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小石川後楽園は、旧水戸徳川家の屋敷に造られた回遊式泉水庭園。徳川頼房・光圀の2代で完成(1629年)させたもので、中国の風物を多くとり込んでいる。古い石積みアーチ橋である円月橋(えんげつきょう)などは、明の儒学者の設計とされている。 東京メトロ・南北線は、東京ドームのほぼ中央地下を縦断する。そのドーム球場に押されるように特別史跡・小石川後楽園がある。この庭園地下には地下鉄は通っていない。南北線・大江戸線・丸ノ内線は、庭園周辺を囲むように配置されている。何か意味があるのか・・。 庭園の北側に神田上水の名残の水路がある。江戸期、水戸藩の屋敷に入った上水は、邸内の飲料水、生活水や大泉水池に使われた。その余水は御茶ノ水の懸樋を経由して、神田の武家屋敷へ送られたという。 東京ドームが誕生するまでは、後楽園スタジアムと競輪場があった。昭和62年11月にスタジアムが閉場した。競輪場は、当時の東京都知事がギャンブル廃止論者であったために姿を消した。昨今、成長戦略の一環としてカジノ構想が注目されている。カジノ経営は明と暗とがある。先楽後憂になり易いので御用心・・。 写真-1 後楽園大泉水と文京区シビックセンタービルを望む。 写真-2 園内東側の内庭(うちにわ)。池面に東京ドームの屋根が映る。 写真-3 紅い落葉が屋根に積もる丸屋(まろや)。 写真-4 園内に流れる神田上水の名残。 写真-5 神田上水に架かった円月橋(えんげつきょう)。
2014年12月16日
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秋の夜長を演出する東京スカイツリーの灯り。この時期16時45分から特別ライティングにより塔が緑色に輝く。ほぼ同時刻に赤っぽい月が上がった。文京シビックセンターから見た「月とシャンパンツリー」である。 文京区役所は、東京ドーム球場の北側に立つ26階建てのシビックセンタービルにある。このビルの25階が無料の展望ラウンジとなっている。9時から20時半まで一般に開放されている。東・北・西の3方向の展望が見られ、夜景が綺麗な場所だ。地下鉄から直接建物にアクセスできるのが嬉しい。 ラウンジ東側は、上野公園や東京スカイツリーを眺めるのに良い場所だ。窓ガラスが斜めに取り付けられ、建物の直ぐ下までよく見えるよう配慮されている。西側の展望は、「関東の富士見百景」に選定されているが、4年前に150m級高層ビル(飯田橋ファーストタワー)が建設され、眺望が低下した。 月と夜空を眺めていると、先日地球を飛び立った「はやぶさ2」を想う。約6年間の宇宙の旅だ。予定通りに小惑星「1999JU3」に辿り着き、2020年末に無事に帰還することを願う。宇宙戦艦ヤマトのような存在だ。はやぶさ2の運用速度は30km/秒とも言われている。宇宙では普通のスピードなのだろう・・。 写真-1 文京シビックセンターからみた東側夜景「月とシャンパンツリー」。 写真-2 夕暮れの展望景色。左手に筑波山と右手にスカイツリーを望む。 写真-3 赤い大きな月が上ってきた。 写真-4 「赤い月とスカイツリー」の夕暮風景。雲の様子が面白い。 写真-5 25階ラウンジより西側・東京都庁方面の夜景。大きな黒いビルが立ちはだかる・・。
2014年12月14日
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坂下門から乾門を通り抜けた後も、人波は続く。流れに乗って、北はね橋門から皇居東御苑へ入場する。珍しく、天守台の上が大勢の人で賑わっていた。天守台は、旧永禄の天守閣があった場所。明暦の大火(1657年)で焼失した後、石垣は造られたが、天守は再建されることはなかった。 江戸城の天守は、家康・秀忠・家光と将軍が代わるたびに造り替えられていた。慶長の天守(1606年家康)、 元和の天守(1622年秀忠)、寛永の天守(1638年家光)。現在ある天守台は、大火の翌年、加賀藩前田家が普請した。花崗岩を高11m×南北45m×東西41mに積み上げている。 明暦の大火当時の将軍は、四代・家綱(16歳)の時代。政務は、叔父の保科正之(会津藩主)などが補佐した。正之公は、天守閣の再建よりも、大火の復興と防災・減災に取り組む。優れた政治と経済感覚を持ち合わせ、かつ仁者または倫理の人と云われた。衆議院選挙では、このような人物の発掘は難しい・・。 本丸芝生公園周辺のカエデが終わりに近づいていた。冬桜・十月桜の姿もあつた。大手門の修復工事(東日本大震災の影響)が終わった頃、白い漆喰壁を見に来ようと思う・・。 写真-1 天守台から足元の石積みと本丸跡公園を望む。 写真-2 この数日間、天守台は大勢の人びとで賑わった。 写真-3 ケヤキの芝生エリアにおけるツワブキとカエデ。 写真-4 白鳥濠付近の紅葉。 写真-5 石垣の中段に逞しく生きる樹木。
2014年12月12日
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皇居広場の隊列に約1時間並んだ。坂下門まで、何と遠いことか・・。好天に恵まれ、人出が多い。約5千人以上が順番待ち。この人並みを誘導する警察も大変である。テロ対策として、一人ひとりの荷物検査とボディーチェックするのだから。 天皇陛下の傘寿(80歳)を記念して、皇居乾通りを一般公開した。12月3日から12月7日の5日間で約35万人が、皇居内の紅葉と空気を味わった。陛下の観るカエデ、および空気を共用することに一つの意味があるようだ。天皇皇后両陛下は、6日午前中宮内庁庁舎からこの大行進をご覧になったという。 入場制限時間は、10時から14時半までの一日4時間半である。坂下門から乾門までのほぼ一直線750m通り抜けるのに約30分を要した。「行進」なので後戻りはできない。人の流れに乗って進むしかない。人波流量は、1時間当り平均15,600人と計算される。乾門を1分間に260人が通過したことになる。 普段見られない方向からの富士見櫓や富士見多門を観ることが出来た。富士見櫓は、明暦の大火で江戸城天守閣を焼失して以来、その代役を担った。高さ14.5mの石垣に15.5mの櫓が建っている。大正14年に再建され、平成天皇より6歳年上の櫓である。 写真-1 富士見櫓と紅いカエデ。江戸中後期は江戸城天守閣の役割を果たす。大正14年に再建。 写真-2 石垣と富士見多門が美しい。多門は昔の武器庫に相当する。 写真-3 蓮池濠に造られた高さ20mほどの石垣とモミジ。 写真-4 乾通り沿いの蓮池濠と人波を観る。 写真-5 乾通りの観楓大行進状況。
2014年12月11日
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東京と千葉の境を流れる江戸川。江戸川左岸の上空150mから、東京エリアの半分ていどを見渡せるI-Link展望デッキに寄った。JR市川駅に隣接するタワービル45階である。360°のパノラマが待っている。 白い富士を遠望できる季節になった。北よりの風が吹き、よく晴れた日に青空に映えるスカイツリーと富士山は一つの名所である。2015年の冬は、豪雪の年になるのだろうか。 上から鳥瞰すると東京は混沌とした町並だ。世界的みても類をみない混雑した都市。戦後の復興期、港・川・運河、そして丘をめぐって、経済性が優先された結果だ。敗戦という精神的負担が影響したのだろう。 色々なものが混在するのが日本的文化・習性のようだ。文字は、漢字、ひらがな、カタカナがある。3つの書体は、年齢層または地域によって異なる。浅草はひらがなが、秋葉原はカタカナがよく目につく。町並みは歴史を語る。東京は「欲望のまち」、「利己主義のまち」という人がいた・・。 写真-1 東京の町並みを展望する。市川アイ・リンク展望デッキにて。 写真-2 富士山の白い装を上空150mから見る。 写真-3 江戸川上流と北総線橋梁を望む。 写真-4 江戸川河口と東京湾を望む。 写真-5 真間山弘法寺に続く道を望む。
2014年12月09日
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東京ディズニーの南を護る舞浜防波堤海岸。10月中旬と2月中旬、カメラを持った人達が集まる場所だ。防波堤の建設が進んで、遊歩道・テラス・ベンチなどが整備されている。散歩する人も多くて、安心して夜歩き出来る。特に「ヒルトン東京ベイ」裏手のテラスは、リゾートライン駅に近く便利である。 千葉県西部における「ダイヤモンド富士」は江戸川河口(10月中旬)から始まり、冬至の頃まで江戸川を遡上する。そして流山を過ぎ野田市でUターンする。遡上速度は日平均550mと計算される。北西の乾燥した風が吹く時、白い富士山が良く見える。今年もそんな季節になった・・。 東京ディズニーリゾート(TDR)は、今年も盛況のようだ。1日パスポートを200円値上げして、6,400円/日になっても入園者数と売上高とも昨年を上回る予想だという。大阪のユニバーサル・スタジオ・ジャパン(USJ)と共に不況知らずのようだ。消費税8パーセントアップは関係ないようだ。 TDRは四割がチケット収入と言われる。一人当たり消費額が約16,000円。今期初頭、「TDR・2015年問題」があった。(1)大阪USJへの顧客流出、(2)上海ディズニーの開園、そして(3)消費税の更なるアップである。これらの要因で、経常利益が大幅ダウンするとの予想だ。次なる戦術として「雪アナ」を掲げているが・・。 写真-1 舞浜海岸からみる夕日。この日は午後から南風になり、富士山が不鮮明となった。 写真-2 ライトアップした東京ゲートブリッジをしばし観賞する。 写真-3 旧江戸川河口より大観覧車とスカイツリーを眺める。 写真-4 ビル群の間隙をぬって東京タワーの赤い灯が見える。 写真-5 東京デイズニーランドホテルのイルミネーション。
2014年11月01日
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運河を通りぬける風。遊覧船が海水を押し切る音。晴海大橋の上は、風と音、そして光を感じることができる場所。上り線と下り線とが空中で40mも離れている。7階ビルの屋上に居るような感覚になる。橋脚部となる場所には、展望台が張り出している。この時期、浜風に吹かれ、景色を眺めるには絶好の場所である。 現在の晴海大橋は、車道(歩道)の上空にはトラス材などが一切無い。解放感あふれる橋。しかし、後1、2年するとこの橋の上に、首都高速10号線の桁が覆うことになる。運河を渡る風と水音は、高速走行する自動車音でかき消されてしまうかもしれない。 東京湾岸エリアのインフラ整備工事は順調に進んでいるかに見える。新設工事が多い。しかし、震災復興事業の増大と高齢化・人手不足により、維持管理の物件には業者が集まらない。更に、作業する人々の意欲をそぐような、大手新聞の心ない報道もあった。汗を流し、汚れて働くヒトが希少価値になるかも・・。 いわゆる「吉田調書」の公開で、記事の誤りと読者に謝罪した取締役・編集責任者。本来なら、震災4日後福島原発に居た650人の作業員一人ひとりに謝罪すべきだ。ペンは人を葬ることもできる武器・・。大手新聞が週刊誌のような「ウケ」を商売にしては・・。「不信一瞬、信用十年」の戒めを思いおこす秋 (とき)・・。 写真-1 晴海大橋の展望台から晴海運河上流を眺める。晴海橋梁と晴海橋が見える。 写真-2 晴海大橋の展望台北側の夜景。東京スカイツリーに灯がともる。 写真-3 豊洲公園方面を望む。アーバンドッグららぽーと豊洲の跳ね橋が見える。 写真-4 豊洲駅方面の夜景を望む。写真-5 IHI造船所の面影を残すクレーンとイルミネーション。
2014年09月19日
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東京都中央区佃付近(大川端)の隅田川から東流して東京湾にそそぐ晴海運河。その延長距離約4kmは、中央区と江東区の区境でもある。晴海運河の区間定義は、自治体で多少異なるようだ。晴海大橋上流から河口までを晴海豊洲間水域と呼ぶ場合もある。埋立地の所有権については紛争がつきものだ。 晴海・豊洲の地盤は、隅田川の浚渫土や関東大震災のガレキが主に使われている。隅田川は洪水が起こる毎度に河口近くに大量の土砂が堆積して、船の航行を妨げていた。更に急増するゴミ処理が人口島・埋立地の拡大に拍車をかけた。晴海と豊洲を結ぶ橋は、2006年まで春海橋(L=173m)が担ってきた。 2006年に開通した晴海大橋(L=580m)は、ママチャリ泣かせの橋と言われている。広い運河に(幅500)架かる橋は、船の航行を考慮して、最頂部の高さが水面から24mある。埋め立面からこの高さに到達するため、道路勾配がきついのだ。自動車では感じないが、歩行・自転車で渡橋するとよくわかる。 晴海大橋のわずか500m下流に同じような道路橋・豊洲大橋(L=550m)が架かっている。中央区と江東区の町名を冠する大橋が2つ並ぶ・・。豊洲大橋は、築地市場移転の中央卸市場への取り付け道路になる。晴海大橋からの眺めも良いが、豊洲大橋から見るレインボーブリッジの夜景はもっと美しいだろう・・。 写真-1 晴海大橋から晴海運河下流の夜景を眺める。 写真-2 レインボーブリッジの夜景。2年後には豊洲大橋からも夜景を見ることができるかも・・。 写真-3 有明体育館とパレットタウン方面の夜景。 写真-4 陽が沈んだ東京タワー方面の夜景。 写真-5 南東方角のタワーマンションと夜空を眺める。
2014年09月17日
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二つの運河に挟まれた東京都豊洲地区。大正末期から昭和初期にかけて生まれた埋立地。西側に晴海運河(川幅500m)、東側に東雲運河(川幅200m)が横たわる。運河タウンの象徴として、アーバンドック・ららぽーと豊洲もある。お隣の晴海地区と並び再開発の事業ラッシュで、地域は活況を呈している。 豊洲6丁目は、昭和33年に区画出現した街。豊洲とは将来豊かになることを願った名前だという。今年の3月頃から、築地市場を移転するために、工事が本格化した。大きく3工区だ。中卸売場棟、水産卸売場棟、そして青果棟。2016年3月になると、その巨大市場の全容が見えるはず。 晴海運河を挟んだ西側地区は、中央区晴海である。晴海5丁目が注目を浴びている。2020年東京五輪の選手村となる予定だから。晴海5丁目と豊洲6丁目を結ぶ「豊洲大橋」がほぼ完成している。隅田川橋梁から延びる環状2号線(オリンピックロード)の進捗を待っているようだ。 現在両地区の人口は3万7千人ほど。利便性やマンション建設状況をみると、今後の人口増が確実に見込める。東京一極化が更に進みそうだ。対極にある地方創生が難しくなる。地方における人口減少・超高齢化・仕事消失が、より深刻化する。「まち・ひと・しごと創生」の課題は重く、解決する良薬が見つからない・・。 写真-1 晴海運河(幅500m)の下流を望む。眼前の橋は豊洲大橋。環状2号線と結合する道路。 写真-2 晴海大橋から晴海地区を望む。豊洲大橋付近に東京五輪の選手村が造られる予定。 写真-3 東雲運河(幅200m)の下流を望む。新交通ゆりかもめの横断橋梁を観る。 写真-4 東雲運河に架かる木遣り橋から中央卸売市場を望む。ゆりかもめ線「市場前」駅も見える。写真-5 晴海2丁目より晴海運河に架かる晴海大橋を観る。
2014年09月15日
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日没が午後6時を切り、夜が長くなり始めた今日この頃。空気が澄んでくると、都会の夜景も悪くない。上野公園のオアシス・不忍池に寄り、ジョギングコースを2周散歩する。夜の写真は、やはりボート池と不忍弁財天とが主体となる。 不忍池は、周囲2km×面積11万m2の天然池である。これは、東京ドーム球場2個分の広さにあたる。この時期、池面積の8割はハスに覆われている。富栄養化の影響もあり、ハスの丈が2mを超えて息苦しさを感じる。唯一の水辺であるボート池は、18時に営業を終える。その後、静かな水面となる。 明治の中頃、不忍池では競馬が行われていた。左回りの1,600mコースがあったとされる。但し、競馬観戦は、ギャンブル性が低く、もっぱら上流階級の娯楽と社交場であった。現在のようにサラブレット馬が駆けるのでなく、騎手が誰で、どの部隊に所属する馬なのかが大切なのだ・・。 今の不忍池ジョギングコースは、1週約1.2km。動物園エリアがあるため、弁天堂中之島を通ることになる。ランニングする人・散歩する人・犬は、観光客・参拝者が居なくなる夕方または朝方が活動の場となる。夕方は蚊や虫が多い。デングウィルスが上野公園に広がらないことを弁天様にお願いして帰宅した。写真-1 営業を終えたボート池。弁天堂に夜の灯がともる。薄曇りの空に月は見えず・・。 写真-2 不忍池南側の夜景を望む。ボート池の面積は、不忍池全体の約3割。 写真-3 八角弁天堂と東京スカイツリーを望む。休んでいる漕ぎボートが独特の景観をつくる。 写真-4 蓮の葉群に浮び輝く不忍弁天堂。 写真-5 東京名所乃図に描かれている明治18年頃の「不忍池競馬乃図」。
2014年09月14日
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上野動物園に隣接して東照宮がある。パンダと神君家康公が並んでいるかのように思える。訪れる人は圧倒的に動物園が目当て・・。5年間の修理を経て、今年の1月に一般公開となった上野東照宮。家光の時代、「金色殿」と称された姿が蘇った。日本三大東照宮の一つとされる。 三大東照宮として、日光東照宮と久能山東照宮は誰しも認めるところ。しかし、3つ目になると、上野東照宮を含め複数あるのだ。鳳来山(愛知県新城市)、滝山(愛知県岡崎市)、仙波(埼玉県川越市)、世良多(群馬県太田市)などがライバルのようだ。何せ、全国に東照宮は500社以上存在するのだから・・。 上野東照宮唐門の前には、48基の銅燈籠が整然と並ぶ。その景観は神社で戦勝祈願をする出陣式を思わせる。銅燈籠のうち6基が徳川御三家、その他は有力大名が寄進したとされる。いずれも磨けば美しい装飾が浮き出そうだ。国の重要文化財であると同時に、銅の塊である。くれぐれも盗難に御注意を・・。 200基以上あるされる石の燈籠も、やはり諸大名が創建時に奉納したもの。参道脇にならんでいるさまは、武士が東照大権現(家康)を守っているかのようだ。江戸時代、譜代・外様を合わせて大名が270藩あったとされる。各藩はこぞって寄進したものと思われる。灯が入ると壮観で、幻想的な風景が出現する・・。 写真-1 上野東照宮の参道に並ぶ石燈籠。創建時、諸大名が奉納した石燈籠は200基を超えたという。 写真-2 上野東照宮唐門前に勢揃いした銅燈籠48基。国の重要文化財群が「銅々」と並ぶ。 写真-3 透塀(すきべい)と石燈籠。社殿を取り巻く透塀には300枚もの彫刻が施されている。 写真-4 寛永4年(1627年)に藤堂高虎の造った社殿を、家光が造営替えしたとされる。 写真-5 社殿の本殿。家康・家光・慶喜が祀られている。修理後、室内の立ち入りが禁止になる。
2014年09月12日
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地上100mに造られた屋上庭園は、スカイパークというらしい。今年3月にオープンしたアークヒルズサウスタワーの屋上である。10月末まで一般公開されている。但し、17時まで。芝の様子と上からの眺望はどうかと思い、立ち寄った。 アークヒルズ(ARK Hills)は、赤阪1丁目と六本木赤阪1丁目に跨った複合施設(1986年開業)。当時、民間による都市再開発事業では最大級だった。大規模都市開発の先駆けとなったようだ。「アーク」とは、A[赤阪]とR[六本木]のつなぎ目(Knot)に由来する造語。 アークヒルズが出来て28年が過ぎる。まだ開発継続中なのか。高さ206mを誇る「仙石山森タワー」が2012年完成。そして、サウスタワーが造られ地上20階に1100m2もの庭園が完成した。当該の屋上グリーン化は、これまでとは少し異なるようだ。自然の土壌を厚さ50cm程敷き詰めているので、昆虫も育つらしい。 アークヒルズのコミュニティ広場となっている「カラヤン広場」は、各種イベントが開催される。サントリー音楽ホール前に設置されているモニュメント「響」が異彩をはなっている。小生には、竪型レコード器械、or泥濘にハマった車輪のように見えた。芸術眼が無いので悪しからず・・。 写真-1 サウスタワー屋上庭園・スカイパークからの眺望。新宿方面を望む。 写真-2 屋上庭園と泉ガーデンタワー。 写真-3 屋上庭園の窓辺には寛ぎのスペースが用意されている。 写真-4 カラヤン広場とモニュメント「響」。 写真-5 六本木ヒルズから見た泉ガーデンタワー[2012年1月撮影]。
2014年09月04日
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東京ミッドタウン(赤阪-9)に、ゴジラのオブジェがお見えして人気を集めた。ミッドタウン地区における夏イベントにゴジラが担ぎ出されたのだ。土中から怪獣ゴジラが出現して、ビル街を襲うような光景だ。 東京ミッドタウンは、陸上自衛隊の駐屯地を再開発して、2007年に出現した。この地は江戸期・長州藩下屋敷、明治・日本軍の歩兵連隊駐屯地、そして米国の接収地などを経た要地である。タウン中核の地上54階・高さ248mのミッドタウンタワーは、東京都庁舎を抜きて都内最高層ビルである。 日本映画にゴジラが誕生して60周年に当たる今年、米国で「GODZILLA ゴジラ」が制作された。ハリウッド版ゴジラを1/7サイズにして、ミッドタウンに設置したのは何かの縁だ。高さ6.6mのゴジラの背中は、夜になると発光するらしい・・。 昭和29年の初作・怪獣「ゴジラ」は、観客動員960万人を集めたという。ビキニ環礁海底に眠る恐竜が、水爆実験で目を覚まし日本を襲うとのシナリオ。通常兵器で全く歯が立たず、新兵器「オキシジェント・デストロイヤー」でゴジラと当該兵器を葬る。そして60年後に、GODZILLAが米国西海岸で還暦復活した。 写真-1 地下から怪獣ゴジラが出現して、昔の陸上自衛隊本部を襲う・・ との空想をした。 写真-2 。ハリウッド版GODZILLAゴジラの表情。映画では「ムートー」と壮絶な戦いを繰り広げた。 写真-3 地下の空間施設から煙を上げて出現するゴジラのよう・・。 写真-4 東京ミッドタウンの商業施設「ガレリヤ」の吹抜け。 写真-5 高さ248mのミッドタウンタワーを国立新美術館から望む。
2014年09月02日
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荒川区と台東区を分け、隅田川にかかる白鬚橋。1594年に千住大橋が造られるまで隅田川を渡る中心的場所に橋が架けられた。白鬚橋の西詰には「橋場の渡し」の碑が置かれている。江戸期、今戸焼の窯が並び、瓦、瀬戸物、そして招き猫を量産した場所である。 白鬚橋の創架は、大正3年(1914年)で、近在の人々の募金によって建設された木橋ではあるが、長さ230mとなると壮観だ。しかし維持費を捻出できず、東京府に買い上げてもらう。その後、関東大震災を機に復興事業として、昭和6年に架け替えられた。長さ169mの力強い鋼製タイドアーチ橋に生まれ変わった。 橋場の渡しは「白鬚の渡し」とも称される。源頼朝が旗揚げの際に多くの船を集めて船橋を隅田川に初めて架けたとされる。20カ所以上あったとされる隅田川の渡しのなかで、最も古いのが橋場の渡し。蒸し暑い東京の夕刻、涼と景を求めて隅田川に屋形船が漂う。それらを連ねると船橋が出来るかもしれない・・。 白鬚橋の南1km、台東区今戸1丁目に今戸神社がある。大きな招き猫が拝殿に安置されているユニークな神社だ。円形の絵馬、いや「絵猫」が境内の大きな樹木をとり囲むように吊り下げられている。まさに「エン結びの木」のようだ。今戸焼の窯元は1軒を残すのみとなったが、ペアの招き猫がよく売れるという。 写真-1 白鬚橋から隅田川下流を望む。涼と景と食を求めて屋形船が漂う。 写真-2 昭和6年に完成したタイドアーチ橋の白鬚橋。現在、補修工事中。 写真-3 金運と良縁を招き寄せるという今戸神社。なで猫も人気だ。 写真-4 円形絵馬の円陣に囲まれる木。 写真-5 隅田川八景 今戸夕照 [広重2]。
2014年08月01日
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第37回隅田川花火大会は、好天のうちに花火2万発を打ち上げて無事に終えた。昨年の大会が突然の雷雨により、少し打ち上げて中止となった経緯がある。大会関係者は皆ホットしたことだろう。約96万の人出で賑わったという。浴衣姿で観覧する若い人が増えた気がする。 隅田川花火大会の打上げ会場は2か所。第1会場は桜橋と言問橋との間。第2会場が駒形橋と厩橋との間。小生は、「第三会場」と呼ばれる荒川区都立汐入公園へ夕刻出向く。TX線南千住駅から東へ1.2kmほど歩くと隅田川に至る。この場所はスカイツリー工事が進んだ頃から人気となる。ツリーまで約3kmの距離。 第1会場では恒例となった花火コンクールあった。夜空を彩る花火の美しさと技を競うものだ。参加者は、両国花火ゆかりの花火メーカー7社と全国を代表する3社の計10社。優勝したのは、山梨県の煙火本店。題目は「虹色のブーケ」で、賞金100万円を獲得した。暑い中の準備作業、お疲れ様、そしておめでとう。 中断されていた「両国川開き花火」が、隅田川花火大会と名を変えて復活したのが昭和53年(1978年)。以来、昨年の中止を除くと毎年実施されてきた。今年の足立区の花火大会(7/19)は、短時間の豪雨があったものの実行された。足元が泥濘、カメラ濡れて大変だったようだ。それに比べて墨田区と台東区は良かったね。 写真-1 第1会場から打ち上げられる花火と東京スカイツリーが額縁のように収まる景色。 写真-2 荒川区南千住の汐入公園近くのスーパー堤防に集まりだした観客。 写真-3 隅田川テラスに飾ってある両国の川開き花火の錦絵。 写真-4 帰宅ラッシュ前に戦線離脱して駅へ向かう。 写真-5 平成11年のふるさと切手「隅田川花火」。三連のアーチ橋は厩橋・・。
2014年07月30日
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北西方向に平行にツイン状に建ち、2つの旅客ターミナルビルを持つビッグバード。これらの建物の屋上一部が展望デッキして開放されている。航空機の離発陸シーンを目の前で見ることができる。第1旅客TM(JAL)は7階、第2旅客TM(ANA)は5階にある。2箇所を巡ると正反対の景色を楽しむ事ができる。 第1旅客TMと第2旅客TM間は、モノレールだと半円状に走るので約1km。しかし地下の連絡通路を利用すると徒歩10分程度だ。動く歩道が400m設備され、快適なトンネルである。平時、荷物を持って旅人は皆無。涼しくて静かな空間である。 二つの展望デッキの特徴を比較すると次のようだ。第1旅客展望デッキは都心に面しているので、都会の景色と富士山を望める。第2旅客展望デッキは海側に面していので、東京湾を行き交う船も見える。小さな子供に人気なのは、全天型フロアの広い第2旅客(ANA)のようだ。若い母親にやさしい空間のようだ。 先日(17日)、マレーシア航空の旅客機がウクライナ東部で撃墜された。今年3月にインド洋で不明になった機種と同一だという。ボーイング・トリプル7、機体重量約290トン。上空11,000mの飛行機を撃ち落とす地対空ミサイルが使用されたという。複数発射されたに違いない。想定外の事件・災害が多発する昨今だ・・・。 写真-1 第2旅客展望デッキからBO-787機(ドリームライナー)と東京湾を望む。 写真-2 第1旅客ターミナルビル7階の展望デッキの様子。 写真-3 第2旅客ターミナルビル5階の展望デッキの様子。 写真-4 第2旅客ターミナルビル展望フロアで飛行機を見続ける親子。 写真-5 第1ターミナルと第2ターミナルを繋ぐ地下連絡通路。
2014年07月21日
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羽田に国際空港ターミナルが開業して、3年半が過ぎた。7月18日、東京モノレールに新型車両が登場した。一日乗り降り自由の1dayパス(700円)が既に発売されており、3つの空港ターミナルビルを行き交い、食事その他の余暇を過ごす人が増えている。 東京モノレールの羽田空港国際線ビル駅(略して、TMR国際線駅)は、地下天空橋駅と地下新整備場の中間に位置する。地上部にでたモノレール区間約2kmは、多摩川の左岸沿いの高架を走っている。TMR国際線駅のプラットホームと出発ロビーと同じ階層にあるため、人と荷物の移動には大変便利だ。 羽田空港へのモノレールは、1964年東京オリンピック開催の23日前に開業した。伝説の突貫工事だったが、以後50年間走り続けている。開業当初の運営は日立グループが担った。その後、交通安全対策と橋脚・桁補修費の増加に伴い、鉄道会社に経営が移る。現在JR東日本の株式保有率は79パーセントである。 TMR国際線駅の上り線ホームには、小さな「展望デッキ」がある。東京湾アクアラインの海ほたるや風の塔をバックに低空の飛行機がよく見えるのだ。写真撮影の人が増えたため、昨年からホーム先端の一部を「フォトスポット」として開放した。電車が行き交うホームなので、マナーを守って安全に撮影したいものだ。 写真-1 東京モノレールの羽田空港国際線ビル駅から東京湾とモノレール車を望む。 写真-2 A滑走路へ向けて着陸する飛行機。風の塔と海ほたるの見えるビューポイント。写真-3 地下の天空橋駅から登ってきたモノレール。 写真-4 TMR国際線駅上り線ホーム先端部の「フォトスポット」。 写真-5 出発ロビーと同一階層のTMR国際線駅のホーム。
2014年07月19日
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海老取川と会する多摩川河口に五十間鼻(約50m)がある。川の流水を制御するための沈下堤防で、「カメノコ」と呼ぶ人もいる。潮の流れが出会う場所は、魚も集まるようで「鼻」の上で釣りをする人を見かけた。ライフジャケットを身に付けたほうがよいのだが・・。 海老取川は多摩川水系に組み込まれているが、港湾区域と河川区域とが重複している。運河の役割がある。北は昭和島で京浜運河と接続するし、南で多摩川口へと繋がっているのだ。東京都側の京浜運河と神奈川県側の京浜運河とを結ぶ水上交通の要所・水路である。 江戸期、川崎大師を参拝する近道として「羽田の渡し」があった。現在その付近には、大きな橋梁が二つ架かっている。ひとつは産業道路を通す大師橋。二つ目の橋は、首都高速・横羽線である。川の南側で二つの橋が交差する風景がある。昭和14年大師橋開通後、羽田の渡しは廃止された。 五十間鼻に小さな水難者慰霊碑が建っている。東京湾の潮目によっては、沖合から漂流物が流れ着く場所だという。昭和20年3月の東京大空襲の際、多数の水難者が漂着した場所だ。無縁仏堂と平和の大鳥居には、悲惨な歴史を繰り返してならない・・との願いが込められている。 写真-1 多摩川と海老取川の合流点。五十間鼻と水難者慰霊碑。 写真-2 旧羽田渡しの近くに架かる二つの橋。東京と神奈川を結ぶ幹線道路。 写真-3 羽田第一水門から多摩川河口を眺める。 写真-4 羽田空港A滑走路に着陸する飛行機。 写真-5 名所江戸百景「羽田の渡し弁天の社」。
2014年07月18日
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羽田の海老取川を一跨ぎするガーダー橋がある。電車が走っても違和感を与えない鉄橋・天空橋だ。穴守稲荷神社から歩いて、この橋を渡ると地下に二つの天空橋駅がある。京急電鉄と東京モノレールの各駅がある。そして地下道で繋がっている。 天空橋は錆びついた橋のように見えるが、平成5年(1993年)に架けられた古くない橋だ。京急電鉄空港線の穴守稲荷と羽田(現・天空橋)間の開業の際、モニュメント的に作られた。その5年後平成10年には、現在の羽田空港国内線ターミナルビルに伸びる。品川-空港ビル間を15分(特快エアポート)で結ぶ。 京急電鉄空港線と東京モノレール線が地下で鋭角に交わる地下天空橋。京急線は、後施工なのでモノレールより深い所を走っている。20数年前までの旧羽田空港駅が天空橋駅。当時のターミナルビルは、B滑走路南端辺りに位置していたと思われる。 武骨な天空橋の袂に新しい船着場が完成している。平時はクルーズツアー、災害時には水上輸送基地になるという。屋形船も天空橋の下を往来する。天空橋と云うからには、この橋の色合いを少し変えたらと思う。上層雲を思わせる「すじ雲」のようにデザインしたら面白いのだが・・。 写真-1 天空橋を潜る屋形船。橋の下流側に新しい船着場が造られた。 写真-2 錆び付いた景観の天空橋。高欄に星灯を設置したら夜間歩き易くなるかも・・。 写真-3 天空橋を潜る東京モノレール。天空橋から海老取川と稲荷橋を観る。 写真-4 力強いプレートガーダーで川を一跨ぎ・・。 写真-5 昔空港敷地内にあった穴守稲荷・大鳥居。A滑走路に降りる飛行機が見える。
2014年07月15日
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堤防の穴に開いた害から身を守ること・・が転じて信仰になった神社が大田区羽田にある。神社の神使にキツネ(狛狐)を配する穴守稲荷神社である。親子の狐像が参拝者を出迎える。江戸後期に羽田村沿岸の干潟を干拓して、新田開発する過程で作られた比較的新しい神社。いっとき全国に200社があったという。 環八通りを通す穴守橋から西300mの住宅街に建つ穴守稲荷神社。神社の奥乃宮には、御神砂の「あなもり砂」と小袋が置かれ、持ち帰りできる。小生もスプーン大さじ一杯分を頂き、自宅の玄関に蒔いた。ちなみに海老取川に架かる穴守橋を渡った東詰は、羽田空港1丁目である。 穴守稲荷神社は、終戦直後GHQの命令で、住民約3000人と共に現在の場所へ移築された。「羽田たいへん記」の芝居で取り上げられた大鳥居が、15年前(新滑走路建設に伴う)にようやく、海老取川河口に移設された。2007年頃まで柵に囲まれた存在だったが、今は自由に大鳥居をくぐれるようになった。 その鳥居は「平和の大鳥居」と命名され、東京湾およびその先の世界を見守っている。ほぼ東向きに建っているので、東京都における初日の出を観る名所ともなっている。更にその場所から羽田空港を離発着する飛行機も眺めることができる。 写真-1 親子の狛狐が見張る穴守稲荷神社。創建が文化元年(1818年)干拓事業の守り神。 写真-2 朱色の鳥居列の奥に奥乃宮があり、招福の砂を頂ける。 写真-3 海老取川に架かる穴守橋を観る。モノレールが「穴」に潜る地点。 写真-4 海老取川河口左岸に建つ平和の大鳥居。 写真-5 御神砂の入った箱と小袋。商売繁昌、病気平癒などに利く。
2014年07月14日
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不忍池がハスの葉で埋まる上野の夏。台風一過、熱気団が押し寄せてきた。「上野のお山」の西方にある不忍池は暑くなると、朝早くから人と犬で賑わう。三つの池を束ねるように、池の中央部に不忍弁天堂がある。弁天さんと親しまれ、煙が絶えない御堂。三つの池は、南の蓮池、北の鵜の池、そしてボート池である。 今年4月に蓮見茶屋近くに浮き桟橋ができた。蓮観察デッキと呼ばれる。デッキに囲まれエリアには5種類のハスが植えたと看板があったが、観察できなかった。不忍池の蓮は、「大賀蓮(古代蓮)」がほとんど。鮮桃色の大輪は、大きな葉に隠れるもの、葉群から頭を出すもの色々だ。見ごろはこれからである。 江戸期の不忍池は、藍染川が流れ込み、忍川となって隅田川に流れていた。途中、武家屋敷内の堀に引かれ、下水道の役割をしていたという。延宝5年(1677年)の不忍池に蓮があったとされる。しかし、戦時中は埋め立てられ、田畑として食糧を生産した歴史がある。 暑い空気と大きな災害をもたらした台風8号。梅雨明けは報じられていない。7月として最大級といわれ台風「タヌキ」に対して、特別警報が発令された。沖縄では、発令-解除-発令と二度に渡った。特別警報は50年に一度の「非常事態」宣言なので、沖縄は百年分の警報を消化したことになるのか・・。 写真-1 上野不忍池に新たに設置された蓮観察デッキ。 写真-2 蓮池はハスの葉で埋まっていた。日差しが強くなると木陰から観賞・・。 写真-3 鮮桃色の大輪を咲かせた大賀蓮と弁天堂。 写真-4 月の松から不忍弁天堂を見る。 写真-5 東京名所四十八景「不忍弁天はす取」。
2014年07月13日
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東京港区を通る環状2号線の真上に超高層ビルが6月11日にオープンした。都内では2番目の高さを誇る虎ノ門ヒルズ(247m)である。ビル建設工事は約3年で完成したが、幹線道路と巨大ビルを併せもつ開発事業は足掛け約12年間を要した。 虎ノ門ヒルズは、地上52階建、ホテル・住居などが入った複合施設。築地虎ノ門トンネルの上部スペースは、ビル前芝生公園として整備された。平日ビジネスマンが憩う場所を提供している。このオーバル広場は、透明な屋根もあり、各種イベントに活用される。オーバルとはラテン語で「卵形」を意味するという。 ビルの1階から4階は、レストランを中心とした店舗25店が営業。入口から続くアトリウムには、マスコットキャラクターの白いドラエモンが立っている。100年先の東京からタイムマシーンに乗ってやって来たという「トラのもん」である。人手不足の未来社会から舞い込んだネコ型カイゴロボットのようにも思えた。 眺望が良い47階から52階は高級ホテルの客室で、37階がスパだという。米国のハイアットホテルが経営する。一泊1名の標準宿泊料金は、4万円から5万円とされる。国内外の富裕層が対象なのだろう。庶民は上層の天界には縁がなく、地上の新虎通りに出店するカフェやケーキ屋が気になる・・。 写真-1 新虎通りから虎ノ門ヒルズを見上げる。都内で2番の高いビル(247m) 写真-2 築地虎ノ門トンネルの出入口。ビルの地下には駐車場(540台)がある。 写真-3 トラ模様を意識したエレベーターホールの壁。 写真-4 オーバル広場から東京タワーが見える。 写真-5 タケコプター・「トラのもん」がエスカレーター傍で飛んでいた。
2014年06月23日
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東京に夏を告げる日枝神社の山王祭(さんのうまつり)。主行事となる神幸祭(例祭行列)は、西暦偶数年が日枝神社。 西暦奇数年が神田祭りとなっている。日枝神社は、国会議事堂に近い永田町の丘にある。運動不足の国会議員さんが車を使用せずに参拝できるようにエスカレーターが設置されている。 神幸祭のあった6/13は都内に居たが、終日仕事で見物出来ず。例祭行列は日枝神社を出発して、皇居周辺を経て日本橋を折り返す20kmコースを練り歩く。ハーフマラソンに匹敵する。時代めいた衣装を身につけているので、休憩の多い行進となる。翌日、境内へ出向き、山車などを拝見した。 境内中央には、「茅の輪」が設置されていた。茅の輪は、夏本番を迎える前に行う「大祓い」が元だ。身体の穢れを取り除き、無病息災を祈るのだ。外国から見えた観光客は、珍しがって何度も輪をくぐり、写真に収まっていた。 祭り期間、山車庫の扉がオープンになっており、「諌鼓鶏(かんこどり)の山車」を近くで観ることができる。この山車は江戸時代、45台の行列の先頭を務めた。お上のご政事で世は安泰、諌鼓も鳴らず鶏も平穏に止まっているとの意味合い。2番目の山車は、「幣猿の吹貫」とされていたようだ。 写真-1 表参道から日枝神社神門を観る。写真-2 大祓いが行われる境内。茅の輪くぐりが設置されていた。 写真-3 一之宮鳳輦(ほうれん)と御幣をかつぐ猿の山車人形。 写真-4 山車庫に収納されている諌鼓鶏の山車。 写真-5 江戸期・天下祭といわれた「山王御祭図」。
2014年06月19日
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東京臨海副都心を眺める施設として、テレコムセンター21階の展望台がある。この通信サービスビルは、フランスの凱旋門をイメージした高さ99mの建物。屋上にはパラボナアンテナが設置され、衛星通信の地上基地の役割がある。実際のエトワール凱旋門(高さ50m×幅45m)の2倍の規模だ。 ゆりかもめ新交通線(延長14.7km)の中間地点にテレコムセンター駅がある。新橋から7つ目、豊洲から8番目の駅にあたる。ATOによる無人自動運転を始めて久しい。車両最前列は見晴らしが良いので、外国の観光客に独占されることが珍しくない。 東京都では7つの副都心がある。その第7番目が臨海副都心で、平成7年(1995年)に制定された。同年にテレコムセンタービルも竣工した。臨海副都心は、4地区(台場、青海、有明北・南)から成る442haのエリア。現在の就業人口が約5.5万人。将来、9万人が働き、5万人が住む町にすること当面の目標のようだ。 テレコムセンター展望台は、日本夜景遺産に認定されているので、都内観光のコースを組むツアーもある。日没にもなると大型の観光バスがやって来る。東京ゲートブリッジを潜る船舶や羽田空港を発着する飛行機が見られる。備え付けの望遠鏡を見ながら、お喋りを続けるカップルも多い・・。 写真-1 テレコムセンター展望台より副都心・有明方面を望む。パレットタウンと大観覧車がすぐ近く。 写真-2 東京ゲートブリッジを潜り、出港・旅立ちの貨物船。写真-3 夜の恐竜橋。方角が東南東なので、日の出方向にもなる。 写真-4 黄昏どきの台場レインボータウン。レインボーブリッジと東京タワーとを見る。 写真-5 青海の凱旋門をバックにコスプレ撮影会が行われたようだ。
2014年05月22日
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浅草に初夏を呼び込む三社祭(さんじゃまつり)。浅草っ子は、何と早起きなのだろうか・・。3日目(18日)、祭りのクライマックスとなる「宮出し」見物に出かけた。宮出しは、浅草神社の本社神輿三基(各重さ1トン)を担ぎ出すもので、3日間祭りの中で最もエキサイティングだ。 朝6時の浅草寺境内周辺は、すでに担ぎ衆と見物客で混雑していた。一般の見物人は、暗いうちから場所取りをしなければ、勇壮な宮出しを見ることができない。脚立持参の人が多い。準備不足の小生は遠くから眺めて、掛け声を聞くのみ。警備厳重の二重バリケードの中で神輿部隊が犇めいていた。 隅田川から観音像を引き上げに関与した3人が祀られている浅草神社。通称、「三社権現」または「三社様」と呼ばれている。普段、観音堂の浅草寺(せんそうじ)本堂の方が注目されているが、この三日間については浅草神社が主役である。 半纏とフンドシ姿の担ぎ手により、激しく揺すられる三基の神輿。境内を複数の神輿と大勢の担ぎ手が練り歩くとトラブルに発生する場合がある。行き過ぎた行為や都迷惑防止条例に抵触する事案が過去に起きた。宮出しが中止になった歴史もある。ここ3年規制強化で、何とか「囲いの中の祭り」が続いている・・。 写真-1 二天門から浅草寺境内を覗く。バリケードの中で神輿が揺れていた。 写真-2 朝6時前に集結した担ぎ衆。弁天堂から二天門へ続く路地風景。 写真-3 柔らかい朝の光を浴びる宝蔵門と五重塔。祭りの朝は快晴・・。 写真-4 8時過ぎの浅草神社鳥居前。三社大権現の幟が新しい。写真-5 宮出し後、観光客で賑わう宝蔵門と煙ぶる浅草寺観音堂。
2014年05月20日
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東京都港区でミニ「マッカーサー道路」が先日開通した。都道環状第2号線の一部で、新橋-虎ノ門(約1.4km)間のトンネルである。平成元年に法改正がなされ以来、20年以上の歳月を費やした。ビルの真下や建物を貫通する道路が認められたが、幾度も計画が練り直され今日に至る。 虎ノ門側のトンネル入口で行われた式典には舛添都知事が参列した。このトンネルの頭上に高さ247mの虎ノ門ヒルズが聳える。都内で2番の高さを誇る複合ビルになる (6月予定)。このように道路がビルに交差する例が大阪にある。5・6階を道路が通り抜ける大阪市のゲートタワーである。 地下に道路を通し、敷地的に余裕できた地上部は、幅13mの歩道が造る計画となっている。都知事は、パリのシャンゼリンゼ通りのようになることを夢見ている。東京一美しい通りにするには時が掛かりそうだ。ビル群が造り出す景観、看板類、電柱や架空線をどうするかを見守りたい・・。 国道1号線・虎ノ門3丁目交差点と第1京浜道(国道16号)とを結ぶ築地虎ノ門トンネルは、2020年の五輪・パラリンピック開催時、都心と競技会場を結ぶ重要にルートになる。地上部の「新虎通り」がマラソンコースになる可能性もある。「選手を持つよ・・オオ シャンゼリンゼ・・」とザ・ピーナッツが歌ったような気もする・・。 写真-1 虎ノ門3丁目交差点から築地虎ノ門トンネルを観る3月29日15時開通した。 写真-2 トンネルの頭上に超高層ビルが聳える。6月オープン予定の虎ノ門ヒルズ。写真-3 新虎通りの北歩道。都内最大級の歩道が出現する。どのような景観になるのだろうか。 写真-4 新橋側のトンネル出入口部。環状第2号線は第1京浜を横断し、新幹線の下を通す。写真-5 愛宕神社境内からは虎ノ門ヒルズが見える。
2014年04月02日
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上野清水堂(きよみずどう)は、皇居の北東約1里の距離にある。江戸城の鬼門を守護するために、寛永8年(1631年)天海僧正が建立した。京都の清水寺を模倣した舞台を持つお堂である。千手観音を祀っているので、観音堂と親しまれている。上野彰義隊の戦で焼失せずに、国の重要文化財となっている。 この清水舞台からは、不忍池、中島弁財天、本郷台地の武家屋敷が一望できたという。広重は江戸名所百景において春と秋の2作品を描いている。観音堂は上野公園の南面にあり日当たりが良い。朱色の舞台が青空に映える。また、「月の松」が植えられ、昔の名所を演出している。 不忍池といえば蓮(ハス)である。不忍池の南側に蓮観察デッキがほぼ完成した。野外音楽堂と蓮見茶屋の近く。今年は、より近くで蓮を観ることができそうだ。不忍池の蓮は江戸中期から夏の涼みで、賑わったとされる。また、この場所で振舞われる「蓮飯」は、江戸っ子に大人気だったという。 公園から街を望む場所に西郷隆盛銅像が清水堂を背に立っている。明治新政府・陸軍大将とは異なる西郷さんが愛犬と上野公園を散歩している。両者の視線は、皇居の方角を向いていない。遠く南南西を視ている。 東京湾かその先の伊豆大島を・・。彼は奄美大島へ流され、大島吉之助と名乗った時期もあった。 写真-1 上野公園南端に建つ清水観音堂。舞台下には月の松が植え、江戸名所を思い出させる。 写真-2 観音堂下の早咲きの桜に人が集まっていた。写真-3 夏が来ると不忍池いっぱいに蓮が広がる。観察デッキが完成した。 写真-4スカイツリーを左手にし、遠くを眺める西郷さんと「つん」。 写真-5 広重の浮世絵が掲げられている上野清水観音堂。
2014年03月15日
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坂の湯島、池の亀戸と言われ、坂の上にある湯島天神。湯島台地の東突端に位置しているため、昔は眺望が素晴らしかった。湯島天神の境内へは、東西南北から入場できる。このうち東側(御徒町方面)から参詣すると男坂を登り、北側(不忍池方面)から参詣すると女坂を登ることになる。 2000年に湯島天満宮へと改称されているが、旧名の湯島天神と呼ぶひとは多い。境内には約300本の梅が植えられているが、8割が白梅である。梅まつり期間中の土・日曜日午後から女性陣による「湯島白梅神太鼓」が披露されるという。小生は未だお目にかかったことはない。 湯島地区は防災地区に指定され、一般に木造建築物を造るができない。しかし平成7年(1995年)、土蔵造りの老朽化した社殿を総檜造りに建て替えた。湯島天神は、関東大震災と東京大空襲からの焼失を免れた。旧拝殿は屋根が落ちなかったので、ゲンを担ぐ受験者も多かったという。 湯島天神は、近くに上野駅や地下鉄駅があり交通に便利な処ところ。特に梅が咲きはじめると賑やかになる。神前結婚や茶会など華が集まる丘だ。国公立大学合格発表も相次いでいる。合格報告に坂を登る若者でいっぱいになることを願う。写真-1 東側の急な坂は男坂。ビルが建ち並ぶ以前は朝日を拝むことができた。 写真-2 緩やかな女坂は梅を観るのに適している。写真-3 南参道に立つ青銅製の鳥居。寛文7年(1667年)に造られた。 写真-4 白梅に白無垢の着物姿が似合う。 写真-5 境内で猿をまわして、健康を願う。
2014年03月13日
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隅田川の向かいに位置していたので向島。向島の東地区に1ヘクタールほどの公園・百花園がある。隅田川まで約500m、対岸は浅草地区である。一度はこの花園を訪れ、団子や餅を食べた経験を持つ都民が多いと思う。 百花園は江戸の文化年間、民営の花園として開園した。360本の梅林から始まったという。明治維新後、花園は自然災害、火災などの災難に遭い荒廃する。しかし昭和24年に都営公園として再開した。現在、梅の木は60本ほどに減っているが、萩のトンネル、藤棚があり、訪れる人の目を楽しませてくれる。 庭門の連柱に7文字熟語が書かれている。左柱に「東西南北客争来」、右柱に「春夏秋冬花不断」とある。潜り抜ける頭上には、「花屋敷」の扁額がある。蜀山人の書とされている。百花園とは、四季百花の乱れ咲く園・・、百花にさきがけて咲く梅・・から来たとの諸説がある。 園は隅田川に近く低地であるため幾度も洪水被害に遭う。荒川放水路が完成して、向島の浸水は激減した。火災被害の最たるものは、昭和20年3月の東京大空襲だ。園はもちろん、周辺も焼け野原。だが花に寄せる人の想いは強く、直ぐに復興園地として復活する。東日本大震災でも花で癒やされた人は多いと思う・・。 写真-1 百花にさきがけて咲く梅が由来の百花園。梅60本のうち半分以上は白加賀(しらかが)。 写真-2 向島百花園からは東京スカイツリーが見える。紅梅は唐梅(とうばい)という品種。 写真-3 日和が良いと団子か餅がほしくなる。写真-4 漢字でおもてなしをする庭門。左右の柱と軒下に・・。写真-5 御成座敷の庭先に対で植えられている紅白の梅。
2014年03月11日
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風が香り、匂い立つ亀戸天神社。露店の営業開始前に境内に入ると淡い梅の香りが漂う。満開とはゆかないが観梅できた。東風は随分前に吹いたが、春を実感できない。亀戸天神名物「五賢の梅」の咲きぶりも今一歩であった。 亀戸天神は、五月の節句に垂れ下がる藤の方が有名である。その準備と手入れが行われていた。しかし梅の名所でもある。紅梅と白梅がギラリー風に植えられている。紅梅50本+白梅200本の計250本が、心字池の周りに配置してある。 69年前の3月10日、東京大空襲で焼失した亀戸天神社。戦後、旧加賀藩ゆかりの人々が中心となり復興に取り組み、梅も植樹して今日に至る。梅咲き誇る時期に、B-29爆撃機か襲来したことを再認識。焼夷弾を抱えた約300機は、深川・本所・浅草・日本橋を標的に約1,780トンを投下した。一日で10万人が死亡・・。 本堂までの参道は3つの橋からなっている。先ず、男橋(太鼓橋)の頂上で東京スカイツリーを望む。次に平橋で心字池の亀と花を愛でる。そして女橋を越えて、未来への希望を願いつつ参拝する。「三世一念」の道でもある。 写真-1 亀戸天神社の境内より東京スカイツリーを望む。写真-2 心字池の周りには、梅や藤が植えられている。 写真-3 生きてきた過去を想う太鼓橋(男橋)。 写真-4 未来の希望を願う太鼓橋(女橋)。 写真-5 花見をする亀サン。早く暖かくなってほしいよ・・。
2014年03月09日
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梅の季節、都内の天満宮三社を巡った。亀戸天神から湯島天神へ、さらに上野不忍池を半周して五條天神社へ足を運んだ。亀戸天神と湯島天神とは東西に約3.5km離れている。その中間に位置するのは、隅田川に架かる厩橋だ。いずれの天満宮も名所江戸百景に描かれ、庶民が親しんだ場所である。 日本では天神様を祀る神社を天満宮と呼び、菅原道真を祭神としている。道真の死後に送られた神号の「天満(そらみつ)大自在天神」から来ている。生前の道真公が梅の花を大そう好んだことより、天満宮には梅が欠かせない。 亀戸四丁目の交差点(明治通りと蔵前橋通りと交差)に、亀戸梅屋敷なる休憩所と店舗を兼ねた一画が1年前にオープンした。広重も描いた「臥龍梅」と言われた巨木があった名所にあやかっているそうだ。野外ギヤラリーには現代浮世絵が4点展示されていた。 今年の梅の咲き具合は、大雪のために遅れている。開花が早めだったので、長い期間観ることができる。気象庁は東京のさくら開花予想を先日発表した。予想開花日は3月31日(昨年より15日遅れ)、予想満開日は4月6日という。2分咲き程度で、淋しい入学式・入社式を迎えそうだ。 写真-1 拝殿両脇の紅白の梅が5分咲き程度の亀戸天神。 写真-2 合格祈願の絵馬がたわわな湯島天神。祈願絵馬の数は亀戸天神より多い。 写真-3 上野公園内の。薬祖神と道真公とを祀る。右隣りに花園稲荷神社もある。 写真-4 五條天神社の左隣に建つ舞殿。枝垂れ梅は5分咲き程度。 写真-5 亀戸四丁目交差点にオープンした亀戸梅屋敷。
2014年03月07日
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先日、知人が東京マラソンに参加したので「応援介護」に出向いた。レースで最も苦しいと言われる35km付近で待つことにした。場所は入船橋交差点。選手を正面に見ることができる。新大橋通りと佃大橋通りの交差点だ。地下で有楽町線と日比谷線が交差する場所。地下鉄を利用するのに便利・・。 アジア大会の日本代表選考会を兼ねる東京マラソン2014。大会はケニア・エチオピア勢の圧倒的な強さと速さを見せつけたレースだった。優勝はチェンバ選手(ケニア)の2時間5分42秒。日本人トップは約2.5分遅れで松村選手(三菱重工) の第8位。途中、小雪も舞ったが風のない好条件だった。 昨年の四月ボストンマラソン大会で発生した爆弾テロを警戒して警備が強化されていた。動員された警察官が5,500人。DJポリスも出動したらしい。監視カメラも11か所新設された。また爆発物処理班や化学防護隊も待機していたという。 フルマラソンに出走した約3万6千人の完走率は96パーセント。また160万人のひとが東京マラソン・祭りのイベントに足を運んだという。小生は「ららぽーと豊洲」で一休みした後、最後の交通規制解除車を36km地点で見送った。6年後の東京五輪には、ボランティアで沿道整理員をしたいと想ったが・・。 写真-1 35km地点付近の入船橋折点。トップ集団はアフリカ勢。ゼッケン7番が優勝したチュンバ選手。写真-2 入船橋付近の沿道応援状況。地下鉄・新富町駅の近く。この後佃大橋への登りが続く。 写真-3 豊洲の晴海通りの給水所。ここまで来れば、ゴール間違いなしだね・・。写真-4 春海橋の手前、あと5km地点。スカイツリーも応援しているよ・・。写真-5 レースも終盤、「不審者」がいないかを見守るAED特別救護隊。
2014年03月01日
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東京スカイツリーは、背が高くスリムな体型である。しかし、降雪する度に落雪対策に苦戦している。先日の大雪(8日)に際しては、関係者130人がタワーの積雪監視や雪払いに動員されたという。天望から滑り落ちる雪氷片は、時にはハラハラと舞う。「雪涙」と命名してみた。 落雪対策としては次のような措置が取られている。(1)タワーに融雪用電気ヒーターを設置。(2)監視カメラ60数台で積雪状況を監視。(3)地上では落下予想エリアに通行人が立ち入らないよう誘導・警備員を配置。 他のタワーからの落雪被害は聞いたことがない。先輩格の東京タワーや雪国の札幌テレビ塔はどうなのか。東京タワーは、末広がり体型なので、落下途中に鉄骨にぶつかり小片雪になるのだろうか。札幌テレビ塔では、雪質が異なることや大通り公園内に建っているため問題ないのであろうか。 これまでスカイツリーからの落雪で人身事故は起きていない。住宅の屋根や車への被害は数件あるようだ。設計段階での落雪に対する危機意識が足りなかったと言わざるを得ない。人身事故が起きない内に、より有効で確実な方法により「雪涙」を止めてほしいものだ・・。 写真-1 北十間川の上流(東側)からスカイツリーを望む。 写真-2 隣のビル屋上からもタワーの積雪状況を監視できそうだ。 写真-3 積雪した隅田川テラスからスカイツリーを望む。 写真-4 雪見のタワー、隅田川公園にて。 写真-5 雪の駒形堂。樹に葉が無い時期に見られる冬景色。
2014年02月11日
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記録的な大雪になった首都圏。東京の積雪量27cm(8日23時)は45年ぶり大雪。千葉市でも、統計記録を塗り替える33cmの積雪となった。都知事選最終日を襲った暴風雪。投票にどのように影響するのだろうか。 そんな中、浅草寺へ雪景色を見に相棒と出かけた。前日の嵐は去り、天気は回復し過ぎた。気温がグングン上がり、午前9時には5℃を超えた。寺院の屋根の雪は、殆ど滑り落ちていた。軒下は雨水状態で傘がほしくなった。 この日は休日とあって、9時を過ぎると団体客が押し寄せた。海外の観光客で境内は賑わう。浅草寺でこれほどの雪はめったに見られない。思い出深い旅行になったようだ。 空のダイヤはストップ。成田空港では6000人以上が空港内で一夜を過ごした。首都高道路は閉鎖が続いた。1都7県の雪による事故は、約600人が怪我をしたという。将来、大雪の東京とソチ五輪開催とを同時に思い出すだろう・・。 写真-1 浅草寺の雪景色。早朝からの除雪作業で参拝客をオモテナシする。 写真-2 境内に造られた雪だるま。本堂の屋根には雪がなかった。写真-3 紅梅が咲き始めた。写真-4 濡れ仏(勢至菩薩)とスカイツリー。
2014年02月09日
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上野公園は樹木多く、庶民が自由に過せる都会のお山。公園内の周りを見て歩いた。このお山は、江戸期にはほぼ全域が寛永寺の旧境内で、その面積は30万坪以上だった。その根本中堂は、間口45m×高さ32mを誇り、現在の大噴水公園にあったという。彰義隊の戦の際に消失した。 公園西側の上野東照宮は、長らく改修工事であったが、この正月から拝観可能となった。拝殿は目映いばかり色彩で蘇った。冬枯れのこの時期、境内から高さ32m寛永寺五重塔を観ることができる。「乱世を酌まむ 友あまたあり・・」の川柳碑(尾藤三柳)が目につく。 清水観音堂も寛永寺の所有だった。堂舞台からは月の松を通して不忍池弁財天を拝むことができる。その不忍池の蓮見茶屋付近では、浮桟橋(蓮観察デッキ)設置工事が進んでいる。花見の頃までには工事は終わるらしい。蓮の花をより近くで楽しめる。睡蓮を観に西洋美術館へ・・。 国立西洋美術館ではモネ展「風景をみる眼」が3月9日まで開催。約130年前のフランス風景を楽しむ。「サン・ラザール駅」が良かった。入口広場(前庭)には露天彫刻が並ぶ。この彫像は大地震にも倒れないように免震台の上にあるという。免震台から弓を放つヘラクレスが可愛く見えた。写真-1 大噴水池と東京国立博物館。かつて寛永寺の根本中堂と本坊が建っていた。 写真-2 改修工事を終えて、拝観が可能となった上野東照宮。 写真-3 動物園内に建つ寛永寺五重塔。東照宮の参道からの景色。 写真-4 清水観音堂の月の松から見た不忍池弁財天。写真-5 国立西洋美術館の前庭。弓のヘラクレスと地獄の門を観る。
2014年02月06日
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上野不忍池近くの丘の上に「旧岩崎邸庭園」がある。明治29年に三菱第3代社長・岩崎久弥が西洋館と撞球室を建てたもの。戦後GHQに接収されていたが、昭和27年に返還された。入館料400円で拝館できる。室内は撮影禁止である。 庭園の場所は池之端1丁目だが、四方をマンション・ビル群に囲まれ、不忍池側からは見えない。明治の頃は、この洋館バルコニーから湯島天神や上野のお山が良く見えただろう。岩崎家の迎賓館のように使われたという。設計者は、創成期の日本人建築家を育成した「コンドル先生」。 庭園は芝生が主体の広場。関東大震災では、屋敷と広場を開放され、2,000人以上被災者を援助したという。近くのニコライ堂は、遺体安置所となった。ニコライ堂や鹿鳴館の設計も、前述の英国人のジョサイヤ・コンドル氏である。 庭園外壁は古く朽ちた赤レンガ造りである。壁の各所痛みが激しく、コンクリート等で補修されている。北側に丘に登る坂道がある。さだまさしが歌った無縁坂だ。「忍ぶ 不忍 無縁坂 かみしめる様な・・」 写真-1 明治29年に造られた「旧岩崎邸庭園」。設計者はコンドル先生・・。 写真-2 憧球室(ビリーヤード)から白い洋館を観る。写真-3 イオニア風の柱が並ぶ2階バルコニー。ビルがなければ湯島天神が見えたはず。写真-4 庭園の外壁通り。奥へ200m歩くと無縁坂にぶつかる。写真-5 庭園の南壁。台風の際には風除けになるが・・。
2014年02月04日
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45年前、火炎ビンと放水銃が錯綜した東大安田講堂。1970年代の大学紛争と安保闘争の波を被ってきた団塊世代にとって、安田講堂は特別の想いを掻きたてる建物である。1691年1月19日にバリケード強制解除後、約20年廃墟同然であったが、昭和63年に修復工事が成され今日に至る。 安田講堂は関東大震災による中断を経て、大正14年(1925年)多くの努力の末に完成した。高さ39.7m、7階建てのタワーを中心にしたシンメトリックで、安定感のある建物。収容人数が1,144名の大講堂は、東大紛争時に集会・デモのエネルギーが充満した砦であった。 歴史的事件となった安田講堂事件は、始めは医療制度に不満を持つ学生との交渉トラブルだった言う。紛争は1年後には、8,500人の機動隊導入と371名の学生逮捕者を出すまでにエスカレートした。以後、全共闘・ゲバ棒・ヘルメットという言葉が「流行」した。 オープンキャンパスの構内には、ゴシック建築の建物がずらりと並ぶ。建物が無い処に三四郎池がある。この池も前田家の庭園跡。火除け地と防火用水池の役割もあった。昼食は安田講堂地下の生協食堂を利用した。名物の赤門ラーメンと男爵芋コロッケとで計490円。ご馳走さまでした。 写真-1 左右対照の東大安田講堂。耐震工事に取り掛かっていた。 写真-2 医学部2号館(本館)も左右対象。半円アーチ数は奇数に配列。写真-3 ゴシック建築のビル街のようだ。総合図書館前と文学部3号館に続く通称「合格通り」。 写真-4 オープンスペースの三四郎池。防火上の価値があるとされる。 写真-5 安田講堂地下の食堂で昼食。休日なので一般客がほとんど・・。
2014年02月02日
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上野の黒門から本郷の赤門までウォーキングした。都内に唯一現存する江戸期大名屋敷の門がこの二つの門とは、淋しい限りだ。上野公園北端の東京国立博物館から東大本郷キャンパスまでの道中には、旧跡、名所がある。不忍池、旧岩崎邸庭園、湯島天神など寄り道をすると飽きない散歩となる。 上野の黒門は、旧因州藩32万石。池田家上屋敷表門だったもの。東宮御所などに再利用されるなど数回の移築の経緯がある。元は丸の内三丁目付近にあった。明治の大火、関東大震災、太平洋戦争を無事生き抜いた。本当に苦労(クロ)した木造古建築物だ。 東京大学本郷キャンパスへの門は大小9箇所あるという。代表門と言えば、国道17号に面している赤門。旧加賀藩100万石・前田家上屋敷にあったもの。門の左右に唐破風造りの番所を備え、家主の威厳と入場者検めする処だった。現在は監査カメラが配置され、別の場所からチェックできる。 東大受験者の合格発表は、3月10日(月)の予定。丸の内線本郷三丁目から歩くと、東大正門より赤門に先に着く。運命の歓喜と悲哀が往来する門である。しかし今年は構内の建物が工事中なので、合格発表がインターネットのみになるという。胴上げの映像は無いかも知れない。それもまた良いか・・。 写真-1 上野公園の黒門。旧池田家上屋敷門を東京国立博物館敷地へ移築・保存。 写真-2 何度も移築されたが、風格と重厚さは失っていない。 写真-3 東京大学本郷キャンパスの赤門。旧前田家上屋敷門が国道17号線沿いに面している。 写真-4 桜の咲き始める頃、東大合格発表が行われる。歓喜と悲哀が往来する門・・。 写真-5 東京大学正門。門扉は唐草模様か。風呂敷を連想してしまう・・。
2014年01月31日
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冬に東京ゲートブリッジを歩く人は少ない。しかし、遠くの景色を眺めるには冬の日が良い。東京ゲートブリッジは、江東区若洲と中央防波堤地区(中防)とを結ぶ長さ2,618mの橋梁。東京港第三航路を跨ぐので、最大支間長が440mと大きい。独特の形をしたトラス橋で、恐竜橋とも呼ばれる。 中防の内側東部は、「海の森」(仮称)が形成されつつある。都内最大級の海上公園になるかも知れない。高さ30mのゴミ山を緑多き森にするために、平成20年頃から植樹活動が始まった。建築家・安藤忠雄氏が呼び掛け人となり、メダリストやノーベル受賞者などから募金を集めたという。 廃棄したゴミから発生するメタンガスも無くなり年に数回、緑化のイベントが行われている。アクセスや維持管理のこともある。行政区を早く決定すべきだが、長年、江東区と大田区との間で帰属権紛争が続いている。漁業権の問題も絡み複雑なようだ。「領土問題」を解く方程式はあるのだろうか・・。 東京都としては数年後には公園とする計画のようだ。東京港の航路脇と玄間口にあたる場所だ。東京オリンピックの開催も決まり、海外の人達もミナトに眼が往く。将来、東京湾クルーズが立ち寄る桟橋が設置されるかもしれない。トイレや道路照明など整備も必要となるが・・。 写真-1 東京港第三航路を跨ぐゲートブリッジ。若洲公園から富士山とともに望む。 写真-2 中央防波堤地区に整備される「海の森」予定地。将来、東京の新名所になるかも・・。 写真-3 東京ゲートブリッジから都心と東京タワー方面を望む。 写真-4 東京の下町と東京スカイツリーを望む。 写真-4 東京ゲートブリッジの歩道。中防を折り返すと3kmのウォーキングになる。
2014年01月09日
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東京ディズニーランド(T.D.L)と共に発展して来た浦安市舞浜。その舞浜の南岸は、東京湾に面しているので、三方(東・南・西)の湾景色が良い。少し高めの直線護岸堤防が1.5km続く。ジョギングやサイクリングを楽しむ人を多く見る。 昭和初期は海だった舞浜。東京五輪頃から海面埋立て工事が始まった。当時C地区と呼ばれた区画の埋立てが完了したのは昭和45年(1970年)。その13年後には、東京ディズニーランドが開園する。今年30周年だという。年間2,600万もの人が押し寄せる楽園になるとは・・。 舞浜南岸へは、ディズニー・リゾートラインが便利。自動運転モノレールの中から、園内の様子を垣間観て、ベイサイド・ステーション駅で乗降すればよい。モノレールに沿って、舞浜駅から歩くのもヨシ。リゾートラインは1周5kmのワンウェイで、PASMOが利用できる。 ディズニー・シー近くの護岸堤防からは、富士山をバックにした東京ゲートブリッジを望むことができる。ダイヤモンド富士の頃は、大勢の人達が繰り出すという名所。また、道路ひとつ隔てると、アメリカン・ウォーターフロントなので、「S.S.コロンビア号」に出会える。写真-1 舞浜南岸から眺める東京湾の夕景。10月中と2月末に夕陽が富士山に沈むという。 写真-2 ライトアップされた東京ゲートブリッジを望む。17時に点灯した。写真-3 富士山をバックにした東京ゲートブリッジ。ポスターなどでよく見かける構図。 写真-4 護岸堤防からディズニー・シーの「S.S.コロンビア号」が良く見える。 写真-4 ディズニー・リゾートラインとホテル。モノレールは自動運転。
2014年01月07日
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東京湾の真ん中に浮かぶ海ほたる。全長15kmの東京湾アクアラインのパーキング施設である。海上に浮かぶP.Aは、世界的にも珍しい試みだ。4階・5階の展望デッキからの見晴しが素晴らしい。眼を凝らすとゲートブリッジも見える。 アクアラインの開通は1997年12月。早や16年が経過した。海ほたるの名称になる前は、木更津人工島と呼んでいた。住所は千葉県木更津市中島地先。豪華客船をイメージした施設は、全長600m×幅100 m×5階建。普通車の駐車スペースは408台とされる。 この人工島は、工事期間はアクアトンネルの発進立坑だった。この他に、川崎側「浮島」と「風の塔」も発進基地。海底トンネル掘削は、直径14.1mのシールドマシーンを使用して、上記の3箇所から掘進した。掘削機の先端であるカッターフェイスがモニュメントとして設置されている。 海ほたる・人工島は、直径20mの鋼製セルを海底に建て込み、連結し築造したもの。基盤高さは海抜5m程度。海底はマイナス24m。つまり海上沖に高さ30mの土木構造物を造ったのだ。迫り来る首都直下型大地震の際には、居遭わせたくない場所でもある。写真-1 海ほたる4階展望デッキにある幸せの鐘。新年は幸せの鐘から始まる・・。 写真-2 横浜港方面を望む。ランドマークタワーが目立つ。雲を造り出す富士山がいた。写真-3 東京ゲートブリッジと東京スカイツリーを望む。写真-4 東京タワーや高層ビル群を望む。 写真-4 直径14.1mカッターフェイスのモニュメント。
2014年01月03日
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プラットホーム数15面、日本一を誇る東京駅。駅の東西出入口において長年行われて来た工事が終わりに近づいている。東側の八重洲口は、「グランルーフ」が9月20日に開業した。東京ステーションシティの街並みが最終ステージとなった。 グランルーフは、高さ27m×長さ230mの巨大な屋根が売り物だ。太陽光を透過する特殊なテントの生地で、「光の帆」をデザインモチーフにしている。14本のスチール製帆柱で支えられている。風ではなく、雨水をため込むという。 西側の丸の内側では、1年前に赤レンガ駅が復原され、東京ステーションホテルも営業を再開している。今年の3月には「KITTE館」もオープンした。駅前が大幅に整備され、ステーションシティらしくなって来た。景観を損ねていた高さ14mの換気塔は、切断改修工事が始まった。 グランルーフの材質は、ガラス繊維と樹脂が使われ、大手テントメーカ製品だという。ルーフ表面の汚れは、雨が降るたびに流れ落とされる。巨大な帆に想定外の強風が襲った場合、破損もしくは倒壊の心配はないのだろうか。船の帆は嵐に遭えば、帆をたたむのだが・・。写真-1 東京ステーションシティを代表するグランルーフ「光の帆」。 写真-2 グランルーフの2階にあたる「ペデストリアデッキ」光の飾り付け。写真-3 KITTE館の屋上庭園から丸の内口を見る。換気塔は仮囲いされ、修景工事が始まった。 写真-4 丸ビル35階の展望フロアより定番の夕景を楽しむ。写真-4 KITTE館内のクリスマスツリー。[12月22日撮影]
2013年12月28日
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光に包まれた大きなツリー8本が、仲良く並ぶ元渕江(もとふちえ)公園。スカイツリーライン・竹ノ駅から「光のケヤキ並木」沿いに1.2km東へ行くとこの公園である。「光キラメキ こころトキメキ」と題して、12月25日までイルミネーションが点灯されている。 竹の塚は日光街道が通る街。千住宿で水戸街道と分かれ、草加宿へ向かう中間点だった所。竹ノ駅と元渕江公園との間を通る街道(国道4号線)は、真北方向に続いている。この辺りは昔、多くの古墳(塚)があり、竹が自生していたと云われる。 元渕江公園には珍しく釣り池がある。ヘブラナが釣れたというが、今はさっぱりのようだ。水質は適切に保たれている。池の水は、雨水や井戸水を浄化して循環使用しているとのこと。天気が良ければこの池の周りは、将棋するオジサンが集まる「名所」。日没までゆっくり時間が流れる空間だ。 竹の塚周辺は、公団住宅や都営住宅が建ち並び、都心のベッドタウンとして発展した町。特に。1964年東京五輪以後、水田地帯から高速に住宅地に変貌した。現在、住宅の老朽化、空き家化および高齢化が進む。東京都23区内でも足立区は、自然災害のリスクが高い。だが防災意識が高い区でもある。 写真-1 元渕江公園芝生広場の8本ツリー。高さ20mのポプラが点滅して色を変える。 写真-2 釣り池に映し出されるイルミネーション。写真-3 色々な光のオブジェが光の祭典を盛り上げる。 写真-4 17時から点灯するので、近所の子どもが夕食前に遊ぶ。 写真-5 元渕江公園の夕暮れ。メタセコイヤが赤く染まる。
2013年12月15日
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明治神宮の南エリアを占める神宮御苑は、南池を囲むように雑木林が生育している。江戸初期、加藤家・井伊家の下屋敷があった場所。人の手が入り管理されているので、里山のような雰囲気がある。苑内には、隔雲亭、御釣場、四阿(あづまや)、菖蒲田などがある。 明治神宮境内は、渋谷区の4.6パーセントに及ぶ70万m2の広さを有し、自然豊かな聖地。大正期、青年団の勤労奉仕による造営工事が行われ、「永遠の森」を目指した。その後約百年を経て、多種多様な樹木と多くの野鳥が棲む杜となった。 南池の源流は、「清正井(きよまさのいど)」である。湧水量毎分60リットルの清正井は、年間を通じて涸れることがないので、金銭的な御利益があるとされる。一時、金運のパワースポットとしてブームになった。菖蒲田を通り南池から渋谷川へ流れているようだ。 明治天皇が神格化された明治神宮。一方現在の天皇・皇后は、人間味ある国父・国母である。先月今後の両陛下の葬法について報道があった。『国民生活にできるだけ影響がないように・・』との御意向を示された。戦後の復興、数々の大災害を 間の当たりにしたから言えるお言葉のように思える。 写真-1 明治神宮境内のシンボル「夫婦楠」。二本の楠木にしめ縄が架けられている。 写真-2 神宮御苑の中核をなす南池。五月にはスイレンが浮かぶ。オオタカも生息するという。 写真-3 南池のほとりに作られた四阿(あづまや)。晩秋の佇まい。 写真-4 菖蒲田を覆う紅葉風景。150種1,500株のハナショウブの名所。 写真-5 涸れることがない清正井。金運のパワースポットとか・・。
2013年12月11日
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青山通りから神宮橋(JR原宿)まで続く表参道。青山通(国道246号)・表参道交差点から北西方向へ下って、上る約1kmの区間である。大正8年頃に、明治神宮への参道として整備された大通り。 表参道の道路区分は都道413号線。ケヤキ並木通りとして有名だ。163本のケヤキが植えられているが。自動車の排気ガスに負けずに育っている。大部分は戦火で焼失したが、昭和25年に再植した。表参道ヒルズ前の10本ほどが戦火に耐えたとのこと。 約30年前に七五三祝いにこの道路を通ったことがあるが、交番の印象しか残っていない。明治神宮の駐車場の場所を尋ねたから・・。今は2006年にオープンした表参道ヒルズをはじめ、近代的なビルが並んでいる。表参道ヒルズは、地下6階、地上6階とは知らなかった。 冬至の朝、一の鳥居のある神宮橋から参道(南東方向)を見ると、道路の延長から太陽が昇って来る。一の鳥居から北へ500m行くと二の鳥居である。二の鳥居は、木製の明神鳥居では日本一との説明書きがある。径1.2mの原木は遠く台湾から運んだもの。現在で考えられない難事業だ・・。 写真-1 表参道のケヤキ並木。青山通り方向を見る。[11月20日撮影] 写真-2 表参道のケヤキ並木。原宿・神宮橋方向を見る。[11月28日撮影]写真-3 表参道ヒルズ。4階以上が住居施設。105店舗が入居している地下6階の建物。 写真-4 石燈籠の親柱が特徴の神宮橋。すぐ横には五輪橋が架かる。 写真-5 明治神宮の大鳥居。高さ12m×径1.2m台湾産原木を使用。
2013年12月07日
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神宮外苑の秋景色を代表するイチョウ並木。病院見舞いを兼ねて渋谷区に出かける日がある。前回イチョウ並木を訪れたのは夕方だった。今回は午前に訪れ、聖徳記念絵画館まで歩いた。 絵画館は神宮外苑の中心的建物。石造りの重厚な風格を持つ歴史的建築物である。大正15年(1926年)に完成し、左右対象(幅112m)のデザイン。中央のドーム高さが32m。鷲が翼を広げた印象を受ける。 2、3年前、絵画館後方に建てる高層ビル群の計画に対して景観論争があった。新宿イーストイサイドタワービル(高さ117m、32階)など。絵画館と2km以上離れているので、景観上の規制はなかったようだ。イチョウの葉が落ちた時期に眺めると別な印象かもしれない。 絵画館の西側には国立競技場が隣接(300m)している。東京オリンピックの開催決定と同時に新国立競技場の規模とデザインが発表された。異論もあるようだ。規模は予算面から2.5割ほど縮減される見通し。しかし「カブトガニ」のようなデザインはどうか・・。臨海部には似合いそうだが、神宮の森には違和感ある。個人的には、日本的なものを取り入れた競技場が良いのだが・・。 写真-1 外苑のイチョウ並木は絵画館とワンセットの美観。写真-2 秋の日差しが差し込むイチョウ並木。写真-3 聖徳記念絵画館は左右対象で安定感のある重厚な建造物。 写真-4 聖徳記念絵画館から青山方面(南側)を望む。 写真-5 絵画館の西側300mに霞ヶ丘国立競技場が隣接している。
2013年12月01日
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青い空に黄金色のイチョウが輝く。明治神宮外苑のいちょう並木。「外苑いちょう祭」が11月16日から始まっている。親戚の病療見舞いの帰りに、表参道駅から会場へと歩いた。陽が傾いた並木道には大勢の人々が行き交う。 青山通り(国道246号)から外苑噴水広場までの約300mに渡って、イチョウの樹146本が並んでいる。トンガリ帽子のようだ。9m間隔に植えられ整然としている。黄金色帽子隊が整列しているようだ。イチョウは東京都の木であるが、東京オリンピックの2年後に制定された。 いちょう並木は、聖徳記念絵画館の正門階段から観るように配置されている。青山口へは緩い昇り勾配となっており、樹木の高さを調整して遠近法の技法を取り入れている。五輪にちなんで4年に一度、トンガリ帽子になるように樹姿を整えているという。 最も背の高いイチョウの木は28m。暫らくすると、枝から蝶が舞い降りるように落葉する。歩道は黄色い絨毯で気持ち良いかもしれないが、車道に溜まると厄介ものになる。葉や銀杏には油が含まれているため、スリップ事故の原因ともなる。朝早くから清掃作業に追われることになる。 写真-1 日が傾いた頃のイチョウ並木。トンガリ帽子が並んでいるようだ。 写真-2 イチョウの黄色トンネル。西側の歩道がより色付いている。 写真-3 噴水池からイチョウ並木を見る。 写真-4 青山口から並木を見る。写真-5 絵画館とフード・ドリンク広場。
2013年11月25日
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聖橋は二つの聖堂をつなぐ架け橋である。北の湯島聖堂と南のニコライ堂との中間に位置する。二つの聖堂間の距離は300mほど。その1/3に当る100m分が聖橋なのである。橋を隔てて、和と洋の建築物が対峙している。そして、湯島聖堂のすぐ北側には神田明神がある。 ニコライ堂は、もとは正教会の大聖堂。ロシア人修道司祭の名前に由来する。現在の正式名称は「東京復活大聖堂」という。創建は明治24年であるが、宗教的になかなか理解を得られずに7年を要した。関東大震災や戦災を逃れたビザンチン様式の石造建築物。都会の復興を見守った教会でもある。 湯島聖堂のルーツは、林羅山が上野に造営した孔子廟。徳川綱吉がこれを「大成殿」と改称して湯島に移転させ儒教を広める。後に昌平坂学問所になる。昌平とは孔子が生まれた村の名前。関東大震災で焼失するまでは国の史跡指定。現在の大成殿は、耐火性の鉄筋コンクリート造り。 二つの聖堂は、大震災の洗礼を受けた。木造の湯島聖堂は灰になり、石造りのニコライ堂は遺体安置所になったという。湯島聖堂は、再建のために土地を売却した。しかし、周辺には大学等が建ち並び、教育の伝統が息づく「学問の丘」のようだ・・。写真-1 間口20mの大きな杏壇門(きょうだんもん)。杏壇とは孔子の教授壇に由来する。写真-2 静寂なブルーに照らされた大成殿(たいせいでん)。写真-3 ライトアップされたニコライ堂。国の重要文化財でもある。写真-4 入口広場から観たニコライ堂。 写真-5 二つの聖堂をつなぐアーチ。
2013年10月28日
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神田山を開削した水路がある。江戸期に上水・治水のために掘割した神田川だ。現在。南側切土面中段に、JR御茶ノ水駅がある。駅プラットホームは、長さを持った平坦地が必要になるため、両岸の道路坂と徐々に段差が生ずる。段差の大きくなる箇所に聖橋(ひじりばし)が架かっている。 聖橋の一つ下流の昌平橋との標高差は約8m。昌平橋から聖橋まで歩いて上るには二つの坂がある。右岸・千代田区駿河台の坂は淡路坂。左岸・文京区湯島の坂は昌平坂-A(相生坂とも言った)。神田川周辺には多くの坂があり、それぞれ名前が付いている。 神田川には百を超える橋が架かっている。最も大きく華麗なのが聖橋。また高所に架かる橋のため見通しが良い。昔から風光明媚な所だった。橋からは鉄道が交わる都会の風景が一望できる。中央線、総武線および地下鉄丸の内線を同時に、そしてスカイツリーも眺めることができる。 御茶ノ水駅付近の線路は、一部盛土の上を走る。首都直下型大地震が想定されているため、耐震補強の工事が始まった。昌平橋から水道橋の約1.2km区間の地盤に、長さ15mの鉄棒4,000本を打ち込むようだ。2018年に完成するというが、地震は待ってくれるだろうか・・。 写真-1 聖橋とJR御茶ノ水駅の夜景。橋からは駅ホームの人影が見える。写真-2 手前から丸の内線、中央線、総武線の電車が走る。都会ならでの風景だ。 写真-3 昌平坂(相生坂)の彼方にスカイツリーの展望デッキが・・。 写真-4 神田川右岸の耐震補強工事が始まった。写真-5 広重・名所江戸百景「昌平橋聖堂神田川」。坂を登ると昌平校。
2013年10月26日
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万世橋を越えるとネオン街である。神田のオフィスビル方面からこの橋を渡ると、ビル壁一面に描かれたキャラクターや宣伝広告が輝く秋葉原街だ。万世橋は、中央通り・国道17号を通す橋で、過去に幾度か架け替えられた橋である。 万世橋のルーツを辿ると、江戸期の筋違橋(すじかい)橋と筋違御門に関わりがある。江戸城三十六見附(城門)の一つで、将軍が上野寛永寺へ参拝する際に利用した橋と門。この見附を明治5年に解体するに当り、石材を利用して架けたのがメガネ橋だ。当時「萬世橋(よろずよばし)」と命名。 時代が進み、音読みで「マンセイ橋」になったという。当時、筋違橋付近には大きな広場があった。広重の名所江戸百景「筋違内八ッ小路」に描かれている。武家地と町民地との境界であり。火災の延焼を防ぐ火除地(ひよけち)でもあった。 現在の万世橋は、昭和5年(1930年)に架けられたコンクリート製のアーチ橋。橋の幅が橋長の1.4倍。36mの幅広い橋である。近頃、神田川の橋もライトアップし、夜のクルージングを楽しめる。萬世とは、限りなく続く世を言い表す言葉。先人の橋への想いが伝わって来る。 写真-1 万世橋を渡ると秋葉原のネオン街。江戸風情とは異なる別世界が待っている。 写真-2 神田川の夜景。川の水質も改善されて、安心してクルージングできる。 写真-3 ライトアップされた万世橋。船から見るとより綺麗だと・・。 写真-4 神田駅方面を観る。マーチエキュートから投光している。 写真-5 広重・名所江戸百景「筋違内八ッ小路」。
2013年10月22日
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