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(前項からのつづき)長い間私たち流通業界関係者が現時点のブランドポジションを調べる上で目安としてきたのが、フランスの業界新聞「ジャーナル・ドゥ・テキスタイル」です。ミラノ、パリコレが終了後、各国の主要バイヤーとジャーナリストにそのシーズンのコレクションの評価を投票してもらい、半年後のパリコレ会期中に紙面で投票結果の詳細を発表します。年2回あり、カテゴリーはバイヤー選出部門とジャーナリスト選出部門に分かれています。参考にしてきたジャーナルドゥテキスタイル紙バイヤー部門は、自店が独占販売していたり特別プロジェクトで関わっているブランドに投票しがち、ちょっと偏っています。たとえば、サンジェルマンにあったオンワード樫山フランス法人セレクトショップのバスストップは、いかなるシーズンも自社が発掘して育てたジャンポールゴルティエの名を第1位に推挙します。伊勢丹パリオフィスは当時ライセンス提携していたカールラガーフェルド(シャネル、フェンディではなくカール自身のブランド)を上位に。どの小売店がどのブランドに投票したのか細かく実名掲載されるので、業界通なら投票者の贔屓目も頭に入れて結果を受け止めます。一方のジャーナリスト部門は、インターナショナルヘラルドトリビューン、ルモンド、フィガロや名だたるフランス雑誌の記者が投票、バイヤー部門よりも信ぴょう性が高く、ブランド人気のバロメーターとして参考になります。概してバイヤー部門はクリエーションだけでなくビジネスとしてどうなのかも加味しての判断、ジャーナリスト部門は斬新さに投票のウェイトがおかれているように感じます。私も百貨店としてブランド導入を検討する際、このブランドランキングのジャーナリスト部門の結果をバロメーターとして活用させてもらいました。このランキングが誕生した頃、パリコレではケンゾー、クロエ(カールラガーフェルドがデザイン)、イヴサンローランがしのぎを削っていました。その後は彗星のごとく現れたジャンポールゴルティエがほとんどのシーズン第1位を独占。日本のビッグスリーが上位を占拠した時期があり、その次はマルタンマルジェラやドリスヴァンノッテンらアントワープ勢のランキングが上昇、ロンドン育ちのジョンガリアーノ、アレキサンダーマックイーンが手掛けるブランドが脚光を浴び、さらにプラダ、トムフォードのグッチなどミラノブランドがパリ以上の評価を受けるなど、時代と共にコロコロ主役は変わりました。1998年パリコレ出張のあと百貨店の大きなリニューアルを計画するきっかけとなったのは、このフランス業界紙ランキング表でした。この時点で上位20傑に入っているブランドのうち、新宿伊勢丹が13ブランド、池袋東武百貨店が7ブランド導入しているのに対し、銀座のわが社が導入していたのは1つだけ、しかもそれは日本のイッセイミャケでした。世界のジャーナリストが評価している旬のファッションブランドのトップ20のうち、インポートはゼロ、日本のビッグスリーは1つ、ランキング表と都内百貨店の導入実績を調べて愕然としました。売れる売れないのものさしだけでは百貨店の存在価値はない、銀座のワンブロックを占有する百貨店ならば、世界が認めるブランドをある程度揃えるべきでしょう。当時の社長に訴え、大きな改装とブランドの入れ替えを計画、一気にランキング上位ブランドを導入できました。ルイヴィトン、ディオール、セリーヌやヨウジヤマモトを導入したのはこのときでした。ところで、1970年代前半イッセイミヤケがパリコレに登場して以来、三宅一生さんは多くのクリエイターに影響を与え、世界のメディアや小売店に高く評価され続けました。このランキング表に初めて名前が記載されてからイッセイミヤケのデザイナー交代までランキング外になったことはないのではないでしょうか。初めて記載されたデザイナーが現役の間はずっと高く評価され続けた例、ほかにいないかもしれません。多くは全盛期とは比べものにならないくらいランキングが落ちてからのバトンタッチ、もしくは創業者の逝去でデザイナー交代が普通です。人気上位ポジションをずっと維持し続けるのは難しい、それが時代と共存するファッション界の宿命だと思います。絶賛された1992年春夏作品は本の表紙にこのランキング表でもう一点触れておきたいのは、ヨウジヤマモト、コムデギャルソン、イッセイミヤケの日本ビッグスリーはそれぞれ1回ずつフランスの人気者ジャンポールゴルティエを抑えてランキング1位になっていること。私の記憶違いでなかったら。そして、イッセイミヤケが第1位になったシーズンは、ウイリアムフォーサイスのダンスチームがモデルとしてパリコレに登場、ステージいっぱいにいろんな種類のプリーツ服を着たダンサーたちが笑顔で踊りまくった1992年春夏ショーでした。ダンサーが跳ねるたびにビョンビョン上下に動くプリーツの重ね着の美しさと楽しさ、いまもはっきり記憶に残るパリのベストコレクションだと思います。パリコレ初参加が1973年ですから、第1位になるまでおよそ20年。デビュー直後からその考え方やデザインが高く評価され、常に人気上位20傑を維持し、後年に再び評価をあげてトップになる。音楽や映画の世界でもなかなかできることではありません。よく意見交換しましたその2年ほど前、三宅さんを誘って小さなカウンターバーに行きました。イッセイミヤケが高圧高熱で加工したプリーツのコレクションに力を入れ始めて数シーズン経過、一部のメディアの間でプリーツ加工物に「ちょっと飽きたね」という声が陰で出始め、友人として耳には入れておこうと誘いました。お酒がまわってそろそろしゃべってもいいかなというタイミング、ここで三宅さんがハンカチを折り曲げながら「ここがプリーツでうまく表現できなかったので次は絶対に成功させたいんです」、と。業界の陰の声を伝えようとした瞬間、逆にプリーツにはまだやれることがあるとハンカチで説明し始める三宅さん、ものづくりのものすごい執念を感じました。ブレずにとことん突き詰めるクリエイターの姿勢に余計なことを言ってはいけない、と私は黙って帰りました。その数シーズン後のことです、着る人の動きによってビョンビョン上下に動くシワ加工商品も、インダストリアルデザインとして面白い新ブランド「プリーツプリーツ・イッセイミヤケ」も、縦にも横にも伸びるストレッチプリーツの「ミー・イッセイミヤケ」も発表されたのは。前項で触れたバルセロナオリンピックのリトアニア選手団ユニホームもプリーツでした。元々私たちの中にあったイッセイミヤケは意匠性の高いテキスタイル、ナチュラルカラー系、ゆったりオーバーサイズ、一枚の布がイメージでしたが、いつの間にか「プリーツ=イッセイミヤケ」になりました。パリのポンピドゥーセンターが「ビッグバン 20世紀アートの破壊と創造展」(20世紀の建築、インテリア、家具、アートなどを総括する展覧会)を2005年に開催したとき、ファッション分野で展示されたのはシャネルでもディオールでもサンローランでもなく、なんとプリーツプリーズのみでした。同展の学芸員は歴代クチュリエではなく、デザイナー服を一般大衆に解放した日本人クリエイターの工業製品的作品をあえて選択したのです。学芸員の見識も素晴らしい、その気にさせた三宅さんの衣服への情熱、考え方もまた素晴らしい。私は若いデザイナーさんによく言います、「あなたの十八番(おはこ)を作ってください」と。ブレることなくとことん追求するクリエイターの執念、それがブランドDNAとして後継者に受け継がれていく。大デザイナーから教わったことです。若手デザイナーにテキストとして薦めてきた本
2023.08.17
(前項からのつづき)あれは1988年秋、代々木上原のおでん屋のカウンターだったと思います。三宅一生さんと二人で食事をしていたら突然相談されました。総合スーパーのダイエーがプロ野球南海ホークスを買収、新しい球団(福岡ダイエーホークス)を立ち上げるので中内功さんからユニホームデザインを頼まれている。しかし恩のある堤清二さん(西武セゾングループ代表)の手前受けるべきかどうか迷っている。どう思いますか、と。西武ライオンズのオーナーは西武鉄道の堤義明さん、セゾンの堤清二さんとの兄弟仲はよくなさそうなので引き受けてはどうでしょう、と答えました。その心配よりも野球のことよく知っていますか、試合中にユニホームが窮屈で選手がエラーしたなんてことになったらマズイです、とも言いました。翌日東京コレクションの施工事業者で東京ドームの指定業者でもあるシミズ舞台工芸に連絡、たまたま近日中に開催される予定だった日米野球のチケットを2枚手配してもらいました。日本のプロ野球全球団と米国メジャーリーグのほとんどの球団ユニホームを一堂に見ることができ、ユニホームデザインの参考になればと思ったからです。三宅デザイン事務所小室知子副社長に「日米野球のチケットを取り寄せたのでどうぞ」と電話を入れました。小室さんは「お願いだから東京ドームに連れていってよ」。チケットは用意しましたが、日曜日に仕事の延長のようにデザイナーさんと行動を共にするつもりはありません。しかし、日頃何かとお世話になっている小室さんに頼まれると断れず、私は三宅さんと一緒に日米野球の観戦に出かけることに。その前日私は別の会食があって強度の二日酔い、胃はムカムカ身体はだるく最悪のコンディション。そんなこと知らない気遣いの三宅さんはドリンクやデッカいドームアイス最中を注文。お気持ちはありがたいけれど二日酔いの身にはこたえました。このとき日米どのチームのユニホームがかっこいいかという話になり、シンプルでスッキリしたニューヨークヤンキースが一番いいねと意見は一致しました。東京ドームでニューヨークヤンキースのピンストライプが一番かっこいいと盛り上がったんですが、完成した福岡ダイエーホークスのユニホームはヤンキースとは対極のユーモアあるデザイン、当時のプロ野球には珍しくコミカルなものでした。三宅デザイン事務所のデザイナーの間でコンペ、その中から三宅さんが選んだデザインに手を加えたものだったと記憶しています。特にホークス(鷹)の目を可愛くあしらったヘルメットが印象的でしたが、世間ではこれが賛否両論、中には批判的メディアもありました。賛否両論だった福岡ダイエーホークスのユニホーム特にコミカルだったヘルメット余談があります。堤義明さんがオーナーの西武ライオンズは堤清二さんとは直接関係ないので請け負っても大丈夫と私は思っていました。が、堤清二さんの西武セゾングループは総合スーパーの西友ストアを傘下に持ち、ダイエーと西友ストアは売上でしのぎを削り、商人の中内さんと文化人の堤さんは肌が合わない。盟友がライバルの球団ユニホームをデザインするなんて堤清二さんには面白くなかった、と後日西武セゾングループ幹部から伺いました。私の大きな勘違いでした。ユニホームといえばほかにも思い出があります。某大手金融機関のユニホームコンペです。1995年東京ファッションデザイナー協議会を退任して百貨店に移籍してすぐ、全国の窓口業務の女性ユニホームを新調するコンペがあると情報が入りました。どうやら我が社はコンペに出遅れたらしく、芦田淳さんや稲葉賀恵さんにデザイン委託して参加した百貨店もあり、三宅一生さんに頼んでもらえないかと幹部から相談がありました。選にもれるかもしれないコンペ参戦を世界で活躍するデザイナーにお願いするのは失礼でしょう。でも、聞くだけは聞いてみようと三宅さんに相談しました。毎日着用するユニホーム、プリーツプリーズではどうでしょうと提案したら、三宅さんはそれは面白いかもしれない、やってみましょうと快諾してくれました。10年間デザイナー組織の運営ご苦労様という意味もありました。私は出来上がったサンプルを持って実際に着用する女性スタッフが審査員を務めるコンペ会場に。いろんな組み合わせが可能、シワにもならず、自宅洗濯機で簡単に洗えてすぐ乾く、デザインはシンプルでも特徴がはっきりしている点を丁寧に説明しました。審査員の女性たちは興味ありそうな表情、私はそれなりの手応えを感じました。ところが、最終的にコンペを勝ち取ったのはどのデザイナー作でもなく、応募の中で最も平凡なデザイン、ユニホーム専業メーカーの既製品カタログに載っていそうな代物でした。こんな平凡な服が選ばれるなら何もコンペをしなくてもいいのに、釈然としませんでした。後日談として、コンペの評価基準はどうやらデザインではなく別の事情があったのではないか、コンペに敗れたほかの百貨店の間でもそんな噂がありました。もうひとつユニホームで思い出すのは、1992年バルセロナ夏季オリンピックでソ連から独立したばかりのリトアニア選手団のために三宅さんが無償でデザインしたユニホーム。1991年9月ソ連からようやく独立できたリトアニア共和国は翌92年2月のアルベールビル冬季オリンピックで国名リトアニアとして開会式に参加。入場行進はたった数名、ユニホームを制作する時間も資金もなく個人バラバラの装いでした。このとき全米に実況中継していたNBCテレビはCMを入れリトアニア選手団の行進シーンはカット、やっとソ連から独立できたリトアニア人念願の国名プラカードはオンエアーされませんでした。祖国名がオンエアーされず悔しい思いをしたリトアニア人の在米医師でイッセイミヤケメンのお客様は、この開会式のあと三宅さんに手紙を送りました。世界的クリエイターがリトアニア選手団のユニホームをデザインしてくれたら、次のバルセロナ夏季オリンピックで入場行進がカットされることはない、協力してもらえないだろうか、と。手紙を受け取った三宅さんはさっそく石津謙介さんに相談、石津さんの働きかけもあってミズノが制作納品することで話はまとまり、たった数ヶ月の準備期間でプリーツ加工した面白いユニホームが完成。もちろん実況中継でリトアニアの行進はカットされることはなく、その斬新なユニホームは大きな話題となりました。リトアニア選手団ユニホーム(故・石津謙介先生サイトより)問題はここからです。ニューヨークタイムズ紙東京特派員から東京ファッションデザイナー協議会に電話取材が入りました。「三宅一生氏がデザインしたリトアニア選手団のユニホームはかなり話題になっているが、日本選手団のユニホームは話題になっていない。これについてあなたの見解は」、「あなた自身は日本選手団ユニホームをどう評価するのか」、「どうして三宅一生氏は日本ではなくリトアニアに協力するのか」。私にそれを訊きますか、と逆に質問したくなる質問の連続でした。大相撲のハワイ出身大関小錦に外国人力士への差別問題をコメントさせて報道した記者(この記事で小錦さんは窮地に陥ったことがある)、質問はかなり執拗、私になんとか問題発言をさせニュースにする意図が見え見えでした。この記者が誘導質問を並べて私に言わせたかったことは想像つきます。当時の私はどのデザイナーとも等距離でいなければならない立場。このとき日本選手団のユニホームデザインを委託されたのは別の有名デザイナー、しかもデザイナー協議会メンバーでもあります。協議会を預かる私がこの記者の誘導質問に引っかか流わけにはいきません。正直なところ、あのプリーツユニホームは技術的にも視覚的にもオリンピック開会式の歴史に残るデザインの1つだったと思います。いまだったら取材に答えられるんですが....。
2023.08.15
(前項からのつづき)7月にC F Dが発足、11月には第1回東京コレクションを開催せねばならないのに会場予約はできず、特設テントを建てるしかないと用地の確保に走りました。最初に目をつけたのが北青山の絵画館周りの空き地。安く借りるためには誰もが知っている代表幹事と一緒に頼みに行くしかない。三宅一生さんに同行をお願いしました。三宅一生さんと(2010年撮影)三宅さん効果もあって施工期間を含む3週間の敷地利用は納得してもらいましたが、資金のないデザイナー組織には借地料があまりに高すぎました。最終的にここは断念しました。次に代々木体育館(正式名称は国立代々木競技場)を訪問しました。短パン履いたいかにも体育会といった担当者は「うちはスポーツ競技に施設を貸すところ、ファッションなんて無理だよ」。それでも日参して説得、敷地の隅っこにある競技者送迎バス専用駐車場の使用許可をどうにかもらうことができました。国の所有地だから借地料は破格の安さ、私たちでも払える金額でした。テント業者、会場設営業者も決まり、渋谷区役所に建築申請と保健所にも報告しなければなりません。通常大きなイベントには電通や博報堂など顔の利く大手代理店を頼りますが、出来立てホヤホヤの小さな組織がスポンサーなしの自主運営、代理店にお願いする資金はどこにもありません。すべて事務局マター、つまりど素人の私がやらねばなりません。そこで、三宅さんとは親密な関係にあったパルコの増田通二社長に協力要請をしてもらい、渋谷区建築課への根回しは過去にイッセイミヤケとのイベントにも関わったパルコのベテラン社員大成正樹さんに助けてもらいました。ファッション史に残るイベント@渋谷パルコ敷地を借りるにあたって代々木体育館側からは「邪魔であろうが敷地内の桜の枝は絶対折らないように」とクギを刺され、桜の木がない空き地を測量してギリギリの大きさの大型テントを注文しました。ところが、建設中にどういうわけか桜の枝が折れているではありませんか。業者は、故意に折ったのではなく作業中に折れてしまったと説明するので、私は「のこぎりで折れた枝を切り落とし、切り口には泥を塗ろう」と指示。会場設営の責任者から「電源はどうしますか」と聞かれたので、「コンセントに差し込むんじゃダメなの」と返したら、「そのコンセントにどこから電気を引いてくるんですか」。仮設のテントですから、会場内の電気も音響照明のための電気も東京電力から電線がきていないので大型電源車を手配することに。これまでファッションショーはプレス席に座る側にいたど素人がプロデューサー、万事がこんな調子で施工責任者に教わりながらどうにか第1回東京コレクションは開催できました。夜中の作業中あまりに冷たい風が床から入ってくるので慌てて300坪分のパンチカーペットを発注、また渋谷公演通りを上りきった角の公衆トイレでは足りないので仮設トイレも開幕直前に発注、さらには前述したショー音楽の騒音クレーム、観客超過で床が抜けるなど想定外のことが頻発しましたが、なんとか2週間の東コレは無事終了しました。大型テントを撤収し敷地の補修をした直後、代々木体育館の課長から電話がありました。「桜の枝を切りましたね」、バレていました。「折れてしまったので私が切り落とせと命じました。すみません」と正直に話したら、後日事務所に来るよう言われました。罰金は覚悟、代表幹事と一緒に詫びるしかない、三宅さんに同行をお願いしました。当日段ボールに自社の靴下、ハンカチ、ネクタイなどをたくさん入れて三宅さんが現れ、一緒に頭を下げてくれたのです。挨拶そこそこにまずお詫びをしました。すると、課長さんが「テントの邪魔になるなら桜の木を切りましょう」と発言。桜の枝を切ってはいけなかったはずが、「木を切りましょう」、これにはびっくり。課長は「(1964年の)東京オリンピック以降20年間スポーツイベントやコンサートに施設を貸してきましたが、責任者自ら大勢の作業員にご飯を作ってあげているのを初めて見ました」、と。ありがたいお言葉でした。こうして競技者送迎バス専用駐車場の桜の木は全部撤去、第2回東コレまでに敷地は綺麗に舗装され、しかも私たちの大型テントの基礎を地下に埋め込んでくださったのです。すべて工事費は体育館側が負担、当方の出費はゼロ、過分なご褒美でした。料理が趣味とは言え、こうなると作業員へのご飯提供を止めるわけにはいきません。コレクションの特設テントを建てるたびに毎日150人分の温かい食事、最終日のテント解体時は300人分のカレーライスを用意。ブロックを積んだ臨時の釜戸は社員食堂のような形になり、東急ハンズで購入していた炭はいつの間にかプロパンガスに、事務局には大きな鍋や調理道具が増えました。この現場に三宅さんも毎シーズン顔を出し、作業員たちと一緒になって紙コップと紙皿で食事をしてくれました。そんなことはおそらく参加デザイナー、マスコミ関係者は知らないことです。舞台施工の作業員の間で一緒に現場メシを食べる三宅さん人気はうなぎのぼり、イッセイミヤケの会場施工には格別の思い入れが見て取れました。TIME誌の表紙にもなった三宅一生さん1986年3月パリコレ時、現地で会食した三宅さんから「今度はテントにちょっと手を加えさせてもらうそうです」。私は「テントが壊れないのであればいかようにでも」と返しました。どうやらショー演出の三宅デザイン事務所毛利臣男さんが施工業者に直接交渉していたようです。楽屋裏側のテント両サイドをゆっくりクレーン車で巻き上げる演出プラン、テントの稲垣興業と舞台美術のシミズ舞台工芸は私に確認する前に実現に向けて準備に取り掛かりました。そしてショー前日夕方リハーサル、事件は起きました。桜の木を伐採して使いやすくしてくれた敷地はまだアスファルトが若干柔らかく、クレーン車の重量で地面にへこみが残る心配がありました。大型テント設置には10トンクレーン車ですが、テントを徐々に巻き上げるとなると風圧もあるのでクレーン車は20トン、ビル工事の様相です。テント両サイドにわざわざ取り付けたジッパーを外し、ゆっくりテント地を巻き上げるテストをしているところに三宅さんが現れました。私のポケットの中には足りない施工費用の明細メモがあり、これを手渡ししようとした瞬間、「こんなことやっていいんですか」。代表幹事である自分のショーで特別なことをやってはいけないというご意見でした。クレーン車の横で「やってはいけない」三宅さん、「やりたいです」毛利さん、「やってもいいんじゃない」私、意見は分かれテスト作業は中断、会話が段々エスカレートして作業員や事務局スタッフが不安そう表情なので仮設事務局のプレハブに移動して3人で話し合いました。代表幹事だけが好き勝手しているように映ることは賛成できない、三宅さんの気遣いは理解できます。毛利さんは演出家として断固やりたい、やらせてくれという気持ちもわかります。私はテントをぶっ壊さない限り大丈夫、面白い使い方をすれば別のブランドの刺激になるでしょうと続行を勧め、意見は平行線のままでした。結局1時間ほど話し合って決裂、毛利さんはドアを強くたたきつけてプレハブを出ていきました。毛利臣男さんも昨秋に逝去翌日の本番は毛利さんの意志通りに決行でした。楽屋と客席を分断している大きなサイドパネル2枚がシーンごとに徐々に開きます。モデルがランウェイから楽屋に戻るたび着ていた服を出入口から屋外に出し、最後に楽屋スペースは空っぽ。次の瞬間大きな無地の幕が床に落ちるとその奥にあるテントがゆっくり巻き上げられ、外部から照明が会場内に差し込みます。テントの外はまるで砂漠のように見える薄い大きな布が風にそよぎ、その場面でモデルが無地のドレスを身にまとって登場。偶然なのでしょうがテントの外にはお月様、なんとも幻想的なシーンに観客は大きな拍手でした。これまで見た数千本のファッションショーの中で最もドラマティックな演出、感動的でした。演出台から楽屋に指示を出していた毛利さんの目には涙、あまりにうまくことが運んだので自分自身感動されたのではないでしょうか。このショーの後、あのプレハブでの口論が原因なのかどうかはわかりませんが、毛利さんは三宅デザイン事務所から独立、二度とイッセイミヤケの演出をすることはありませんでした。正直、もう一度毛利さん演出のイッセイミヤケショーを見たかったです。しかし残念ながら三宅さん逝去の2ヶ月後、そのあとを追うように毛利さんも亡くなりました。
2023.08.13
(前項からのつづき)20年ほど前渋谷の居酒屋で部下たちと懇親会のあと、ちょっと風変わりなおばちゃん占い師を西武渋谷店の横で部下が発見、私は手相を見てもらうことになりました。「早いうちから親元を離れる運命です」、そりゃそうですよ、遠いニューヨークで8年、東京生活は20年余ですから。「お金が入ってきても貯まりませんね」、その通り、預金残高はずっとゼロに近いです。そして最後に「寅がいつもあなたの行くてに現れます」、そういえばあの方は寅年だ、部下たちは大笑いでした。考えてみれば寅の方とは不思議なご縁です。1975年大学生のファッションマーケティング集団を主宰していた私は、テキスタイルのユニチカ大阪本社でのマーケティング調査会議の帰途京都国立近代美術館で開催中だった「現代衣服の源流展」を見学しました。これはニューヨークのメトロポリタン美術館で1974年春まで開催された「INVENTIVE CLOTHES 1909-1939」をほぼそのまま持ち込んだファッション展覧会、京都商工会議所の副会頭に就任したばかりのワコール塚本幸一社長の肝いりで開催されました。現代衣服の源流展ポスター会場内にはパリオートクチュール黄金期1920〜30年代のポール・ポワレ、キャロ姉妹、マドレーヌ・ヴィオネ、ココ・シャレル、エルザ・スキャパレリの古いコスチュームがズラリ。正直言って最初の印象はどれも素材は劣化してて古臭い服ばかり、防虫剤の臭いがしそうでした。マドレーヌ・ヴィオネの展示ルームのマネキンに接近してドレスをよく見ると、ステッチはところどころ歪んでる。ステッチが歪んでるなんて高価なオートクチュールなのかと思いながらその部屋を出ようとした瞬間、なぜかヴィオネの服が私を呼ぶんです。もう一度そのドレスのところに近づくとやはりステッチは歪み、素材は劣化、感動はありません。が、再び部屋を出るとき振り返ると、マネキンはまるで美しい彫刻の女神像のような神々しさなのです。接近して見れば歪んだステッチ、部屋の出口から眺めれば彫刻のように美しい、この落差に何か大切なことがあるのかもしれないと思いました。人間が作るからステッチは歪んでいる、デザイナーや職人たちが一生懸命創作するから不思議なオーラを発する、よしファッションを男子一生の仕事にしてみようと決断した瞬間でした。家業は大きなテーラー、オヤジからはロンドンのサビルロゥで修行して来いと言われ、英会話とパタンメーキングを勉強していたものの、服が自分の一生の仕事になることに少し疑問を感じていました。学生ながらマーケティングで多くの原稿をメディアに書いていたので、マーケティングのことは頭にあってもファッションにどっぷり入り込めない自分がいました。しかし、古いヴィオネのドレスに出会って、自分はファッションを一生の仕事にしようと決めました。そしてC F D設立4年後の1989年、京都商工会議所会頭だった塚本さんとお会いしたときにあの展覧会で感動したことをお話したところ、「あれは三宅一生さんがメトロポリタンで感動して私に京都でやれやれと何度も言ってきたから引き受けることになったんだよ」、と。私の人生のターニングポイントとなった現代衣服の源流展は、三宅さんが塚本さんに執拗に働きかけて実現したものだったのです。14年間もそうとは知らず、塚本さんから伺って「へぇー」でした。男子一生の仕事としてファッションを選んだ私ですが、オヤジが希望するロンドンでもモードの都パリでもなく、マーチャンダイジング習得のためニューヨークに移住しようと考えました。そこで大学卒業の半年前実際に住める都市なのかどうか事前調査のためニューヨークに出かけました。建国200年祭で沸く1976年のことです。帰国していろんなメディアにニューヨークで見たこと、感じたことを寄稿し、その原稿料で渡航費用を穴埋めしましたが、寄稿メディアの1つが月刊メンズファッション雑誌「dansen(男子専科)」でした。1976年12月号dansen表紙あれから30余年後の2010年、元新聞記者Tさんが面白いものを見つけたと言ってわざわざ雑誌コピーを送ってくれました。それは1976年ニューヨークから戻ってdansenに書いた私の記事、その背中合わせのページは巻頭デザイナーインタビュー最終ページ、デザイナーは表紙にもなっている三宅一生さんでした。発行された1976年当時は全く意識していなかった名前、表紙が誰だったのか全く覚えていません。学生時代にたまたま書いた記事の表てのページが三宅さんのインタビュー記事、ここでも不思議なご縁を感じました。ところで、C F D設立構想が突然持ち上がった1985年4月、多くのデザイナー関係者やマスコミ人の間でつまらない噂が広がりました。「三宅一生がニューヨークから変な男を連れてきた」。ご自身はパリコレ参加組で東京にデザイナー組織を作る話にこれまで耳を傾けたことがなかった、その人が突然デザイナー組織を作ろうと言い出し、その責任者に仲良しの海外居住の若造を据えようとしている、おかしいじゃないか、と。一部のベテランデザイナーや編集者の間で反発はかなりのもの、私自身も実際に「あんたは三宅一生の犬だろ」とストレートに言われたこともありました。しかし、私は三宅さんの仲間でも犬でもありません。初めて会話をしたのが3月パリコレに出かける寸前、知り合ってまだ1ヶ月ほどですから友達とは言えません。しかもニューヨークのバイヤー講座で「ファッションはビジネスと言う名のゲーム」とマーチャンダイジングを叩き込まれた私には、展覧会で作品を展示して服はアートと提案してきたようなタイプのクリエイター(私にはそう見えました)は自分の関心外、ずっと距離を置いてきました。それを仲間だ、犬だと言われてもなあ、でしたね。正式発足するまで恐らく三宅さんの耳にも嫌な噂はいくつか入っていたことでしょう。が、三宅さんはなんの得にもならないのにじっと我慢し、みんなに私のことを理解してもらえるよう丁寧に説明していました。正式な設立総会があった際も、「事務局長には任期の2年を任せます」という参加者の発言に対し「悪いことをしない限り太田さんには一生やってもらいますから」とカバーしてくれました。さらに、「一緒に若いデザイナーの意見をもっと聴きましょうよ」と若手デザイナーたちを会食に招いて意見を聴いてくれましたが、そのとき流れた噂が「三宅と太田は若手をオルグ化している」、これには二人で笑いました。CFDが東京コレクション運営を20年、そして日本ファッションウイーク推進機構にバトンタッチされて18年どうにか継続できているのは、発足時に三宅さんが私欲を捨て苦手な団体行動を我慢してくれたからだと思います。
2023.08.12
(前項からのつづき)CFD(東京ファッションデザイナー協議会)が設立総会、記者会見、設立記念パーティーを日比谷プレスセンターで開催したのが1985年7月8日、翌日から私の仕事は11月開催の自主運営による東京コレクションの会場探し、そしてショーのスケジュール調整でした。都内の主だった多目的ホールを当たりましたが、4カ月先の会場はほぼ予約済みで空きがなかったので仕方なく大きな特設テントを建てることに。コムデギャルソンが使っていた大型テントが白、先の読売新聞東京プレタポルテコレクションが黒だったので、別注色でライトグレーをお願いしました。場所は渋谷公園通りを上った国立代々木競技場(代々木体育館)バス駐車場です。テントの製造設営はファッションショーに初めて携わる千葉県富里町の稲垣興業、大手専業メーカーではありません。敷地内の高低差が1.5メートル以上もあって水平の床を設営するのに苦労した会場設営はシミズ舞台工芸(現シミズオクト)、主にスポーツイベントや野外コンサートなどを手掛ける会社でした。しかも設営を開始すると連日雨天、危険な組み立て作業は遅れ気味、これをカバーするために作業員を増やして作業は連日ほぼ徹夜、潤沢ではない予算を管理する私は夜中に電卓をたたきながら業者責任者と追加設備の発注をしました。会場設営よりも難儀だったのはショーのスケジュール調整。初日トップバッターをやりたい、日があるうちは気分が出ないので夜遅くにしたい、○○さんと同じ日はイヤ、仏滅はやめてくれ、ブランドの要望を聞いていたらスケジュールはいつまでたってもまとまりません。一番苦労したのが最終日のラストショー、いわゆる「トリ」は誰も受けてくれません。NHK紅白歌合戦じゃあるまいしと思うのですが、全ブランドが「トリだけは絶対イヤ」。結局、三宅一生さんにどうにか受けてもらいました。11月第一月曜日に第1回CFD東コレは始まりました。トップバッターのヨウジヤマモトの音量は地面が揺れるほど大きく、近隣住民から怒鳴られ、渋谷区の騒音測定車が出動する始末。慌てて菓子折りを持って私は近隣住民に謝りに出かけ、騒音測定車のケアもするはめに。そんなさなか、初めてのシーズンなんだから最終日に打ち上げをやろうと三宅さんから提案がありました。連日午前4時まで設営に立ち会って睡眠不足でフラフラ、予期せぬ出来事に追加費用がかかるので金策、そこに騒音クレームの対応、そのうえ打ち上げパーティーの準備をやれと言うのか、私はブチ切れました。最終日前日夕方、特設テント会場に突然三宅さんが登場、「このあとお茶しませんか」と誘われました。二人で車に乗ってお茶をしに出かけましたが、着いた店はなぜか赤坂のすき焼き店、席に通されてすぐ私はこう切り出しました。こんな店で私は温かいご飯を食べてるわけにはいきません。(特設テント脇の狭い)事務局テントの石油ストーブで私は作業員たちに温かい豚汁を作っています。彼らは明日のイッセイミヤケのステージ施工で徹夜になるでしょう。施工予算がたっぷりあれば話は別ですが、御社の予算は十分でありません。ならばせめて作業員に弁当と温かい豚汁を夜食として差し入れてやりたい。ここであなたと美味しいものを食べてる時間はないんです、ときつい語調で言いました。すると三宅さんはお店のピンク電話で事務所に電話をかけ始めました。どうやら作業員に差し入れをするよう指示、「皆さんトンカチ持って作業しているから、果物なら(片手で食べられる)バナナ、ご飯ならおにぎりかお寿司を」と断片的に聞こえてきました。細かい指示はいかにも三宅さんらしいです。会食中も私は一方的にしゃべり続けました。「ファッションデザイナーの世界は決して華やかだけじゃない。真面目にコツコツものづくりする世界なんだと世間に伝えたい、そう思ってCFDを引き受けたんです。産地の職人や会場施工業者の作業員にも温かい目を向ける、そんなところからいい噂は世間に広がっていきます。そういうことがファッション界には大事って私は思います」。機関銃のようにしゃべりまくり、食事後三宅さんと私は特設テントに向かいました。小さな事務局テントには三宅デザイン事務所から大量の差し入れがすでに届いていました。あの電話でアシスタントの方がすぐ手配してくださったのです。そして、三宅さんが帰宅したあと作業員の一人が私に「あの人、誰ですか」、「三宅一生さんだよ」と答えると、「あの人毎晩作業を覗きにここにきていました」。三宅さんは東コレの運営が心配で毎晩現場をこっそり覗いていた、私はそんなこと全然知りませんでした。三宅さんの優しい一面を表すエピソードです。翌日ショー本番の昼下がり、特設テント会場に現れた三宅さんは立ち話をしていたイッセイミヤケ多田裕社長と私の目の前を通り過ぎ、まず会場施工のシミズ舞台工芸の現場監督Oさんに挨拶、そのあと私たちが立っている場所に。昨日の話がきいたかな、と思いました。最終回イッセイミヤケのショーが始まると、西麻布の料理店「さぶ」での面会から8カ月の怒涛の日々をあれこれ思い出して私は涙が止まりません。横の席に座るシミズ舞台工芸Oさんと連日の雨天で儲けが吹っ飛んだテント屋のS専務ももらい泣き。フィナーレでステージに現れた三宅さんは大泣きしている私たちが目に入ってグッときたらしく、すぐ楽屋に引っ込んでしまいました。ショーが終わると、三宅さんが作業員たちの紙コップにシャンパンを注いで回り、「みんなで記念撮影をしましょう」。特設テントの前には最終日のために作らせた協力施工業者の一覧を掲示した大きなパネルがあり、作業員は片手にトンカチ、もう一方にシャンパン入り紙コップをもって三宅さんと一緒に写真におさまりました。翌シーズンからは最終日テント解体する約300人の作業員にふるまった私のカレーライスを作業員が食べながら、ここに三宅一生さんも加わって写真撮影するのが恒例行事となりました。記念撮影のあと、開催するかか否かで三宅さんともめたCFD初コレクションの打ち上げパーティー会場へ。ショーの運営で問題を起こした参加ブランドのプレス担当数人に準備や受付業務を担当してもらいました。そこで三宅デザイン事務所創業者の小室知子さんが私に関西弁でこんな発言を。右から小室知子さん、資生堂元社長池田守男さん、私「昨日、三宅に説教したそうやね。三宅も随分偉くなって私たちには言えんこともあります。これからも間違ってるときは間違ってるとはっきり言ってやって」。うっすら涙を浮かべながら声をかけられ、私は帰国して良かったと初めて思いました。でなければニューヨークにはまだアパートを維持していたので米国に戻っていたかもしれません。日本に呼び戻した責任を感じていたのか、若造が発する耳の痛い話を三宅さんはよく聞いてくれました。気性の激しいクリエイターですから衝突する場面は少なくなく、一カ月以上全く口をきかない、あるいはかかってきた電話には出ないことはたびたび。そういう場合は熱い文言の手紙や仲直りディナーをセットしてくれました。また、両者がぶつかると裏でなにかとフォローしてくれたのが小室副社長、彼女のおかげで決裂を回避できたことは何度もありました。いまとなってはいい思い出です。
2023.08.10
今日8月5日は三宅一生さん1年目の命日。昨年訃報が伝わってすぐメディアの方々から追悼コメントや寄稿を求められましたが、すべてお断りしました。気持ちの整理がつかなかったから。いろんな出来事がありました。二人でよく食事に行きました。よく議論しました。よく相談もされました。よくケンカもしました。ほぼ毎日のように長めの電話をもらいました。いろんなことがありすぎて、訃報を聞いたときは頭が真っ白、思考停止状態でした。1年経過したので、そろそろ三宅さんのことを書いてみようと思います。初めて会った頃の三宅さんあれは1985年3月初めのことでした。ニューヨークで取材活動をしていた私は一時帰国。パリコレ取材をするのに、ニューヨーク~東京~パリ~ニューヨークとぐるり回るフライトは特別料金で安かったから東京に入りました。帰国して翌日だったか、三宅一生さんから食事のお誘い電話をもらい、西麻布の和食店「さぶ」に出かけました。サシで会うのは初めて、同行者がいなかったので私は遠慮なく正直に自分の意見を述べました。どんなに偉い政治家や経営者でも同行者なしの面談なら遠慮せず自分の意見を言うことにしていますが、この日も世界的デザイナーには遠慮なしでした。パリコレ発表直前の精神的にも落ち着かないタイミングだったでしょうが、三宅さんは帰国した若造のために時間をとってくれ、私のストレートな発言に耳を傾けてくれました。このとき私は、当時発売されたばかりの一眼レフ「キャノンAE-1」を引き合いに出しました。このカメラ、プロカメラマンでなくても使えるモータードライブ付き、操作はすくぶる簡単な仕様。プロのカメラマンがパリコレ取材などで使用しているニコンのモータードライブ付きと比べて重量はかなり軽く、シャッターを押すだけで連続してピントの合った写真の撮影ができます。しかも値段はニコンの半分程度、デザインはなかなかカッコいい。近未来パリコレでもキャノンのカメラを使うカメラマンが増え、キャノンはニコンを凌駕する日が必ず来ると予測していました。キャノンAE-1は、操作簡単で性能がいい、カッコもいい、値段は安い、ファッション商品だって同じではないですか。デザインが素敵で機能的、素材がいい割に安かったらお客様の支持を得られると思います、と申し上げました。これに対して、三宅さんは「僕たちのつくる服とカメラと同じと言うんですか」とおっしゃったので、服もカメラも生活消費財に変わりありませんからと主張しました。数日後今度はパリコレの特設大型テントの前でばったり、「今晩ディナー後に一杯付き合いませんか」と言われた私はディナーを済ませてから三宅さんが宿泊するホテルに向かいました。そのバーラウンジで、翌月読売新聞社が主催するファッションウイークが東京であるので、ニューヨークには戻らず観てくださいと言われました。日本人デザイナーが初めて一堂に会する大きなイベントと聞いて私は興味を持ちましたが、私の安いフライトチケットはパリから東京には戻れません。一旦ニューヨークに戻り、4月中旬改めて読売コレクション視察のため東京に。読売新聞社創刊110周年記念イベントのファッションウイーク、現在東京都庁が建つ空き地(当時はまだ広いさら地)に大型特設テント2基を建て、近隣の文化服装学院遠藤記念館も指定会場にして2週間行われました。開催前日の夕方、特設テントでオープニングパーティーがあり、三宅さんに呼び出された私はのこのこ出かけました。会場に入ってコムデギャルソンの川久保玲さんと立ち話をしていたところ、三宅さんが現れ、「二人は知り合いなの?」、そして「このあと一緒に食事しませんか」となりました。そのあとイベント参加デザイナーが全員ステージにあがって記念撮影とセレモニー、そのあと私たちは会場の真ん前にあるセンチュリーハイアットホテルの中華料理店に向かいました。三宅さん、川久保さんと3人での会食と思っていたら、ステージ上で三宅さんが山本耀司さんにも声をかけ、さらに山本さんのパートナー林五一さん(ワイズ専務)も加わり5人で会食したのです。その席で、パリやニューヨークのように東京にもファッションデザイナーの組織を作り、短期集中型のファッションウイークを大手新聞社の手を借りず自主運営した方がいいだろうという話になりました。さらに、こうして3人のデザイナーが初めて会食しているんだから、組織の真ん中にニュートラルな人がいてくれたら実現する、あなたが帰国して運営責任者になってはどうかと突然振られました。私はマーチャンダイジングのプロになりたくて渡米したんです、帰国してデザイナー組織の運営なんて全く興味ありません、丁重にお断りしてニューヨークに戻りました。それから連日東京の三宅さんから電話をもらい、説得が続きました。最後に「私は蛇ににらまれたカエルみたいですね」と言ったら、三宅さんは「そうです、あなたはカエルです」。「世界で認められているあなたたちが無名の若造の意見を聞くんですか」と返したら、「はい、聞きますから」、もう何も言えなくなりました。4月後半から5月初旬にかけて開催されたニューヨークのコレクション取材を済ませ、ゴールデンウイークの5月5日私は再び東京へ。帰国してすぐ関係者に挨拶回り、ファッションデザイナーの任意団体「東京ファッションデザイナー協議会」の骨子がまとまったのが5月末、それから一斉に多くのデザイナーに参加を呼びかけ、協議会が正式発足したのが7月8日。予期せぬ話が実現するまで、実にスピーディーな誕生劇でした。私はまさかこんなことになるとは思ってもいなかったのでJALフライト復路のチケットは無効になってしまい、次にニューヨークに行けたのがなんと4年後でした。3月初旬西麻布で初めて会食したとき、三宅さんには協議会設立構想なんて全くなかったでしょうし、私を日本に呼び戻してその責任者に据えようと考えたこともなかったはずです。パリコレ会場前でばったり遭遇したのも、読売コレクション前夜祭後の5人のディナーも全く偶発的出来事でした。しかしながら、どういうわけか初会食から4カ月後には協議会が正式発足、その秋には早くも自主運営の東京コレクションが開催されました。田中一光さんデザインのロゴ三宅さんがいつも私に言っていたことがあります。「僕たち(おそらく川久保さん、山本さんのこと)のことは放っておいていいんです。太田さん、次世代の若いデザイナーたちに道を拓いてやってください」、と。なので協議会設立後、若手デザイナーの意見をヒアリングする会食を一緒に何度もやりましたし、そのことを「三宅と太田は若手をオルグ化している」と陰口を言う業界関係者もいました。三宅さんはそんなケチな人ではありません。世界への道がなかったところを手探りで自ら世界への道を拓いた人だからこそ、無駄な苦労はしないですむよう若手をサポートしてやってくれと私に何度も念押ししたのです。先日、東京コレクションを東京ファッションデザイナー協議会から引き継いだ日本ファッションウイーク推進機構の記者会見でも私は記者の方々にこのように申し上げました。「私たちが若手支援策でサポートしてきたデザイナーがいまや次の世代のデザイナーの支援を決める選考会の委員を務めています。こういう構図が生まれていることに、あの世の三宅一生氏はきっと喜んでいるはずです。三宅氏はいつも私にインキュベーションを託していましたから」世界においてクリエイターとしての存在感は別格でしょうが、次世代の育成を願って東京のデザイナー社会をリードした功績も私は声を大にしてみなさんに伝えたいです。合掌。
2023.08.05
今日これから本年度МDゼミ(マーチャンダイジング・ゼミナール)を開講します。1995年当時の社長に誘われて移籍してこのゼミを開きましたから、もう随分多くの社員が受講してくれたことになります。ここ数年教えていることは、マーチャンダイジングに奇策はない、基本に忠実に仕事しましょう、マーチャンダイジングの原理原則を守りましょう。誰に、何を、どのように、いくつ販売するつもりなのか、しっかり計画を立てて取り組む。簡単なことなんですが、これがなかなか守られない、そんなこと気にしたことがない小売店が世の中にはたくさんあります。他店はともかく自分たちは基本をちゃんと守りましょう、と教えてきました。マーチャンダイジングの基本とは別に必ず話すことがあります。企業は規模ではないということ。たくさん店舗を持っていなくても、世界のブランドとは普通に交渉できる、世界的ブランドは規模で判断するわけではなく、どういうビジネスをするつもりなのかその戦略と熱意を見てるから、と。若手社員に自信をもって世界と交渉してほしいので、毎回いくつか事例を出しながら説明することにしています。私が移籍した当時、インターナショナルブランドのオリジナルコレクションの扱いはゼロでした。当時あったものは、名前は欧米の有名ブランドでも日本のメーカーが提携して作ったライセンス商品(本物とは質もデザインも大きく違っていました)、あるいはオリジナルコレクションではなくセカンドライン(素材や縫製の質も価格もオリジナルより低いディフュージョンライン)だけでした。完璧に世界的ブランドのオリジナル商品はゼロ、でした。ルイヴィトンから始まった大改装だから、一気にお店を改装し、世界に感たるブランドのオリジナルコレクションをドーンと導入しようと経営幹部を説得、海外ブランド企業との交渉が始まりました。まず最初に交渉したブランドはルイヴィトン、日本で最も品揃えのいい大型店を一緒につくりませんか、と提案。本国の社長に打診したところすぐ来日してくれ、その数日後にはパリから店舗設計チームが模型をもって来日、仕事のスピード感に驚かされました。数か月後には大型店が完成、そのオープニングが読売ジャイアンツの優勝祝賀パレードと日にちが重なって銀座メインストリートは大混乱、危険なのでお客様には店内の階段に並んでいただき、行列最後のお客様をご案内できたのはなんと閉店時間直前でした。ルイヴィトンに続いて順次海外ブランドを導入、フェンディ、ディオール、セリーヌのほか、ドリスヴァンノッテン、マルタンマルジェラ、マルニ(3つともその後に退店)にも入ってもらいました。そのあとも改装は続き、サンローラン、バレンシアガ、クロエ、ステラマッカートニー、モンクレール、プラダ、ミュウミュウ、クリスチャンルブタン、ジミーチュウ、ロジェヴィヴィエ、ジルサンダー、マロノブラニクなどを展開、近年ではロエベ、グッチ、ジバンシーもショップができました。クリスチャンルブタン日本初のショップ親会社トッズの本社工場まで行って交渉したロジェヴィヴィエルイヴィトン開店時に導入したディオール長くフェンディは旗艦店でした1階と2階にショップがあるセリーヌプラダとミュウミュウは同時に導入モンクレールにも広いスペースアンダーソンになって人気上昇中のロエベ各国で復活基調のジルサンダー試着室内がかわいいステラマッカートニーステラもかつてデザイナーを務めたクロエ20世紀最後の年までオリジナルインポート商品はゼロだったなんて最近入社した若手社員はそんなこと知らないでしょうね。振り返れば、よくここまで集めたものだと思います。キミたちの先輩たちは外資企業との交渉頑張りました、とゼミ初日で説明します。
2023.08.03
東京ファッションデザイナー協議会(略称CFD)責任者として10年、CFDから東コレ運営を引き継いだ日本ファッションウイーク推進機構のコレクション担当理事として17年、合わせて27年も私は東コレに関わってきました。さらにアパレル企業の経営者として10年。これまで多くのファッションデザイナーと接してきましたが、「もっと売れるものを作って」とデザイナーに言ったことはありません。ファッションビジネス人としての信条だからです。シャネルは外部デザイナーとブランド協業のお手本バイヤーやマーチャンダイザー育成の勉強会ではよく受講生に話します。「せっかく作ったんだから販売が容易でないものもチャレンジすべき」、と。ブランドのファッションショー、次シーズンの売上はかなり行けそうと自信あるコレクションもあれば、売れないかもしれないと不安になるコレクションもあります。前者では、前年実績など気にせず行けると思う極限まで発注予算を上げて販売してみよう。後者では、前年以上は無理かもしれないけれど、ビジネスチームの力でなんとか前年並みは頑張ってみよう、決して「売れない」と諦めてはならない、販売スタッフやマーチャンダイザーにはよく言いました。パリコレのランウェイや展示会で商品を見ながら「前年比120%は行けそう」という好コレクションもあれば、「前年比80%は覚悟しなければならないかな」と悲観的なものもありました。発注時に前年比80%想定の発注をすれば実際には80%にも届かない、発注にメリハリをはっきり付けて例年以上に綿密な販売計画を立て、チーム全員で前年並みは頑張ろうとハッパをかけました。クロエも最近デザイナー短期交代が続くかつてパリコレや東コレでは、ショーに登場する服はぶっ飛んでておもしろいのに展示会に行くとその大半はボツ、生産する予定もないのにマネキンやハンガーラックに掛けて見せているというケースがたくさんありました。販売予定がない服を平気で掲載し、「参考商品」と表記するファッション雑誌も日本ではよく見かけたものです。これって極端な言い方すれば詐欺行為、あってはならないと言い続けてきました。その点、私がニューヨークに住んでいた頃の米国ファッション雑誌はしっかりしていました。「参考商品」なるものの掲載はしないどころか、雑誌の巻末に編集ページで取り上げたものは全米のどの小売店で販売予定か一覧表記してありました。つまりショーで見せるだけの服は読者に紹介しない編集方針が徹底されていたのです。バーニーズニューヨークの幹部と一緒に買い付けに来日したとき、ショーに登場した服はクリエイティブでおもしろいけれど展示会場では普通の服がズラリ並ぶ光景を何度も見ました。そんなブランドには「なんのためにファッションショーをしているんだろう」と大いに疑問を感じたものです。あの頃東京は時代錯誤のままでしたから、CFDを設立したときからずっと「ショーで見せたら売る、ボツにはしないで」、「参考商品は展示会で見せない、貸し出しをしない」と唱えてきました。フィービー・ファイロはセリーヌの価値を高めたデザイナーがつくるコレクションは、仮に100枚生産してほぼ完売が予測できるものもあれば、100枚作ったら10枚も売れないだろうというものも中にはあります。売れそうにないからとボツにしていてはチャレンジングな服の本当の評価はわかりませんから、100枚は難しくても2、30枚くらいは生産してお客様に訴求すべきでしょう。それでもプロパー消化率75%目標と現場には要求し続けました。せっかく生地屋さん、工場さん、パタンナーも含めてみんなで一生懸命作ってショーで実験服を見せるのです、簡単に量産ボツにしないでお客様の反応を見るべき、その代わりブランド全体で高いプロパー消化率ならそれでいいじゃないかと何度も繰り返し言い続け、結果的に難しそうなコレクションピースを生産しつつプロパー消化率70%以上(現場には常に目標75%消化を要求)を維持できました。この75%目標の話をアパレル企業の経営者たちとの宴席で話したら、「滅茶苦茶な数字を言うんだね」と笑われましたが、これは架空の話ではなく実際に達成してきた事実なのです。コムデギャルソン青山店バーニーズニューヨークの買い付けで初めてコムデギャルソンと出会ったときから、難しい服でもボツにはしない姿勢に共感してきました。80年代初めボロルックと揶揄された穴あきセーターやナイフで切り刻んだ服も、コムデギャルソンはボツにすることなくちゃんと市場に供給していました。その「見せたら売ってみる」強い意志、ブランドビジネスでは非常に重要なことだと思います。ニューヨーク時代、デザイナーとマーチャンダイザーはイコールパートナーと教わりました。どっちがポジション的に偉いかではなく、デザイナーはクリエーションに責任を持ち、マーチャンダイザー(あるいはブランド責任者)はビジネスに責任を持つ。ビジネス側はクリエーションに口を出さない、デザイナーは枚数配分や営業政策に口を出すべきではない。だからビジネス側は「もっと売れるものを作って」と言ってはならない、クリエーションを受け止めてそれをどう売るか考案するのはビジネス側の責任範疇です。ラフ・シモンズのディオール退任は早かったエディ・スリマンのサンローランも短命アレキサンダー・ワンのバレンシアガも短命最近海外有名ブランドのデザイナー交代劇が頻発、しかも在任期間があまりに短い解任が増えたように思います。コロナによる消費減速、原材料の高騰、過熱したショー演出の経費増などが関係しているかもしれませんが、一番の問題はデザイナー就任時の両者の話し合いが十分になされていないのが原因ではないでしょうか。クリエーションにビジネス側が口出しすれば、デザイナーはやる気を失います。売れる売れないはマネジメントの責任、デザイナーのせいにしてはならないでしょう。このところのデザイナー交代劇、概してビジネス側が勘違いしているのではと思えてなりません。デザイナーを外部からわざわざ招聘したら、デザイナーのクリエーションを信じた上でブランドはどういう路線で行くのか、主にどういう顧客ターゲットを狙うのか、どういう販路を強化するのかを十分話し合い、長くプロジェクトが続くようお互い努力すできでしょう。そうすれば2年足らずの短期間で解任なんてニュースは増えないはずですが。ロエベはレアケース人気が衰えないジョナサン・アンダーソンのロエベ、もうすぐ提携10年目になります。若手の外部デザイナーと老舗ブランドの協業では関係が長く続いている、いまとなってはレアケースです。既存の顧客だけに頼らずいろんな試み(例えばスタジオジブリとのコラボ)をして新規客の開拓をしていますが、デザイナーの挑戦をビジネス側がちゃんと受け止めている様子が目に浮かびます。こういうデザイナーとマネジメントの良好な関係がもっと増えるといいですね。
2023.07.29
古いパソコンの保存画像を整理していたら、10年前パリコレ出張したときにプランタン百貨店で撮影したCHLOÉ(クロエ)プロモーションの写真が出てきました。クロエは創業者ギャビー・アギョン(1921~2014年)から何人もクリエイティブディレクターが交代していますが、その割に世界観は大きく変わっていない珍しいブランドだな、と改めて思います。2013年春プランタン百貨店でのプロモーションそもそもクロエの服を私が初めて目にしたのは1974年、当時世界各国で活発なウール振興事業を展開していた国際羊毛事務局(ウールマーク)の業界人向けセミナーでした。このときパリで人気急上昇中と紹介されたカール・ラガーフェルドのクロエとケンゾー(高田賢三さん)の新作を初めて見せてもらい、大学生だった私は感動したことを覚えています。ブランド中興の祖であるカール・ラガーフェルド以外にこれまでどういうデザイナーがクロエに関わってきたのか、ネット検索をしてみました。1963年にカールがクリエイティブディレクターに就任して以来今日まで随分多くのデザイナーが関わってきたんですね。しかも、カール以外はほとんどが短期間務めて退任して(もしくは解任させられて)います。クロエ時代のカール・ラガーフェルド(クロエHPより)1952年 創業1963年 カール・ラガーフェルド1988年 マルティーヌ・シットボン1992年 カール・ラガーフェルド復帰1998年 ステラ・マッカートニー2002年 フィービー・ファイロ2008年 パウロ・メリム・アンダーソン2009年 ハンナ・マックギボン2011年 クレア・ワイト・ケラー2017年 ナターシャ・ラムゼイ・レヴィ2020年 ガブリエラ・ハースト2012年秋パリで開催されたクロエ回顧展そして、2020年からディレクターを務めるガブリエラ・ハーストの退任が先日発表されたばかり、またもや短命です。9月のパリコレ2024年春夏シーズンが彼女のクロエ最後のコレクションとなりますが、どうしてカール以外のデザイナーはみんなこうも短命なんでしょう。しかしながら、こんなにコロコロ交代しているのにクロエのフェミニンなブランド世界観はほとんど変わらず、歴代デザイナーによって引き継がれていますから、なんとも不思議なブランドと言えます。近年の人気ブランドの継承劇を見ていると、後継指名されたデザイナーは自分のカラーを打ち出すこととブランドDNAを守ることの狭間で揺れているケースが多いように感じます。ブランドによってはDNAは全否定、イメージチェンジを狙って既存のお客様から見放され、新規顧客を獲得する前にブランドを追われてしまうデザイナーは少なくありません。デザイナー交代ブランドを見るとき、いつも思うことがあります。既存ブランドを引き継ぐのであれば、後継デザイナーはブランドのこれまでの軌跡をしっかり検証し、ブランドDNAは最低限継承した上でクリエーションすべきではないか、と。それを無視して自分のキャラクターを前面に押し出したいのであれば、既存ブランドを継承せず、自らのブランドで自由にクリエーションすればいいのではないでしょうか。2013年春夏CHLOEコレクションかつてブランド継承劇を当事者として目の当たりにしたとき、私は後継デザイナーに「ブランド世界観の中であなたの信じるデザインをしてください。売れる売れないは考えなくていい、それはマーチャンダイジングを担う我々が考えることですから」と最初に話ししました。先駆者が築いたブランドDNAを守ることを前提に自分が信じるクリエーションをして欲しい、ショーで発表したものは必ず作って販売、売るのが難しそうなものでも絶対に生産中止にはしない、と約束しました。私はこれまで多くのデザイナーといろんなプロジェクトに関わり、若手たちにたくさんアドバイスもしてきましたが、「もっといい服を作って」と言うことはあっても、「もっと売れる服を作って」と言ったことはありません。ブランドビジネスではものづくりチームが納得いくクリエーションをすればいいし、ビジネスサイドがクリエーションに口を出すべきではない。しかしどの商品をどれだけ生産するかの判断はマーチャンダイザーの領域、デザイナーは口を挟むべきではないと私は考えます。販売スタッフにもよく言いました。「せっかく作ったのだから、売るのは難しいと簡単に諦めないでほしい。試着室にご案内してお客様の判断を伺ってみよう。結果的に売れなくても売る努力だけはしようよ」と呼びかけました。同時に高いプロパー消化率を勝ち取る発注術を指導、難しい商品をボツにしないでブランド全体の消化率を上げることは可能と伝えました。抜擢されたデザイナーとマネジメント側がブランドDNAをどうするのか最初に十分話し合い、合意してコレクション制作がスタートすれば解任トラブルは少なくなるでしょうし、カールとクロエやシャネル、フェンディのように蜜月関係は長く続くと思います。が、デザイナーとブランドのマネジメントとの不幸な別れが多いのは、最初にきちんと協議していないからではないでしょうか。このところ世界で名の通った欧米ブランドのデザイナー退任ニュースが次々発表されます。5年にも満たない、まるでお役所の人事異動のような交代続き、それぞれ事情はあるでしょうがあまりに早すぎます。ブランド側はしっかり話し合ってデザイナーがロングスパンでクリエーションできる環境を整え、デザイナー側はブランドDNAを受け止めてブレないコレクションを制作してほしいですね。
2023.07.15
銀座4丁目晴海通りにあるGAPフラッグシップ閉店のニュースには驚きました。これで東京都内には大型店がなくなります。これは日本市場撤退シグナルなのでしょうか。すでに低価格ブランドのオールドネイビーは日本撤退し、GAPとバナナリパブリックはこの先どうなるのか心配です。閉鎖が決まった銀座店大学卒業してすぐニューヨークに渡り、最初に私が買った服はポロシャツ2枚と綿パン1本、五番街西34丁目エンパイアステートビルの隣接ビル1階にあった小さなthe gapでした。値段は3点で50ドル程度、あの頃のthe gapはまだ100%オリジナル製造小売業態ではなく、リーバイスが品揃えの半分、ラングラー、リーなど他ブランドが約4分の1,残りが自社オリジナル商品、日本のカジュアル専門店となんら変わりないジーンズショップでした。日本に帰国して再びニューヨークを訪れた1989年、在住時代に見慣れたGAPは大変身を遂げ、お店の多くは大型化して店頭の品揃えは見応えあり、自社オリジナル商品は増え、ほんの一部にリーバイスという商品構成でした。翌年リーバイスとの取引を打ち切り、全商品自社オリジナルの製造小売業を標榜することになりますが、ニットやシャツなどの企画も充実していました。最初のロゴはthe gapでした出張から戻った私は、ニューヨーク三越駐在員だった友人の山縣憲一さんに「GAPがすごいことになっている」と興奮気味に話したら、山縣さんはそっけなく「ウソだろ」。そうですよね、GAPがカッコいいなんてそれ以前に米国駐在経験のある人なら想像つかないでしょうから。ジーンズにしてもチノパンにしても色展開やシルエット別展開、そしてサイズ展開とも豊富でしたが、一番感心したのはニットの企画でした。3色のコットン糸を使って3色のカラーブロック柄、2色ブロック柄、そして無地展開のプルオーバー、襟の形もクルーネック、Vネックがあり、レジの横にはこの3色を使ったソックスが並ぶ。色を絞ってニット糸の発注ロットをまとめ、3色をいろんな掛け合わせやデザイン、アイテムで使うので店頭はごちゃごちゃしない。VMD面でも整理整頓分類がしやすく、その分商品が綺麗に見えました。在住時代のthe gapでは見たことがなかった構図でした。2000年前後に私たちが百貨店の大規模リニューアルを進めていたとき、百貨店の経営層から若いバイヤーまでを連れて米国視察に頻繁に出かけました。このときGAPやバナナリパブリックのVMDや定数定量管理のみならず、広めの試着室や承りカウンター、通路の取り方までお手本にさせてもらいました。あの頃のバナナリパブリックの「トレンドをあえて外す」商品企画とプロモーションのワザには「すごいなあ」としびれました。キーカラーはグレー、差し色はレッド、グレーの濃淡でいろんな表情をお客様に提案する、これが当時のトレンドでした。が、トレンドに沿ってウインドーをグレーで飾る他店と違い、「カーキ」をキャッチコピーとして前面に打ち出し、カーキ、オリーブ、ダークブランのチノパンとニット商品をウインドーにも通販カタログの表紙にも起用したのです。このときのバナナリパブリックには勢いがありましたし、素材面でも質感のある日本製を多用していました。どん底だったGAPグループを外部からきて立て直した製造小売業のカリスマ経営者ミッキー・ドレクスラーCEOが退任して競合のJ・クルーに移籍すると、グループ全体が商品自体のことよりも価格主義、コスト削減に走り出しました。日本製素材は器用されなくなり、商品クオリティーはガクンと下がり、お手本にしてきた店頭のVMDや定数定量管理もずさんになってしまい、ついには同行出張者に「もう見なくていいよ」と視察対象リストから外したくらいです。発祥の地サンフランシスコの旗艦店かつてドレクスラーCEOがGAPに引き抜かれたとき、商品クオリティーがあまりに悪かったので社員に向かって「キミたちは自社商品を買いますか?」と質問、「自分たちが買いたくなるような商品を作ろう」と呼びかけ業務革新したと聞いています。が、カリスマ経営者が退場したあと、商品の魅力は大幅レベルダウン、結局再び視察のお手本にしたくなる小売店リストに戻ることはありませんでした。GAPが日本上陸した90年代半ば、日本ではGAPの商標は日本の某企業がすでに取得済み、GAPとの間で裁判になりました。この裁判で米国GAP側の証人として私は弁護士さんからサポートを頼まれ、某企業が商標登録した頃GAPがどの程度日本で知名度があったのか、またニューヨークから米国事情を業界紙に書いていた私がどの時点でどのような記事を書いたのかを記事コピーを提出してGAPを擁護しました。来日した創業一族のロバート・フィッシャー氏からお礼のディナーに呼ばれ、また米国視察の折にはニューヨークのお店を開店時間前に見学させてもらったこともあります。米国出張するたび何がしらかのヒントをくれたお手本、しかも商標裁判でサポートした思い入れのある会社がどんどん劣化し、ついにはフラッグシップ店を閉じるところまで来てしまいました。残念です。
2023.06.26
昨日、西新宿の学校法人文化学園創立100周年記念式典にお邪魔しました。まだ世の中和装が衣生活の主流だった100年前、洋装を教える学校を設立するとはものすごいリスクだったでしょう。しかも創立直後に関東大震災、戦争では校舎が焼失、順調に発展したわけではなかったようです。が、100年の間に世界のファッション界をリードする高田賢三さん、山本耀司さんはじめ多くのファッションデザイナーやパタンナー、スタイリスト、ビジネスパーソンを輩出、配付された資料を拝見して改めてこれまで文化学園に関わった先生方のご尽力を再認識させられました。フィナーレに登場した山本耀司さんこの記念すべき日、じつはパリでは来春夏メンズコレクション開催中、パリメンズ参加デザイナーで文化出身者は昨日の式典には参加できませんでした。山本耀司さんの姿がなかったのでvogue.comを検索したら、ショーフィナーレに登場した耀司さんの写真がありました。ほかにも文化服装学院出身で現在パリ出張中のデザイナーや業界関係者はたくさんいたでしょう。メンズコレの前後にスケジュールを移して記念式典は開催できなかったのかとも思います。式典メニューのひとつは卒業生コシノジュンコさんのトークショー(写真上)、聞き手は雑誌装苑編集長の児島幹規さんでした。どうしてジュンコさんがファッションの道を選んで岸和田から上京したのか、恩師小池千枝先生や生涯の友高田賢三さんとの出会い、装苑賞を史上最年少で受賞したときの話など興味深く拝聴しました。でも、この場に3年前コロナで亡くなった高田賢三さんがいたらなあ、パリ出張中の山本耀司さんがいたらなあ、と思ったのは私だけではないでしょう。私は高田賢三さんに一度伺ったことがあります。「これまでこの人にはかなわないと思ったデザイナーはいましたか?」と。賢三さんは即答で「ジュンコです。文化に入ってこの人にはかなわないと思いました」。同時代パリでしのぎを削ったイヴ・サンローランでもカール・ラガーフェルドでもソニア・リキエルでもなく、親友ジュンコさんだけだそうです。装苑賞史上最年少受賞記録はいまも破られていないジュンコさん、とんでもなくパワフルな存在だったのでしょう。ジュンコさん、賢三さん、ニコル松田光弘さんやピンクハウス金子功さんらはパリのオートクチュール協会が運営する学校でサンローラン、ラガーフェルドとクラスメイトだった小池千枝先生と出会ったことが幸運だったし、立体裁断の技術指導もさることながら先生が話してくれるパリ情報が彼らを大いに刺激したと昨日もジュンコさんがおっしゃってました。これこそ実学なんでしょうね。左)児島幹規さん 右)コシノジュンコさん歴代卒業制作のファッションショーも見ごたえありました。過去の学生の作品をストックするのは大変な労力。卒業後活躍して世界的なデザイナーになる人も過去にいたわけですから、学校が彼らの作品を保管する意味は大きいし、たまにこうして再公開するのも後進には刺激になっていいでしょう。なんたって100年ですから、卒業作品も充実、素晴らしい。少子化の中、これから学生集めも簡単ではないでしょうが、次の100年目指してカリキュラムを随時進化させ、世界のファッション界をグイグイ引っ張っていくようなデザイナーや新しい発想の経営者をたくさん送り出して欲しいです。2枚とも歴代卒業制作作品のショー
2023.06.24
この写真は昨年秋に開催された2022年度「毎日ファッション大賞」授賞式での受賞者記念撮影。アメリカには現役デザイナーを表彰するCFDA(米国ファッションデザイナー協議会)賞があり、日本にはかつてFEC(日本ファッションエディターズクラブ)賞がありましたが、現在は1983年以来40年続く毎日ファッション大賞が唯一のデザイナー対象の賞になってしまいました。1985年CFD(東京ファッションデザイナー協議会)設立、東京コレクションを始めた翌86年にCFDは毎日ファッション大賞特別賞に選ばれ、事務局長だった私が表彰状を受け取りにステージに上がりました。この年の大賞が山本耀司さん、新人賞が山本さんの会社から独立してブランドA.Tを立ち上げた田山淳朗さん、企画賞には堤清二さんと西武セゾングループが選ばれました。ステージに上がった堤さんが、西武百貨店のファッションとの取り組みはパリ在住の実妹堤邦子さんと三宅一生さんのお陰ですと発言されたのがとても印象的でした。多くの百貨店がライセンス事業(ブランドと提携して日本生産の商品を販売)がほとんどだった時代、西武百貨店はヨーロッパの主要ブランドをたくさん直輸入して売り場で育てた要因は邦子さんのヨーロッパネットワークだった、とこのとき初めて納得したことを覚えています。同賞開始から選考委員長をしていたのが元毎日新聞政治部記者だった鯨岡阿美子さん。1988年2月その鯨岡さんが急逝(享年65歳)。亡くなる直前、選考委員会を改革したいけれどご自分は退任する、「あとはよろしくね」と直接言われました。デザイナー組織の事務局を預かる人間としてはニュートラルな立場でいたい、デザイナーの誰が今年は良いかなんて話し合う場には出たくありません。が、親友だった毎日新聞編集委員市倉浩二郎(=当時)に「クジラさんの遺言だと思って引け受けろ」と説得され、私は1988年度から7年間選考委員を務めさせていただきました。また、市倉編集委員と共に鯨岡阿美子賞を新設するため発起人となり、業界関係者に運営費用の寄付をお願いしました。1995年4月CFD議長を退任して一般企業に移籍、受賞デザイナーや企業団体と自分が所属企業する企業との利害関係を勘ぐられたくないので1995年同賞の選考委員を辞任しました。クリエイターの創造性を顕彰するような賞は誰の目にも公平に運営されるべき、ファッション流通業に転職した私は遠慮した方がファッション大賞のためにも良いと考え退場しました。だから、1995年から2012年までの17年間、私は選考委員でも推薦委員でもなく、毎日ファッション大賞とは無縁、17年間各部門の受賞者の顔ぶれに私は全く責任がありません。しかし、ファッション流通業から距離を置くことになった2013年、再び事務局に声をかけられて選考委員に復帰しました。なのでこの10年間各部門受賞者の人選には責任があります。たとえ自分が推薦した人や企業、団体が最終選考に漏れようが、委員の一人ですから結果に文句は言えません。同賞の選考委員に復帰した2013年委員の皆さんと選んだ大賞は、アンダーカバーの高橋盾さん(2度目の受賞)でした。続く2014年が当時イッセイミヤケを担っていた宮前義之さん、15年はサカイ阿部千登勢さん(2度目)、16年はファセッタズム落合宏理さん、17年はハイク吉原秀明さんと大出由紀子さん、2018年はトーガ古田泰子さん(2度目)、2019年はアンリアレイジ森永邦彦さん、20年はビューティフルピープル熊切秀典さん、21年はトモコイズミ小泉智貴、そして昨年がケンゾーのNIGOさん(上の写真前列中央)でした。それぞれ時代の空気を反映している方々ではないでしょうか。昨年度大賞受賞のNIGOさん第40回授賞式で配布されたプログラムどの賞も重要ですが、自分が設立に関わったので鯨岡阿美子賞には特別の思いがあります。クジラさんのように次世代の人材を育てたメンター、技術や地方のものづくりの発展に尽力してきた縁の下の力持ちを見つけて社会に「こんな素敵な方がファッション業界にはいるんですよ」と紹介したい、と毎年アンテナ拡げて人選してきました。選考委員に復帰した2013年、長年パリコレのランウェイで写真撮影し、時には欧米有力メディアのカメラマンの圧力に立ち向かって日本人カメラマンの地位向上に踏ん張った大石一男さん、そしてその年パリコレから帰国して突然急逝した映像取材インファスの故・山室一幸さん(亡くなった時はWWDジャパン編集長)のお二人が受賞、パリコレ現場の凄まじい陣地取りを知る者としては感慨深いものがありました。また、クジラさんとは長く親交があった原由美子さんはかつて私が選考委員になったときからずっと選考委員を務めてましたが、2013年で委員を退任され、翌14年に受賞が決まりました。クジラさんも旧知の原さんが受賞したのできっと喜んでいるはず、委員退任の翌年の受賞も強烈に記憶に残る1つです。プログラム 1983年度第1回と1984年第2回受賞者の欄久しぶりに昨年の授賞式プログラムを開いてじっくり読みました。過去40年間ファッションの世界で起きたことがあれこれ走馬灯のようにぐるぐる....、まさに日本のファッション業界の歴史が凝縮されています。「こんな方もいたなあ」もあれば、「この年に受賞していたのか」と意外に感じた受賞者もいます。「面白い企業を表彰したんだなあ」もあります。新人賞を受賞したあと数年後に大賞を贈られたデザイナーもいれば、新人賞受賞のあと残念ながら伸びずに市場から早く消えてしまったブランドもあります。すでに亡くなられた受賞者も少なくありません。授賞式プログラムを眺めながら、近年デビューした若いデザイナーやエディターは全く知らない世界なんだろうな、と。40年間の受賞者とその活躍ぶり、なんとか次世代にも伝えたいです。本当は1冊の本にまとめてもらえると良いんですが。東京コレクションが終わってそろそろミラノではメンズ来春夏コレクションが発表されるタイミング、今年も毎日ファッション大賞の議論が始まる季節になりました。過去何度も選考の議論に加わってきましたが、毎回クリエーションで人を評価するのは本当に難しいと思います。自分とは全く違う意見の選考委員の方々の発言に感化され、自分の推薦をおろしたこともこれまで度々ありました。今年はどういう人、企業に決まるのか、業界人の一人として発表が待ち遠しいです。
2023.06.13
前述したIFIビジネススクールは1994年試験的な夜間プレスクールを開講、その後夜間プログラムを増やして98年には全日制2年間マスターコースがオープンしました。知識やノウハウを提供するのでなく、山中鏆理事長の言葉を借りるなら「実学で問題解決能力を身につけさせる」、これが建学精神でした。DCブランドブーム時代に人気があったアトリエサブの田中三郎社長から「息子を海外のどの学校に留学させたらいいだろう」と相談されたとき、数ヶ月後にビジネススクール全日制コースが始まるとIFI入学を勧め、また大学出たらファッションの道に進みたいと言い出した私の甥にもIFIを勧めました。実学で鍛える学校、なにも海外に行かなくても日本で教育できると信じていましたから。1986年私塾「月曜会」を始めたとき、自分なりの実践教育を日本でやってみようと考えました。そのベースとなったのは、私自身がかつて受講したパーソンズ(Parsons School of Design)夜間プログラムのバイヤー研修。売り場に並ぶ商品そのもの、品揃え、陳列方法が教材、毎回出される宿題は自ら売り場に行って考えなければならないものばかり、特に「敵情視察」はキツい、でも最も役に立った授業でした。業界の中心地7番街西40丁目角のParsons校舎1994年2月、IFIに委託されてニューヨークに出張、パーソンズの関係者にヒアリングして同校の実践教育をレポートしました。このときその教育方針を詳しく教えてくれたのは、名物学部長だったフランク・リゾーさん(交友録32で紹介)、マーケティング担当だったディーン・ステイドルさん、デザインの歴史を指導するジューン・ウィアーさん、多くの米国デザイナーを育て「ゴッドハンド(神の手)」と称されたパタンメーキングの名手ツヤコ・ナミキ先生でした。中央:ジューン・ウィアーさん、右:ディーン・ステイドルさん私がニューヨークコレクションの取材を開始した70年代後半、ジューン・ウィアーさんは専門媒体WWD紙の編集長でした。パリ五月革命に遭遇して「オートクチュールに未来はない」と渡米を決断した若き三宅一生さんが最初にポートフォリオを見せに行ったのがウィアー編集長。彼女は三宅さんのポートフォリオを見るなり当時人気デザイナーだったジェフリー・ビーン氏に電話をかけ、「ジェフリー、いま私の目の前にあなたにぴったりの若者がいるの。そちらに行かせるから会ってあげて」。こうして三宅さんはジェフリービーン社でアシスタントデザイナーを務め、のちに日本に帰国しました。「あの日のことはいまもよく覚えているわ。イッセイのポートフォリオを見た瞬間、ジェフリーに紹介しなきゃと思ったの」。上の写真撮影のときにウィアーさんから直接伺った話です。彼女はWWD編集長の後ニューヨークタイムズ紙日曜版エディターになり、退職してパーソンズで教鞭をとり、大手流通企業の社員研修でもファッションデザインと時代との関係を教えていました。ジューン・ウィアーさん概して、ファッションショーの最前列に陣取る主要媒体のベテランエディターや編集長は眉間にシワを寄せ、眼光鋭く登場する新作をチェック、きつーい性格なんだろうなという女性が少なくありませんでした。が、彼女は珍しく温和で人当たりの優しい方、多くのデザイナーに愛されました。この人の存在を日本に伝えたいと思った私は原宿クエストビルが主催するフォーラムの特別講師に彼女を招聘、企業研修用の貴重な写真とともにモードの変遷を解説してもらいました。ツヤコ・ナミキさんは以前このブログで触れた原口理恵基金「ミモザ賞」の受賞者のお一人。ペリーエリスのアシスタントデザイナーだったアイザック・ミズラヒ氏が独立して自分のブランドをスタートするとき、パーソンズの恩師だった並木先生にパタンメーキングをお願いし、学校で指導しながらアイザック社のチーフパタンナー兼務でした。ゴッドハンドの並木ツヤ子さん以下はミモザ賞10周年記念本に寄せられた教え子デザイナーたちのコメント。「花には太陽があるように、我々には並木ツヤ子がいる。彼女は太陽のように力強く、何も言わず、キラキラ輝きながら、至極当然のように創造を可能にする。」 (アイザック・ミズラヒさん)「誰しも生きる上で、アドバイザーや教師、すなわち自分を親身になって支え、励ましてくれる人を求めるものです。生徒が自分の創造性を模索する途上で経験する色々なこと(良いことも悪いことも)を常に温かく見守り、理解を示してくださる師、それが並木さんでした。先生はいつも公私両面で私を支えてくださいました。彼女はまさに時間や年齢を超えた存在です。」 (ダナ・キャランさん)「並木ツヤコ子さんは私にとって奇跡のような存在です。先生、アドバイザー、セラピスト、何でも話せる母親、魔術師、友人としての側面をすべて兼ね備えているからです。こうした面を持つ並木さんはこの地球に存在する最高の人間であり、私は常に敬愛申し上げております。」 (ジェフリー・バンクスさん)3デザイナーのコメントからも並木さんがいかに慕われていたかわかるでしょう。会食している間は失礼ながらごく普通の優しいおばさん、しかし話題がこと人材育成になると急に目がキリッと鋭くなって別人の表情に豹変、並木さんは根っからの教育者でした。パーソンズ退官後帰国され、目白ファッション&アートカレッジ(小嶋校長がパーソンズ出身)で指導されていました。恐らくもう引退されていると思いますが。パーソンズ流実学を最もわかりやすく解説してくれたのがディーン・ステイドルさん。私がニューヨークで取材活動をしていた頃ファッションショー会場でよく見かけたマーケティング専門家です。彼の授業の教材はニューヨークタイムズ紙の記事、いわゆる教科書の類いではありません。例えばパリコレの記事を読んで、書いたエディターの意見を自分自身はどう思うのか学生に発表させます。インターン研修でデザイナーブランドに配属されると、学生は売り場に行ってブランドの想定ターゲット、コレクションの特徴、市場競争力を考察、アシスタントデザイナーになったつもりでデザインします。そのためのマーケティングの目をステイドル先生は鍛えますが、ここにはアカデミックな「マーケテイング論」や「マネジメント論」は存在しません。学生から慕われていたステイドル先生90年代前半からニューヨーク出張のたびステイドルさんの講座で私は特別講義を担当しました。「もっと米国以外のブランドにも目を向けるべき」と発言したら、米国有力ブランドからの誘いを振り切ってヨーロッパに渡った学生が数人いて、「あなたの影響で優秀学生はヨーロッパに行ってしまったよ」と言われました。年間最優秀学生の一人は「どうしても日本で働きたい」と熱望、卒業後私は彼女の来日を根回ししたこともありました。特別講義の最後に私は必ずこのセリフを言いました。「いま私が教えたことは、かつて私がこの教室で教えてもらったことです」と。パーソンズの夜間プログラムで売り場の見方を鍛えられた日本人が後年同じ教室で学生にそれを伝授する、一種の高揚感がありました。出張のたびステイドルさんとはよく意見交換しましたが、ある日彼から1つ頼み事をされました。ウィスコンシン大学時代に学生寮のルームメイトだった日本人を探して欲しい、と。自宅が火事で学生時代のものは全て消失、記憶にあるのはルームメイトのニックネーム「ベン」、彼の実家は「ティーカンパニー」、「エンペラー(天皇陛下)と交流があるようだ」の3点でした。帰国して3つのヒントをもとに日本茶専門紙などに当たってもらいましたが、ベンはなかなか発見できません。ところが読売新聞社の生活家庭部の若い記者さんが「ひょっとしたら」と有力候補を教えてくれたのです。記者さんからもらった番号に電話して、奥様に「ご主人は若い頃ウィスコンシン大学に留学されていましたか」と訊ねたら、まさにステイドルさんのルームメイトでした。有名な日本茶会社の経営者、天皇陛下(現在の上皇様)のご学友、ファーストネームはBで始まる名前なのでニックネームは「ベン」。ステイドルさんは30余年ぶりにベンさんと日本で再会できました。しかもベンさんは私を松屋にスカウトしてくれた古屋勝彦社長をよく知る先輩、なんとも不思議なご縁でした。私流の実学はパーソンズの先生方との交流でヒントをたくさんもらい、何度も教え方に改善を加えて作ってきたものですが、一番見習ったことは、学生に対する厳しい姿勢と同時に優しい目線でした。人を育てるコツはなんといっても愛情ですから。
2023.06.06
このハッピーな表情の写真は、私の誕生日を祝福するために集まってくれた久々の同窓会で元教え子が撮影してくれたものです。今日はそこに至るまでの話を。1985年5月ニューヨークのファッションウイーク終了直後、繊研新聞社主催ニューヨークセミナーのために通常の短期帰国した私は、ファッションデザイナーの団体を組織化することになり、結局そのままずっと東京に滞在して設立準備。復路の航空券は期限切れ、再びニューヨークに行けたのは4年後の1989年でした。85年7月CFD(東京ファッションデザイナー協議会)が正式に発足、11月に初の東京コレクションを開催。その直後、通商産業省(現在の経済産業省)生活産業局繊維製品課の課長以下数人がCFDオフィスに。FCC(ファッションコミュニティーセンター)とWFF(ワールドファッションフェア)構想の具体化のための検討委員会に委員として参加するよう求められました。ハコモノと大型イベントに全く興味はなくお断りしましたが、いろんな方に説得されて最終的には引き受けることに。弱冠32歳でした。検討委員会に参加すると、30代はおろか40代の委員さえいない完全なアウェイ、発言の順番は年齢からか最後の最後でした。業界ベテラン識者たちの非現実的な意見を長々聞いていた私は我慢ならず、委員会終了後渡辺光男課長に「年功序列で発言の順番が回ってくるなら時間の無駄、次からは挙手で発言させてください。でなければ委員を辞めます」と申し上げました。全国各地にFCCという名のハコモノを建設して情報発信しようという構想自体に無理があり(結局は建設されたものの情報発信拠点として機能している例は皆無、ほとんどは赤字)、どう考えても無駄なこと。それよりもファッション流通業界は人材育成をもっと強化すべき、仏壇つくる話よりも中に入れる仏様の話を優先すべきじゃないでしょうか、と。このとき若手官僚が「いったい誰が人材育成できるんですか」と質問、「やる気のある人が学びたい若者を集めてやればいいじゃないですか。なんなら私がやってみましょうか」という話になり、CFDオフィスで毎週1回月曜日夜に開講する受講料無料の「月曜会」を始めました。定員は会議室におさまる25人、新聞告知で募集しました。1986年秋のことです。ちなみに月曜会の参加者は、インテリアやプロダクトデザインで活躍している吉岡徳仁くん、バオバオイッセイミヤケを大ヒットさせた松村光くん、ワールドのアンタイトル企画にも携わったオブジェスタンダール森健くん、ショープロデュースのドラムカンを起こした田村幸司くん、ほかにも小売店、テキスタイル、アパレルメーカー若手社員や業界を目指す学生たちでした。開講して4年目、墨田区役所職員が月曜会を見学、ファッションビジネスの人材育成機関を墨田区役所移転後の敷地(両国)に建てるFCCに作って欲しいと頼まれました。区役所の方々にも「ハコモノよりも中身が重要」と言ったからです。こうして墨田区役所でファッション産業人材育成戦略会議が発足、繊研新聞社編集局長松尾武幸さんに座長をお願いし、コルクルーム安達市三さん、オンワード樫山廣内武さん、ジュンコシマダ岡田茂樹さん、京都服飾文化研究財団キュレーター深井晃子さんらで議論を開始、構想がほぼまとまった時点で松屋の社長を退任したばかりの山中鏆会長(このあと東武百貨店社長に就任)を迎えました。夜間プログラム初回の講師は山中理事長その後人材育成機関の構想は紆余曲折あって墨田区役所の手を離れて通商産業省マターとなり、最終的には財団法人の形でファッション産業人材育成機構(通称IFI)が発足。東京都が10億円、墨田区が20億円、産業界が20億円出捐して産官協同50億円規模の財団法人としてスタート、山中さんは理事長兼学長でした。1994年9月にはみんなで議論したカリキュラムや指導方法をテストしてみようとアパレルマーチャンダイジングとリテールマーチャンダイジングの2クラスの夜間プレスクール(6カ月間週1回)を開講、前者は岡田茂樹さんが、後者は私が主任講師としてそれぞれのクラスを半年間運営しました。翌95年からは「デザインの知識」や「商品知識」などマーチャンダイジング以外のクラスを増やし、私は夜間プログラム全体の責任者として4つのクラスを統括することに。このとき私はCFD議長を退任して松屋の東京生活研究所専務所長でしたが、山中理事長と松屋の古屋勝彦社長の合意で兼務となり、ほぼ毎日銀座の松屋と両国国技館前のプレハブ仮教室を行き来しました。当時の授業風景念願の全日制クラスが始まったのは1998年。朝から夕方まで講義があり、一般学生は2年間、出捐企業からの派遣生は1年間学びました。私は月曜日から木曜日までの夜間プログラムに加え、全日制でも2つの講座の授業を担当、多くの若者を教えました。授業が終わると両国駅前のちゃんこ料理店や寿司屋で深夜まで付き合い、夜間クラスと全日制を合わせるとのべ数百人の若者と濃密な交流をしました。ところが、2000年に百貨店とアパレル企業の2社兼務になってしまい、しかも両社とも大きな業務改革を予定していたので学校での指導は時間的にも肉体的にも難しく、IFIビジネススクールからは完全に手を引くことに。IFIビジネススクール全日制1期生たちに祝福されてそのIFIビジネススクール全日制1期生の有志が久しぶりに集まり、私の誕生日を祝ってくれました。彼らの入学は1998年4月、一般学生の卒業は2000年3月ですから、ほぼ4半世紀ぶりの再会という人もいました。飲み放題のイタリアンレストランなのに4時間半もワイワイガヤガヤ、時には真面目に今後のファッションビジネスや海外展開戦略の話なども飛び出しました。こうした教え子たちとの飲み会は本当にハッピー、こういうのを「教師冥利につきる」と言うのでしょうね。売り場の生きた教材を使って教える実学、これまでIFIビジネススクール以外にも専門学校や所属企業でも週1回ペースで指導してきました。85年に帰国してこれまで合計すれば数千人にマーチャンダイジングや売り場の見方を伝えてきましたから、ファッション流通業界にはたくさんの教え子がいます。彼らにはもっともっと活躍して欲しいです。
2023.06.03
バレエシューズの名門Repetto(レペット)ジャンマルク・ゴシェ社長の訃報を知らせてくれたのは、元八木通商の馬場宗俊さんでした。今日は長い付き合いの馬場さんとのつながりを。私がニューヨークに渡った1977年春、一人の新人ファッションデザイナーがセブンスアベニュー(多くのショールームが集まる地区、ファッションアベニューとも呼ばれる)でデビューしました。以前この交友録で触れたペリー・エリスです。前列中央がペリー・エリス本人Perry Ellisのコレクション八木通商は当時阪急百貨店のためにニューヨークのデザイナーブランドとの提携を探っていて、どのデザイナーに期待できるか意見を求められました。私はデビューして間がないペリー・エリスの将来性に賭けるべきでは、とニューヨーク出張中の八木雄三さん(現社長)に推薦しました。「本当に伸びると思う?」と何度も念を押されたので、「絶対に伸びます」と答え、「ペリーのところにはすでに6社の日本企業からオファーがあり、サブライセンシー(商品製造するアパレル企業)が見つかるまで契約できないなんてことでは遅すぎます」と言いました。東48丁目の寿司屋初花でのこんなやりとりがあって八木さんは決断、サブライセンシーが決まる前にペリーと契約を結びました。その2年後にはもうカルバンクライン、ラルフローレンと並ぶ「ビッグ3」にペリーエリスブランドは成長していましたから(ダナキャランブランドはまだ登場していない)、「絶対に伸びます」と断言した私は間違っていませんでした。馬場宗俊さん提携後八木通商本社サイドでペリーエリスブランド担当として現れたのが馬場宗俊さんでした。長く経理部門にいた馬場さん、商社マンには珍しく海外駐在経験ゼロでした。担当したペリーエリスはシーズンごとに急成長を続け、国内市場では阪急百貨店のPBながら他の百貨店からでも展開。婦人服製造を担当したレナウンは米国側と同じ生地をヨーロッパから輸入して本気のものづくり、しかもペリーエリスとジーンズ最大手リーバイスがタグを組んだペリーエリスアメリカ(のちにグッチを牽引したトム・フォードはここにいた)には日本製テキスタイルを売り込む。担当だった馬場さんはものすごく忙しかったと思います。私が帰国してCFDで東京コレクションの運営を始めた頃、馬場さんはペリーエリス事業を離れ、英国の新興ブランド「マルベリー」の担当になり、六本木から西麻布に抜ける星条旗通りに路面店をオープンしました。ちょうどこのころ松屋社長だった山中さんから創業120周年記念の改装計画を伺い、私は百貨店経営の神様にリニューアルにおいて百貨店がやるべきことを申し上げました。売上をとるために海外有力ブランド導入も悪くはないけれど、同時にまだ一般消費者の間では無名のブランドを導入して売り場で育てる覚悟を持たないといけないのでは、と。山中さんは「そんなブランド、どこにあるんだ!」。私は「あくまで例えばの一例ですよ」と前置きしてマルベリーの名をあげました。まだ世間ではほとんど知られていないブランド、毎シーズンコンセプトにブレはない、インポート商品のデリバリーに不安はなさそう、この3つの必要条件を満たしているブランドだからと例に出しました。翌日、年末の忙しい時期にもかかわらず山中さんは星条旗通りのショップに現れ、「太田くんが行けというから来たんだよ」と馬場さんにおっしゃったそうです。馬場さんからすぐに電話があり、「山中さんが突然いらっしゃったのでびっくりしました」。翌日には山中さんからも電話があり、「マルベリーに行ってきたよ。キミが言う意味がよくわかった」、神様はとにかく行動がスピーディーでしたが、馬場さんはじめ現場にいたスタッフたちは何が起こるのか心配だったかもしれません。コートの織りネームそして翌年、当時まだ無名だったマルベリーのショップが松屋銀座1階に誕生したのです。ほぼ同時期に英国の創業者ロジャー・ソール氏は馬場さんを引き抜いて八木通商から独立、星条旗通りから南青山5丁目スパイラルビルの裏にショップを移転、新たな日本のパートナーを探し始めました。このとき出資者として登場したのが、元松屋ファッションコーディネーター西山栄子さんのご主人でテキスタイルコンバーターの社長だった奥井新一さんでした。マルベリーの新店舗兼オフィスはCFDの事務所から徒歩5分、よく馬場さんを訪ねました。話はちょっとそれますが、英国王室アン王女が来日してマルベリーショップを視察の際、青山通りからショップまでの数十メートルに赤い絨毯、さすがに特別なおもてなしでした。その後馬場さんはマルベリージャパンを離れてフリーのコンサルタントになって伊藤忠商事の海外ブランド事業部を手伝っていたとき、ハンティングワールドを担当していた細見研介さん(現ファミリーマート社長)を紹介されました。このとき私も転職して百貨店で売り場改装に携わっていたので、ハンティングワールドの展開オファーを受け入れました。次に馬場さんがサポートを始めたブランドがイタリアのカジュアル系バッグ「マンダリナダック」。このとき紹介されたのが有力コンサル会社からマンダリナ幹部に転じたマルコ・ビッザーリさん、のちにステラマッカートニー、ボッテガヴェネタのCEOを経て現在グッチ本社のCEOです。マンダリナ時代からユーモアがあって鋭い洞察力、ほかの幹部とはちょっと違った存在でした。振り返ってみれば、顔の広い馬場さんからは内外のたくさんの業界関係者を紹介されました。レペットのゴシュさん、マルベリー創業者のソールさんや現グッチCEOのビッザーリさん、伊藤忠商事の細見さん以外にも、三喜商事社長の堀田康彦さん、サンモトヤマ茂登山長市郎さん親子、この交友録64で触れた元神戸大丸の宝永広重さん、ミントデザインズの勝井さんら、ほかにも大手アパレルの取締役たち、若手テキスタイルプランナー、ジャッキー・チェンが日本のお母さんと慕った小料理屋の女将やジャッキーの国際弁護士までいろんな方を紹介されました。また、私の元部下たちの中には馬場さんに仕事を斡旋してもらったり、ものづくりのネットワークを教えてもらったりとお世話になった者も少なくありません。私にとってはありがたい仲間です。
2023.05.30
クールジャパンの海外事業展開に関わったとき、メディアやコンテンツビジネス関係者に度々申し上げたことがあります。「日本のコンテンツでいったい誰が儲けたのでしょうか」、と。日本のアニメは素晴らしいと言われ続けてきました。が、日本コンテンツで儲けてきたのは日本企業ではないと言っても過言ではありません。世界でもてはやされる日本コンテンツの経済効果は、海賊版をジャンジャン作って販売してきた中国人と日本アニメを安く手に入れて世界市場に普及させたハリウッドのユダヤ人にもたらされ、日本のアニメ制作現場は「ブラック」のままなのです。つまり世界で人気はあっても儲け損なってるから概して現場スタッフの賃金は低いんです。そんな中でおそらく日本側がしっかり収益をあげている稀有な事例はポケモン(ポケットモンスター)ではないでしょうか。ポケモンGOもアニメそのものも玩具も世界で大人気、ピカチュウは世界で最も知名度の高い日本キャラクターであり、しかも日本側はしっかり収益をあげています。海外でも知名度の高い某キャラクターを海外市場で展開する日本のコンテンツ企業の役員に聞いたら、「海外は赤字」とか。海外小売店の玩具売り場でよく見かけるんですが、現地小売店、エージェントや代理店はしっかり儲ける一方日本のコンテンツホルダーは赤字。ちょっと情けないです。さて、世界でも大人気ポケモンに日本の工芸作家やクリエイター20人が多種多様な素材、技法でポケモンに挑んだ作品を展示する展覧会「ポケモン x 工芸」が金沢市の国立工芸館で開催中です。ファッションの世界からはテキスタイルデザイナー須藤玲子さんがニードルレースでチャレンジ、900本の黄色いピカチュウ模様のレースで構成される「ピカチュウの森」を展示されています。須藤さんとは近々お会いすることになっているので、その前にしっかり見ておかないといけないと思って視察してきました。同展覧会を紹介するテレビ番組で須藤さんが1つだけ黄色ではないピカチュウがあると解説されたので、ほとんどの観客は須藤さんのイタズラ箇所を注意深く探していました。中には係員に「どのあたりにいるんですか」と質問し、係員から「探してみてください」と言われる光景も。でも、聞きたくなる観客の気持ち、よくわかりますね。私も聞いてしまった一人です。須藤玲子さんの「ピカチュウの森」1つだけオレンジ色のピースがあります様々な工芸ジャンルの作家たち、人間国宝のベテランもいればピカピカの若手も参加、20世紀末に登場した日本を代表するキャラクターを自らの専門領域でそれぞれが特徴的な作品を創作、ユニークな展示をしています。個人的には、信楽焼の怪獣のような大きな作品(桝本佳子さん)に日本固有の伝統美と現代デザインとの融合を強く感じました。[ガラス]池本一三さん作[陶磁]桝本佳子さん作[陶磁]植葉香澄さん作[金工]吉田泰一郎さん作[陶磁]林茂樹さん作[金工]坪島悠貴さん作展覧会に寄せて株式会社ポケモンからはこんなコメントが。ポケモンと工芸が出会うと何が起こるだろうーーそんな期待に胸をワクワクさせながら東京国立近代美術館工芸館(現・国立工芸館)を訪ねたのは、2019年秋のことでした。日本の工芸は、何世代にもわたって受け継がれた美意識や技を今に伝えると共に、時代性や作家の探究心によって「進化」しています。ポケモンというテーマをぶつけることで、作家の心に火をつけたいという思いと、アートとのかけ算による豊かなポケモン体験を、多くの方に楽しんでいただきたいという思いがそこにはありました。(中略)20名のアーティストがポケモンにどのように向き合い、どのような美とわざをしかけてきたのか、ぜひ見て、感じてください。展覧会は来月11日(日曜日)まで開催。まだご覧になっていない方、近隣の「金沢21世紀美術館」とこちらの「国立工芸館」を同時にぐるっと回ってはいかがでしょう。とにかくおすすめです。
2023.05.26
連日売り場視察を終えて集合古い写真を整理していたら1995年10月ニューヨーク研修時に撮影したものが出てきました。場所はセントラルパークに面した西59丁目と6番街角にあったサンモリッツホテルのスイートルーム(人事部が研修事務局部屋としてキープ)、椅子に座って若手バイヤーに向けて何か説明しているのが私です。日中は休みなく売り場を歩き回って夕方この部屋に集合、それぞれ視察した小売店の良い点悪い点を若手社員が発表します。コメントに対して私が意見を述べる現地研修、参加者は1日2万歩ほど歩くので恐らく疲れと時差でかなり眠かったはずです。が、みんな真剣でした。私が引率するニューヨーク研修の第1回目、なんと8泊10日、同じマンハッタンに滞在という非常に贅沢で中身の濃いツアーでした。せっかくニューヨークに来たんだから、夜はブロードウェイに行くもよし、ヤンキース野球観戦もよし、いろんな体験をすべきというおおらかな研修でもありました。みんなで徹底的に歩いてニューヨークの売り場に学び、日々のマーチャンダイジング、あるいはのちの店舗リニューアルに役立てたいという狙いでした。夕方のミーティングの後ディナーや劇場に出かけ、事務局部屋に戻って深夜3時頃まで酒盛りしながら意見交換、歓談がなかなか終わらないのでこの部屋で寝る人事部スタッフは連日寝不足、大量のドリンクや氷の買い出しも引き受け、最終日はクタクタで気の毒でした。生きた教材として何度も通ったBERGDORF GOODMAN参加者には最低でも滞在中2回はバーグドルフグッドマン視察に行くよう勧めました。ホテルからワンブロック徒歩5分、参加者は徹底分析するため何度もバーグドルフに通いました。古くて商品に新鮮味のなかった老舗百貨店が支店を売却して資金を作って大改装、世界の主要デザイナーやブランド企業から「最も取引したい小売店」に変身したのですから、バーグドルフは最高の生きた教材でした。「将来バーグドルフのような大改革できたらいいね」、毎回ニューヨーク研修でみんなに言い続けました。「若手だけでなく中間管理職、幹部もニューヨークに連れて行ってくれないか」と社長に言われ、若手が8泊10日で回った同じコースを多忙な部課長たちは4泊6日のハードスケジュール、とにかくみんなで同じ店舗を回って情報共有、若手から経営トップまでが同じベクトルで大改装プランを立てました。そして6年後の2001年、1980年代初頭にバーグドルフグッドマンが敢行したような大規模リニューアルが実現、お店のイメージは大きく変わりました。まさしく人材育成の賜物でした。海外研修も含め人材育成を重要課題として取り組んできた歴代経営者でなければ、人材育成は簡単に経費カットされていたでしょう。人材あっての企業、人材育成と真剣に取り組まない企業に明日はないと言っても過言ではありません。「先輩の背中を見てノウハウ盗め」なんていい加減なO.J.T.(オン・ザ・ジョブ・トレーニング)はそろそろやめないと....。
2023.05.16
昨夜友人の馬場宗俊さんから仰天メールが届きました。フランス名門バレエシューズブランドRepetto(レペット)社長ジャンマルク・ゴシェさんの訃報です。馬場さんは「数日前も電話でジャンマルクと普通に話したばかりなのでびっくりしました」、と。どうやら突然のことだったようです。レペットを買収したジャンマルク・ゴシェさんジャンマルクは湾岸戦争のとき戦地で取材していた戦場ジャーナリスト。通常の給与のほかに危険手当が支給されても戦地では一切お金を遣う場面がなく、かなりお金が貯まったそうです。戦争で身の危険を感じて停戦後に転職、リーボックフランス法人の幹部だったところ業績不振でレペットが売りに出されていたので買収、1999年ブランドビジネスの舵取りを始めました。その資金は戦場記者時代の預金だったとか。レペット(1947年創業)のバレエシューズは世界のバレリーナのみならず、フランスのスーパースターだったセルジュ・ゲンスブールやブリジット・バルドーが普段の生活に愛用したことで60年代に認知度が上がったブランドでしたが、20世紀末には「ホコリの被ったブランド」と化していたようです。レペットのサイトよりジャンマルクがレペットを買収して1年後、馬場さんにジャンマルクを紹介された私はバレエシューズの技術を使って「履いて痛くない婦人靴」のコラボレーションをお願いしました。私もブランド企業の経営者になったばかり、雑貨の強化が大きなテーマでした。すぐに担当者をレペットのフランス工場に送り、「レペットの技術を活かしたデザインを考案してくれ」と命じました。レペットにとっては初めてのファッション企業とのコラボレーション、ジャンマルクは機能最優先のバレエシューズの世界とは違うデザイン優先の世界に着目、レペットの新しい方向性はバレエシューズの技術を活かした婦人靴ビジネスと決め、ボンマルシェはじめ大手小売店の婦人靴売り場で販路を拡大、市場での存在感は一気に高まりました。以来、有名デザイナーブランドとのコラボを次々手掛け、婦人靴売上を拡大、フランス経済界の優秀経営者賞を受賞しました。私は最初の扉を開いただけですが、コラボ以降律儀にずっと恩義を感じてくれ、付き合いはその後も続きました。私が復帰した百貨店はレペットの東京路面店から至近距離、日本の提携企業にレペット導入をお願いしても話はなかなか進みません。そこで、私は直接ジャンマルクに出店要請、しかもそのオープニングにはミナペルホネン(皆川明さん)のテキスタイルを使った特別商品の製造を頼みました。プランタン百貨店地下婦人靴売り場のレペット百貨店インショップのオープニング日、ミナペルホネンのファンがレペット特別商品目指して開店時間前から行列、あっという間に売り切れてしまいました。皆川さんはデビュー時に八王子での合同展示会でたまたま見つけた新人デザイナーだった人、レペットは初めてコラボを引き受けてくれたフランスブランド、格別思い入れがある2ブランドが取り組んでくれたコラボが即完売、嬉しかったです。私がクールジャパンの仕事を始めたとき、ジャンマルクにある提案を投げかけました。バレリーナやその予備軍にとってレペットは特別なブランド、トレーニングや舞台で汗をかいた彼女たちに向けて日本の高品質タオル商品を開発してみてはどうか、と。今治のタオルメーカーにレペットのバレエシューズと同じ薄いピンクのタオルにわざわざロゴを刺繍してもらい、来日したジャンマルクにプレゼンしました。その時点ではタオルよりも先に強化したい商品カテゴリーがあるというので、しばらく時間をおいて再びオリジナルタオルの商品化をアドバイスするつもりでした。しかし、残念ながらジャンマルクの急逝で日本製タオルの話はもうできなくなりました。最初に井戸を掘った者をずっと大事にしてくれた律儀なフランス男にただただ感謝です。R.I.P.
2023.05.12
前項で触れたバーニーズニューヨークの日本買い付けチームの定宿はホテルオークラでした。ちょうどオークラの向かい側のマンションには赤峰幸生さんが企画ディレクターを務めるグレンオーヴァーのオフィスがあり、私はジーン・プレスマン副社長に「アメリカントラディショナルを作っている会社だから発注はしないと思うけど、セイハローだけはしよう」と言って赤峰さんを訪ねました。 以前はアメトラを標榜するアパレル企業マクベスの企画担当だった赤峰さん、グレンオーヴァーのショールームにお邪魔するとマネキンにはダッフルコートが飾ってあり、いかにもアメリカントラディショナルという雰囲気。バーニーズにとっては自国で見慣れたアメトラですから最初は関心を示しませんでした。 ところが、グレンオーヴァーの親会社テキスタイルコンバーターのシャツスワッチを多数見せてもらうとジーンの目の色が変わりました。グレンオーヴァーの縫製は丁寧で質感があり、親会社が素材を安く提供してくれたらバーニーズオリジナルのブラウスを製造できる。アメトラの代表格ラルフローレンよりも素材、縫製仕様が上質で価格が半額なら競争力ある、さっそく特別注文することになったのです。後日バーニーズはデザインをグレンオーヴァーに送り、スワッチ台帳から素材を選び、クオリティーは高いがリーズナブルなブラウスが出来上がりました。アメトラのグレンオーヴァーのオリジナル商品そのものには興味を示さず、その代わりシャツのスワッチからバーニーズP B商品の生産を思い付く、ジーンは目利きの商売人でした。 私が赤峰幸生さんと最初に会ったのは、彼がマクベスの企画責任者だった頃です。マクベスは服飾評論家の伊藤紫朗さん兄弟が経営する会社、胸にMBのロゴが入ったスタジアムジャンパー(写真下)がヒットアイテムでした。トラッドファンに人気があったマクベスのスタジャンマクベスをはじめ多くのアメトラブランドに1978年大きな転機が訪れます。日本のメンズファッションを牽引してきたVAN JACKET(ヴァンヂャケット)が思いがけず倒産、日本のアメトラ市場にポッカリ空白ができたのです。日本には本国アメリカ以上にアイビールックを熱狂的に愛する消費者が多く、リーディングカンパニーVANが消滅したことでアパレルメーカーは一斉にアメトラ強化に走りました。大同毛織はアメトラの元祖とも言える「ブルックスブラザーズ」を、紳士服専門店三峰はブルックスのマジソンアベニュー本店の並びに店を構える「ポールスチュアート」を、大手アパレル企業オンワード樫山はブルックスの向かい側「J・プレス」を導入してそれぞれアメトラを強化、マクベスはJ・プレスの横にあるCHIPP(チップ)と提携して販路拡大を狙いました。私がニューヨークに渡って記事を書くこと以外に最初に携わったビジネスプロジェクトは、マクベスとマジソンアベニュー東44丁目のチップとの提携でした。加えてマクベスはチップの米国内リソースから商品直輸入を計画、私がニューヨークでベンダー各社との交渉を担当しました。 20世紀初頭コネチカット州ニューヘイブンで開業したJ・プレスの従業員が独立してトラッド激戦区のマンハッタン東44丁目にオープンしたのがチップ。2代目ポール・ウインストン氏と交渉してチップの日本展開が決まりました。また、マクベスはポロシャツ専門の老舗キューナート社、アメトラ路線のバッグやベルトのトラファルガー社、紳士傘のアメリカンアンブレラ社などから直輸入を始め、マクベスアメリカとしてトラッドショップに販売しました。 私はポールに頼んでチップの地下倉庫の中にマクベスとの連絡用テレックス(当時はまだファックスもネット通信もなかった)を設置してもらい、発注フォローや出荷情報をマクベスに送っていました。そのときチップの視察と買い付けのためニューヨークに来たのが赤峰さんでした。かつてのグレンオーヴァーを着る赤峰幸生さん(繊研新聞より)グレンオーヴァーの織りネーム数シーズン後チップの契約とマクベスアメリカの直輸入は私の手から離れ、赤峰さんはマクベスを去ってグレンオーヴァーに参画、そしてマクベスの倒産、日本でチップがどのような足跡を残したのか詳しくは知りません。が、赤峰さんとは個人的にやり取りが続き、前述のようにバーニーズPB商品で再び繋がりました。PBのブラウスはクオリティーと価格のバランスがよく、バーニーズのお客様には好評でしたが、全て赤峰さんらのお陰です。CFD設立のため1985年に私が帰国すると、どういう流れでそうなったのかはわかりませんが、アメトラの申し子だった赤峰さんはクラシコイタリアの伝道師になっていました。出張先はニューヨークでなくフィレンツェ、イタリアの職人的ものづくりに惚れ込み、アメリカのことよりもイタリアのデザインや伝統文化、テキスタイルや縫製技術のことを熱っぽく語る赤峰さんにはびっくりでした。イタリア大使館との繋がりもあったのか、当時都内で人気のイタリアンレストランのアドバイザーも務め、イタリア人従業員の労働許可の世話までしていましたから。1994年にIFIビジネススクールの授業が始まり、夜間プログラム「プロフェッショナルコース」ディレクターだった私は赤峰さんに指導協力をお願いしたので、赤峰さんのものづくりの話に強く感化された受講生はたくさんいます。現在もコンサルティングあるいは顧問デザイナーとして活躍されていますが、生涯現役でファッションの楽しさ、奥深さを若者たちに伝え続けて欲しいです。
2023.05.11
セブン&アイホールディングスのそごう西武売却の話は仕切り直しになったままですが、同じセブン&アイ傘下にあったバーニーズジャパンはあっさりと中国系資本のラオックスに売却されました。こちらはほとんど話題にもならず、そごう西武のように売却に異論を唱える人はいませんが、ラグジュアリーブランドをたくさん扱う小売店の売り先がラオックスで良かったのでしょうか。数年以内に消滅なんてことにならなければいいのですが....。創業の地7番街西17丁目に再出店した後倒産バーニーズN.Y.はニューヨーク在住時代にサポートしたことがあるので、個人的には特別な思い入れがあります。しかも、伊勢丹が出資して最初にバーニーズジャパンを立ち上げたときの社長が田代俊明さん(のちにグッチジャパン社長)、その部下が現在エルメスジャポン社長の有賀昌男さんや参議院議員のまま亡くなった藤巻幸夫さんら仲の良い人が多く、ラオックスにはバーニーズの名をしっかり守って欲しいです。日本は不思議な市場。本国アメリカで消滅してもずっと日本で元気に活動している事例がいくつもあります。良質素材で洗練されたメンズブランドとしておしゃれなゲイたちに人気のあった「ピンキー&ダイアン」は、ブランド解散後どういうわけか日本でボディコンブランドの代表格としてバブル期に一世を風靡しました。米国でメンズとして人気あったものが消滅後日本で「ピンダイ現象」とまで言われて婦人服市場をリード、彼女らの全盛期を知る者としては不思議でした。スターバックス同様ワシントン州シアトル生まれの「タリーズコーヒー」、1992年創業の比較的新しい企業でしたが、数年前に倒産してもう米国に店舗はありません。しかし、日本のパートナー伊藤園はしっかりビジネスを拡大、本国では消えたブランドを日本市場で発展させています。多くの消費者はすでに米国では倒産して店舗がないことを知らないでしょうが。ニューヨーク出張のたびに立ち寄ったソーホー地区ブロードウェイ沿いの高級スーパー「ディーン&デルカ」もタリーズと同じ。多店舗化ののちに会社をタイ資本に売却、その後買収企業が経営破綻して米国市場でディーン&デルカは消滅しましたが、日本では権利を買い取った日本企業ウェルカムがカフェ事業を中心に立派に多店舗展開しています。本国の市場から消えても日本では消費者から支持を集めビジネスが継続する例はありますから、二度のチャプターイレブン(連邦破産法)で小売店としては消滅したバーニーズN.Y.が日本市場では生き残って消費者に人気のあるファッションストアとして存在し続けて欲しいものです。さて、そもそも私がバーニーズN.Y.と関わりを持ったのは1981年2月のことでした。ミラノ、パリのメンズファッションウイークからバイヤーたちが戻ってきた頃、バーニーズN.Y.副社長でありカジュアルブランド「BASCO(バスコ)」共同デザイナーだったジーン・プレスマン氏から電話をもらいました。私のアパートからは数ブロック先のバーニーズ事務館に出かけると、ジーンはこう切り出しました。3代目社長ジーン・プレスマン氏ヨーロッパのトレンドが販売しにくいビッグショルダー、バイヤーは仕入れ予算を使い切ることができずに帰国する。仕入れが減少するとその分売上も減少するので我々は新たなリソースを開拓しなければならないが、その候補として日本のデザイナーに可能性はないだろうか。日本はイッセイミヤケやカンサイヤマモトだけではない、ほかにもっといるだろう。日本でのリソース開拓に力を貸してくれないか。イッセイミヤケはすでに世界で高い評価を得て米国有力各店でも商品展開されているブランド。カンサイヤマモトはちょうど前年に動物柄のニットが百貨店でもセレクトショップでもベストセラーになったばかり、ヨーロッパブランドの行き過ぎたビッグショルダーに苦慮していた米国バイヤーたちは揃って日本の次のデザイナーの可能性をリサーチし始めたタイミングでした。ジーンと面談した数日後にはバーニーズN.Y.最大のライバルだったシャリバリのジョン・ワイザー氏からも同じ協力要請を受けたくらいですから、ヨーロッパから帰国した小売店各社はかなり焦っていたのでしょう。仲が良かったジョン・ワイザーのシャリバリよりも先に頼まれたので私はジーンのバーニーズN.Y.に協力を約束、1981年4月上旬ジーンとメンズバイヤーのマイケル(のちにバーニーズジャパン新宿店オープン時に駐在指導員として来日)、レディースバイヤーのキャロルと一緒に東京に来ました。7番街西17丁目のお店(当時はここ1店舗だけだった)にメンズ、レディースそれぞれのフロアに「TOKYO」という名の売り場を設立する計画でした。ところが、ここで予期せぬことが。米国のようにショーのあとバイヤーは発注できないのです。3週間ほど先の展示会での発注が当時は日本流ビジネスでした。ショーと展示会の間に3週間以上あるなんて欧米では考えられないこと、私たちには不思議でした。仕方なくファッションショーを見て、パルコやラフォーレ原宿を視察して米国に戻り、5月に再来日して発注するしか選択肢はありませんでした。さらに、輸出に全く経験のないブランドばかり(コムデギャルソンでさえまだ輸出未経験)、決済方法のレター・オブ・クレジットやプロフォーマ・インボイスの意味、仕組みを各展示会場で細かく説明しなくてはなりませんし、そもそも多くの日本人は知らなかったバーニーズN.Y.そのものの説明をしなくては発注作業には入れませんでした。二度の来日でどうにかコムデギャルソン、ニコル、メンズビギ(菊池武夫さん時代)、入江末男さんのスタジオV、細川伸さんのパシュなどを買い付け、同年9月「TOKYO」はオープン、東57丁目にあった三越の地下レストランで有力雑誌の編集長や新聞社のファッション担当記者を招いてプレスショーを開催しました。このとき、日頃ニューヨークコレクションの会場で顔を合わせる米国人記者たちから私にも直接電話が入り、「レイ・カワクボは男性、それとも女性?」、「スタジオ・ファイブ(ヴィではなく)のデザイナーはどんな人?」、「メンズビージーはメンズだけなの?」などの問いに答えました。それまで私はニューヨークコレクションのデザイナーを取材するのが主たる仕事、日本のデザイナーとの個人的接点はなく、誰と誰が仲良しあるいは仲が悪いなんてことは全く知らず、デザイナー周辺のビジネス事情にも無知でした。この4年後、私は日本のデザイナー諸氏に声をかけられて帰国、CFD(東京ファッションデザイナー協議会)の設立に奔走、東京から発信することになるのですが、1981年春の時点でそんなことは全く想像すらできませんでした。激戦地区アッパーマジソンに進出(写真上2枚とも)ジーンはお金持ちファミリーのやんちゃなボンボンでした。祖父バーニー・プレスマンが設立した紳士服専門店はダウンタウンの大衆店、それを2代目フレッド・プレスマンがバージョンアップ、かつてイタリアの有力ブランドだったニノ・セルッティやデビュー直後のジョルジオ・アルマーニを独占販売で導入、ストアイメージを上げました。さらに、デザイナーブランドを一気に増やし、メンズのみならず婦人服まで拡大、ファッション専門大店のハイエンドなイメージを確立したのはフレッドの息子ジーンでした。性格は明るく一緒にいて楽しい男、時代を読む力もデザイナーや商品の目利きセンスもある特別なボンボンでした。しかし、伊勢丹との米国での合弁事業で多額の資金を手にしてダウンタウン本店のみならず家賃が飛び切り高いアッパーマジソンやシカゴ、ビバリーヒルズ、サンフランシスコなどの一等地にも次々出店、その後経営破綻しました。長く1店舗で運営してきた高感度セレクトショップが一気に多店舗化すればどんな国でも経営は難しくなります。もしあのままニューヨークだけでバーニーズを営業していたら、違った展開があったかもししれません。バーニーズN.Y.のTOKYOブティックのお陰で私は日本のデザイナーたちと知り合い、帰国してファッションビジネスで長く活動できたのですから、ジーンは恩人の一人であることに変わりありません。プレスマン一族が継承してきたバーニーズN.Y.、日本だけでもカッコよく事業を続けて欲しいです。
2023.05.06
官民投資ファンドの社長就任直後、真っ先に講演に呼んでくれたのは富山県高岡市でした。当時ここで商業活性化を専門家としてサポートしていたのが宝永広重さん、神戸の旧居留地にいくつも大型ブランドショップを招致した大丸神戸店の実務責任者だった方です。そして地元経営者として宝永さんと一緒に活動していたのが、私の教え子だった松田英昭くんです。前列左から4人目の私の後方が松田くん1994年秋、ファッション産業人材育成機構(通称IFIビジネススクール)夜間テストプログラムが始まり、アパレルマーチャンダイジングのクラス担当がジュンコシマダを軌道に乗せた岡田茂樹さん、リテールマーチャンダイジングのクラス担当は私、まだ東京ファッションデザイナー協議会議長でした。それぞれのクラス25人を週一度半年間教え、カリキュラムや指導方法の点検という意味もありました。94年から2000年まで夜間プロフェッショナルコースで教えた受講生はのべ数百人、その中で特に気になる受講生の一人が出身地富山県高岡市に戻ってセレクトショップを開業した松田英昭くんです。IFI受講当時は日本橋馬喰町界隈の製品問屋の代表格エトワール海渡の社員でした。彼が地元に戻って初めてもらった年賀状に「地元で小さなセレクトショップを開業しました」とあり、地方都市の駅の地下街でセレクトショップなんて果たして続けられるのだろうかと心配しました。ところが、松田くんの会社「ブルーコムブルー」は地下街の小さなショップから高岡市と富山市に店舗を広げ、ダウンコートのモンクレールなど高額インポート商品も販売、ネット通販でも売上を伸ばして地元で注目される小売店になりました。2枚ともブルーコムブルー路面店松田くんが経営する路面セレクトショップは写真のように規模も大きく、高岡や富山のおしゃれな生活者に支持されています。また、楽天市場のテナントとしても実績はかなりあるようです。ショップを案内されたときは先生風を吹かせて店内の定数定量やVPの改善すべき点をあれこれ伝え、松田くんは緊張した面持ちで聞いていました。ショップスタッフにすればボスの対応を見て「このおじさん、いったい何者なの」だったでしょうね。富山県の伝統技術や優れものを集めたイベントでの講演、その合間を縫って高岡の誇るブランド「能作」の工場見学に出かけ、能作克治社長の案内で錫(すず)製品が完成するまでを見せてもらいました。美大やデザイン学校を卒業した若い社員がベテラン社員にまじってものづくりする光景にまず驚きました。繊維であろうが金属であろうが、地方都市の元気な工場はどこも若手社員が嬉々としてものづくりしているのが共通点ですが、能作も全く同じでした。能作社長に聞けば、当初仏具など金属加工業だった能作はご多分に漏れず「地方」「下請け」「赤字」の三重苦、このままでは将来がないと考え、産元商社や問屋を経由せず自社ブランドを作って自分たちで販売してみようと自主生産自主販売プロジェクトを立ち上げたそうです。下請けの工場が自社で商品を企画生産し、直営店や百貨店インショップで直接消費者に販売する、恐らく最初はかなり反対意見もあったでしょう。が、NOUSAKUはいまや海外でもリビング雑貨関連業界では認知されています。松屋銀座地下ウインドーの能作錫のカゴは柔らかく自由自在に形を変えられる実は、私も海外出張のお土産に能作の錫製品のカゴ(写真上)を利用しています。なんと言っても軽量でかさばらずトランクに簡単に収納できるのがありがたい。外国人に手渡し、目の前で箱を開けてもらって自由自在に曲がて形を変えられるカゴの使い方を説明すると、みなさん必ず大喜びします。大手町のパレスホテル地下ショップを訪ねた海外旅行者が、「このままミラノにショップを作らせて欲しい」と申し出たこともあったと聞いていますが、日本の伝統技術と現代的デザインが融合したリビング雑貨、「これぞクールジャパン」と言える品物です。現在松屋銀座の1階正面ウインドーと地下ウインドー数箇所は能作がズラリ、銀座地区でも急増している訪日観光客に注目され、7階能作ショップ(写真上)はきっと平常時よりも賑わうでしょう。立山の麓で始まったIWA5プロジェクトもう一人富山で忘れてはならない人物がいます。満寿泉を醸造販売する「桝田酒造店」桝田隆一郎さん、江戸末期から明治にかけて北前船の中継拠点として栄えた富山港界隈の岩瀬地区をかつてのような美しい街並みに整備する運動を指揮している方です。同時に桝田さんはドンペリニヨン最高醸造責任者だったリシャール・ラフロア氏が立ち上げた日本酒「IWA5」プロジェクトを支えています。このプロジェクトは蔵元で長期宿泊できて美味しい食事も楽しめるフランスワインのシャトーのようなラグジュアリービジネスを目指していますが、桝田さんの協力なしには実現しなかったプロジェクトです。日本酒ビジネスはボルドーやブルゴーニュのワイン醸造と違って蔵元は酒米を外部の生産者から仕入れるのでワインのように酒をじっくり寝かせる、つまり古酒として長く保存することが経済的理由でなかなかできません。醸造した日本酒を早く出荷して現金化し、秋には翌年販売するお酒のための酒米を購入しなくてはならないからです(ほんの一部の蔵元は自社の田んぼで酒米を栽培してはいますが)。しかし桝田酒造はワインのように古酒を毎年大量に保存、熟成したお酒も販売しています。他県にも古酒を販売する蔵元はありますが、経済的に余裕がない蔵元でないと古酒を大量保存することはできません。富山市には全国的に有名な寿司店「鮨人(すしじん」がありますが、この名店で店主が胸を張って提供している日本酒は満寿泉とIWA5です。長年懇意にしている霞ヶ関のお役人が数年前富山県庁に出向と聞いて、私はブルーコムブルー、能作、桝田酒造店の会社見学と鮨人での食事を勧めました。太平洋側の人間にとって富山県はちょっと縁遠い地味なイメージの県でしょうが、富山湾の美味しい魚介類だけでなく元気印の会社がいくつもあってこれから成長が見込める県の1つだと思います。
2023.04.30
昨秋10月に亡くなったファッションデザイナー花井幸子さんのオフィスから、花井さんが描いた素敵なイラスト入りハンカチが先日届きました。律儀にもお別れの会参列の返礼でした。長沢節さん主宰セツモードセミナーを卒業してアドセンター(かつて写真家立木義浩さん、ファッションデザイナー金子功さんらが所属)に就職したくらいですから、花井さんの描く繊細なイラストはプロのイラストレーターと遜色ないレベル、おそらくセツモードセミナー出身ファッションデザイナーの中で腕前はトップクラスでしょう。ニューヨークに本部があるファッション業界で働くキャリアウーマン団体ザ・ファッション・グループの日本支部(のちに社団法人化)を設立した鯨岡阿美子さんが1988年急逝した後、ファッション業界黎明期の大先輩の名前を残すべく、私は発起人として毎日ファッション大賞の中に鯨岡阿美子賞を設けるため基金集めに奔走しました。このとき真っ先に多額の寄付を送ってくださったのが花井幸子さん、そのきっぷの良さにびっくりしたことを覚えています。実は、花井さんとはちょっとした事件がありました。私がニューヨークで取材活動をしていた1980年代、特約通信員契約していた繊研新聞にストレートなコレクション批評を書いては繊研の編集部や営業部にクレームが届くことがありました。米国トップデザイナーであろうが米国市場に進出する日本ブランドであろうが、「良いものは良い、悪いものは悪い」と正直に書いていたので、記事が取材相手の逆鱗に触れて騒ぎになったことが度々あったのです。その中の1つが「ユキコハナイニューヨーク」のデビューコレクション、1981年に始まった現地アパレルのラッセルテーラー社とのライセンス提携ブランドでした。米国にも、デザイナーのクリエーションをうまく活かしながらブランド事業を伸ばす事例もあれば、あまりにマーチャンダイザーや経営者が素材価格や工賃を抑制するあまりデザイナーのクリエーションを押しつぶしてしまう事例もあります。概して前者は個性と質感のある取材したいコレクション、後者は何の変哲もない普通のメーカーブランドのようなスルーしていいかもコレクション。ユキコハナイニューヨークのデビューコレクション、花井幸子さんらしい上質な素材のフェミニンラインを期待していましたが、ステージに登場したものはいかにも米国アパレルメーカーがライセンス事業で作ったキャリア服、デザイナーの個性が押しつぶされた内容でした。テキスタイルやパターンの一体どこに花井さんの華やかさがあるんだ、ラッセルテーラーの別部門と変わらない服では意味ないじゃないか、そう思って少々きつい論調で記事を書きました。すぐリアクションがありました。詳しくは知りませんが、花井さんのご主人で株式会社花井の花井喜俊社長から繊研新聞の松尾武幸編集局長にクレームが入ったそうです。次シーズン、私はラッセルテーラー社の広報担当に招待状申請をせず、ショーをスルーしました。3シーズン目発表直前、松尾編集局長から「花井幸子さんのショー、今度は取材してくれ」と電話がありました。ラッセルテーラーのショールームで開かれたショー、米国バイヤーやエディターはショー途中にどんどん退席、中には低いランウェイを横切って退出する失礼な人もいてデザイナーにはとても気の毒な光景でした。私はどう書いていいのか分からず、編集部に写真だけ送ってコメントは控えました。それから数日後、東京都内での繊研ニューヨークセミナーの観客席に花井幸子さんご本人の姿がありました。花井さんのようなベテランデザイナーがこういうコレクション解説セミナーに参加されるのは珍しいこと、きっと私に何かおっしゃりたいことがあるんだなと覚悟し、終了後花井さんにこう切り出しました。ヨーロッパのテキスタイル見本市で花井さんが気に入った素材をピックアップすると、ラッセルテーラー社のマーチャンダイザーは横から「ユキコ、それは1ヤード15ドルでしょ、あなたのブランドは1ヤード10ドル以下にしてください」と言っているはず。あなたは手にした素材を諦め、安めの素材で我慢していますよね、と。「その通りなの。あなた、ファッションショーを見てそんなことまでわかるの」とおっしゃったので、「私はプロのつもり、それくらいはわかります。マーチャンダイザーの言うことをそのまま聞いていたら花井さんの良さは消えてしまいます。抵抗してください。ユキコハナイらしいものが作れそうにないなら、別の会社とブランドやった方がいいですよ」と申し上げました。当時私は20代後半の若造ライター、年長の有名デザイナーにすればきっと腹が立ったはず、嫌われても仕方ない場面でした。しかし、この数年後に帰国して東京ファッションデザイナー協議会設立に奔走しているとき、六本木のオフィスを訪ねた私の経過説明と呼びかけに細かいことは何も言わず、花井さんはすぐ協議会の設立趣旨に賛同してくれました。ユキコハナイのコレクションは写真のように華やかでフェミニンだけど、花井さん自身の性格は随分男っぽいとこのとき思いました。そんな経緯があっての鯨岡阿美子賞の私からの呼びかけでしたが、花井さんはすぐ過分な協力をしてくれました。なかなか真似のできることではありません。アパレル産業界の要職にあったご主人の花井喜俊さんは2004年に亡くなり、会社経営はご子息の喜幸さんが引き継いでいます。ご子息、アトリエのお弟子さんたちがユキコハナイのブランド世界観を守り、その名を長く後世に伝えて欲しいです。(写真は全て株式会社花井のサイトより)
2023.04.27
4月25日は親友だった市倉浩二郎の命日です。毎年この日は最後の瞬間を思い出すのでどうしても気分はブルーになります。毎日新聞編集委員だった市倉浩二郎さん西国分寺駅からちょっと離れた場所にある都立府中病院(=当時)ICUの控室にいた私たちはドクターからすぐICUに入るよう促され、その数分後市倉さんは目の前で絶命。病室の心拍測定器の数値がどんどん降下して「ーーー」に、よくテレビドラマで見る悲しいシーンそのものでした。1994年4月2日東京コレクション2日目夕方コムデギャルソンのショー会場は羽田空港駐機場、なぜか市倉さんは取材に来ませんでした。緊急の取材でも入ったのかな、とそのときは思いました。しかし週明け奥様からの電話で体調不良と入院を知らされ、びっくり仰天でした。前日の東コレ初日最終回ユキトリイのショー直前、西武百貨店渋谷店裏の細い路地のカフェの前をたまたま通りかかったら、市倉夫妻、帽子デザイナー平田暁夫さんご夫妻らがお茶してたので私も合流。海外出張中ストレスが原因でお尻に大きな腫れ物ができて手術したばかりの私は「健康のためにあんたも有機栽培野菜スープを飲め」と言ったら、市倉さんは「あんな不味いもの飲めるか」、と。奥様に後日野菜スープの作り方をお知らせすると約束し、みんな一緒にユキトリイのショー会場まで歩きました。結果的にはこの野菜スープのやりとりが最期の会話になってしまいました。ショー終了後「寒気がする」と美登子夫人(文化出版局編集者)にもらし、市倉夫妻は鳥居さの打ち上げには出ずに帰宅、近所の医院で診察してもらったそうです。ところが、翌日夜羽田空港でのショーが終わった頃に容態急変、府中病院に救急搬送されました。医院で処方された抗生剤を飲んだことでウイルスが変容、ドクターは脳に入ったウイルスをなかなか特定できず、適格な治療ができませんでした。私にできることは快復を祈ることとICU控室で奥様の話し相手になるくらい、何の役にも立ちませんが居ても立っても居られずアポはキャンセルして出勤前と夕方府中病院に顔を出しました。4月23日だったでしょうか、ドクターにICU入室許可をもらって脚をさすりながら「イッチャン」と何度も呼びかけると、意識不明で動けない市倉さんの目から涙が溢れ、反応してくれました。溢れる涙に微かな期待を抱きましたが、ずっと意識不明のまま一度も目を覚ますことなく亡くなりました。いろんな検査でも意識不明の原因はわからず、新聞記者だった本人が一番自分の死因を知りたいだろうからと解剖を勧めました。でも、残念ながら最後まで死因はわかりませんでした。ICU控室で美登子夫人が「イッチャンは太田はデザイナー協議会辞めてやりたい仕事があるんだ。早くやらせてやりたいってよく言ってたわ」と話してくれました。市倉さんと飲んだとき、マーチャンダイジングのプロになりたくて大学卒業後就職せずニューヨークに渡ったのでいつかはデザイナー協議会を退任してマーチャンダイジングを指揮したいと話したことがあり、市倉さんは気にかけてくれていたようです。解剖直前の病院霊安室、ご遺体に手を合わせて「俺、デザイナー協議会を辞めて自分のやりたいことをやるわ」と誓いました。誰にも人生のジ・エンドはある、やりたいことをやらずにジ・エンドを迎えてはならない、と年長の親友は教えてくれたのだと思います。葬儀が終わると私はすぐ退任に向けて準備を始め、幸いにも1年後には百貨店経営者にチャンスをもらって念願のマーチャンダイジング指導に着手しました。親友の逝去が人生の転換点になったので、4月25日は私にとって特別な日なのです。合掌。市倉さんの仲間から指名されて1年後に私が編集した本
2023.04.25
リトゥンアフターワーズのデザイナー山縣良和さんが2008年に開講した「ここのがっこう」、一言で表すならファッション表現の寺子屋。既存のデザイン専門学校に比べると歴史はかなり浅いけれど、ここで学んだ若者は欧州のITS、 イエール国際モードフェスティバルやLVMHプライズなどデザインコンペティションでファイナリストに数多くノミネートされ、国内でもすでに毎日ファッション大賞新人賞の受賞者が複数出ています。ここのがっこう修了制作展は織物産地でもある山梨県富士吉田市内数カ所の施設で展示され、私たち視察者はそれぞれの目線で採点して歩き、後日成績発表されます。あいにくの雨での市内移動でしたが、昨年に続いて今年も私は視察採点に参加してきました。一般的なデザイン専門学校の卒業ファッションショーのような華やかさはありませんが、富士吉田市内8ヶ所での展示はその場で受講生に制作意図を質問できるのでショーとは違う楽しさがあります。生活者がそのまま着て街を歩けるような服はほとんどなく、物性に難のある産業資材使用もあれば、袖が通りそうもないデザイン、どう着るのかは制作者にしかわからない複雑フォルムもありました。が、ここから「着る服」に向けて手を加えていけば面白いだろうなという作品は何点もありました。ここのがっこうは現実的な「着る服」デザイン教育ではなく、ファッション表現を学ぶ寺子屋ですから、こうした創作物の展示、空間演出で良いのでしょう。受講生たちの多くは空き家になっているオンボロ民家や廃墟同然の施設がお気に入り、中にはカビ臭い空間に展示、あるいはボロボロの畳の上に「昭和な空間」を作ってみたりと、かなりシュールな空間演出が多かった。この中から近い将来東京コレクションを牽引してくれる若手デザイナーが何人も出てくれたらなあ、と期待しながら全ての展示を拝見しました。受講生の皆さん、彼らをサポートしてきたスタッフの皆さん、ご苦労様、楽しかったです。ファッションの世界を目指す他校の若者たちにはぜひ覗いて欲しいな。--COCONOGACCO exhibition 2023--開催期間 2023年4月23日(日曜日)まで会場時間 11:00から17:00まで (最終日のみ16:00)メイン会場 山梨県富士吉田市富士見1-1-5 FUJIHIMURO 富士急「下吉田」駅のすぐ近く問い合わせ contact@coconogacco.com
2023.04.15
ファッションデザイナー堀畑裕之さんと関口真希子さんのブランド「matohu」のものづくり姿勢を丁寧に追ったドキュメンタリーフィルム「うつろいの時をまとう」が現在シアターイメージフォーラム(渋谷区渋谷2-10-2)で上映中。これからファッションの世界を目指す若者たちにはぜひ観て欲しいフィルムです。この映画で八王子の織物会社みやしんを率いた宮本英治さんが登場します。現在も元気にものづくりされている姿を見て安心しました。数年前、宮本さんから突然電話をいただき、廃業を知らされました。若いデザイナーがみやしんに来て、デザインや素材そのもののことより価格のことしか言わない世の中になったことに失望しての廃業とうかがいました。若いデザイナーなのか、それともデザイナーブランドで働く若いアシスタントなのかはわかりませんが、価格の話ばかりする彼らが宮本さんに廃業を決意させたとはショックでした。廃業の決意を聞いた瞬間、まさか元部下たちが廃業原因ではと心配でしたが....。幸い、文化服装学院などを運営する文化学園の大沼淳理事長(当時)がみやしんの工場設備をそのまま学園のものづくり研究施設として残してくれたことで、みやしんの設備は廃棄されずにすみました。matohuはみやしん廃業後も宮本さんに素材作りを手伝ってもらっているようですが、映画の中での堀畑さん、関口さんと宮本さんとのやりとりシーンが興味深い。クリエーションとクラフトマンシップの共創、ここに日本のファッションデザインの強みがあると改めて実感させらるシーンなんです。その宮本英治さんが全国の心ある素材メーカーに呼びかけて始めた小規模合同展示会「テキスタイルネットワークジャパン」は現在も継続開催されています。今回の2024年春夏展はこれまでよりも足の便が良い原宿駅前WITH HARAJUKUホール(渋谷区神宮前1-14-30)にて4月11日と12日の2日間開催。デザイナー系ブランドの企画や生産部門で働く人、ブランドを始めたばかりの新人・若手デザイナー、セレクトショップの企画部門の人たちにはぜひ日本の優れたものづくりに触れて欲しいです。参加は以下のサイトから申し込んでください。https://www.textilenetworkjapan.com/2024ss
2023.04.10
セブン&アイのそごう西武売却の話が再び延期されたニュースに驚いています。売却予定先の投資グループが傘下のヨドバシカメラ出店を池袋西武に計画していることに対し、豊島区長らが猛反対、ビルの地主である西武鉄道も反対表明、セブン&アイは簡単に売却できそうにないようです。が、長期政権だった高野区長が先日急逝し、この先売却の話はどう進むのかわからなくなりました。業界の若手の方はご存知ないでしょうが、1970年代からヨーロッパのトップブランドをライセンス提携の日本製でなく直輸入オリジナル品を販売していたのは西武百貨店だけ、ほかの百貨店はロゴをつけた日本製ライセンス商品でした。エルメス、サンローラン、ソニアリキエル、ミッソーニ、アルマーニ、ジャンフランコフェレ、ウォルターアルビニ、池袋西武にはオリジナル品の人気ブランドショップがズラリ、当然価格は飛び切り高く、私のような豊島区在住の一般人にはちょっと高嶺の花でした。いまは本国が日本法人を直轄経営していますが、日本上陸当初は西武百貨店がジャパン社設立をサポート、エルメスジャポン社はじめ西武の関係者が日本法人の代表を務めていました。だから西武百貨店はまさしく日本のファッションリーダーだったのです。その西武百貨店の売り場の複数階にドーンとヨドバシカメラが入る、区長でなくてもちょっと抵抗があります。豊島区民として私もこの話には反対です。アムステルダムの中心地ダム広場にあるバイエンコルフ投資ファンドが売りに出ていた百貨店を買収するケースは欧米ではたくさんあります。かつてニューヨーク五番街サックスフィフスアベニューはバーレーンの石油系投資会社、ロンドンのハロッズは同じく中東カタール投資庁が現在も所有しています。投資ファンドが買収して大改革を進めたら滅茶苦茶な状態になった事例も少なくなく、その典型的な事例がオランダ首都アムステルダムのバイエンコルフです。投資の世界では有名な米国投資ファンド(そごう西武売却のニュースの際にも売り先候補として名前があがった会社)がバイエンコルフを買収、人員整理も含め徹底的にコストカットを進めた結果、従業員のやる気は失せ、お客様の信頼はなくなり、ブランド側は取引をやめ、見るも無残な状態に陥ったとオランダ人の元従業員たちに聞きました。買収した投資ファンドは恐らく百貨店を早くブラッシュアップして高く売却するつもりで買収したのでしょうが。そのボロボロのバイエンコルフを引き継いだのが、英国セルフリッジ百貨店を傘下に持つ資本でした。かつて古臭い大衆店だったセルフリッジをファッションに強いおしゃれな百貨店へと再建したグループが登場したことで、バイエンコルフは見事に立ち直り、いまではヨーロッパの主要ブランドをズラリ並べる高級百貨店として繁栄、アムステルダムに進出してきた北米の巨人ハドソンベイを駆逐しました。ドリスヴァンノッテン、バレンシアガなど展開する婦人服フロアサカイの名前もありました気持ち良いフードコートのフロア壁面にはLED栽培の野菜も池袋駅にあった小さな百貨店を受け継いだオーナー社長の堤清二さんは文字通り日本の流通業の革命児でした。他社がライセンス商品を販売している中でオリジナル商品を直輸入して西武百貨店の地位を固め、「おいしい生活」をはじめ多くのシンボリックな広告を打ち出し、パルコを創設して若者文化を牽引、西友ストアでは無印良品を誕生させ、WAVEやLOFTのような新業態にも着手、セゾンカードを大きく伸ばし、セゾングループは一大流通企業に成長しました。しかし、いろんな不幸が重なり、西武セゾングループはあっけなく崩壊しました。グループの中核そごう西武はセブン&アイに引き取られましたが、セブン&アイの物言う株主の圧力で再び売却されることになり、投資ファンドが登場することになったのでしょう。日本の生活文化をリードしてきた企業がいつの間にかマネーゲームの中で道具のように扱われ、セゾングループの功績には全く興味なさそうなゲームプレイヤーたちが走り回る。従業員やベンダー、テナントの人々はどんな思いでいるかは軽視、無視なんでしょうね。なぜそごう西武の売却が再度延期されたのかは知りません。最終的にどういうグループの手に渡るのかはわかりません。が、世界には小売業に愛着のないファンドが参入してボロボロになった、あるいは消滅した事例が少なくないことを訴えたいです。バイエンコルフがよみがえったように、西武百貨店を再び光り輝く小売店にしてくれるホワイトナイトの登場、ひとりの豊島区民として期待したいです。
2023.04.01
ニューヨーク、ロンドン、ミラノ、パリ、そして東京と続いた2023年秋冬コレクション、一段落です。近年メディアが記事をアップする前にショー視察した業界関係者が写真付きでコレクションをアップ、ショーの日の深夜にはたくさんのSNSを読むことができる一方、ファッション媒体の記事はどうしても翌日以降になってしまいます。そのスピード感の違いから、SNS読者を多数持つインフルエンサーが主要メディアより影響を及ぼす例も今後はもっと増えるでしょう。個人のSNSは自ら感じたことをストレートに書く主観的レポート、SNSフォロアーから客観性を求められることはないのでおかしなサジ加減はなくてわかりやすい。メディアはなるべく公平な客観報道を目指しますから、個人のSNSよりはどうしても優しい表現になります。本当は批判したくても色々配慮してもどかしい記述も中にはあったりしますから、概して個人のSNSの方が小気味良いと感じることがあります。私がニューヨークで取材活動をしていた頃はまだインターネットが存在せず、ショーを観て慌てて記事を書く必要はありませんでした。が、ショーが終わるとすぐ記事を書いて、7番街(通称ファッションアベニュー)にオフィスを構える日系企業でファックスをお借りして東京に送稿しました。現地のニューヨークタイムズやWWDのコレクション記事は翌日の紙面、その前に送ることで自分なりの批評を伝えたかったからです。素晴らしいコレクションに触れると、日本に伝えたくて自然と行数は増えました。有名デザイナーでもつまらないコレクションなら行数は短く、時には批評はあえて書かずに写真だけ掲載することもありました。私が取材活動をしていた時代はアメリカンスポーツウエアが右肩上がり、カルバンクライン、ラルフローレン、ダナキャランらのアンクラインやペリーエリスが市場を牽引し、オートクチュールのようなエレガントなドレスをつくるデザイナーに新鮮味はありませんでした。ラルフローレンがサンタフェスタイルや伝統的プレッピースタイル、植民地時代のインドを彷彿させるコレクションを打ち出す。カルバンクラインはパリを代表するブランドから広報ディレクターを引き抜き、素材も縫製仕様も上質なものにバージョンアップしたシックなスポーツウエアに路線変更して話題になる。新星ペリーエリスはトレンドセッターそのもの、毎シーズン記事の行数は増えました。(2枚とも当時のペリーエリスコレクション)1980年代前半のこと、あるベテランデザイナーとライセンス契約していた日本の大手アパレルメーカーの社長から「ベテランデザイナーのこともちゃんと書け」と合同展示会の会場で怒鳴られたことがありました。上から目線の失礼な言い方でびっくりしましたが、「ニュース性があれば書きますよ」と返しました。時代を牽引するクリエーションがあったり、素晴らしい映画を観たときのような感動があれば、ショーの臨場感を読者に伝えようと行数は長くなり、掲載写真の枚数も増えます。客観報道のスタンスは意識していても、人間ですから、魅力的コレクションを観たらテンションは高くなります。また、いくらトップブランドであろうとも良くないコレクションは良くないとはっきり書くべきと思って取材をしていました。だから私の記事のクレームがたびたび繊研新聞社に届き、編集局長らはクレームを突っぱねてくれました。帰国してCFD(東京ファッションデザイナー協議会)を設立したのでコレクション記事を書く仕事から離れましたが、その頃からずっと気になっていることがあります。日本のデザイナーあるいはファッション系企業は記事に細かく注文を付けたがる点です。ちょっとでも批判めいたことを書くと広報担当は書いた記者を呼び出して文句を言う、あるいは「ご理解いただいていないようなので」と趣旨を説明する。デザイナーご本人が出てきて不満をストレートに言う場面も日本では多すぎます。CFDが東京コレクションを主催していた時代、デザイナーとジャーナリストの記事トラブルの仲介は少なくありませんでした。記者やフリージャーナリストのコレクション評が納得できず、メディアに対してのみならずCFDの私にもよくグチが入りました。時には両者の仲介ご飯に立ち会うことも、批判的な記事を書いたジャーナリストに次シーズンから招待状を送らないというケースの仲裁にも当たりました。ニューヨークで批判的な記事にいちいち抗議する、もしくは次から招待状を送らないなんてケースに直面することはなかったので、CFDを始めた頃は日本のデザイナーとジャーナリストの関係は歪だなあと思いました。いまその状況はどうなのかと言えば、ネガティブな記事を書くとブランド広報からクレームが届く、あるいは呼び出されるケースはいまも続いています。インタビュー記事であれば掲載前に原稿チェックを要求するケースもファッション流通業界では少なくありません。事前チェックなんて本当に失礼な話なんですが。SNSが発達したためか、欧米主要メディアのコレクション記事も最近はかなりトーンダウンしたように感じます。以前のように名物ファッション記者が強い論調でコレクションをバッサリ切るなんてことは少なくなりました。ジャーナリストとデザイナーが真剣勝負するのがコレクションだったはず、時には有力ブランドであっても内容が良くなければきっちり批判する記事も読みたいものです。
2023.03.27
3月13日から18日まで開催された東京コレクション(Rakuten Fashion Week Tokyo)、ファッションショー形式もあればデジタル映像配信形式もありました。週末、ショーに行けなかったブランドと映像配信ブランドの全てをJFW(日本ファッションウイーク推進機構)公式で拝見しました。公式サイトは以下https://rakutenfashionweektokyo.com/jp/brands/久しぶりのショー発表なので行きたかったんですが、あいにく研修時間と重なってしまってショーを観れなかったAKIKOAOKI(アキコアオキ、青木明子さん)。デビュー直後に比べてカドがとれて商品として店頭展開しやすくなりました。(以上2点ともAKIKOAOKI)かつて台湾のセレクトショップに繋いだことがあるmintdesigns(ミントデザインズ、勝井北斗さん&八木奈央さん)、今回はデジタル配信でした。微妙な淡い色調とユニークな柄模様をコンスタントに観せてくれますが、コントラストのはっきりしたモノトーン系も今シーズンは気になりました。(2点ともmintdesigns)今シーズンもデジタル配信だったHYKE(ハイク、吉原英明さん&大出由紀子さん)、個人的には洗練されたブランド世界観、好きだなあ。もっと海外市場に発信強化してほしいブランドの1つ、いつかまたファッションショーで拝見したいです。(2点ともHYKE)パリコレなど世界の主要コレクションでも新型コロナウイルスの影響を受け、ここ3年間観客を入れてのショー発表は少なくなりましたが、今シーズンは再びショー形式のブランドが多くなり、観客席も増やしてランウェイに華やかさが戻ってきました。ファッションショーは19世紀末から100年以上続く新作の発表形式ですが、デザイナー個々のクリエーションを紹介するには規模はともかくやっぱりこの形式が一番なんでしょうね。次回2024年春夏東京コレクションは8月28日から1週間開催予定。<この欄の写真は全てJFW公式サイトから>
2023.03.24
今シーズン、ミラノではドルチェ&ガッバーナとのコラボイベントとして、パリでは東京都の若手デザイナー支援策(Fashion Prize of Tokyo)のサポートでコレクションを現地発表したTOMO KOIZUMI(小泉智貴さん)、東コレでも新作プレゼンをしました。我が道を行く姿勢に変わりなし。一般人がどこでどういうオケージョンで着る服なのかと問われたら、なんとも答えようがありません。でも、その色彩、服の持つオーラはただただパワフル。売れる売れない、着れる着れないといった従来からの尺度を超越したファッションデザインです。将来アカデミー賞のレッドカーペットやMETガラ、ハリウッドやブロードウェイのミュージカルで彼のデザインした服が話題になることを期待しています。
2023.03.21
ジャンポールゴルティエがパリコレで人気絶頂だった頃、ゴルティエのショー会場に入った瞬間異様な光景に「なにこれ」。幅の広くて長いステージの頭上には照明機材のトラスの下に大きな白無地の布が張ってあったのです。観客を驚かせる特別な演出に使う小道具かと思いましたが、布には何の仕掛けもなく、一度も揺れることもなく、演出小道具ではありませんでした。後日、ランウェイ写真をカラー掲載した新聞や雑誌を見て、布の意味が理解できました。強めの照明が布フィルターを通してモデルや服に優しく当たったので、掲載された写真はどのメディアも明るく、美しく、柔らかでした。あの時代カメラマンはランウェイに沿ってズラリ並んでフラッシュを使って撮影、現在のように長い望遠レンズでノーフラッシュではありません。ゴルティエのステージは布フィルターを通した優しい光だったので服の微妙な色合いは鮮明、写真は別格の美しさでした。今シーズン、「ここに二瓶さんがいてくれたら」と思うショーがいくつかありました。1993年度毎日ファッション大賞鯨岡阿美子賞を受賞した二瓶マサオさんは日本を代表する照明デザイナー。イッセイミヤケ、ヨウジヤマモト、コムデギャルソンのパリコレを担当、個性の強いデザイナー三人三様の照明を毎回デザインするのは大変なプレッシャーだったでしょう。二瓶さんの照明はまるで演劇のようにストーリー性がありながらモデルが歩くステージに均等に光が当たり、光量が弱い場所もあれば明るい場所もあるなんてステージはありませんでした。ステージを長く、あるいは広く設営すれば、トラスに吊る照明機材の台数は増えます。当然機材のリース代金も増えます。モデルが歩く場所に万遍なく光を当てるなら、大きなステージのショーでは機材費はかなりかさみます。機材費はかけられない、でもステージは長くあるいは広く取りたい演出となれば、ステージには光のムラが生じて結果的にカメラマン泣かせになります。撮影許可のあるカメラマンだけが会場で撮影できた時代は終わり、いまは観客の誰もがスマホでショーの写真やビデオを撮影、SNSを通じて広く拡散する時代です。ゆえに以前にも増してステージの照明は重要です。いい写真が撮れる照明であれば、プロのカメラマンでなくてもそれなりの写真をSNSにアップできます。時には実際の服以上に魅力的に見える写真をアップすることも可能です。しかし、ショーでいい写真が撮れなければSNS効果は期待できません。ステージに万遍なく光の当たらない、あるいは演出上ステージを暗くて服がはっきり見えないというのはネット時代のファッションショーとしてどうなんでしょう。せっかくお金をかけてショー発表するのであれば、カメラマン席のプロも観客席のスマホ撮影者も綺麗な写真を撮れるような照明プランにすべきではないでしょうか。今シーズンは照明デザインが非常に気になりました。今回Rakuten Fashion WeekのラストショーはKEISUKEYOSHIDA(ケイスケヨシダ、吉田圭佑さん)でした。会場は渋谷駅前の工事現場の地下、まだ満足に電気が供給されていない空間でしたが、ステージのモデルにはちゃんと照明が当たり、私のスマホでも難なく撮影できました。吉田さんは2015年に会社を設立してブランドを開始した若手、シーズンを重ねるたびに伸びているデザイナーと感じさせてくれる一人ですが、シーズンのラストを飾る力作を見せてくれました。個人的にこういうコレクション、好きだなあ。写真は全てKEISUKEYOSHIDA
2023.03.21
長い間デザイナーコレクションを取材、視察してきました。これまでに見せてもらったファッションショーの総数はおそらく数千本。その中で、感動のあまりショーのあとしばらく席を立てなかったもの、背筋がゾクゾクしたり涙が出そうになったもの、静かな感動の余韻に浸っていたいと思ったものもあります。照明がが暗過ぎて肝心の服がよく見えなかったものや、服があまりにひどくてもう二度と見ることはないと怒りが込み上げて帰ったものもありました。感動したファッションショーの中にも、ストレートに服そのものが圧巻だったものもあれば、その演出方法や照明と音楽に感動したショーもあります。素晴らしい映画を観賞したときと同じような感動が味わえるのがファッションショーだと思います。ラルフローレンが初めてサンタフェスタイルを発表したシーズン、映画「炎のランナー」に触発され1920年代風コレクションを見せたペリーエリス、暗いクラブで蛍光色のド派手なコレクションを見せたスティーブンスプラウス、かつてのオートクチュールのような音楽なし番号札を持ったモデルが歩くボディコンのアライア、クロードモンタナの構築的ライン、クラシックな普通のトレンチコートなのにモデルが面白い着方をして現れたジャンポールゴルティエ、アールデコ時代を彷彿させたニットの女王ソニアリキエルを初めて見たときも興奮しました。もちろん日本人デザイナーのコレクションでジーンときたものもたくさんあります。穴だらけのパンクスタイルから脱した直後のクラシックなコムデギャルソン、フィナーレに仮設大型テントが開いてモデルがまるで砂漠の中を歩く宇宙人のようにステージに現れたイッセイミヤケ、毎回黒い服を続けるヨウジヤマモトが日本の伝統的紋様と色彩でジャポニズムを再現したコレクションなど、いまも鮮明に記憶に残るショーが数本あります。コムデギャルソンオムプリュスとヨウジヤマモトプールオムのジョイントショー「6・1 The Men」もカッコ良かったです。そして昨日のタカヒロミヤシタザソロイスト(宮下貴裕さん)、ファッションショーで久しぶりに静かな感動をもらいました。概してデザイナーは創作のプロセスでいろんなアイディアが湧き出て、あれこれショーで見せたがる人が少なくありませんが、スッキリとアイディアを集約して1つの世界観がストレートに伝わってきたコレクションでした。中性的な表情の男性モデルたちの着る服はメンズなんですがレディースのようでもあり、抑揚のない不思議な世界観、魅力的でした。服そのもののデザイン、コーディネートのバランス、モデルの歩くスピード、心地良い音楽と照明、静かなんですがすごいショーを見せてもらったような感動がありました。かつてナンバーナインを手がけたデザイナーさんだそうですから、元々実力がある方なのでしょう。クールなコレクションは私の記憶に残る1本になりました。写真は全てTAKAHIROMIYASHITA TheSoloist.
2023.03.18
(以下写真は全てSUPPORT SURFACE)ファッションデザイナーに関わって長い私ですが、これまでデザイナーやパタンナーに「もっと売れるものをつくって欲しい」と言ったことはありません。「あなたの信じるものをつくってください」と接してきました。デザイナーたちが考案したコレクションをどう売るのか、マーチャンダイジングは我々ビジネスマンの仕事ですが、クリエーションには口を挟まないというスタンスで仕事をしてきました。コレクションを発表したあと注文が入ったものはたとえ枚数が少なくても生産する。逆に、ショーで見せるだけで生産販売するつもりのないものはショーで見せないでくださいと言ってきました。日本のファッション雑誌によくあった「参考商品」、私にはあり得ない表記でした。生産するつもりのないサンプルを平気で貸し出す神経が私には理解できませんし、販売予定がないとはじめから分かっていてもサンプルを掲載するメディア側の姿勢も理解できません。ファッションビジネスは何もたくさん売ることだけが目標とは思っていませんし、たくさん売る会社が偉いとも思いません。少ししか売れない、少ししか売らないコレクションがあっても良いと思います。消費者に売るつもりのない服をショーで見せる、売らない服なのに雑誌で読者に紹介する、言い換えれば「フェイク」もっと強く言えば「サギ」、これだけはやめてくださいと言い続けてきました。展示会では販売スタッフに「売れるか、売れないかではなく、せっかくつくったんだから売ってみようよ」とよく言います。「お客様をなんとか試着室までご案内しようよ。それでお客様の反応が悪かったら、そこで諦めよう」、これが私が販売スタッフに奨励してきた販売の心構えです。また、デザイナーやパタンナーが徹夜までして完成させたコレクションなんだから、プロパー消化率が50%なんて惨めな数字では情けない。せめてお客様の4人に3人はプロパー価格で買っていただけるようメリハリのある発注を求めました。4人に3人、つまり目標プロパー消化率75%(腹の中では70%で及第点と考えての数字でした)。親しいアパレルメーカーの経営者たちは「75%は無茶苦茶だよ」と笑いましたが、無茶ではありません。実際には70%以上の数値をコンスタントに叩き出しました。販売が難しそうな服もちゃんとつくっての70%、まずまずの数字ではないでしょうか。たとえ売りにくい服であろうが、特定のお客様しか買ってくれそうにない服だろうが、デザイナーのクリエーションを尊重、彼らが創作したものをそのまま販売を試み、マーチャンダイジングの知恵と工夫で消化率を上げるのがプロの仕事だと信じてやってきました。だから「もっと売れるものをつくって欲しい」なんてセリフは言いません、言ってはいけないのです。マーチャンダイジングの講義でよく受講生たちに言います。コレクションを見て「これじゃ前年8掛けしか売れないな」というシーズンであっても絶対に諦めるな、自分たちの腕で前年トントンは目標にしてみようよ、と。反対に「これなら前年を軽く上回れそう」というシーズンなら、大幅アップを狙って営業と発注枠の増加を交渉、可能な限り高い目標を掲げてください、と。毎回コンスタントにコレクションが良いとは限りません。楽なときもあれば難しいときもあるのがファッションビジネス、そう教えてきました。デザイナーのクリエーションは尊重する、しかしマーチャンダイジングの領域にはデザイナーに口出しさせない、これが私の仕事の流儀です。今日のSUPPORT SURFACE(サポートサーフェス 研壁宣男さん)のコレクション、細かいところに技術の詰まった丁寧なものづくり、いつもながらモデルさんの後ろ姿が凛として美しく、見ていて心地良い内容でした。私がバイヤーなら写真のパンツに入れ込みます。マーチャンダイジングの目線で言えば「前年比120%を目標に前向きな発注をしてみようよ」でした。
2023.03.17
数シーズン前に東京コレクションでデビューしたPOSTELEGANT(ポステレガント)中田優也さん、昨年初めてショーを開いたHARUNOBUMURATA(ハルノブムラタ)村田晴信さん、そして今シーズンのトップバッターだったIRENISA(イレニサ)小林祐さんと安倍悠治の2人組。良質素材をたっぷり使ってシックな服をつくる若手デザイナーが近年増えてきたように感じます。現在のJFW東京コレクション(正式名称RAKUTEN FASHION WEEK TOKYO)をお手伝いし始めた頃、東京と言えばストリート系あるいはアスレチックマインドの元気なカジュアルをつくる若手が多かった。いまもその傾向に変わりはありませんし、それが欧米コレクションとは異なる東京らしい特色でしょう。が、良質素材でシックな大人っぽいエレガンスを追う若手のことも非常に気になります。上の写真3枚は本日コレククション発表したHARUNOBUMURATA。前シーズン素晴らしいコレクションだったので、今シーズンその進化をかなり期待していましたが、すぐ目の前をモデルが歩く形式のショーだったので素材の質感がしっかり伝わり、感動しました。下の3枚は昨日のIRENISA。ショーのあと素材提供している尾州の毛織物メーカーNさんに聞いたところ、上質なカシミアダブルフェイスも使っているそうですが、着分それなりのお値段がします。デビューして間もない知名度があるわけではない新進ブランドがそれなりの高価格で販売するとなると売るのは簡単ではないしょう。が、なんとかメディアやインフルエンサーの力を借りて知名度を上げ、ビジネスを軌道に乗せて欲しいです。東京らしいストリート系カジュアルも、アニメにインスピレーションを得たロリータ系の服も東京らしくて良いでしょうが、日本の素材開発力、パターンメーキングの匠、丁寧な縫製など、優れた職人技を利用してTHE ROWやJIL SANDERに負けないMADE IN JAPANコレクションも作って欲しいです。
2023.03.15
今日3月11日は東北大震災のあった忘れられない日です。2011年3月1日私は正式に百貨店に復帰、営業本部にデスクをもらってすぐの出来事でした。お店の裏のお客様駐車場を歩いていたら突然トタン屋根がガタガタと音を立てる。なんかおかしいなと思いながら駐車場を抜けたら、出口付近に停車していた佐川急便のトラックが大きく揺れているのを見て大きな地震だと気がつきました。オフィスに戻るとキャビネットの中から書類が飛び出して床に散乱。売り場に出たらディスプレイ用のマネキンは倒れたまま。そのあとも余震が続き、建物が揺れるたびにお客様の悲鳴が聞こえました。ちょうどその日は前職ファッションブランド企業の銀座路面店がワンブロック先にオープンでした。かつてニューヨークで大型路面店をオープンする予定だったのがあの911テロ事件当日でしたが、またしても11日新店オープン日に不測の事態が起きてしまいました。地震で公共交通機関はストップ、直営店で働くスタッフは百貨店と違って食べるものも休憩所もなく、しばらく帰宅できません。私は弁当を買って元部下たちに差し入れしようと思ってデパ地下に。しかし、帰宅できない近隣オフィスの方が多かったのでしょう、弁当はすべて売り切れ。焼きたてのフランスパンがあったので生ハム類とバゲットを大量に買って新しい路面店へ行き、近隣の百貨店ショップで働くスタッフにも声をかけて地下鉄が動き出すのをみんなと待ちました。私が利用する地下鉄有楽町線は午後11時過ぎ運航再開、同じ方向に帰るスタッフらと帰宅できましたが、数人はそのまま朝までショップで待機でした。震災後すぐに支援を呼びかけたラルフローレン1週間後の3月18日午後、4月に予定していたファッションイベントを開催するか否かを議論する社内会議がありました。会議の直前、銀座の老舗専門店サンモトヤマ(日本で最初にグッチやエルメスを直輸入販売した店)でのアートと家具の展示イベントに出かけました。そこで私は真っ赤なハート型のアクリル樹脂オブジェに釘付けに。作家は遠山由美さん、スープストックトーキョー遠山正道社長の奥様でした。作品Heart Sutra、真っ赤なハートの中には「般若心経」の解体文字、その創作意図を伺ってびっくりしました。遠山由美さんに注目した米国大手航空会社ユナイテッド航空は2001年9月号の機内誌で彼女にスポットを当て、その表紙には遠山さんの作品、中面の特集欄でも大きく取り上げました。911同時多発テロでペンシルベニア州で墜落した飛行機もワールドトレードセンターに突っ込んだ飛行機もユナイテッド航空、その座席には遠山作品が表紙を飾った機内誌、巻き添え食った乗客たちはその表紙を眺めながら最期の瞬間を迎えたかもしれません。「アートで人の命を救えなかった」、ショックを受けた遠山さんは犠牲者のことを思うと新たな作品に取り組むことができず、しばらく創作活動を中断しました。アーティストとしては複雑な思い、さぞ悔しかったでしょう。そして約1年後に鎮魂の願いを込めて般若心経を解体文字に、それを真っ赤なハート型アクリル樹脂のオブジェに入れた作品を創作した、とご本人から伺いました。テロ犠牲者への鎮魂作品と聞いて、私は恐る恐る遠山さんに質問しました。「この作品を貸していただけませんか」、と。4月20日に予定している春のファッションイベントを仮に計画通り実現するのであれば、そのキービジュアルにぜひこの作品を使わせていただきたい、そしてキービジュアルを使ったTシャツやハンカチなどをチャリティーグッズとして作らせて欲しいとお願いしました。オフィスに戻って営業本部長以下幹部に遠山由美さんの作品のこと、それが生まれた背景を説明、これをキービジュアルに被災地で苦しむ皆さんのために予定していたファッションイベントを全館あげてのチャリティーイベントに変更実施してはどうでしょうと提案、社長の賛同も得ました。Heart Sutraはあくまでもアートピース、これをキービジュアル化するには専門のアートディレクターの力を借りなくてはなりません。日本デザインコミッティーの幹事である佐藤卓さんにお願いしたのが以下のビジュアルです。遠山由美さんの作品を佐藤卓さんがキービジュアルにこのビジュアルで急ぎポスター、チラシ、はがきなど印刷物を作り、Tシャツやマグカップなどチャリティーグッズも用意しなくてはなりません。世界からオークションに出していただく特別な品物も集めます。震災から1週間後の3月18日土曜日にイベント決行が社内で決まり、佐藤卓さんに事情説明できたのが週明け20日月曜日、キービジュアル完成がその翌週、開催日4月20日までに印刷物やチャリティーグッズを作るハードスケジュールでしたが、どうにか間に合いました。アートピースをお借りしてからイベント当日まで、担当者は何度も遠山由美さんと打ち合わせでしたが、そのたび彼女は事務所のある代官山から自転車で銀座に駆けつけてくれました。有名社長の奥様なんですが、毎回乗り物はハイヤーでもたくしーでもなく自転車、お人柄がよくわかりました。4月に入るとチャリティーオークションに出品していただく品物が続々届きました。パリコレを終えたばかりでまだパリに滞在していたルイヴィトンのマーク・ジェイコブスさんは2011年秋冬パリコレで披露したばかりの1点ものルイヴィトンバッグにサインを入れ、さらにニューヨークに戻ってからは自身のブランドであるマークジェイコブスのバッグにもサインを入れて送ってくれました。シューズデザイナーのクリスチャン・ルブタンさんも、トレードマークの赤い靴底ハイヒールに励ましのメッセージとサインを添えて送ってくれました。ほかにも山本耀司さんやカルバンクラインはじめデザイナーや有名アートディレクター、女優さんたちからもオークション品がたくさん届きました。当日お買い物されたお客様にはレシートと共にキービジュアルのはがきをお渡ししました。高額バッグであれお弁当であれ、すべてのレシートにはがき1枚の手渡し、1枚につき50円を寄付金に上乗せする仕組みでした。また、そのはがきには館内で働くすべての従業員が被災地に向けたメッセージを書き、それを正面ウインドーや柱まわりにズラリ掲示。下の写真のように、はがきのメッセージを読む、あるいは写メするお客様が大勢、涙を流しながらメッセージを読む方は少なくありませんでした。被災地に向けたメッセージ入りはがきをご覧になる方食品部は東北地方で収集可能な食材、食品をできるだけ集めて販売、ファッション関連部署はお取引先と交渉して特注商品を多数確保、販促部は俳優の渡辺謙さんらが中心となってアメリカで制作した映像「KIZUNA311」の館内上映を交渉しました。1階イベントスペースでは本格的なオークションを開催、4月20日はイベント自粛期間中とは思えないほど活気がありました。こうして被災地救済チャリティーは短い準備期間ながら成功裡におわりました。避難所暮らしの被災者からはSNS経由で感謝のメッセージが届き、読みながら涙があふれ出たことを覚えています。電力不足のためウインドーや館内照明を落とし、エレベーターやエスカレーターは一部停止、イベントは自粛という流れの中、プロモーションの趣旨は変われど全館イベントを敢行できたのは911鎮魂アートピースと出会ったからでした。もしも出会っていなかったら、自粛ムードの中ですから私たちは全員イベント敢行を諦めていたでしょう。そして、「百貨店にはまだできることがある」、小さなアートピースがみんなに勇気を与えてくれました。東北大震災から12年、いまだ行方不明の方がいらっしゃいます。いまだ原子力汚染で自宅に戻れない方もいらっしゃいます。いまだ心の傷が癒えない方もいらっしゃいます。そのことを私たちは忘れません。黙祷。<遠山由美さんのサイトより抜粋>東京都生まれ。西洋のカリグラフィと東洋の書を土台に1990年代、日本語と英語どちらにも読める両面文字 Dual Letter をつくる。それは日本人も外国人も理解する文字が存在するかを確かめようとする試みでもある。手で書く実践をとおして言葉の意味を超えた相互理解の可能性をさぐる。
2023.03.11
昨秋、松屋銀座店5階にPOLO RALPH LAURENのメンズとレディースを同じ空間で展開する併設ショップが誕生しました。POLO RALPH LAURENメンズのエリア同レディースのエリアラルフローレンのメンズ中軸ブランドはデビュー以来POLO by RALPH LAURENです。一方、後発の婦人服を手がけてからずっとレディースはPOLOをつけずRALPH LAURENとして展開してきました。婦人服にPOLOをつけたのは最近です。本国アメリカでも百貨店ではメンズとレディースの売り場は基本的にフロアを分けて展開してきましたから(直営の大型路面店では併設はありました)、昨秋オープンしたときは紳士、婦人服併設ショップは珍しいと思いました。そして、これまで4階で婦人服、5階で紳士服を展開してきたマーガレットハウエルが5階に拡大統合ショップ、3階で婦人服展開してきたズッカは紳士服を導入して5階マーガレットハウエル横に移設。ほかにもこの一画にはメンズとレディースを一緒に展開するブランドが集まり、カップルのお客様が同じショップ内で同時にショッピングできる形になりました。MARGARET HOWELLレディースのエリアショップ中央ウインドー右側がメンズエリアかつて7階にあった雑貨も同じスペースで展開従来のカテゴリー分類では、男性用商品はメンズフロア、女性用商品はレディースフロアで展開するのが一般的でした。しかし、各国の多くの人気ブランドはメンズ、レディース両方を販売するようになり、百貨店の売り場構成は商品軸の「デパートメント」からブランド軸の「ショップ」に変わりました。すでに百貨店からはブラウス売り場、セーター売り場、コート売り場などいわゆる「平場」が姿を消し、それぞれのアイテム平場に商品供給してきたアイテム専業メーカーは次々に廃業してしまいました。平場が消えてブランドショップがズラリ並ぶフロアが増え、百貨店はテナント集積のファッションビルや駅ビルと見た目はほとんど変わらない状態になり、従来の百貨店のカテゴリー分類ではお客様ニーズに合わなくなってきたかもしれません。メンズ、レディース併設ショップはカップルでショッピングされるお客様には恐らく便利でしょう。が、問題は一人でショッピングなさるお客様、特に女性客はどう感じるかでしょう。販売員の接客を受けながらフィッティングルームで何度も着替える女性客にとって、同じ空間の中にいるよその男性の目が気にならないかどうか、そこだけが心配です。通路にセットされたZUCCa男、女服ディスプレイZUCCaの左側はレディースエリア同右側にメンズを導入メンズ、レディース併設ショップが全てのお客様にすぐ受け入れられるとは思えません。しばらく時間はかかるでしょう。が、平場や単品メーカーが消滅した時代変化を考えると、併設ショップは実験してみる価値はあるのではないでしょうか。お客様の声にしっかり耳を傾け、焦らずじっくり構えて運営できるといいですね。もしも多くのお客様の反応がNOであれば、また別の分類方法を考えれば良いのですから....。
2023.03.05
銀座百店会が毎月発行するタウン誌「銀座百点」3月号の巻頭座談会に参加させていただきました。今月は銀座も含めて都内各地で「東京クリエイティブサロン」が開催されますが、それに絡めての座談会です。資生堂ファッションディレクター呉佳子さん、ファッションジャーナリスト宮田理江さんと共に「ファッションと銀座」についてお話しさせていただきました。銀座百店会に加盟しているカフェ、菓子店、レストランや小売店で無料配布されています。詳しくは次のサイトをご確認ください。https://www.hyakuten.or.jp/tenmei/tenmei.html
2023.03.01
前項では文化服装学院ファッション流通専攻過程(3年制)を卒業した元部下たちのことに触れましたが、今日は文化学園を大きな学校法人に育てた前理事長の大沼淳さんとのやりとりを。大沼淳さん(1928-2020年)東京ファッションデザイナー協議会議長をだった頃、繊研新聞社編集局長の松尾武幸さんからちょっと変わった忘年会に誘われました。松尾さんの業界仲間で映画鑑賞が趣味の人との親睦会にゲストとして来ないか、と。メンバーは西武百貨店渋谷店長だった水野誠一さん(のちに社長)、オンワード樫山専務の高田健治さん(のちに副社長)、店舗システム協会専務理事の高山れい子さん、文化学園秘書室長の相澤たまきさんと松尾さんの5人。同じ映画をそれぞれ映画館で観て後日集まり、その映画をサカナに会食する会、忘年会はそれぞれがゲストを同伴する特別企画でした。このとき文化学園大沼理事長と初めてじっくり話ができました。第二次大戦直後、マッカーサー司令官のGHQは日本の官僚システムを是正するため若手官僚を集めて地方合宿、そこで米国式の民主的な組織運営を叩きこんだそうですが、人事院の役人だった大沼さんもそれに強制的に参加させられ、組織マネジメントの教育を受けました。その後、当時労働争議で激しくもめていた文化学園の争議鎮静化に尽力、人事院を退職して文化学園の理事に就任したのが28歳、1960年には創業一族でもないのに理事長に。以来亡くなる前年の2019年まで59年間ずっと文化学園理事長でした。教育者と言うよりもむしろ経営者タイプ、だから文化学園の事業を大きく伸ばせたと思います。余談ですが、この交友録46で触れた文化出版局の久田尚子さんは「私も赤旗振って(学園職員の)デモに参加してたのよ」。人事院から来た大沼さんに向かって「バカヤロー」と叫んでいたそうです。中央の眼鏡かけたスーツ姿が若き大沼理事長忘年会の前後だったと思います。私は文部省管轄ではない官民協同の産業人育成機関をつくろうと奔走し始め、主宰していたファッションビジネス私塾「月曜会」を墨田区役所の職員が見学に来ました。この私塾に賛同してくれた墨田区によって繊研新聞の松尾さんが座長を務める墨田区ファッション人材育成戦略会議が発足、専門学校と競合しないプロ人材を育てるビジネススクールの議論が始まりました。どういう対象者に、誰が、何を、どう教えるかを議論、構想がまとまったところで松屋の社長だった山中さんに理事長をお願いしようとなり、山中さんも加わってさらに議論を深めました。墨田区で議論していた人材育成プランが通産省(現在の経済産業省)マターとなったところで、私は大沼理事長に人材育成機関の説明に行きました。前項で触れたように、この席で「教育は我々に任せてくれ」と言われ、マル秘の在校生の高校時代の成績一覧表を見せてもらいました。在校生の偏差値レベルがいかに高いかをわかって欲しかったからでしょう。優秀な若者がファッション専門学校に集まっていることは東京コレクションの学生アルバイトから感じていましたし、これまで専門学校がどれだけデザイナーを輩出してきたかは十分認識していました。しかし、企業に入った若手社員に実践教育でマネジメントを教える人材育成機関を業界の力で作りたいんです、と申し上げました。東京都が10億円、墨田区が20億円、産業界が20億円出捐、合計50億円の財団法人としてIFIビジネススクールは誕生。IFIの夜間プログラムを始めたのが1994年9月でした。アパレルマーチャンダイジングのクラスは墨田区戦略会議メンバーだった岡田茂樹さん(ジュンコシマダ)、小売マーチャンダイジングは私が主任講師として週1回半年間の授業を回しました。そのうち夜間プログラムは月曜から木曜日まで4つのクラス全体を私が面倒をみる形になり、さらに全日制プログラムが1998年4月に始まり、私の負担はかなり増えました。ちょうどその頃、高校3年生の息子が「文化服装学院に行きたい」と言い出したので、大沼理事長に「文化には二次募集ってあるんですか」と質問しました。真面目に高校に行かない息子には高校から卒業見込書は発行されない、頼みは見込書不要の二次募集だったからです。大沼さんは「うちでいいの」とおっしゃるので、「将来やりたいことがあってどうしても文化なんです」と説明すると、「教務に言っておくから二次募集でなくすぐ応募するように」と言われました。IFIビジネススクール設立に奔走した私が息子を文化服装学院にお願いするんですから、決してファッション専門学校に敵対する立場ではないと理解してもらえたと思います。が、それでも大沼さんは教育は専門学校が担う、業界は産学交流、奨学金制度や就職受け入れなどでもっと学校を支援して欲しいというお考えでした。文化学園内に新たに「文化ファッション大学院大学」を作ったり、文化女子大学を男子学生も入学できる「文化学園大学」に改編したのも、ファッションにおける教育は専門学校マターであって業界マターではないというお考えだったからだと思います。もう一点、大沼さんにお願いしたことがあります。東京ファッションデザイナー協議会議長を退任するにあたり、文化出版局の久田尚子さんを後継議長にしたいのでご承認ください、と。議長退任の条件は後任を決めることでした。久田さんは私と違って組織の人間、上司である文化学園理事長の許可が必要でした。大沼さんの快諾を得て、私はやっと議長から解放されました。さらにもうひとつ、大沼さんには「高田賢三プログラムをデザイン科のカリキュラムに入れて欲しい」とお願いしたことがあります。高田賢三回顧展@文化学園服飾博物館文化服装学院からはたくさんのデザイナーが世に出ていますが、最初に世界的に有名になったOBは「花の9期生」の一人、高田賢三さんです。賢三さんは時々日本に長期滞在して全国各地を旅していると長年のパートナー鈴木三月さんから聞いていたので、賢三さんの目の黒いうちに賢三クリエーションを後輩たちに体感してもらったら、とカリキュラムを考えました。1)ジャーナリストや鈴木三月さんからレクチャー。2)賢三さんのデザイン、世界観を徹底的に調べる。3)アシスタントのつもりでコレクション企画、テーマを決める。4)企画マップ作成、デザイン画を描き、制作サンプルを決める。5)シーチングでサンプルを組み、パターンチェック。6)賢三さんに1回目プレゼン。(オンラインで講評もあり)7)アドバイスを受けて修正する箇所はパターン修正。8)生地調達、サンプル制作にかかる。9)サンプル完成したらプレゼン、最終講評をもらう。文化服装学院の学生たちによる賢三コレクション、賢三さんご本人あるいは所縁のジャーナリストや研究者のレクチャーとサンプルづくりを通してクリエーションを伝える構想でした。説明を終えると大沼さんは「この先は担当者と進めて」と窓口になってくださる方を紹介してくれました。が、残念ながら賢三さんも大沼理事長も相次いで亡くなり、結局この構想は実現しませんでした。文化学園の卒業生でもない私の願いをよく聞いてくださった恩義のある方、「僕は100歳まで生きるんだ」といつも背筋をピンと伸ばして仰っていたのを思い出します。
2023.02.27
世界で通用するプロのビジネス人材を育てる人材育成機関を日本にも作ろう、とIFIビジネススクール設立に奔走していた頃、特別に配慮しなければならなかったのが、多くのファッションデザイナーを輩出してきたファッション専門学校でした。 中でもリーダー格だった文化学園(文化服装学院や文化女子大学を有する学校法人)大沼淳理事長には、専門学校のライバル機関を作るつもりはなく、共存共栄できる存在と理解していただく必要がありました。IFI山中理事長はじめ理事の大手企業経営者と共に文化服装学院の見学に出かけたのも、おかしな軋轢を回避するためでした。私は大沼理事長から「業界が学校を作ろうなんて考えず、教育は私たちに任せてくれ。欧米のように企業はもっと学校を支援して欲しい」と言われ、「専門学校生の中には高校時代の偏差値が高く国立大学に入学できそうな学生も少なくないんだよ」と極秘扱いの高校成績が記載された学生一覧表を見せてもらったこともありました。官民協同の「大学院」のような人材育成機関は作って欲しくない、大沼さんのお気持ちはよくわかっていましたが、それでも専門学校とは競合しない形で官民一体となった人材育成機関を作る意味は大きい、と私たちは考えていました。だから、IFIビジネススクールはファッションデザイナー育成の部門は作らない、入学資格者は専門学校または一般大学を卒業している者に限定する、とみんなで決めました。さらに既存の専門学校に協力する姿勢を見せるためにも、私は文化服装学院の商品企画系3年生のクラス(曽根美知江先生)と流通系3年生のクラス(林泉先生)を外部講師として指導することになったのです。東京ファッションデザイナー協議会から松屋の東京生活研究所に移籍する前後、本業とは別にIFIビジネススクールの講義があり、さらに文化服装学院ではそれぞれのクラスを週1回担当するのですからかなりの負担でしたが、誤解されないためにもやらざるを得ませんでした。 その後2000年に私は2つの企業の重責を担うことになってしまい、IFIビジネススクールでも文化服装学院やほかの専門学校でも後進を育てる時間的余裕がなく、しばらく教育現場からは離れました。単発の特別講義ではなくレギュラー講師として教育現場に復帰したのは、官民投資ファンドの社長退任後、文化服装学院流通過程に初めてできた4年生(以前は3年生まで)のクラスでした。文化服装学院ファッション流通科の卒業ショー さて、今日の本題はビジネススクールや専門学校のことではありません。文化服装学院で教えた若者たちの中から、私の部下になった人たちの話です。 文化服装学院で2つのクラスを週1回教え始めた頃、流通専攻科の林泉先生から、「太田先生の下で働きたいという学生が二人いるの。せめて面接だけでもしてやってもらえないかしら」と頼まれました。採用する気もないのに面接するのは学生さんに失礼ですから、私は会社に戻って人事担当と相談し、もしも能力がありそうならば専門職採用する方向で面接することになりました。 私が講義でよくコムデギャルソンの話をしたからでしょう、二人の女子学生はバリバリのコムデギャルソンを着て面接にやってきました。一人はファッションセンスが良い、もう一人は論理的でマーケティングに向いている、二人を足して2で割ったらファッションコーディネイターとして使えるかもしれない。が、採用枠は一人のみ、絞れませんでした。 窓口だった流通専攻科の副担任に「残念ながら採用できない」と連絡、「クラスにはほかに一人優秀な子がいるでしょ。その子も面接したい」と伝えました。私の講義で、当時数寄屋橋にオープンしたばかりのギャップ日本一号店と改装直後の西武百貨店渋谷店の両方を自主的に視察し、その感想を要領よく発表した一人の女子学生(両方の店を自主的に視察したのはクラスでたった一人)のことが気になっていました。 ところが、副担任は「あの子はダメです。既にS社の内定が出ていますから」。S社はこれまで販売職でも大学生だけを採用、専門学校生を採用したことがない敷居の高い企業でした。その女子学生が応募したら販売職で内定、これまで縁のなかったS社とのパイプが初めてできたので先生たちは喜んでいました。 担任の林先生に頼まれて新卒採用の枠を設けた私としては、大勢の学生の中で特に気になっていた学生を面接してみたい、副担任に「ファッションコーディネイターとして育ててみたいので面接させてくれ」と頼みました。 そして、その女子学生は私の下で働きたいと言ってくれました。彼女に内定を出していたS社は私が転職直前にあれこれアドバイスしたことがあり、騒動を避けたいので「家庭の都合で就職しない」と内定辞退するよう勧めました。が、真面目な学生は正直に私に声をかけられたのでキャンセルしたいと伝え、S社は納得してくれたそうです。 IFIビジネススクール全日制1期生山本雅範と関口奈々と昨年末にこうして新卒の関口奈々は東京生活研究所とファッションコーディネイター契約を結びました。しかし彼女と私との間を取り持った副担任は先輩の先生方から厳重注意されました。学校と初めてパイプができそうだったS社の内定を学生の方からキャンセル、やってはいけないことだったようです。 関口は性格もセンスも良く、コーディネイターとして優秀でした。我々も彼女をIFIビジネススクール夜間コースに出して勉強させ、ニューヨーク視察にも連れて行き、いろんな経験をさせました。米国に戻った杉本明子さんの後任ファッションディレクター関本美弥子(私が大手アパレルから引き抜いた)も、のみ込みがはやい関口をしっかり指導しました。 それから数年後、関口は家庭の事情で退職(のちにファッション企業に強い広告代理店コスモコミュニケーションズに就職)しました。現在も同じ代理店で活躍しています。ファッションディレクター関本美弥子(右)と岡野涼子(左)2000年3月卒業シーズンのある夜、たまたま千駄ヶ谷界隈をタクシーで通行中に関口の内定辞退で迷惑をかけた文化服装学院の木本晴美先生から「歌舞伎町で謝恩会の二次会をやっています。時間あれば寄ってください」と電話がありました。二次会の会場に到着してすぐ、私のテーブルに1年間の講義で一番前の座席で熱心に話を聞いていた学生が現れたので、「キミはどこに就職するの?」と質問。学院OBが経営するB社と聞いて、「そっちを辞めてウチに来ないか」と誘いました。その場にいた木本先生は「やめてください。関口のときは大変だったんだから」と言われましたが、学生は入社1週間でB社に辞表を出しました。 文化を卒業して1ヶ月後、岡野涼子は関口奈々の後任として東京生活研究所ファッションコーディネイターに就任。ちょうど大きなリニューアルの構想を練り始めたタイミング、社員たちから上がってくる売り場プランは当たり前すぎて私には面白くありません。入社したばかりの岡野に「どんな売り場にすれば面白いと思う?」と質問すると、彼女の答えは「化粧品メーカーの美容部員に接することなく買い物できるセルフのコスメ売り場が百貨店にあってもいいのではないでしょうか。テスターをいっぱい置いて、時間を潰せたら若いお客様は楽しいと思います」でした。私は「それで進めてみろ」と。こうして学校を卒業したばかりの新米コーディネイターが発案した広いセルフコスメゾーンが松屋2階の目玉売り場として誕生しました。コーディネイターとして岡野も優秀でしたが、ダンナが関西方面に転勤するため研究所を退職、現在は関西の商業施設で仕事をしています。 大規模改装前(上)と改装後(下)の外観関口と岡野の恩師である木本先生からはのちにもう一人教え子を紹介してもらいました。文化を卒業してロンドンに渡り、帰国した高橋史佳です。彼女も松屋のコーディネイターとして活躍、出産を機に退職しました。余談ですが、ダンナは松屋の社員です。今日、その高橋から久しぶりにメールが届きました。今春お子さんが保育園に入るので自分は社会復帰、某百貨店とコーディネイター契約を結びましたとわざわざ知らせてきたのです。律儀な子です。実は、関口の前にも東京生活研究所は文化服装学院流通専攻科から新卒を採用しています。研究所ファッションディレクターで友人の杉本明子さんに頼まれ、私が教えていた学院3年生のクラスからセンスのいい子を紹介しました。渋谷陽子は卒業後東京生活研究所に採用され、杉本さんにコーディネイターの仕事をみっちり叩き込まれ、研究所卒業後は森ビルのテナントリーシングに携わっています。私の部下にはもう一人、文化服装学院流通専攻科出身者がいます。私の特別講義に刺激され、どうしても部下にしてくれとデザイナー協議会を訪ねてきた田中英樹です。協議会で新卒採用して東京コレクションの運営を経験、私が東京生活研究所長になった翌年には田中も移籍して研究所のメンズ部門ファッションコーディネイターに。数年後にはアパレル企業や学校でも指導するプロになりました。彼は私にとって文化服装出身の弟子第1号、いまは独立して独自の商品企画、ものづくりをしています。1985年ニューヨークから戻った直後、私は文化服装学院の小池千枝学院長に声をかけられ学院の「火曜会」という先生方の勉強会で講演、米国式実践教育をお話ししました。文化服装学院と私のご縁はこのときから始まり、気がつけばここで紹介した元部下以外にもアパレルメーカー時代に多くの若者を新卒採用しました。今日たまたま元部下高橋から社会復帰報告メールをもらい、文化出身の部下たちに恵まれたなあと振り返った次第です。<追記>1995年10月14日に私が文化服装学院の当時副担任だった木本晴美先生に送ったファックス、ご本人からコピーが送られてきました。返信はニューヨークの滞在ホテルのファックス番号までとお願いしているのでおそらく若手バイヤーの海外研修引率したときのものでしょう。木本先生、よく保管していましたね。
2023.02.18
コロナウイルス感染で2020年10月に亡くなったデザイナー高田賢三さんのプレス担当やビジネスパートナーとして公私共に賢三さんを長く支えてきた鈴木三月さんが、今月「高田賢三さんと私」を出版されると聞いて早速Amazonに予約を入れました。世界的デザイナーの成功、挫折、葛藤を至近距離でずっと見てきた鈴木さんだからこそ書ける、私たちが知らないケンゾーストーリーがいっぱい盛り込まれているでしょう。ファッションビジネスに関わっている多くの方々や、これからその世界を目指そうとする学生さんたちにもぜひ読んでもらいたいです。時事通信社から2月21日に発売予定。
2023.02.08
昨日、南青山スパイラルホールで開催された目白ファッション&アートカレッジのファッションショー(=写真)にお邪魔しました。コロナウイルス感染の影響で一般公開するのは実に3年ぶりだそうですが、自分たちで作り上げるファッションショーを経験することなく卒業した若者も3年の間にはいたことでしょう。(学生ショーのフィナーレ)与えられたテーマに沿ってデザインを考案し、時には放課後夜遅くまで残って作品制作に没頭、みんなでショーを作り上げる過程で生まれるチームワークはファッション系教育現場では大変重要なこと。苦労してみんなの力でショーを披露した後の達成感、恐らくファッション専門学校を卒業した人たちには生涯忘れられない思い出になっているはずです。また、指導する先生たちにとっても、一連の作業プロセスでどんどん伸びていく教え子たちを見ることは先生冥利を実感する瞬間です。コロナウイルスで中止あるいは大幅縮小を余儀なくされ、どの専門学校の先生方にも辛い3年間だったと推察します。プロの現場でも、ファッションショーに向けて組織の全部署が一斉に始動し、ショーが終了するまでの苦労とその過程で生まれるチームワーク(もちろんプロセスでチーム崩壊するケースもあります)は学生ファッションショーと同じ。ショー制作には莫大な経費がかかります。単純に経費管理の視点で言えば無駄かもしれない出費。でも、組織一丸となってコレクションとショーを作り上げるプロセスにはお金で買えないものがいっぱいあります。パリ、ミラノでメンズコレクションが終わり、もうすぐ2023年秋冬ウイメンズコレクションがニューヨークから始まります。コロナウイルス拡散時期は多くのメゾンがデジタル配信でしたが、今シーズンからは従来通りプレスやバイヤーを招いて普通にショーを披露するメゾンが大半でしょう。空白の3年間を経ていつもの活気が業界に戻ってきます。幸い消費市場ではコロナ以前の売上を記録するブランドが増えてきました。世界のファッションウイークから新しいアイディアや新人デザイナーが登場すれば、市場での消費熱はもっと高まるでしょう。今週9日スタートのニューヨークから来月7日終了のパリコレまで、目が離せません。東京コレクション(Rakuten Fashion Week TOKYO)は来月13日(月曜日)から18日(土曜日)まで渋谷ヒカリエなどで開催されます。
2023.02.05
大学2年生の冬に父の同業仲間を訪ねたとき、オフィス応接室に置いてあった見知らぬ新聞が「繊研新聞」でした。「何これ」と手に取って電話番号をひかえて翌日電話し、数日後に購読を開始しました。以来、繊研新聞とは長い付き合いが続いています。購読初期はわからない単語だらけ、記事に赤線をひいてはあとで調べ、興味ある記事は切り抜いてスクラップ、私には最良のテキストでした。大学生のファッション研究団体を立ち上げ、いろんな媒体の取材を受けるようになり、若者市場に関するマーケティングレポートを寄稿する中で繊研新聞の取材も何度か受けました。このブログの交友録20に登場する松尾武幸さん(当時は編集部デスク)が取材に連れてきたのが、直属部下の織田晃記者と営業部の古旗達夫さんでした。織田晃さん(故人)そして、大学卒業が迫ったタイミングで織田さんに呼び出され、「卒業したらうちに来ないか」と誘われました。が、私はどうしてもマーチャンダイジングを収得のためニューヨークに行きたかったのでお断りしました。その後渡米して1年経過、松尾さんが特約通信員に誘ってくれ、私はニューヨークのデザイナーコレクション評や業界動向を繊研新聞に書くようになりました。1983年3月、パリコレとはどんなものか一度見てみたいと思い、コレクション担当記者だった織田さんに招待状の追加申請をお願いしたら快く引き受けてくれました。宿泊は織田さんがあの頃パリ出張時に使っていた凱旋門にほど近い安ホテル、凱旋門からホテルまで歩道には派手な化粧のコールガールが並ぶなんとも薄気味悪いエリアでした。いまでは想像できない1ドル230円の円安時代、日本からの出張者は安ホテルで我慢するしかありませんでした。コレクション期間中チケットが複数枚届いたメゾンのショーは織田さんに同行、多くのコレクションを見せてもらいました。働く女性たちにとっての実用的な服が大半を占めるニューヨークと違い、パリコレは「誰がいつ着るの」と問いたくなる奇抜なデザインも多く、ショーの演出は楽しく、華やかさは明らかに違いました。連日最終時間のショーが終わると、織田さんにくっついて日本からの取材陣と合流して遅めのディナー。一般紙の記者、女性誌や専門誌の編集者、フリージャーナリストやパリ在住の関係者、ブランド広報の人たちとちょっとした打ち上げ宴会のようでした。朝から夜までほぼ1時間おきのショー取材、しかも大半の方はミラノに続いてパリコレですから相当きつかったでしょうが、それでも皆さんとても元気でした。織田さんのほかには服飾評論家の大内順子さん、毎日新聞の田中宏さん、集英社の愛甲照子さん、モードエモードの大塚陽子さん、ほかにパリ在住フリーのジャーナリストやカメラマンらがよくサントノーレ通りの中華料理店に集まっていました。残念ながら多くの方はすでに亡くなっていますが....。いまでもそうかもしれませんが、当時ファッションショーの招待状は同業者の間で奪い合いでした。宿泊しているホテルのコンシュルジュが間違ってショーの招待状を赤の他人に渡そうものならまず戻ってはきませんし、会場で指定された座席番号には先着した他社の記者が知らん顔して座っていることも日常茶飯事、自分の席に座るまで安心できません。(シャネル 2013年春夏パリコレ)新聞雑誌の正社員記者が初めてパリコレに来ると、それまでパリコレレポートを寄稿していたパリ駐在特派員や外部のフリーランスジャーナリストに招待状が届くものの「新参者」には届かないといったケースがよくありました。初めて取材に来た若手記者が確認のためにオートクチュール協会のオフィスを訪ねたら、協会側の登録媒体リストに自分の名前はなく、自社の欄には登録手続きをお願いした人の名前しかなかったという怖い話も。先輩ジャーナリストやパリ在住フリーランスの人たちに虐められ、初回のパリコレ取材で「もうパリコレには来たくない」と嘆く記者もいましたが、私は織田さんがちゃんと招待状を渡してくれ、織田さんにくっついて行動していたので初回パリコレでも惨めな思いを全くせずに済みました。あれは私にとって2回目のパリコレ、1985年3月のことでした。織田さんからマリ・クリスティーヌさんを紹介されました。女優や番組司会で活躍していたマリさんはいろんな国で生活した経験とその語学力を活かしてファッションレポートにも意欲を燃やし、85年秋冬パリコレ取材に来ていました。パリコレ取材は新人同然、先輩取材陣の洗礼を受けてちょっと悩んでいる様子。織田さんから「太田くん、面倒見てやってよ」と言われ、現地であれこれアドバイスすることになったのです。マリさんは先輩取材陣から冷たくされたのか、「いったい誰を信じたらいいのでしょう」とストレートな質問。私はニューヨークがホームグラウンド、パリコレは2回目で誰が信用できるなんて軽々に答えられません。「織田さんは裏のない人、彼の背中に隠れていればいいよ」と助言しました。彼女にはもう一点、「あくまでもタレントとして消費者目線でファッション情報を視聴者や読者に伝えることに徹してみてはどうかな。あなたがファッションの専門家を目指すとなれば、報道陣の中には警戒する人が出るかもしれない」。先輩の紹介だったのでじっくり相談に乗りましたが、その後しばらくして彼女はファッションの世界を諦めたのかショー会場で姿を見ることはなくなりました。後輩たちや若いデザイナーの面倒見も良かったが、織田さんは学生の頃から反骨精神の持ち主、ビッグネームのコレクションにも忖度なしで辛口批評を書き、時々ブランド広報やデザイナー本人と口論になることもありました。織田さんの記事に怒り心頭だったデザイナーに上司の松尾編集局長共々呼び付けられて胸ぐらを掴まれたこともあったそうです。反骨精神の記者から見れば、日本の主だったファッションデザイナーが組織したCFD(東京ファッションデザイナー協議会)はひとつの権威団体、その事務局長に就任した弟分の私(織田さんほどではないけれど忖度抜きの私の記事に対するクレームが繊研新聞に来ることがたびたびありました)は「裏切り者」だったのかもしれません。CFD設立してからは何かにつけCFDや東京コレクションに批判的、私とは距離を置くようになりました。反骨のジャーナリストにとって、取材対象であるデザイナーを守る側に行ってしまった後輩が許せなかったのかもしれません。
2023.02.02
あれは確か1984年正月明けの寒い日でした。ニューヨークから一時帰国した私はオヤジの代理で、弟が結婚したい女性の父親にご挨拶に出向きました。名鉄岐阜駅の改札口、全身黒いコムデギャルソンをまとった白髪の男性が立っていたので「この人だな」とすぐわかりました。そのまま柳ケ瀬の割烹店に案内され、初対面ながら昔から親交があったかのようなもてなしを受けました。松下弘さん(故人)織物研究舎、通称オリケンの松下弘さん。当時コムデギャルソン全ブランドの大半の生地をデザインし、ヨウジヤマモトにも生地を提供していたテキスタイルの達人です。すでに世界で高い評価を得ていたイッセイミヤケにはテキスタイルデザイナーの皆川魔鬼子さんという強力な戦力が社内にいました。イッセイミヤケの海外進出から10年遅れてパリコレに進出するんですから、コムデギャルソン、ヨウジヤマモトも意匠性ある独自素材を作る仕組みが必要でした。そこで松下さんにテキスタイルの創作を託したのでしょう。弟は松下さんの長女と1984年秋に結婚しました。名古屋の熱田神宮での結婚式、新婦の父は儀式進行の巫女さんの方をじっと眺めていました。「巫女さんの裾模様のジャカード、見ましたか。素晴らしい。今度作ってみようかな」、と。娘の結婚式なので父親の感傷的表情を見せたくなかったのかもしれませんが、松下さんは新婦の父というよりクリエイターそのものの目でした。松下家の披露宴主賓は山本耀司さんと川久保玲さん、太田家の主賓はオヤジの長年の友人の実業家と私の友人でちょうど来日していた米国デザイナーのジェーン・バーンズでした。あの頃ヨウジヤマモトの米国小売店パートナーはセレクト店シャリバリ、そしてジェーンはデビュー当初シャリバリのアトリエ専属デザイナー、妙なご縁でした。このとき私は新郎の兄として初めて山本耀司さんと会話を交わしました。結婚式の数日後、ファッション業界のことを全く知らないわが親族は朝日新聞の「天声人語」を読んで驚きました。朝日新聞社所有の有楽町マリオン朝日ホールこけら落としファッションイベントにヨウジヤマモト、コムデギャルソンが参加、山本さんと川久保さんの記述があったので親戚のおばさんたちは「あの方たちは有名なデザイナーだったのね」。田舎のおばさんたちにとって「天声人語」に載るような人が参列していたのでびっくりだったのでしょう。その後私は米国から帰国、東京からパリコレ出張はどういうわけか毎回松下さんと同じフライトでした。当時はまだパリ直行便がなく、アラスカのアンカレッジ経由便、もしくはアンカレッジとロンドンで給油してからパリに入る日本航空便でしたが、アンカレッジ、ロンドンの空港待合室で松下さんは私によく囁きました。「今度は光るんですわ」、「今度は赤なんですわ」、と。パリコレ当日ショー会場に行くと、コムデギャルソンの配慮なのか松下さんの隣が私の席、そこでも「光るんですわ」、「赤いんですわ」。1988年秋冬テーマ「エスニック」そしてショーが始まるとどのシーンでもキラキラ光る織物やニットだったり、布に付けられた透明ストーンのアクセサリーが光っていました。松下さんは素材提供していても実際にどういう形で服が登場するかは事前にご存知ありませんから、ショーが終わるや「全部光ってたねえ」と満足そうでした。ステージに登場した全点がどこかしらに赤を使っていたコレクションでは「全部赤だったねえ」。このとき松下さんが教えてくれたのは、コムデギャルソンから出たキーワードは「私のエスニックを作って」だったと。このキーワードを膨らませて素材を創作していたらトマトのような赤が浮かんできたそうです。「赤い布を作って」ならば我々にも想像つきますが、川久保さんと松下さんとの間はまるで禅問答のような掛け合い、「私のエスニック」が赤い布になりました。ほかには「掌の中におさまるドレス」のキーワードから、超薄手のジャージーやポリエステル地ファブリックで透け透けのコレクションが発表されたシーズンのこともよく覚えています。1993年春夏コムデギャルソン80年代の中頃、パリコレの記事ではフランス左翼系日刊紙リベラシオンに優秀な記者がいて、フィガロ紙、ルモンド紙、インターナショナルヘラルドトリビューン紙以上に注目されていました。パリコレ期間中リベラシオン紙はコレクション報道の一環として松下弘さんを顔写真入りで大きく取り上げ、彼のテキスタイル作りの姿勢、川久保さんと山本さんとの関係を紹介したことがありました。この記事で恐らく多くのジャーナリストやバイヤーは、ヨウジヤマモトとコムデギャルソンのテキスタイルがどことなくニュアンスが似ている理由を初めて知ったのではないでしょうか。コレクションそのものの記事よりも大きな扱いでしたから。ヨウジヤマモトプールオムのショーではこんなことがありました。フィナーレに登場した男性モデルたちは一斉にジャケットの前をパッとオープン、そこには白地のシャツにプリントで描かれた大きな花の絵がズラリ、これに観客は拍手喝采でした。黒の世界が最後に一転パッと派手なお花のプリントでしたから。このとき客席にいた川久保さんがただ一人ムッとした顔つきで下を向いたまま。フィナーレの演出はいたって単純、モデルごとに違うお花プリントに特別な意味はなさそう。私はあまりに単純な演出で拍手喝采とはクリエーションの同志としてあまりにありきたりすぎると不満なんだろうな、と勝手に推察しました。しかし、私の見立ては間違いでした。フィナーレ直前のワンシーン、登場したプレーンな平織り素材はヨウジヤマモトではなくコムデギャルソンに配分してくれたら良かったのに、という理由での不満表情だったのです。ショー終了後会場近くのカフェで松下さんがコムデギャルソンの幹部たちに、「来月(婦人服パリコレ)は表面起伏のある素材でもヨウジはジャカード、ギャルソンはドビー(織り)。あっちの方が良かったなんて言わないでくれ」とピシャリ。起伏の表現をわざわざ織り方を変えてテキスタイルを作る、時代を牽引する二人のクリエイターの狭間で仕事する苦労とプレッシャーを垣間見ました。2003年秋冬ヨウジヤマモトそれから数年後、ある事件があってヨウジヤマモトと織物研究舎の関係が切れ、松下さんはコムデギャルソンに全力投入できる状況になりました。ところが、川久保さんから私に連絡があり、山本さんと松下さん二人を説得する仲介役を頼まれました。私が「100%ギャルソンになったから良かったじゃないですか」と言ったら、川久保さんは「両方に素材提供するから緊張感があるし、松下さんは手抜きができない。うちだけだと良いもの作れないかもしれない。親戚なんだから何とかしてください」。川久保さんのクリエーションに対する姿勢はハンパないです。頼まれた私は山本さん、松下さんと個別に会って両者の和解を試みましたが、このときは完全に力不足、失敗でした。その後松下弘さんは亡くなり、大学卒業後ヨウジヤマモトで数年間修行したことのある松下さんの長男が織物研究舎を引き継ぎ、いまはヨウジ社とは良好な関係が続いていると聞いています。写真上の2003年秋冬ヨウジヤマモトのコレクションはいかにもオリケンという感じだったので、私は弟に「オリケンはまたヨウジの仕事を始めたのか」とメールしたくらい。テキスタイルの達人の味、亡くなったいまもしっかり続いています。
2023.01.21
年末年始都心部の売り場にコロナ禍以前のような活気があった要因のひとつは台湾や香港などのインバウンドパワーがあげられます。まだ中国人観光客の姿は見かけることはありませんが、外国人の消費は売上に相当寄与しているはずです。先日アップルストアの消費税免税処置に対する追徴金が170億円と発表され、在日転売ヤー(あるいはその元締め)の存在の大きさに改めて驚かされました。アップルストアに限らずどの商業施設も従来より慎重に免税処置を受け入れていますから、普通に免税される外国人観光客と在日の転売ヤー合わせて一体どれくらいの外国人シェアなのかはわかりません。年末ラグジュアリー系ブランドがやっとコロナ禍前の2019年売上に戻ったのは、明らかに海外からのお客様と転売ヤーのお陰でしょう。今年は春節がちょっと早く、しかも中国政府の外遊緩和策でそろそろ中国人の来日も増えてきそうです。年末中国からの観光客抜きでも相当売り場に活気がありましたから、コロナ禍前のようには行かないとしても今年の春節は中国人も復活してそれなりにインバウンド消費があるかもしれません。私がクールジャパン政策に関わった2013年、来日外国人はおよそ1,000万人でした。それが6年後の2019年には3,000万人を突破、このまま伸びて行けば5,000万人突破も夢ではないと思っていました。美味いラーメンを日本で食べたいという理由だけで来日する富裕層外国人もいれば、アニメやコスプレの聖地巡礼、自国よりも品揃えが豊富で価格の安いブランド商品ショッピング目的、日本の伝統文化に触れてみたい外国人の来日も増えてきました。コロナウイルスさえなければ2022年には5,000万人に迫っていたのではないでしょうか。世界で最も外国人客を集めているのはフランス、その数はおよそ9,000万人。数年前フランスの政府関係者に聞いた話では、フランスの悩みはパリ一極集中、政府としてはフランスの地方都市にもっと賑わいを作りたいそうですが、他国には羨ましいダントツ人気。ヴィジットジャパンやクールジャパン政策がいくら奏功しても日本がフランス並みに外国人観光客を集めることはできないでしょうが、かなり上位にランクされるのは可能だと思います。日本は東京一極集中ではなく、結構地方にも分散していますから期待できます。コロナ禍直前の2019年、日本は世界で12位でした。普通に東京オリンピックが開かれていたらどうなっていたんでしょう、8位のタイに肩を並べていたかもしれません。各国ともコロナウイルス対策はどんどん緩い規制になってきました。コロナ感染者の数が減少しなくても、旅行者の行き来はこの3年間とは違うでしょう。そこに外国からの旅行者にはありがたい円安傾向、インバウンドが再び急増する環境は整いつつあります。接客のいらない転売ヤーより、つたない英語でもちゃんと接客して販売できる方が販売スタッフのやる気も違うはず。早くインバウンドが復活することを期待したですね。
2023.01.19
2014年1月シンガポールとマレーシアの視察。クールジャパン政策を推進するために設立された新組織の代表に就任して最初の海外出張でした。このときシンガポールのマリーナベイサンズカジノのスケールの大きさに圧倒されました。東京ドームのような巨大カジノ場(写真上)、このビル周辺にはカジノで勝利した観光客を相手にしているであろうラグジュアリーブランドの大型店がズラリ並ぶショッピングモール。当時日本でもインバウンド拡大のための「I R構想」が議論され、東京お台場、大阪、沖縄の3か所がカジノの候補地らしいと噂されていました。最近はコロナウイルスの影響でしょうか、とんと噂すら聞かなくなりましたが...。近未来、日本にもこんなスケールの大きな娯楽商業施設はできるのでしょうか。2年後このシンガポールでは「ジャパンフードタウン」開店(2016年7月、写真下)のお手伝いをしました。ラーメン屋、稲庭うどん店、居酒屋、寿司店、蕎麦屋、天ぷら屋、とんかつ店、鉄板焼きや鯖専門店など日本の食をまとめて海外に紹介しようとする事業家の情熱に多くの飲食店が共感しての出店でした。オープニング視察した台湾の百貨店から早速アポが入り、同じようなレストラン街を台北に作りたいので協力してもらえないかと言われました。マレーシアの首都クアラルンプールの宿泊ホテル部屋からのぞむ高層ツインタワー(写真上)はもの凄く迫力がありました。発展途上国のイメージは吹き飛び、ASEANに対する認識を変えないといけないとこのとき思いましたね。この地に全館クールジャパンの日系百貨店はできないものか、と議論を開始。2年後の2016年10月にはISETAN The Japan Storeがオープン。1階サカイ、アンダーカバー、ヨウジヤマモト、プレイ・コムデギャルソンなど日本を代表するファッションブランドから、伝統的な生活雑貨、スキンケア、カメラ、キャラクターグッズ、デパ地下まで、どこを切り取っても「かっこいい日本」でした。ドバイの商業施設開発会社幹部からは「このままドバイに持ってきてくれないか」と興奮気味にアプローチされました。2014年視察から退任する2018年までアジア各国には何度も足を運び、訪れるたびにどんどん進化する様と日本文化への関心に驚いたものです。いまはもっと日本の食、ファッションやアニメなどのコンテンツ分野が人気になっていることでしょう。コロナウイルスでなかなか海外に出られませんが、日本の生活文化がどのように広まっているのか、この目で見たいです。
2023.01.12
寒中お見舞い申し上げます。昨年8月に母・和子がコロナウイルス感染して永眠、新年のご挨拶は失礼させていただきました。年始のニュースによれば、都心部の百貨店ではラグジュアリーブランドの12月売上がコロナ禍以前の2019年12月を上回り、インバウンド消費もかなりの水準に戻ったそうです。中国人観光客はまだ戻ってきていない状況の中でこの好成績、景気は回復しつつあります。年末クリスマスイブの昼下がり、ラグジュアリーブランドが並ぶフロアはまるでバーゲンセール初日のような賑わいでした。急激な円安、物価上昇、コロナ感染者増は気になるところですが、景気がこの調子でもっともっと良くなることを期待したいですね。本年もどうぞよろしくお願い申し上げます。
2023.01.06
今夏、大きな病院の上層階にある介護施設でお世話になっていた母がコロナウイルスで亡くなりました。院内クラスター感染だったのでしょう。享年95歳、長生きしてくれました。母には感謝しかありません。母が亡くなったので個人的に2022は特別な年ですが、英国の国王として長年君臨してきたエリザベス2世、ソビエト連邦を葬り去ったゴルバチョフ書記長、遊説中に暗殺された安倍晋三元首相と忘れられない年になりました。そして、今年はファッションデザイナーの訃報も続きました。西田武生さん、1922年富山県高岡市生まれ。美空ひばりさんや黒柳徹子さんなど芸能人の舞台衣装もたくさん手がけられた長老です。徴兵から復帰するまでファッションとは無縁の仕事。戦後、地元百貨店の大和に就職してからファッションの世界へ。1962年からデザイナーとして活躍されました。享年100歳。三宅一生さん、1938年広島市生まれ。多摩美術大学でグラフィックを学びつつファッションデザインを始める。卒業後パリオートクチュールメゾンで修行中「五月革命」を目撃、特権階級に向けたオートクチュールから一般市民に向けた既製服の時代が来ると感じてニューヨークに渡る。帰国して1970年三宅デザイン事務所を立ち上げた。その後の活躍は皆さんご存知でしょう。享年84歳。森英恵さん、1926年島根県鹿足郡生まれ。東京女子大学在学中に知り合ったご主人の実家は尾州の繊維会社。ご主人の理解もあってドレスメーカー女学院に通い、1951年新宿東口前にブティック「ひよしや」を開業。1965年ニューヨークコレクション進出、1977年には日本人初のパリオートクチュール協会正会員に。享年96歳。花井幸子さん、1937年東京都青梅市生まれ。1959年長沢節さんのセツ・モードセミナーを卒業後広告制作会社のアドセンターに就職。1968年銀座にマダム花井開店、ファッションデザイナーとして活躍。テレビ司会者芳村真理さんの衣裳を多数手掛けたことでも有名。(社)ザ・ファッショングループ会長も務めた。享年84歳。そして、昨日12月30日「パンクの女王」英国ヴィヴィアン・ウエストウッドさんの訃報が飛び込んできました。パートナーのマルコム・マクラーレンさんと共にロンドンからパンクファッションを世界に広め、パリコレでは特異な存在でした。享年81歳。謹んで皆様のご冥福をお祈りします。<写真は全てネットから引用しています>
2022.12.31
官民投資ファンドで仕事をしていたとき、毎年仕事始めは霞ヶ関の関係省庁への挨拶回りでした。本省から応援スタッフを数人出してくれている経済産業省に行くと、私よりも一足早く年始挨拶に来ている人とすれ違いました。日本ニット工業組合連合会(通称ニット工連)元理事長の樋口修一さん、理事長を退任されたあとも年始挨拶を続けていました。退任後もニット業界全体のため欠かさず挨拶、なかなかできることではありません。ジャパンベストニットセレクション展の表彰式数日前、その樋口さんから恒例の年末レターをいただきました。今年87歳、会社をやめ、組合メンバーでもなくなったのにいまも両国駅前のニット組合事務所に顔を出し、「大久保彦左衛門をやってます」とありました。数年前に体調崩されたようですが、文面からは事務局スタッフや後輩経営者たちに大きな声でアドバイスされている光景が目に浮かびました。私は若い頃から生意気で、どんなに偉い人でも大先輩でも、筋の違ったことをされたらはっきりと「あなたは間違ってる」と言ってきました。時には夜間ご自宅に激しい抗議文をファックス送信したことも。夜にファックス送信したら、翌朝オフィスにお越しになっていた長老の一人は東武百貨店の山中社長、そしてもう一人がニットの樋口理事長。お二人ともオフィスの会議室で私が出社してくるのをお待ちでした。山中さんには理事長をされていたIFIビジネススクールの基本方針に関して「あなたは実学を本気でやる気があるのか」と抗議したのを覚えていますが、樋口さんへの抗議は何だったのかはっきり覚えていません。業界長老に「ふざけるな」と送信したことだけは覚えていますが。当時、樋口さんからこんなことを頼まれました。群馬県太田市のニット製造業の若手経営者たちを指導してやってくれませんか、と。彼らにマーチャンダイジングを教えるのは苦ではありませんが、毎回太田市まで出かけて現地で指導するのはちょっと厳しい。そこで、「講師料はいりませんから毎回太田市から受講に来てくれませんか。都内の売り場を回ることも講義の一部に含まれているので」と引き受けました。ご自身の東京ニット組合でもないのに、地方産地の若手のためにわざわざ私に指導要請する面倒見の良さでした。太田ニット組合の皆さんには小野塚秋良さんのZUCCaのニットを店頭で買ってもらい、ドンピシャ同じゲージ、同じフィット感のニットを作って次回持ってきてください、そんな研修をやらせてもらいました。これが案外難しかったようで、皆さんそれなりに研究して同じニットを作ったつもりなのでしょうが、私から見たらニットは全てZUCCAaとは別物でした。勉強会の課題にさせてもらったZUCCaZUCCaのニットは複雑な先染めヤーンを使っているわけでも、数本のヤーンを絡めて編んでいるわけでも、製造が難しい超ハイゲージでもありません。一見すると分量、フィット感がタイトでありながら、着てみて決して窮屈ではない、一見ありふれた無地ニットです。それと同じものを簡単に作れそうで作れない、そこに太田市の組合員の感覚的課題がありました。私とは全く無関係の太田市のニットメーカーを丁寧に指導したのは、「地方でのものづくりの火を消してはならない」と奔走する樋口さんからの依頼だったからでした。CFDが若手デザイナーのコレクション発表をサポートする「東京コレクションANNEX」を開催していたとき、たまたま選出したミラノ在住デザイナーKenichi Ogawa(現在はアクセサリーデザイナーとして活躍)はかつて樋口さんの会社フロンティアヒグチで働いていました。「ケンちゃんが選ばれた」と樋口さんはわが子のように喜び、帰国したデザイナー本人と関係者をご自宅に招いておもてなし。私もその中にいました。このとき樋口さんはピアノを弾いてくれましたが、ピアノは還暦から始めた、と。還暦を機にピアノを始めるとは無茶な話と思いますが、ご本人は超マジ、何事にも真剣に取り組む人なんだなあと思いました。JFWプレミアムテキスタイル展繊維産地全体のモノづくり底上げのために奔走した、いわゆる「産地ボス」としてもう一人記憶に残っている方がいます。尾州産地の毛織物工業組合理事長だった岩仲毛織の岩田仲雄さんです。一宮市で会議があったとき、普通であれば理事長はど真ん中の席に座りますが、岩田さんは「若い人たちがリードしてくれたらいいんじゃ」とあえて隅っこの席に陣取っていました。こんな理事長、他の産地で見たことありません。その岩田さんから尾州産地の底上げのために特別なプログラムをやってみたいと相談がありました。組合員をランダムに数チームに分け、各チームに若手デザイナーを立てて一緒にものづくりをするという構想、頼まれた私は数人のデザイナーに協力要請をしました。このとき「各チームに超ベテランの職人さんを技術アドバイザーに指名してください」とお願いしました。デザイナーの一人が「タテ糸もヨコ糸も細いステンレスで織物できませんか」と尋ねたところ、毛織物メーカーの構成員は「そんなのは金物屋に行ってくれ」と返しました。そのときこのチームで一番のベテラン職人さんが「あなたはステンレスで何をしたいんだ。ステンレスの色?、それともツヤ?、あるいはハリなの?」とデザイナーに質問したのです。デザイナーが希望を説明すると、「それならステンレスでなくウールでやってみよう」となったそうです。この場面のことを私に話してくれた岩田理事長はとても嬉しそうに目を細めていました。岩田さんはよくこんなことをおっしゃっていました。できることならば、ゆっくり織って、じっくり寝かせて良い生地を作ってみたい。ハイスピードの新型織機は短時間で織れるから効率は良くなったものの、どうしても古いションヘル織機のような味や風合いはでない、と。手間ひまかけてガッチャン、ガッチャンとゆっくり織った生地の良さを何度も私は伺いました。古い織機でゆっくり織ると風合いが出ます余談ですが、尾州の大手メーカー中伝毛織のオフィス入口には動かなくなったションヘル織機が飾ってありますが、尾州の皆さんにとってションヘル織機は特別な思いがあるんですね。ちなみに、私のクローゼットにある30着ほどのスーツは全てションヘル織機で織った葛利毛織のウールです。岩田さんから何度も吹き込まれたからでしょうか、ションヘル織機ではないウールはもう着たくなくなりました。ニットの樋口さんや毛織物の岩田さん(故人)のように、日本のものづくりを活性化するために奔走してくれる熱いリーダーがいる繊維産地にはまだものづくりの火は残っているのではないでしょうか。時代が変わって経営者たちがその息子や孫世代に交代しようとも、産地全体のことを考えてくれるリーダーの存在は不可欠。繊維製品のメイドインジャパン、ずっと残したいですね。
2022.12.29
中東カタールで開催されたFIFAワールドカップ決勝戦、アルゼンチンとフランスは3-3の同点、PK決着でアルゼンチン優勝となりました。決勝戦まで5得点で並んでいたアルゼンチンのメッシとフランスのエムバペ、決勝でハットトリックを決めたエムバペが得点王に、2ゴールを決めたメッシがMVPに。二人ともカタール投資庁が経営するパリ・サンジェルマンFC所属(ブラジルのスター選手ネイマールも同じ)、カタールにとっては願ってもない結末でした。 日本も強豪ドイツとスペインに逆転勝ち、目標のベスト8進出は叶いませんでしたが、日本のサッカー史に残る快挙でした。ベスト8の壁を破るには大きな課題を克服しなければなりませんね。特に、世界の高レベルでキャリアを積む選手を増やすことと、しっかりした戦略を立ててチームを編成、育成できる監督の抜擢。 サッカーで思い出すのはJリーグ発足直後に当時の川淵三郎チェアマンから直接聞いた話です。(元Jリーグチェアマン川淵三郎さん) Jリーグ発足直後の1994年2月、大阪府泉大津市にあったファッションセンターでIFIビジネススクール主催のセミナーがありました。海外出張から戻ってちょっとした手術をしたばかりの私は第2部パネル討論会の進行役、山中IFI理事長からは「手術したばかりなんだから来なくていい」とファックスもらいましたが、第1部基調講演をお願いした川淵三郎さんの話も聞きたくて痛みを我慢して出かけました。 このときセミナー楽屋で川淵さんがサッカー選手の人材育成について興味深いことを話してくれました。ご自身も含め日本人監督は「根性論」で選手を鍛えようとするが、外国から招聘した監督は「基本の徹底」を繰り返して育てる、と。基本中の基本インサイドキックとボールトラッピングの繰り返しに相当時間をかけるので、選手の間では「監督は俺たちのことをバカにしているのか」と反発する者も出るそうです。 ゴールキーパーの練習でも、ゴールの端に強いシュートを何本も放ってキーパーに「飛べ!」、「気合を入れろ!」「根性だ!」とやるのが日本人監督。一方海外指導者はキーパーの正面に緩いゴロをコロコロ転がし、しっかりキャッチングできたら褒め、徐々にキーパー正面から離れたところにボールを飛ばし、シュートのスピードも徐々に上げていくそうです。正面に緩いボールで正しくキャッチングする練習の反復、選手を褒めながら育てるのが世界の指導方法、日本の根性論とは違うとおっしゃっていたのが印象的でした。 川淵さんら日本サッカー協会幹部が高く評価していた、当時名古屋グランパスエイトのアルセーヌ・ヴェンゲル監督はあまりに基本練習に時間をかけたので選手は不満タラタラ。でもサッカー協会はその育成方法を高く評価して日本代表チーム監督にと交渉したものの、寸前にイングランド名門アーセナル監督就任が決まっており、ヴェンゲルさんは同じフランス人のフィリップ・トルシエを推挙しました。もしもあそこでヴェンゲルさん自身が日本代表チーム監督に就任、アーセナルのように長期的に指導していたら、日本のサッカーは変わっていたかもしれません。 あるいは、ジェフ市原監督から日本代表チーム監督になったイビチャ・オシムが病に倒れずあのまま監督を長く続けていたら、「日本のスタイル」が出来上がっていたかもしれません。川淵さんが記者会見でまだ正式発表していない監督の名前を迂闊にも「オシム」と発言してしまったのも、その後オシム監督が病で救急搬送されたときに記者団の前で男泣きしたのも、オシムがどれくらい信頼されていたかを物語っています。 毎日同じ顔ぶれで練習するクラブチームの監督と、たまにしか全員揃わない代表チーム監督とでは求められる資質が違うでしょう。前者はなんと言ってもチームワーク、選手間の和を保ってアウンの呼吸で選手を引っ張っていける人柄が求められます。 しかし、近年日本代表チームの選手のほとんどは海外で活躍していますから、クラブチームのように連日顔を合わせて練習できるはずありません。代表チーム監督に求められるのは強いリーダーシップ、明確な戦略ビジョン、それを遂行するために必要な選手選抜の目、そしてゲーム前半と後半の戦術と見直しです。加えて言うなら世界レベルを肌で知っているかどうかも。 今回は選手交代5人(従来は3人まで。今回はトーナメント延長では6人まで可能)が認められる新ルールでしたが、柴崎、町野選手に全く出番が与えられませんでした。期待された久保選手の出場時間も予想よりかなり短かった。そもそも人選は正しかったのでしょうか。 また、世界ランキング格下コスタリカ戦先発メンバーの顔ぶれ、本当にあれで良かったのでしょうか。格下コスタリカには負けてしまった原因、PKで負けてしまったクロアチアとの戦い方と選手交代のタイミング、将来のためきちんと検証すべきではないでしょうか。 まだワールドカップが開催中なのに、目標には達せず敗退して帰国した選手や監督がテレビで生出演したり、官邸訪問したり、ドイツとスペインに勝ったんだからとヒーロー扱いされる空気、個人的にちょっと気持ち悪いです。まずは今回戦った4試合の検証、今後のための課題掘り起こし、テレビ出演も官邸訪問もワールドカップ全日程が終わってからでいいのでは。 テレビでは日本のベスト8進出、優勝も決して遠い未来ではないと楽観的なことを言う解説者やタレントがたくさんいますが、とても賛同できません。検証をまずしっかりやる、今後日本はどういうサッカーを進めるのか基本方針を立てる、その上で監督の去就も決めるべきでしょう。ドイツ、スペインに勝利したことは素晴らしいし、森保監督の人間性も素晴らしいと思いますが、川淵さん世代が卒業した後のサッカー協会幹部には冷静な考察を期待したいです。 ガキの頃、朝から晩までサッカーのことしか頭になかった私、生きている間に日本の優勝はともかくベスト8進出だけは見たい!
2022.12.19
日本のバブル景気は1986年12月から1991年2月までの51ヶ月。株式取引に全く縁のなかった一般市民が電電公社民営化で売りに出されたNTT株に群がり、三菱地所がニューヨークのロックフェラーセンターを買収して世界を驚かせたのも、バブルの象徴的な出来事でした。過剰な経済拡大期のあとには当然大きな反動、バブルがはじけて資産下落や不良債権処理が一斉に始まりました。ファッション業界におけるバブル崩壊は日本経済のバブル崩壊よりも一足早く起こりました。1980年代前半デザイナーブランドを扱う百貨店、ファッションビル、セレクトショップが急増。大手から中堅アパレルメーカーまでがこぞって有力デザイナーブランドの下で働くアシスタントや装苑賞などコンテストで認められた学生を青田刈り、ブランドデビューさせるケースが増えました。1985年CFD(東京ファッションデザイナー協議会)を設立した頃が青田刈りデビューのピーク、ファッション業界はバブルそのものでした。経験がほとんどない若手デザイナーに高額ギャラを約束、それなりの規模のファッションショーでデビューさせる。港区、渋谷区に立派なプレスルームと立派な直営店舗を開設。ブランド立ち上がりから素材の大半はオリジナル、先駆者たちが生地屋でありもの素材を調達してブランドを開始したことを考えると随分贅沢でした。しかし世の中そう甘くはありません。デビューして2年ほど経過すると、出費だけが増え、在庫が膨らみ、売上がついてこない企業側は焦り、デザイナーとの関係はギクシャク、ブランド閉鎖が始まりました。CFDが誕生すると、どういうわけかブランドの後始末相談に来る企業や若いデザイナーが増えました。彼らが持ってくる当初事業計画書を見ると、デビュー3年後には売上10億円程度でちゃんと利益が出るプラン。しかし実際には売上は計画の半分以下で在庫は7~8億円、しばらく黒字化が見えない「机上の空論」ばかりでした。このときつくづく思いました。日本にはファッション専門学校が才能あるデザイナーをたくさん輩出してきたけれど、デザインマネジメントやマーチャンダイジングできる人材がいない。日本にもファッションビジネスのプロを育てる教育機関を作らないといけない、この思いがIFIビジネススクール設立に向けて走り出した大きな理由でした。青田刈りで失敗した例はたくさんありますが、その中で個人的に最も印象深かったのは文化服装学院出身の石川ヨシオさんです。1981年の第50回装苑賞を受賞して注目された石川さんは大手アパレルのイトキンからブランドデビュー。ところが、デビューしてすぐプロジェクトは打ち切られました。文化服装学院の小池千枝学院長に石川さんの再デビューを頼まれたのが、新規デザイナーブランドで急成長した中堅アパレルN社でした。石川さんとの交渉がとんとん拍子で進んで契約寸前になって、N社の下で既にブランドデビューしていた文化服装学院の同級生デザイナーがオーナー社長に直談判、結局石川さんの再スタート計画は見送りになりました。このブランドの責任者になるはずだったN社幹部から頼まれて、私は石川さんと面会することに。このとき、出版されたばかりの旺文社「一生たち」(三宅一生さんの三宅デザイン事務所で働くアシスタント全員が仕事への思い、ものづくりの姿勢を綴った書籍)を石川さんに手渡し、こんな話をしました。野性のライオンは束縛されることなくどこへ行くのも自由だが、日々のエサは自分で獲得しなければならない。一方、動物園のライオンにはオリの外に出る自由はないが、エサは毎日提供される。どちらのライオンになりたいのか、この本を読んで自分の進む道を考え、次回答えを持ってきてください、と。当時CFDを訪ねてくる若手デザイナーや専門学校生は、行動の自由は欲しい、エサの提供も受けたい若者が少なくなかったので、私はテキストとして「一生たち」を渡していました。石川さんの思いを聞いて、私が業界人に出資をお願いして小さなデザイン会社を作り、あとは周囲を説得してアパレル販売事業を計画してください、となりました。1口100万円で業界仲間に呼びかけ、石川デザイン事務所は西麻布に誕生しました。中立でいなくてはならないCFDの私自身は出資できませんから、親交のある小売店、メディア、アパレル工場、繊維商社の幹部たちを説得して資本金を集めました。この交友録13に登場するリッキー佐々木氏からは「(アパレル会社は)俺にやらせてくれないか」と声をかけられました。旧知のビジネスマンからは「息子をこのプロジェクトで育ててくれるなら」とアパレル会社に出資する話もありました。が、石川さんがアパレル事業のパートナーとして連れてきたのは、日本橋堀留町の織物会社国洋の奥井新一社長(ファッションコーディネイター西山栄子さんのご主人)でした。クリエーションを発信するデザイン会社を母体に、商品化して販売する別会社を起こすのが私の構想でしたが、奥井さんは発足したばかりのデザイン会社を買い取ってアパレル販売会社と一本化する形を希望。石川デザイン事務所に出資してくださった方々には私から事情を説明、奥井さんへの株譲渡をお願いし、私がお手伝いする必要はなくなりました。それから1年後だったでしょうか、久しぶりに石川さんと奥井さんが訪ねてきました。「僕たちは別れることになりました」、私の目の前で両者は互いに目を合わせることなくブランド事業からの撤退を宣言したのです。やっぱりダメだったか、と思いました。デザイナーが代表になるデザイン会社と、ビジネスマンが代表になるアパレルメーカーとは利害もスタンスも違います。両社を一本化して経営権を出資者が握るとどうしても軋轢が生まれます。互いに我慢の限界を超えたのでしょう、石川ヨシオの事業化はまたしても実を結びませんでした。その後石川さんはパリに移り住み、帰国してからは専門学校で指導しているらしいと聞きました。才能のあるデザイナーでしたから、正直もったいないと思います。石川さんと学生時代にファッションコンテストを競い合ったデザイナー予備軍には才能ある人が多く、アパレルメーカーに次々とスカウトされましたが、そのほとんどはブランドビジネスとして成果を上げることなく表舞台から消えました。(成功事例の1つマイケルコース)欧米ではデザイナーとビジネスマンが団結して売上を伸ばしている例がいくつもあります。マイケルコースのようにマネジメント側が提示した「雑貨90%、服10% 」の商品構成比(それまでは服90% )をデザイナーが理解し、大きく成長してジミーチュウやヴェルサーチを傘下におさめた成功事例もあります。ダナキャランやラルフローレンのように株式上場を達成、創業時に共に苦労した仲間に利益還元した例もあります。経営側のデザインマネジメントとお互いが立場を尊重し合う構図、クリエーションとビジネスのいい関係が日本でも増えると良いんですが。
2022.12.18
2006年3月、世間を騒がせたホリエモンさんに刺激され、自分も書いてみようと始めたこちらのブログ「売り場に学ぼう」、最初は相談メールをくれる多くの教え子や元部下たちに向けた担任教師の復習講義のつもりでした。日々売り場を歩いて感じたこと、ファッション流通業界の動向に対して思うこと、海外視察で刺激されたことなど綴ってきました。しかし、徐々にメディア関係者や企業幹部が読んでくださるようになり、さらに転職して立場上ストレートに発言するのは難しいと感じることあったので途中何度も中止、2006年からアップした記事は削除しました。誤解を避けるため数年間ほとんど何も書かない、書けない時期もありました。が、記事の新規アップを中止しているにもかかわらず、どういうわけかこのブログをのぞいてくださる人が少なくありませんでした。今年、記事アップを再開したら再び読んでくださる方が増えました。気がつけば2006年からこれまでの延べヒット数が250万、本当にありがたいことです。最初の頃は、自分たちが設立したCFD(東京ファッションデザイナー協議会)からJFW(日本ファッションウイーク推進機構)に移管された「東京コレクション」のこと、新しく始まった「東京ガールズコレクション」のことを書きました。そのときの写真が以下の2枚です。2006年3月JFW主催の東京コレクション2006年3月東京ガールズコレクション海外出張のたび、現地で刺激されたこと、感動したこともたくさん書きました。在住時代から私には常に生きた教材であるニューヨークをはじめ、シアトル、サンフランシスコ、ロス、サンパウロのアメリカ大陸、パリ、ロンドン、ベルリン、アムステルダム、アントワープ、チューリッヒ、ビルバオなどヨーロッパ、台北、台中、高尾、北京、上海、香港、寧波の東アジア、UAEドバイ、オマーンのマスカットの中東、シンガポール、クアラルンプール、バンコク、ホーチミンのASEANといろんな都市でたくさんの気付きがありました。ここ数年はコロナウイルスで海外に出ておりませんが。これからもマイペースでブログをアップしますので、どうか時々のぞいてください。よろしくお願いします。
2022.12.16
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