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この時間になりました。迷う時もありますが、理屈はやめて、結果を考えず自然に指にたたいて出るところの跡を今夜も残しましょう。 明日は久しく会わないひとに会うことになっています。わたしの子供より若い人なのに一人で他国で勉強して、成果をなしたひとりに駅頭で会う約束をしています。 会いましたら、暫らく歩きましょうか。わけはありません、足をそろえて同じ方向に歩くそれだけで充分。そうでした、新しい舞台をありがとう、明日の駅頭の空は晴れでしょうか、やや曇天かも、それもよし、鈍天は晴れる可能性があるからです。 今日の一首 かくばかりすべなき思(も)へば 歌こそは、一期(いちご)の病ひ一。 しきしまの 倭の国に、 古き世ゆもちて伝へし 病ひなるべき (昭和十五年八月) 釈 迢空
2012.04.30
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おはようございます。少し暗い朝です。重いカーテンを開けてレースだけにしています。自分の庭を少し写生して見ます。藤棚の花はもう見えません、散ったからです。葉が茂ってきました。夏が近くなりましたね。 ああ夏、何故か夏は懐かしい、そのわけは何でしょう、何だか解りますようで解りません。遠い昔、山中に住んでいました時が思い出される明るさであります。ふんわりと暗くあります。やはり懐かしいと申しましょう。 そんな中に自分が居るいまを不思議に思います。不思議なことは気持がいいことに似ています。この場、いま、たったいま、自分が感じるままに書いていられるこの場を先ずありがたく想いましょう。今朝の偽らぬは話です。 今日の一首 検査数値すべて正常なる母よその健やかさもて吾を産みくれき わが幸の九割は母から得たるもの五体丈夫に産みくれしゆゑ 栗木京子(「短歌研究」より)
2012.04.30
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ぼつぼつ平野水のシーズンに近くなってきました。平野水と言う名前はおばあさんから聞いていました。サイダーと同じようであります。子供のころを思い出す懐かしい言葉です。 今年もその時が近くなりました。わたしの家の近くのおうどんやさんにいくと、いまも平野水と手書きでかかれた張紙が見えます。おばあちゃんがなつかしいから、これからまたかようことでしょう。 今日はそれだけのおはなし。でも昨日、不思議なご縁のお方からお手紙をいただき、これからも、がんばって、たくさんの言葉を書きたくなっています。この世って、この世のような、そのような出合いが一番たのしみですね。あるような、ないような真実が一番嬉しいです。 今日の一首 救急室の前の廊下にうなだれて頭を占めゐしは責任のこと 大崎瀬都(歌集『朱い実』より)
2012.04.28
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亡くなった人と語ることは出来るのでしょうか、それは考えることではない、思考の外のこと、こころの内だけれど、そうですから。でも、ちょっとやってみますか、そんな戯れも。そう思いながらならいいでしょう、「セフィルス」(蝶の名)を遊ばせましょうか。午前3時半なんとなしよい時間でございますから。 来たよ!そう!バスを待つ間の 会話です 日に幾たびを くりかえし居る 今日の一首 タンブラーに水湛へきてふいに逢ふつらぬくごとき白きいなづま 葛原妙子(『原牛』「球」より)
2012.04.27
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今日は金魚さんのおはなしです。わたしがいま飼っている金魚の三匹は「りゅうきん」です。その種類は大きくなるほどわかるようです。小さいときはただなんとなく、くるくるしておるだけですが、ややおおきくなると、そのくるくるが特徴になってくるようです。 でも金魚自体は何も知らないんでしょうね、自分はちょっと上等の金魚だなんて。「りゅきん」でもなんでも、自分でそんな差別をつけるものは嫌いです。人間でも。まあ、その金魚イコールうちの「りゅうきん」は人間がよくわかるようです。人間かわたしという生物か知りませんが、その静物の指が自分にちょこんと触れても驚きません。長い間の付き合いで仲間だと思っているのでしょう。 と、そんなふうに思う日々です。友達ができるって、殖えるって嬉しいですね。 今日の一首 生きざまの儚かるときわれにくる浪費の天分ひとつ信ぜむ 葛原妙子(『薔薇窓』より)
2012.04.27
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思いみますと、わたしは写真の歴史をしりません。その成り立ちもしりません。どうしてあなたは其処にいるの、と、いつも驚くばかりです。その人たちは引き出しを開けますと、いつもそこにいてくれます。いつも同じように少し笑ったり、少し悲しそうな顔をしたりしています。 黙ってふたたび引き出しへ入れますと、おとなしく眠ります。それはわたしの父と母との新婚時代と同じように。それからどんなことが起こって、たちまちばらばらになろうとも、そのときは、そこに、しっかりととどまっているのです。 写真て何でございましょう。 今日の一首 ウエハースのごとき木材トラックに積まれて寒き雨に濡れをり 大崎瀬都(『ヤママユ』より)
2012.04.25
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深更です。先ほどから書こうと思うことがあるのですが、何となしにまとまりません。一度あきらめましたが、こういう状態のことを具体に書くのも一つの記述ではなかろうかと書き始めました。 始めると、おしゃべりのようになんとか字を連ねることが出来ます。人間の感覚って不思議なものであります。さてと、ところで思い出しましたが、祖父母達はよく「こうつと」という言葉を発していました。つまり何か語ろうとするときの前奏であります。関西弁でしょうが、この夜間、2,012年の今日今夜、「こうつと」という先祖たちの声が聞こえます。そんなことを語る?だけでも、一つの、何行かの語りと、怪しきながらなりましたようで。「こうつと」これぐらういでこの夜話を閉じましょう。 ふと、いま思いました、意味なきことを書くことはまた、その意味がまたわかりますようにて。 今日の一首 花キリン・セントポーリアの鉢置けど美しと少女ら言いしことなし 影山美智子(1988年「短歌現代」より)
2012.04.24
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春とは何時の瞬間なのでしょう。さくらが散るまでそんな気もします。 ところで先ほどこのページを書いて、なぜかわからないままにアウトになりました。これで2回めです。友達のとても素的な短歌を綴っていますので、なんとか綺麗に出したいとけんめいであります。2度目です。どうかあんじょうに、仕上がりますように。 潮だまり小さき魚キラキラと岩肌白き城ヶ島の磯 南仏のかをりのミモザ窓際にくつろぐわれのはだへにも染(し)み あるときはねぶたき悪魔あしもとの水にうごかぬ蘭鋳、三尾 春なれば加茂川あたりの草原にやはき蓮華の葉の匂ふかな 百年を経たるひひなのほほゑみて乙女ら集ふ赤もうせんに 「きさらぎ」の 友と親しく あらしやま ふなびととなり さくらふぶきの かくばかりすべなき思(も)へば、 歌こそは、一期(いちご)の病ひー。 しきしまの 倭の国に、 古き世ゆもちて伝へし 病ひなるべき 釈 迢空
2012.04.23
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ささやかながらも我が家の裏庭の藤が青い芽を吹きだしてきました。この庭にこの藤の幼い姿を見つけましたのは何年まえでしたか。細いからだで地に這うようにしておりましたわが藤でした。 その年月はわたしの年月、何処からどうして吾が庭にその姿を見せましたか、わたしには不明、幼いながら藤らしい姿を慈しんでの年月でございました。今日まで、藤棚に立ち上がるまでになり、棚に這い、その種類から見まして、決して優れた品種にあらずとも、藤そのものの知るべきことにあらず、やがて時季がくれば、小さな房ともいえぬ小さな塊のような花の姿を見せます。 ささやかなわが庭の藤の話でした。わたしはこの藤が好きです。 今日の一首 ふれられない函は十個だ説明や叱責はもうあとのことにして 江戸 雪(「角川短歌」より)
2012.04.21
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今日は従兄の三回忌に行く日です。従兄ですから、あたりまえですが、母の兄に出来た子供、兄弟のなかった私には兄のようなでも年齢が迫っていましたから、お互いに親しく遊んでいたようです。背の高い人で、わたしもそうですけれど、スキーに行くといって、いろいろ道具を借りたけれど全部駄目でべそをかいたことを覚えています。はずかしいほど当たり前のことです。でも従兄は貸さないとご機嫌が悪いと思ったのでしょう。 書き出しにも書きましたように三回忌だけれども、さみしい服装はしたくなかったので、特異のあっさりした木綿のツーピースにしました。今それを着てパソコンをしています。木綿って暖かいですね。ちょうど本日の、自分の、いい気分につつまれています。 今日の一首 みどりの葉ことごとく透き視野の内外(うちそと)雪片のごと蝶の生(あ)れいづ 葛原妙子(「葡萄木立・青虫昇天」)
2012.04.20
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ふと思うことがあります。 人の命のことです。わたしはこの二月その月に死ぬる人と歩いていました。そんなことはそのとき解るはずがありません。その人は足が速くてわたしも遅い方ではありませんが、遅れまいと懸命に歩いていました。 その人がそれから19日めに亡くなりました。その人はそのときそんなこと思っていたでしょうか。太陽の光も、風の吹き具合も何時もと同じでした。お互いにちょっと黙ったり、ちょっとしゃべったり、ちょっと笑ったりしていました。それから学生が入るような店へ入ってラーメンをつるっと食べて別れました。 人は死ぬることは当たり前、その時にその人がそれからの19日目死ぬるなんて、でもそうなんですね生きているものは死ぬる、それが解らんのですか、そういわれても仕方がない。それは己の上にも当然あること、当たり前のことを書いた今日のブログでした。 今日の一首 暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたふわが子守うた 斉藤 史(『魚歌』より)
2012.04.18
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午前5時、まだ庭はまっくらです。今日は4月16日、そんなものでしたか。 ところで我が家には灯籠が表庭と裏庭に一つずつあります。これは父似でしょうか、わたしは灯籠が好きです。表のものは下加茂の庭からこちらへ引っ越す時に持ってきたもので、今の庭には大きすぎますが仕方なく、小さい方は中京の家にあったものですが、父の生地、四国、徳島のものです。昔の藩主の紋が見えます。 灯籠だけでなく、蹲(つくばい)も好きで大事にしています。これは表の庭にありますが、遠い先祖のものらしく、大きくて、お米をついていましたとか。引越しをしましても、わたしはそういったものが放せませんから、引越しが高くつくようです。贅沢と思っていますが、わたくしの精神の力です、重たさが。 今日の一首 原子炉の数は五十を越えゐたり黙つてゐたのは荷担したこと 大崎瀬都(『ヤママユ』から)
2012.04.15
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日曜日の朝です。少し冷えますね。昨日は一日家を空けましたから、今朝は一応、身の回りの整理をしてただいま、午前十時前、机の前に座りました。 昨日は嵐山で舟に乗ったり、お友達のお寺へうかがって、意識高いお雛様を見せていただいたり、近頃では無くなった京都の自然、風習に接して、今なお、こころ落ち着いた気持でおります。 わたしたち、特に京都、そのすべて、ややに落ち着きに乏しくになってはおりませんでしょうか。先日の四條南座前の交通事故(合掌)もそう思われます。振り返って、わたくしどもの先祖、京都の先祖の在りようを見直して落ち着かねばならない、そんな気がいたします。 着物を着るとか、そんな表面のことだけではなく、と反省いたします。京都の心はもともと「質素、瞑目」の心にありました。これはもちろん、我が家のおばあちゃんからの教えでございますが。 今日の一首 春あさき海を渡れるひとむれのアサギマダラのかげをこそおもへ 遠山利子(『ヤママユ』より)
2012.04.15
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我が家の蘭鋳(らんちゅう)三尾がふくよかに大きくなりました。2センチほどでありましたのが、半年でまあるくふくらんで倍ほどになりました。よく馴れて指先に触れても驚きません。仲間と思っているようです。餌は初めにもとめてきた小さく小さくまるめた茶色の粒々です。 わたしは特別、蘭鋳がほしかったわけではなく、ふらりと覗いたウィンドのなか、それも仏像を彫っておいでのお家の中にあった器にでありました。何ですかわたしは知らぬ間に一尾三百円で三尾買ってしまいました。 現在は完全な友達です。彼等も多分そう思っているでしょう。このことは前にも書いたかもしれません。また書くでしょう。でもその文章はそのときどきでかわることでありましょう。 今日の一首 朝あけしわが手の中にキリストの額の冷えをもたらすレモン 蒔田律子(『白鳥の涙を見たか』より)
2012.04.12
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今朝の朝になりました。カーテンの間から覗きましたがまだ暗いですね。でもどんなに苦しいこと悲しいことがありましても、夜はしらしらと明けてまいりますね。いいことでございます。わたしなんか、ついそれにつられて、しらしら明るくなってしまいます。 そうでした、祖母なんかがよく申しておりました、どんなにつらいことがあっても夜は明けますと。わたくしなんか、その流儀でございます。近頃、悩みがないので余計に曙は美しくにわが窓から射し込みます。 さあ、しなければならないことはいっぱいあります。いまちょっと依頼原稿の狭間ですが、油断をしていますと溜まります。その重たさったらたまりません。愚痴はいえません自分が悪いんですから。 えらそうにいいまして恥かしいこと、半人前どころか、4分の1人前にも足らない自分でございますのに。まあ夜があけましたら疏水べのさくらでもみにまいりましょう、そして彼女か彼に叱られてまいりましょう。 今日の一首 哀れなり草の影にも白露の かかるべしとは思はざりけん 九条前摂政右大臣
2012.04.11
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おはようございます。起床して、あれこれしていましたら、はや、6時になりました。雨です。昨日の桜はどうなりましょう。しっかりしていましたから大丈夫と思いますけれど。けれど、一日一日に風景は変わっていくのですね、でもそうでなければ生きていると言えない、自分もであります。今日は今日の自然に身をまかせてせねばならないことから始めましょう。 そうでした、自分が誤って書きました、或る感想記事の訂正、お詫びの仕事から始めましょう。ごめんなさいでした、Nさん。 でも古い友達から、わが誌の巻頭文を書くといってきてくれました。ありがとうございます。自分もがんばらねば。屋外にいまかすかな雨の音が聞こえます。 今日の一首 暴力のかくうつくしき世に住みてひねもすうたふわが子守うた 斉藤 史(『魚歌』より)
2012.04.11
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夜から昼へ、昼から夜へと時がすすみます。何という言葉を使ったらよいのでしょう、時が経ちますではいやのようで、やはり進みますかな、いえ過ぎるがいいかな、いえ、遠くなるがいいでしょう。でも、それは何から。 でもおかしいですかしら、過ぎていくのは時ですから、自分はここにいるのに、わたしのように、一昨日からここに。 あすの日は?に投げらるる運命(さだめ)もて野に咲くものを吾と思ひし 柳原白連(『踏絵』)
2012.04.09
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完璧ということはこわいことですね。当然そうであらねばならぬことはありますが、おおよそ人間の心のお付き合いの程度には、許すこともそれはやさしみの一つでありましょう。 しかしながら、思えばわたしなどは許されてばかりかもしれません。これ以上は求めてはならぬとこころしつつ、つい、やさしみを求めてしまう自分です。そうでなく求めるのにあらず、あたえる立場にならねばならないのかも。でもみずからそう思うことは、またこわいことであります。あたえるなんて。 ちょっとしんどいことがありまして、こんな日記?となりました。 今日の一首 ヘロデの王座冷えて遺らん 砂荒れてひろき死海のほとり 葛原妙子(『原牛』より)
2012.04.08
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この時間、書きますと何時に書いた話になるのでしょう、そんなことを怪しみながら、キイを打っています。そのようなスリルも楽しいブログです。添えて出す画も何時の画かわからないほど、忘れっぽくて、幸せであります。わからないことはたのしいことですね。 文章はわかっていることを書くのも一興、今書くことに何が現れるかわからなくて書くことも又一興であります。さてここからがむつかい!。思えばわたしはこのごろよく洗濯屋さんへ、いえ、クリーニング屋さんへいくようです。今日もいって、毎度ありがとうございますといわれて、自分の行為、よく行くことに気がつきました。 今日はこの、二十日に従兄の三回忌にゆくための古い黒っぽいワンピースのクリーニングをしたかったのでしたが。もう黒でなくってもと思いますが、好きな赤系統もちょっと派手かなとまた黒っぽいのを選びました。ということにしまして、今ようやく落ち着きましたというお話でした。 何を着ましょうと自分は同じつもりですが、やはりそこにわたしが現れるのかなと改めて思ったりします。 今日の一首 飼猫の長き胴より尻毛(しりを)よりたんぽぽのごと絮毛流れをり 葛原妙子(「葡萄木立」より)
2012.04.07
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「コーヒーの香りの中にわれらいる 隊組み出てゆく船を見つめて」これは昨日の歌会に出されてありました或る海辺に見た風景であったそうです。何気なく行過ぎるような作品でありますが、そうでありましょうか、本人もわからないが、奇妙に不思議な一団であったらしい、いまわれらの国に見られない風景ではないとわたしも思っています。守るも攻むるもではありませんが、誰も断じて傷ついてはならぬ、わたしはそう思っています。 今日の一首 咲かぬ木の生育の意味が疑はれ単純に居りぬ春のさかりは 加藤将之(「新風十人」より)
2012.04.07
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理解とは何でありましょう、いけないものは、いけないと言わねば。理解しろという人があります、つまり分かってほしいと。 理解では遅くなるのです。でもそういうことをいっている人達がいます。そんな声が聞こえます。 それから表向きは反対していますが、そういっておいた方がいいだろうという人もあります。 今日の一首 あおぞらがかすかに泣くか 上野をゆくフロントガラスを流れる埃 佐佐木幸綱(短歌研究より)
2012.04.05
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嵐のあと季節が変わって自然にもそして人にも春が来るのかも知れませんね。春の親しい草花を今朝は考えてみました。セイヨウタンポポ、シロハナタンポポ、カンサイタンポポ、そしてオオイヌフグリ、ホトケノザ、オドリコソウ、名前を並べているだけで春、わたしは幸せになります。 忘れられようとしている幸せが身辺には山ほどあるのではと、反省とともにわたしは考えています。そしてその場へ出かけます。目と心があればそれは存在します。野草帳を手提げに入れて歩いています。そうでした肝腎なことは歩くことでした。 ふとした家の軒下にも、町のなかの曲がり角の小さな土の蔭からも呼んでいるものの声を感じるはずです。幸せというものもそうして探せばいいのではとも。 今日の一首 人々はむきむきに線となりゐたり靄あるかすけき街に散らばりて 葛原妙子(「薔薇木立」より)
2012.04.04
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唯今の季節、桜の話をしても珍しくないようでしょうが、我が家には「普賢象(ふげんぞう)といって、普賢菩薩が乗っておいでの白象に似た姿の桜があります。咲き時は普通の桜よりちょっと遅くて、でも、ぽったりして重たげなのが豊かでよい趣のものでございます。 小さいときにご近所さんからいただいて、大事に育てていますのですが、今年は一寸心配、元気がないのです。ただいま祈る思いで、日々見あげております。ちょうど、我が家の小さな門の上をすっぽりと覆ってくれるのですが。 今日の一首 草餅をもとめて食(を)すや子は二つ父われ一つの春恃(たの)まるれ 坪野哲久(「花てるみち」)
2012.04.02
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