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江戸川(とね川)と坂井川の合流地点に隣接して、左岸側に河岸段丘が続く。連郭式の平城を築くに適した場所がある。戦国時代には、鴻之台城または市河城と呼ばれた城があった。一帯には古墳もあったようだが、現在里見公園(国府台城址)として整備されている。 鴻之台城は、1479年に太田資忠によって築かれた。その後、要所ゆえに千葉氏、里見氏、後北条氏の城となった。1560年頃、北条軍と里見軍とが、江戸川と丘陵を舞台に「国府台合戦」繰り広げた激戦地。江戸に入府した徳川家康によって廃城となる。江戸を見下ろす場所にあったからと言われている。 戦前、国府台には陸軍関係の病院があった。そのため、陸軍の手によって多くの防空壕が造られたという。現在は、千葉県の桜の名所のひとつ。また、石垣の上に「夜泣き石」が保存されている。里見軍が敗走した第2次国府台合戦の激しさを今に伝える遺跡・・。写真-1 国府台から富士山とスカイツリーを望む。写真-2 東京スカイツリーと東京タワー。写真-3 里見公園の展望所。写真-4 城址石垣と「夜泣き」。写真-5 里見公園の梅林とバラ園の噴水。写真-6 鴻之台合戦図絵。江戸川と国府台図絵。
2022年03月04日
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浅草寺の境内西側に小さなお堂がある。2019年にリニューアル(鉄筋コンクリート造り)した「銭塚地蔵堂」。堂内の中央に6地蔵が安置されている。このお地蔵の下には、江戸時代の貨幣「寛永通宝」が埋まっているという。お堂の隣に、珍しい「カンカン地蔵」が祀られていた。[撮り溜めた写真から] つくばエクスプレス線を利用するので、西参道付近をぶらつくことが多い。街中には浅草三社祭りのゆかり看板や幟が目につく。江戸風情の残る下町浅草が1年間で最も活気づく5月。昨年は新型コロナの影響で、神輿の巡行が中止になった。今年、例年通りの祭りが復活できるのだろか・・。写真-1 浅草・銭塚地蔵堂。2019年にリニューアル。写真-2 六地蔵とカンカン地蔵。写真-3 冬桜と本堂。写真-4 観音堂西側と西参道アーケド。写真-5 浅草ひさご通りとアーケド。写真-6 三社祭りの壁画。
2022年02月01日
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2020東京オリンピックのマラソンコースの折返し地点になるはずだった浅草雷門前。雷門から浅草寺本堂まで南北へ約350mの参道が続く。この間大きな赤い提灯を、誰もが興味深く観る。特に外国観光客は、大提灯と記念写真を撮る。 浅草寺総門にあたる「雷門」に赤い大提灯「雷門」が吊り下げられている。正式名称は、「風雷神門」。総門の左右に、風神と雷神が泰安していることに由来する。現在の門は、松下幸之助氏の寄進によって再興されたもの。 雷門を過ぎ仲見世を通ると、宝蔵門が見えて来る。宝蔵門には、「小舟町」と描かれた大提灯が吊っている。この提灯は、日本橋魚河岸の信徒なとの心意気を示したもので、1659年に奉納されたもの。現在まで歴史と伝統を受け継いでいる。 浅草寺本堂(観音堂)の拝殿に「志ん橋」と描かれた大提灯が吊り下がっている。新橋の信徒などが奉納したもの。歌川広重の名所江戸百景、冬の「金龍山浅草寺」には、雷門に「志ん橋」提灯が絵がれている。五重塔も現在の位置と異なっている。写真-1 浅草寺総門の「風雷神門」。写真-2 雷門から仲見世通り。写真-3 宝蔵門の大提灯「小舟町」。写真-4 本堂拝殿の大提灯「志ん橋」。写真-5 観音堂拝殿の天井画。写真-6 歌川広重・名所江戸百景「金龍山浅草寺」。
2022年01月03日
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17日間のお祭りが終わった。五輪選手たちは、不本意な環境下で良く頑張った。メタル獲得総数が過去最高の58個。自国開催のメリットもあった。しかしこの間、新型コロナの爆発的感染を許す。8日の全国の新規感染者15,284人、重症者1,138人。一方、64歳以下のワクチン接種率は7.6パーセントの低さ・・。 無難に終えた東京オリンピックの開会式。「つまんない・・」との声が多いが、1年の延期、無観客、人事問題、経費削減などを考えれば、よくぞ式典を作り上げた。関係スタッフ・ボランティアを讃えたい。無事にパリ大会へバトンを渡すことができ、JOCはほっとしていることだろう・・。 テレビ開会式を観て、印象に残った演出などを記録しておく。先ず、宝塚歌劇団による国家斉唱。彩豊かな袴姿が凛々しい。(2)競技場から湧き上がった光の粒が躍動して五輪ができた。あっと驚いたが、合成画面だった。(3)盆休みを控えて、東京五輪音頭を浴衣姿で踊ってくれたこと。(4)消える聖火を見守る子どもたち。 3年後の夏季オリンピックはフランス。パリ大会へ行きたくなる動画も良かった。世界遺産のベルサイユ宮殿で、競技が行われるようだ。東京大会の反動もあり、大勢が仏蘭西へ押しかけることだろう・・。写真-1 華やかな宝塚歌劇団20名による国家斉唱。写真-2 競技場から湧き上がった「光の粒」が五輪マークへ。写真-3 浴衣姿で踊る東京五輪音頭・盆踊り。写真-4 愛の賛歌を唄うミレイさんと木・根ダンスのアオイヤマダさん。写真-5 「星めぐりの歌」と聖火納火式。写真-6 次回オリンピック・パリ大会とARIGATO。
2021年08月10日
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東京2020オリンピックも後半に入った。テレビ観戦をする日々ではあるが、早くおわってほしいのが本音。コロナの感染拡大が止まらない・・。開会式のマイ・ハイライト写真を、テレビ画面および新聞社の写真を借りて、記憶しておく。(1) 新国立競技場の開会式を無観客に決定した7月8日。わずか2週間前の決断だった。新国立競技場は、数々の変更を経て2019年11月完成。収容人数6万8000人、工事費約1570億円を投入。「心でつながる」が開会式のテーマ。200国と地域から1万1000人を迎えて開催された。写真-1 新国立競技場と開会式開始花火。(2) 国旗掲揚が終わると、歌手のMISIAさんが国歌を歌う。その後、木遣り唄、江戸の火消しの纏い、タップダンスなどの演目があった。更に、直径4mの木製の輪が五輪に変化した。 写真-2 江戸庶民の営み現代タップダンス。(3) 20時40分からギリシアを先頭に選手団の行進が始まる。五十音順の入場は史上初めて。とりわりカザフスタン選手団が注目された。刺繍の民族衣装と装飾品に、身を包まれた女性旗手。折しも、行進曲は「ファイナルファンタジー」のテーマ曲。多くの人をゲームの世界から出てきたお姫様かと思わせた。写真-3 カザフスタン選手団入場と女性美人旗手。(4) 22時40分ころ、箱を使用した演技から Tokyo2020のエンブレムが完成。夜空を見上げると、ドローン1824台を配置させた巨大エンブレムが・・。すると地球の形に変化。会場内に静かに「イマジン」の曲が流れた。写真-4 夜空に浮かぶ1824台によるドローンショー。(5) JOCバッハ会長らによる長い20分スピーチが終わると、天皇陛下による「大会の開会宣言」がなされた。その後、ピクトグラムのパフォマンスと歌舞伎とジャズピアノ演奏との共演。写真-5 歌舞伎役者・市川海老蔵による「見得切り(にらみ)」。(6) 開会式最後はオリンピック聖火の点火式。会場入場ランナーは、オリンピアの野村忠弘さんと吉田沙代里さん。プロ野球・国民栄誉賞の長嶋・王・松井さんから、東北復興3県の子ども6名を経て、最終ランナー・大阪なおみさんの手で聖火が灯された。写真-6 オリンピックの聖火台に立つ、大阪なおみさん。(7) 競技場に灯った聖火台は、富士山と太陽をモチーフ。小さな「ファイヤー富士」だ。聖火は、未明に有明の「夢の大橋」の小さな聖火台に移された。その球体のサイズは会場の1/3サイズ。燃料は水素。省エネの聖火が17日間燃え続ける。写真-7 富士山と太陽をモチーフにしたオリンピックの聖火台は。
2021年08月02日
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東京オリンピックの開会式を家族で観る。予定時間30分程オーバーして、23時30分に終わった。途中から缶ビールと枝豆を用意。大会トップの挨拶が長くて、テレビに向かって文句を言う。 印象に残ったものは、やはりピクトグラム(絵文字)のパフォーマンスだ。約5分間で、全競技50種目を表現した。絶妙の動と静。バトミントンのラケットを落としたシーンは、温かみのあるユーモラスだ。主なもの8つをNHKテレビハイライトよりアップする。3人のコンビさんに金メダルをあげたい。51番演技は、表彰台であった。 開会式を終えた翌日、国内SNSで話題になった5つは、以下のようだ。(1)選手入場曲にゲート音楽とカザフスタン旗手。(2)競技会に相応しい、動くピクトグラム。(3)ドローン1824台を使用した「夜空の地球」と「イマジン」。(4)聖火が灯るまで5分間。(5)IOCバッハ会長の長すぎる挨拶(ウンザリ)。 誰もが想像できそうな競技種目を表すピクトグラムは、1964年東京オリンピックから始まったという。当時のデザインは20種目。以後、各国で個性的な絵文字を創っている。また、大会のマスコットキャラクターは、1968年仏国グルノーブル冬季五輪から創られている。写真-1 2020東京オリンピック大会の50種目のピクトグラム。写真-2 NKH大会ハイライトからピックアップ。近代5種競技ピクトグラム。写真-3 サッカーボールと馬術競技のパフォーマンス。写真-4 カヌーとボートスプリント。写真-5 柔道と自転車競技。写真-6 トライアスロンと表彰式。
2021年07月26日
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東京駅八重洲側のオフィス街を貫くさくら並木がある。アルバイト出社の寄り道に、都会のさくら並木路を歩く。午前8時前なので、人と車は少ない。以前勤めていた会社に出向くため、コロナ禍なので朝6時半前に自宅を出た。 東京駅八重洲口から西へ茅場町に至るのが日本橋さくら通り。約170本の枝が重なり合って伸び、桜のトンネルを形成している。日本橋高島屋デパートの南沿いの桜並木と言った方が解りやすいかも・・。 東京の桜(ソメイヨシノ)は、3月22日に満開を迎えた。観測史上2番目の早さだという。25日に福島県を出発する東京五輪の聖火リレーがスタートした。桜並木を走る様子も伝わってくると思う。千葉県ルートは、7月1日からの3日間。7月3日柏の葉公園となっている。無事に辿りつけるだろうか・・。写真-1 東京八重洲側の桜並木。写真-2 オフィス街の桜とガラス窓に映桜。写真-3 日本橋高島屋沿いの桜並木道。写真-4 日本橋さくら通りのサクラ。写真-5 ビルの谷間で咲く満開の桜。
2021年03月26日
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空気の澄んだ朝は、都心のビル群がよく見える。と言っても、肉眼では難しい。しかし、見える、良く見えるぞ・・と言うひともいる。 東京都港区のビル群には特徴的な高層ビルがあるので、東京タワーを見つけ易い。左側(南側)から虎ノ門ヒルズ、TBS放送センター、六本木ヒルズなど見える。東京タワーは、虎ノ門ヒルズの陰になり、先端部のみが見える。 北側には、新宿副都心のビルがある。利根運河口から約30km、南南西(十二支・未の方角)にあたる。左側にドコモタワーの独特な姿がある。都庁舎のツインビルは、手前のビル群の陰になり、展望室が僅かに頭を出している。 2年程前桜の頃、新宿御苑と都庁45階展望室を訪れたことがある。現在は緊急事態宣言を受けて休室している。花見の頃、65歳以上の高齢者(約3千万人)へのワクチン接種が始まっているはずだ。小生に回って来るのは、桜散った後か、それとも梅雨時にずれ込むかも知れない・・。写真-1 東京都港区方面。左端に虎ノ門ヒルズと東京タワー先端部。写真-2 新宿副都心のビル群を遠望する。写真-3 夕方の新宿副都心。写真-4 千葉県側のクレーン群とクリーンセンター煙突。写真-5 土手越の朝夕の富士山。
2021年02月01日
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皇居外苑・皇居前の大芝生公園には色々形をしたクロマツが植えられている。約2000本の黒松と広大な芝生、そして丸の内ビル群とのコントラスで別天地のような感じを与える。黒松が密集していないので、開放的な雰囲気がある。 110ヘクタールもの敷地を有する皇居外苑。馬場先濠から二条橋濠までのエリアで、真ん中を内堀通りが横切っている。一般に、この内堀通りから皇居側を皇居前広場という。郵便番号100-0002、千代田区皇居外苑との地番がある。 江戸城築城前のこの一帯は、江戸前の入江部にあたり、丘陵部にクロマツが自生していたという。黒松が広場に点在させているのは、東京湾に浮かぶ小島に見立てているらしい。白い帆船のような何かがあったらなと思う・・。写真-1 皇居外苑・点在するクロマツの「小島」。写真-2 ひと際立派な松。写真-3 大芝生広場の黒松。写真-4 皇居前広場より丸の内ビル群を望む。写真-5 富士見櫓と深まる秋。
2020年11月15日
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高さ11mの天守台が本丸公園を見下ろす。花崗岩を主体に築かれた、東西41m×南北45mの巨石土台。天守の無い天守台として、360年以上保存されている。その間、展望台として役割を果たしている。 現在の天守台は、4代目で明暦の大火(1657年)後に、加賀藩主・前田綱紀によって築かれた。天守台の正面側は花崗岩を主体に、裏側の石垣には伊豆石(安山岩系)を使している。火災の跡が残っている石もある。初代天守台は。1606年(慶長11年)、黒田長政によって築かれていた。 築城の石積みにおいて、コーナー(隅角部)の積み方が大切だと言われている。隅角部は「算木積」と呼ばれ方法で造られる。そして身近で観る事ができる。長方形の巨石、長辺と短辺を交互に組み上げるもので、建物の荷重に比例して、強度が得られるという。四隅が大切なことを教えてくれる写真-1 本丸公園の北側に築かれた4代目の天守台。写真-2 巨大な花崗岩で築造されている。写真-3 隅角部の「算木積み」を身近で見る事ができる。写真-4 日当りの悪い北側の石垣。写真-5 天守台は、展望台として利用。写真-6 天守台の案内看板。
2020年11月11日
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皇居東御苑の二の丸跡に造られた池泉庭園に立ち寄る。通称、二の丸庭園。紅葉にはまだ早いため、人出は少ない。隣接する二の丸雑木林で、写生会をする一行がいた。 二の丸庭園は、本丸の東側に位置し、三代将軍家光の命によってつくられた。小堀遠州が作庭した「池泉(ちせん)回遊式庭園」が、現在、江戸城跡として国の特別史跡に指定されている。 昨年の秋は、皇居乾通りの通り抜け、大嘗宮の一般参観があり大いに賑わった皇居広場。あの人出が嘘のようだ・・。新型コロナウイルスは、多くの企業や会社・店舗を経営危機に陥れた。第3波が小さきことを願うばかりだ・・。写真-1 二の丸庭園の雪見石灯篭と池泉。写真-2 緑鮮やかな松の枝ぶり。写真-3 小堀遠州の作庭した池泉回廊式庭園。写真-4 諏訪の茶屋、えぞまつ。写真-5 十月桜と花梨(カリン)。
2020年11月02日
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東御苑本丸公園の一画に、旧江戸城天守の模型が展示されている。高さが2mほど、縮尺1/30の可愛いサイズ。夜露、風雨からミニ天守を守るため、木造の建物内に収容されている。 江戸城の天守は、3度の焼失している。展示されている模型は、最後の寛永期のものを復元した。当時の5重6階建物と天守台(石垣)とをあわせると、その高さは60m(20階建てのビルに相当)。屋根は銅瓦葺で金色の鯱が輝き、江戸幕府の偉容を誇示したという。 高さ2mほど模型ではあるが、細部まで復元したという。3Dプリンターを駆使して、鯱や金具が製作されている。展示建物造営+復元模型製作とで約1億円を要したという。実物大の天守復元運動も数年前から続いている。成就する秋がくるのだろうか・・。写真-1 江戸城寛永度天守の復元模型。縮尺1/30写真-2 精巧な細部。製作に2年間を要した。写真-3 案内書を読みながら一周できるのが模型のメリット。写真-4 本丸公園の西端に作られた展示場。写真-5 案内ポスターと天守大きさ比較図。写真-6 天守台に天守を載せてみた。合成写真。
2020年10月31日
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東京駅から近い皇居東御苑。東京に出て来ると、アキ時間ができるとよく出かける。本丸公園の西側に「果樹古品種園」がある。リンゴ3品種と柿5品種が植えられている。平成21年頃、平成天皇みずから植えられたという。 ヨツミゾ(四溝柿)がみのりの秋を迎えていた。果皮に4本の溝が走るのが柿の名前由来。渋柿なので干柿にして食べると美味しくなる。静岡県東部が山地だという。世には高級な干柿があるが・・。 江戸城石垣を背景に、秋の七草・ススキが輝いていた。黒い石垣に白銀の穂と組合せは風情がある。近くの二の丸跡雑木林に、紅い実のガマズミが野鳥に食べられずに残っていた。写真-1 東御苑本丸公園の大ケヤキ。写真-2 柿5品種+林檎3品種の「果樹古品種果園」。写真-3 ヨツミゾ(四溝)柿。写真-4 秋の七草の代表・ススキ。写真-5 ススキとガマズミ。
2020年10月28日
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世界の賓客を迎えるために造られた迎賓館赤坂離宮。建物外観や門は、写真撮影OKだが、本館内はNG。そこで、絢爛豪華な本館内部を、購入したポストカードなどで記憶する。絢爛豪華の4つの部屋。 東側「花鳥の間」は、公式晩餐会(130名)に使用される。天井に花鳥が描かれ、壁には30枚の花鳥の七宝焼きが並ぶ。 南側「朝日の間」は、迎賓館で最も格式の高いとされる。天井画に朝日を背景とし、女神が白馬と共に天空を駆ける姿が描かれている。 西側「羽衣の間」は、舞踏会場しとして作られた。謡曲「羽衣」の一節を描いた華やかな天井画がある、大きなシャンデリアが際立っている。 北側「彩鸞の間」は、国公賓の謁見や条約の調印式、テレビインタビーなどに使用される。暖炉の両脇に、「鸞」と呼ばれる架空の鳥をデザインした金色の彫刻品が置かれている。写真-1 中央階段を上ると絢爛豪華な4つの魅惑の部屋がある。写真-2 公式晩餐会に使われる「花鳥の間」。写真-3 首脳会談に使用する「朝日の間」。写真-4 舞踏会場しとして設計された「羽衣の間」。写真-5 国公賓の謁見や条約の調印式に「採鸞の間」。写真-6 本館内の案内図。
2020年10月14日
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2016年頃から一般公開されるようになった迎賓館赤坂離宮。迎賓館が国賓などで使用する期間を除いて、一般公開される。年に数回の特別公開(夜間公開+イベント)では、本館がライトアップされる。石造りの建造物は、夜間照明で浮き上がるとその美しさが際立つ。外壁の花崗岩は、光と音を反響させる。 近年国内で、神社仏閣や博物館などの文化財において、コンサートやライブを開催して、観光振興を図る「ユニークベニュー(UV)政策がある。迎賓館一部を使用した演奏会もUV政策の一環。但し、UV政策と文化財保護との両立が大切だと言われている。 沖縄首里城が消失して約1年。昨年10月末に「首里城祭」イベント準備の最中に起きた悲劇だった。「世界遺産」でのイベント開催であり、UV効果を期待したものだった。しかし誰もが想定していない事態が起きた。首里城の再建は2016年を予定している・・。写真-1 ライトアップされた迎賓館本館。写真-2 本館玄関のサフォード。写真-3 玄関照明燈と輝く花崗岩の外壁。写真-4 オープンカフェのテーブルにランタンが・・。写真-5 玄関ドアの装飾と桐の紋。写真-6 遠ざかる宮殿の光、正門から観る。
2020年10月10日
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江戸川土手を「チャリオ」で走ると、所々に赤い彼岸花を見かける。誰が植えてくれたのか、10年前から徐々に広がり、毎年同じ場所に咲く。天端道路、犬走道路などに、縦列または小規模な群れで植えてある。散歩する人、またはサイクリストの目を楽しませてくれる。 彼岸花は、生命力の強い、タフな花だ。一般に河川堤防は、乾燥、暑さや冷え込み等、自然条件が厳しい。雑草や外来種とのせめぎ合いもあるだろう。また堤防管理上の除草作業との兼ね合いもある。除草が早いと雑草が復活するし、遅すぎると彼岸花の茎を刈り取ってしまう。 彼岸花の開花期間は1週間程度。しかし見頃は、3日間ほど。先端から黒く枯れてゆく。枯れた花は、茎を地面から切断した方が良いとされる。球根が養分を溜め易くなる。そして、2、3年毎に株分けした方が良い。密を避けるために・・。写真-1 江戸川左岸天端道路の彼岸花。写真-2 常磐道橋梁を望む赤い花。写真-3 30キロポイント付近のヒガンバナ。写真-4 江戸川上流を望む。写真-5 江戸川下流を望む。
2020年10月08日
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赤坂の迎賓館には二つの庭園がある。南側の庭園を主庭と呼ぶ、大噴水がある。迎賓館を訪れた参観者の多くは、この噴水と本館南面をバックに記念写真をとる。 主庭の噴水は、2009年に国宝に指定されている。花びらのような形をした噴水池の中に、2段重ね(上段1基+下段4基)の噴水が作られている。上から見ると、対称形(シンメトリー)に設計されている。 中央の噴水を囲んで、伝説の生物グリフォン像(上半身が鷲、下半身がライオン)が4体置かれている。その他に、精巧に作られた青銅製の彫刻像が各所に散りばめられている。各グリフォン像の間に亀が8体、グリフォンの台座にライオンの顔が8頭。更に、4基の皿にシャチ像が水の中を跳ねるように配置。 噴水の水は豊富に使用されている。しかし、常に噴き出し続け、変化がない。国宝なので変更改修ができないようだ。水が霧状になり難いためなのか、虹を見ることが出来なかった。写真-1 主庭の主役、国宝・大噴水。写真-2 水受け皿5枚は、花びらのように配置されている。写真-3 ライオン顔の台座に載っているグリフォン像。写真-4 噴水を浴びるシャチや亀像。写真-5 噴水を囲む花壇と多行松。写真-6 主庭を鳥瞰すると(休憩室のビデオより)。
2020年10月07日
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迎賓館本館前、阿吽の鎧兜武将像が見下ろす「車寄せ」で、生演奏会が行われた。場所は、車寄せの内庭で、約20分間の演奏。赤坂離宮・秋のイベントの一環「バイオリンとチェロの夕べ」。夕方2回、17時と18時半に開催された。石造りの空間での優雅な流音を楽しむ。 迎賓館は、明治42年紀州徳川家の江戸屋敷跡に建設された東宮御所として建設された。幅125m×奥行89m×高さ23mの壮麗な建物。ネオバロック様式の西洋風宮殿建築。その後いろいろ変遷があり、昭和49年に大改修される。薩摩藩屋敷跡に造られた鹿鳴館とは異なる保存の流れがあった。 本館玄関庭は、ベルサイユ宮殿の前庭に倣って、ピンコロ石(花崗岩)が敷き詰められている。その数、約25万個だという。ピンコロとは、サイコロ形状の俗称。9cm立方体が基本ではあるが、サイズは変化してきている。天然石なので、落ち着いた雰囲気が漂う。更にガス燈が灯ると非日常の世界に浸ることができる。写真-1 本館玄関でのミニコンサート(17時の部)。写真-2 車寄せ前での「バイオリンとチェコの夕べ」。写真-3 金原-笠原の原々コンビ。3日間で計6回演奏、ご苦労様。写真-4 頭上で阿吽の甲冑武将像が見守る。写真-5 石畳の前庭と上空から見た本館前。
2020年09月29日
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東京都元赤坂の迎賓館赤坂離宮へ出かけた。日没後に本館がライトアップされるとの報道があった。国宝の正門へ向かったが、そこは出口専用のため、西入口から入場する。コロナ禍で空いているかと思いきや、セキュリティチェックのため20分程並ぶ。外国人がいないため、静かな行列であった。 JR四ツ谷駅から歩くと、ほぼ南へ500mに白い正門がある。正門から本館までは約200m区間が前庭と呼ばれている。玄関庭へ向かう通路の左右には、手入れの行き届いた松が配置されている。西側にあるスダジイの巨木は、迎賓館建設時に植えられたもの。樹齢200年以上とされる。 玄関庭の一画には日傘+テーブルが並べられ、野外カフェが営業していた。ビール・おつまみが販売されている。小生らは、コーヒーを頂いた。この後、主庭の噴水や本館ライトアップなど数回に分けてアップします。写真-1 迎賓館前庭の中央通り。写真-2 正門と松並木。写真-3 石張舗装の玄関庭と野外カフェ。写真-4 本館の佇まいと花壇。写真-5 彫刻装飾品。
2020年09月26日
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不忍池池之端から本郷台地に向かって、坂道がいくつかある。旧岩崎邸の敷地擁壁に、石垣の上にレンガ塀が連なる坂道は、独特の風情がある。45年前にグレープの歌で有名になった「無縁坂」である。 池之端1丁目の交差点からこの無縁坂を上ると、東京大学方面に到る。勾配が8パーセント程度で、長さが200mほどの坂。自転車で駆け上がれるのは若者だけかと思ったら、電動自転車を利用する女性もいた。山手と下町を結ぶ道でもあった。 グレープの歌「母がまだ若い頃 僕の手をひいて この坂を登るたびに いつもため息をついて・・ 忍ぶ不忍、無縁坂・・ 」は、さだまさし25才のとき。無縁坂、縁切寺、精霊流しなど「お寺」に関する曲は、当時の若者に受け入れられた。その後グループは、解散して独自の坂を登ってゆく。 坂道の北側に、無縁坂に関係深い「講安寺」がある。坂の名称は、このお寺に由来する。珍しい土蔵造りの建物。防火・耐火性を重視したお寺だ。境内の片隅に半夏生が咲いていた・・。写真-1 忍ぶ、不忍・・無縁坂。写真-2 以前この坂から不忍池が見えたはず・・。写真-3 石垣とレン塀とがレトロな景観を作っている。写真-4 土蔵造りの講安寺と龍の彫物。写真-5 講安寺境内から坂を眺める。その傍に半夏生が咲く。
2020年08月03日
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不忍池に来ると、自然と湯島天神に足が向く。コロナ禍で受験生の参拝が減っている。東京大学に近いこともあり、全国で1、2を争う合格祈願処。しかし、湯島天満宮は、学問の御利益ばかりでない、宝クジ運、病回復を願う社(やしろ)でもある。 邪鬼を祓い、魔除けのために置く「狛犬」が少し変わっている。梅が描かれた台座の上にいる狛犬は、片足を上げている。また毛並みの良さを感じさせる。向かって右側の狛犬は口を開き、左側の狛犬は口を閉じている。阿形と吽形を現しているようだ。 境内の梅園には水が流れ、小橋が2カ所架かっている。その袂に桔梗の花が咲いていた。「麒麟がくる」明智光秀の水色桔梗紋を連想する。湯島天神の神紋は「加賀梅鉢紋」。家紋は子孫に継がれるもの。武士の時代に急速に広まった文化のひとつ。他家と区別する目印・・。写真-1 湯島天満宮正面の拝殿。写真-2 南口に建つ青銅鳥居と北口の夫婦坂門。写真-3 片足を上げる阿吽の狛犬。写真-4 湯島天神のシンボル、加賀梅鉢紋。写真-5 境内の梅園。写真-6 桔梗の花と水色桔梗紋。
2020年07月30日
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東京上野・不忍池全面にハスの葉が広がっている。今年も花ハスも咲き揃い、夏の風物詩となった。昨今、異常気象や大地震などが多発。毎年、眺め・親しんできた風景が目の前から消える事が起きている。当たり前の景色があることに感謝しなければ・・。 不忍池は、周囲2km、全体面積が約11万m2の規模。そのうち、蓮池は約半分の面積を占める。この池ではハスが大繁殖して、池面が見えないほど蓮葉に埋め尽くされる。都会の湿原のようだ。朝この場所に来ると思う、都会の喧騒から隔絶された世界で、癒される人も多いのではないか。 御存じ、江戸時代、天海僧正が不忍池を琵琶湖に見たてて弁天島を築く。その後、池周辺に蓮見茶屋が建ち、蓮見船が浮かべた。昔から蓮見の名所だった。現在、池南側に張り出した遊歩道が設置され、ハスの観察ゾーンとなっている。この場所は、弁天堂をバックにした記念撮影スポットとなっている。写真-1 花ハスと不忍池辯天堂。写真-2 池メンを覆い尽くすハスの葉と花。都会の湿原。写真-3 花ハス観賞1(逆光気味)。写真-4 花ハス観賞2(優美な花びら)。写真-5 八臂弁財天を祀る弁天堂。
2020年07月28日
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関東厄除け三大師のひとつ西新井大師を訪ねて、名物の草団子を食する。山門がリニューアルされていた。山門位置が境内側へ移動しており、門前広場が広くなっている。 西新井大師の正式名称は、五智山遍照院總持寺。創建が天長3年(826年)とされる。開祖は空海。御本尊は、十一面観音菩薩と弘法大師。境内に大師によってもたされた「加持水の井戸」が保存。この井戸が本堂の西側に所在しているので「西新井」が由来となった。 山門は天保4年頃に建立された総欅造りの楼門。昨年11月、約1年半をかけて、保存改修工事を終えたばかり。そのため山門の屋根が赤銅色に輝いていた。銅板3000枚(30cm×36cm)が奉納されたという。 改修工事であるが補強も施されている。移動した基礎部に杭基礎とし、山門内部に鉄骨フレームが組み込まれている。耐震性が向上した。足立区の有形文化財の大切なひとつ。木造建物になので、防火・消火体制も気になった・・。写真-1 赤銅色の銅葺屋根が眩しい。写真-2 山門を守る仁王像。写真-3 改修工事後前の山門の姿。写真-4 西新井大師の大本堂。写真-5 三匝堂と境内の像。写真-6 加持水の井戸、山門に組みこまれた耐震装置。
2020年02月05日
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トーハクで特別公開「高御座と御帳台」を拝観した。混雑を避けて、平日の開館前に行く。しかし15分前であるが100名以上が並んでいた。無料観覧なので、より気楽に立ち寄るようだ。 本館1階の特別5室に、具合良く収まっている。四方ガラス張りであるが、ゆっくり回って観ることができる。無フラッシュの撮影ならOK。スマートフォンをかざす行列となる。小生は2周ほど回る。 高御座は、大きな御神輿(高さ6.5m、重さ8トン)のように見えた。壮麗な八角堂だ。細部までに多種多様な装飾が施されており、建築物というより美術工芸品だ。黒漆塗りと金箔の鳳凰が印象的。 百年前に造られたもので、10月の「即位礼正殿の儀」のために大幅に修繕して京都から運搬したという。東京での公開は1月19日に終了した。解体して京都へ戻る。そして3月1日から京都御所で同じように特別公開される。写真-1 開館時刻の9時30分のトーハク本館前。写真-2 特別5室に納まった「高御座と御帳台」。写真-3 「御神輿頂部」で舞う金箔の鳳凰。写真-4 諸儀式の写真や威儀物なども展示。写真-5 高御座の細部つくり。写真-6 退館時にも待列が途切れない。
2020年01月23日
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東京JPタワー・KITTEのアトリウムに、水玉が宙に浮いていた。水引を使った新クリスマスツリーのイルミネーションだ。千個以上を使用した水引にLEDが組み込まれ、高さ16mにデザインされている。12月25日まで点灯している。 水引は、祝儀袋の外袋の飾りに使用する日本の伝統工芸のひとつ。和紙の「こより」に水糊を引いて固めて作ることから「水引」。最近、色々にデザインされ、アクセサリーとしても愛用されている。 丸の内エリアでは、スターウォーズに関するクリスマス・オブジェが登場している。丸ビル1Fマルキューブには、「銀河へ向かって伸び行く」ツリーが。丸の内オアゾビルには、フォースを感じる光のスペースが用意されていた。 映画「スカイウォークの夜明け」が12月20日から公開。42年に渡り、語り継がれた戦いの歴史が完結するという。写真-1 丸の内KITTEのアトリウムに設置されたイルミ・ツリー。写真-2 千個以上の水引にLEDが組み込まれている。写真-3 水引のデザイン。写真-4 丸の内駅舎に木漏れ日が差す。写真-5 スターウォーズ関連の光のオブジェ。
2019年12月10日
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東京駅丸の内駅舎から皇居に伸びる、行幸通りのイチョウが黄金色に色付いた。4列の並木である。和田倉門交差点までの幅員73m×延長約200mで、都が管理する道路。2010年に歩道兼馬車道としてリニューアルされた。中央の広い道は、憩の場所または各種イベント会場になる。 ご存知、「都の木」はイチョウ。シンボルマークとして、ポスター、バス停などよく見かける。ミドリ・イチョウとして知られている。しかし、昭和41年以前は、「ソメイヨシノ」だったようだ。都民の投票を反映してイチョウになった。神奈川県や大阪府の木もイチョウだったと思う・・。 御影石を敷き詰めた幅30mの馬車道は、「信任状奉呈式」に使用される。これは、新任の全権大使が天皇陛下に奉呈する儀式。現在使用されている儀装馬車は、大正時代に製造されたもの。漆塗りの車体(長さ4.5m×高さ2.24m)は、美術品としても逸品。写真-1 行幸通りの馬車道と東京駅方面。写真-2 普段、中央部は憩いの場所。写真-3 和田倉門交差点方向を見る。写真-4 馬場先濠方面を望む。写真-5 結婚式のカップルとDJ-ポリスさん。
2019年12月08日
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東京夕夜景を江戸川の頭上から観る。JR総武線・市川駅の直ぐそばのタワービルの屋上がアイ・リンクタウン展望施設として開放されている。アルバイトなどで都内に出かけた際、たまに寄り道する場所だ。少し、遠回りにはなるが交通費は、ほぼ同額。 45階にある展望所からは、地上150mのパノラマが望める。江戸川越しに、富士山と東京スカイツリーをツーショットが見られる場所。訪れた日、富士山の中腹に雲が棚引く光景があった。 アイ・リンクからの夜景は、「夜景百景色」、「日本夜景遺産」に登録されている。しかし、三脚が使用できないため、写りの良い写真にならない。ごくたまに、ライトダウンと三脚使用可の場合があるようだ。12月はイルミネーション月とも言われて、各町・各施設で光の演出を行う。機会があれば寒い中でも、街に出ようと思う・・。写真-1 アイ・リンク展望所からの夕夜景。写真-2 夕日と富士山頂とスカイツリー。写真-3 ビルの灯りチラチラ・・。写真-4 横に流れる白い線は隅田川。写真-5 江戸川を渡る総武線電車とアイ・リンク展望所。
2019年12月07日
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皇居東御苑の南側を少し歩いただけで、多くの石垣に出会うことができる。江戸時代の遺産である。幕末の江戸城明け渡し(1868年)から150年以上が過ぎた。無血開城し、新政府側がそのまま使用したので、多くの建物、土台および資料等が保存されている。 大手門から皇居東御苑南側を時計回りで、桔梗濠、蛤濠、蓮池豪、白鳥濠など配置され、それぞれに石垣が築かれている。重機のない時代、大量の巨石を運び、積み上げた労力は並大抵でない。世界的な偉業でもある。当時、江戸前の入江湿地帯に巨大な城郭を創出たしたことになる。 戦国時代から江戸初期に急速発達・広まった石垣築造の技術。攻城戦を想定して、必死に知恵を絞り、石垣や多聞が造られた。石垣積みのパターンは、6つと言われている。積み状態2方法(乱積と布積)×加工3方法(野面、打込接、切込接)の組合せとされる。 上記6つの石積みを頭の隅に置いて石垣を観ると、先人の苦労を少しだけ共用できるかも・・。当時の作業状況や工事を差配した奉行や実際に石を積み上げた職人達の汗に想いを馳せた。写真-1 江戸城本丸跡の天守台。この上に高さ51mの天守閣があった。写真-2 蓮池濠の石垣。その上に富士見多聞が構えている。写真-3 石垣の隅は算木積み。反りは日本刀にも通じる。写真-4 大手三の門の石垣と百人番所。写真-5 薄木と桜と紅葉と石垣。
2019年12月05日
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大嘗宮を見るためには、セキュリティーチェックを受けて坂下門から入苑する。乾通りの通り抜けとは異なり、宮内庁庁舎前を右折して、中の門を経て本丸広場へ上る。大嘗宮を見学した後は、二の丸庭園を経由して大手門から退苑した。 坂下門は、正月の一般参賀や桜と紅葉時期に皇居通り抜け際にも使用される入口。江戸時代、大奥のあった西の丸の通用門だった。坂下門外の変があったのは、桜田門外の変から2年後の1862年2月とされる。時の老中安藤信正が尊攘派の浪士に襲われ負傷している。彼は幕末、奥羽越列藩同盟に加わり、降伏・謹慎する。 富士見櫓を見上げるのは初め・・。通常は本丸広場から側面を観ることになる。三重櫓の富士見櫓は、明暦の大火(1657年)で焼失した天守閣の代用となった建物。この櫓からは両国の花火や品川の海が見えたという。 大手門は、1606年に造られた江戸城の玄関。桝形形式の城門の警備は、鉄砲30丁、弓10、長柄20という厳重なものだったとか。大火、震災、空襲などその都度消失するも、昭和42年に再建される。写真-1 富士見櫓の南西面を見上げる。写真-2 その昔、西の丸(大奥)の通用門だった坂下門。写真-3 富士見櫓南東面、天守閣の佇まい。写真-4 東御苑の出入口の大手門。写真-5 巽櫓と桔梗濠。
2019年12月02日
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皇居東御苑に設営された、一夜の宮殿・大嘗宮(だいじょうきゅう)が一般公開になった。大嘗宮は、天皇陛下が即位後、初めて新穀を供えられ国家安寧と五穀豊穣を感謝・祈願するために造成された。14日夜に「悠紀殿供撰の儀」そして15日未明「主基殿供撰の儀」が無事に執り行われた。 大嘗宮は、本丸芝広場の北寄りに建てられた。約30棟の木造の建物が並ぶ。要した大量の木材は国産品。主要産地は長野県・静岡県・北海道等だという。樹皮のまま使用している部位もある。 延床面積が2,600m2、すべて平屋だ。大勢の宮大工が参集し、7月下旬から工事を始めた。造営工事は大手ゼネコンが約9.6億円で請け負った。一般公開は、12月8日まで。その後解体されるが、これら建材は、お焚き上げされないという。長年、CO2を吸収してくれた樹木である。有効に利用されることを願う。写真-1 東御苑の丸の内芝生広場に設営された大嘗宮の建物。写真-2 正面入口にあたる南神門。鳥居は樹皮丸木が使われている。写真-3 大嘗宮を西と北側から観る。写真-4 正面向かって右に悠紀殿、左側に主基殿を配置。写真-5 大嘗宮の中庭と見頃を迎えたツワブキの花写真-6 大嘗宮の位置と模型。
2019年11月26日
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昼下がり13時半過ぎ、築地場外市場街でランチする。「トーハク」を廻って、お腹が減った。地下鉄日比谷線で築地駅まで約12分(165円)の距離だ。ランチタイムのピーク時刻を外して、海鮮丼を食する。 築地場外市場街、飲食や雑貨など、さまざまなジャンルの店鋪が犇(ひし)めく。主要な寿司店41軒や海鮮丼店23軒、寿司海鮮丼以外の食事店46軒などがある。ランチ激戦区だ。小生らは、少し広めの店鋪に入り、マグロ丼と北海丼を注文した。マグロの厚みに舌鼓する。 海外の観光客は、屋台風の小さな店がお好き。リーズナブルな価格が支持されているのか・・。更に人気の食べ歩きがある。「食べ歩きは良いが、歩き食べはNG」としているが。ワンコイン500円程度以下で人気の食べ物ベスト3は、1位:1貫のマグロ寿司、2位:串付玉子焼き、3位:黒毛和牛コロッケとされる。 波除通りの南面・千社額棟に「築地にっぽん漁港市場」が軒を連ねている。北海道、新潟、静岡、高知、長崎からの産直だ。6時から9時までが仕入れ業務。9時から14時までが販売タイム。また棟内の一画に「にっぽん漁港食堂」も併設されていた。写真-1 午後15時頃の築地場外市場・波除通り。写真-2 築地場外市場入口と「もんぜき通り」。写真-3 千社額棟と築地にっぽん漁港市場。写真-4 「もんぜき通り」の玉子焼き店と海鮮ひつま看板。写真-5 築地東通りで遅いランチ。
2019年10月05日
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築地市場が豊洲へ移転して早1年。残された築地場外市場と市場解体跡状況を眺めて来た。外国人の多さが目立つ。国内でラグビーのワールドカップが開催されている影響もある。築地場外市場街は、雑多な屋台方式の店舗が多い。更に、日本人が少ないため異国(アジア系)情緒が漂う・・。 かつての築地市場の活気を後世に残そうと、「築地魚河岸」が2016年にオープンしていた。小田原橋棟と海幸(かいこう)橋棟の2棟からなる。水産物と青果物の仲卸を主体に約60店舗が入居。3階フロアーには魚河岸食堂もある。 築地魚河岸海幸橋棟の3階屋上は、寛ぎと見晴しを提供する屋上広場。そして解体整備中の市場跡地を観る事ができる。築地魚河岸の営業は7時から15時まで。しかし一般のひとが入れるのは9時から14時とされる。 場外市場街は、食のワン―ランド×グルメ三昧と知られ、海外観光客が絶えない場所。お隣の23ヘクタールの跡地広場は、東京五輪の輸送拠点になる。更にIR(含むカジノ)について、東京都は検討姿勢を崩していない。横浜市のように言うかも知れない。東京銀座隣りの巨大な空き地が気になる秋・・。写真-1 築地魚河岸魚幸橋棟から築地市場跡地を見る。写真-2 築地魚河岸屋上広場と2棟連絡橋。写真-3 銀座の隣に広大な広場が出来つつある。写真-4 1年前の築地市場と築地大橋。写真-5 築地本願寺は、築地市場と同じ時期に再建された。
2019年10月02日
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百日紅咲く天竜橋を渡ると辯天堂がある。上野不忍池を琵琶湖に、弁天堂を竹生島の「宝厳寺」に見立てたものだ。その弁天堂の本尊は八臂弁才天で、音楽と芸能そして金運の上昇の御利益がある。ピンク色の線香に火をつけて奉納すると、さらに金運がアップするとされる。 弁天堂の創建は、寛永2年(1625年)とされる。天台宗東叡山寛永寺を開山した天海増正が、上野の山を造営するにあたって、京都周辺の神社仏閣を参照した。寛永年間に創建したので、寛永寺が由来か・・。 不忍池弁天堂の八臂弁才天は、宝厳寺と同じ弁天さま。八本の腕に、煩悩を破棄するという各種道具を持っている。そして、とぐろ巻く蛇と鳥居の冠をしている。 参道終点の香炉と拝殿の間に、人頭蛇体の姿をした「宇賀神王」の石像が置かれていた。その後方には、「弁天堂再建60周年」を意味する角塔婆も建っている。先の大戦で焼失したお堂が再建されたのは、昭和33年(1958)になってのことだった。写真-1 不忍池辯天堂は、再建60周年を迎えていた。写真-2 参道を渡る天竜橋付近の百日紅、蓮、柳など。写真-3 八角円堂と電線を除けた松。写真-4 辯天堂内の大提灯。写真-5 宇賀神王像と宝厳寺の八臂弁才天座像。
2019年09月04日
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皇居の桜の満開報があり、平成時代の乾通りの「通り抜け」に向かう。2時半を過ぎると、多少空いているかと思い午後から出かけた。しかし予想したより、参観者がはるかに多かった・・。1時間待ちは避けられないと係員に言われて、通り抜けを断念。桜田門へ移動する。 桜田門は、高麗門とやぐら門とで造られる「桝形虎口」。石垣と桜のミニ撮影ポイントがこの虎口にある。桜田濠方面から皇居広場へ向かう外国観光客は、先ず此処で記念撮影する。 昨年の乾通・通り抜けは、春季か約40万人、秋季か約20万人の「通行人」があった。モミジよりサクラの方が2倍人気だ。日本人にとって、お城・石垣と桜とは格別なのだろう・・。今回の桜通行人は、どれほどになるのだろうか。 第248番目の新元号が「令和」に決まった。出典は万葉集だという。日本の古典が見直された形となった。「初春令月 気淑風和」から・・。これには「いい日旅立ち」の意味合いもあるという。しかし、「梅の令和」を受けて、忙しいなる業界が数多あることを忘れてはなるまい。写真-1 桜田濠桜付近から桜田門を見る。写真-2 桜田濠桜と桜田門そして丸の内ビル群。写真-3 桝形虎口の石垣と桜。石垣の文様がユニーク。写真-4 石垣越に見る虎口の桜。写真-5 坂下門に押し寄せる人列と定番スポットの二重橋。
2019年04月03日
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都会の夜景は、寒い冬が美しく見える。久しぶりに東京駅に立ち寄る。昨年、ようやく整備された丸の内駅舎前広場は、花崗岩の石舗装がなされて歩き易い。雨上がりに来ると、少し水が溜まる所があるとも言われている。 丸の内駅舎の復原工事が終わったのは平成24年。もう7年近くが経つ。以前のゴミゴミした駅前広場が懐かしい気もする。今はケヤキ並木と四角ベンチがあり、甦った英国風クラッシックの駅舎を見ながらひと息できる。赤レンガと白い大理石の外壁がライトアップされていた。 東京地方は、冬晴れが続き、超乾燥状態が続いている。1月に積雪がないのは、久しぶりのこと。火災とインフルエンザにとっては好環境だ。一人ひとりが予防と対策を地道にするしかない。予防接種したからと言って安心できない。風邪ウィルスが動きやすい「乾燥地帯」に生きているから・・。 1月31日待望の降水量があった。しかし、翌日は北風ビュプーで、乾燥注意報が発令された。米国の大寒波や豪州の熱波に比べると、ズート暮らし易い関東平野である。写真-1 冬の夜景、東京駅丸の内口。写真-2 丸の内駅舎前広場の輝く舗装。写真-3 北ドーム出入口側を観る。写真-4 南ドーム出入口側を観る。写真-5 ケヤキ並木・ベンチとイルミネーション。
2019年02月01日
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皇居外苑の北側、「くの字」に曲がった桔梗濠。桔梗門に由来する江戸城の内堀。その濠の水面と暗い皇居林に浮き上がる櫓と門。和田倉噴水公園-桔梗門-大手門―和田倉橋コースを夜散歩する。もちろん各門は、門限時間を過ぎて閉じている。 桔梗濠は、巽櫓(たつみやぐらむ)を取り囲むように造られている。江戸城の本丸に近いため、防御上重要な濠だった。今は幅広い内堀通りに接している。皇居一周するランナーと接しそうな散策道だ。 和田倉噴水公園は、夜になっても都会のオアシス感がある。17時を過ぎると、ビュフェやトイレが閉鎖されるので人影が少なくなる。しかし噴水と照明がある。噴水場所からライトアップされた巽櫓と富士見櫓を眺めた。写真-1 和田倉公園の噴水から巽櫓と富士見櫓を望む。写真-2 大手門交差点から高麗門をみる。写真-3 大手濠と大手門。写真-4 桔梗濠に浮かぶ巽櫓と大手門。写真-5 巽櫓と富士見櫓。写真-6 和田倉橋の守衛所跡
2019年01月27日
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日が沈むのが早いこの時期、皇居外苑広場に抑えた明りがある。地上に伸びる線上の灯火のようだ。桜田門、坂下門の輝くような白壁とは異なり、広場は「ほのかな明り」の帯が伸びていた。 外苑広場には高層ビルの華やかな明りもこぼれて来る。少し強いが、町の灯りである。街の灯りは、戦争や大災害に遭うと消えてしまう。平和と豊かさを象徴するものだ。シリア内戦地区などに、街の灯りはなかった。 いまや皇居は、年間400万人もが訪れる観光名所。今回、皇居外苑の夜景を演出したのは、石井幹子氏。東京駅などのライトアップを手掛けた、照明デザイナーの第一人者だ。堺正明が唄う、「街の灯りちらちら あれは何をささやく・・」を想い起す「ほのかな明り」である。写真-1 皇居外苑広場の夜景。写真-2 二重橋と伏見櫓のライトアップ。写真-3 皇居正門と石橋。写真-4 坂下門と蛤濠。写真-5 直線に伸びる「ほのかな明り」とビルの明かり。
2019年01月21日
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皇居外苑がライトアップされていた。平生は、丸の内ビルがとは対照的に、闇夜になる皇居外苑だが・・。夜の散歩を楽しめる明るさとなっていた。桜田門を含む、門、櫓そして石垣が静かな夜景を作っている。4回程度に分けてアップします。 桜田濠と凱旋濠に映し出される白い壁は、外側の高麗門と内側の渡櫓門(わたりやぐらもん)。皇居の方には該当がなく、黒いので白さが浮かび上がって見える。 正月2日の一般参賀には約15万5千人が集まった。天皇陛下の在位中最後となるため、平成で最多の人出となった。遠方よりバスを仕立てくる団体もあり、昼間の外苑広場の様相は夜とは別世界だ。 元気なうちに「タスキ」を、皇太子様に繫なげることができる。と考えれば大変良い判断だ。新しい天皇で東京オリンピックを迎える。皇居外苑広場も何か工夫があっても良い・・。写真-1 桜田濠から桜田門を観る。写真-2 皇居をバックにした高麗門。白壁が際立つ。写真-3 凱旋濠に映し出された桜田門。写真-4 ライトアップされた渡櫓門。写真-5 桜田濠と国会議事堂。
2019年01月17日
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江東区を南流する晴海運河は、幅500mに及ぶ大運河である。豊洲公園から河口までの約1800m区間に大橋が2箇所架かっている。上流が晴海大橋、下流に架かるのは、環状第2号線を通す豊洲大橋。いずれ縦断勾配がきつく、ママチャリ泣かせの橋と云われている。 築地市場からの引っ越しに際し、豊洲大橋をターレ(電動小型運搬車)が通行するニュースを見た。築地市場内に2100台も稼働していたとは驚きだ。ターレの特質として、小回り・平面移動する運搬車。豊洲大橋の勾配はきつい。安全運転を心掛けていたようだ。しかし楽しそうに見えた・・。 豊洲市場が発展して行くと、晴海運河の水運が見直されるかもしれない。更に、主要な遊覧観光コース、または荷揚げが築地より増えるかも知れない。築地市場のあった隅田川より橋が少なくて、川幅が広いため・・。 道路の混雑が予想されている。地下鉄などの公共交通施設の整備が必要だ。「乱」にあっては、複数の交通手段が求められる。関西空港のような「想定外」のことが起こるとも限らない。写真-1 豊洲大橋を運河左岸から望む。写真-2 豊洲大橋の橋脚部。写真-3 豊洲大橋を下流から見る。写真-4 晴海運河の河口を眺める。写真-5 ターレ、豊洲大橋を渡る。[東京新聞]
2018年10月14日
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隅田川に架かる佃大橋の東詰近くに住吉神社がある。江戸初期、鉄砲洲向いの干潟を埋立てて、佃島ができた。その際、摂津国(大阪)から入植した漁師が、本社から分霊して祀ったのが始まり。住吉三神(すみよしさんじん)を祀る住吉神社は、全国600社近くあるという。 住吉神社の御利益はその起源から、航海安全と船舶守護が本筋。隅田川から神社まで水路が造られて、海に通じる。例年8月初旬、例祭(佃祭)が行われる。八角神輿を台船に載せて、隅田川を「船渡御(ふなとぎょ)」するのが知られている。 創建以来、佃島の鎮護のみならず、水運関係者から厚い信仰をうけ賑わった社。鳥居中央に掲げられている扁額は陶製で、中央区の文化財。題字は有栖川宮親王による。白地にコバルトブルーの扁額が珍しい・・。 扁額のオリジナルは、尾州瀬戸村の職人が製作した。しかし明治3年風災で損傷したため、その12年後、再生された。陶器問屋の信仰の厚さを物語っている。額の大きさは、縦81cm×横46cm。写真-1 隅田川に架かる佃大橋を左岸から望む。写真-2 大川端リバーシティの南に位置する住吉神社。写真-3 住吉神社鳥居と陶製扁額。写真-4 住吉神社社殿と龍神社。写真-5 神社脇の水路と例祭の船渡御。写真-6 広重・名所江戸百景「佃しま住吉の祭」。
2018年10月11日
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築地市場の解体撤去が暫くすると始まる。更地にして基盤ができるのは、2020年2月頃(約1.3年間)。東京オリパラを控えて、大会の輸送拠点になるそうだ。都心の一等地が再生するまで道程は長い。 築地側の築地大橋取り付部を整備すると、11月中頃に暫定開通になる予定。橋の型式は、鋼製3径間連続中路式アーチ橋で、中央支間距離が145m。中央のアーチ形を眺めると、場所により「ナポレオンハット」または「さかな」の形に見える。 そもそも幕末期の築地は、大名・旗本の屋敷が立ち並ぶ格式ある場所だった。明治維新により、大名敷地から外国居留地(明治32年まで)へ、その後海軍省所管となる。大正12年の大震災後、日本橋魚河岸の移転があって卸売りが始まる。そして昭和10年築地市場が開場となった。 築地市場の最終営業日は10月6日。引越・解体に伴い、物陰・地下穴に隠れていた鼠(ネズミ)が一斉に移動することが指摘されている。鼠駆除を計画しているが、多くは取り逃がしてしまうのではないか。排水管、地下鉄などを利用して、次なる「餌場」を求めて、鼠族大移動が始まるかも・・。橋から鼠を連想した。写真-1 開通前の築地大橋を上流から望む。写真-2 下流から見た築地大橋。写真-3 築地市場との取り合い部。写真-4 帽子をイメージするアーチ梁。写真-5 ネズミの移動が始まる築地市場。写真-6 明治5年に焼失した築地ホテル館。和様折衷の建物。
2018年10月08日
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豊洲新市場が10月11日に開場する。その前に周辺を少し歩いてみた。築地市場の方は、83年間の商いを10月6日に終えて、「大引越し」が開始する。その後、築地市場は解体され、整備事業が始まる。 3方向が水辺に面している豊洲市場。ぐるり囲むように水際公園が整備されている。緑地公園やウォーキング・ジョギングコースがある。「豊洲ぐるり」4.8kmランコースは、開放的で眺めが素晴らしい。 築地市場の老朽を鑑みて市場移転が決定したのは、2001年・石原都知事の時。合意形成の難しさを感じる17年間であった。移転直前であっても移転に不満を持つ人は、今も少なくない。 豊洲新市場が営業を開始すると、更なる問題・課題が浮き上がっていると思う。ひとつに、環状2号線の開通が遅れて、物流が滞る問題。更に市場の取扱高が、減少しつつある現実をどう乗り越えてゆくか。先ずはご祝儀相場が続くのかな・・。写真-1 豊洲新市場と水際公園の様子。写真-2 豊洲ぐるり公園の北側と西側。写真-3 豊洲ぐるり公園の南側と東側。写真-4 水際公園とレインボーブリッジ。写真-5 開場前の豊洲市場。写真-6 豊洲新市場を鳥瞰。
2018年10月07日
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東京駅八重洲口から南へ約1700m八重洲通りを進むと、隅田川に架かる中央大橋に到る。この橋は隅田川18橋のなかで、空高くそびえる主塔を持つ。従来の昭和の橋と一線を画す。都市計景観を重視した橋だという。 東京都中央区のシンボルを示す意味で、「中央大橋」と名付けられた。西岸が中央区新川2丁目。東岸が中央区佃1丁目。橋長210mで、都道463号を通す「二径間連続鋼斜張橋」。平成5年に竣工した。レインボーブリッジと同期だという。 橋桁を支える主塔と鋼線は、それぞれ「兜」と「帆船」をイメージしている。また、径間中央に特徴的な像が上流を見つめている。隅田川はフランス・セーヌ川と友好河川を提携しているので、当時のパリ市長から「メッセンジャー像」が寄贈された。異形な像が抱えているのは、帆船のように見えた。 中央大橋の手前から川が分岐する。西流するのが隅田川、東流するのが晴海運河。その分流する川畔の石川島公園にパリ広場がある・・。都内のウォーターフロント夜景で美しい場所のひとつである。写真-1 石川島公園・パリ広場から中央大橋を望む。写真-2 兜と帆船をイメージした斜張橋。写真-3 主塔基礎上流端に設置されたメッセンジャー像。写真-4 橋桁を吊る鋼線と高欄柱にも注目。写真-5 大きな兜をかぶったスカイツリー。写真-6 大川端リバーシティと中央大橋の夜景。
2018年10月04日
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亀島川水門の東側河畔に下りると前方に隅田川が広がる。亀島川と隅田川の分岐点に、逆三角形をしたフレーム・モニュメントがある。霊岸島(れいがんじま)水位観測点を後世に伝える碑でもある。 明治初期、標高の基準として銚子量水標に続いて、ここ霊岸島にも設置された。A.Pと表記された。A.Pとは、Arakawa Peilの略。Peilはオランダ語で「基準」または「標準」と呼ばれる。 江戸期、霊岸島付近には畿内から下がってくる酒や醤油、瀬戸物などを取り扱う問屋が、亀島川や新川に面した河岸に並んだという。広重・名所江戸百景「鉄砲洲稲荷橋湊神社」を参照。 逆三角形は、土木や建築の設計図などで、高さを表す記号。三角形の下先端が高さ(標高)を示す。またフレームの一辺の長さを13.947mとしているのは、東経139度47分に因んでいる。写真-1 隅田川に注ぐ亀島川河口。亀島川水門と霊岸島水位観測所。写真-2 三角フレームのモニュメント。写真-3 隅田川の川畔に作られた霊岸島水位観測所。写真-4 日本水準原点の関係図等。写真-5 南高橋から見た亀島川水門。高潮対策の水門。写真-6 橋の西側・湊地区の「鉄砲洲稲荷神社」。
2018年10月01日
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未開通の環状第2号線を2km歩く。築地大橋と豊洲大橋との間、勝どき5・6地区と晴海3地区を横断することになる。そして朝潮運河を渡る。 勝どき地区は、早くに埋立てが完了したエリアで、住宅・マンションが多い。そのため道路は、防音壁を備えた高架橋となっている。「勝どき陸橋」と呼ばれ、延長525m×幅員15.7mの規模だ。強化ガラスの防音壁は、汚れが目立つと云われているが・・。 勝どき地区と晴海地区の境を流れる朝潮運河。目立たないが、この運河に黎明(れいめい)大橋が2017年に完成している。晴海地区は、中央清掃工場など工場・倉庫が並ぶ。ほっとプラザ近くでは、東京オリンピックの選手村づくりが急ピッチで進む・・。写真-1 築地大橋から勝どきタウンを望む。写真-2 勝どき陸橋の防音壁。写真-3 勝どき陸橋。約520mの高架橋。写真-4 晴海地区では選手村の建設が進んでいる。写真-5 朝潮運河。上:朝潮小橋、下:朝潮水門と黎明大橋。
2018年09月23日
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複数の鉄道会社が乗り入れるJR新橋駅。山手線他JR5線、東京メトロ銀座線、都営浅草線、そしてゆりかもめ線が蠢く。昔のターミナル駅が色濃く残っている。 JR新橋駅の北側(東京駅方面)には、日比谷口と銀座口がある。改札口が大きくないので、初めて利用する人は迷うかも知れない。日比谷口の駅前広場は、テレビニュースなどでサラリーマンへのインタビューがなされる場所。 この広場は、通称「SL広場」と呼ばれ、待ち合わせスポットでもある。C11形蒸気機関車が静態保存され、広場のシンボルだ。SL車の後方に、喫煙処が連なっている。淡い紫煙が上がっていた・・。 正午と夕方に汽笛を鳴らす蒸気機関車。ランチと晩酌タイムを知らせる合図か。C11-292機関車は、昭和20年に日本で作られ約108万キロを走破したという。所属機関区は姫路。中国地方で活躍した。ご苦労様でした・・。写真-1 JR新橋駅北側の日比谷口。写真-2 レンガ積・アーチ高架橋を電車が走る。写真-3 JR新橋駅プラットホームとSL広場。写真-4 静態保存されているC11形蒸気機関車。写真-5 蒸気機関車の後方に喫煙処がある。
2018年09月21日
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豊洲大橋の上から海上の「噴水」を眺めた。環状第2号線見学会におけるイベントのひとつ、祝賀放水である。東京消防庁から消防艇3隻が出動した。 豊洲大橋は、2008年には概成していた。大橋に取付く道路工事が遅れ、今日に至る。晴海運河を跨ぎ、晴海5丁目と豊洲6丁目を結ぶ道路橋。橋長550m×幅員32.3mの鋼製ガータ橋である。 東京消防庁には、消防艇10隻が配備されている。祝賀放水に出動したのは、向かって左側から「おおえど」、「みやこどり」、「すみだ」の3隻。中央の「みやこどり」艇は、大型化学消防艇で、総トン数195トン、放水砲6基を備えている。合計毎分70,000リットル放水可能な消防ポンプを搭載。 大型艇の「おおえど」や「みやこどり」は、有事に沿岸を航行する。東京湾のみならず、日本各地に赴くという。日本海における他国の違法操業の取り締まりに使用したならば、威力は相当なものだ・・。小さな漁船なら沈むかも知れない。実行してはいけない行為だが・・。写真-1 豊洲大橋をゆりかもめ線駅から観る。写真-2 豊洲市場側から豊洲大橋を望む。写真-3 大橋から豊洲市場とゆりかもめを望む。写真-4 東京消防庁による祝賀放水。写真-5 大型化学消防艇「みやこどり」。写真-6 豊洲大橋とレインボーブリッジ。
2018年09月20日
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江戸時代、鴨(かも)を捕獲した鴨場が保存されている。浜離宮庭園に2箇所ある。横堀に沿って北東方向に伸びる「庚申堂鴨場」と南西端の「新銭座鴨場」である。庚申堂鴨場は、安永7年(1778)と古い。 鴨の狩猟方法を解説するパネルが設置してある。鴨場池に幾筋かの「引堀」を設けて、「小覗」から鴨の様子を窺う。囮のアルヒと餌で鴨をおびき寄せ、機をみて「小土手」から鷹や網で捕獲する・・。 鴨場池を覗くと、水面が青粉(アオコ)で覆われていた。富栄養化した湖沼では、夏場時折見られる自然現象。しかし、緑色した微細藻の膜の水面下に棲む魚は、酸素欠乏となり死滅する場合が多い。 臨海都市におけるオアシス的な場所が、アオコの侵略を受けているさまを見たくないものだ。しかし駆除と対策には多大なコストがかかる。皇居の濠の水質改善事業とリンクしてできないものか・・。写真-1 浜離宮庭園にある青粉池。美しい芝のようにも見えるが・・。写真-2 北東方向に伸びる「庚申堂鴨場池」。写真-3 鴨場施設の「小覗」と「引き堀」。写真-4 鴨場施設の「大覗」。写真-5 鴨猟の方法を解説したパネル。写真-6 江戸期・将軍の鷹狩の様子がわかる絵画。
2018年09月18日
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開通前の築地大橋の上から築地市場を眺めた。10月11日の市場移転が迫るなか、9月15日「環状第2号線見学会」が半日行われた。あいにくの雨日和になったが、残暑と強い紫外線を避けることができた。 環状第2号線は、江東区有明を起点として、千代田区神田佐久間町を終点とする全長14km。当初2020年東京オリンピック前の開通を目標にしていたが、ご存知「市場移転問題」で大幅に遅れていた。 見学ルートは、築地大橋から市場前駅(ゆりかもめ線)までの約2km。この区間には、勝どき陸橋、黎明大橋、豊洲大橋が完成している。大橋は高さがあるので、橋上からの眺めが良いはずだったが、雨と低い雲で視界は不良だった・・。写真-1 雨に煙る築地大橋。勝どき側から車道を観る。写真-2 築地側から築地大橋を観る。写真-3 大橋の親柱と橋名板。写真-4 築地大橋から移転直前の築地市場を望む。写真-5 2年前の橋梁写真と計画されているライトアップ景。
2018年09月17日
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JR新橋駅は、ほぼ南北方向に作られている。北側は東京駅方面、南側は浜松町方面で、それぞれ出入口に名前がある。北側に日比谷口と銀座口が、南側に汐留口と烏森口がある。烏森口の近くには烏森神社がある。御利益は、技芸上達、商売繁盛。 烏森口を出ると、白い格子状の外観のニュー新橋ビルが目立つ。サラリーマンの憩の場所である。このビルは、1964年東京オリンピック後の市街地改造事業で建設されたもの。もともとは「狸小路」と呼ばれた飲食街のほとんどが、ニュー新橋ビルに入居した。今もその面影が残る。 南側には、もうひとつ汐留口がある。臨海新交通「ゆりかもめ」と結ぶ出入口である。この汐留口の左側に、鉄道唱歌の碑とD51機関車の車輪が置かれている。 鉄道唱歌の碑は、作詞者・大和田建樹生誕100周年を記念して、昭和32年(1957年)に設置すされた。明治32年から発表された作品は、全5集・334番におよぶ。作者が汽車に乗ってつぶさに見た見聞録である。特に、東海道・山陽道・九州道の汽車シリーズが知られている・・。写真-1 JR新橋駅の烏森口と京浜東北線プラとホーム。写真-2 白い格子状の外観が特徴の駅前ビル・ニュー新橋ビル。写真-3 レトロなガード下店舗と烏森神社。写真-4 新橋駅南側の汐留口。写真-5 鉄道唱歌の碑とD51機関車の車輪。写真-6 鉄道唱歌「東海道汽車」の一節。
2018年09月15日
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