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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル67/ニーチェ34 弁証法を神学の対象にも適用したピエール・アベラール(Pierre Abelard)の説を継承した12世紀の神学者の一派とされるニヒリアニズム(Nihilianism)、キリストの人間性は偶有性に過ぎず、キリストは人間として真性には誕生していないし、所謂通常の人類には分類できない。キリストは人間としてには{虚無(Nihil/ニヒル)}であるからも推論されるように、ニーチェの「虚無」とは、キリストの真実在を除いて、凡そあらゆる既成の宗教的権威・道徳的・政治的権威や既成の社会的秩序とそのイデオロギーに対する無条件的な否定の立場を表しており、それら全てが何ものをも意味に価しないことから「虚無」と解する立場とは意を異にし、消極的ニヒリズム(堕落)を意味しています。其れ故に、キリスト教の権威のもとで惰性に流されるニヒリズムの克服を主張したニーチェが「ヨーロッパで最初の完全なニヒリスト」とも看做されることになります。ニヒリズムを非難した当のニーチェが「ニヒリスト」とされる由縁です。 心理学者を自認するニーチェにすれば、疲れきったため、その時々の状況に身を任せ、世間で流れるように生きるという態度、弱さのニヒリズム、消極的・受動的ニヒリズムを総てが無価値・偽り・仮象ということを前向きに考え、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を一所懸命生きるという態度、強さのニヒリズム、積極的・能動的ニヒリズムであればニーチェは積極的ニヒリズムを肯定したのであれば、永劫回帰の思考から、自らを創造的に展開していく「超人」思想は生み出せなかったでしょう。西洋思想世界に於けるニヒリズムは何れにしても、物理科学での所謂「虚無」や「無」、空間の存在或は時間の存在を思考上問題にはしていません。ギリシァ以来の唯物主観とは因を異にします。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年03月31日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル66/ニーチェ33 老子とっての「無」とは、「真実在の道」を強調するための「虚道」として、何もない空間、真空の広大無辺の空間に、陰陽道に置ける思考の基底を置いたものであり、従って、老子的な「無」とは「何も無い」ことではなく、老子的な真空の概念に従って「何かが在る」状態なのです。形而上学的に思考すれば老子的「無」は、所謂、存在に対した無ではない、「絶対有」に対した「絶対無」を意味しないことは明らかです。老子の「無」とは「何も無い」ことではなく、老子的な空白である真空の概念に従って「何かが在る」状態なのです。其のことから老子の「無」とは「夢有」を意味します。龍樹同様に亜細亜思想を屡々(しばしば)虚無主義の系譜に位置づけられることが多い西洋哲学は老子の思想をも西洋思想の文脈におけるニヒリズムと決め付けますが、「何かが在る」とする「空白」は「虚無・虚実」ではなく当に(まさに)「精神の空白」を意味します。老子曰く「精神の空白」とはニーチェ曰く虚無主義の此の世の社会では何をやっても変わらない生きる意欲其のものの瓦解を意味するものではなく、全くの精神の空虚、即ち、空(うつ)ろな精神を言い換えれば「惰眠」を意味するとも取れます。老子的「無」はゼロではないこと。「絶対無」を心の本体として観念した西田幾多郎の唯心論的傾向が強いことは注意すべき要点であり「物質論」を展開、将又、時間論乃至霊魂の不滅及び再霊思想に与える影響は無視出来得ざるものがあります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年03月30日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル65/ニーチェ32 一見してみれば老子の「道」は、人間の思考経過を喩えとして受け入れることには矛盾は有り得ないように組み立てられています。但し、飽く迄も老子は形而上からの視点で存在する人間を見るのではなく、人間存在其のものを前提にして思考することからの弱点が顕わになります。「天下の万物は有より生じ、有は無より生ずる。」の言は、現代物理学に於いては理論物理学より観測物理学にあっては当然と化しつつある状況です。然し乍ら、老子は人間精神の空白を物理的空間を「無」と称名(しょうみょう)しているのであり、語句そのものには現代的にも矛盾は一見なさそうですが、空間を「無」と捉えたところに誤謬があります。「天下の万物は有より生じ、有は無より生ずる。」の言は、「天下の万物は有としてある個物より生じ、有は空間としての虚(空ろ)である「無」より生ずる。」とするのが適正です。老子とっての「無」とは、飽く迄も道の存在論的な別言に過ぎない。真空という道の性質をひとことで「無」と表現するのです。従って、老子的な「無」とは「何も無い」ことではなく、老子的な真空の概念に従って「何かが在る」状態であることを肝に銘じなければ、老子の思想が曖昧望楼とするのは理の当然です。老荘の思想は人間の生き方即ち煩わしい倫理と懸け離れたところの「自由闊達」にこそある「道(どう)」を薦めているのです。老子の「虚無」はニーチェやサルトルの「虚無」とは幾分は相違するとは云え「人間精神の内包する問題」を究めんとする態度は同様に取り扱えます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年03月29日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル64/ニーチェ31 老子の「天下の万物は有より生じ、有は無より生ずる。」所謂(いわゆる)陰陽の哲学は、現代物理学の「有は無となり、無は有を生ず」の理論宇宙学及び宇宙物理解析の観察とも「有は無となり、無は有を生ず」は言葉こそ同様に取れますが、意味合いが天と地と表現し得る程に相違しています。老子は「無」の思想を展開するにあたり、あくまでも道の存在論的な別言に過ぎない「有」は「精神的な有」であり、対自するのが「精神的な空白・空虚である「精神的な無」を云わんとしているのであり、空間を譬えに上げてはいますが、勿論の事、空間は無ではないし、物理科学的には「動」のエネルギー其のものです。老子の「天下の万物は有より生じ、有は無より生ずる。」はニーチェの「虚無」とも多少のニュアンスは違えども、精神科学に属する問題であり、西洋哲学ギリシァのタレスからの唯物主観の物的世界の有無は問うてはいません。ニーチェからサルトルへの人間中心主義の弱点が、シッダルタの釈迦仏への覚醒後の認識、老子が「虚を無」として空白としたことに要因があり、精神的虚無を乗り越え自らも一切の柵(しがらみ)から自らを解き放ったシッダルタの覚醒への道の思考方法が「人間の霊魂を思考」する上では重要です。著者的には巨大な哲人「龍樹」が現れ釈尊の論理、言い換えれば「論理無き論理である覚り」を「偽経(大乗)]を用い哲学としたことが物理科学から「虚無主義」、此処では、何もないものは、何ものでもない、無もないし有である存在もない、「虚」が全てである。龍樹の論拠は民族性から起来しているとも云え、文明先進国を自負する西洋思想家は其の論拠に身震いします。時間は在って無し、存在とて在って無しでは西洋思想家は有無夢中に陥り、其れ故の当然の対応、龍樹を虚無主義者と決め付けます。ニーチェの「虚無」の意味合いが再考される由縁です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年03月28日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル63/ニーチェ30 全てを源を一をとして元理として人間が思惟探求するのは、人間精神に與え齎されたものであり、世界の理に人間が触れることの出来得ない万物の根元から人間に思惟する能力が賦与されていることに起因します。ところが、古代中国の老子の哲学では、万物の根源・本体は、図り難く無、即ち「虚無」を無で非ず、老子の哲学では「虚無」を表立てて「虚無自在の心」を尊び「虚心」を薦めます。言い換えれば「虚無」は人間の精神内の問題だということです。老子の哲学では万物の根源である本体は、人間精神の慮り(おもんぱかり)が及ばない「無」であるということ。無については天下の万物は有より生じ、有は無より生ずる。「虚無」は無で非ず否定であるとします。道(陰陽道)が一を生じ、一が二を生じ、二が三(陰陽と沖気(ちゅうき))を生じ、陰陽と沖気である三が万物を生ずる。「万物は陰を負って陽を抱き、二つを媒介する沖気(ちゅうき/調和の気)がこれを調和させているのである。」と説き、生者必滅の論理を世界の理に求めます。老子は或る意味人間精神内の「無」をも「真空状態」、即ち「空間」と捉えています。老子にとっての「無」とはあくまでも、道(どう)の存在論的な「無」故、「無」とは「何も無い」ことではなく、老子的な真空の概念に従って「何かが在る」状態を指しています。其れ故、老子は「完全な無」を真空の概念に従って「無は有を生み出す器」と理解します。此のことは現代科学の「時間論」でも重要な要素です。殆(ほとん)ど空間を失ったブラックホールの中心部では時間は止まったように或は保々停止状態にみえることが定説です。老子の云う「無」とは「全くの絶対無」を予期しているのではなく「実在」としての空間を「無」として定義する故に矛盾が有り、「無」は一点でもなく存在しない故に「無」として定義され、虚空は力に満たされで、喩え虚空が真空にでよ「存在然」としており生成死滅の経緯を老子の哲学である真空に求める可(べ)きでないのは理の当然です。老子は「無」其のものを思考で捉え理ことに拘(こだわ)り「無を精神の有無」に関わり過ぎたための誤謬に陥っています。とはいえ、虚無に関しての誤謬は犯さずニーチェの虚無と相通じます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年03月27日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル62/ニーチェ29 全て一の源の原理はギリシァの芸術的には美麗な叙事詩による神の物語が、神々や英雄との戦いで「神は死んだ」御伽草子と化したことによります。ギリシア神話とは神話というその名に反し実は「神の殺害」の叙事詩です。周辺国家の一神教等の影響を受けてギリシァは叙事詩を離れて世界の基礎、創生の原理をコスモポリタンに求めます。毒杯を煽いだソクラテスの復活です。ソクラテス式問答法(Socratic Method、Socratic Debate)は、反対の立場にある個人間での質問と討論の形式であり、理性的思考を刺激しアイデアを生み出すための質問と回答に基づきエレンコス (Elenchos) とも表意されます。現代にも通ずる弁証法の一種であり、対立する観点同士で戦わせる弁論の形式となることが多い。一方が自説を補強するなどして、もう一方に矛盾を気づかせ一元の解答を求めて思考し、「神の定義」を共通の要素として相互に共通させ、「神の実存在」の証明、先には「神の不死性或は不滅」を顕わにするのに有効です。ソクラテス式問答法(英: Socratic Method、Socratic Debate)は、反対の立場にある個人間での質問と討論の形式であり、理性的思考を刺激しアイデアを生み出すための質問と回答に基づくエレンコス (Elenchos) とも呼ばれ。後世に正当な思考法とされる弁証法の一種であり、対立する観点同士で戦わせる弁論の形式となることが多い。一方が自説を補強するなどして、もう一方に矛盾を気づかせるをも追及出来得る論法に役立つことは現代でもソクラテスの問答法ほどの粘着性がないならば現代に生きる我々の現代に有効且つ便利な、指導方法であることは現代教育育成には有用且つ必要であることは認めざるを得ません。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年03月26日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル61/ニーチェ28 ギリシァの他に比肩しない程に優れ芸術性に富む、神に纏わる叙事詩は、遂にはギリシァの神話が、信教段階にまで高められます。其の代表的な事件が神を冒涜したと難癖故の、悪法も法なりの「ソクラテスの毒杯」でしょう。しかし、ギリシァの英雄と神を描(えが)く壮麗な叙事詩には神々の闘争が顕れ、物語的に死する神々が当然に出てきます。其の叙事詩としての夢想が剥落(はくらく)した時に、世界自然というデイノーン(異他・凄きもの)にギリシァは直撃され「神の死の後」の直撃された人間は何に根拠を求めるのか痛苦の精神状況が生じ、死んだ神{神は死んだ」に取り変わる新しい至高性を確保する必要性が西洋哲学の祖ギリシァのタレスを始めとした「世界の根本思考」の土壌が築かれます。もはや、世界及び其の事象を,二つの相互に独立の根本原理によって説明する立場。神話や宗教では、光に対する闇,天と地,善神と対置する悪神,神と其の被造物などでは説明はおろか解明が困難な状況から「全ては一の素、乃至は一元の原理」が求められ哲学の相対的価値の向上に期待がかかります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年03月25日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル60/ニーチェ27 ニーチェの有名な言葉「神は死んだ」で課題として問題に挙がるのは、「神の死」其のものの命題の史的語彙の変遷です。西洋哲学の祖ギリシァのタレス以前にもギリシァには神に関しての秀でた叙事詩としての「神話」が展開されています。詰まりは多神教に於ける神的社会を擬人化する物語の叙事詩です。神を人間的で地上的なものに化すること、詰まるところ、神の非神化、神も生死を逃れられないとする神の擬人化です。此の例では、印度のシッダルタ説くところの説法にも顕れます。釈尊は神の存することを否定はしませんでしたが、永遠の存在「有」とは認めず、神々にも闘いがあり、互いの生死は遁れ得ない。「有」としては存在し得ないものと説法します。西洋思想が仏教哲学の「空」に西洋思想はは脅威を覚える由縁です。ニーチェの有名な言葉「神は死んだ」は釈迦の言葉を受け入れたから「絶叫」ではなく、人間中心の個人主義の破局を「実存主義」から「神の死」を否定的に訴えたかったと推察されます。「超人」とは精神が高貴な者・肉体が高貴な者だけが許されるものであり、俗に云う文芸創作ものの「スーパーマン」とは意味を異にします。其のことから「超人」は「神は死んだ」とは叫ばない筈です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年03月24日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル59/ニーチェ26 「ニヒリズム」という言葉は、何物も無くむなしい「空虚」、此の世に存在する全てのものに価値や意味を認めない「虚無感」、 虚心である「虚無自在の心」、無限の宇宙・大空・「虚空(こくう)」、将又(はたまた)「無」に比照されるもの。万物の根源・本体は図り難く「無」であるとし亜細亜では古代中国の老子の哲学から思想的には語彙が定められて来たものですが、「虚無」に関してはギリシァ哲学の大元(おおもと)ソクラテス以前の哲学者にも「虚無」は「空虚」などを意味するものとしては取り上げられてはいます。解釈は意義や要素に中身のない状態、内部に空っぽの空間を持つ全くの「伽藍堂(がらんどう」)、加えて西洋哲学から観た「空」、仏教哲学では「空」に異義をもたせる故に西洋思想はは脅威を覚えます。更には ・空っぽ・中空・エンプティー 「 空き空」の空白地域または空間のがらんどう・空白に埋まる物質の欠如した空を虚無と凡的には言っています。ところが豈図らんや、ニーチェの「空」は「有や無」の反対語ではなく、意義の欠落と捉えるのが妥当でしょう。、ニーチェの思想的傾向から考慮するに「虚」の反対語は充実の「充」と捉えるのが正解でしょう。ニーチェの有名な言葉「神は死んだ」は、神の虚、日本の神無月を意味すると捉えなければニーチェ其のものが非難する無神論さえ浮上し得ます。ニーチェの言葉「神は死んだ」は存在の消滅を意味するのではなく「神」の存在さえ思慮しない惰性的人間を呼称する非難の言葉と捉えます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年03月23日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル58/ニーチェ25 ニーチェ云うところの「虚無主義」と史的哲学体系の意味するところの「虚無主義」は同じ「ニヒリズム」という言葉を使用していますが、ニヒリズムというという成語は意味合いを異にし、形而上のニヒルとニーチェ云うところのニヒルは共に「造語」であり生成の思考経過と目するところが異なります。。本来的にはニヒリズムとは連続論に対置された原子論の意味であり、今まで最高の価値と人々がみなし、目的としていたものが無価値となった歴史的事態のことを言うときに多用されます。かといって、西洋哲学者がインドの龍樹(ナーガルジュナ)其の人の思想を批判するときには「虚無主義」は、何ごとであれ否定し尽くす意味合いでも用いられています。「時間は去らない・ものごとに原因は無いし結果は無い」とするナーガルジュナを「虚無主義」者、此の場合には何ごとをも否定する者を意味しています。ニーチェが神学体系其のものを粉砕することを目的としようとしないようにするのと同様に、ナーガルジュナは多くの偽経を派生させたにも関わらず仏教哲学の祖とされるのは、釈尊の説法の語彙語句を哲学的に捉えんとしたからです。ニーチェ云うところの「虚無」が是々非々を意味するのであれば、「龍樹」説くところの「否定の論理」は「有」は否定するものの「空」、在るとも無いともつかないものを「肯定」的に捉えており、ニーチェ云うところの「虚無」は妥当しません。西洋観念論が云う形而上哲学からの批判、「無」を「虚」とすることに対しても「龍樹」は人間の精神が捉える「時間感覚」を否定するのであって人間の外界の物理世界そのもの迄も否定してはいません。ニーチェ「虚無」を「龍樹」に当て嵌めることは不可能であり、形而上哲学の観点からの「虚無」を龍樹に当て嵌めることは、外世界そのものを否定していないことから、藪から棒の批判となります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年03月22日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル57/ニーチェ24 ニーチェは「ニヒリスト」どころか、其の正反対のものを人間に期待します。そうでなければ「超人」思想は浮かびえません。テレビの普及の一翼を担った「スーパーマン(superman)の語源でもある「超人(独:Übermensc)」はフリードリヒ・ニーチェが過ごしたの後半期にその著「ツァラトゥストラはかく語りき」において、受動的に他者と画一的な行動をする現代にも通用する一般大衆、何事も、安楽が良い・冒険は冒さない・憧れは持たない、絶えず人間関係の軋轢に怯える受動的に他者と画一的な行動をする一般大衆、無為無気な是々非々主義を批判して「虚無主義者}或は「畜群」と罵倒しています。此の立ち位置に在っても自らの精神を振り返り変動を繰り返す世界を「永劫回帰」と称し世界を円環的に捉え、教会権威の一方通行の時間を否定し、人間行動の史的に繰り返される過ちを「永劫回帰」によって批判し、自らの確立した意思でもって行動する「超人」であるべきだとしています。人間夫々の個人主義よりも他者より超越した至高者性の推奨であり、「自身の善悪観(己の価値観の全て)が世界に屈服しない生き方の推奨、結果的には全体主義の幇助をするかたちに成りますがニーチェの本意ではないことは勿論です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年03月21日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル56/ニーチェ23 ニヒリズムの代表的存在「ニヒリスト」としてニーチェの名が挙げられるのは、所謂「ニヒル」を「無」とは捉えず「人間以外の全てのものが無価値」とする虚無主義を予言したからであって、ニーチェ自身が虚無主義者とするのは誤謬です。ニーチェの虚無主義の定義ではでは「虚無思想」を現実世界に持ち込むことは、此の世の社会では何をやっても変わらない生きる意欲其のものの瓦解を意味します。ニーチェは20乃至21世紀はニヒリズムの時代であると予言したのも当たらずも遠からずです。「ニヒリスト」として通俗的には名前の挙がるニーチェ其の人はニヒリズム非定論者であることは明らかでしょう。其れ故に、彼の名著、インドの世祖シッダルタを想わせる「ツァラトゥストラはかく語りき」では、逆に「ニヒリスト」を非難して、「超人」の対称に生きる人間を「末人」と表現、安楽が良い、冒険は冒さない、憧れは持たない人間を蚤のように根絶しがたい生き物であるとさえ述べています。ニーチェの真意はつまり「人間は憧れの矢を持っていなければいけない」、詰まりは未来に向かって矢が飛び続ける、時間論的には「神」の待つ審判の世界を否定し、時間を第一視して大宇宙其のものさえ循環するに伴い生命の循環、神学的には魂の循環を深奥に抱いていた可能性もあります。彼を蝕む晩年の狂気がニーチェ=虚無主義者とする誤解が生まれる要因になっています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年03月20日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル55/ニーチェ22 実存主義は現代思想においても重きをなしている。但し、其の潮流は大きく分けて一の段階とニの段階に区分されます。第一グループの実存の捉え方は、こと人間観を基底にした個人主義的傾向には第二グループも同様の捉え方をしていますが、人間の倫理的実存の段階にはなく、まさしく形象的な表現を以って人間の感性を表現している段階にいます。即ち、人間を思考する段階に留まっているとも言えましょう。人間の持つ精神思考の正誤、誤謬の段階にあり哲学の要素である概念化には至ってはいません。其れに至らなさを持つ第二グループは、自らの個人主義的人間論を自然哲学や認識論的哲学に対抗し得(う)る論理的概念を導入します。人間主観だけでは解決しそうにもない「人間の外界世界」を「実存」が取り込める概念を創出することに一の段階を「思考」から「思想」への高みへの挑戦を挑みます。其のためには第二グループに属する異端の覇者サルトルは、社会の思想傾向が個人主義が行き詰まりファシズムに向かう中、マルクス的な唯物主観を組み込むことを目論みます。第一グループにはニーチェやキルケゴールのが属し、第二グループにはハイデッガーやヤスパース、それらを締め括るサルトルです。サルトルの段階になるとニーチェは「神」と袂(たもと)を別(わ)かちえないニーチェは「舌足らずの雀」にも憶(おぼ)えたでしょうが、其れ故に、自然世界や人間精神の奥底に眠る世界認識の理性としての霊魂観は蔑(ないがし)ろにされます。「実存主義}がニヒリズムへの危険性を持つのは此のこと由縁です。時代は「実存主義」が「現実主義」から「是々非々主義」に変化しようとしています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年03月18日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル54/ニーチェ21 ラテン語のニヒルnihil(虚無)に基づき新たに造語したニヒリズム(Nihilism)とは、一般に置ける解釈「無」其のものを意味するというよりは、凡そあらゆる既成の宗教的・道徳的・政治的権威や既成の社会的秩序とそのイデオロギーに対する無条件的な否定の立場を表しており、それら全てが何ものをも意味に価しないことから「虚無」と解されています。弁証法を神学の対象にも適用した普遍は実在しないとする唯名論を突き詰めてゆけば、教会(カトリック=普遍)、ひいては神を否定する思想にもつながりかねない。アベラール(Pierre Abélard1)の三位一体論の思想は異端視されたが、唯名論としては折衷的、穏健なものであり、神の意志の中に普遍は存在するとしていたアベラールの説を継承解釈した12世紀の神学者たちの一派の所謂ニヒリアニズム(Nihilianism)を初発としキリストの人間性は偶有性に過ぎないし、キリスト其のものは人間たるイエスとしてはニヒル(虚無)であるという中世キリスト論が語彙と成っています。此のことはイエスの十字架に架けられ苦痛で一瞬神が見えなくなった時の言葉「わが神、わが神、何故わたしをお見捨てになったのですか」という言葉の解釈に尽きます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年03月17日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/サルトル53/ニーチェ20中断を再開 ニーチェの発案した「永劫回帰」を形而上哲学だけでは永劫回帰を意味するところを解き明かすには不充分であり、更には「超人思想」を所謂アニメチックに解することにも成り得かねません。ニーチェの「永劫回帰」を解き明かすには「時間なるものはアリストテレスの変化としての運動」の時間概念で正解なのか、時間其のものの創リ手其のものを探求するために時間概念を観相する必要に迫られたからです。時間は創造主「神」の基に在るのか無いのか、将又、世界の創造主は「時の運動である時間」を大宇宙的世界に偏在させた「時の絶対者」であるのか、悩める人実存主義者ニーチェは考察したでしょう。神が実有・実在・実存すると考察すれば、いかなニーチェも「神は死んだ」と叫んでも意味するところは我々凡人とは意味するところが異なります。其の意味するところはキリスト教的な神や価値観が、プラトン的な形而上学的真実在、超越的な彼岸世界への信仰が消滅して、現実の生・世界が無価値・無意味になったことを表彰した語句であり、此の儘の西洋の状況では危機状況にあることを示す言葉として「神は死んだ」と表現しているのであり、彼自身が「神無し(なし)論」を奉じているわけでもなく、絶対者其のものを否定していないことには注意が肝要です。後にニーチェ及びワグナーを信奉する画家志望者であったヒトラーが鉤十字のもとナチスを結成、一時はヨーロッパを席巻する様を(さま)を見せたものの、英雄ナポレオンと同様に寒風吹き荒ぶ厳冬のロシアで散々な目に遭う憂き目に出くわして敗残の兵少なく共に没落しているのは運命の悪戯(いたずら)か繰り返す時間の業なのかは神のみぞ知る世界理法なのかもしれないと勘ぐりたくもなります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年03月16日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/時間概念を観想52/宗教の時間観(七百十八)最終章 同じゼウスを抱くユダヤ教及びキリスト教、其の発展型とも云えるイスラム教は世界の時間を、神の業を最初にして始まり、神の意思により創られ始まった時間は、永遠の命を約束された筈のアダムとイブが原罪により寿命を与えられ、其の血統に繋がる人間に、悉くに命脈を尽きることを運命として約束されます。其の意味するところは時間を遡って過去には戻れない、時間は巡ってこない。審判の下される日に準備せよと問いかけています。ユダヤ教及びキリスト教、其の発展型のイスラム教のどれもが直線的な過去から現在そして未来を経て神の審判と神そのものが治める新世界への一方通行です。転生とは云え、仏教の「浄土思想」に酷似しており人間の時間観想が、自己の身体の滅びへの人間精神の反応が強く影響していることは間違いなさそうです。但し、「時間」物理的に在るのかと云えば甚だ疑問です。時間は空間に人間の視覚には羽ばたきさえしないで浮かんでいるように見えるハチドリ、アニメのひとコマ々が連続したパラパラ漫画やフィルムの映写、デジタル映像の数字の連射、名ピアニストの鍵盤への打撃は流れを醸し出し、過去の音から現在、次の音階を予期させます。結論的には人間の内壁を超えた内精神の外側には、人間に時間を観想させる「もの」があり、時間は精神理性を持ったものにしか観相出来得ない代物だと言えましょう。時間とは人間の精神の連続性の賜物だとも結論付けできます。アルキメデスの時間は運動量の変化というのが遠からず的を得ているかも知れません。然し乍ら、人間霊魂は時間とは距離を置く別代物(べつしろもの)の可能性は否定する訳にはまいりません。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年03月15日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/時間概念を観想51/宗教の時間観(七百十七) 人間にとっての時間を最も身近な存在だと意識し切実に感じじるときは、誰にとっても来る筈の命脈、命尽きることに抗えない死でしょう。永遠に生きることは古今東西、階級社会にあって自らの力、乃至、血統等で社会階級や権威・権力・財力恵まれた境遇に身を置く人間の欲望であり果なき願望でした。彼等は輪廻などはあっては無きもので自己の生命と肉体の衰亡を拒否するためには万金を惜しみません。時間の経過を惜しむのは人生の謳歌を長延(ながび)かそうとする人間の絶えなる欲望の特徴です。逆に、虐げられた境遇に身を置く人間には、逆境の虐げられる生活、明日をも見たくない希望のない生活が、命脈の長生化、或は転化変遷の「輪廻」を望みません。とはいえ自己の境涯で永遠に生きることも望みません、希望のない現実は煉獄そのものだからです。シッダルタは旧来の「輪廻」思想其のものの真相を読み取り「浄土・成仏」思想を展開してみせます。「浄土・成仏」思想も或る意味「輪廻」とも解するむきも無きにしも非ずですが、異相の「浄土・成仏」世界に再生することは「輪廻」とは意を異にします。此の思考「浄土・成仏」思想には「時間の円環」は無く輪廻や時間の円環とは離れた別世界です、後に「空論」を著し時間を否定した大乗の祖ナーガールジュナ(龍樹)の思想から発展した「いとも気高き白蓮教(南無妙法蓮華経)」では、浄土世界に問答法を組み込んで、佛の口を借りて人間にしては「永劫の時」ではあるが限られた年月の命脈を与えさせています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年03月14日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/時間概念を観想50/宗教の時間観(七百十六) 時間とは物理学的見地からは結果を出すための特異点、人間精神内では人間の精神からは連続性を持ったアリストテレスの運動量の変化としては捉えないものの、一種の流れを持った現象として観想しています。「時の流れ」は人間の精神観想或は物理学の計算上の物質変化を解明する手段としか意味を成さないのでしょうか。物理学の発展とともに、現代では「場の量子論」余剰次元という概念が現れ、超弦理論に代表される不確定性原理を時空に当て、存在時間を物理世界の最小単位。量子力学の基本量であるプランク定数hと、真空中の光速c、重力定数Gの3つの定数で決まる「プランク時間」程度で生成・消滅する物理的対象として捕らえ切れるものとします。此の奥に潜むのは現代頻繁に騒がれ確認が求められている「重力子」が時間には密接な関係があることが予見されます。「時間」には粒子的な要素を求めることは極めて困難であり、哲学的及び信教や神学・神秘哲学が未だ解決できない問題ですから、最終的には名目上の「時間子」なるものの本質を物理学に解明を求めるのは止むを得ないでしょう。人間精神が「時の流れ」を観相することの真否は精神医学や物理科学に頼らざるを得ないのかも知れません。「無」と「有(在)」を繰り返すのは、或は「無」も「有」も夢幻として、「現在する」ものだけを一刹那とするかは未来に託された希望です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年03月13日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/時間概念を観想49/宗教の時間観27(七百十五) 時間・空間が複合体どころか混合体、或は同一体であるとすれば、大乗の祖「龍樹(ナーガールジュナ)」の空論は西洋の思想家の多くが「虚無主義」と看做すことも、享受しなければ成りません。此の思考は誤謬が確実となり「空」其のもの自体が崩壊することともなります。然し乍ら、此処で述べねばならないと迫られるのは、大乗の祖「龍樹」の著作である「空論」で扱うのが、人間の肉体や物理世界の実体、其の延長としての宇宙的な理を否定していることは、露程にもないことを吟味すべきでしょう。「龍樹」の問い掛けの対象は、石岩などではなく人間の活きた精神、其の活動の働きに置ける実相を究めんとする理論だからです。彼の究明せんとするところが、運動力学ではなく精神力学に重きを置くことにより、世界の摂理を人間の内面から観相し、人間の不断に受け止めている矛盾点を説くために、敢て、物理学的世界を応用していることは「釈迦の便法」を想起させます。簡単粗略に述べれば人が思考・体験する「時間」とは人間身体の外側には非ず、自己の精神の活動に付随する経過だと説くようにも取れます。其のことから導き出されるのは外世界である大宇宙には創生・転遷・終末があろうとも人間内面世界は「場」を異にすることが可能だとし、「無から有」・「有から無」への転移を拒否したことには、時間の本質を捉える上でも参考になります。「龍樹」の説く汎る発言の文面から見て、彼は人間が観相する時間即ち変化は否定するものの、其のことは、飽くまで人間観想としての精神的要素を帯びた大世界であり、物理世界とは亦、意を異にしています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年03月12日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/時間概念を観想48/宗教の時間観26(七百十四) 我々現代人にあっても通常的な生活においては「時間」は等質的であり「場」を持たない19世紀のニュートンの絶対時間・絶対空間という考え方でも左程困難を覚えません。絶対時間が何ものにも規制されることなく、其れ自身で一様に流れるものであり、同様に絶対空間が何ものにも規制されることなく、其れ自身、偏在するとして時間と空間は独立かつ不動のものであると考えていることで通常であれば別段に不都合は起こりません。物体の運動については、よほどに光速に近い速度でない限り、相対論からの近似により、ニュートン力学の枠組みで十分な精度で計算できることが保証されているのです。相対性理論が登場した後でも、大半の場合は基本的にニュートン力学の枠組みのままで時間概念を取り扱うことことで事足りていす。但し、形而上学的見地から、或は信教上から、将又、霊魂存在の不滅や再生を考察する人物であれば、人間の観相する時間の本質を究めることが自己の思考の覚信を高めるため、人間の倫理的実存、生死を脅かす時間の本質を知ることは意義があり「要(かなめ)」となるでしょう。「時空」という言葉が示すように、或る座標系では時間と考えている量が、他の座標系でみると、時間と空間座標の混じり合ったものになるという事実。時間と空間の間とには、もはや絶対的な区別を付け得られない事実。時間・空間は複合体どころか混合体、或は同一体でありながら双方の性質を表現していると捉えても五十歩百歩でしょう。ローレンツ変換といいアインシュタイン理論といい、物理学に精通していなくても時間性の本質は顕れそうです。g src="http://image.with2.net/img/banner/m02/br_banner_amesho.gif" width="89" height="41" border="0" />人気ブログランキングへオカルト・ホラー小説 ブログランキングへ
2017年03月11日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/時間概念を観想47/宗教の時間観25(七百十三) 何れにしろ時間がX線上・Y軸上に位置を占めない空間が縦・横・高さの3つ座標で表せるこの世界が3次元世界であるということに他ならない。ところが時間は4次元座標の一点を刻印可能だとしても、1個の質点の運動は、3つの空間座標と1つの時間座標で表される4次元空間の中の、1本の連続曲線(軌跡)として表現され得るものの、時間そのものを特定の時刻に特定の場所で何かが起きるといった事象 (event) は、この4次元空間の中の1個の点としてしか表現し得ません。其れ故に、ニュートン力学では特定の時刻に特定の場所で何かが起きるといった事象 (event) としては表現できても連続線が描ききれません。ニュートン力学では、ガリレイ変換に対して空間座標と時間座標は独立であるため、時間座標(時刻)は空間座標(位置)のパラメータ(parameter/媒介変数)として扱われることにより、時間は世界空間の一部を占めることが出来得ないこと、時間と空間が一体化した時空 (space-time) だと想する考えが生まれ、其の次第は、重力は4次元時空の曲がりに相当するとする一般相対性理論の発想に繋がります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年03月10日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/時間概念を観想46/宗教の時間観24(七百十二) ニュートン力学において時間を肯定するのは、時間の在り方を全宇宙で同一だと考察したことから来る結論であり、此れに用いられている「絶対」なるものは「完全体或は絶対意思」とは意味合いを異にし、他者が幾ら変更しようと藻掻くものの変異・転化を成し得ないものとして時間を空間的乃至は幾何学的に考察しています。現代の我々の持つアルベルト・アインシュタインが著した世界の絶対性を究めんとする「相対性理論」や世界の絶対性を疑う「曖昧性科学理論」は未だ現出していませんでしたから致し方ない面があります。然し乍ら、ニュートン力学であろうと相対性理論であろうと1個の質点の運動は、3つの空間座標と1つの時間座標で表される4次元空間の中の、1本の連続曲線(軌跡)として表現され、特定の時刻に特定の場所で何かが起きるといった事象 (event) は、この4次元空間の中の1個の特異点として表現されることは共通します。但し、ニュートン力学では空間座標と時間座標は独立して扱うために時間座標(時刻)は空間座標(位置)のパラメータ(parameter/ 媒介変数)として取り扱われ時間は空間の一成分としては認識されず、空間と時間は切り離され、現代科学が認識する動的大宇宙にあっては、矛盾点が見出され修正が求められていますが、通常に人間が生活する世界環境では別段の不都合はなく矛盾点は問題にはなりません。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年03月09日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/時間概念を観想45/宗教の時間観23(七百十一) 英国の人アイザック・ニュートン(Isac Newton、1642年-1727年)は、自然科学、なかでも物理学と数学に関してはにおいては彼以前には流体静力学の基礎を築いたアルキメデスや神憑り的な性状を持ちながらも「サモスの賢人。クロトンの哲学者」とも呼ばれたピタゴラス以来の大天才であるのには誰も異論はないでしょう。然し乍ら、論理と技術の体系を目指すアルキメデス、自らが教団を起こし宗祖となったピタゴラスとは立ち位置を「自然科学」に求めるものの、ニュートンは哲学にも卓抜した才能を持っていました。彼の物理学と数学の才が余りにも高く評価された故に、一般には彼の哲学を過少評価する傾向がありましたが、彼の哲学思考は同時代はもとより後世の哲学者に多大な影響を与えたことは頭に記すべきでしょう。彼はユークリッド(前300頃)がその著「原論」(ストイケイア/Stoikheia)で展開した幾何学を、自らの哲学原理、なかでも「時間原理」を幾何学的に捉えて見せます。アイザック・ニュートンは理系哲学者らしく物理学からは切っても切れない時間観念を否定せず、空間は均一で平坦なユークリッド空間だと暗黙裡に仮定。時間は過去から未来へとどの場所でも常に等しく進むもので、空間と共に、現象が起きる固定された舞台だと想定します。其の固定された舞台を「絶対空間(Absolute space)」及び「絶対時間(Absolute time)」と命名するのです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年03月08日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/時間概念を観想44/宗教の時間観22(七百十) 11世紀から12世紀以降はキリスト教の影響が時間論にまで及びます。但し、此の時代に盛り上がりを見せ始めた商業資本が人々の時間意識に影響を及ぼしはじめます。商人たちは日数と費用の計算をするために、計測するものとして時間の観念が必須だったのです。市民共有の大時計は、今は自由都市を牛耳る商人たちの、経済的・社会的・政治的支配の道具となり一般市民にも其の影響が及びます。時間が神を離れ自由を勝ち得たともとれます。此処に、自然哲学者であり自然科学者のニュートンが登場します。キリスト教の時間観は、神を目指す一(いち)の方向に進む直線的な時間観であり、時間観想は神の世界の古今東西はおろか、創生にも関わる「永遠の瞬間」と人間が現実世界における罪業、将又、神の意志に沿った行動の報償が直線上の片道一片とうにて待ち構えます。ギリシアの女神テミス(Themis)の如きです。キリスト教の時間観は神への世界への一本通行であり円環思想が入り込む余地はあり得ません。「繰り返す時間」の観念は否定され、終末に向かって進んでゆく時間の変化がのみ信じる人間には意識され、人間はの生命が尽きれば、煉獄、或は天国か地獄へ行き、最後の審判を待つしかないとされたのをキリスト教の熟縛(じゅくばく)から、実質的には遁れでた史上空前の大天才、恐らくはニュートンに匹敵するのは、ニュートン以前ではアルキメデスと云われる才能が時間をキリスト教の熟縛から引き離すことに成功します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年03月07日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/時間概念を観想43/宗教の時間観21(七百九) アリストテレスが時間は物体の運動の数であると捉える観点から「時間」を観想すると、を物体の運動其のものを時間としては思考しないが「運動の数」と表象することに注目されます。人間は自らが自らの思想を少しも転化させないとき、或は、其れが転化していることを自らが観想しない時には時間が経過したに気付かされない。転化とは、生成と消滅・変化・増大と現象・移動だと提起し、此の内の「移動」が運動として捉えられ、其れ其れの性質に関する運動、量に関する運動、場所に関する運動をを示しているとしています。此の「転化」に変化や運動、更には魂の動きを含有させ、外世界の運動が内世界の魂には時間の経過を催させていると断じ、外世界には運動量の変化は在りこそすれ、自然界には「時間」なる要素は有り得ないし、過去の時代や未来の時は現実在には見付からないのは当然であり、転化の証明が現実在に有り、予想が予期されるのは現実在までの転化の運動を観想すると思考します。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年03月06日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/時間概念を観想42/宗教の時間観20(七百八) アウグスティヌスの時間論とアリストテレスの時間論に顕著な相違が現れるのは、形而上の哲学と後世の実存主義を検討すれば納得させられる可能性があります。西洋の哲学の流れは紀元前よりギリシアを中心とした記録に残る万物の根源(アルケー)を求め日食を予言した最古の哲学者タレスからプラトン「イデア」からゲオルク・ヘーゲルの「絶対精神」までの間、人間存在を離れたところの、通常、人間が観相し得ないところに物の本質、現実の世界とは別に永遠不変の「本質」の世界は隠されており、其の世界の成り立ちの素因を求め追求しています。詰まりは、人間精神とは別離した外世界に永遠不変の「本質」の世界があるとしています。対して、アウグスティヌスの時間論を思考するとキルケゴールやニーチェに始まり、ヤスパース、ハイデッガー、サルトルに至る実存主義、アウグスティヌスの時間論には神学的超越概念が読み込まれています。アリストテレスの時間論では人間世界とは別に本質としての時間は運動として捉えられ、アウグスティヌスの時間論では自己を離れて本質があるとは考えずに、自己の精神を離れた時間は有り得ないし、人間精神と別離した時間は世界内本質の側にはなく「神の永遠である瞬間的捕捉可能な俯瞰世界」にしか、時間観念其のものを成り立たせる要素は見つからない。「時間」とは「運動量の変化・変遷」などではなく「人間精神の外世界を捉える恩恵」だと思考しています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年03月05日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/時間概念を観想41/宗教の時間観19(七百七) ギリシア哲学アリストテレスの時間論、マケドニア王国の王子の家庭教師、単一帝国としては世界史上に、其れまでには比類なき西洋・北アフリカ・ペルシア半島から西北インドいたるまでをも占有占拠してみせ支配した若き英雄である教え子アレグザンダーを教育したアリストテレスの時間論は、神学的影響が無い故の純粋形而上学的に時間を、通常汎用的には一見には、見事に納得させ得る「時間論」を組み立ててみせます。即ち、時間は物体の運動の数であると捉え、時間は転変・転化なしにはありえない。然し乍ら、アウグスティヌスの時間論は「我々自らが自らの思想を微としても転化させないとき、あるいはそれが如何に転化していても、其のことに気付かないでいるとき(場の意)には、われわれには「時間が経過した」とは観想しない。此のことは、病患・事故等によって意識を失い、外界からは経過時間の中断の体験を持った人間が記憶を取り戻した時の体験、其の間の時間の流れの経過は何の様(どのよう)だったかを述べた現代の米国の女医の体験によれば、時は流れようとしても流れないゼリー状の夢だったと述べています。此の実体験談には時間の真相が見え隠れしており興味が惹かれます。此の経験論からも「時間」の真相を究明するには、アウグスティヌスの時間論とアリストテレスの時間論の似て非なる相違を確認する必要に迫られます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年03月04日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/時間概念を観想40/宗教の時間観18(七百六) アウグスティヌスの時間思考は、神は創造物である時間が其の以前にあろう筈もなく、神の意識にも人間の観想する時間経過なるものは一切無いのだから、時間が存在しないところで、神が其の間何をしていたかという問うのは無意味以外の何物でもないでしょう。アウグスティヌスの神学的時間論では、神は人類に時間の感性を植え付けたとします。神の世界では、「つねに現在である永遠性(semper praesentia aeternitas)」のみがあり、神の物事の意識は永遠の過去から人間の捉える今現在、人間が観想可能な未来とその後までが「只一瞬の点に集約された俯瞰世界であり、神に関する限りは「時」や「変化」さえ無意味です。其のことから導かれるのは、神が人間世界に時間の要素を創造者として組み込んだものであり、人間は其のこと故に「「時間と変化(tempus et mutatio)」を観想する唯物の意識生物だというわけに至ります。アウグスティヌスの時間論は変化や運動する物質的世界に解答を求めるのではなく、人間の世界に創られた「時間と変化」だけを取り扱い、敢て独立の時間論として再構成しています。アウグスティヌスの時間に関しての論じる要は「人間の存在と時間の関係性について」の前提を踏まえて考察しなければ彼の思考の深層に迫ることは出来得ません。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年03月03日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/時間概念を観想39/宗教の時間観17(七百五) アウグスティヌスの時間観を問えば、彼は時間を人間の精神を離れて外部的に在り流れているものではなく、人間の心と密接に結びついて流れていると捉えられているものとして考察しています。即ち。時間は人間の内面と離れては「時間概念」なるものは、外界では流れているとはアウグスティヌスは思考していません。人間の外界では変化・変動があるにしても「時間」ではなく「アリストテレスの云う運動」と捉えているふしも見え隠れしています。大乗の祖ナーガールジュナの極端な全否定の時間論ではないにしても、過去とは今現在では過ぎ去ったものであり既に無く、未来は未だ現在に至らないから在るのは予想的観測であり、通常の人間の捕らえる時間とは自己の内面精神の記憶や予測が齎す幻想に過ぎない。過去・現在・未来と時間を3区分してて考えるのは世の常だが、其れ等は人間の脳内記憶の亡霊にすぎない意を含んでいます。アウグスティヌスは神の人類創造以前の世界には「神の時間」永遠の俯瞰である「瞬間」しかなかいことを匂わします。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年03月02日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/時間概念を観想38/宗教の時間観16(七百四) 時間が存在しないところに、其の間「神」は無為であり何をしていたかという問いは無意味だとしても神の存在を認識する以上、「神の無」を否定しない以上、神には創造以前に、なにものも創造しなかったと答えるのが妥当でしょう。時間の変化の無いところに実在は問えども何の作用や其の意思を求めるるのは不可能です。ところが、日本の国立神岡素粒子研究所は2011年7月31日と8月1日の境目で、10万年程度の時間停止が起きていた可能性が高いと発表し話題を呼びます。東京大学が所有するニュートリノ検出装置「Ultra-Kamiokande」の観測によるもので、ニュートリノの寿命は10の32乗年と非常に長く壊れにくい。また、一般的に時間が停止すると全ての物質が静止すると考えられているが、質量が極めて軽いニュートリノに関しては時間停止の影響をほとんど受けず、時間停止後も運動を続けている可能性が高いとされていることから、研究所では「これだけの数のニュートリノがまとめて崩壊する時間を逆算すると、時間停止のため我々が動けなかった『空白の7分間』で一度に10万年あまりの時間が経過していたことになる」と結論付けています。「時間停止後もニュートリノが運動し続ける」という仮説は1998年、京都大学物理学部の脇幸夫元教授と草井尚道教授が提唱したことから、「脇・草井仮説」として、現在では殆どの物理学者がその有効性を認めているだけに、この「空白の7分間」に起きた10万年に及ぶ時間停止は自然現象なのか、将又、何者かによって作為的に起こされた現象なのか全く分からない。勘ぐれば或るものとしか云えない存在の仕業かもしれない。科学者の立場としてからは、兎にも角にも現段階では不思議なことが起こったと言うほかない」と話しています。時間を自由に操る背景は物質科学的から見れば、人間生活に関心のある「神」とは異質の「絶対存在」であろうことが予期されます。人間の観想する「神」と科学の観想する「絶対存在」の異相が此処に顕著と成っています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年03月01日
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