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先週の巡礼団、そして今週の日曜に日本から友達が帰ってきて、色々おみやげをもらったので、ちょっと日本にいる気分でいい感じです。先月、姉からカップヌードルの詰め替え式のをもらったのですが、これがなかなかいい感じです。こっちでもカップヌードルは売っているのですが、高いのと、ちょっと味が違うので、あまり食べていなかったのですが、この詰め替え式はあまりかさばらないので、今度から日本から来る人には、これを頼むことにしましょう!それから、最近、肩こりがひどいのですが、これまた友達がお灸をくれました。まだ怖くてしてないのですけど、今晩やってみましょう。ちょっと机が低いのでしょうか。 日曜日に、ローマ名物の一つの、ポルタ・ポルテーゼに行ってきました。巨大なフリーマーケットみたいなものなのです。昔はもっとごちゃごちゃしていたらしいのですが、今はちゃんと登録式になっているみたいで、お店は全部テントの下に入っていました。もちろん、登録しないで売っている人もいるのですが、時々お巡りさんがきて、追い払っていました。ここは、盗品とかも売買されるみたいですが、今あるお店のほとんどは外国からの輸入品を売っているという感じでした。確かに安いです。壁掛け時計と腰につける小さな時計が欲しかったのですが、壁掛けは6ユーロで、腰につける時計は5ユーロで買えました。値段の交渉が出来るところも面白いですね。もちろん、昔のとおり、骨董品とかも売っているのですが、これが本当に売れるのかと疑うものまで売っていました。 人のよさそうなおじいさんが、錆付いた銀のスプーンのセットを売っていたので、「売れるの?」と聞いたら、「売れたら、ここにないだろ」って言われました。確かにそうです。そこで「売れるかしら(未来形で)」と聞いてみたら、「買う人がいれば、売れるだろう。欲しい人がいるかもしれないし」っていわれました。確かにそうです。結構楽しい時間だったので、そこに売っていた木のお皿を買って帰りました。これは1ユーロでした。 半日、ここで色々見て周ったのですが、本当に色々なものが売っていたので、今度から買い物はここにくることにしましょう。 そうそう、もうすぐ列聖式です。私は何か仕事をするらしいのですが、何をするのかよく分かりません。でも、担当の神父さんが、「ちゃんとひげをそって、黒い靴を履いてくるように」と何度も念を押すので、ひょっとすると、教皇様の近くに座れるのかもしれません。でも、近くだったら写真撮れないだろうなぁ。どっちにしても楽しみですし、今はローマの修道院は、列聖式の準備でちょっとバタバタしている感じですね。 列聖式が終わったら、1ヶ月くらい、またペルージャの修道院に行こうと思います。ローマは暑いし、うるさいので、ちょっと静かにしたいので。それでは、また。
2007.05.29
やっと授業が終わりました。これで、しばらくゆっくりできます。休みの期間には、やりたいことがいっぱいあるので、大変ですが、まずは授業の復習からですね。色々学んだわけですが、まとめておいた方がいいものは、日本語にしておかないと、すぐ忘れてしまいますからね。普通はこれから試験に突入するのですが、私は聴講生で試験がないので、気楽です。いっぱい本も買い込んでいるので、これを読み始めないといけませんね。そういえば、前に今度列聖される会員をアイルランド人と書いた気がしますが、オランダ人みたいですね。アイルランドに宣教師として行っていたらしいです。6月3日に列聖式ですが、担当の神父さんと仲良しなので、結構いい席をもらえそうです。うまく列聖式の写真がとれればいいのですけどね。教皇様の近くに座れたりしないかなぁ。そこまでは、無理でしょうか。午前中は散歩するつもりだったのですが、髪の毛を切りたくて、ブラザーにたのんだら、時間が空いたら電話するといわれたので、待っているのです。お散歩は午後になるけれど、暑いからなぁ。行く気が失せますが、幾つか訪問したい教会もあるので、がんばって昼から行きましょう。まだローマの北のほうの教会には足を伸ばしていませんからね。見てみたい教会があったら、リクエストしてください。ひょっとしたら、写真をとってくるかもしれません。しかし、あまり期待しないように…。
2007.05.25
巡礼団が帰って行きました。友達を案内するのとは違い、人数が多いし、あまりよく知らない人もいて、気も使いましたが、楽しかったです。お土産もいっぱい頂いて、それに帰り際にお醤油とか、おせんべいとかいっぱいもらったので、うれしさいっぱいになっています。 イタリアの食事が本当においしいことを感じてもらえましたし、また全然文化が違うということも感じてもらえたと思います。この二つは食事の時に強く現れてくるのが、イタリアですからね。 イタリアの本部修道院の共同体に、この巡礼団を紹介できなかったのだけが、唯一の心残りです。次回から御受難会の巡礼団が着たら、共同体と一緒に食事をしてもらおうと思います。食事がただ、味のおいしさだけではないということも感じてもらいたいからです。 おそらくローマの街めぐりをするには、最後の週だったでしょう。今日もすごく暑いです。外に出るとそれだけで、疲れてしまいそうになりそうです。少し憂鬱ですが、今週で学校が終わるので、来週から自分の勉強とお休みを十分にとって行きたいと思います。
2007.05.24

今日本から巡礼団が来ていて、ローマを一緒に回っています。ここで何度も書いたところばかりなので、特に書くこともなかったのですが、昨日スカラサンタにいってきました。サンジョバンニ イン ラテラノの横にあって、その階段はピラトの屋敷の階段で巡礼者はその階段を跪いて上っていきます。これは有名だからよく知られていると思います。 この教会には聖所があります。普段は外から眺めるしかできないのですが、昨日はそこに特別に入れてもらいました。祭壇の後の壁はとても美しいです。祭壇の上にある、このモザイクですが、見ながら、ある一定の速度であるくと、このモザイクの目が動くのです。目の錯覚だろうと思いましたが、実際にやってみると確かに動いていました。やはり錯覚なのかしら?とても不思議でした。 実はこの教会には、色々な貴重なものが多くあります。イエス様の釘とかもあるそうですが、これは見られませんでした。ただ、びっくりしたものがありました。 この木片は最後の晩餐のとき、イエス様が座った椅子の一部だそうです。サンタ・マリア・マッジョーレには、イエス様の生まれた馬小屋の飼い葉おけの一部がありますが、それに匹敵するほど大事なものだそうです。確かにそうだと思います。 古い木の小さな破片なのですが、間近で見られて、少し感動しました。これは祭壇に向かって、左側の壁にかけられていますから、窓から見ることもできます。
2007.05.21
今日は聖ジェンマの祝日です。ミサが夕方なのですが、授業に出ると、ミサに出られません…。これはかなり悩むところで、いまだに悩んでいます。大きな祝日だから、ミサに出るべきか、ここは学生であることを優先して、一人でミサをたてるべきか…。 ジェンマはよく神秘家といわれますが、この神秘ということばは、あまり好きではありません。特に人間に使う場合。神様のわざは確かに神秘です。その御旨を理解するのは、本当に難しく、私たちが一生かけて理解していかなければならないことです。一方で、それが人間に使われる時、私がよく分からないという意味で、神秘と使うことが多いように思います。聖人の表現にはよく分からないことがあります。しかし、一人の人間が分かっているのですから、それを一気に神秘ということばに置き換えてしまうと、私たちは、その人が見た神の姿に永遠に到達できないことになってしまうでしょう。実際には、隠されているということなのでしょうけど、それを確かに言語化するのは難しいのでしょうか。隠蔽というと何か悪い感じですしね。でも、聖人が見た神様の姿を、私もいつかは見てみたいと思います。やはりジェンマは聖女というのが正しいのだと思いますが、どうでしょうね。ジェンマについては、あまり勉強していないので、自信が無いのですけど…。 ところで、もうすぐ、私の会員が列聖されます。カルロさんでしたか。6月3日です。どういう人かは、まだ実は読んでいないのですが、食卓での話では、癒しのわざをよく行っていた人だと聞きました。実際には癒しのわざ自体ではなくて、それが福音となったという意味でしょう。聖書の中にも、治してもらったものが、イエスに従ったと書かれています。同時に、治してもらってもイエスに従わなかった人もいる。人間が本当に癒されるというのは、どういうことでしょう。これはとても大きなテーマですが、結局は御旨の理解へとつながっていくのかと思います。神様の愛はとは私たちの歩む人生の次の一歩を踏み出す力でしょう。もう歩きたくないと思う時、もう一歩だけ歩いてみよう。聖書の言葉は、確かにその力を与えてくれるし、聖人のことばや生き方はそれを証しているように思います。聖ジェンマの祝日に、神様の大きな愛を感じたいと思います。
2007.05.16
土曜日に、新司祭が誕生して、今日は学生の共同体の内輪での祝賀会をしました。祝賀会といっても、アイスクリームと小さなケーキ、この前巡礼団からお土産でいただいた水羊羹とウイスキーだけでした。学生の神父は比較的若く、叙階から4,5年くらいの人が多いのです。だから、叙階式、初ミサなどの緊張感はまだ覚えていて、自分はどんな失敗をしたかとか、わいわいと騒いでいました。司教様から受け取ったカリスを落としてしまったとか、福音朗読で、緊張しすぎて、第二朗読を読んでしまったとか、みんなで大笑いしました。でも、ミサに慣れてしまうというのは、これも問題ですからね。初ミサのときのように、彼がいつまでも丁寧に祈って、共同体の祈りをリードしていって欲しいですね。 今週もまた学校が始まります。がんばらなくては。でもあと2週間くらいで授業も終わりです。そろそろ夏休みの計画を本当に立てなくては。それでは、また。
2007.05.15
昨日巡礼団の出迎えに行っている時間に、司祭叙階式がありました。私の隣の部屋に住んでいるイタリア人の助祭が司祭叙階を受けたのです。普通なら、こちらを最優先しますが、日本から会員が来るのを、ほっとく訳にはいきませんから、今日の初ミサに行かせてもらいました。叙階式はとても大切な儀式で、司祭職の受諾という決定的瞬間であり、司祭団も彼を司祭団へ受け入れるという大切な使命がありますからね。一方で初ミサは、その司祭が司祭として確かに奉仕を始めたという時であって、これも大切な時だと思います。テルニという町の教会でしたが、まだ新しい教会ですけど、モザイクが素晴らしかったです。 初ミサは、私も自分のことを思い出しましたけど、もうとにかく必死になるのですね。どれだけ、落ち着こうと思っても、どれだけ練習していっても必ず間違えるわけです。ミサ典書の字を追っているにも関わらず、間違えるのですね。司祭団は大体ミサの祈りとかを暗記しているわけですから、「お、間違った」と分かるわけです。でも、これは大切なことなのだと思います。神学的には彼は、もう一人の立派な司祭です。しかし、同時にまだまだ一人前になるには、程遠い司祭です。これから、数年かけて、色々な奉仕を通して、人との出会いや困難を目の当たりにして、彼は司祭の奉仕職の姿を見ていくのだと思います。司祭を育てていくのは、間違いなく共同体です。それは修道会の共同体であり、キリスト者の集まりの教会でもあります。時間がかかるのですが、彼は優しいし、親切の塊のような人なので、きっと神様の愛を世に伝える奉仕をしてくれると思います。 私もまだまだ養成されている身ですし、司祭職については色々いうことは出来ないのですが、ローマに来て、感じたことは、多くあります。もっと成長しなくてはいけないし、したいと感じます。神様がもっと育ててくれるといいなって思います。
2007.05.13
今日、私の会の神父が団長の巡礼団がやってきました。パウロの最後の日々を歩くそうです。とにかく空港についたのが、夕方7時過ぎで、次の日の朝マルタ島に向けて出発されるそうですから、ちょっと忙しい日程です。さすがに私はまだ授業があるので、同行できませんでしたが、マルタ島は聖書にも出てくる大切なところですから、一度は行ってみたいと思います。本当はローマに置いておく物を受け取るだけのつもりでいったのですが、山のようにおみやげを頂き、夕食も一緒にしたので、ホテルに一泊して戻ってきました。修道院に帰ったら、「あなたが日本から帰ってきたみたいだ」と私の大きな荷物を見て、笑われてしまいした。私のためだけのものでもないんですが、いっぱいいただけるのは、私が日本に戻った時の期待の大きさだと思うので、しっかりと勉強して、信仰を固めて、戻らなければと思いました。巡礼でローマに来られるなら、時間が許す限りご一緒することにしていますが、私の学校が午後からなので、なかなか時間をあわせられないのが、実情なのですね。あと1年くらいしかローマにいませんが、ローマでお会いできる方もいるかもしれませんね。さて、明日は忙しいので。
2007.05.12
久しぶりにバチカン美術館に行ってきました。本当は本屋さんに行くつもりだったのですが、バスを降りたら、美術館への列が短かったので並んでみました。1時間もしないで入れました。並んでいる時に、日本人の若い夫婦に出会って、一緒に観て回りました。ただあまり時間が無いというので、ラファエロとシスティーナを観たのですが、やはりどちらも素晴らしいですね。ローマに来て、並ぶ時間とか少しもったいないと思うかもしれませんが、バチカン美術館にいって、システィーナ礼拝堂とラファエロの聖体の議論の絵は是非ご覧ください。迫力がありますし、何か感じるものがありますから。本とかでも、もちろんいいのでしょうが、本や写真だと、あの巨大さが実感できないのではないかと思います。本当に大きいですよね。そして、迫ってくる感じがすごいです。 お昼を、そのご夫婦と一緒に食べて、修道院に帰ったら熱が出てきました。眩暈がするわするわ。しかし、一晩寝たら少し楽になりました。無理が利かなくなってきたみたい。年かしら…。
2007.05.10

ローマには4大聖堂とか7大聖堂とか、色々あります。4大聖堂の一つにサンタ・マリア・マッジョーレがあります。前にも書いたので、覚えておられる方もあるかと思います。 この教会は、他の3つと違って、ロマネスク様式(というのかしら??)で、とてもやわらかく、優しい感じがする教会です。内部もキンキラキンではないですしね。品がいいというのでしょうか(こう書くと他が品が悪いように聞こえますが、そういう意味ではありません)。 この教会の聖遺物は、キリストが生まれた時の飼い葉おけの破片です。私が行く時はいつも入れなくて、観られないのですが、先日友人と訪問した時、やっと見ることができました。 よくみると、箱の真ん中に木片が入っているのが見えると思います。やっと観ることが出来たと、少し感動でした。友人と一緒だったので、長い間見ることはできませんでしたので、昨日もう一度いってきたのです。もちろん、昨日は見ることができなかったのですが、イエス様が生まれた飼い葉おけ。何かジーンとくるものがあります。イエス様が馬や羊や牛たちと初めから一緒におられた。イザヤ書の終末(11章)のイメージそのものですね。生まれた時から、イエスは平和と共におられたという意味でしょうか。 新聞の見出しやインターネットのニュースでも、イラクで何人なくなった、アフガニスタンで大きな争いがあった。日本でも、平和とは逆の力が働いているような記事をみます。一つ一つの出来事には、すべて理由があって、争うために争ってはいないといえるでしょう。それはその場にいないものだから言えるという声も聞かれそうです。ヨハネパウロ2世教皇の本を時々パラパラと読みますが、戦争を体験し、ポーランド人として生きてきた教皇が発した平和のメッセージはとても重いと感じます。彼の強調するのは、祈りですが、これは単にミサの中で共同祈願をするということではないでしょう。私たちが平和を求めて生きるということでしょう。とてもとても難しいことです。 サンタ・マリア・マッジョーレにある飼い葉おけの前で、もう一度色々祈りたいと思います。平和の君は、平和のためにお生まれになった。キリストを信じるものが平和を愛して生きるために。平和が来ますように。
2007.05.09
少し疲れがたまっていたので、ここ数日休養していました。外を出歩くのは好きですが、外に出ると暑いから疲れますし、イタリアという世界に入っていくわけですから、これもまた疲れるわけです。 最近、よく感じるのは、日本にいる外国人も、こういうものを感じているのだろうということです。きっと、何年外国にいても、やはりそこは外国なのでしょう。外国で本当に休めるところを探すのは、大変なことなのですね。私は日本でなら、疲れたときは秋葉原とか新宿とか、人ごみに出て行くのですけど、さすがに、イタリアでそうはいきません。話をするのも疲れますからね。 だから、部屋に引きこもる人の気持ちが少し分かってきたよな気がします。確かに自分の部屋は自分にとって絶対に安全な空間で、ここにいる限り決して傷つかないのですから。一方で、ずっと部屋にいると、自分が自分を傷つけ始めるような気もします。ふとした時に、自分の嫌なところが見えてしまったり、妙に落ち込んでしまったり。幸い、修道院というところは、食事は一緒に食べるわけで、必ず人と顔を合わせる時間というのがあるのです。朝のミサの時もそうですけど、ミサの時は会話をすることは、まずないですからね。食卓は、決まった席ではないので、食事に行く時に自分で席を探すのですけど、どこに座るかで話題が変わるわけですから、慎重に選ばないといけないのです。できるだけ、霊的な話をする神父様のところに座りたいのですが、当たり前ですが人気があって、ほとんどあいていません。若い神父さんたちと座るのもいいのですが、疲れているときには、ちょっときついですね。しゃべるしゃべる、サッカーの話題や時事問題を。本当に椅子とりゲームみたいなものですな。 食事はおいしいので、きっちり食べています。お便りで、ちゃんと食べていますかと心配してくださる方もおられますが、きっとお会いすれば、食べていることが分かるかと…。 来週、日本の御受難会の巡礼団がイタリアに来ます。少しお手伝いすることもあるでしょうから、今から楽しみです。今日は「養成者」という授業があるので、これは楽しみなので、張り切っていって来ます。それでは、また。
2007.05.08
今勉強中なので、まだ不十分なのですが、今日の授業は、修道生活における性についてでした。日本では、こういうテーマはなかなか正面から扱われないように思います。心理学と宗教学の観点から、性というものを考察するものでしたが、非常に興味深かったです。徹底的に学問的なものでしたが、黙想のヒントになるくらい深い考察でした。ここで感じたのは、神学や心理学が信仰を持って理解されていく時、確かに神への歩みだということです。しかも、しっかり私の足で歩んでいる感触をもった歩みです。ある意味で遠回りですが、目的地である神の国について深めていくのと同時に、今歩いている、この道を見つめるというのは、大事なことだと感じました。 今習っている授業のほぼすべてに共通しているのは、修道生活がポジティブなものであるということです。実際に生活していると、どうしても、ネガティブな面が前面に出ますが、つまり、「~しない」という面に重きが置かれてしまいますが、神の国を証していこうとするなら、それはすべてポジティブであるはずだという訳です。 ポジティブに生きるということは、困難を受け入れ、その困難の理解の深まりが必要です。一般に、宗教と性は何か相容れがたいような雰囲気があります。何となく、避けて通れば、通れそうな雰囲気があるわけですが、証するなら避けることはできないというのです。 私自身がまだ勉強中で、ここで色々お話することは出来ないわけですが、貞潔と訳されている言葉は、独身の方がいいのかもしれないし、独身というのが結婚していないという意味であるなら、独身ということばは、ふさわしくないような気もします。やはり聖書のことばへの深まりと教会の伝統をもっと理解していく必要があるようです。 誓願に集中して、知識を仕入れていっているつもりですが、一つを学ぶだけではなかなかうまくいかなくて、おたおたしています。なかなか文章で表現するのは難しいところもあるので、私がもう少しまとまりを持ったら、日本に帰ってから分かち合いできると思います。 少し疲れも出てきているので、今日はこのくらいにしましょう。
2007.05.02
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