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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ129 スピノザとシッダルターでは常駐する「有」に対しては解釈が異なりますが其の不滅性や「存在と無」を離れた存在として捉えることは共通しています。更には、「有」は自らを意識することはないということです。意識しないからこそ世界の究極の原理と成り得るのです。現代物理学の現象としての在る物質が無として消滅し、或いは、無から物質が生成されているとする理論は「有」の解釈上の相違です。世界の絶対原理が「無」を纒わない以上、人間思考が捉える「無」とは見かけ上のものであり「有」に属する何かです。「無」は人間思考が生み出す世界観です。例えばIT工学のマイナス電流を考慮すれば「無」が有り得ないことが解ります。「何かがある」ことを否定することで問いから逃れることは大凡(おおよそ)困難であるのは自明の理です。例えば実在するものは全て意識的なものだけであるとする観念論的な立場、或いは、世界は私の見ている夢のようなものであるとする独我論的な立場などを取ってみても、その意識や夢にあたる「何か」があることは依然として認めざるを得ないのです。「完全な無」は絶対存在の意識にない限りは不可能事です。其のことから導かれるのは「無」は見かけであり人間意識の捉え方の一状態だということになります。一線上のゼロ時点が無ではないように。スピノザとシッダルターは方法論は正反対なのですが行き着く先は共通する面が看取れます。「有」が転じて「虚」にはならない世界に我々は存在している事になります。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年09月30日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ128 人間は考える生き物であり、古今東西それは変わる事無く、古代ギリシァ時代には既に思考実験を繰り返す哲学者を輩出しています。西洋思想は知の蓄積を人間の思考財産と看做し其の蓄積の結果が、正しい思想を導き出すとします。反対にインド哲学、中でもゴータマ・シッダルター以降の思想は、自己が獲得した「知」を無視することは有り得ないことであるが、其の「知」を始点として世界自然に共鳴するために自己を「無為」の境地に追い込む。豈図らんや、自己を自然と共鳴させます。然し乍ら、スピノザの演繹法とゴータマ・シッダルターの帰納法は大団円を迎えます。ゴータマ・シッダルターはたとえ神を了承しても其の神は不滅のものではないとします。一方のスピノザの演繹法では神なしには考えられない倫理がある以上、神は存在し現在することを解いてはいますが両者の思考の行き着く先は似通っています。スピノザは「神存在」其のものを否定しませんが、其の語彙を究めて厳格に取り扱っています。一方のシッダルターの「神存在」は所謂バラモン(婆羅門)教の神々を想定し、方便的に神の生死を説き、絶対存在を神格性が与えられた神以外の他のもの、世界の原理に世界の「有無」を離れた統一的原理を、自らの自我を解き放ち「無我」の世界で覚ります。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年09月29日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ127 シッダルタは一国の王位継承者から彼は身につけた釈迦国王子の身飾品を賂(まいない)として一つまた一つと門番に手渡します。釈迦国の王位継承者の地位を棄捨して、王城からの脱衣の道です。そこには、シッダルタの装飾品とともにに門を抜けるたびに、自分自身の情欲も一つずつ捨て去ったであろうことが推測されます。彼は一門抜けるごとに、当時の趨勢のバラモン僧侶とは異なり、身一つの剃髪(ていはつ)して善に努め、悪をなさず、身心を制御して悟りを得るために努力する人。正統的伝統的な思想家であるバラモンに対して、古来の階級制度やベーダ聖典の権威を否認した革新的な思想家である沙門への道を歩みます。夕方、王城の十重二十重の警察門の最後の門では「乞食」、とはいえ、バラモン階級の一階級身分に属するものに、最後の王門の外で「お前には渡すものがないと言い放つも、下穿きを与え、素っ裸で仕方なく闇に覆われるまで、恐らくは、用水路で闇が明けるのをま待ち、未だ明け方には遠い時間に畑に肥溜に打ち捨てられた布切れに自分が拵(こしらえ)た木の針で、何度も何度も洗い濯(すす)いだ布切れをバッチワークとして一枚の巻布として仕上げ、シッダルタ自身は此れから獲得する「もの}に期待してバラモン階級の一階級身分に属する「乞食」より、身分がない沙門の道を歩みます。糞掃衣(ふんぞうえ)、糞塵(ふんじん)中に捨てられた布を拾い集めてつくった袈裟(けさ)は同じインドの達磨大師が保存していたのですが、現在は不明です。詰まり、シッダルタは得(う)から失を目指し「真の有」の有り様に立ち向かおうとしたのです。スピノザの演繹法に対しての帰納法を無我の実践を通して実行した人物です。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年09月27日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ126 人間精神に於ける神秘主義的思想には「魂」や、人間が自己の持つ五感で捉えられ得る形而下の現象学や経験主義及び実証主義等々、更には人間の五感では捉えきれない思考に依ってのみ捉えることが可能とされる見えざる世界を根究する形而上の「霊魂」の霊魂観、物理科学を駆使しての「霊性」の発見、何故にあなたは今現在、考え・悩むのかに解答を与えんとする宗教。全ては人間が進化段階において「知」を獲得したときから始まります。人間にとって初めての「知」は、自らの身体の血脈を伴にした胎盤から誕生した、或いは、胎盤内でも母と意識を通わせたかもしれない段階の胎児」、そして嬰児段階、本来は「緑児」と書くが、現在では「嬰児」が一般的な表記ですが、 古くは「緑児」(みどりご・みどりこ、と末尾が清音が本来的表記ですが、701年(大宝1)に制定・施行された大宝令で三歳以下の男児・女児を「緑」と称するといった規定があったことに由来するします。推測するに、おそらくは此の段階に置ける母との対話とは言えませんが、自己の泣き声に反応した母の言葉が、人間に霊魂、此の時点で言えば自我を醸し出す働きを成すと考えられます。其の知を獲得したが故に、人間は先ず生存の観念を獲得します。其の生存観とは本能的なものではなく、明日にも母の声を聞きたい「人間本性」の自我の顕れです。人間は誕生した時点で「天上天下唯我独尊」ととなえた釈尊とは程遠い生き物です。但し、此の仮想の逸話は信じられません。ゴータマ・シッダッタ或いは仏教の始祖であるゴータマ・シッダルター、此の名はゴータマは「最も優れた性」、シッダッタは「目的伽噺説」という意味からして後に名付けられた筈です)は 身の境涯に矛盾を観相したらこそ、釈迦国の王位継承者の地位を棄捨して、王城からの脱衣の道、王城には十重二十重の警察門が構えられており、いかな釈迦国の王位継承者の地位を持つシッダルタといえども、其れ其れの門口に立つ門番顔見知りがある筈もなく、門を通過するためには賄賂が必要です。其の度々に彼は身につけた釈迦国王子の身飾品を賂として一つまた一つ門番に手渡します。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年09月26日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ125 現代に生きる人間は一度は見聞したであろう人間の定義、人間は考え・笑う・二足歩行する生物とは、自分の学生生活でマスコミ出身の大学の経済学の名誉教授から特別講義の前段で、耳にタコ(ミニにタコこではない)が出来る程、黒板に先ず書かれ、聞かされた文言ですが、其れに先んずる問題、何故に人間は考え・笑う・二足歩行する生物としてあるのかについての説明はありませんでした。補足ですが此の教授は人間は一日に牛乳4リットルを飲めば癌とは無縁になるとするが持論でした。ハワイへ移住した日系アメリカ人の癌羅率が驚異的に低率だったからです。此の教授の特異なのは、人間なしでは世界自然はあり得ないし、且つまた、存在し得ない。今現在、思考している本体が世界だと云うわけせす。私論的には異論を感じましたが、思考する本体を人間だと錯覚していたことが今では解り、教授に名誉が冠せられるのが納得した次第です。某大新聞社の論説委員もされていたようですが、偶々教授にお茶を差し上げた時の記憶、君は「不滅の霊魂を信じれるか」は、脳裏に焼き付き今も頭を悩ませます。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年09月25日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ124 「何故、何も無いのではなく、何かのモノが在るのか」を捉えるのは、自己の心の拠りどころとするする精神です。人間が考え・話し・笑う二足動物である限りには、避けては通れない道です。何も無いという「理(ことわり)」は大凡そ「完全な無」と捉えていいでしょうが、「完全な無」がそこにあるので「完全な無」とは「何も無い」という事ではあり得無いとの屁理屈的な論が成り立ちます。本当に何も無いという事は人類が未だかつて想像もしても出来得ないことを基礎条件とする何かであり、想像した時点でその事象は「空想としてそこに存在する」という状況にあり、詰まりは「何かがある」という状態にある。要するに「何も無い」を見つける事は不可識且つ不可能であり、考え思るだけ無駄である。考えるだけ「何も無い」が真相から離れるのだから考えない状態こそが「何も無い」に限りなく近い状態である。近いだけであって光が闇を見ようとするようなもので到達するのは人間には叶わぬ夢なのでしょう。「無」について探求し、多くのの著書を残したとされる正証不明の哲学者エクスデス(Exdeath)は其の名は英語の綴り字そのままに「死を超えるもの」を意味し、自分が考えていた「完全な無」は、実は「自分の未知の、存在する何か」でしかないことに気づいたと結論付けます。「無」が大層お好みのエクスデスは其の事実に気づいて絶望し、「無とは一体全体、解答無きにして矛盾すら立てられない云々」という断末魔の言葉を残して自殺します。ところが、自殺すれば無になれると考えていたのようなのですが、物語が故に異次元の世界でネオエクスデスとして転生、「死」さえも「無」になり得ないことを、皮肉にも我が身を以て証明したとされます。仮想にしても成り行きには興味を抱かせます。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年09月24日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ123 ヴィトゲンシュタインの思考法である問いが真性のものであるためには、解答がなければならない「検証原理」は、ハイデッガーの神の捉え方、アダム・スミスの経済学で云うところの「神の見えざる手」とは些(いささ)か意味合いを異にしますが、ハイデッガーの神の捉え方は、まさしく人間が捉えることを不可能とした不可視存在を言い、私的に世界に「見えざる手」と表意しています。此のことは、ヴィトゲンシュタインの検証原理、問いが真性のものであるためには、解答がなければならないし、また提出された解答が正しいかどうかを検証できるものでなければならないには充当しません。詰まりは、人間が関わる課題であるし、解答が出せない問題や、出された解答の真偽が検証ができない問題というのは、擬似問題であり、関わりあうべき問題ではないとします。此の思考法は、人間の思い付きや閃き、将又、観想が真偽のみならず、其れを問う人間の弁え(わきまえ)を前提としての思考の深奥の高度性と正当性を要求します。此のことは、発明王エジソンの小学校での教師に対する質問に酷似します。教師に対する質問に学府で教えていない、更には認容されていない事柄は抑々(そもそも)が質問とするべきでないとする、詰まりは、擬似問題であり、答弁すべき問題に非ずとする態度は、人間の基底に置ける精神存在を過小評価に傾いた結果の結論だともいえます。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年09月23日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ122 人間の思想史のギリシァを中心とした人間が見て捉えられない形而上の思考から生み出された哲学は実質上はギリシァ文明を華として以後は綿々と継続しますが、現代までに飛躍的発展を遂げることはありませんでした。此のことが、古代唯物論から弁証法を経て社会哲学として人間の現実生活を制約する「唯物主観」を生ざしめる要因の一つとなります。マルクス-エンゲルス主義其れを実践て労働や階級を解放したレーニン、片や、其れを巧みに自己の権力主義に応用したスターリン主義、農本主義に巧みに共産主義の組み込みを成功させた毛沢東、彼らは旧体制の権威や権力を打破したものの、新たなる権威と権力を持って大衆を制約します。思想的には正反対とされるヒトラーやムッソリーニ及び日本の国家主義も共産主義とは権力体制の立ち位置こそ違えども新たなる権威と権力を持って大衆を制約します。哲学的にも対向する筈の両者が体制とはいえ、こと理想とは程遠く大衆の制約に終始したことは歴史が証明しています。「唯物主観」は旧権力が援用してきた「王権神授説」や「教会権威」を否定し、新たなる権威と権力を生み出します。国家主義は表向きは旧体制の表装をしますが実質的には権力奪取の手段として取り入れられた社会思想です。双方ともに恐れていてのは旧体制の権力復活の恐れよりは大衆でした。特に唯物主観では、其れまでに、大衆の心の問題を一応は受け止めていた教会権威や儒教や仏教の類(たぐい)、形而上哲学を徹底排除することが至上問題で、個人の心の問題は無視されてます。形而上哲学史に積み上げられ華があった霊魂思想の砂漠化(Desertification)の時代を迎えたのです。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年09月22日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ121 オーストリア出身の哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインの思考方法論は検証原理(verification principle)、問いが真性である条件、即ち、本ものを問うものであるどうかは、解答が予想されるべきものでなければならないとし、また、提出された解答が正しいかどうかを検討し検証できるという事が必要であるという思考論です。従って解答が出せない問題や、出された解答の真偽が検証ができ得ない問題というのは、擬似の問題であり、関わりあうべき問題ではないという態度を問の中に含有するべきものとします。此のウィトゲンシュタインの思考方法論は、特に、イギリスの哲学者サー・アルフレッド・ジュールズ・エイヤー(Sir Alfred Jules Ayer/1910年-1989年)の論理実証主義に影響を与えます。今や哲学の任務が科学によって取り残された諸問題の分析にあり、哲学は最終的には科学の論理学になるという考え方を呈したイギリスの哲学者、神学並びに哲学に於ける根本命題である真・善・美、所謂「哲学的美学」や倫理学を含むあらゆる形而上(けいじじょう)学的命題は無意味となり、観察によって真偽を検証することが出来得る経験的命題と論理学および数学の命題のみが有意味であると主張したウィットゲンシュタインの理説を倫理的に発展展開する思考で世界を捉えます。これにより形而上学は厳しい批判にさらされることにはなります。形而上哲学の暗黙の時代、物理科学の新分野科学哲学が胎動し始めます。とはいえ、アインシュタインを始め物理学者の多くが神の整合性を認識します。神は消失したのではなく物理科学の新分野である科学哲学が新たに生理化学の分析精神を含有せしめた形に則って人間の霊魂の深層を解明するかも知れません。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年09月21日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ120 ウィトゲンシュタインの「我々人間は言語の限界に向かって突進する」のを、実践法として史的に積み上げを以って実相することを試みたのがインディァの古代思想家達です。彼らは言語生活における社会生活とは一線を置き、言葉にはならない世界に向き合う術として「瞑想」を次第に発達させます。其れがインド過去七仏の最哲「シッダルタ」を顕現させます。後に世祖「釈尊」と尊称される彼は、オーストリア出身の哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインとは相違した立場、{先駆的(アプリオリ)」を言語(ごんご)ではなく、インド古来の瞑想に立ち位置をおいて世界の真相を求めます。眠るのでもなく覚醒している訳でもない境地に、西洋的発想では自己の精神を心のなかに追い込ませてるとみえるのでしょうが、追い込むのではなく、それは逆に自己の精神を心の内から外界へと解放する、即ち、世界自然に溶け込ませる、いうならば自然との共鳴を模索するための「瞑想」です。世界に自己の精神を解き放ち、自己という概念さえをも無きものにしたときには、おのずと世界自然のほうから囁きかけます。ハイデガーの「見えざる手」が人間の「第六感」否「世界自然がイコール人間の深層心理」に融合するのです。此の「理」をインド過去七仏の最哲「シッダルタ」は覚り、開眼したのです。西洋キリスト教の影響が生活に密着した環境では納得し得ないものがあることも事実です。然し乍ら、近年から現代にかけてインド思想の思考方法及びその実践術は西洋にも急速に浸透しつつあります。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年09月20日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ119 スピノザの「絶対存在・絶対真理・絶対精神・絶対意識・絶対意思」である「スピノザの神」をハイデガーの人間が存在さえ問えない「見えざる手」は言葉で語るより両者の風貌を見ても納得させるところを感じます。ハイデガーが存在と不安から「見えざる手」について考えていることを、此処に、見事に表現した人物が現れます。オーストリア出身の哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(Ludwig Wittgenstein/1889年-1951年)です。世界が存在することを驚き、謎であり、奇跡である等々と表現し、同時に、此のような問題について問うこと及び語ることは言語の限界を超えたことであり出来得ようとしても出来ないとし、世界とは「起きていることのすべてである事実の総体」を指すとします。詰まりは「どういった事実が成立しているのか」はハイデガーが指す存在論其のものなのですが、人間には言語(ごんご)の限界へ向かって突進しようという衝動、言語では言い尽くせないし語り得ない何かを求める衝動があるとしています。ハイデガーの「ハスラーの見えない手」を連想させはしますが、ウィトゲンシュタインはそれはすべて{先駆的(アプリオリ)」に過ぎず人間には無意味でしかない。それにもかかわらず、我々人間は言語の限界に向かって突進する。人間の心は「何故に抑々(そもそも)何らかの事実が成立しているのか」に気を引かれるが、究極の存在を言語による説明することがそもそもに可能であるのかと疑問を提示します。其のことは全て先駆的なアプリオリであり人間世界にとっては無意味でしかない。所謂、検証原理(verification principle)という現実的経験論を提示しています。西洋哲学の実証主義的な思考法の代表的な思考です。此処にスピノザも関心を寄せた仏教哲学の「覚り」が登場します。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年09月19日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ118 スピノザの存在としてあるものの根拠を其の儘に論理的に或いは数学的帰納法や演繹法、将又(はたまた)、幾何学の論理を駆使して、世界自然を究明する思考法は、日本の思想家にして西洋に初めて認められたとも云える、哲学の道で知られる西田幾太郎の「善の研究」にも影響を与えたことでも知られています。スピノザは「神」を人間が見得ざる不可視のものであろうとも、スピノザの培った理性の深層に眠る倫理的霊魂がスピノザに世界の真相を語りかけます。「神」は人間存在が捉える世界、将又、大宇宙や自然には存在が無いのではなく、全てが「神」の発現であり表現だとしています。姿無きものは人間が霊魂で理解することしか把握することは困難であるところを、「神」の発現の顕著であるところの数学的論理や幾何学的論理により、「神」の特性として「絶対存在」「絶対真理」「絶対精神」「絶対意識」「絶対意思」に言及します。此処で注意すべきはスピノザの言う「神」とは己(おのれ)を他者と区別する欠損から生じる自己意識、即ち「自我」はあり得ず、世界を自らとしています。其のこと故に「絶対存在・絶対真理・絶対精神・絶対意識・絶対意思」である「スピノザの神」はハイデガーの「見えざる手」ではなく、神との精神の共有は可能であり、「神」から人間に働きがけがなくとも、人間が自己の精神の深奥に神との共鳴を感じ生じたときには、其の人間は人間最高にして無限の喜びと永遠の幸せを手に入れます或いは永遠の霊魂です。神格性のみならず人格性を与えた「象徴神」に頼らずとも神に共鳴する道を教授しているのがスピノザの著書「エチカ」なのです。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年09月18日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ117 ハイデガーの「見えざる手」とは、何故に世界が存在するのか、無が先じてありきで「存在」なるものが生じた、或いは創造されたのか。とはいえ、実のところ存在が悠久の永遠的なものであれば其れを問うことさえ愚問となります。初めに存在ありきをハイデガーは「神格性」を付与するのではなく「神の見えざる手」、言い換えると生命体である人間が幾ら遡及して究明しようと解答が出る筈のない課題、寧ろ、問うことこそが愚問。スピノザのように人間理性の捉える定義と定理と公理にしても存在の世界は説明可能かもしれませんが存在者を特定することはハイデガーの思想では受け入れ難いものであり、ハイデガーの「見えざる手」から観相すればスピノザが旧・新信教及びイスラム教と同等のことを述べているに過ぎないと判断、異相と違和感を感じるものの思考の流れは自らも取り入れた可能性が伺えます。思想自体を侮蔑した可能性は否定出来ないものの、其の論理的思考法は見倣った可能性も皆無ではありません。ハイデガーの「見えざる手」とは結局、人間が究明奔走するものではなく、不可触とするのが妥当だと述べているようにもとれます。彼ハイデガーは見えるハスラーではなくヴィリヤードのキューを握る「見えざる手を」の主体、人間には存在さえ問えない不可視のものを意識しています。神の「見えざる手」は「無」にこそ其の素因があるとしているのでしょうか。この辺りがスピノザの幾何学的演繹法を持って、所謂、スピノザのいう「絶対存在」ありきから始まる思考経緯は参照にはしても我慢出来ない論理思考であることは、ハイデガーがスピノザに触れることを嫌ったとするのが当を得ているかも知れません。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年09月17日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ116 何故(なぜ)に、人間が存在其のものの発現であるものを思考するのか。寧ろ(むし)ろ、「無」にこそ「存在」の発現の素因があるのではないか。ハイデガーはこの問いと全生涯をかけて関わったが、如何(いか)なる解答も用意するはおろか解答への提案さえしていません。どのようにしたら解答に近付けるのかを示すための指針を示すこともなかった。何故なら、ハイデガーはスピノザの云う絶対者そのものの解答を究明するわけではなく、スピノザが自然である世界を根拠にして何故に人間が在るのかを実証主義的、客観主義的に答えようとしたのに対し、ハイデガーは存在其のものに答えを求めていたわけではなく、「存在の意味」を答えるべき問いと捉えていたためです。言い替えれば、ハイデガーは存在其のものに答えを求めていたわけではなく、人間が存在を思考する原理、即ち、「存在論」の根拠に解答を求めているのです。此のことが我々「存在と無」を読解するときには肝要となります。ハイデガーの著書「存在と無」の表題から著書を買い込んだ読者は煙に巻かれるのは此の事実があるからです。ハイデガーは「存在」と「存在論」の差異を「存在論的差異」と呼称しています。彼は後期思想にあっては、何故(なぜ)に、人間が存在其のものの発現を思考するのか。寧ろ(むし)ろ、「無」にこそ発現があるのではないか。」の問に関しては、普通の意味での解答は不可能であるけれども、この根本的な謎と向き合う「態度」は否定しません。寧ろ、其の態度を認容し、必要であるともしています。「神の見えざる手」の出番です。然し乍ら、ハイデガーはスピノザの云う絶対者ではなく、初期ギリシァのホメロス的発想の詩的神々若しくはギリシァ初期の唯物哲学に近いものに理想を求めています。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年09月16日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ115 スピノザに対するハイデガーの態度は、終始、冷淡、だが、彼の著書を読み取れば、まさか、人種的偏見だとも思えないが、頑迷固陋な何らかの偏見が、スピノザ論理的思考の組み立てに関して、其の直感的世界観は近似しています。ハイデガーを突き動かしていた根源的直観とスピノザ哲学との親近性については相似します。例を上げれば、懐疑から始める、フランス生まれの哲学者であり数学者。合理主義哲学の祖であり、近世哲学の祖として知られるデカルト的な哲学、現実のもつ本物の持つリアルな力を仮想化し、疑問的視点から出発した懐疑から始めるデカルト的な哲学の動機からは距離を置きます。ハイデガーは現実そのもののリアリティーを其の儘(まま)に承認することから出発して、その必然性の総体の構造を見きわめようとする態度、「常に・既に」生起しています。「アプリオリ(先駆的)な完了様態」としての世界内存在の構造を分析することを基礎存在論の課題とした「存在と時間」を導いた基本的なモチーフは「必然主義」の哲学者スピノザに酷似しています。此のことは、ハイデガーが持つスピノザとは異質な哲学的直観、別言すれば、あのスピノザ的知性の直截さに達することを自らに許すことのできない内的な理由「自負」があったとも想われます。ハイデガーにはスピノザ的知性の直截さに対しては異質の癒やしがたいニヒリズムというよりは拒否を抱いていたようにも取れます。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年09月15日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ114 人間が如何に社会から孤高断絶して暮らし、社会生活を拒否し否定することは可能です。だとしても、「なぜ在るのか」を問うことは、孤高であれ一定水準の理性を獲得している人間には「何かがある」ことを否定することの問いから逃れることは困難であることは容易に導き出されます。一体全体、存在の根拠とされる存在者は有るのか無いのか、寧ろ、「無」ありて、きたりて存在はあるのではないのか。ギリシァ三哲はもとより社会的哲学を除く多くの思想家の頭を悩ましてきた問題です。生活一般では通常「存在と無」に心を悩ます人間はまずいないでしょう。然れども、年齢を経れば誰でも一度や二度は、漠然とはしていても「存在と無」に触れてみるものです。例えば人生絶望の淵に立ったとき、自分を取り巻く全ての重みを解消しようとはするが、頭が鮮明でなく曖昧模糊で解決策が見当たらないとき「神も仏もないものか」と漠然ですが「存在と無」に触れています。反対に人生有頂天で感極まったときには、存在者がいようといま「神や仏はいらない」と「無」に寄り添います。一方は苦からの開放、他の一方は存在者若しくは神仏から受ける倫理的制限からの解放でしょう。此処に幾何学的論理を持ち込んだスピノザに対して終始、冷淡で矮小化したハイデガー、滅多にスピノザには言及しないし、稀に言及する場合であっても、通り一遍の紋切り型といってもよい提示のみ。然し乍ら、そうした事実的な問題から切り離して、ハイデガーの思想内容自体をいわば虚心にしてみるならば、彼を動かしていたらしい根源的直観はスピノザ哲学の思考を模倣している面があり、ハイデガーは自己の思想の独自性を強調するために強いてスピノザには言及しないようにしていた素振りが見え隠れしています。何れにしてもハイデガーの著書「存在と無」の理解には、影響少なからずのスピノザの「エチカ」は欠かせません。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年09月14日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ113 人間が自身の心の中に理性を獲得し、絶対存在其のものの様態の延長としてのそのものを獲得し自身に伴ったときには、第一に問うのは「存在」です。自己の存在以前は、爺ちゃん婆ちゃん、将又、父母からも推測されるものの、一体全体、究極の先祖の存在者が人間であるのかないのか、さもなくば何ものなのか、寧ろ、世界は無であるのが本筋的に原理ではないのか。此のことは、明らかに総ての問いの中で第一の問いであるといえます。どうしてもこの問いを問わざるをえないような状態になるということを意味するのだとしてこれを提出し、究明しようとすれば、ギリシァ文明の思想家を省くことを相成らんとするとも云えども、神話が精神生活に結びついた文明が「存在」究明の妨げともなることを哲学的理知を抱く人間は認識することが必定でしょう。古代ギリシァは哲学的にはBC600年頃の最初の哲学者タレス以来「唯物論」から始まりますが、ギリシァ三哲の登場からは形而上哲学に踏み込みます。人間には見えざる人間深奥の理性、アリストテレス云うところの「霊魂」、全ての人間には備わることはないが全ての人間に獲得の可能性がある「霊魂」が、人間の第一の問い「何故(なぜ)に、人間が存在其のものの発現であるものを思考するのか。寧ろ(むし)ろ、「無」にこそあるのではないか、此の疑問の門前から門口を踏み越えた人間は「霊魂」を大なり小なりとも獲得しています。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年09月13日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ112 哲学にあっては、殊(ことさら)に、仮想世界は神話的であり、ギリシアの詩人ホメロスの「イーリアス」ならびに「オデュッセイア」は神を仮想現実に取り込む程のギリシァ、都市国家アテネ市民のみならず、ギリシァ全土に浸透し、ギリシァでは吟遊詩人どころか、彼の詩は、神話化しホメロスには神の冠が授けられています。おそらくは私的に類推するに、彼ホメロスは自己の心に創造の金剛石を秘めた迸る(ほとばしる)才能に恵まれた人物であり、旧約のモーセやエリヤ・エリシャ・エゼキエルのような預言者では無かった筈です。然し乍ら、一芸術家が神として崇められるのは、戦士である英雄である印度では毘沙門天のモデルになったアレクサンダー大王や中国三国志の英傑である関羽、思想家は孔子を始めとして多くを数えますが、一介の詩人が神になるというのは稀有な出来事です。ギリシァは此のギリシァの叙事詩を謳い上げた詩人の記述を神の世界とするのです。此のことがなければ、ソクラテスが毒人参を仰ぐことはなかったでしょう。私事ですが中学時代はギリシァ文明の思想を追求すればする程、どの様に思考を巡らしても、彼らは地球上に絶えた宇宙からの渡来民族として自分を納得させていました。紀元前の民族がいまだに思考の本筋にあることは、古代日本の倭国と比すれば理解できるでしょう。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年09月12日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ111 人間がスピノザの定義する神の様態の延長とするならば、取り分け、人間精神を高度な理性に恵まれた環境の霊魂を獲得した人間は、人間の神との関連付けから類推するならば、スピノザがいう高度な精神は其の高度に培った(つちかった)真正の理性の深奥に「自然の理」を取り込んだ霊魂、西田幾(き)多郎の世界観を獲得し、人間身体全般における肉体の消滅や腐敗によるダメージは、殊(こと)、霊魂に関しては適用され得ません。仮に純思考では否定しても、通常生活一般では「神と呼称する存在思考」は人間生活にとっては密着性が伴います。誰しもが「神」を呼び聞き及んだ経験がある筈です。然し乍ら、現代物理学の幾何級数的な、倍々法則ムーアの法則が成り立つIT時代に立ち位置を持つ現代人は、もはや、現実と見紛(まが)う現実と仮想の曖昧な境界VR(Virtual Reality)へと踏み込もうとしています。人間がIT技術を駆使して偽装であれ世界を創らんとしているのです。マトリックスの世界は夢・幻(まぼろし)ではありません。仮想世界ではシュミレーション次第で神をも創造できます。此の仮想が現実と成ったときにこそ「虚」の世界が人間意識に現実として芽生えます。虚と事実の隔壁が曖昧模糊の時代が到来したのです。ところが豈図らんや、神とは無縁とも覚えるイスラエルの雄アインシュタインは神の整合説を述べます。神が有るのか無いのかを問う前に自分が真の世界の現在しているのかの段階にまでにIT技術は進歩しています。此のことは、過去の時代に「阿片」、著名な詩人ボーボアールが一時期で仮想世界に没(おぼ)れていたように、真相世界から離れていては、おそらくは、真の存在者としての「有」を見ることは出来得ないだろうし、狂人の世迷い言と化すことでしょう。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年09月11日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ110 無の素材、喩(たと)えれば純白の帆布であり、油絵具やアクリル絵具を用いて描かれる支持体に使用される布カンヴァスに、芸術家の発想が「存在」を想起して書き込む、偉大な彫刻家が自身が発想するものを青銅を鋳型(いがた)からブロンズ像を創造する。此等は「一見」には神の創造の手と似通います。然し乍ら、人間は「創造者」とは相違して「本質的な無」ましてや「虚」からは何ものをも創造でき得ません。此のことは「神」、所謂(いわゆる)、元来的な虚であろうと無であろうと「自存在」が自在で不足が無い唯一の創造者、即ち、不足が無い分、満足や欠損を意識しない絶対者である神の御手は自己認識すら必要とはしません。何故なら、満足すら意識しないのは自己世界が完全だからです。此の経緯は、人間の思考経過には近似しますが完全に別ものです。人間理性と相似する部分があるのは、人間が神の延長として持つ理性が神の延長の様態からくる不思議です。人間が世界内で何かが「在する」というときには、論理学における、どんなものもそれ自身と等しい同一律を持つ、乃至は、幾何学の三角形の内角の和は180度などを一般化した原理と同じく、他の何ものにも依存せず、ただそれ自身によって成り立っていると言ってよい自明なことだを「存して在り」の常駐を認識します。但し、此処で述べなければならないのは、此の理が「神の意識」にあることです。其れも完全体であることから、人間は欠損から来る欲求が自らを意識して完全を目指しますが、完璧は自己の生、生じることも滅することもないものに「生」など在りよう筈がないのは自明の理でしょう。更には自己の精神・自己の思考・自己の意識すら持つこともなく、絶対存在は「有」るものとしてあり、無をも自らに含有させています。人間がスピノザの云う神の様態の延長ならば人間精神、取り分け、高度な理性に恵まれた人間の霊魂はその絶対者と共鳴することを欲するのは論を待ちません。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年09月10日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ109 ベルクソンが云う「無」の概念は存在が先ずあり、其れを否定したものが加わり「無」の観念を伴って存在其のものの中(うち)に「無」取り込むと云った思考経緯をとる存在其のものより複雑化したものを「無」と捉えることを批判します。無は単純そのものだと思考するからです。寧ろ、「無」から複雑化した「存在」が生成されるとしたほうが論理的だという訳です。然し乍ら、現代物理学の観測上から導き出された大宇宙の物質の生成消滅、即ち、在るもの全般の中の粒子の有存在から無への変遷、無から新たなる粒子の発生、有存在の誕生は、「無」が虚ではなく「存在」に関与していることが予想されています。現代物理学より以前、即ち、ベルクソンが属する時代には「存在を無の征服」として捉える傾向があり、加えて「無」を「虚無」と混同するきらいがあります。ベルクソンは「存在を無の征服」として捉える考え方をするようになる要因を、人間の生態学的なあり方に求めていますが、現代物理学は{虚無」をば否定しますが、「無」に関しては「存在に伴う無」としての理論的立場を組み立て始めています。どんなに恵まれた境涯、釈迦国のシッダールタを持ち出すまでもなく、行動の出発点には人間は不満・不足を抱(かかえ)えているものです。だからこそ、人間は自己に「欠在」したものの充足を求めます。理性を獲得した人間は目的行動に其の欠如を埋めんとして、行動を促されるのです。其れ故に、ベルクソンが云う「無」の観点とは相違し物理的な「無」ではなく、人間の心の問題として、「無」からの始発を生理学的に求めます。此のことは、ベルクソンが云う「無」の概念とは現実的には反対方向に進む素因なのです。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年09月09日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ108 ベルクソンが云う「無」に対する「有」は語彙的には翻訳に誤(ごびゅう)の可能性があります。「有」とは「常有」を意味し思想史からみれば元来的に「無」を仮想すれば、其の「無」は「常有」の一環に含有されたものにしか過ぎません。即ち、世界を「有」と見たときには「無」は「存在々に対極した意味の無」であり「虚」ではない訳です。和訳の取り違えかも知れません。「無」に対立させたものは一般的には対極として「有」としても正解ですが、形而上哲学及び仏教哲学では「有」を変化・変遷・変転しないあり方として捉えており、語彙的には「無」の対極は「存在」であって、「有」の対極は「虚」と捉えるのが妥当でしょう。此のことが「中論」を翳(かざ)す大乗の祖「ナーガールジュナ(龍樹)」をして西洋思想家からは虚無主義者と看做す論拠となります。大乗の祖である龍樹の説く「空」の仏教哲学では仏教開祖のシッダールタを「空論」の世祖とした前文で、依存的に生じたすべての現象的な事象は「悟りの経験にあっては」終わることもなく、始まることもなく消滅することもなく、永続することもなく、来ることもなく、去ることもなく概念として区別されることもない、本質を持たないものだと知ることができるのように言語(ごんご)での説明を超えた境地が存在するのだと最善の師である完全なるブッダに敬礼(きょうらい)若しくは投地拝礼としての和訳する。此の「空」はベルクソンが云う「無」に対する「有」とは相違し、其れ其れが離れたものでも無く、「有と無」其の意味するところから離れたものを「空」としたものです。此のことが「空」を西洋思想で鑑(かんが)みれば「虚」と映るのです。有ることもない、無いこともない、当然に、夢や幻の類(たぐい)でもない、有無を問うことすら矛盾が待ち構える、存在を超えた或るもの、見えざるもの、「ハイデッガーの見えざる手」を彷彿とさせる文言(もんごん}です。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年09月08日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ107 アンリ・ベルクソンはハイデガーで知られる「存在と無」の一般的に捉えている概念を、錯覚であり誤謬だとした上で「偽」に捕らわれているとしています。ベルクソンが錯覚と一般的思想の「無」の概念を批判するのは、「無」をより以上に「存在」即ち「在るもの全般」より単純だと思考するからです。先ず「無」が{あり}、此の「あり」は「在り」を述べるものではなく、「無」であると人間が思考する{或るモノ}其れを原理として受け止めている自己の精神のことを指し示しています。たぶんに人間は、先ず「無」があり、其処に何ものかである何らかの「或るモノの存在」が加わり変遷し「存在」其のものとして[現在」し認識されると思いがちです。ベルクソンが其の一般的思想が捉える「無」の観念から得られるとする過程を誤謬だというのです。事実的には、先ずは人間の頭脳の思考部位の中でとある現在するとした「存在物」を想い、其の肖像を描き、其れ其のものの存在を否定する作業、自己認識から破棄する作業が行われて「無」の観念を獲得するとベルクソンは述べます。ベルクソンが云うところの「無」から人間が連想する概念及び認識は人間の思考が捉えた錯覚であり誤謬だと決め付けています。但し、ベルクソンが人間の思考が捉えた錯覚だというのは、凡そ(おおよそ)の人間が「無」が「存在」より基本的て単純だとする思考経過を批判しており「無」を否定している訳ではありません。「無」と対比されるのは「存在」であり、存在は大きく括れば「無」を包括します。「存在」の反語「非存在」は無ではなく「虚(Imaginary)」でしょう。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年09月07日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ106 此処で再びアンリ・ベルクソンに立ち戻ります。虚無主義でない限り世界の基底には「原理」なるものが在ることは否定し難いものとベルクソンは肯定しています。然(しか)るに、其の原理なるものが何に起因しているのか、寧(むし)ろ、虚無主義の立場に立ち位置を持って世界の成り立ちの原理そのものを否定すれば、自然世界は仮想現実と化し実在世界は虚無的傾向を帯びます。最近ののITBankの調査では人間が仮想現実に生きている可能性は50%の確率だとの爆弾的分析さえされ発表されています。其れを受け入れたとしても、其の仮想世界を創造する仮的な世界の創造者は、真実真相の創造者とは違い、人間思想の分析から仮の世界を構築しています。しかし、仮想空間を他者から与えられた人間は虚無の時空間に生きるのですが、自己自身の本体を知らないのであれば、虚無は浮上しません。事程左様(ことほどさよう)に、人間が認知する感覚や理性は、時空間に対しても曖昧模糊としたものです。此の事実を受け入れれば「ハイデッガーの見えざる手」「スピノザの絶対精神・絶対意思・絶対存在としての神」「宗教の世界の創造者としての神」は、たとえ其れが仮想と否定しようと、人間の精神生活には多少なりとも「現・在」することは誰しも否定出来得ない事実です。さもなくば、世界は虚から生み出された虚の世界になることになり、デカルトの「コギト・エルゴ・スム」を持ち出すまでもなく世界は夢幻と化します。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年09月06日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ105 人間は物質の在ることを前提にして、其れを原理として思考の組み立てを行うのが形而上の哲学であろうと常道です。たとえ、映画マトリックスに見る世界、即ち、マトリックス (Matrix) とは、 元々のラテン語では子宮を意味し、英語では何かを生み出す、または背景・概念・機能等生み出すものを意味する世界を顕していますが、超リアリティーな仮想空間に生活する人間であっても、何れかに本身である思考する本体が現存しする以上「虚無世界」とは呼べません。一般的には「無や空」を主張する思想態度として仏教・老荘思想をはじめとして古来から多くの形態が見られると西洋思想に在っては捉えられています。大乗仏教の祖「龍樹(ナーガールジュナ」が西洋からは虚無主義者と見られることは度々(たびたび)です。世界の真理・価値・超越的なものの実在やその既成の様態を悉く(ことごとく)否定する思想的立場としてはニーチェを筆頭に理解できない訳ではないですが、殊(こと)、自然世界に対してはデカルトのコギト・エルゴ・スムを持ち出すまでもなく虚無主義者と云えども自己の存在までをも否定している訳ではありません。世界的に真理とされているもの、社会的に価値や権威を付与されているもの、超越的なものの実在やその既成の様態をことごとく否定する思想的立場であって、主張の本意は有や無を離れた語彙其のものの「無を離れたモノ全般が問われるべき対象にはない空(うつ)ろを意味する虚」を虚無主義が本意がある筈もあり得ません。虚無主義が問うのは、過去および現在における人間の存在には意義や目的、其れに見合うことに堪えうる理解出来得るような真理、本質的な価値などがないと主張する哲学的な立場であり、物理的世界を存在圏とするならば「無」をば主張してはいません。此処に霊魂の問題にも関わる永遠性の問題が浮上します。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年09月05日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ104 人間は幼児であろうと自己を他者と区別し、自分の心に理性の萌芽が生じると死を忌み、自分の生に執着心が生じますが、理性が未発達のときは昆虫の足をもぎ取ったり、おとなから見れば残酷な行為を見聞します。だが、其れも自己の生への執着への疑問から生じるものなのです。心の理性が自我を呼び覚ます段階に到ると、「なぜ自分は存在するのか」と自問することが必定(ひつじょう」となります。更に、段階が進むと他者との関わりの社会生活への対応、人間生活の倫理的な理を探求し、自己を自分の外環境である世界全体に「何故」かは進捗(しんちょく)していきます。此処で「哲学」を齧(かじ)れば、「何故(なぜ)に自分は存在するのか」と自問し、其の「理」を究めんとし、其の問を自然世界との連帯に求めたときに、自然世界の成り立ちに疑問は移行し、「なぜに宇宙は存在するか」を知ろうとします。更には、大宇宙が永遠的なものであれば内在する原理の究明、外在するものであれば超越的な「原理」としてのハイデッガーの「見えざる手」が浮上してきます。「思考と直覚」は人間理性がスピノザのいう「神の定義」を自己的には納得いくものか、将又(はたまた)誤謬であるのか思考することにはなりますが、応えるべき哲学は未だに現れず、物理科学も理論物理の段階に止め置かれています。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年09月04日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ103 何の様(どのよう)な「モノ」にも其れ、例えば空間や運動そして時間を受け止めている自己の精神が在ることには理由があるという原理、即ち、根拠の根拠(根拠律)を、世界一般、詳細に述べれば大宇宙自然其のもの一般としての全体世界に対して適用することは出来得ないとショーペンハウアーは規定しています。此のショーペンハウアーの思考を20世紀に入って問い直したのがアンリ・ベルクソンで彼が1907年に著した「創造的進化」においては、過去を記憶し、未来を予想する生物が、発見できるだろうという期待を裏切られたときに「無い」と考える。然し乍ら、実際に自己が見い出すのは、在る、然り(しかり)して在る、更に然りして在る等々の連続のみで、中断すべき「無い」ものは無いと論じています。然し乍ら、彼は1888年のソルボンヌ大学の学位論文「時間と自由(または自由意志]」では、彼が存在を問うまでの「時間」と呼ばれてきたものは空間的な認識を用いることで、本来分割できない筈のものを分節化することによって生じたものであると批判しています。ベルクソンは、空間的な認識である分割が不可能な意識の流れを「持続」と呼び、この「持続」こそが時間意識の捉え方として各々個別的、人称的、人間それぞの内心の流れと思考し、時間存在そのものに一石を投じます。此れは時間が無いのではなく、世界の生滅変化変遷を人間がどのように受け止めているかを顕しています。即ち、時間を時計のように区切られた点の集まりの移動ではなく人間の内的意識の持続の中にあると見い出しています。其れ故に、19世紀実証主義哲学を批判し、科学の法則における因果律を人間の意識に当て嵌(は)めることは出来得ないと説得します。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年09月03日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ102 ショーペンハウアーの充足理由律に一定の解を準備したのが、20世紀のフランスの哲学者、近代の自然科学的・機械的思考方法を克服、内的認識・哲学的直観の優位を説き、生命の流動性を重視する生の哲学を主張。1928年ノーベル文学賞受賞したアンリ・ベルクソン(1859年-1941年)です。「思考と直覚」を記す私にとっては哲学書を初めて取らせた人物です。教職以外の公的活動も多く、道徳・政治科学アカデミー会員、同議長、アカデミー・フランセーズ会員、国際連盟国際知的協力委員、同議長などを兼任。其の後、特派使節としてスペイン、アメリカにも赴き、大統領ウィルソンを通じて第一次世界大戦へのアメリカ参戦に尽力し、1927年のノーベル文学賞受賞、1930年レジオン・ドヌール最高勲章受勲の栄誉を得た人物。然し乍ら、数々の社会的名誉に煩(わずら)わされぬ聖者的な人格を全うし、占領下のパリに、ナチスが破格の申し出る特典をも拒みつつ、耐乏生活のなかで慎ましく生涯を終えた人物。「思惟(しい)することの高貴さに専一に仕えた人」とも評されているアンリ・ベルクソンの「時間と自由」は、其れ迄の、迷路的哲学が簡明に記され、哲学音痴の記者にも読み取れる内容でした。彼の哲学を巡る始原としての問は「存在と無」ですですが、アンリ・ベルクソンの「時間と自由」は私の疑念に応える著作であり、霊魂の問題にも作用しています。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年09月02日
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「思考と直覚」人間の霊魂を思考/スピノザ101 存在論の基調となる考え(テーマ)は突き詰めれば「何が在るのか」と「なぜ在るのか」の二つに問いに収束して行かざるを得ません。ショーペンハウアーの根拠律である充足理由律は、字義通(どお)りに受け止めれば世界に足りて充(み)つものは、人間の理性では問える問題でもなく、、且つ問うべき問題では非ずと説いています。然し乍ら、此の思考を受け入れたとしたならば、物理科学は彼の時代に留(と)め置かれ、現代物理学の大宇宙における膨張・収縮やエントロピー増大の結果の終末、コアの爆発(Big Bang)に始まる宇宙の進化や、空間の始まり、其のことによる運動と時間の発生は、ショーペンハウアーの根拠律である充足理由律を呑(の)み込めば、停滞したであろうことは間違いなさそうです。増して、素粒子の「有から無・無から有」への転遷などは、思考の中には考え及びもつかなかった筈です。一般相対性理論と関わる分野で理論的研究を前進させ、1963年には量子宇宙論という分野を形作ることになったブラックホールの特異点定理を発表し「車椅子の天才」世界的に名を知られたスティーヴン・ウィリアム・ホーキング(Stephen William Hawking)の理論は生まれ得ません。此のことは、全ての思考の至上にいた筈の哲学が経験論の故に物理学の下位の学問になったことを容認させるものです。否、物理科学者、なかでも、理論物理学者が真の哲学を立ち上げて来つつあるのかもしれません。理論物理学が世界の真相の解決の期待を一手に引き受けるのか、人間能力を演算スピードでは遥かに凌駕したIT技術を駆使する物理学者から新たな哲学は生(しょう)じるのが自然の成り行きと捉えるのが正道です。更には、新たなる宗教的見解が生じる可能性さえあります。哲学・思想 ブログランキングへ
2017年09月01日
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