全32件 (32件中 1-32件目)
1

神の存否-276 スピノザは第二部の定理四七では人間精神が神の永遠・無限なる本質の妥当な認識を有するとしますが、此の人間精神とは真実だれもが有しているものだと断言できるのでしょうか。そこには様々な条件を前提としているに違いありません 備考 これによって神の無限なる本質ならびにその永遠性はすべての人に認識されることが分かる。ところで、ありとあらゆるものは神の中に在りかつ神によって考えられるのであるから、この結果として、我々はこの神の認識からきわめて多くの妥当な認識を導き出し、このようにしてかの第三種の認識を形成しうる、ということになる。第三種の認識について我々はこの部の定理四〇の備考二 人間の概念形成に関しての経緯の中で述べたが、その価値と効用についてはさらに第五部で述べるであろう。 しかし人間が神については共通概念によってほど明瞭な認識を有しないのはなぜかといえば、それは人間が神を物体のように表象することができないということ、また人間が神という名前を自分らの通常見慣れている諸物の表象像に結合してきたということによる。これは人間が絶えず外部の物体から刺激されている関係上ほとんど避けがたい事柄である。 実際大抵の誤謬は、単に次の点にのみ、すなわち我々が物を正しい名前で呼ばないという点にのみ存する。例えばある人が、円の中心から円周に向かって引かれた諸線は等しくないと言うなら、たしかにその人は、少なくともその瞬間には、円を数学家たちと異なって解しているのである。同様に、人々が計算において誤る場合も、彼らは精神の中においては紙上におけるのと異なった数を有しているのである。だからもし彼らの精神を見ることができるとしたら、彼らは誤っているとは言えない。それにもかかわらず彼らが誤っているように見えるのは、彼らが精神の中においても紙上におけるのと同じ数を有すると我々が思うからである。もしそう思わなかったとしたら、我々は彼らが誤っているとは信じないであろう。現に私はこのあいだある人が「うちの座敷が隣りの鶏へ飛び込んだ」と叫ぶのを聞いたが、彼の言葉は不条理であったけれども、彼の精神が私には十分よくのみこめたので、彼が誤っているとは信じなかった。世の大抵の論争も、人々が自分の精神を正しく表現しないか、それとも相手の精神を誤って解釈しているかから起こる。というのは、彼らは最も激しく対立している場合でも、実はまったく同じことを考えているか、そうでなければまるで異なる主題について考えているかであり、したがってたがいに相手のせいにしている誤謬あるいは不条理が本当は存在していないことが多いのである。哲学・思想ランキング
2021年12月31日
コメント(0)

いっぷ句-69豪雪に宥め賺す血圧計 愚通
2021年12月30日
コメント(0)

神の存否-275 人間精神は真実・真相を見極めるだけの能力を可能性として秘めているのでしょうか。スピノザの云う人間精神は十分な妥当性を持った観念を有するならば、「神」についても永遠・無限性を認識することが可能だとします。対してスピノザと同時代の「エチカ/1677年」の中で精神を身体から裁然と区別して考えていた生命のデカルトによる機械論的解釈をさらに徹底化させたフランスの哲学者・医師。啓蒙期フランスの代表的な唯物論者であるジュリアン・オフレ・ド・ラ・メトリー(Julien Offray de La Mettrie,/1709年-1751年)に代表される機械論や唯物論の見地に立てば、感情などの心の現象も生物学・化学的な作用であるため、心と体という分離自体がナンセンスである。なぜなら、「心」は「体」の脳の機能によって発生したものである以上、心は独立した実体などではなく、脳によって作り出されたものであるからとされ、精神作用そのものの観念の妥当性に擬を唱えます。 定理四七 人間精神は神の永遠・無限なる本質の妥当な認識を有する。 証明 人間精神はもろもろの観念を抱く。それによって精神が自分自身(この部第二部の定理二三 精神は身体の変状「刺激状態」の観念を知覚する限りにおいてのみ自分自身を認識する。により)、および自分の身体(この部第二部の定理一九 人間精神は身体が受ける刺激「変状」の観念によってのみ人間身体自身を認識し、またそれの存在することを知る。により)、ならびに外部の物体(この部第二部の定理一六の系一 この帰結として第一に、人間精神は自分自身の身体の本性とともにきわめて多くの物体の本性を知覚するということになる。および定理一七 もし人間身体がある外部の物体の本性を含むような仕方で刺激されるならば、人間精神は、身体がこの外部の物体の存在あるいは現在を排除する刺激を受けるまでは、その物体を現実に存在するものとして、あるいは自己に現在するものとして、観想するであろう。により)を現実に存在するものとして知覚するもろもろの観念を有する(この部第二部の定理二二 人間精神は、身体の変状「刺激状態」のみならずこの変状の観念をも知覚する。により)したがって人間精神は(この部第二部の定理四五 現実に存在するおのおのの物体ないし個物の観念はすべて神の永遠・無限なる本質を必然的に含んでいる。およびこの部第二部の定理四六 おのおのの観念が含んでいる神の永遠・無限なる本質の認識は妥当で完全である。により)神の永遠・無限なる本質の妥当な認識を有する。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2021年12月30日
コメント(0)

神の存否-274 スピノザは、神の永遠・無限なる本質とは「神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で、無限の知性によって把握され得る仕方で生じなければならぬ」(第Ⅰ部定理16)と説きます。スピノザ在世時代の「唯一の無限の宇宙(ユニバース)=世界=法則=数学」に、現代の理論物理科学理論の多元宇宙論(マルチバース)を当て込めば、「無数無限の宇宙=拡大解釈された異元世界・人間の在する世界=我々が在する法則に則った宇宙・我々の宇宙法則が成り立たない異元宇宙=数学・数学が成り立たない若しくは混沌」となります。神が現世界である宇宙存在そのものしてあるならばスピノザの絶対存在の神は唯一無限の存在を主張出来ます。片や、仮にマルチバース理論が正当だとするならば、スピノザの主張する神は多元宇宙であれ存在する全てを統べる神、若しくは多くの異元の宇宙の神の一、或いは我々人類の存する宇宙こそが多くの多くの若しくは無限数の宇宙の中でこその正統な神であり、他は未熟のもの若しくは現宇宙に在する人類からは混沌、或いは人類が住めない以上地獄と看做されます。ただ我々人類とは因果関係が断ち切られているので安心ですが、仮にも神秘学的に霊魂の不滅が予測されるならば、異元の宇宙には生じたくないのは誰しもの想いでしょう。 定理四六 おのおのの観念が含んでいる神の永遠・無限なる本質の認識は妥当で完全である。 証明 前定理の証明は普遍的なものであり、我々が物を部分として考察しようと全体として考察しようと、その物の観念は、神の永遠・無限なる本質を含んでいるのであって、その観念が全体に関するものであろうと部分に関するものであろうと変りはない(前定理第二部四五 現実に存在するおのおのの物体ないし個物の観念はすべて神の永遠・無限なる本質を必然的に含んでいる。により)。ゆえに神の永遠・無限なる本質の認識を与えるようなものはすべての物に共通なのであって、部分の中にも全体の中にも等しく存するのであり、したがって(この部第二部の定理三八 すべての物に共通であり、そして等しく部分の中にも全体の中にも在るものは、妥当にしか考えられることができない。により)この認識は妥当であるであろう。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2021年12月29日
コメント(0)

神の存否-273 スピノザの神の認識が如何様のものかは、我々が「世界=宇宙=法則=数学」を「神」」と認証すればスピノザの神思考の展望が開きます。アインシュタインは「神」の存在についてこう語っています。 「今日の科学が神の存在を証明出来ないのは、科学がそこまで発展していないのであって、神が存在しないのではない。 人間の五感は限られており、神の存在を感じることはできない。 アインシュタインが宗教についての見解を記者から求められたとき、彼は逆にこう問いかけました。 定理四五 現実に存在するおのおのの物体ないし個物の観念はすべて神の永遠・無限なる本質を必然的に含んでいる。 証明 現実に存在する個物の観念はその個物の本質ならびに存在を必然的に含んでいる(この部第二部の定理八の系 個物がただ神の属性の中に包容されている限りにおいてのみ存在する間は、個物の想念的有、すなわち個物の観念は神の無限な観念が存在する限りにおいてのみ存在する。しかし個物が神の属性の中に包容されている限りにおいて存在するばかりでなく、さらにまた時間的に持続すると言われる限りにおいても存在すると言われるようになると、個物の観念もまた持続すると言われる存在を含むようになる。により)。ところが個物は(第一部定理一五 すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。により)神なしには考えられることができない。そして(この部の第二部定理六 おのおのの属性の様態は、それが様態となっている属性のもとで神が考察される限りにおいてのみ神を原因とし、神がある他の属性のもとで考察される限りにおいてはそうでない。により)個物はそれ自身が様態となっている属性のもとで神が考察される限りにおいて神を原因とするから、個物の観念もまた(第一部公理四 結果の認識は原因の認識に依存しかつこれを含む。により)自己の属する属性の概念を、言いかえれば(第一部定義六 神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解する。により)神の永遠・無限なる本質を、必然的に含んでいなければならぬ。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 備考 私がここで存在というのは持続のことではない。すなわち、抽象的に考えられる限りの存在、いわば一種の量として考えられる限りの存在のことではない。なぜなら私は、存在の本性そのものについて云々、神の本性の永遠なる必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で生ずる(第一部定理一六 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で、言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが生じなければならぬ。)がゆえに個物に付与される存在の本性そのものについて語っているのだから。つまり私は、神の中に存する限りにおける個物の存在そのものについて語っているのである。というのは、おのおのの個物は他の個物から一定の仕方で存在するように決定されているとはいえ、各個物が存在に固執する力はやはり神の本性の永遠なる必然性から生ずるからである。これについては(第一部定理二四の系 神は物が存在し始める原因であるばかりでなく、物が存在することに固執する原因でもあること、あるいは神は物の「有ることの原因」でもあること、)を見よ。哲学・思想ランキング
2021年12月28日
コメント(0)

神の存否-272 定理四四の系一の備考後半部には人間精神の第一種の認識である観察または伝聞による認識、感覚的・精神的な認識なるものの習性に過去と現在・未来の表象の時間的要素を検討しています。即ち今現在の事物を真実に理性を介して知覚するのではなく、今はもう無く、未だに無いものの人間の表象、更には現在時の表象にも焦点を当てています。 ところでここに一人の小児があって、昨日はじめて朝にペテロを、昼にパウロを、夕にシモンを見、そして今日また朝にべテロを見たと仮定しよう。この部の定理一八から明らかなように、彼は暁の光を見るや、ただちに太陽が前日と同じ天域を運行することを表象するであろう。言いかえれば彼は一日全体の経過を表象するであろう。そして朝の時間とともにペテロを、昼の時間とともにパウロを、夕の時間とともにシモンを表象するであろう。それで今彼はパウロとシモンの存在を未来の時間に関連させて表象するであろう、これに反して彼が夕方シモンを見るとしたら、彼はパウロとペテロを過去の時間とともに表象してこの二人を過去の時間に関連させるであろう。そしてこうした表象結合は彼がこれらの人間をこの同じ順序において見る度合が重なるにつれてますます確乎たるものになるであろう。 だが彼がある夕シモンの代りにヤコブを見るということが一度起こるとしたら、翌朝彼は夕の時間を思う際にあるいはシモンをあるいはヤコブを表象するが両者を同時に表象することはないであろう。なぜなら、仮定によれば、彼は夕の時間常に両者の一人だけを見て両者を同時に見ることはなかったからである。ここにおいて彼の表象は動揺し、来るべき夕の時間を思う際にあるいはこの人をあるいはかの人を表象するであろう。言いかえれば彼は両者のいずれの出現をも確実とは考えず両者いずれかの出現を偶然なものとして表象するであろう。そしてこうした表象の動揺は、我々が同様の仕方で過去あるいは現在に関して観想する物について表象がなされる場合に常に現われるであろう。こうして我々は物を現在に関してもあるいは過去ないし未来に関しても偶然なものとして表象するであろう。 系二 物をある永遠の相のもとに知覚することは理性の本性に属する。 証明 なぜなら物を偶然としてでなく必然として観想することは理性の本性に属する(前定理四三 真の観念を有する者は、同時に、自分が真の観念を有することを知り、かつそのことの真理を疑うことができない。により)。ところで理性は物のこの必然性を(この部第二部の定理四 第一種の認識は虚偽〔誤謬〕の唯一の原因である。これに反して第二種および第三種の認識は必然的に真である一により)真実に、言いかえれば(第一部公理六 真の観念はその対象(観念されたもの)と一致しなければならぬ。により)それ自身においてあるとおりに知覚する。ところが(第一部定理一六神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で(言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが)生じなければならぬ。により)物のこの必然性は神の永遠なる本性の必然性そのものである。ゆえに物をこの永遠の相のもとに観想することは理性の本性に属する。その上、理性の基礎は概念であって(この部第二部の定理三八 すべての物に共通であり、そして等しく部分の中にも全体の中にも在るものは、妥当にしか考えられることができない。により)、そうした概念はすべての物に共通なものを説明しそして(この部の定理三七 すべての物に共通であり、そして等しく部分の中にも全体の中にもあるものは、決して個物の本質を構成しない。により)決して個物の本質を説明しない。このゆえにそれらの概念は何ら時間との関係なしにある永遠の相のもとに考えられなければならぬ。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 スピノザは人間の世界環境の変化のの流れから受ける身体的刺激から生じる精神の一義的認識の表象には何らの真も置いてはいません。且又、スピノザが定理四四の系一の備考後半部に登場させる朝にペテロを、昼にパウロを、夕にシモンを、更に見シモンの代りにヤコブを見るというのは、イエス‐キリストが、多くの弟子たちの中から選んだ12人の弟子(キリストが特にこれらの弟子を使徒と名づけた「使徒」)。即ち、ペテロ(シモン*)、ヨハネ、アンデレ、セベダイの子ヤコブ、ピリポ、バルトロマイ、マタイ、トマス、アルパヨの子ヤコブ、ユダ(ヤコブの子、別名タダイ)、熱心党のシモン、イスカリオテのユダの一二人の中から表象例として転用したのは謎深いものがあります。それとは別に特に裏切りを予知していたイスカリオテのユダをイエスが「使徒」としたことは謎めいています。 哲学・思想ランキング
2021年12月27日
コメント(0)

神の存否-271 スピノザは第二部の定理四四の系では、第一種の認識(観察または伝聞による認識)、感覚的・精神的な認識なるものの習性に過去と未来の時間的要素を検討します。即ち今現在の事物を真実に理性を介して知覚するのではなく、今はもう無く、未だに無いものの人間の観想に焦点を当てます。 定理四四の系一 この帰結として、我々が物を過去ならびに未来に関して偶然として観想するのはもっばら表象力にのみ依存するということになる。 備考 だがこのことがどのようなふうにして起こるかを私は簡単に説明しよう。 我々はさきに(この部第二部の定理一七 神は単に自己の本性の諸法則のみによって働き、何ものにも強制されて働くことがない。およびその系一 この帰結として第一に、神の本性の完全性以外には神を外部あるいは内部から駆って働かせるいかなる原因も存在しない。系二 第二にひとり神のみが自由原因であることになる。)により、精神は物の現在する存在を排除する原因が現われぬ限り、たとえ物が存在していなくとも、常にその物を自己に現在するものとして表象することを明らかにした。次に(この部第二部の定理一八あらゆる個物、すなわち有限で定まった存在を有するおのおのの物は、同様に有限で定まった存在を有する他の原因から存在または作用に決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。そしてこの原因たるものもまた、同様に有限で定まった存在を有する他の原因から存在または作用に決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。このようにして無限に進む。)により、もし人間身体がかつて外部の二物体から同時に刺激されたなら、精神はあとになってそのどちらか一つを表象する場合ただちに他の一つを想起するであろうということ、言いかえれば両者の現在する存在を排除する原因が現われぬ限り両者を現在するものとして観想するであろうということを我々は示した。なおまた我々が時間をも表象することは何びとも疑わぬところである。すなわち我々は、ある物体が他の物体と比べてより緩やかにあるいはより速やかにあるいは等しい速度で運動すると考えることによって時間を表象するのである。 此処は定理四四の系一の備考を中断しても致し方ない世界の要素、即ち「時空間」に関するスピノザの解釈が吐露されています。ある物体が他の物体と比べてより緩やかにあるいはより速やかにあるいは等しい速度で運動すると考えることによって我々人間が時間を表象すると述べているのです。即ち、運動や変化とは別として時間は世界の側に有るのではなく我々人間の観想の世界に存するというのです。フランスの哲学者アンリ=ルイ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson /1859年 - 1941年)は、フランスはパリの哲学者の著書「時間と自由」の思考を呼び覚まさせます。哲学・思想ランキング
2021年12月26日
コメント(0)

神の存否-270 数学や物理科学を多少とも噛じんで育った人間には、宇宙は法則であり観測結果は数学で解き明かせる。即ち世界が全て偶然に支配されてるとは思わない傾向があります。ところが、現代科学は量子物理科学理論のシュレジンジャーの猫や特異点を解消する試みの量子重力理論、因果律を持たないマルチバース(multiverse)理論で沸き返っています。そもそもが人間精神の基礎には、観念や概念を志向する傾向、つまりは、理性的であることを求めるので、通常生活ならばまだしも、偶然の偶然を思考する素地はありません。現代の理論物理学を難しくしている所以(ゆえん)です。 定理四四 事物を偶然としてでなく必然として観想することは理性の本性に属する。 証明 事物を真実に知覚すること(この部第二部の定理四一 第一種の認識は虚偽〔誤謬〕の唯一の原因である。これに反して第二種および第三種の認識は必然的に真である。により)、すなわち(第一部公理六 真の観念はその対象(観念されたもの)と一致しなければならぬ。により)事物をそれ自身あるとおりに知覚することは理性の本性に属する。言いかえれば(第一部定理二九 自然のうちには一として偶然なものがなく、すべては一定の仕方で存在し・作用するように神の本性の必然性から決定されている。により)事物を偶然としてでなく必然として知覚することは理性の本性に属する。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2021年12月25日
コメント(0)

神の存否-269 スピノザの云う真の観念とは彼独自の「観念の観念(idea ideae)」の表現に強く連関します。ある事物の本質を知り、そのある事物の本質を最近原因の認識によって捉えるものを語彙とします。 定理四三 真の観念を有する者は、同時に、自分が真の観念を有することを知り、かつそのことの真理を疑うことができない。 証明 我々の中の真の観念は、神が人間精神の本性によって説明される限りにおいて神の中で妥当な観念である(この部第二部の定理一一の系 人間精神は神の無限な知性の一部である云々により)。そこで今、神が人間精神の本性によって説明される限りにおいて神の中に妥当な観念Aが存在すると仮定しよう。この観念についてはまた、この観念と同様の仕方で神に帰せられるある観念が神の中に必然的に存在しなければならぬ(この部第二部の定理二〇 人間精神についても神の中に観念あるいは認識がある。そしてこの観念あるいは認識は、人間身体の観念あるいは認識と同様の仕方で神の中に生じ、また同様の仕方で神に帰せられるによる。その証明は普遍的である、そしてすべての観念にあてはめられうるから)。ところが、仮定によれば、観念Aは神が人間精神の本性によって説明される限りにおいて神に帰せられている。ゆえに観念Aの観念もまた同様の仕方で神に帰せられなければならぬ。言いかえれば、再びこの部第二部の定理一一の系人間精神は神の無限な知性の一部である云々。により)観念Aについての妥当なこの観念は、妥当な観念Aを有する同じ精神の中に在るであろう。したがって、妥当な観念を有する者、あるいは(この部第二部の定理三四 我々の中において絶対的なあるいは妥当で完全な観念はすべて真である。により)物を真に認識する者は、同時に、自分の認識について妥当な観念あるいは真の認識を有しなければならぬ。言いかえれば、それ自体で明らかなように、彼は同時にそれについて確実でなければならぬ。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 備考 この部第二部の定理二一の備考の中で私は、「観念の観念」とは、何であるかを説明した。しかし前定理はそれ自体で十分明白であることをここに注意しなくてはならぬ。なぜなら、真の観念を有する者は誰でも、真の観念が最高の確実性を含んでいることを知っているからである。というのは、真の観念を有するとは物を完全にあるいは最も善く認識するという意味にほかならないから。実際これについては何びとも疑うことができない。観念が画板の上の画のように無言のものであって思惟様態すなわち認識作用そのものではないと信じない限りは。あえて問うが、前もって物を認識していないなら自分がその物を認識していることを誰が知りえようか。すなわち前もって物について確実でないなら自分がその物について確実であることを誰が知りえようか。次に真理の規範として役立つのに真の観念よりいっそう明白でいっそう確実なものがありえようか。実に、光が光自身と闇とを顕(あら)わすように、真理は真理自身と虚偽との規範である。 これで私は次の諸問に答えたと信ずる。 それはすなわち、もし真の観念が〈思惟の様態である限りにおいてではなく〉単にその対象と一致すると言われる限りにおいてのみ偽の観念と区別されるのなら、真の観念は実在性あるいは完全性において偽の観念以上のものを何ら有しないのかどうか。なぜなら両者は単に外的特徴によってのみ区別される、即ち内的特徴によっては区別されないのだから。したがってまた真の観念を有する人間あるいは人間精神も単に偽の観念のみを有する人間より実在性あるいは完全性において優れていないのかどうかという問いである。 次に、人間が偽の観念を有するのは何に由来するのか、という問いである。 最後にまた、人は自らがその客体あるいは対象と一致する観念を有することを何によって確知し得るかという問いである。 これらの問いに私は、今も言ったように、すでに答えたと信ずる。 なぜなら、真の観念と偽の観念との相違に関して言えば、前者は後者に対して有が非有に対するような関係にあることがこの部第二部の定理三五虚偽(若しくは誤謬)とは非妥当なあるいは毀損し・混乱した観念が含む認識の欠乏に存する。によって明らかになっている。 次に、虚偽の原因については、私はこの部第二部の定理一九から定理三五およびその備考に至るまでの間に虚偽の原因を掲げて十分明瞭に示した。これによってまた、真の観念を有する人間と偽の観念しか有しない人間との相違も明白になっている。 最後の点、すなわち人間は自らが、その客体、またはその対象と一致する観念を有することを何によって知りうるかということについて言えば、それは、今しがた十二分に示したように、単に、彼がその客体あるいはその対象と一致する観念を有するということ、あるいは真理が真理自身の規範であるということ、そのことだけから出てくる。これに加えて、我々の精神は物を真実に知覚する限りにおいて神の無限な知性の一部分である(この部第二部の定理一一の系 人間精神は神の無限な知性の一部である云々により)。したがって精神の有する明瞭判然たる観念が神の有する観念と同様に真であることは必然である。 以上定理四三を紐解けば、スピノザの捉える神存在は世界=法則=数学が神そのものとして浮かび上がってきます。スピノザには量子物理科学理論のシュレジンジャー不確定性理論の猫の生死は登場しません。哲学・思想ランキング
2021年12月24日
コメント(0)

神の存否-268 スピノザが哲学的な演繹、三段論法とも云われる「一般論や普遍的な法則と具体的な事実から、具体的な事象の結論を導く」という法よりも、より数学的演繹法の方式、具体的にはユークリッド幾何学に倣って、定義に始まり公理・証明・系・備考・其々に要請、付録等々を呈していますが、スピノザ独自の思考方法かと想わば、推察するにのデカルト論法の影響が大だと想われます。然し乍ら、スピノザは当時の西洋世界の宇宙観、神への人間の恣意的思考の世界観のなかで、彼自身の矜持である無限の宇宙世界の認識から、所謂、「世界=法則=数学」を読み取ったのです。更に勘ぐれば、紀元前582年 - 紀元前496年頃の(紀元前552年または紀元前551年 - 紀元前479年は、春秋時代の中国の思想家、哲学者にして儒家の始祖孔子と同時代)の古代ギリシアの数学者、哲学者にして「サモスの賢人」と呼ばれたピュタゴラスとも表記されるピタゴラス。イギリスやインドにまで旅したという伝説もある学游の旅の果に、彼はクロトンで、彼の思想に共鳴する多くの弟子とともにピタゴラス教団、またはピタゴラス学派と呼ばれる集団を立ち上げ、後の釈迦といわれるシッダルタやナザレのイエスの遥か誕生以前にあらゆる事象には数が内在していること、そして宇宙のすべては人間の主観ではなく数の法則に従うのであり、数字と計算によって解明できるという思想を確立したのです。此の驚くべきことは、現代最先端の量子重力理論にも何らの矛盾も生じないことです。スピノザの幾何学的演繹法を読み込むに連れ「サモスの賢人ピタゴラス」の「世界=法則=数学」の予言を思い出さずにはいられません。スピノザの思考方法に影響を齎したのは、私的にはデカルトよりもピタゴラスの存在だとも憶えます。 定理四二 我々に真なるものと偽なるものとを区別することを教えるのは、第一種の認識でなくて第二種および第三種の認識である。 証明 この定理はそれ自体で明白である。なぜなら、真なるものと偽なるものとを区別することを知っている者は、真なるものと偽なるものとについて妥当な観念を有しなければならぬからである。言いかえれば(この部第二部の定理四〇の系二我々が多くのものを知覚して一般的ないし普遍的概念を形成することが明白に分かる。により)真なるものと偽なるものとを第二種または第三種の認識によって認識しなければならぬからである。 スピノザは人間の感覚や感性に全幅の信頼を認識論的には全面的には肯定せず、正常状態の階層にある人間が身体刺激から何らかの本性を見極める能力が人間精神の奥底には備わっているとします。哲学・思想ランキング
2021年12月23日
コメント(0)

神の存否-267 スピノザは、第一種認識(観察または伝聞による認識)、第二種認識(推論に基づく論理的認識)と更に区別して、第三種認識というものを設定しています。第三種の認識は、神の属性についての十全な観念から、事物の本質についての十全な知へと進む」ものを指し示します。 第三種認識の特徴は、次のようなものとして要約できます。1)直観的なものであり、論証的なものではない。2)神の認識そのものを基礎とする認識。3)受動的感情を除去せず、それを位置付けうまく利用することによって能動的な活力へと転化する感情の療法。「すなわちこの認識(第三種認識)は、受動的である限りにおいての諸感情を絶対的には除去しないまでも、少なくともそれらの感情が精神の極小部分を構成するようにさせ得る。これら若干の定理の中に感情に対するすべての療法が総括されている。」4)永遠性や至福につながる。 定理四一 第一種の認識は虚偽〔誤謬〕の唯一の原因である。これに反して第二種および第三種の認識は必然的に真である。 証明 我々は前の第二部の定理四〇の備考において、第一種の認識には非妥当で混乱したすべての観念が属すると言った。したがって(この部第二部の定理三五 虚偽〔誤謬〕とは非妥当なあるいは毀損し・混乱した観念が含む認識の欠乏に存する。により)この認識は虚偽の唯一の原因である。次に我々は、第二種および第三種の認識には妥当な諸観念が属すると言った。したがって(この部第二部の定理三四 我々の中において絶対的なあるいは妥当で完全な観念はすべて真である。により)これらの認識は必然的に真である。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 スピノザは第三種の認識に直観知(scientia intuitiva)を当てていますが、本来此れは、神の認識を意味するとしていますので、それ故、此処では人間精神にとっての直観知が部分としても神の思考に一致すると捉えます。哲学・思想ランキング
2021年12月22日
コメント(0)

神の存否-266 エチカ第二部の定理四〇の備考二では、人間の概念形成に関しての経緯を述べています。スピノザ認識論 における 概念(transcendenta)の位置づけについてはスピノザ「エチカ における「超絶的名辞(termini transcendentales)」を多くの解説論が訳していることからも、その語義を明らかにするために 、彼の「エチカ」刊行以前の時期におけるスピノザの著作 「知性改善論」が問題意識を提示しています。スピノザは「知性改善論」における真実・最 高の善について」において次 のように述べます。善いとか悪いとか、完全とか不完全 とかははただ相対的なものにすぎないと言われているが それは無力な人間が「永遠の秩序」を把握出来ないから、ものごとを相対的にしか認識出来ないのだと。そして「確かに、人間は無力のためそ の思惟によってこの秩序を把握 できないのだが云々。」と述べ。此の「ものごとを相対的にしか認識出来ない、無力な人間」とはどのような事態のことを指しているのであろうかと疑問を呈します。 備考二 上に述べたすべてのことからして、我々が多くのものを知覚して一般的ないし普遍的概念を形成することが明白に分かる。すなわち次の手段で 一 感覚を通して毀損的・混乱的にかつ知性による秩序づけなしに我々に現示されるもろもろの個物から(この部第二部の定理二九の系 人間精神は物を自然の共通の秩序に従って知覚する場合は、常に自分自身についても自分の身体についても外部の物体についても妥当な認識を有せず単に混乱し・毀損(きそん)した認識のみを有する)ということになるを見よ。このゆえに私は通常こうした知覚を漠然たる経験による認識と呼び慣れている。 二 もろもろの記号から。例えば我々がある語を聞くか読むかするとともに物を想起し、それについて物自身が我々に与える観念と類似の観念を形成することから(この部第二部の定理一八の備考 記憶の何たるか。すなわちそれは、人間身体の外部に在る物の本性を含む観念のある連結にほかならない。)事物を観想するこの二様式を私はこれから第一種の認識、意見(Opinio)もしくは表象(imagiatio )と呼ぶであろう。 三 最後に、我々が事物の特質について共通概念あるいは妥当な観念を有することから(この部第二部の定理三八の系 すべての人間に共通のいくつかの観念あるいは概念が存することになる。定理三九 人間身体および人間身体が刺激されるのを常とするいくつかの外部の物体に共通でかつ特有であるもの、そして等しくこれら各物体の部分の中にも全体の中にも在るもの、そうしたものの観念もまた精神の中において妥当であるであろう。および、その定理三九の系 身体が他の物体と共通のものをより多く有するに従ってその精神は多くのものを妥当に知覚する能力をそれだけ多く有することになる。ならびに、定理四〇 精神のうちの妥当な観念から精神のうちに生起するすべての観念は、同様に妥当である。)を見よ。そしてこれを私は理性(ratio)あるいは第二種の認識と呼ぶであろう。 これら二種の認識のほかに、私があとで示すだろうように、第三種のものがある。我々はこれを直観知(scientia intuitiva)と呼ぶであろう。そしてこの種の認識は神のいくつかの属性の形相的本質(essentia formalis)の妥当な観念から事物の本質の妥当な認識へ進むものである。 これらすべてを私は一つの例で説明しよう。例えばここに三つの数が与えられていて第二数が第一数に対するのと等しい関係を第三数に対して有する第四数を得ようとする。商人は躊躇なく第二数に第三数を乗じ、その結果を第一数で除する。これは彼が先生から何の証明もなしに聞いたことをまだ忘れずにいたためであるか、あるいは彼がごく簡単な数でそれをしばしば経験したためか、あるいはまたユークリッド第七巻の定理一九の証明すなわち比例数の共通の特質に基づいたかである。しかしごく簡単な数ではこうしたことは必要でない。例えば一、二、三の数が与えられた場合第四の比例数が六であることは誰にも分かるであろう。そしてこの場合は、第一数が第二数に対して有する関係そのものを直観の一瞥(べつ)をもって見てとってそれから第四数自身を帰結するのであるから、はるかに明瞭である。 第二部の定理四〇の備考二に、直観の一瞥なるものが登場します。人間の認識の神のいくつかの属性の形相的本質の妥当な観念から事物の本質の妥当な認識へ進むものとして、其の直観の一瞥なるものを「直観知」として自己の思考の語彙に加えます。哲学・思想ランキング
2021年12月21日
コメント(0)

神の存否-265 エチカ第二部の定理四〇の備考一の後半部は「超絶的名辞」なる語句が登場します。「超絶的名辞」とは「存在物」・「物」・「或るもの」・「一」・「真」・「善」などというような名前に付けるのであり、そのような名辞を「超絶的名辞(termini transcendentales)」と言うとありますが、人間の経験または理解の通常の言辞、「言葉」に比べ抽象的・体系的なものを表わす範囲外で、実存哲学では無自覚的な日常的存在から哲学的自覚の立場へ超えて在るものを指していると捉えます。 そしてもし身体が自らのうちに同時に明瞭に形成しうる表象像のこの数が非常に超過されればすべての表象像は相互にまったく混乱するであろう。こんな次第であるから、この部第二部の定理一七の系 人間身体をかつて刺激した外部の物体がもはや存在しなくても、あるいはそれが現在しなくても、精神はそれをあたかも現在するかのように観想しうるであろう。ならびに、定理一八 もし人間身体がかつて二つあるいは多数の物体から同時に刺激されたとしたら、精神はあとでその中の一つを表象する場合ただちに他のものをも想起するであろう。からして、人間精神は、その身体の中で同時に形成されうる表象像の数だけの物体しか同時に判然と表象しえないということが明らかである。これに反して表象像が身体の中でまったく混乱するような場合には、精神もまたすペての物体を混乱してまったく差別なしに表象するであろう、そしてそれをいわば一つの属性すなわち「有」「物」などの属性のもとに包括するであろう。なおこのことは表象像が常に等しく清澄でないということからも導き出されるし、またこれと類似の他の諸原因からも導き出される。しかしそれをここに説明することは必要でない。我々の目指す目的のためにはただ一つの原因を考察するだけで十分である。なぜなら、どの原因を持ってきてみても、それは結局、超絶的名辞はきわめて混乱した観念を表示するということを示すことに落ちつくからである。 次に「人間」「馬」「犬」などのような一般的概念と呼ばれる概念が生じたのも同様の原因からである。すなわちそれは人間身体の中で同時に形成される表象像、例えば「人間」の表象像の数が表象力を徹底的には超過しないがある程度には超過する場合、つまり精神がその個々の人間の些細な相違(例えば各々の人間の色や大いさなど)、並びに、それらの人間の定数をもはや表象することが出来ず、ただそれらの人間全体の一致点、身体がそれらの人間から刺激される限りにおいて生ずる一致点のみを判然と表象しうる。何故なら其の点において身体は最も多くそれら個々の人間から刺激されたのだから、そのような場合である。そしてこの場合、精神はこの一致点を人間なる名前で表現し、これを無数に多くの個人に賦与するのである。今も言ったように精神はそれらの個々の人間の定数を表象し得ないのであるから。しかし注意しなければならぬのは、これらの概念はすべての人から同じ仕方で形成されはしないこと、身体がよりしばしば刺激されたもの、したがってまた精神がより屡々(しばしば)表象しまたは想起するものに応じてそれは各人において異なっていることである。例えばより屡々、人間の姿を驚歎して観想した者は人間という名前を直立した姿の動物と解するであろう。これに反して人間を別なふうに観想するのに慣れた者は人間に関して他の共通の表象像を形成するであろう。すなわち人間を笑う動物、羽のない二足動物、理性的動物などとするであろう。このようにしてその他のことについても各人は自分の身体の状態に応じて物の一般的表象像を形成するであろう。だから自然の事物を事物の単なる表象像によって説明しようとした哲学者たちの間にあれほど多くの論争が起こったのも不思議はないのである。 スピノザは如何に人間の表象が自己の身体的刺激を意識化しているのかを述べ、普遍の真理の究明の困難さを問います。哲学・思想ランキング
2021年12月20日
コメント(0)

神の存否-264 スピノザのエチカ第二部の定理四〇 精神のうちの妥当な観念から精神のうちに生起するすべての観念は、同様に妥当であるの備考では人間の「概念」の妥当・非妥当性を問います。物事の特徴はそれこそ星の数ほどありますし、とても複雑なものもあるので、人間が全て教えることは出来ません。そこで我々人間は物事を認識するときに、それぞれに共通する特徴を捉えており、「理解している物事に共通している特徴」という意味あいで「概念」を用いて認識をとても合理的なものにし、自らを取り巻く環境を認識する上での指標とするわけです。感覚印象や感性知覚から想像・思考などによって心の中に描き出される像。心的表象や心象であるイメージを経て観念から概念へと進みます。 備考一 これをもって私は共通概念と呼ばれていて我々の推論の基礎となっている概念の原因を説明した。しかしある種の公理あるいは概念には他の原因があるのであり、これを我々のこうした方法で説明することは有益であるであろう。なぜならそれによって、いかなる概念が他の概念より有用であるか、またこれに反していかなる概念がほとんど無用であるかが判明するだろうし、さらにまたいかなる概念がすべての人々に共通であり、そしていかなる概念が偏見に煩(わずら)わされない人々にのみ明瞭判然であるか、最後にまたいかなる概念が悪しき基礎の上に立っているかが判明するであろうから。なおまた第二次概念と呼ばれる概念が、したがってまたその概念を基礎としている公理が、どこにその起因を有しているかも明らかになるだろうし、また私が今までこれについて考察してきた他の多くのこともはっきりするであろうから。しかし私はこのことを他の論文(他の論文とは「知性改善論」のこと)に譲ったし、それにまたこの事項についてあまり長くなって嫌気を起こさせてはと思ったので、ここではそれを省くことにした。 けれども知る必要のあることは決して洩らさないために、私は「有」「物」「ある物」のようないわゆる超絶的名辞が起こった原因をついでに簡単に示すであろう。これらの名辞は、人間身体は限定されたものであるから自らのうちに一定数の表象像(表象像が何であるかはこの部第二部の定理一七の備考の中 ---精神の表象はそれ自体において見れば何の誤謬も含んでいないということ、言いかえれば精神は物を表象するからといってただちに誤りを犯しているのではなく、ただ精神が自己に現在するものとして表象する事物についてその存在を排除する観念を欠いていると見られる限りにおいてのみ誤りを犯しているのであるということである---で説明した)しか同時に判然と形成することができないということから生ずる。もしこの数が超過されれば表象像は混乱し始めるであろう。以上エチカ第二部の定理四〇の備考一の前半部で述べます。 感覚印象や感性知覚から想像・思考などによって心の中に描き出される像である心的表象や心象であるイメージを経て観念から概念へと進むには表象像が何をもって描かれているかも問題になります。児童絵本によく見られる「木が喋る」や動物のことばがわかるお医者さん「ドリトル先生物語(The Story of Doctor Dolittle)」は決して混乱した表象像をもっては描かれていません。哲学・思想ランキング
2021年12月19日
コメント(0)

神の存否-263 スピノザは世界の根元を唯一の実体たるを「神即自然」と、物心、即ち「個物である身体と人間精神」はその二つの属性、物心両界の事象は実体の様態と規定します。事物を神との必然的連関のもとに直観するところに最高の認識と「神への知的愛」とが成立し、人間の最高善があると説きます。国家と法をめぐる思索もプラトン以来に重要は当然。スピノザは死後も長く無神論者且つ唯物論者と看做され、その著書の殆どがは禁書となります。18世紀後半から19世紀にかけて漸く再評価され、ドイツ観念論の成立にも深い影響を及ぼしたほか構造主義以後の現代思想に絶大な示唆を与え続けているのです。 定理四〇 精神のうちの妥当な観念から精神のうちに生起するすべての観念は、同様に妥当である。 証明 明白である。なぜなら、「人間の精神のうちの妥当な観念から精神のうちにある観念が生ずる、」と我々が言う場合、それは(この部第二部の定理一一の系 この帰結として、人間精神は神の無限な知性の一部である、ということになる。したがって我々が「人間精神がこのことあるいはかのことを知覚する」と言う時、それは、「神が無限である限りにおいてでなく、神が人間精神の本性によって説明される限りにおいて、あるいは神が人間精神の本質を構成する限りにおいて、神がこのあるいはかの観念をもつ」と言うのにほかならない。また我々が「神が人間精神の本性を構成する限りにおいてのみでなく、神が人間精神と同時に他の物の観念をも有する限りにおいて、神がこのあるいはかの観念をもつ」と言う時に、それは「人間精神が物を部分的にあるいは非妥当的に知覚する」と言う意味である。により)、「神が無限である限りにおいてではなく、また神がきわめて多くの個物の観念に変状した限りにおいてでもなく、神が単に 人間精神の本質を構成する限りにおいて、神の知性自身の中に神を原因とするある観念が在る、」と言っているのにほかならない、そしてこのゆえにそれは妥当なものでなければならぬ。 スピノザは世界の根元を唯一の実体たるを「神即自然」が、唯物論者と看做されるにしては観念を持つとしています。世界の側に存在と意思が在るとする表現ですが、アインシュタインの「どんな条件であれ、私には確信がある。神は絶対にサイコロを振らない。」が「神即自然」に妥当と憶えます。哲学・思想ランキング
2021年12月18日
コメント(0)

神の存否-262 人間身体および人間身体が刺激されるのを常とするい外部の物体といえば、先ず思いつくのは、古より我々人間が日 常生活 に おい て最も接触する機会の多い万 物の 根 源とす る四元素「水・空気・火・土」の四つでしょう。「水・空気・火・土」それぞれが地球上に生命の発生を齎した訳ですが、その後は空気や火及び土を要しないで活動する生命もあり続けます。然し乍ら、生命段階が複雑化するに連れ、四元素のうち「水・空気・土」を必須とする植物や、「水・空気・火・土」須らく必要とする人類の叡智が生じます。中でも中心元素である「水」は、当然に人間身体に影響が大です。 定理三九 人間身体および人間身体が刺激されるのを常とするいくつかの外部の物体に共通でかつ特有であるもの、そして等しくこれら各物体の部分の中にも全体の中にも在るもの、そうしたものの観念もまた精神の中において妥当であるであろう。 証明 Aが人間身体およびいくつかの外部の物体に共通でかつ特有であるもの、等しく人間身体の中にもこれらの外部の物体の中にも在るもの、そして最後に等しくこれら外部の各物体の部分の中にも全体の中にも在るもの、としよう。そうすればA自身については、神が人間身体の観念を有する限りにおいても、また神が前述の外部の諸物体の観念を有する限りにおいても、神の中に妥当な観念が在るであろう(この部の定理七の系により)。いま人間身体が、外部の物体から、外部の物体と共通に有するところのものによって、すなわちAによって刺激されると仮定しよう。そうすればこの刺激〔変状〕の観念はAという特質を含むであろう(この部の定理一六により)。またそれゆえに(再びこの部の定理七の系により)この刺激〔変状〕の観念は、Aという特質を含む限りにおいて、神の中で妥当であるであろう〜〜神が人間身体の観念に変状した限りにおいて、言いかえれば(この部の定理一三により)神が人間精神の本性を構成する限りにおいて。したがってまた(この部の定理一一の系により)この観念は人間精神の中でも妥当である。Q・E・D・ 系 この帰結として、身体が他の物体と共通のものをより多く有するに従ってその精神は多くのものを妥当に知覚する能力をそれだけ多く有することになる。 定理三九の証明の例「A」に、古代ギリシャの哲学者で哲学の祖とされるギリシャ七賢人の一人で万物の根源(アルケー)を「水」と考え、存在する全てのものがそれから生成し、それへと消滅していくものだと考えた哲学の祖タレス(Thalēs/BC624年頃 - BC546年頃)を鑑み「A」を「水」に置き換えれば多少は理解の助けとなります。哲学・思想ランキング
2021年12月17日
コメント(0)

神の存否-261 21世紀現代の最先端を走ると目される相対性理論と量子理論の現実在性を踏まえて両者を統合的に捉えんとして理論開発が進む重力量子理論の代表的存在の宇宙の真空エネルギーの存在を予期していた超紐理論(超弦理論/Superstring theory)は更に宇宙に重力が根本存在であることを示唆します。スピノザの時代は精々が分子レベルで、原子や素粒子などは登場しない段階で、世界の個物の本質の共通性を観想したことは先見の明だともいえましょう。 定理三八 すべての物に共通であり、そして等しく部分の中にも全体の中にも在るものは、妥当にしか考えられることができない。 証明 Aがすべての物体に共通でありそして等しく各物体の部分の中にも全体の中にも在るものであるとしよう。私はAが妥当にしか考えられることができないと主張するのである。なぜなら、Aの観念は(この部第二部の定理七の系 神の思惟する能力は神の行動する現実的能力に等しいことになる。言いかえれば、神の無限な本性から形相的に起こるすべてのことは、神の観念から同一秩序・同一連結をもって神のうちに想念的に、すなわち観念として起こるのである。により)、神が人間身体の観念を有する限りにおいても、また神が人間身体の変状としての刺激状態の観念。人間身体の本性ならびに外部の物体の本性を部分的に含むような(この部第二部の定理一六 人間身体が外部の物体から刺激されるおのおのの様式の観念は、人間身体の本性と同時に、外部の物体の本性を含まなければならぬ。この部第二部の定理二五 人間身体のおのおのの変状「刺激状態」の観念は外部の物体の妥当な認識を含んでいない。および、この部第二部の定理二七 人間身体のおのおのの変状「刺激状態」の観念は人間身体そのものの妥当な認識を含んでいない。により)ものは、必然的に神の中で妥当であるであろう。言いかえれば(この部第二部の定理一二 人間精神を構成する観念の対象の中に起こるすべてのことは、人間精神によって知覚されなければならぬ。あるいはその物について精神の中に必然的に観念があるであろう。言いかえれば、もし人間精神を構成する観念の対象が身体であるならその身体の中には精神によって知覚されないような、あるいはそれについてある観念が精神の中にないような、いかなることも起こりえないであろう。および、この部第二部の定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。により)、Aの観念は神が人間精神を構成する限りにおいて、あるいは神が人間精神の中に在る観念を有する限りにおいて、必然的に神の中で妥当であるであろう。ゆえに精神は(この部第二部の定理一一の系 この帰結として、人間精神は神の無限な知性の一部である、ということになる。したがって我々が「人間精神がこのことあるいはかのことを知覚する」と言う時、それは、「神が無限である限りにおいてでなく、神が人間精神の本性によって説明される限りにおいて、あるいは神が人間精神の本質を構成する限りにおいて、神がこのあるいはかの観念をもつ」と言うのにほかならない。また我々が「神が人間精神の本性を構成する限りにおいてのみでなく、神が人間精神と同時に他の物の観念をも有する限りにおいて、神がこのあるいはかの観念をもつ」と言う時に、それは「人間精神が物を部分的にあるいは非妥当的に知覚する」と言う意味である。により)Aを必然的に妥当に知覚する。しかもそれは精神が自分自身を知覚する限りにおいても、自分の身体あるいは外部の物体を知覚する限りにおいてもそうである。そしてAは他の仕方では考えられることができないのである。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 系 この帰結として、すべての人間に共通のいくつかの観念あるいは概念が存することになる。なぜなら(補助定理二 すべての物体はいくつかの点において一致する。により)すべての物体はいくつかの点において一致し、そしてこれらの点は、この部第二部前定理三七 すべての物に共通であり、すべての人から妥当にあるいは明瞭判然と知覚されなければならぬからである。 歴史上の記史に遡っても、世界の「素因・原理」を究めんとする態度は現代にも連綿と繋がっています。そこには、変遷無辺の宇宙とそれを観想する人現精神の不可思議さが際立ちます。其の背後には何が隠されているのかは宇宙の果の其の先と同様に現時では不可思議としかいえません。哲学・思想ランキング
2021年12月16日
コメント(0)

神の存否-260 本質(essence)とは 事物が一定の事物である限りで、その事物を他の事物とは異なる当の事物として成り立たせている、そのものの事物に固有の存在をいうとありますが、スピノザは個物それぞれの独立概念を否定します。世界の事象の個物は全てが連関若しくは連環から生じているからです。仮に個物そのものに真の本質を求めるならば、個物に永遠の実在性が求められます。 定理三七 すべての物に共通であり(これについては先のこの部第二部の定理一三 補助定理二 すべての物体はいくつかの点において一致する。証明 なぜなら、すべての物体は同一属性の概念を含むという点で一致する。且つ、この部第二部の定義一 物体とは、神が延長した物と見られる限りにおいて神の本質をある一定の仕方で表現することと解するにより)。次にそれらは、ある時は緩やかに、ある時は速やかに運動しうるという点で一般的に言えばある時は運動しある時は静止しうるという点で一致する。、そして等しく部分の中にも全体の中にもあるものは、決して個物の本質を構成しない。 証明 これを否定しようとする者は、もしでき得るなら、そうしたものがある個物の本質を、例えばBの本質を構成すると考えてみよ。この場合(この部第二部の定義二 それが与えられればある物が必然的に定立され、それが除去されればそのある物が必然的に滅びるようなもの、あるいはそれがなければある物が、また逆にそのある物がなければそれが、在ることも考えられることもできないようなもの、そうしたものをその物の本質に属すると私は言うにより)そうしたものはBなしには存在することも考えられることもできないであろう。ところがこれは仮定に反する。ゆえにそうしたものはBの本質に属さないしまた他の個物の本質も構成しない。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2021年12月15日
コメント(0)

神の存否-259 スピノザは、真を観想したものは真の妥当な観念を、虚偽や誤謬を観想したものは非妥当で混乱した観念を導き、逆に、真を観想したものが非妥当で混乱した観念に、虚偽や誤謬を観想したもの真の妥当な観念を導き出すことは有り得ないとします。 定理三六 非妥当で混乱した観念は、妥当なあるいは明瞭判然たる観念と同一の必然性をもって生ずる。 証明 すべての観念は神の中に在る(第一部定理一五 すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。により)、そしてそれは神に関する限りにおいて真であり(この部第二部の定理三二 すべての観念は神に関係する限り真である。により)、また(この部第二部の定理七の系神の思惟する能力は神の行動する現実的能力に等しいことになる。言いかえれば、神の無限な本性から形相的に起こるすべてのことは、神の観念から同一秩序・同一連結をもって神のうちに想念的に、即ち観念として起こるのである。により)妥当である。したがっていかなる観念も、それがある人間の単独の精神に関する限りにおいてでなくては、非妥当でもなければ混乱してもいない(これについてはこの部第二部の定理二四 人間精神は人間身体を組織する部分の妥当な認識を含んでいない。および、この部第二部の定理二八 人間身体の変状の観念は、単に人間精神に関連している限り、明瞭判然たるものではなく、混乱したものである。を見よ)。それゆえに観念は、妥当なものでも非妥当なものでも、すべて同一の必然性をもって生ずるのである(この部第二部の定理六の系 思惟の様態でない事物の形相的有は、神の本性がそれらの事物を前もって認識したがために神の本性から起こるのではない、むしろ観念の対象たる事物は、観念が思惟の属性から生ずるのと同一の仕方・同一の必然性をもって、それ自身の属性から起こりあるいは導き出されるということになる。により)。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 絶対者の存在をスピノザのように自然(世界)と捉えるのではなく、見えざるものとして捉える一部の形而上哲学は論理的矛盾を見えざるものとしての絶対者に帰す傾向があります。逆に、実相から真を捉えようとする理論物理学は神がいようがいまいか、神を持ち出さないで結果をだそうとします。真の「神の観念」とは何れが正当な道なのでしょう。哲学・思想ランキング
2021年12月14日
コメント(0)

神の存否-258 スピノザは人間の意志と表象が、如何に一般には誤解されて認識されているかを問います。論理学における「誤謬」、論証の過程に論理的または形式的な明らかな瑕疵があり、その論証が全体として妥当でないことを和訳の問題もあるでしょうが、真実ではないことをあたかも真実であるかのように見せかけることを意味する言葉「虚偽」の語句を使用しています。 定理三五 虚偽(乃至は誤謬の意)とは非妥当なあるいは毀損し・混乱した観念が含む認識の欠乏に存する。 証明 観念の中には虚偽の形相を構成する積極的なものは何も存しない(この部第二部の定理三三 観念の中にはそれを虚偽と言わしめるような積極的なものは何も存しない。)により。しかし虚偽は認識の絶対的な欠乏には存しえない。なぜなら、誤るとか錯誤するとか言われるものは精神であって身体などではないのだから。だからといってそれは絶対的無知にも存しない。なぜなら、あることを知らないということと誤るということは別ものだからである。 それゆえ虚偽(乃至は誤謬)とは事物の非妥当な認識、あるいは非妥当で混乱した観念が含む認識の欠乏に存する。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 備考 私はこの部第二部の定理一七の備考 我々は、しばしば起こるように、もはや存在しないものをあたかも現在するかのごとく観想するということがいかにして起こりうるかを知るの中で私はいかなるわけで誤謬が認識の欠乏に存するかを説明した。しかしそのことをいっそう詳細に説明するために例を挙げよう。 例えば人間が自らを自由であると思っているのは、即ち、彼らか自分は自由意志をもってあることを成し或いは成さざることができると思っているのは誤っている。そしてそうした誤った意見は、彼らが只、彼らの行動は意識するが彼らをそれへ決定する諸原因はこれを知らないということにのみ存するのである。だから彼らの自由の観念なるものは彼らが自らの行動の原因を知らないということにあるのである。なぜなら、彼らが、人間の行動は意志を原因とすると言ったところで、それは単なる言葉であって、その言葉について彼らは何の理解も有しないのである。すなわち意志とは何であるか、また意志がいかにして身体を動かすかを彼らは誰も知らないのである。またそれを知っていると称して魂の在りかや住まいを案出する人々は嘲笑か嫌悪をひき起こすのが常である。 同様に、我々は太陽を見る時太陽が約二百フィート我々から離れていると表象する。この誤謬はそうした表象自体の中には存せず、我々が太陽をそのように表象するにあたって太陽の真の距離ならびに我々の表象の原因を知らないことに存する。なぜなら、もしあとで我々が太陽は地球の直径の六百倍以上も我々から離れていることを認識しても、我々はそれにもかかわらずやはり太陽を近くにあるものとして表象するであろう。なぜなら、我々が太陽をこれほど近いものとして表象するのは、我々が太陽の真の距離を知らないからではなく、我々の身体の変状としての刺激状態は身体自身が太陽から刺激される限りにおいてのみ太陽の本質を含んでいるからである。 此処、定理三五では「人間の身体と魂の在りか」を祖上させていますが、霊魂は物体的なものを表現する思惟がそれのうちに直接内在する実体は精神(mens)と呼ばれる。私はここで霊魂(anima)と言わずに精神と言う。なぜなら霊魂という名称は二義的であって、しばしば物体的なものを表現するからであると敢えて述べますが、精神(mens)と霊魂(anima)を、「神学・政治論」の中で主張するとおり、「神は人類だけをではなく全自然を顧慮するものであること」と物神論の萌芽が垣間見えます。スピノザを単略的に唯物論者と決めつける捉え方、将又、神秘主義者と捉える思考はスピノザ思考の真意を何れも捉えきれていないと見るべきです。スピノザは神秘学論者、ましてや神秘体験者ではないし、敢くまでも、唯物主観とさえ指摘される程の認識論主義者です。 世界における生命の霊性とその魂と魄、宇宙の誕生の由縁と終焉の彼方、其の探索と究明については記者は別件として取り扱うつもりでおります。哲学・思想ランキング
2021年12月13日
コメント(0)

神の存否-257 我々人間が思惟でしか捉えきれなかった世界の側の理、スピノザの云う「神の法理」が、ギリシァ哲学に花咲く唯物論哲学・形而上哲学が、前者は物理科学の理論を裏付ける技術の飛躍的向上、後者は分子生物学や生理分析科学の理論を裏付ける分析科学技術の進展により、人類は世界をスピノザの時代よりは世界を「観念」だけには頼らずに体験的認識を手中にし結実させようとしていますが、それも理論物理科学者であれ精神科学の分野であれ、万の一にも解明したとは高らかには宣言しないでしょう。まだまだ、世界を認識するのには「観念」が最も重要なの人類の叡智が世界を呑み込むまでは先は見通せません。 定理三四 我々の中において絶対的なあるいは妥当で完全な観念はすべて真である。 証明 我々の中に妥当で完全な観念が存すると我々が言う時、それは(この部第二部の定理一一の系 人間精神は神の無限な知性の一部である云々により)、我々の精神の本質を構成する限りにおいての神の中に妥当で完全な観念が存すると言っているのにほかならぬのであり、したがってまた(この部第二部の定理三二 すべての観念は神に関係する限り真である。により)そうした観念が真であると言っているのにほかならないのである。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 真の観念とはスピノザによれば永遠へと遡及可能なものでなければならない。真の観念には「時制の認識の導入」は無用だと云うことです。哲学・思想ランキング
2021年12月12日
コメント(0)

神の存否-256 スピノザにすれば神の中にあるのは「絶対完全な観念」が在するのは当然ですが、我々人間が思惟するものから生じる絶対的な、言い換えれば神に帰すことが出来得る我々人間の観念も妥当だと言います。 定理三四 我々の中において絶対的なあるいは妥当で完全な観念はすべて真である。 証明 我々の中に妥当で完全な観念が存すると我々が言う時、それは(この部第二部の定理一一の系の帰結として 人間精神は神の無限な知性の一部であるということになる。したがって我々が「人間精神がこのことあるいはかのことを知覚する」と言う時、それは、「神が無限である限りにおいてでなく、神が人間精神の本性によって説明される限りにおいて、あるいは神が人間精神の本質を構成する限りにおいて、神がこのあるいはかの観念をもつ」と言うのに他ならない。また我々が「神が人間精神の本性を構成する限りにおいてのみでなく、神が人間精神と同時に他の物の観念をも有する限りにおいて、神がこのあるいはかの観念をもつ」と言う時に、それは「人間精神が物を部分的にあるいは非妥当的に知覚する」と言う意味である。 により)、我々の精神の本質を構成する限りにおいての神の中に妥当で完全な観念が存すると言っているのにほかならぬのであり、したがってまた(この部第二部の定理三二 すべての観念は神に関係する限り真である。により)そうした観念が真であると言っているのにほかならないのである。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 すべての観念は神に関係する限りとは、我々人間の思考が確信を持っていた観念、たとえばアインシュタインの宇宙定常説も妥当でない、つまり、世界自然法則の観念の毀損だということです。人類がスピノザの云う妥当な観念から絶対的な観念に近接するには、南アジアのインドの山奥で修行すれば兎も角も、現代最先端物理科学の観測をもってしても、見ること能わずの領域があり甚だ難があります。物理科学が自然哲学を超え、人類が「神の法理」を手中にするのを夢見ます。哲学・思想ランキング
2021年12月11日
コメント(0)

神の存否-255 定理三二でスピノザは「すべての観念は神に関係する限り」真であるとしています。世界=自然=神を説くスピノザにすれば、「世界の法理」こそが真である観念になるのでしょうか。物理学上の歴史的転回点としての、コペルニクスの宇宙論、アインシュタインの相対論、宇宙誕生に至るインフレーション理論は未だに「真」とは言えず、単なる思考-観想にとどまっていることになります。 定理三三 観念の中にはそれを虚偽と言わしめるような積極的なものは何も存しない。 証明 これを否定しようとする者は、もしできるなら、誤謬または虚偽の形相を構成するある積極的な思惟の様態が存在すると考えてみよ。この思惟の様態は神の中に在ることができない(前定理三二 すべての観念は神に関係する限り真であるにより)。しかしそれは神の外にも在りまた其のように考えられることができない(第一部定理一五 すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。により)。それゆえ、観念の中には、それを虚偽と言わしめるような積極的なものは何も存し得ない。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 スピノザの真の観念には、虚偽や誤謬は許されません。人間が真の観念を自らのものとして観相するのは儚い願望なのでしょうか。哲学・思想ランキング
2021年12月10日
コメント(0)

神の存否-254 スピノザの「観念」の語彙は基本的には、ものの原型として理念としての概念と意義を異にし、表象は抽象的対象を表わす「概念」に対して具体的直観的対象を表わすものと云えそうです。 定理三二 すべての観念は神に関係する限り真である。 証明 なぜなら、神の中に在るすべての観念は、その対象すなわち観念されたものとまったく一致する(この部の定理七 観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一であるの系 この帰結として、神の思惟する能力は神の行動する現実的能力に等しいことになる。言いかえれば、神の無限な本性から形相的に起こるすべてのことは、神の観念から同一秩序・同一連結をもって神のうちに想念的に、すなわち観念として起こるのであるにより。)。したがって(第一部公理六 真の観念はその対象(観念されたもの)と一致しなければならぬ)により、すべて真である。 Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 スピノザ説くところの真の観念とは、スピノザ哲学に造詣が深く精通していた西田幾多郎の「直感知」の語彙が妥当すると想われます。おそらくは、世界の法理を手中にした境地「さとり」をいうのでしょう。哲学・思想ランキング
2021年12月09日
コメント(0)

神の存否-253 スピノザは我々の身体の持続は身体の本質に依存しないし、人間精神の身体の持続の認識の観念にも疑問を呈します。人間精神の観念の観念の持続の認識にも疑問符を持ち込むのでしょうか。確かに常有という意味では人間精神のみならず個物にも持続の永遠性はありません。但し、世界の側である神の領域には絶対的持続の永遠性があります。人間が神の思惟を観想さらに観相出来うれば持続の永遠性を実相することを獲得できないのでしょうか。 定理三一 我々は我々の外部に在る個物の持続についてはきわめて非妥当な認識しかもつことができない。 証明 なぜなら、おのおのの個物は人間身体と同様に他の個物からある一定の仕方で存在し作用するように決定されなければならぬ、そしてこの後者もまた他の物から決定され、このようにして無限に進む(第一部定理二八 あらゆる個物、すなわち有限で定まった存在を有するおのおのの物は、同様に有限で定まった存在を有する他の原因から存在または作用に決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。そしてこの原因たるものもまた、同様に有限で定まった存在を有する他の原因から存在または作用に決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。このようにして無限に進む。により)。ところが我々は(前定理三〇 我々は我々の身体の持続についてはきわめて非妥当な認識しかもつことができない。)において、我々が我々の身体の持続についてきわめて非妥当な認識しか有しないことを個物のこの共通の特質から証明した。ゆえに個物の持続についても同じことが結論されるであろう。すなわち我々は個物の持続についてはきわめて非妥当な認識しかもつことができない。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 系 この帰結として、すべての個物は偶然的でかつ可滅的であるということになる。というのは、我々は個物の持続について何ら妥当な認識をもつことができないのであり、そして我々が物の偶然性とか可滅性とか言っているのは結局そうしたことを指しているのだからである。実際この意味以外ではおよそ偶然的な物は一つとして存在しないのであるから(第一部定理二九 自然のうちには一として偶然なものがなく、すべては一定の仕方で存在し・作用するように神の本性の必然性から決定されている。)により。 持続とは多分に「時間・連続性」を帯びています。原因→作用→決定の連続性です。スピノザは此の連続性は神の側に有るべきものであり、人間精神の側には個物同様にないとします。対して、アンリ=ルイ・ベルクソン(Henri-Louis Bergson*bɛʁksɔnと発音 /1859~1941)は時間の流れを「持続」という独自の概念でとらえています。哲学・思想ランキング
2021年12月08日
コメント(0)

神の存否-252 スピノザは人間身体の持続の観念の認識は極めて非妥当なものとします。原因→作用→決定の繰り返しを無限とする認識、勿論のこと、個々の人間としての認識は肉体の滅びが認識の終焉とも捉えられますが、宗教論における永久不滅の天上世界(Heaven)や仏教哲学の輪廻の否定は原因→作用→決定の繰り返しを無限とする認識を否定します。人間が観相する時間とは人間の持続性の観想から浮上するものであり、世界の側には其の秩序が絶対かといえば甚だ覚束なくなります。 定理三〇 我々は我々の身体の持続についてはきわめて非妥当な認識しかもつことができない。 証明 我々の身体の持続は身体の本質に依存しないし (この部第二部の公理一 ある物体が他の物体から動かされる一切の様式は、動かされる物体の本性からと同時に動かす物体の本性から生ずる。したがって、同一の物体が、動かす物体の本性の異なるにつれてさまざまな様式で動かされ、また反対に、異なった物体が、同一の物体からさまざまな様式で動かされることになる。により)、また神の絶対的本性にも依存しない(第一部定理二一 神のある属性の絶対的本性から生ずるすべてのものは常にかつ無限に存在しなければならぬ、言いかえればそれはこの属性によって永遠かつ無限であるにより、更には、第一部定理二八 あらゆる個物、すなわち有限で定まった存在を有するおのおのの物は、同様に有限で定まった存在を有する他の原因から存在または作用に決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。そしてこの原因たるものもまた、同様に有限で定まった存在を有する他の原因から存在または作用に決定されるのでなくては存在することも作用に決定されることもできない。このようにして無限に進む。)を参考。むしろ身体は他)原因から存在し、作用するように決定され、この原因がまた他の原因からある一定の仕方で存在し、作用するように決定され、さらにこの後者も他から決定され、このようにして無限に進む。したがって我々の身体の持続は自然の共通の秩序および諸物の排列状態に依存する。しかし諸物がいかなる仕方で排列されているかについての妥当な認識は、神がすべての物の観念を有する限りにおいて神の中に在り、神が単に人間身体の観念を有する限りにおいては神の中にはない(この部の第二部定理九の系 おのおのの観念の個々の対象の中に起こるすべてのことは、神がまさにその対象の観念をもつ限りにおいてのみ、神のうちにその認識がある。により)。ゆえに我々の身体の持続の認識は、神が単に我々の精神の本性を構成すると見られる限りにおいては神の中においてきわめて非妥当なものである。言いかえれば(この部第二部の定理一一の系 この帰結として、人間精神は神の無限な知性の一部である、ということになる。したがって我々が「人間精神がこのことあるいはかのことを知覚する」と言う時、それは、「神が無限である限りにおいてでなく、神が人間精神の本性によって説明される限りにおいて、あるいは神が人間精神の本質を構成する限りにおいて、神がこのあるいはかの観念をもつ」と言うのにほかならない。また我々が「神が人間精神の本性を構成する限りにおいてのみでなく、神が人間精神と同時に他の物の観念をも有する限りにおいて、神がこのあるいはかの観念をもつ」と言う時に、それは「人間精神が物を部分的にあるいは非妥当的に知覚する」と言う意味である。により)この認識は我々の精神の中においてはきわめて非妥当なものである。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2021年12月07日
コメント(0)

神の存否-251 スピノザは外部環境から刺激を受けた人間精神を物事を真に認識するには信を置けないとします。個物から刺激される人間精神は悲喜交々 感情が交錯する 在り処であるからです。反して内部から湧出する物の一致点・相違点・反対点を観相する内精神には信が置けると言います。 系 この帰結として、人間精神は物を自然の共通の秩序に従って知覚する場合は、常に自分自身についても自分の身体についても外部の物体についても妥当な認識を有せず単に混乱し・毀損した認識のみを有するということになる。なぜなら、精神は、身体の変状の観念を知覚する限りにおいてのみ自分自身を認識する(この部の第二部定理二三 精神は身体の変状「刺激状態」の観念を知覚する限りにおいてのみ自分自身を認識する。により)、また精神は身体の変状の観念自身によってのみ自分の身体を知覚し(この部第二部の定理一九 人間精神は身体が受ける刺激「変状」の観念によってのみ人間身体自身を認識し、またそれの存在することを知る。により)、さらに同じくこの変状の観念自身によってのみ外部の物体を知覚する(この部の第二部定理二六人間精神は自己の身体の変状「刺激状態」の観念によってのみ外部の物体を現実に存在するものとして知覚する。により)。したがって精神は、そうした観念を有する限りは、自分自身についても(この部の第二部定理二九 人間身体のおのおのの変状の観念の観念は人間精神の妥当な認識を含んでいない。により)、自分の身体についても(この部の第二部定理二七 人間身体のおのおのの変状「刺激状態」の観念は人間身体そのものの妥当な認識を含んでいない。により)、外部の物体についても(この部第二部の定理二五 人間身体のおのおのの変状「刺激状態」の観念は外部の物体の妥当な認識を含んでいない。により)、妥当な認識を有せず、単に(この部の第二部定理二八人間身体の変状の観念は、単に人間精神に関連している限り、明瞭判然たるものではなく、混乱したものである。ならびに、その備考人間精神の本性を構成する観念は単にそれ自体のみにおいて考察すれば明瞭判然たるものでないということは同様の仕方で証明される。人間精神の観念および人間身体の変状の観念の観念も、それが単に精神にのみ関連している限りそうである。これは各人の容易に知りうるところである。により)毀損し・混乱した認識を有するのみである。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 備考 私ははっきり言う。精神は物を自然の共通の秩序に従って知覚する場合には、言いかえれば外部から決定されて、すなわち物との偶然的接触に基づいて、このものあるいはかのものを観想する場合には、常に自分自身についても自分の身体についても外部の物体についても妥当な認識を有せず、単に混乱し毀損した認識を有するのみである。これに反して内部から決定されて、すなわち多くの物を同時に観想することによって、物の一致点・相違点・反対点を認識する場合にはそうでない。なぜなら精神がこのあるいはかの仕方で内部から決定される場合には、精神は常に物を明瞭判然と観想するからである。このことについてはのちに示すであろう。 スピノザは人間精神を内から外世界を俯瞰させ、世界の法理を観念するならば妥当な認識が得られるとまるで禅僧が答えそうな答弁を用意します。哲学・思想ランキング
2021年12月06日
コメント(0)

神の存否-250 スピノザは人間一般が普通「善い」とか「悪い」とかいう言葉を結びつけている諸観念は、誤謬に基づいている或いは混乱です。善や悪は事物そのもののうちにある現実的なものではなく、我々が事物を互いに比較して作る相対的な概念に過ぎない。我々はある個物が「善い」とか「悪い」とかいう言葉を結びつけている諸観念の概念に反すると、それはその本質に適ってはいず、不完全であると考える。しかし何事も神の意志に反しては起こらないのだから、悪や罪は相対的なものであって、積極的なものではないのであるとします。それは単なる否定や欠如に過ぎず、我々の表象においてのみ何ものかであるように見えるに過ぎない。 定理二九 人間身体のおのおのの変状の観念の観念は人間精神の妥当な認識を含んでいない。 証明 なぜなら、人間身体の変状の観念は(この部の第二部定理二七 人間身体のおのおのの変状〔刺激状態〕の観念は人間身体そのものの妥当な認識を含んでいない。により)身体自身の妥当な認識を含んでいない。あるいはその本性を妥当に表現しない。言いかえればそれは(この部第二部の定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。により)精神の本性と妥当に一致しない。したがって(第一部公理六 真の観念はその対象(観念されたもの)と一致しなければならぬ。により)その観念の観念もまた人間精神の本性を妥当に表現しない。あるいはその妥当な認識を含んでいない。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 以上を勘ぐれば、人間精神は物を自然の共通の秩序に従って知覚する場合は、常に自分自身についても自分の身体についても外部の物体についても妥当な認識を有せず単に混乱し且又毀損した認識のみを有する、ということになる。此れは人間として身籠り産まれたキリストの磔の刑の今際の言葉「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか。)」に象徴されます。哲学・思想ランキング
2021年12月05日
コメント(0)

神の存否-249 定理二八 人間身体の変状の観念は、単に人間精神に関連している限り、明瞭判然たるものではなく、混乱したものである。 証明 なぜなら、人間身体の変状の観念は外部の物体ならびに人間身体自身の本性を含んでいる(この部第二部の定理一六 人間身体が外部の物体から刺激されるおのおのの様式の観念は、人間身体の本性と同時に、外部の物体の本性を含まなければならぬ。により)。しかもそれは人間身体の本性のみならずその部分の本性も含んでいなければならない。なぜなら変状とは人間身体の部分、したがってまた身体全体が刺激される様式だからである(要請三 人間身体を組織する個体、したがってまた人間身体自身は、外部の物体からきわめて多様の仕方で刺激される。により)。ところが(この部第二部の定理二四 人間精神は人間身体を組織する部分の妥当な認識を含んでいない。および定理二五 人間身体のおのおのの変状〔刺激状態〕の観念は外部の物体の妥当な認識を含んでいないにより)外部の物体の妥当な認識ならびに人間身体を組織する部分の妥当な認識は神が人間精神に変状したと見られる限りにおいては神の中になく、神が他の多くの観念に変状したと見られる限りにおいて神の中に在る、言いかえれば(この部第二部の定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。により)この認識は神が人間精神の本性を構成する限りにおいては神の中にない〉。ゆえにこの変状の観念は、単に人間精神に関連している限りは、いわば前提のない結論のようなものである。言いかえればそれはそれ自体で明白なように混乱した観念である。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 備考 人間精神の本性を構成する観念は単にそれ自体のみにおいて考察すれば明瞭判然たるものでないということは同様の仕方で証明される。人間精神の観念および人間身体の変状の観念の観念も、それが単に精神にのみ関連している限りそうである。すなわち混乱したものである。これは各人の容易に知りうるところである。 スピノザによれば、精神は自分がそれであることを知らない。なぜならその真理を知覚しているのは、身体の産出と並行して身体観念を帰結する膨大な数の前提諸観念となった思考、人間ならざる自然の思考であって、当の真理である私ではないからである。我々人間は自分を知らないのが真理なのかも知れない.スピノザはいつもそのことを思い出させてくれます。哲学・思想ランキング
2021年12月04日
コメント(0)

神の存否-248 人間の心身の問題は科学が発達した現代でも未だに解明されたとは云えず、問題視されている課題です。たとえ人間の身体を解剖したとしても「心」がどこにも見つからないからです。しかし、我々人間は普段通常に生活しているなかで、物事を考え、それによって行動しています。腹が空けば何か食べようと思い、怪我をすれば痛いと感じる。そのため故に、たとえ「心」が自身にも見えないものだとしても、人間は「心」をどこかに持っていて、「心」と「身体」二つ併せで「私」だと考えるのが自然です。この意識したり行動したりする自分の主体を自我といいますが、自我が単なる観念ではなく絶えず自己の身体を認識していることは疑いを得ません。然し乍ら、デカルトは心身二元論を唱え、私というのは考えるのみの存在であるとして「我考うゆえに我あり(コギト・エルゴ・スム)」という有名な言葉を残します。考えるのみの自分とはどうゆうことなのか。それは考えていること、そのことだけで自分なのであり、自分の身体というものは格別に必要とはせずに、別になくても自分は存在するということだと説きました。それでは、私というときの身体はいったい何なのだろうか。後にデカルトは心身合一を認めた上でもデカルトは心身二元論を根底ではそれを貫くことになりますが、スピノザが延長実体と思惟実体は実は同じもので、それが一方で物理的な無限宇宙に様態化し、同時に他方で無限知性に様態化していると考えることができるとしてデカルト派の激昂を受けることになります。 定理二七 人間身体のおのおのの変状(刺激状態)の観念は人間身体そのものの妥当な認識を含んでいない。 証明 人間身体のおのおのの変状の観念は、すべて、人間身体自身がある一定の仕方で刺激されると見られる限りにおいて人間身体の本性を含んでいる(この部第二部の定理一六 人間身体が外部の物体から刺激されるおのおのの様式の観念は、人間身体の本性と同時に、外部の物体の本性を含まなければならぬ。を見よ。)しかし人間身体がなお多くの他の仕方で刺激されうる個体である限りにおいてはそれの観念は云々、以降省略。この部第二部の定理二五の証明 外部の物体の妥当な認識は、神が人間身体の変状の観念を有する限りにおいては神の中にない。すなわち人間身体の変状の観念は外部の物体の妥当な認識を含んでいないを見よ。哲学・思想ランキング
2021年12月03日
コメント(0)

神の存否-247 デカルトの心身二元論では精神と身体は異質なものとして取り扱い、隔絶させているため両者の合一を説明するのは原理的に不可能でした。スピノザはこの問題を解決するために精神と物体を実体と看做すことを破棄し、デカルトがその曖昧さ故に排除した「自然」へと回帰します。スピノザは身体と共に理性の表出根拠も同一の自然の中に求め、こうした精神と全自然との合一の認識は「神への知的愛」と呼称されます。この精神と身体を算出する自然は「能産的自然」、その創造性から「神」と看做されています。これがスピノザの汎神論を表す「神即自然」であり、神のみが唯一の実体、東洋哲学に云う「有」とされます。精神と身体は「思惟」と「延長」という二つの仕方での表出であるという考えを示し「心身平行論」を掲げます。また「観念」と「物体」の秩序と連結は同様であるとして、自然的身体の中にその根拠を求めることで心身結合を説明しました。だがここにおいて心身は神の投影された延長と様態であるがために、個体性を認められず精神の自由の問題が生じます。 定理二六 人間精神は自己の身体の変状(アフェクトゥス)「刺激状態」の観念によってのみ外部の物体を現実に存在するものとして知覚する。 証明 もし人間身体がある外部の物体からいかなる仕方でも刺激されないなら、人間身体の観念もまた(この部第二部の定理七 観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一であるにより)、言いかえれば(この部第二部の定理一三 人間精神を構成する観念の対象は身体である、あるいは現実に存在するある延長の様態である、そしてそれ以外の何ものでもない。により)人間精神もまた、いかなる仕方でもそうした物体の存在の観念に刺激されない。すなわち人間精神はそうした外部の物体の存在をいかなる仕方でも知覚しない。これに反して人間身体がある外部の物体からある仕方で刺激される限り、人間精神は(この部第二部の定理一六 人間身体が外部の物体から刺激(アフィキトゥル)されるおのおのの様式の観念は、人間身体の本性と同時に、外部の物体の本性を含まなければならぬ。および、その系一 この帰結として第一に、人間精神は自分自身の身体の本性とともにきわめて多くの物体の本性を知覚するということになる。により)外部の物体を知覚する。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 系 人間精神は、外部の物体を表象する限り、それの妥当な認識を有しない。 証明 人間精神がその身体の変状の観念によって外部の物体を観想する時、我々は精神が物を表象すると言う(この部第二部の定理一七の備考我々は、しばしば起こるように、もはや存在しないものをあたかも現在するかのごとく観想するということがいかにして起こりうるかを知る云々を見よ)。しかも精神は他の仕方では(前定理 人間身体のおのおのの変状(刺激状態)の観念は外部の物体の妥当な認識を含んでいない。により)外部の物体を現実に存在するものとして表象し得ない。したがって精神は外部の物体を表象する限りそれの妥当な認識を有しない。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。哲学・思想ランキング
2021年12月02日
コメント(0)

神の存否-246 定理二五 人間身体のおのおのの変状(刺激状態)の観念は外部の物体の妥当な認識を含んでいない。 証明 外部の物体が人間身体をある一定の仕方で刺激する限りその限りにおいて人間身体の変状(アフェクティオ)の観念はその外部の物体の本性を含んでいることを我々は示した(この部第二部の定理一六人間身体が外部の物体から刺激(アフィキトゥル)されるおのおのの様式の観念は、人間身体の本性と同時に、外部の物体の本性を含まなければならぬを見よ。)。しかし外部の物体がもともと人間身体と関係のない個体である限りにおいては、それの観念あるいは認識は、神が他の事物云々。本性上外部の物体自身に先立っているような(この部第二部の定理七 観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一である。)により、観念に変状(アフェクトゥス)したと見られる限りにおいてのみ神の中に在る(この部第二部の定理九 現実に存在する個物の観念は、神が無限である限りにおいてではなく神が現実に存在する他の個物の観念に変状(アフェクトゥス)した〔発現した〕と見られる限りにおいて神を原因とし、この観念もまた神が他の第三の観念に変状した限りにおいて神を原因とする、このようにして無限に進む。)により。ゆえに外部の物体の妥当な認識は、神が人間身体の変状の観念を有する限りにおいては神の中にない。すなわち人間身体の変状の観念は外部の物体の妥当な認識を含んでいない。Q・E・D・=これが証明すべきことであった。 我々の身体は物理的宇宙の一部としてここに生み出され、我々の精神は無限知性の中に帰結する身体の真なる観念だということになるのか。さすれば同じ理由ですべてのものに精神があることになるのであろうか。何方にしても身体と精神は同じものの反復的な二つの表現なので一致する、心身合一とはそういう一致のことだと捉えます。哲学・思想ランキング
2021年12月01日
コメント(0)
全32件 (32件中 1-32件目)
1