあたる訳で、このサポートが、DELL社は断然厚い。 何しろサポート面は、もともと日本では“通販的”に軽く扱われたDELL社の直販(ダイレクト販売)方式が一番得意としていた強みで、すでにその実績は国内外でもユーザーにはよく知られたところ。さらに、2005年3月より、DELL社のECC(Enterprise Command Center)が、24時間365日、フルタイムでの一元監視体制でサポートするサービスをスタート。 日本が、その強さを生かせる、DELL社好みのIT風土になってきた、ということでしょうか。不肖私も、日本国内ではまだまだ認知度の低かったDELL社の実績と実力に、目から鱗を落とされた次第です。(了)*デルの引き出しはFreepageからどうぞ!!
2005/03/23
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見出し:心地よいラファエッロ賛歌アンリ・フォション (著)、原章二(訳)『ラファエッロ―幸福の絵画 』(平凡社) しかし「幸福の絵画」とは、秀逸な副題を付けたものだ。ラファエッロの作品に触れるとき、そこには観る者をも天上に誘うかのような幸福感を感じる。まるで、ラファエッロ自身が、その名の如く天使であるかのように(本文にもあることだが)。本書は、まさに天使のごとき画家ラファエッロの徹底的な賛歌。そこに、ラファエッロ自身の人間臭さは感じられない。しかし、それも仕方あるまいか。ラファエッロは、事実幸福を絵にするべく生まれた、馥郁たる香りのする天才だったのだから。(了)
2005/03/22
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見出し:「奇妙な世界」の歩き方!!JOJO倶楽部 (編集)『JOJOマニア―ジョジョの奇妙な冒険研究読本 』( 21世紀BOX) ボリューム、内容、テキスト、どれをとっても文句ない。一見、サブカル的な軽さがあるものの、「ジョジョ」の世界がより面白くなる、なかなかの力作である。惜しむらくは、イラストが弱い点。オフィシャルとして、イラストの版権まで獲得できていれば申し分なかったのだが。何しろ、「ジョジョ」の世界の魅力は、ストーリーと同じくらい圧倒的に奇妙なキャラクターデザインにあるのだから。(了)
2005/03/22
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今日カナダから来ている親戚に会いに実家に帰ったのですが、この親戚さん、カナダに運び切れていない荷物を私の実家に“居候”させておりまして、でもあんまりスペースを食うので、前回の一時帰国より、私の実家のすぐそばの貸しコンテナに荷物を預けているのです。 で、今回の一時帰国でも、少しその作業を進めたい、というので、面白半分で手伝いに行ってきましたが、あれ、なかなかスゴいですね。 その貸しコンテナは、海風直撃の場所にあるのですが、中はしっかり防湿、防滴。当たり前ですけど・・・。衣類も書類も木製品も、カビ一つなく、その保存状態は対したものです。 私も実家にいた時には、本やら何やら私物が溢れかえっていたので、コンテナの使用を両親に強く勧められたことがありましたが、当時はイマイチその堅牢性を信用できなかったのです。でも、今日その実用性を目にして、考えを改めました。 限られたスペースをどう活用しようか・・・と、秘密の隠れ家のようでワクワク感もありますし、いつか貸しコンテナを使ってみたいものです。 ちなみに、親戚のスペースは地上二階にあり、そこまでは移動式のハシゴで登るのですが、これが異様にガタピシと横揺れしまして、これはちょっといただけなかったですね。(了)
2005/03/21
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震源地を福岡県西方沖とする震度6弱の地震が、今度は福岡県と佐賀県南部を中心に、九州地方を襲ったようですね。マグニチュード(M)は7.0とのこと。これで、この10年間で、比較的大き目~超大型の地震が、北海道から九州まで日本全土を直撃し、文字通り日本列島が地震大国であることを証明した形になりました。 そして、なぜか東京都・関東エリアだけが、ポッカリと地震に回避されているという不気味な様相を呈しています。 被害に遭われた九州の皆さんが、一日も早く安心して平常の暮らしに戻れるよう、いち早い事態の終息をお祈りします。 と同時に、すわ緊急時、という際に、一体自分にどんな用意ができているのか?自分は命が秤にかけられているとき、何を優先し、何を守り、何を携行し避難するのか?そんなことを、切実に考えさせられた一日でした。(了)
2005/03/20
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先日日記でも書いた通り、大分取材に行きましたが、その移動の際に、ちょっとの距離ですが、何とミニバンの荷台に乗って移動しました。こんなことって、沖縄でサトウキビ畑で乗った以来。あまりにシュールな自分がいたので、思わずつま先を写真に撮りました。 でも、後続車のドライバーと目が合うのって、なんかヘンだけど、根拠のない優越感というか、ワクワク感がありました。(了)
2005/03/19
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行って参りました、大分は中津。大分空港からバスで別府に出て、そこから筑豊線という在来線の特急/快速ソニック(この線の快速はすごいです。車両がどれも、良く言えば近未来、悪く言えばオモチャのような仕様で、結構ビックリしました)で揺られることさらに30分。駅前のパチンコ屋さんらしきお店の名前が秀逸。「マックス・オブ・ゾロ」だって???もちろん、元ネタ、アノ映画ですよね。 中津市は人口約8万人。大分といえば、関アジ、サバ、椎茸に軍鶏、柑橘系、そして「いいちこ」が名産品ですが、ここ中津は福沢諭吉生誕の地としても有名で、諭吉にちなんだお土産やお菓子でイッパイです。そして何より、ラーメンの“熱い”町です。もっとも、正確には、“熱いラーメン屋さん”のある町だった訳ですが。そう、「中津 宝来軒」さんです。<中津 宝来軒本店>手造り生ラーメン 創業は昭和33年。当時中津で唯一のラーメン屋さんだったとか。先代がお店を切り盛りしていた開業後の10年間、ご主人は、大分、福岡、久留米、で和食と洋食の修行をしたそうで、この料理修行が「中津 宝来軒」さんのラーメンに活かされているとか。 ラーメンにゃウルサイ九州エリアでも一目置かれる肝心のラーメンの方ですが、ご主人曰く「ラーメンの決め手は、麺とスープ、これに尽きます」!! 麺は超極細麺。40年間麺を打ち続けているベテランの職人さんがおり、究極の麺を求めて日々苦心されているとか。気温、湿度への配慮は並々ならぬ細心さ。特に冬場はボロボロと麺が切れるので水気のバランスが難しいとか。かと言って水を加えるとコシがなくなる。一番細く打って、なおかつコシを出そうという至難の業にあえて挑んでいるのですから、その道40年の職人が苦労するのもムリないですね。 スープの方は、巨大な五右衛門鍋を使い、1釜で300食分を一気に取る豪快さ。これは創業当時からの方法で、これまたご主人曰く「スープはお客様が食べに来てくださる時間によって濃い薄いに差が出てしまうので、一定した濃さのスープを作るために、大きな釜で、大量にスープを取るのです」とのこと。ご主人のスープへのだわりもまた凄まじく、「一回で300食分スープを取るので気の緩みは許されません。特に豚骨は傷みやすく、匂いが生じやすいので、“味が違うなぁ”、と思ったらそのスープは処分してその日は閉店にすることだってあります」というストイックさ。 お味の方ですが、豚骨ベースの濃厚で複雑なコクのあるスープが、コシのある超極細麺に絡み付き、しっかりとした味わい。とかくしつこくなりがちな豚骨スープも、ご主人の徹底したこだわりに洗練されて、むしろさっぱりとまろやかな口当たり。風味豊かなスープの滋味が細麺とともに運ばれ、舌の上でほぐれて“ふぅわり”と広がる瞬間は、まさに至高の絶品のみが垣間見せてくれる桃源郷のごとし。 しかし何よりも感服したのは、これだけおいしいラーメンを作り、日本全国にファンを持ちながら、いまだに工場を使用せず、お店で出す分は勿論、全国発送する分もすべて自分のお店で作っているということ。その膨大な作業に費やされる、ご主人以下スタッフの皆さんの情熱とエネルギーにはまさに超ド級。 中津に宝来軒あり!!その謳い文句にふさわしいお店でした。 写真は、帰りしな立ち寄った杵築駅のホームにあった、ちょっぴりトホホでかわいいベンチ。柑橘の街、杵築ならではのオレンジレンジならぬ「オレンジベンチ」。思わず携帯カメラで撮影。(了)
2005/03/18
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見出し:静かなる宮廷画家を訪ねる。ノルベルト ヴォルフ(著)、Norbert Wolf(原著)『ディエゴ・ベラスケス』(タッシェンジャパン) ベラスケスの作品は、圧倒的に静かである。それは、彼の、ルネッサンス時の狂い咲きのようにして生まれた巨人達の生涯とは一線を画す、居士のごとき静かな生涯に由来しているのかも知れない。本書では、時に、観る者に、その静謐な雰囲気を壊すことを躊躇わせるがごとき作品をそっと眺め、ベラスケスの、地味ながら頑固なまでの芸術家魂に触れることができるだろう。(了)
2005/03/18
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私の学生時代の部活の友人には、なぜか同じような業界に進んだ友人が多いのですが、その周辺で細々と(しかし意外に長く!!)続いているBBSがありまして、そこでちょっと前に話題になったのが、「テレビの画面の比率は何故4:3なの?」という某デザイナー氏のコメント。 それぞれ「はて?」と考えたのですが、結果的には真面目に調べた人の答えがやっぱり信用できる訳で。 で、その答えとは、 「画面の縦横比はアスペクト比(Aspect Ratio)とも呼ばれる。この縦横比が3:4に選定された理由は、映画の標準縦横比に合わせたためである。これは初期の白黒テレビ放送に白黒映画が多かったことからうなずける。」(参照は→http://www.linkclub.or.jp/~cmaru/tv/) とのこと。普段何気なく、当たり前と思って接したり、あるいは見逃していることの中にも、しかるべき理由があるのだと痛感した次第。(了)
2005/03/18
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見出し:香水を哲学する。エドモン ルドニツカ (著)、曽田 幸雄 (訳)『香りの創造』(白水社) 今や、フレグランスは、若い男女にとっては、当たり前のファッションとして日常生活になじんでいる。これは、数年前では考えられなかったことであるが、もともと香を焚いていた日本人が、現代にあって、ふたたび香りへの関心を取り戻したことは良い傾向ではないか。しかし、一歩踏み込んで香水を日用品ではなく、文化として考えるようになれば、これは本物である。その入り口の一つとして、本書は位置づけられよう。いささか感覚的な表現に偏り、著者自身が批判しているスノッブに自ら陥っている感は否めないのは残念だが。(了)
2005/03/17
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見出し:世界に誇る昭明芸術家石井幹子の世界観を読む 。石井 幹子 (著)『環境照明のデザイン』鹿島出版会 世界に誇る昭明デザイナー石井幹子の思想を読み解く手がかりになるであろう。氏の希有なのは、単に芸術家であるだけでなく、技術や都市環境、景観、エネルギー、など多岐にわたるファクターに、自然との共存などの思想を持ち込み、デザインという作品にまとめ上げる、合理的なセンスを持ち合わせている点があげられる。内容が非常に専門的なので、石井氏の作品をまず観てから手に取った方が、本書の理解度は深まるだろう。(了)
2005/03/17
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見出し:万能人かくあるべし。天衣無縫の痛快自叙伝。ジェローラモ・カルダーノ(著)その他『カルダーノ自伝―ルネサンス万能人の生涯』平凡社 自叙伝が、こんなに痛快だとは。ルネサンス後期。華やかだった時代は過ぎ、少しずつ終息へ向かう絢爛の時代にあって、自らを最後の万能人にして、ルネサンス最盛期の申し子とみなすカルダーノ、その筆の勢いはとどまるところなく、一貫して諧謔精神と批判精神、そして誇大した自尊心を、巧みな表現で赤裸々に紡ぎ出す。万能人、かくあるべし。この腹の据わった男の自伝は、読むものを彼の世界に引きずり込む。 (了)
2005/03/17
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見出し:すべての冒険活劇の原点。ラファエル・サバチーニ (著)、大久保 康雄 (翻訳) 『スカラムーシュ 』(東京創元社) 冒険小説にはもう、ドン・ディエゴ(マッカレーの“怪傑ゾロ”)、シラノ・ド・ベルジュラック、そして我らがアンドレ・ルイ・モローの3人がいれば十分だ。大きく3つに分かれたストーリーの展開する様は、まさしく舞台劇をみるかのよう。皮肉で狡猾、だけど胸には正義が宿る、スカラムーシュが、奇想天外な冒険劇にご案内。 息をつかせぬスピード感ある語り口は、読み終わるのが惜しいほど。どこまで食えぬ男、アンドレ・ルイ!!結末を読めば、現代のあらゆる冒険活劇の原点であることを確認できるはず。私は、二回読んだ。ラストを知って遡りながら読むと、あらゆる伏線に格別の味わいがよみがえる!!(了)
2005/03/16
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見出し:本棚を彩る、“知的な”インテリア。斎藤 哲也 (編集) 『使える新書―教養インストール編』(WAVE出版) いつの時代にもこのようなコンセプトの本は存在する。したがって、目新しさはまったくない。“知的な”気分に浸りたい人の本棚を、ワンシーズン彩るインテリアには最高だ(ブックカバーは、なかなかに華やかだ)。そもそも、“教養インストール”と謳っても、これは無茶な話だ。仮に、いかに本書がすぐれたOSでも、インストール先のハードのレベルの高低もある。ともあれ、“最速ハード”なら、この程度の知識はすでにインストール済みであろう。 新書の紹介点数が多いので、時代性を俯瞰するには思った以上に役立つかも知れないが、知的武装を目論んで手にする本ではない。使い方/読み方次第であろう。(了)使える新書 教養インストール編 ( 著者: 斎藤哲也 | 出版社: WAVE出版 )
2005/03/16
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見出し:切り口の斬新さと、著者の素直な奇知をお供にイタリア紀行沢田 祐介 (著)『面白医話 (2)』(荘道社) その文章の巧拙はともかく、まず全体に流れる著者自信の興味関心の幅の広さに好感を覚える。医療文化の紹介を中心にしたイタリア紀行文、というテーマの設定の妙もさることながら、その周辺の著者自身の知識が散見することで、医療文化そのものもまた、様々な学問や文化領域に刺激されながら発展を遂げてきたことが浮き彫りにされて興味深い。(了)
2005/03/16
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見出し:禁じられれば読みたくなるのが人間の性(さが)米澤 嘉博 (編)『発禁本 明治・大正・昭和・平成 -別冊太陽-』(平凡社) 発禁本。なんとも魅惑的な響きである。そもそも内容が刺激的であるから禁じたのか、それとも禁じられたからこそ、人々の心を刺激するのか。その答えは、本書を手にしてみれば自ずと解るのではなかろうか。全体に編集が荒く、散漫な点もあるが、それには目をつむって、むしろ禁じられた世界に目を見開いてみようではないか。(了)
2005/03/15
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見出し: 読める、使える、学べる。ディスクガイドの金字塔出田圭(編)『R&B/HIP HOP DISC GUIDE』(ブルースインターアクションズ ) 90年代は、ブラックミュージック(以下BM)にとって、激動の時代であった。新しい音、懐古趣味、個性的なシンガー、大型プロデューサー時代の到来・・・。人種的アイデンティティの一側面としてのBMはまた、 90年代にも、社会に対してさまざまな異議申し立てをしてきた。同時にブラックミュージックのマーケットの拡大とビジネス形態の変容もあった。本書はBM激動の90年代を、子細に渡る「点」で網羅、点描し、壮大なタピストリーを成している。この先、これほどのディスクガイドはそうは出ないだろう。 (了)
2005/03/15
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週の真ん中での出張取材は結構堪えます。でも、明日、行ってきます。大分は中津へ。白地図、塗るために(いや、失礼、仕事でしたね)。 大分は実は初めてだったりするのですが、前情報ですと、かなり“ラーメンが熱い”エリアみたいですね。ラーメン九州一決定!!みたいなバトルがネット上で繰り広げられていることを知りました。で、その上位(もちろん、選考基準やデータの分母も未知数なので、信頼性は分かりませんが)に食い込んでいるのが、大分中津の宝来軒というお店。<中津 宝来軒本店>手造り生ラーメン約15店舗を展開しているそうで、ラーメンバトルの天王山たる福岡にも出店しているとか。 それでいてそこまで支持を集めているのなら、やはり足を運ばなくてはなりませんね。一般に思われているほど、出張取材って、地元の名物を食べられなかったりするんです(グルメ取材ならまた別でしょうけれど)。ですが、明日は、この人気店で、中津が誇る“お宝ラーメン”を堪能して参ります!!(了)関連ページはhttp://www.walkerplus.com/kyushu/gourmet/contents/kyr012.html
2005/03/15
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残念ついでに、もうひとつ。今週末に予定していた上海訪問ができなくなってしまいました。諸々スケジュールがキツくて、ギリギリまでチケット予約を粘っていたら、案の定空席なし、敢えなく断念しました。 上海は新天地で、知人の画家が展覧会を開きまして、そこで画伯の作品の説明文に私の評論が使用される由、ぜひ来て欲しいと本人よりオファーを受けていたのですが、結果的には見事なまでに現実に押し流されてしまいました。 個人的には、現状とらわれている閉塞的状況の打開のためにも、気分転換に飛び出したかった(だって新天地、ですよ!!音的にも、こんな時にこそ行かねば、って思いますよね)です。 さて、じゃ、次は何を契機にムードを変えてやろうかな???(了)
2005/03/14
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仰々しいタイトルですけど、何のことはない、泣き言をひとつ。今日、またまたMacが壊れました。Macとの付き合いは、かれこれ15年近くなりますが、その“気分屋”には、時代ごとに悩まされてきました。一体型のLC575(覚えてらっしゃる方、いますか?)、PowerMac7500、PowerBook G3、iMac、iBook G4、と、マックユーザーとしてすでに5台目に突入していますが、Macのフリーズ→修復→フリーズ→再インストール→再インストール完遂直前にフリーズ→結果的に再インストールもされずにデータだけ消去される というお決まりの図式が、私に染み付いているようです。“Mac負けの方程式”ですね。 この破壊と修復の相克の中で、勿論、自分でデータ修復をする作業は身につきましたが、結構面倒な作業なのです。で、昨日の日記でもテンパっていたように、原稿締め切りに追われ、そのデータが不調のPCに残っていたままだったりすると、ユーザーの方がフリーズしてしまいます。 まさに、今回そうなったワケでして。過去の経験から、データはバックアップを取っているので、作業上問題はなかったのですが、ただいま、サブマシンの方から日記を書きつつ、データの復旧作業にいそしんでいる次第であります。 かように、テクノロジー万能主義は幻想であって、それに従僕して主客が転倒するようではイカンのだな、と痛感。インターネットもパソコンも、ツールではあるけど、それを使うのはあくまで人間だ!!と声高に謳いたい・・・と強がりも言えないほど凹んでます。私の無事を、私が祈る!!(了)
2005/03/14
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と、日記を書いて現実逃避(?)していますが、現在、明日入稿の原稿をまとめております。先週の木曜日に話を受けたものの、原稿提出までの期間があまりに短く、今回はさすがにテンションが下がっていますね。。。 最近の紙媒体の進行は、印刷技術やスピードが著しく向上したためか、非常にタイトなものが多いです。でも実際、デザインや印刷、製版のテクノロジーが進化したといっても、それぞれをオペレートするのは人間ですし、原稿もまた、最新技術だけで補えない何か-つまり書き手の思想、文体、事象の分析能力や分析方法、キャラクターなど-がそこに介在するからこそ、クリエイティヴな意味において価値がある訳で、納期死守主義のみにシフトすると、かえって良くないのになぁ、なんて思う今日この頃です。 いけない、ボヤいてる場合じゃない。さ、原稿をまとめなくては~っ!!(了)
2005/03/13
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鹿児島から3年ぶりに上京した友人が、また故郷に戻って行きました。日記に書き込んだ通り、昔足を運んだ喫茶店をベースキャンプにしながら、空白の3年間についての報告、さらには、薄れかかるそれ以前の記憶の復旧作業に明け暮れました。 大抵の友人とは、久しぶりに再会しても、近況報告と昔話で盛り上がって終わってしまうのですが、この鹿児島の友人だけは、ちょっと違います。 確かに近況報告と昔話がメインなのですが、この友人、変わりそうになる私を、当時のまっすぐな私自身に引き戻しそうとしてくれるのです。 そこから先は私の努力次第なのですが、とにかく、押し付けでもなく、無理強いでもなく、自然に、自分の純粋な部分と向き合わせてくれる、そういう友人なのです。 十年以上も昔、まだ大学に入ったばかりの頃、理想主義やストイックな硬派さを掲げ、色んな形の“いじめ”に断固立ち向かえる、そういう大人になりたい!!なんて、真顔で言っていた私でありますが、この友人は、そんな私の言葉のひとつひとつを皆覚えていて、「なぁ、お前こんなこと言ってたの、覚えてるか」と切り出しては、文面にしたら軽く200字くらいにでもなろうかという十数年前の私の言葉を、一字一句違わずにそらんじてみせるのです(ある意味でコワイですけどね)。 今回の再会でも、目の前にいくつの「昔の私の言葉」を並べてみせてくれた事か。そうして私は今の自分と比べて、当時の自分の言葉に偽りがある(物書きなのに!!)ところ、ないところ、ニュアンスの変わったところ、変えたところ、などを自分なりに吟味して、軌道修正しながら「また少しずつ前進するか・・・」、と思えるのです。 この友人とも、しばらくはまた会えないのですが、次の再会までの私に“一本の軸”を残して帰郷して行ったことは間違いありません。(了)
2005/03/13
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どういうことか、これまで私は横浜という町とは縁が薄かった。振り返って、あえて横浜を訪れた回数は、実に五本の指に満たない。ここ数年の間に、その横浜がドラマティックな変化を重ねていたことも、あくまでニュースの向こう側の出来事であった。 取材で、久しぶりに横浜の地に足を踏み入れて甦ったのは、具体的ないくつかの記憶の断片ではなく、間接的な、しかし何やら除きがたい感情であった。 大学生だった頃、私は当時実家のあった××から、実に往復7時間もかけて神奈川県にある校舎に通っていたのであるが、その7時間が6時間に“縮まる”ルートとして、途中から利用したのがここ横浜と海老名市を結ぶ相鉄線であった。 あの頃はとにかく学業にも部活にもがむしゃらで、睡眠も惜しんだし、7時間の通学も苦でなかった。それを若さといえば野暮になる。そこにあった衝動は、若さとも少し違う、もっと無垢で純粋なものであったような気がする。情熱や勢いに任せた活力ではなく、視野狭窄的でありながらもひたむきな青さ、と言えるような・・・。その後、大学の校舎が県外から都内に移ってからは、年々横浜とは縁が薄れていった。 2004年1月31日をもって、東急東横線の桜木町駅と高島町駅が、その歴史に幕を下ろした。特に、様々なドラマを生んできた“日本のソーホー”とでも呼べそうな桜木町駅では、大々的な「さよならイベント」が行われたようだ。自身の想い出の数々と重ね合わせて、その別れに号泣する人もいたという。横浜駅で連絡する東横線とみなとみらい線が、渋谷から中華街までをつなげ、東京の都心からのアクセスは大幅に便利になった。 時折見せる私自身の、無理に感情を覆い隠すかのようなドライさには、いつもながら自分で退屈を覚えるが、桜木町の終焉も、それに捧げられたノスタルジックな涙も共有できない私が横浜を訪れて、醒めながらもチクリと感じた一刺しの喪失感、それはあの青さ‐今や取り戻すこともかなわぬ、痛々しいまでの、しかし完全な透明感‐との別れであった。なるほど、私の心もツールとしては便利に進化しただろうが、その道程では何かを切り捨て、何かと別れてきたのであろう。 横浜の黄昏に、自身のイノセンスとの惜別を重ねてしばし、この縁遠かった町に急な親しさが込み上げた。 余談だが、リアルタイム世代でない私もよく混同するのだが、青江三奈の“ブルース”は『伊勢崎町ブルース』で、『桜木町ブルース』は美川憲一である。(了)
2005/03/13
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いよいよ個人情報保護法が4月より完全施行されますが、良く考えてみると、このことによってとても不思議で現代的な社会の実像が垣間見えるような気がします。 そもそも個人情報保護法は、情報化社会への急激な移行に伴って、その情報管理の重要性と、それが漏洩したり悪意の二次利用をされる危険性の重大性についての対策として検討されて来た法律ですが、これはまさに情報化社会ゆえの、きわめて特有な法律と言えるのではないでしょうか? 情報化社会では、個人がよりセル化していきます。人間存在の周囲に、衛星のように付帯する“情報”のみが、情報化社会でその個人を特定する手がかりとなりますが、これは同時に、情報化社会の内部(ネットの世界もそうですが)においては、逆にこの情報やデータこそが、その“個人そのもの”に取って代わる、という逆転現象が考えられると思います。アイデンティティが、人間存在を凌駕するわけです。 また、情報化社会で利便性を享受し、快適に生活しようとして個人の情報やデータを(匿名のつもりで!!)提供することによって、今度はこれらの豊富な情報によって、人間存在、つまり主体としての本当の個人が、かえって明確に浮き彫りになり、いつしか本人そのものが意図せざるに関わらず、情報化社会のまっただ中で、赤裸々なまでに露見する、という状況が起こりえます。 先ほども匿名感覚で、と書きましたが、実に、パソコンのモニタ、ATMの画面、タッチパネル、アンケートや署名など、一見無機質で、こちらが誰かなど相手に分かりもしないような、そんな気にさせる媒介物を通じて、私たちは知らずにあちこちに自分の情報をばらまいているのです。そして、その情報を、誰かが守らねば、いけない。それが個人情報保護法なのですね。 個人を伏せたまま便利に暮らせる情報化社会は、誰かが自分の個人情報にアクセスするチャンネルを増やしている社会でもあります。利便性は日進月歩で向上していますが、同時に個人のアイデンティティたる情報がデータ化されることで、その本質的価値が軽薄化していることも事実です。テクノロジーの発達と伴走しながら、人間存在の希薄化を助長しない社会へ向けて施行される個人情報保護法が、実社会でどのような「見張り番」ぶりを発揮してくれるのか、まずは静観したいものです。(了)【送料無料商品】個人情報保護法対策30の鉄則 顧客情報漏洩で会社を潰さないために
2005/03/12
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“てるりん”こと照屋林助さんが先日(3月10日)死去されました。照屋林助氏は漫談家で、それこそ戦後の沖縄大衆芸能の生ける伝説でした。彼の人気を不動にしたラジオの歌謡番組「ワタブーショー」は、これまた沖縄エンタテイメント史に消せない足跡を残した金字塔でした。 沖縄で生活していた頃、私は仕事のない週末には、沖縄市のFM局でアシスタントをしたり、時々番組でしゃべったりしていたのですが、そのラジオ局に車で向かう途中、いつも“てるりん”の家の前を通ったもので、当時のことをとても懐かしく思い出します。 ちなみに、お察しの通り、照屋林助氏は沖縄ポップスの「りんけんバンド」のリーダー、照屋林賢氏のお父さんです。魂はジェネレーションを超えて、次代へと継承されて行くのでしょう。(了)
2005/03/12
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人間は、誰しも、心から溢れ出る歓喜の笑みに癒しを発見するだろう。あの、グロテスクな近代主義を生んだ「西洋」というサラマンダーですら、半跏思惟像の貌(かお)に“太古の笑み=アルカイック・スマイル”を確認したのだから。 私は、とりわけ子供達の笑顔に癒しと、限り無く明るい未来の計画を見る。子供の笑顔は、まこと、天使の笑顔であり、人間の歓びの至高の有り様である。 私は、子供の笑顔に癒される。 今、子供が、少年が、若者が危ないと云う。互いが傷つけ合っている。それを、社会、教育、政治、風俗、ひいては親の責任とするのは簡単だ。しかし如何なものか?子供とて人間であり、ゆえに自然(じねん)残酷でもある。哀しいことだが、愛と同時に、憎しみもまた人間の業である。 子供らの笑顔を奪ったものを追及することも良いが、それよりも、彼等の笑顔を守ってあげる術に目を向けることが大切だ。それが大人の使命であり、そして、我々が守る子供達の笑顔によって、我々自身が癒されると云う有機的かつ、愛を礎にした循環が生まれるものと、私は信じる。(了)
2005/03/11
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先日ココの日記でも書きましたが、赤坂で、あるポータブル語学学習メディアのお披露目パーティに出席しました。この製品、その名も『GOGAKU 』(ストレートだなぁ)!! どんなモノかと言えば、今流行のポータブル語学学習メディアの新機種で、豊富な学習ソフト、使いやすいインターフェース、学生にも手が届くリーズナブルな価格、そして何よりも、瞬時に文章の頭に戻って3速対比リスニングできるVITSS方式((Virtual Independent Tracks/Segment Synchronizingの略。特許第2581700号)を採用しているのが特徴です。 通常のプレーヤでは、媒体に音を記録する時1本のトラックに録音しますが、VIT/SS方式ではABCD4本のトラックに録音します。つまり再生速度のパターンも4種になる、ということです。さらに、それぞれのトラックが、言語的に必然性ある箇所で一個~数個にセグメント(分割。つまり息継ぎみたいなものでしょうか)されており、聞き逃した箇所や再度ヒアリングしたい箇所にすぐに戻れるばかりか、各トラックを組み合わせることで、「Aボタンでナチュラルスピードを聞きながら、Bボタンを押して、今度は文章の頭に戻ってスロー再生。Dボタンを押すて、瞬時に文章の頭に戻りハイスピード再生。最後はCボタンで日本語訳~」なんて聞き方ができるようなのです。VITSS方式の採用により、レスポンスが他社の製品よりもはるかに速いので、再生スピードの切り変え時のズレ/音飛びやタイムラグがないのも、語学学習においてはメリットかもしれません。 ABCDボタンの切りかえ順序を、自分の学習スタイルに合わせて自由に設定し、自動的に連続再生するマイモード機能などは、まさに学習方法のカスタマイズ。こうした自由度の高い機能は、中学校・高校ではもちろん、自由な時間が限られている社会人にもニーズがあるでしょうね。 監修/吹き込みは『スヌーピーが先生!英語を話そう』(朝日新聞社)などの著書でも知られる早稲田大学文学部教授のジェームス・M・バーダマン教授。コピー周りは、「ちゃん、りん、しゃん」(懐かしぃ~!!)の名コピーでおなじみの竹内基臣氏。しかし何にも優先して、このシステムの開発に人生そのものを捧げ、システム開発に到ってからも特許取得まで8年以上も耐え忍んだ技術者/発明家/開発者の情熱にこそ、まずは賛辞を送りたいものです。こうした方々は決して表舞台には出ませんが、その夢へのこだわりや自分を信じる強さは、きっと言葉やポーズで主張しなくとも、その製品が時に控えめに、時に饒舌に、彼らのメッセージを代弁してくれるのかもしれませんね。 なお『GOGAKU』は、本年7月の本格販売に先がけて、まずは4月に限定10,000台を先行発売するようです。詳しくは下記ページを参照ください。3圧27日の朝日新聞全国版にも広告が出るみたいですよ。http://www.gogaku.co.jp/*写真は、パーティ会場に飾ってあった広告ボードです。。。(了)
2005/03/11
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今日、実に3年以上ぶりに、学生時代の友人と再会します。彼は、大学を卒業してしばらくは東京で仕事をしていましたが、長く暮らした故郷を離れることができず、6年ほど前に、生まれ育った鹿児島に戻りました。その友人も、鹿児島に戻ってからはなかなか上京する機会に恵まれず、その後は、私が鹿児島取材に赴いた際に、飛行場で待ち合わせてコーヒーを飲んだ時に再会したのが最後だったかもしれません。 思えばその友人とは、学生時代にはいつも喫茶店に行き、コーヒーを飲み合った中でした。私もブラジル育ちなので、幼少時からコーヒーが大好き、彼も実家が喫茶店を営んでおり、やはりコーヒー大好き。二人で、それぞれに雰囲気のいい喫茶店や、コーヒーのおいしいお店を探して来ては、互いに連れて行き合っていたのを思い出します。 今回の短い滞在期間の間に、コーヒーでも飲みながら、まずは近況報告としゃれ込みますか。(了)
2005/03/11
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前足に腕輪をつけ、耳に金色の耳輪をはめた老ワニのペテサコスはクロコディロポリス神殿にほど近い聖なる潮に棲んでいた。エジプト中東部、ファイユム地方の人びとはエジプト神話の神セベクの化身であるこのワニを信仰して、ワニ神の凶暴な怒りを鎮めるためにお菓子や蜜でつくった酒を捧げた。ワニは大蛇や竜と同じく知の象徴とされ、信者にとっては全知の象徴であった、神の化身であるワニは、透明な膜でおおわれた目ですべてを見とおすが、自分自身を見ることはできなかった。ワニの歯は凶暴で一年の日数と同じ数があるというが、アピスの神聖な七日間はだれをも傷つけなかった。プルタークによれば、ワニは「舌のない唯一の動物であり、神の御言葉のように言葉を必要とせず」カと美徳によってのみ雄弁に物語るゆえに、エジプトの人間の崇拝を受けたのである。プラトンやグノーシス派による創造主デミウルゴスが、世界を創造するために浮かび出てきたように、大地と水のあいだのどこかに棲み、ぬかるんだ河岸を産卵のためによじ登ってくるワニは物事の始まりと多産のカを象徴するのである。またタロットの二十一枚目のカードのように、時として、ワニは「物質的な生活」の固い陸地から、霊的な体験の「神秘の深み」に没入することを表わすとされる。ペテサコスすなわちワニは、その後何世紀にもわたって原住民の畏敬を受け、報復以外の目的で殺されることはなかったが、食物を捧げ、崇拝する者もいなかった。ところが、今日アフリカ中央部のヴィクトリア潮の湖岸にルテンビと呼ばれる老ワニが棲んでおり、世々代々毎朝毎夕、ルテンビは漁師の呼び声にこたえて、人びとの手から供物を受けとるという。 ジェイナ・ガライ著「シンボル・イメージ小事典」(現代教養文庫)本文より抜粋
2005/03/10
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好きなCDジャケット、もう沢山ありますけど、ここ数年でいまだに王座に君臨しているのは、マクスウェルの『アーバン・ハング・スイート』でしょう。CDはケースの形状の特性上、インパクトはやや落ちますが、私は思わずアナログも買ってしまったほどです。 表ジャケは、もう超甘々な、ブルーを基調としたムードあるデザイン。女性とのひとときを連想させる(このアルバムのコンセプトがそういう類ですから)実にアーバンでオトナな仕様。で裏は???そう、リリース当時、R&B好きの話題をさらった爆発ヘアー&顔面、一面にデカデカ。これ、CDじゃなくて、アナログで部屋なんかに飾っておくと、かなりご利益がありそうですよぉ。 ちなみに、実際のマクスウェル氏本人は、オシャレで、ハンサムさんです(他のメディアでの露出を見る限り)。ま、ポール・スミスが逆指名したとかしないとか、ってなルックス&スタイルですから。 アルバムの中身は、というと、これ、すごくイイです。当時私も雑誌などでプッシュしまくってました。いまでも聴いてますもん。コケてしまった3rd以降、音沙汰がないのが心配です。(了)
2005/03/10
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唐突ですが、できません、禁煙。何を失うってワケでもないのに、できないのです。あ、むしろ喫煙で失ってるものの方が多いのでしょうね。 ただ、喫煙NGではないのです。だって自由があるから。もちろん、マナー遵守は必須です。 私は、なんだか自分の喫煙習慣がイヤになったので禁煙したいな、と思ったのです。昔は、「勉強や仕事の合間に喫煙」、という具合に嗜んでいたのが、今じゃ「喫煙の合間に人生やってる」ってな具合に感じられて、嫌気がさして来てしまって。 と思いきや、そこまで嫌っていながら、まったくやめられない現実に愕然としました。昨晩も、楽天内で、禁煙についての日記を拝見していましたが、皆さん、それぞれ工夫されていますね。 そこでテーマ投稿したワケです。禁煙には何が必要なのか?気分の切り替え?禁煙仲間?気合い?禁煙補助グッズ?環境?それとも禁欲主義? アドバイス、お寄せくださいね。
2005/03/10
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今日は、あるポータブル語学学習メディアのプレスリリースがありまして、第三者的にですがこの商品に関わっていた関係で、赤坂某所で催されたお披露目パーティに出席しました。 その後、集団を離れ、恩人一名だけ伴って、久しぶりにふらっと、赤坂で一杯飲りました。私は日頃を酒は飲みませんし、晩酌もしないクチですが、年に数回、じっくり(?)朝まで飲むタイプなのです。 もっとも今日は軽~く、でしたが、たまのお酒も悪くないですね。 今日のパーティの中身は?お酒にまつわる話は?その辺は、酔いが醒めた別の日に、また日記に書きますね。(了)
2005/03/09
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『iPod、何曲入れておくのが現実的?』なんてテーマ投稿しましたが、、このテーマに沿ってコメントしておきますと、私は最大5000かなぁ。昔もっと容量の小さいiPodを使っていましたが、やっぱり1000曲ではすぐ一杯になってしまいます。今は5000曲マックスのものも使っていますが、このiPod、現在3000曲前後は言っています。結構詰まってる感、はありますが、それでもまだ2000曲入る!! 実際、現状でも、曲を探すのが面倒になっています(プレイリストを沢山作って、検索性を高めざるを得ないのですが)から、これにあと2000曲加えたことを想定すると・・・う~ん、結構微妙ですね。 逆に10000曲キャパの機種を買うくらいなら、5000曲キャパを二個買う。贅沢ですけど、音楽が命!!って方は結構います(私も仕事柄、音源が増えて仕方がないのです。 iPodなら省スペースにもなりますし)ので、そういう方は、ジャンルやテーマを分けて、ダブル使い、なんて裏技もあるのでは? あ、勿論、iPOD対応のPCそのものが複数必要になりますけどね。って、かえってスペース食いますね~。(了)
2005/03/09
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今日たまたま、仕事で音楽関係の方と打ち合わせていまして、そこで色んな話になったのですが、一番盛り上がったのが、「音楽の切り売りはOKかNGか」、という話。 今から20年近く前に、日本で初めてコンピレーションアルバムが発売されましたが、その後、このジャンルは、定着するどころか、人気ジャンルになりました。店頭で買うコンピレーションのほかにも、カタログやネット、そして深夜枠でのテレビ通販、とレーベルはもとより、レコード会社の垣根を越えてコンパイルされるこれらコンピレーションなるジャンルには、特定のコンセプトがありますよね。コンピレーションアルバムをつくるクリエイターは、それこそ、リズム、ジャンル、アーティストの性別、歌詞まで吟味し、コンセプトに沿った展開をを考えて作るのだそうです。『NOW』。『WOMAN』『LOVE RING』など、各社さん、色んな銘柄のコンピレーション出してますよね。 ところが、ユーザーは、「あ、このアルバム、聴きたい曲や、最近CMで流れた曲が3曲も入ってる」なんて言って買って行き、実に、その2、2曲だけをMDやiPod に落として、後の曲は「あ、一回も聴いてない」なんて案配。 いや、それが悪いのではないのです。要するに、「着うた」にしろ、一曲ごとの全曲ダウンロードサービス、ネットでのオンラインストアがどんどん市場拡大し、ユーザーは、「アーティスト、アルバム、ジャンル」、ではなく、まさに「その曲!!」とばかりに、曲指名制状態、という傾向にあるということを私は言いたいのです。 それが何を意味するかって?そう、15年前以上に日本に登場したコンピレーション・アルバムが、作り手の考えたコンセプトによってより抜きされた「作り手によるカスタマイズ・アルバム」であったとするならば、このジャンルがユーザーに教えてしまったことは、つまり、今や「ユーザーがより抜きして、自分だけの来んピレーションを作れるまでになった」ということ、その逆転現象の因果に思い到ったのです。 私もiPodユーザーで、まさに自分だけのプレイリストを満喫していますが、こうしたメディアとそのフル活用こそが、ユーザーの音楽へのアクセシビリティを高めると同時に、もしかしたら、作り手のメッセージに耳を塞いでいる、ある種傲慢なまでのユーザーの成長を促進しているのかもしれません。(了)
2005/03/09
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<カスペ!>『ニッポン列島緊急特番 ザふるさとランキング47都道府県スペシャル』、観ました。テーマごとに、日本全国でランキング付けし、地方性や各都道府県の個性、特色を紹介するという発想は、とても定番的ですが、切り口に工夫があれば結構面白いもので、従って、「またこのテーマか」と思いながら、最後は結構楽しめてる自分を発見するのです。 番組冒頭、「貯金をしない県」ランキングで、上位になったのが兵庫県。深読みするつもりはないのですが、あの阪神淡路大震災で、積み上げた物質的な富や豊かさが目の前で崩壊し、その瞬間にそれらのすべてが意味を持たなくなる、という経験をされたことも一因なのかな、なんて思いました。 阪神淡路大震災の被害に遭った友人もいましたし、昨年の新潟中越地震の後の小千谷市にも足を運びました。こうした被害に遭った方々に、問わず語りにお話をうかがうと、皆一様に「形あるものの儚さ」、そして逆に「形のないもの(例えば、運命、縁、人の優しさや残酷さ)の“力”」を痛感したと話されます。 掌中の珠は、失うのがいかにも惜しい。しかしその珠が、日々の生活で重荷になることもあるわけで、結局獲得という営為は、人間のライフスタイルを煩雑で面倒なものにしているのかも知れないなぁ、と思ったりもしました。 天災という運命によって、故なく泥中に珠を叩き落とされた人たちは、もしかしたらそのことに意識的/無意識的に気が付いているのかもしれませんね。(了)
2005/03/08
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当HPを訪れて下さる、スロリーマン氏(『サラリーマンスロッター奮闘記』管理者。Bookmarks参照)がBBSで提案してくださったように、北は北海道から南は九州/沖縄まで、これまで赴いた土地について、データベース的に一カ所にまとめておこうかと考えています。 Freepage 内の『バベルの海図』-国内篇-と-海外篇-の中で紹介しようかと考えています。 仕事で訪れた土地、個人的に旅した場所などについてのコメントやエピソード、出会いなどを、読み物として、あるいは記録の意味も込めて、思いつくトコロから、順次公開/アップして行く予定です。時間はかかりそうですが、頑張ります!! ホント、いざ始めようとすると、かなり大変そうな気がしていますが。。。
2005/03/08
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人間が人間に疲れたとき、人間を癒すのが空虚な“空騒ぎ”やせわしい繁華の人群れでないのは当然である。彼は人間に、喧噪に疲れているのだから。彼は大勢の人間の中にいるのに、かえって無性に寂しいのである。もはや人間は、今の彼を慰め得ない。 寂しい時には本を買った。読む読まないに関わらず。机や棚に積まれる黙して語らぬ文字の集まりが、何故か心を穏やかに充たしてくれる。そして、危うく内臓ごと吐き出さんばかりの勢いで、己の中に飼い太らせた寂寥感を喉から叫び出しそうになるのを思いとどまらせてくれる。本が実に好きだという人は、誰しもこんな思いをしたことがあるのではなかろうか。我、ナブ・アヘ・エリバになろうとも悔いはないのである。実際、文字の集積によってしか慰められないという病理は、既に“文字禍”に冒されているのであろうが。(了)
2005/03/08
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オイディプスは、王であるその父親をそれと知らず殺して自らが王となり、先王の妻であり己の母である后を娶り、やがてその真実を知って王位を退き、盲となって放浪する。これはオイディプスもしくはエディプスの「父親殺し」として有名な神話であり、ヨーロッパの思想ならびに、フロイトの思想を根幹とする心理学派の中心的命題の根底に流れる一種の“宿命”である。「神話なき国アメリカに神話を」という構想が、映画『スター・ウォーズ』を製作したジョージ・ルーカスにはあったと言われている。 そもそも、1492年、アメリカ大陸が発見(勿論、「発見」というタームは極めて近代主義的かつ植民地主義的であり、大きな間違いであるのだが)されて以来、この新天地に入植者達が持ち込んだのは、わずかな私財とクリスチャニティ(キリスト教主義)だけであり、神話というものは故国に置き忘れて来てしまった。いうまでもなく、このアメリカと名付けられた国にもともと生活していたファースト・アメリカン/ネイティヴ・アメリカン達は、勿論神話を有していた。しかし、新たにアメリカに渡って来た白人達は、建国と開拓に余念がなく、神話を語る余裕もなければ、それを築き上げる時間もなかったのである。かわりに彼等が神話がわりに愛し、語り継いだのは寓話/おとぎ話の類いであった。例えば、ティム・バートン監督の『スリーピー・ホロウ』の原作となった、ワシントン・アービングの「スケッチ・ブック」などはその好例である。 「スター・ウォーズをアメリカの神話に」。ルーカスの熱い想いは、この映画のカギを握る“フォース(理力)”という、概念および超自然的/神秘的能力に象徴される。この“フォース”というアイディアは、ブラジルの神秘主義者/思想家であるカルロス・カスタネダ(彼の真の姿を知る者はいないと言われている)のインナー・トリップ体験にヒントを得ているといわれる。カスタネダの内面の旅の師であるメキシコのシャーマン(呪術師)、ファン・メイタス(もしくはメイトゥス)の神秘的な能力をカスタネダは“ライフ・フォース”と名付けたが、この“ライフ・フォース”こそ、『スター・ウォーズ』における“フォース”の源流なのである(ちなみに『スター・ウォーズ』の主人公は、当初の予定ではメイス・ウインドゥ-エピソード1に初登場したジェダイ評議会の最高メンバー-を主人公に想定していたといわれ、このメイス・ウインドゥは件のファン・メイタスがモデルとなっていたそうである)。 “フォース”は確かに『スター・ウォーズ』を論じる上での大きなポイントには違いない。この神秘主義的な神話源流のタームは、ルーカスが同映画を“若い国の、新しい神話”にしようとしたという意図を補完するだろう。しかし、『スター・ウォーズ』には、もう一つ、神話学的に重要なシーケンスが織り込まれている。つまり、冒頭に記した「父親殺し」の神話、“オイディプス/エディプス王神話”である。『スター・ウォーズ』旧三部作の二作目『帝国の逆襲』、三作目『ジェダイの復讐』においては、物語の主人公である息子=ルーク・スカイウォーカーと、その父=ダース・ベイダー/アナキン・スカイウォーカーの対決が、映画のハイライトとなっている。息子対父親、という二項対立の図式は、一見かの“オイディプス/エディプス王神話”の引用かと思わせる。若い国家アメリカで、新たな神話を創造しようというルーカスにしては、余りにも安易に過ぎると思われるかも知れない。しかし、この映画の結末で、息子ルークは父親を殺さない。子と父の対決を見せ場としながらこの映画は、「父親殺し」の神話をなぞることをしない。すでに、“オイディプス/エディプス王神話”は語り尽くされ、議論され尽くして、もはや神話としての魔法を失っていたということもあったろうしまた、アメリカという土壌にこの神話は根付かないというルーカスの判断があったかも知れない。しかし、この意外にして個性的な結末に関して真っ先に指摘出来ることは、母親の顔を知らない(という設定の)息子ルークと、その父との間に、エディプス・コンプレックスのロジックは決定的にあてはまらない、ということである。“オイディプス/エディプス王神話”は、母親のフィギュア/存在があってこそ成立する悲劇の神話であるからである。したがって、父に対して去勢コンプレックスを抱くことが出来ない息子ルークの物語に、「父親殺し」の結末を持ち込むことは矛盾であって、あってはならないことであり、また論理的にも不可能なことでもある。代わりにルーカスは、『スター・ウォーズ』の結末には「子と父の和解」を持ち込んだ。映画の終盤、親子の対決の果てに、悪の力に身を委ねたはずの“暗黒卿ダース・ベイダー”は、その“悪”を象徴する漆黒の仮面(これは、同時に彼の生命維持装置でもある)をはずして、自ら死を選択する。ダース・ベイダーの仮面を捨て、素顔の父親=アナキン・スカイウォーカーとして、息子ルークと和解して息を引き取るのだ。 “オイディプス/エディプス王神話”のイメージを臭わせながら、「父親殺し」ではなく、この「子と父の和解」をラストに選んだルーカスの心中はいかなるものであったか、推測の域を出ないが私見に拠れば、これは60年代・70年代のアメリカが、世界における権威失墜、公民権運動やベトナム戦争の泥沼化などという歴史的不条理の中で、カウンター・カルチャーの煽りを受けて若者=息子達が大人=父親に対して“理由なく反抗”した時代を通過した(スター・ウォーズ旧三部作の第一作が公開されたのは1977年であった)という社会的背景を踏まえて、劇中では、息子=若者(ルーク)と父=大人(ダース・ベイダー/アナキン)という、二つの大きく隔たったジェネレーションを和解させたのだという読み方ができるかも知れない。そして、この「子と父の和解」を、ルーカス流の“アメリカの神話のプロローグ”としたのかも知れない。現代においてアメリカ社会の“子と父”が、未来に向けて並進しているとすれば、ルーカス流神話のラスト・シーンは、確かに“神話としての魔法”を有していたということになるだろう。(了)
2005/03/07
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私はほとんどギャンブルはやらないのですが、数年前、悪友に誘われて以来、時々愉しむギャンブルがあります。それはパチンコ。 と言っても、溺れることはないので、ひと月に一回行くか行かないか、程度なのですが。 パチンコの何が面白いか、って?私の場合、それは“台そのもの”、“演出そのもの”だったりします。なので、人気機種、とか「出る」とか言われても、そんなに興味をそそらない訳で、台そのものに愛着がない限りやらないし、逆に愛着ある台なら「出なくても」やる!! パチンコを覚えたのもここ4~5年の事なので、実際に座ったことのある台は数えるほどしかないのですが、挙げてみると・科学忍者隊ガッチャマン・デビルマン・サイボーグ009・バットマン・スパイダーマンとキャラクターものが多いです。懐かしいんですよね。大当たりすると、主題歌なんか流れたりして。 で、最近面白いな、と思ったのがスター・ウォーズ、というマシン。演出も映像もキャラクターも、なかなかファン心をくすぐるのですが、最高に「やられた!!」と感じたのが、このマシン、確率変動(なんて言うのかなぁ、大当たり確定になっている状態。連チャン中ですか?)のステージ名。 確率変動中になると、普通は「確変中」とか、まぁ、いたって普通の表示が画面に出るのですが、スター・ウォーズでは「暗黒ステージ」と表示されます。そう、つまり“ダーク・サイド”ですね。「連続大当たり確定なのに、暗黒かよ!!」と突っ込みながらプレイ続行するのですが、先月行った際には確かに怒濤の11連続大当たり。 しかし!!やはりダークサイドでした。味をしめて先日行きましたら、見事に暗黒面に引きずり込まれました。えぇ、ボロ負けです。 そりゃ、アナキン君もダースベイダーになるわっ、とばかりにネガティブな勢いでした。(了)
2005/03/07
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