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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ14 社会生活を送っていくに在って、仏教世界における「我」に囚われない我執を離れた世界に見える「無我」、西田幾太郎の「哲学の道」を実行し辛(しづ)らいのは、欲望とは人間の自己保存の努力そのものにほかならないし、この欲望が不完全な感覚的認識によって決定される限り、人間は外的対象の支配下に当然に晒(さら)され、感情への隷属状態を脱することが出来得ないからです。然し乍ら、人間の感情にはこのような受動感情ばかりか、精神自体の知的活動に伴う積極的能動感情もあり、自己自身の理性的認識によって欲望を決定するときは人間は自由であることもかち得ます。。自由とは、「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ1、神の様態の延長としての自己の本性の必然性によってのみ働くことをいうからであるとします。これに伴う自足感こそが「神に対する知的愛」なのである。ここに道徳の最高の理想がある。というのは、人間の神に対する愛とは、神がその様態である人間を介して自己自身を愛する「神の知的愛/ラテン:amor Dei intellectualis」の一部であり、同時に人間が神の変容である限りにおいて、発想を変えれば、人間の神に対する愛が自己に最高の喜びとなり対する神の愛を受容することにに他ならないからだとします。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年05月31日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ13 スピノザによれば自己の本性、なかでも一際、人間精神が常態としては数々の情欲のために保ち難いが、其の人物の個体差はあるにしても、理性が最も尊(たっと)ばれなければなりません。人間理性の最高の働きが、事物の究極的原因としての神、凡(おおよ)そ謂(い)われる姿形や人格性及び神格などとは縁なき「唯一無二の必然」、凡そ(およそ)そ他との関わりを持たない、究極的などでは無く、其れ以上遡る(さかのぼる)こと能わずの「究極原因たる神」との接点がとの必然的関係において、人間精神の最高の働きが「理性」には埋め(うずめ)秘め(ひめ)られています。人間理性の最高の働きとは事物の究極的原因として神を認識する限りにおいては、人間理性が神を要因とする神の様態の延長として神の「永遠の相の下に/ラテン語:sub specie aeternitatis)即ち個物を直感することに成ります。仏教世界における「我」に囚われない我執を離れた世界に見える「無我」、西田幾太郎の「哲学の道」を暗示しています。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年05月30日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ12 スピノザの思考からすると、個々其れ其れの、ものの現実的本質は「自己保存の努力」インド・ヨーロッパ語族の一分派であるイタリック語派に属するラテン語のconatus se conservandiであり、スピノザは其れを「自存力若しくは自己保存力」、即ち「自己を維持する、もしくはその存在に固執する傾向」としています。個々其れ其れの、ものの現実的本質であい、大凡(おおよそ)一般の個物に備わっている傾向であるとします。現代科学が捉える「ウイルス」さえもその自存力を備えています。此のことはスピノザが言ったことを事後証明したことになります。ところが、其の人間の自己保存の努力そのものの顕(あらわ)れが欲望として現れ、欲望が人間精神の感覚的認識によって決定される限りにおいては其の不完全性が顕著になります。此の認識段階では人間は外的対象である「もの」の支配下にあり、感情への隷属状態を脱することは出来得ないし可能性すらもありません。然し乍ら、人間の感情には「もの」の隷属下にある受動感情ばかりではなく、正当な精神に育まれば自己の内に眠る精神自体の知的活動に伴う能動感情があり、自己自身の持つ理性的認識によって欲望を決定するときに人間は自由であることを獲得します。人間存在の精神性における自由とは、存在としての神が「神の本質」としての「無限の可能性ではなく」存在としての必然により「有と無を離れた自身の存在さえ意識しない「自由其のものの必然性」を持つが如く、スピノザによれば、自己の本性の必然性によってのみ働くことを「自由」と定義するのです。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年05月29日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ11 近年は日本でも専門分野に秀でた人物を特別講師・客員教授として招く例は見受けられますが、国立大学有名校が名誉教授は別として常任教授に学歴無用で採用する例は稀でしょう。其れ故に1386年、プファルツ選帝侯ループレヒト1世によって創立されたドイツでは最古の大学であり、ベルリンのフンボルト大学やフライブルクのアルベルト・ルートヴィヒ大学などと並び称せられるドイツ有数のバーデン・ヴュルテンベルク州ハイデルベルクにあるプレヒト・カール大学の哲学教授として招聘(しょうへい)されたことは、スピノザが、如何に、学会で評価されていたのかの証(あかし)であり此の事実は其れを語ります。其れさえも、招聘に学閥の制限や自由発想に危惧し「国家論」(1675)を最後の著作として、史的哲学者の中ではニーチェを思い起こす程の若さ、活年齢44歳にして没することになったのは残念です。ドイツ・ロマン派の詩人ノヴァーリスがスピノザを「神に酔う男」と評した言葉通り、彼の神がキリスト教的な人格神ではなく、「神すなわち自然/蘭:Deus sive natura}と考えていたのは「思考と直覚」の記者が最も注目するところです。一切を精神に還元する唯心論、一切を物質に還元する唯物論、精神と物質とをともにその現象形態とする第三者に還元する広義の同一哲学、「神すなわち自然/Deus sive natura」。万物は精神も物体も含めてすべて神の現れであり、其れから来る要素としての派生は唯一の無限実体の諸様態であり、一切は神の内的必然によって生起するから、人間の自由意志には偶然も全く持って存在し得ない。スピノザはこのような宿命論の立ち位置から、人間の真の最高の幸福を探究しようとするのです。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年05月28日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ10 スピノザ伝説には「レンズ磨きを生活の糧(かて)とし、余暇はひたすら思索に没頭した」というものがあります。然し乍ら、彼が孤独で簡素な生活を愛したにしても、スピノザの社会的生活環境から見ても、当時の社会から孤立し極貧に喘いでいたとは考え難(がた)い。1672年ルイ14世のオランダ侵略に際して、オランダの専制君主たらんとするウィリアム3世、オラニエ公・ナッサウ伯、オランダ総督にしてイングランド王・スコットランド王・アイルランド王。スコットランド王としてはウィリアム2世。オランダ名ではウィレム3世。 父はオランダ総督ウィレム2世、母はイングランド王チャールズ1世の娘メアリー・ヘンリエッタ・ステュアート、其の人物と政治的に対立していた共和派の指導者ヤン・デ・ウィットは、扇動されたカルバン主義の暴徒によって虐殺されたことを契機(けいき)として「神学政治論」(1670)を匿名で刊行します。此の中で、神学者の不寛容に対して思想の自由を擁護しる目的のために政治的権力の宗教的権威からの独立を目論みますが、其の内容にたとえば「モーセ五書」がモーセ自身の手になることを否定し、後世の編集によると主張した箇所が涜神(とくしん)の書として神学者たちの厳しい非難を浴びることに成ります。其れ故に、身に危険を感じた彼は15年の歳月を費やして完成された主著「エチカ」が生前刊行されることはなく、スピノザ哲学そのものが彼の死後100年もの間、葬り去られることになります。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年05月27日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ9 スピノザは面識があったであろう共和派の指導者ヤン・デ・ウィットの横死を激しく嘆き悲しんだという。「TULIP」(チューリップ)の神学と呼ばれる「カルヴィニズムの五箇条」、オランダ改革派出身のヤーコブス・アルミニウスがカルヴァン主義の予定説に疑問を持ったことから生まれた、修正主義カルヴィニスト、カルヴィン主義傍流オランダ改革派出身のヤーコブス・アルミニウスがカルヴァン主義の予定説に疑問を持ったことから生まれた、修正主義カルヴィニストの主張を1610年に彼の支持者たちが、自分たちの信条を定めた「建白書」(Remonstrantie)を提出し、アルミニウス主義の認可を政府に求め、此のことから有名なドルトレヒト会議が1618年に開かれますがアルミニウス主義は公式に認められませんでした。但し、ドルトレヒト会議が、改革派教会・長老派教会といったカルヴァン主義の特徴を5つの特質を明確にしたことで神学史上では大きな意味があります。(一)全的堕落(Total depravity)、意味するところは堕落後の人間はすべて全的に腐敗しており、自らの意志で神に仕えることを選び取れない。(二)無条件的選び(Unconditional election)神は無条件に特定の人間を救いに、特定の人間を破滅に選んでいる(予定説)。(三)制限的・限定的贖罪(Limited atonement)キリストの贖いは、救いに選ばれた者だけのためにある。(四)不可抵抗的恩恵(Irresistible grace)予定された人間は、神の恵みを拒否することができない。(五)聖徒の堅忍(Perseverance of the saints)いったん予定された人間は、最後まで堅く立って耐え忍び、必ず救われる。此等の頭文字から「TULIP」(チューリップ)の神学と呼ばれることになりますがのドルト信仰基準 はあくまでアルミニウス主義陣営の信条に対抗してつくられたものである。とを念頭に置くことが肝要です。此の頭文字をとって「TULIP」(チューリップ)は、教会権威其れを利用した政治権力に対抗する形の「黒いチューリップ/Brack Tulip/La Tulipe noire」フランスの小説家アレクサンドル・デュマ・ペール(大デュマ)による1850年の小説で花開きます。17世紀のオランダで起きたチューリップ・バブルと、1672年のデ・ウィット兄弟の惨殺事件を題材に、多額の賞金が懸かった黒いチューリップを巡る陰謀と、黒いチューリップの品種開発に情熱を傾けつつも、デ・ウィット兄弟の係累として投獄されてしまった青年と牢番の娘の愛を描くドラマが展開するのです。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年05月26日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ8 スピノザの肖像画を見ると、ともすれば彼が神職に就いてたかの様にも看取れるが、彼は貿易商であった1654年の父の死後、家業を継ぎ貿易商を営んでいました。但し、日頃の発言や主張が祟り、父の死後2年後には「悪い意見と行動」の故を以(も)って訴因としてユダヤ教団から破門の宣告、次いでユダヤ人社会からの追放処分を受けます。然し乍ら、其れを逆手に取ったのか、ユダヤ人社会からの柵(しがらみ)に囚(とら)われないスピノザのオランダ各地を転々とした学問研究への専念が始まり、「短論文」や「知性改善論」を執筆し、1663年には「デカルトの哲学原理」を出版します。スピノザ伝説にはレンズ磨きを生活の糧(かて)とし、余暇はひたすら思索に没頭した」という逸話が伝わってはいますが、実相は、学識あるユダヤ人の義務として、研究の傍らに、なんらかの技術を身に就(つ)けなければならないということからレンズ磨きをしたとされます。だが、彼がレンズ磨きを学んだときには、ユダヤ教団から破門の宣告、次いでユダヤ人社会からの追放処分を受けており、もはや、彼にとっては無意味なものとなっていましたた。ところで、当時の著名な学者たちの多くか、自己の専門学的研究との関連から、好んでレンズ磨きをしています。デカルトやオランダの数学者であり物理学者で天文学者でオランダの25ギルダー紙幣にその肖像が描かれていたクリスチャン・ホイヘンス及びスワンメルダムやフッデ等々、皆がそうでした。この点スピノザも例外でなかったが、彼はイエレスのいうように光学の研究のために望遠鏡と顕微鏡のレンズを磨いたのです。スピノザの性向として孤独で簡素な生活を愛していたにしても、スピノザの実際生活は当時の社会から孤立していたこともなく、更には極貧に喘いでいたとの風聞は一笑に能(あた)いします。1672年にはルイ14世のオランダ侵略に際して、オランダの専制君主たらんとするオラニエ公ウィレム3世(亦はウィリアム3世)と政治的に対立していたスピノザとは面識があったであろう共和派の指導者ヤン・デ・ウィットが、カルヴァン派によって虐殺されたとしていますが、政治的に対抗する勢力に扇動された暴徒によって虐殺されたのが真相でしょう。然れども、正史はカルビン派教徒の虐殺と看做し記してています。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年05月25日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ7 スピノザのレインスブルフへの移住の直接的な契機となったと想われるコレギアント派とは信者が集って聖書を読み、教えについて語り合うのを主たる信条としているところから、現代日本の聖書普及協会に近似します。キリスト教の宗派は大枠は教会至上主義のカトリックと聖書至上主義のプロテスタントに別けられます。仏教に云う上座仏教と大乗仏教の対立が此れに当たります。然し乍ら、プロテスタントを自負するカルヴィニストにとっては、コレギアント派というのは,単に教会の権威を否定しただけでなく,牧師の権威も否定しており、同じ教会至上主義ではないものの、信者が集って聖書を読み、教えについて語り合うのが主たる信条としていることが、単に教会の権威を否定しただけでなく、牧師の権威否定にまで及んだことから、ライデンのカルヴァン派の牧師たちは,コレギアント派を激しく非難します。当時のオランダのレインスブルフ当局は牧師の訴えを斥け,コレギアント派の信者が独自の意見をもつ権利を守りました。このためにレインスブルフはコレギアント派の拠点となり得たのです。1669年10月に画家のレンブラント・ハルメンソーン・ファン・レイン(Rembrandt Harmenszoon van Rijn/1606年7月15日-1669年10月4日)レンブラントは医師であるファン・ローンに看取られて生涯を終えたことで知られるファン・ローン(Joanis van Loon)がスピノザのような人物が住むのにレインスブルフは適した場所であると説明しているのもはこういった事情からです。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年05月24日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ6 スピノザに影響を与えた医師でもあるスピノザが学ぶ学校創立者エンデンもまた印度の釈尊の教えと覚りを反復修行する人々を悟りに導き救済するのでなく、自己の解脱(げだつ)を重視する仏教の流派、インドで大衆部系の菩薩信仰の集団が先行した上座部系の部派仏教「小乗」として批判「大乗」に似通った、正教会の位階性から離れた聖書研究集団、コレギアント派を支持します。カルヴィニストから敵意に満ちた激しい非難に晒されています。意外なことに正教会は牧師の訴えを斥け,コレギアント派の信者が独自の意見をもつ権利を守りました。カルヴィニストから敵意に満ちた反発はデ・ウィットが虐殺を引き起こします。スピノザが論理的人間として彼らしからぬ怒(いかっ)たデ・ウィットが虐殺される一年前のことになりますが、エンデンの移住の実相はオランダを追い出されたというより,ルイ14世の相談役を務めるためであった模様です。ファン・デン・エンデンは医師というよりは教育に力を注ぎ、パリでは上流サロン向けのラテン語学校を開設、未亡人と結婚した環境下でもあり、自宅を知的サロンとして解放しています。此の一件が1671年にはスピノザに手紙を出しているライプニッツを最も接近させた要因になります。ライプニッツ(1646-1716)とは、ドイツの17世紀の哲学者で科学革命では科学者として活躍ます。ドイツ人で政治や外交にも携わり、マインツ選帝侯やハノーヴァー選帝侯に仕え政治や外交にも携わっていました。数学者としても名を馳せ、ニュートンとは微積分法の先取権を巡り争うもののニュートンは、既にその着想を得ていたのですが、ライプニッツはニュートンとは全く別にその体系をつくりあげています。其の価値は現在用いられている微積分の記号がライプニッツが考案したものであることからも秀でています。哲学ではモナド(単子)論を提唱し、予定調和説でも知られる。また、ロシアのピョートル1世に対し「世界アカデミー」の設立を働きかけたり、ルイ14世にスエズ地峡での運河開削を提案したこともある人物。ファン・デン・エンデンとライプニッツは知友でありスピノザが話題になることは当然の成り行きでした。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年05月23日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ5 ファン・デン・エンデンもまたオランダを共和国体制から自由民主制へと移行させる手段を模索し議論しています。其の思想のために教会進歩派とは反動的に為らざるを得ませんでした。先づ、フランス出身の神学者ジャン・カルヴァン(フランス語: Jean Calvin/1509年-1564年)に始まるカルヴィニズムの批判に晒されます。カルヴィニズムにおいての最も重要な教理は、「予定説」即ち人類のうち救はるベき者と亡ぼさるべき者とを、天地創造の始まり以前に、神は予じめ〈あらかじめ〉定め給うたとの教理です。この信仰は,少数の教養ある信徒のみではなく、広く一般信徒の間にも行き亘つていました。この教理が日常生活に与へた影響としては、第一には信徒の精神的孤立化であり、ウェーバーはカルヴィニストの精神的孤立化と、その社会的・組識的性質との関連を論じ、プロテスタンティズム、なかでもカルヴァン主義は、最も禁欲的であり、金儲けを強硬に否定する宗教であったとしています。 金儲けに正当性が与えられない社会では、金儲けは当然抑制されています、更に注目すべきことは、この教理が一般カルヴィニストの間では、自己の救拯(きゅうじょう)的信仰、救う信仰、救いを得させる信仰、救いに導く信仰という意味についての確信を得ようとする努力の源泉となつたといふ点でしょう。カルヴァンが初期の指導者であった改革派教会の教理と実践を予定説と全的堕落の教理により、オランダで総督や君主的共和制を説くことで最もよく知られていたデ・ウィットが虐殺される1年前にカルヴィニストからの敵意に満ちた反発を受けることになる一年前にはパリに移住しています。但し、此の件を見極めれば、真相はオランダを追い出されたというよりもルイ14世の相談役を務めるためでもあった可能性も無きにしも非ずでしょう。「TULIP」(チューリップ)の神学と呼ばれる。「カルヴィニズムの五箇条」がランダの共和制と民主制への心の箍(たが)として作用します。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年05月22日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ4 スピノザがファン・デン・エンデンの学校でラテン語を習っていた当時のオランダでは、政治的な意味でもその地位を高め1653年には国家法律顧問という立場でありオランダの事実上の最高権力者ヨハン・デ・ウィットが実権を握る共和制の時代です。ファン・デン・エンデンは、オランダを共和制から民主制へと移行させる手段を議論していたとのこと。スピノザは民主主義者でしたので,政治的信条とから云えば、スピノザとは共和制を唱(とな)えるデ・ウィットより民主制を謳(うた)エンデンの方が政治的にはスピノザに近かったといえるでしょう。英蘭戦争と海上封鎖でオランダは経済が疲弊し、民衆はデ・ウィット政権に不満を抱くと共に、この国家的危機を乗り切るために当時22歳のオラニエ公ウィレム3世を支持し、7月24日には兄のコルネリスが逮捕され、ハーグのヘバンゲンポールト(現ハーグ監獄博物館)に収監されています。ヨハン・デ・ウィットは、拷問を受けて衰弱し追放処分を受けることとなったが兄のコルネリスのたっての要望に応じてヘバンゲンポールトを訪れたときに、其処にデ・ウィット兄弟がいることを知ってヘバンゲンポールトを取り囲んだ群衆はヘバンゲンポールトに乱入し、兄弟を引きずり出して虐殺します。この虐殺に対してスピノザが激怒したことが知られることから親交のあったことが推察されます。また、、フランスの小説家アレクサンドル・デュマ・ペール(大デュマ)による1850年の小説、17世紀にオランダで起きたチューリップ・バブルと、1672年のデ・ウィット兄弟の惨殺事件を題材に、多額の賞金が懸かった謎の男「黒いチューリップ」を巡る陰謀と、黒いチューリップの品種開発に情熱を傾けつつも、デ・ウィット兄弟の係累として投獄されてしまった青年と牢番の娘の愛を描き、20世紀最大の二枚目アラン・ドロンが演じたのを映画館で観たのにこの事件疎かったのは私だけなのでしょうか。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年05月21日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ3 スピノザはアムステルダムの富裕なユダヤ人の貿易商の家庭に育ちながらも、家業を手伝うために、幼少の頃より非凡な才能を顕(あらわ)し、律法学者ラビとなる訓練は受けたが、父親の家業が忙しく手伝わなければならず、所謂、高等教育は受けずじまいです。周囲の貿易商仲間も其れを気の毒に思ったのでしょう、医師ファン・デン・エンデンの学校への入学を薦め、ファン・デン・エンデンの学校ではラテン語、自然学、幾何学およびデカルトの新哲学を学び、西欧思想に目覚めます。ユダヤ教団からは異端とする思想は此処で培(つちか)われます。彼は旧教・新教、更にはイスラム教からも離れた立ち位置で、独自の宗教観、或いは哲学的理念に基づく世界観を構想します。1656年7月27日にアムステルダムのユダヤ人共同体から破門・追放(ヘーレム)されます。其の時には、狂信的なユダヤ人から暗殺されそうな憂き目にも遭遇しています。追放後はハーグに移住し、転居を繰り返しながら執筆活動を行う。興味深いことには1662年にはボイル (Robert Boyle/1627-1692) と硝石に関して論争したことです。ボイルの示した実験は「硝石 (硝酸カリ) を炭とともに蒸留することによって、硝石精 (硝酸) と固定硝石 (炭酸カリ) に分ける。次いで、得られた硝石精と固定硝石を再結合させることで、最初の硝石とほぼ同じ重さの硝石を再度得ることが出来るというものです。ボイルは、この実験から1には硝石が複合物体であるということ。2には分解して得られた硝石精と固定硝石は、硝石の揮発的部分と固定的部分ではなく、異なる化学実体であるということを主張しました。此れに対してスピノザは、硝石と硝石精は異なる実体ではない。将又(はたまた)、固定硝石は硝石の本質に何ら関与しない不純物であるに過ぎない。更に、硝石と硝石精の差は、機械的なもの、即ち、粒子が静止しているか運動しているかの差にすぎない旨の論争です。ボイルの伝記で注目すべきは、ボイルは一度も大学で学んだことはなく、また大学の教職を含め宣誓を必要とする地位に一度もついたことがないという点がスピノザにも共通しています。高等教育の意味を考えさせられます。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年05月20日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ2 スピノザを導く医師ファン・デン・エンデンは、当時としては過激極まりない民主主義者と言っても差し支えない程で、宗教的側面でも信仰は個人的信条なので組織や権威によって統制されてはならないという考え方の自由主義者です。此の人物の私塾とも云うべき学校にユダヤ教団の学校でヘブライ語と聖典を学びカバラの神秘思想を学んだスピノザが、コレギアント派の見解と一致する宗教観を抱く(いだ)く人物から影響を帯びたことは間違いないでしょう。コレギアント派、スピノザのレインスブルフへの移住の直接的な契機となったと思われるコレギアント派は,キリスト教の宗派のひとつです。信者が集って聖書を読み,教えについて語り合うのが主たる信条で、所謂、カトリックが教会至上主義である正教会からは距離を隔てた信者が集って聖書を読、教えについて語り合うのが主たる信条とする「大乗的実践」を信条にします。其れ故に、カトリック即ちローマ教皇を中心として全世界に信徒を有するキリスト教最大の教派が教会至上主義であるのに対し、プロテスタントは聖書至上主義です。此のことから、コレギアント派というのはプロテスタントの流れを汲む一派になります。しかしこの当時のオランダで一定の信者を有し,政治的には反動的勢力と緊密に結びついていたプロテスタントのカルヴィニストからすると,コレギアント派は異端的なプロテスタントにほかなりません。カルヴィニストにとっては聖書を解釈するのはあくまでも牧師であり、説教を通して信者に伝えられるのが正統とされる考え方であったからでしょう。コレギアント派というのは、単に教会の権威を否定しただけでなく,牧師の権威も否定していたことになります。プロテスタントを聖書至上主義と解するなら、プロテスタントの中でも最も急進的な信条を有していたのがコレギアント派でありスピノザ思想の形成にも強く影響を及ぼします。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年05月19日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ1 バールーフ・デ・スピノザ(Baruch De Spinoza/1632年11月24日- 677年2月21日)、Baruchとはヘブライ語で祝福された者を意味しラテン語名ベネディクトゥス・デ・スピノザ(Benedictus De Spinoza)でも知られています。彼は哲学史に於いて「歴史上最も過激な思想家」と呼称されたオランダの哲学者です。当時は最も自由な国とされる経済市民世界の自由国家ネーデルラント連邦共和国に、両親がポルトガルでのユダヤ人迫害から逃れ、オランダはアムステルダムに移住してきたユダヤ人の富裕な貿易商の家庭に生まれ、ユダヤ教団の学校でヘブライ語と聖典を学び、カバラー(Cabbala)ユダヤ教の伝統に基づいた創造論、終末論、メシア論を伴う神秘主義思想です。其のユダヤ圏にあっても宇宙観の独自性から、しばしば仏教における密教との類似性を指摘されることがあるのは、専ら、積極的な教義開示を行わないという類似性です。 カバラーはユダヤ教の伝統に忠実な側面を持とうとしたという点において、他の宗教の神秘主義とは異なります。本来のカバラーは、ユダヤ教の律法を遵守すること、あるいは神から律法の真意を学ぶことを目的としたことにより、正統的なユダヤ教との親和性を持っていた時期もあったために、必ずしも秘教的な神秘思想とは断定されていません。しかし、キリスト教の神秘家に採り入れられるようになると、ユダヤ教の伝統からは乖離した極めて個人的な神秘体験の追究の手段として用いられることになる「カバラ」にスピノザが接したことは、スピノザに精神の深奥への興味を抱かせる一因になります。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年05月18日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/神秘主義25最終章 神秘主義を結論付けると神聖体験の有る無しに関わらず、最終的には「神との合一」或いは「絶対への吸収」が主張されています。実際上は、人間が知りたいのは「彼及び彼女個人」の固有の体験ではなく、其の存在性の倫理的明確性を論理的に説明しろということでしょう。此の要求に応(こた)得んとしたのが、旧約聖書を正統派と異なって解釈したためユダヤ教からは破門され、正教会の弾圧の怖(おそ)れを抱きつつも「エチカ」を書き上げたスピノザでしょう。ユダヤ教団の学校でヘブライ語と聖典を学び、カバラの神秘思想にも接したが、卒業後は医師ファン・デン・エンデ(Franciscus van den Enden/1602-1674)に就いてラテン語、自然学、幾何学およびデカルトの新哲学を学び、しだいに異端的な西欧思想に傾斜ぢたとはいえども、それを幾何学的演繹体系によって展開します。此処には「神秘主義」を石段を超えた論理が展開されます。神秘主義が上着を剥がれた状態を顕(あらわ)にしたのです。体験的神秘主義者の多くが神若しくは仏、神聖な権威との論理的説得を事欠く中、結果ありきの帰納法ではなく幾何学的演繹体系によって「神との合一」を説くのは、信教に従事しない或いは信教徒でない人間にも「見える神」への可能性を与えてくれます。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年05月17日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/神秘主義24 アートマンとは最も内側 (Inner most)を語彙とします。古代インド・アーリア語に属し、インドを中心として文明伝搬により南アジアおよび東南アジアにおいても用いられた古代語サンスクリット語の Atma(アートマ)を語源としており、アートマンとは(Ātman)とは、古代インドのバラモン教の聖典ヴェーダ使われる用語で、意識の最も深い内側にある個の根源を意味し「真我」とも訳される「個体の本質」を示すインド哲学の術語です。「我(が)」と訳されるように元来「気息」を意味したが、転じて生気・身体・さらには己自身の意味になり,哲学的概念としては自我・自己・霊魂・さらには「本体」「万物に内在する霊妙な力」を意味しています。ウパニシャッドではアートマンは不滅で、離脱後、各母体に入り、心臓に宿るとされます。片や「ブラフマン」は神聖な知性として見做されており、宇宙の最高原理を示すインド哲学の術語です。漢語では「梵(ぼん)」と訳され、宇宙の根本原理であるブラフマン(brahman/梵)はアートマンが知るものと知られるものの二元性を越えているので宇宙の根源原理であるブラフマンと同一であるとされる(梵我一如)の思考が産み出されます。其れ故にアートマンは不滅で、離脱後にブラフマンに帰すということに成ります。然れども、シッダルタの悟道後に尊称を得た釈尊は「無我」の道を説くため「我」優先するを批判的に捉えています。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年05月16日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/神秘主義23 史的流れからみて神秘主義の諸相は変化変遷し、地理的特性を持ち、「古今東西」数多(あまた)の諸相を顕します。インド大陸のベーダーンタ哲学のシャンカラ(AD700年頃-750年頃)とドイツのキリスト教神秘主義のエックハルト(AD1260年頃-1327若しくは28年頃)の比較研究には興味津々たるものもあります。「不二一元論」を著した、インド哲学の一派ヴェーダーンタ学派を代表するシャンカラは宇宙の根本原理である宇宙の源であり、神聖な知性として見做されており、全ての存在に浸透している「ブラフマン」は己(おの)が個々の人間の本体であるサンスクリット語では「我 (が) 」と漢訳されるが、元来は健全な外形を準備し、次に内面的な準備、身体呼吸を整え静かで緩やかな精神状況になる、所謂、喜怒哀楽のような感情的障害が内心に起こらないようにする「気息」に基ずく「アートマン」は、全くの同一存在であり、実在には「ブラフマン」即ち「アートマン」のみが認められ、他の一切は迷いを生み出す根本である無明(むみょう)とします。ハイデッガーの人間には絶対的に認識得ない隠れた深奥の世界の絶対精神、ビリヤード台の「世界の玉」の動きの一切を握る「ハスラー」を思い浮かべれば理解出来得るやも知れません。初期のウパニシャッドである「ブリハッド・アーラニヤカ・ウパニシャッド」では、「何々でない」によってのみ、アートマンが定義されるという。その属性を「何々である」と定義することは出来得ないという。従って、「何々云々(うんぬん)である」ものはない。シッダルタと其の後継者として偽経を以って哲学化した、即ち「大乗の祖龍樹」の「空論」が浮かび上がります。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年05月15日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/神秘主義22 世界宗教史における同一の唯一神(ゆいいっしん)の神をいだくのは旧教ユダヤ次いで新教キリスト教、そして最も新しい偉大なる神、ヤーウェには継るもののアッラーを創始した預言者ムハンマド(マホメット)イスラム教が登場するのですが、イスラム教には神秘主義は無いのかと云えば、11世紀に活躍した最大のイスラムの神学者で法学者でもあり、何よりも神秘家であるアブー・ハーミド・ムハンマド・イブン・ムハンマド・ガザーリーアル・ガザーリー(abu Hamid Muhammad ibn Muhammad al-Tusi al-Ghazali/AD1058/59?―AD1111年)、寿限無の長助のようで覚えろとと言われても覚束ないガザーリー、新プラトン主義哲学やキリスト教からの影響は当然としても、遠くはヒンドゥー教や仏教からも影響を受けてたといわれるガザーリーによれば、スーフィーとは元来、迫りくる終末と地獄の業火(ごうか)に怯えイスラームの唯一神アッラーとの我執を滅却しての合一を目指し、清貧行を主として様々な修行に励む人々を指すが、真のスーフィズム(Sfism)たる条件は(一)に魂から神ならざる一切を引き離すこと、(二)に燃えるような魂から発する謙虚な祈り(ドゥアー)と神の瞑想への集中である。此のようにすれば魂は自ずと神のうちに吸収されてゆく。思想家・哲学者には、造物主の存在や、神が一者であり非物体であって個物を認識すること、人間の魂が肉体から独立して不死であることなどは証明できないとしているのを批判しています。ガザーリーは「神との合一」を殊更に強調します。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年05月14日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/神秘主義21 キリスト教の神秘主義は、イエスの12使徒であるパウロやヨハネのキリスト体験を源流にしています。後世には更に、新プラトン主義がキリスト教の神秘主義に多大な影響を賦与します。なかでも、新約聖書「使徒行伝」に登場するパウロの説教によって改宗したという、1世紀のアテナイのアレオパゴス評議所の評議員である「アレオパゴスのディオニュシオス」或いは4世紀の伝説的宣教者、パリのディオニュシウス、首を斬り落とされた後、それを拾い上げ、説教をしながら数キロメートルを歩いたという伝説を持つパリの守護霊的人物、5世紀末若しくは6世紀前半に成立したと推定される「ディオニュシオス文書」の著者とされた一説にはグルジア出身の神学者イベリアのペトルとも考えられるが、何故に、自己を特定されるのを嫌ったかは真偽交々(こもごも)ですが、特定されない故に偽ディオニシウス・アレオパギタと呼称されていますが、何(いず)れにしても、宇宙の究極原理である「一なるもの」への探求は、此の世的なもの乃至(ないし)有限なもの一般に関わる思考と同定した同一性を、謂わば、繰り返し根本に立ち戻ってって突き崩していくもの、問答法的あるいは弁証法的思考の遂行においてはじめ感得されるもの、偽ディオニュシオスは人間の魂が、如何様(いかよう)にして神に至るかを終始問題にしています。人間の魂がいかにして神に至るかを偽ディオニュシオスは其の原点をヒエラルキー(位階/Hierarchy)に求めています。位階を最も尊い聖なる位階決定的なものとし、其のこと故に、聖なる秩序と活動が宿ります。人間霊魂を聖なる位階の「神」から賦与されたものとし、神より注ぎ込まれた光明の段階(アナロギア)に準じて、上の位階は下の位階に対して啓示となり、下の位階にある者は上の位階があることによって神の恵みを受け取ることが出来得(う)るとします。下の位階にある者は上の位階を目指して「霊魂」を磨き浄化せよということに成ります。此の位階性が神に基づくとするには些(いささか)の異論があるのは承知していますが、其の因は信教者ではないところから来る自然反応なのでしょう。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年05月13日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/神秘主義20 新旧両聖書からも神秘主義は読み取れます。旧教ユダヤ教では、ユダヤ教の伝統に基づいた創造論及び終末論、更にはメシア論を伴う神秘主義思想、当時の宗教では独特の宇宙観を持っていることから、屡々、仏教における密教との類似性を指摘されるカバラ(Kabbl)と呼ばれる口伝(くでん)教義のうちに神秘主義が顕(あらわ)れています。17世紀にはサバタイ・ツビが現れて自ら「救世主」を名のり,カバラ運動は最高潮に達しています。さらには18世紀以降の東欧ではハシディズム(Hasidism/敬虔(けいけん)主義)がカバラを日常の信仰生活と密接に結びつけており、その思想的影響は現代のM・ブーバーやG・ショーレムにも及んで現代の思想界にも影響を及ぼしていいます。15世紀以降では、此のカバラはキリスト教世界にも大きな影響を与えていますから、人間霊魂の側面からも見過ごせません。なかでも東ヨーロッパでハシディズム運動は、ウクライナの貧民出身のバアル・シェムトーブ(Baal Shem Tov/1698-1760)は法悦状態に没入し,祈禱において神と交わる神秘的救いの重要性を説いて,無味乾燥な律法主義にあきていたユダヤ人大衆の心をつかんだことは旧教は勿論、新教であるキリスト教にも影響を与えます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年05月12日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/神秘主義19 神秘主義は、世界中の諸宗教のみならず形而上哲学からの神秘主義化のうちにも、其れ其れに思考形態に従って特徴をもった位置を占めています。原始宗教におけるシャーマニズムなども、神秘主義的エクスタシーの一つに数えることができると述べましたが、エクスタシー(ecstasy)とは、日常語ではでは恍惚(こうこつ)・忘我を指しますが、有吉 佐和子の著作「恍惚の人」では呆けが進行した老人を呼称しているために誤謬に陥らないことが寛容です。屡々、幻想・予言、更には仮死状態などを伴う脱魂を意味することもありますが、真の神秘思想は此処にはありません。それは、人間をの深奥に内層する精神を超えた絶対者との合一、通常の自己からは絶対的に他なるもの、即ち、日常世界の外なるものとの合一、必然的に自己の持ち前の精神からの脱却、自己という枠、即ち、自我の突破を通してのみ現成するものを意味します。合一はすなわち同時に脱自、或る意味、シッダルタが「釈尊」即ち「仏」としての「さとり」に目覚めた時でもあり、神秘家は大抵体験的に、所謂、エクスタシー(脱我,忘我)を期待値として何(ど)の様なものかを知っています。そして、「釈尊」即ち「仏」としての「さとり」ではなく、エクスタシー(脱我,忘我)が真の自己に気付かされることに目覚めるのです。思考に依らない予期しない奇験或いは自己という枠の突破を通してのみ現成する合一では、分析は体験の後から発生します。この事から、其の成り立ち上の故に教義が不安定になりがちです。仮に、絶対者と自己の内奥の精神との合一が成されたとするなら、肉体の限界による滅びは別にしても、合一効果から肉体の滅びは度外視して「不死」を得ることは疑問の余地はなく、間違いあり得ない結論に至るでしょう。何しろ永遠の「今」を手に入れるのですから。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年05月11日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/神秘主義18 神秘主義は現代に到(いた)るまでに、イエスが学んだと推察される洞窟に追われた思想集団を舞台にした修養、ピタゴラスに代表される神的思考観と其の思想、豈に信仰に限らず、世界を観想する形而上哲学における神秘思想、原始宗教におけるシャーマニズム等々も、神秘主義的エクスタシーの一つに数えることが出来得ます。更に通常の人間が世に生を受けて、産まれて神秘を学ばず、其の瞬間まで「知らず・見えざる・聞かざる」の奇験までの範囲までの多くを含有しています。以上に述べたように、神秘主義は、宗教のみならず民族習俗及び「掟(おきて)」にまで影響少なからず、逆に言えば、神秘主義を抱(いだ)かない国家は史的唯物観を金科玉条とするマルクス主義の登場までは、国体存続のための礎ともされた経緯まであります。宗教学的側面から神秘主義の基底は、其れ其れの宗教カテゴリーにより別れます。更には、神秘側面を嫌ったシッダルタを始祖とする「大乗」は神的性を「仏」に与え、ヨーガ、禅定(ぜんじょう)、密教の修法などに神秘主義其のものを具現化しています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年05月10日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/神秘主義17 神秘思想のなかでも、取り分け、体験から入る神秘体験は、体験当事者の内省的な自己理解と体験が出発点とし形成される。体験から導かれるものは、当事者にとっては、至極当然に事実以外の何物でもなく、実相として映ります。其の内から起こる衝動は強制力を持ち、思想にまで体験を高めます。次いで、其の力は人々を神秘体験に導くための指針としての役割を果たすものとなり、宗祖或いは教祖として、其の体験に追順し待望する者に対して、予(あらかじ)め其の内容や進むべき方向を指示し、自己の体験から内的な準備の状況を伝搬し身構えを整えさせます。然し乍ら、神秘体験それ自体は宗祖或いは教祖に起きたものであり、自らは体験していません。其れ故に、宗祖或いは教祖の思想による体験への接近と並行して、様々な形での「神秘修行」が試みられることになります。宗祖或いは教祖の神秘体験に導くための指針を基礎として、自らに繰り返して身心に一定の規整を加える、所謂、「行(ぎょう)」の類い(たぐい)です。純粋的哲学からなる形而上学と異なるのは「ものの根本相」を観るのではなく、神秘体験者の体験を追順するということであり、自らの「行」が進み境地が展開していく過程は通常は「神秘階梯(かいてい)」と呼称され、宗祖或いは教祖自らだけでなく信奉者により段階的に示されるのが一般です。浄化・集中・瞑想、合一・脱我・寂静(じゃくじょう)などがそれぞれの宗教によっていくつか組み合わされて構成されますが、こうした行の体系もまた神秘主義の重要な一要素をなしていますが、所謂、「神及び絶対者」を根本としてはいますが、其の本源は神秘体験者の体験を本元とし、素処より遡及しないのが通例です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年05月09日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/神秘主義16 神秘(しんぴ)とは、人間の知恵では計り知り得ない摩訶不思議・不可思議、通常生活を送っている上では、まず滅多に遭遇しない人間の認識や理論を超えたものを意味します。古(いにしえ)には「じんぴ」とも表(ひょう)されています。英語では「mystery (ミステリー)」「secret(シークレット)」とも表(あらわ)されることもありますが、自然的な理解を超えたものを表(ひょう)するときにおいて形容詞的に用いられています。語彙的には神や絶対的な存在を自己の内に直接に感じようとすることが神秘主義(mysticism)であるとしますが、突然の来降である降臨を絶対条件とはしません。神秘思想は其の範疇に含有する意味が広範囲で、科学の中でも基底とされる数式定理にさえ影響を及ぼします。アインシュタインの「宗教なき科学は不完全であり、科学なき宗教は盲目である」は、人間と世界の関連を見事に表現しており「至言(しげん)だと云えましょう。神秘思考は誰もが持つものであり、神学・哲学・宗教的色彩を帯びていなければいけない訳ではありません。初めは哲学であったものが崇拝者により宗教に転化することは多々あるのは、初期から神秘学的であったピタゴラスは除いても、大乗哲学の祖「龍樹」が菩薩とされたのは御存知の通りです。龍樹の世祖シッダルタは神を公然とは否定しない迄も、神は限りある存在であり何れにせよ滅ぶ、其れ故に「空」理論を浮上させます。「仏」とは存命中に人間の「生」を覚ったものであり、釈迦が「有」である必要もなく、誰もが存命中や死後に拘わらずに「神」ではなく「仏」に成り得る道を説いたところに現代にも宗教学からだけではなく、人間精神学からも評価される所以(ゆえん)となります。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年05月08日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/神秘主義15 神秘思想とりわけ神秘体験は、当の体験者が自己の拠りどころである内奥(ないおう)から突き動かされる抗えない力、要請などではなく強制力を以って言語化することを強制します。神秘体験を自覚的に省(かえり)みて表現化しろと云うわけです。元来、言語を絶する体験である筈のものを言語化せよと強制するのですから体験者は苦難の連鎖を引き起こします。通常の人類に通用する言語でないから至極当然ですが、神と人、或いは絶対者との合一は、其の人物にとり言語に絶する体験、しかも、一方的強制力を持っていますから自身が受け入れ世間からは狂人扱いされるのを覚悟のうえで事実を伝えるのかは、神秘体験者其れ其れに対応が違います。此処に「神秘体験者」特有の表現形式、神は滅ばないからこそ「絶対者」と呼称されるのに対し、直覚を得たニーチェは「神は死んだ」、其のこと故に新たなる「神」、推測通りの絶対権力者を創造してしまいます。神秘体験は時には矛盾逆説を多用します。「然(しか)らずんば、然らず」などは、大乗哲学の祖の龍樹が得意とする分野であり、「神の死」は仏教哲学では、多神教の神に関しては至極当然のことでありニーチェより先んじていますが多神教の神であることも考慮しなければですが。神秘体験を説く著作は難解で紀元前1000年頃から紀元前500年頃にかけてインドで編纂された一連の宗教文書の総称である紀元前1000年頃から紀元前500年頃にかけてインドで編纂された一連の宗教文書の総称「ウパニシャッド(Upanishad)」の類(たぐ)いでは神秘体験を「光り輝く闇」や「一切を含んだ無」として表現が使われており其の体験を一層難解化させ神秘化させています。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年05月07日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/神秘主義14 神秘体験を伴った神秘観想は、宗教・時代・人により、其れ其れが異なった具体相を示し説きますが、米国の心理学者であり哲学者のウィリアム ジェームズ(William James/1842- 1910は)が神秘体験一般に共通してみられる分類を示します。はじめは画家を志しパリで学んだが、1861年にはハーバード大学で化学・生物学を経て1864年には医学部に入るも、健康を害し学業を中断、やや復調した後の1867年ドイツに行き神経生理学を学び、1869年帰国し再度ハーバード大学で学び医学博士号を取得、家で療養しながら読書や執筆をした。1873年からはハーバードで教鞭をとり、1885年は哲学教授、1889年に心理学教授、1897年は再び哲学教授(プラグマティズム哲学)を歴任した人物。「宗教的経験の諸相」(1902年)等々の多くを著し、弟には「デイジー・ミラー」で知られる小説家のヘンリーがいる、多才なことではダ・ビンチを想起させる彼が神秘体験を4項に分類整理して説いています。一には言い表しようがないということ、即ち、其の性質は自分で直接に経験しなければ解らない、二には認識的性質を真理の深みを以って洞察すること、三には暫時性である。神秘的状態は長くは続かない、此のことは印度のシッダルタが覚りを得た後も更なる修養を積んでいることからも納得がいくことであり、たとえ覚りを言語化するための修養とはいえ、イエス・キリストの磔刑のさなかに苦痛に耐えきれず一瞬父なる神を見失った言葉「神よ、どうしてあなたは私を見捨てたのですか」と叫んだように、人間の身として産まれたイエスさえも苦痛に合えば一瞬にしても見失う体験であることから、繰り返しの修養は大切です。神秘体験の四は受動性にあります。自分の意志は働くことをやめてしまって、或る高い力によってつ包まれるかのように感じる四項に整理して説明していますが「神秘体験」に関しては名答であるといえます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年05月06日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/神秘主義13 「神秘」とは通常の人間を以ってしては、言葉に言い表すのには甚(はなは)だ困難な物事であり、一般的な社会に住する人間には出処が曖昧で意味不明、若しくは、まして、其の論を語る者に至っては幻想・幻覚の類(たぐい)としか憶えません。然し乍ら、取り分け、ニーチェは仏説にも触れたせいなのか、自己の精神が直接に人間の内に潜む「何もの」かの無限の大きさと力とをもつ確固たるものに触れたとみえ、それによって従来の小さな自己の殻は融(と)け去り、「脱我」即ち人間を超えた絶対者との合一、通常の自己からは絶対的で他なるものとの合一を非難し回避しています。必然的に自己からの脱却、自己という枠の突破を通してのみ現成する神や絶対者との合一は同時に依存であると同時に脱自であると非難します。ニーチェは勿論、神秘家が体験的に説く、所謂エクスタシー(脱我,忘我)を知ってはいましたが、人間の「生」を信じ覆いかぶさる権威としての思想を排除するために人間実存を唱え、神を死と態に追い込む発言をしています。「神は死んだ」のではなく人間が神を必要としない思考を持ち込んだのです。ニーチェは、より高く且つより深い生命の境地を神に求めずして人間の潜在精神に期待を込めます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年05月05日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/神秘主義12 神秘体験は、尋常一般の経験するものとは類を異にした特別な宗教体験と著する(ちゃくする)文献も見受けられますが、何も宗教に限定されることに限らず、宗教化する以前のシッダルダの覚醒や「禅宗」、名称に禅宗というので宗が付くことで混同されますが、勿論のこと、シッダルダを「教え」の世祖として尊びますが、「行法」でありしめすへんで書くもの「禅(ZEN)」自体が宗教ではありません。飽く迄も、自己の我執である「自我」を拭い去り、人間の深層の霊魂に耳を研ぎ澄ませ、其の霊魂を基底にして自然を聞く、そこに自ずと世界との合一が起きるとした立場であり体験は要していません。禅仏教では豁然大悟(かつぜんたいご)、身心(しんじん)脱落、見性(けんしょう)などといわれる体験がそれであると言われますが、シッダルダは、所謂「神」を観たのではではなく「自然との合一」を成したのであり、通常の言葉で以っては言い表し難く、その意味では或る意味で秘密に満ちているとは言えなくもないでしょうが、シッダルダの覚醒は「直覚」であり、、直観的にきわめて確実なものとして自然に溶け込む、謂わば、科学力に依らない世界と生命、取り分け、人間の実相を求め極めた者であり、神秘体験は不要でした。「神秘体験」とは「神秘思想」が形成されていく思考経過ではなく「奇跡的体験」を前提にするのです。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年05月04日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/神秘主義11 史上で定義されている宗教的には「神」、形而上哲学から見れば絶対意思・絶対精神・絶対存在、「存在としての有」と「無」を離れた形姿・形象を伴わない「有としての存在」と「無」とには関わりのない全く総ての世界の影響の埒外(らちがい)にある見えざるものとはいえ、此のものの「有」なくしては「無」もなく万物の摂理が成り立たないものを思考の基底とした「絶対者」、日本の歴史上初めて西欧に日本哲学を認識させた西田幾太郎などは「宇宙の根本理法」と表現しています。何(いず)れにしても、人間の精神が考え得る限りのアインシュタインの「最高実在」が其れらにあたるでしょう。もはや、絶対者・神などの超越的実在は、感性や人間の知性の働きによっては認識でき得ないことから、其の困難を成し遂げるために、数々の思考法及び修練法が編み出されてきました。印度の禅やヨーガ、ネオプラトニズム(新プラトン主義)の創始者プロティノス(Plotinus/AD2054年-AD270年)、キリスト教と対立したグノーシス主義、イスラム教のスーフィズム等々ありますが、自己の思考を神秘体験に高めるために行動を起こし、究極的・絶対的なるものへ自己が直接に合一することを目論(もくろ)み、神秘体験に至上の救済価値を認め、これを中心として独特の思想や行動を展開させるような、哲学や思考方法のスキル及び宗教の体系乃至(ないし)形態が「神秘主義」と目(もく)されています。とりわけ、神秘体験は尋常普通の経験とは類を異にした特別な体験であることには注意が肝要です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年05月03日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/神秘主義10 神秘主義を思想上の絶対者や神などの超越的実在は、感覚や知性の働きによっては認識でき得ないことを根底にして、何等(なんら)かの工夫、思考の能力の高揚や感性や知性を拭い去り、己が我であるものの精神の深層に喰い入り、其の深層精神、プラトン的には霊魂の声に心眼と心耳(しんじ)を以って、其の形姿や形象、其の意識に同期する直接に体験しようとする宗教・哲学上の立場と説く学説、インドのヨーガ、プロティノスの新プラトン主義、キリスト教と対立したグノーシス主義、イスラム教のスーフィズム、マイスター・エックハルト(Meister Eckhart/1260年-1328年頃)の中世神秘主義などを顕著な例としている文献を見掛けますが如何なものでしょう。印度のシッダルタは己が我であるものの精神の深層に喰い入り、其の深層精神、プラトン的には霊魂の声に心眼と心耳(しんじ)を以って、其の形姿や形象、其の意識に同期する直接に体験しようとしたのではなく、自身の肉体や己の観念である我執を脱ぎ去ることにより自己の精神を崩壊させること無く「覚り」に達します。西欧思想の我執、言い換えれば人間として自己に恵まれた精神の高等性から、思考を駆使して絶対者や神などの超越的実在を究めんとしますが、「体験を基(もとい)にした神秘主義」の限界はあくまで思考の対象が神秘哲学とは相異し、求める思考方法に誤謬に陥りやすい傾向が見えます。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年05月02日
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{思考と直覚」人間の霊魂を思考/神秘主義9 神秘主義は英語ではmysticismと表現されるのが現代では一般的でしょう。語源はギリシア語のmyein、即ち、目あるいは口を閉じるに由来すると云われています。旧約聖書には数多くの神の通詞「預言者」、此処で言う「預言者」とは神憑り的な未来の出来事を時間に先行して事変を予想する、所謂「予言者」とは意味合いが相違することには注意が肝要です。勿論、神の通詞「預言者」も予言をしますが「神の声」を通してですから自らは予言しません。旧約の著者とも云われるモーセが此の神を経ない「予言者」を最悪の人間の部類にしていることからも、「預言者」と「予言者」は厳格な取扱が要請されます。神は所謂、人間のキリスト教的には過去から現在そして未来の時間の流れとは無縁であり、「神の時間」とは「永遠の瞬間」水平軸に対する垂直軸からの永遠の過去から未来の、4次元的な円錐であり「予言」どころか未来は神の中に過去同様に内包されています。神秘主義は正教会の説く神ではなく、思想上の神及び最高実在としての「有」言い換えれば、此の「有」は「存在・非存在」を超えた「無有」であり、無も最高実在としての「有」に含まれていることに注意が肝要です。其れ故に、最高実在とは「無」の存在、現代宇宙論の物質の完全消滅「無」と「無」からの物質化理論にも適合します。此の究極的根原を自己の内面的、深層に眠る霊魂を以ってその絶対性のままに人間が自己の内面で直接に体験しようとするのが、神秘主義、なかでも「神秘哲学」と呼ばれる分野です。cap-hiroのプロフィール哲学・思想 ブログランキングへ
2017年05月01日
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