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神の存否-185 エチカ第二部序文 精神の本性および起源について 今や私は、神すなわち永遠・無限な実有、その本質から必然的に生起しなければならぬことどもの説明に移る。しかしそのすべてについてではない。なぜなら、第一部定理二六 ある作用をするように決定された物は神から必然的にそう決定されたのである。そして神から決定されない物は自己自身を作用するように決定することができない。証明 物がある作用をするように決定されていると言われるのは、それ自体で明らかなように必然的に積極的なあるもののためである。したがって神は自己の本性の必然性からそうしたものの本質ならびに存在の起成原因である(第一部 定理二五 神は物の存在の起成原因であるばかりでなく、また物の本質の起成原因でもある。および定理一六 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で、言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが生じなければならぬ。)。これが第一の点であった。これからまたこの定理の第二の部分がきわめて明瞭に帰結される。なぜなら、神から決定されない物が自己自身を決定し得るとしたら、この定理の第一の部分が誤りとなるであろう。しかしそれが不条理であることは我々の示した通りである。)で証明したように、神の本質からは無限に多くのものが無限に多くの仕方で生起しなければならぬからである。ここではただ、人間精神とその最高の幸福との認識へ我々をいわば手を執って導きうるものだけにとどめる。哲学・思想ランキング
2021年09月30日
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神の存否-184 エ チ カ 第 二 部精神の本性と起源について 人間精神とは「身体の観念」であるというスピノザの主張とその本性(ほんせい、ほんしょう/ Human Nature)とは、人間が普遍的に持つ思考、感覚、行動などを指す概念とされます。社会学・社会生物学・心理学では特に進化心理学と発達心理学が人間の本性を明らかにしようと科学的な取り組みを行っています。哲学者及び倫理学者、人間の行為や社会関係を支配する道徳について、その起源・発達・本質・意味を研究する思想家と神学者もまた人間の本性を古(いにしえ)から議論されていました。スピノザが其の本性の概念を非難する理由としてデカルトを俎上させています。 一体彼デカルトは、精神と身体との結合を如何に解しているのか。彼は精神を身体から裁然と区別して考えていたので、この結合についても、また精神自身についても、何らの特別な原因を示すことが出来ないで、全宇宙の原因へ、即ち神へ、避難所を求めざるを得なかったのである。この心身問題に対するスピノザの解決策は、「観念の秩序と連結は物の秩序と連結と同一である(Ordo et connexio idearum idem est, ac ordo et connexio rerum.)という物心平行論、従って心身平行論である。つまり現実の円と、この円の観念とは「同一物であり、それが異なる属性によって説明される」のである。「人間精神を構成する観念の対象は身体である」。従って、「我々の精神の対象は存在せる身体であって、他の何物でもない。そして存在せる身体の観念は人間精神である。同一の人間存在を、思惟という属性の下に解すれば「精神」であり、延長という属性の下に解すれば「身体」である。従って「我々の身体の能動と受動の秩序は、本性上、精神の能動と受動の秩序と同時である。 これに対して、ライプニッツは心身問題を有名な「予定調和説」によって説明した。「精神と身体とが一致するのは、あらゆる実体の間に存する予定調和による為であり、それはまた実体が元来悉く同一宇宙の表現だからである。ライプニッツは、心身関係を二つの時計の比喩で説明する。時計の製作者が優秀であればあるほど、相互に何の因果関係もない二つの時計が、時刻がぴったり完全に一致するように製作可能である。ましてそれが神であれば、それは完全無欠である。今この二つの時計の代りに、精神と身体とを置いて見る。精神と身体との間には、デカルトが明らかにしたように、何の相互作用も実際には存しないにも拘らず、神の予定調和によって、心身間の相互関係は、あたかも直接に対応し合っているかのように成立する。ライプニッツによると、予定調和説とは「神が初めに精神又は他のあらゆる事象的統一体を創造した際に、その精神に生ずる全てのことが、精神そのものから見ると完全な自発性によっていながら、しかも外界の事象と完全な適合を保って精神そのものの奥底から出てくるような具合にしておいたのである」とするのです。然し乍ら、ライプニッツの予定調和による心身問題の説明は神学的な想定による説明であり、それ以上の解明が不可能であり、少しも生産的な考察をもたらさないとの批判も多く見られます。 エチカ第二部は次のような構成をとります。 エ チ カ 第 二 部 定義は一、二、三、四、五、六、七公理は、一、二、三、四、五定理は一、二、三、四、五、六、七、八、九、一〇、一一、一二、一三、備考(公理一、二)、補助定理一、二、三(公理一、二、定義、三)、補助定理四、五、六、七、(要請、一、二、三、四、五、六)、一四、一五、一六、一七、一八、一九、二〇、二一、二二、二三、二四、二五、二六、二七、二八、二九、三〇、三一、三二、三三、三四、三五、三六、三七、三八、三九、四〇、四一、四二、四三、四四、四五、四六、四七、四八、四九に及びます。哲学・思想ランキング
2021年09月29日
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神の存否-183 此の地球上にウィルスを含めて生命らしきものが発生して以来、其れ其れに個の自己保存衝動を獲得しており、そのためには他の個体を殺伐または自己に吸収、有利に利用するしか個を保存発展するしかすべがありません。単一細胞を持つアメーバより下等とされるウィルスですが、実相は人類の進化に深く関わっており、人類の体の遺伝子の60%がウィルスにより成り立っていると言われる程です。此れはウィルスが人間の進化に極めて有効に作用した偶然若しくは神の恩寵でしょう。此の自己増殖を伴わない生命ともつかないウィルスですが自己保存衝動だけは天賦されているようです。スピノザは当然に生命進化にも通暁していたようですから、個の自己保存衝動を否定しているわけではありませんでした。 前述上の議論は、個の自己保存衝動を否定しているわけではない。各々が存在に固執する力は、神の性質の永遠なる必然性に由来する。欲求の元は神の在りかつ働きをなす力に由来する個の自己保存のコナトゥス(衝動)であることを、スピノザは認めています。しかし、その各々が部分ではなく全体と見なされるかぎり諸物は相互に調和せず、万人の万人に対する闘争になりかねないこの不十全なコナトゥスのカオスを十全な方向へ導くため、全体としての自然、スピノザの概念としての神の必然性を理性によって認識することに自己の本質を認め、またこの認識を他者と分かち合うことが要請されるとしています。 このようにして、民衆が自然を説明するに用い慣れたすべての概念は単に表象の様式であって、何ら物の本性を表示せずただ表象力の状態を示すのみであるということを我々は知る。そしてこれらの概念は、あたかも表象力の外部に存在する実有を意味するかのような名称を有するから、私はこれを理性の有とではなく表象の有と呼ぶ。こうして我々はこれと類似の概念に基づいて、我々に向けられるすべての論拠を容易に撃退することができる。すなわち、多くの人々は次のように論ずるのが常である。もし万物が神の最完全な本性の必然性から起こったとするなら自然におけるあれほど多くの不完全性は一体どこから生じたのか。例えば悪臭を発するにいたるまでの物の腐敗、嘔吐を催させるような物の醜怪、混乱、害悪、罪過などなどはどうかと。しかし、今も言ったように、これを反駁することは容易である。なぜなら、物の完全性は単に物の本性ならびに能力によってのみ評価されるべきであり、したがって物は人間の感覚を喜ばせ、あるいは悩ますからといって、また人間の本性に適合しあるいはそれと反撥するからといって、そのゆえに完全性の度を増減しはしないからである。さらになぜ神はすべての人間を理性の導きのみによって導かれるようなふうに創造しなかったかと問う人々にたいしては、次のことをもって答えとするほかはない。すなわち神には完全性の最高程度から最低程度にいたるまでのすべてのものを創造する資料が欠けていなかったからである、あるいは、もっと本源的な言いかたをすれば、神の本性の諸法則は、定理一六 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で、言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが生じなければならぬで示したように、ある無限の知性によって概念されうるすべてのものを産出するに足るだけ包括的なものであったからであると。これが私のここで述べようと思った諸偏見である。もしこうした偏見の粉末がいくらかまだ残っているとしても、誰でも少しく考察すれば、その誤りを正しうるであろう〈ゆえに私はこうした事柄にこれ以上留まっている理由はない云々。 第一部 終り哲学・思想ランキング
2021年09月28日
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神の存否-182 スピノザは、人間個々の自己保存衝動を否定しているわけではない。各々が存在に固執する力は、神の性質の永遠なる必然性に由来することからも歴然です。欲求の元は神が在り、且つ働きをなす力に由来する個の自己保存のコナトゥス、事物(心的実体、物理的実体、あるいはその両者の混合物)が生来持っている、存在し、自らを高めつづけようとする衝動・傾向・性向・約束・懸命な努力であることをスピノザは認めています。しかし、その各々が部分ではなく全体と見なされるかぎり諸物は相互に調和せず、万人の万人に対する闘争になりかねないこの不十全なコナトゥスのカオスを十全な方向へ導くため、全体としての自然そのものがの必然性を理性によって認識することに自己の本質を認め、またこの認識を他者と分かち合うことが要請されるとするのです。 付 録 第五項第四 次にその他の諸概念も、同様に、表象力を種々なふうに刺激する表象の様式にほかならない。けれどもそれは無知者たちからは事物の主要属性と見られている。なぜなら、すでに述べたように、彼らはすべてのものが自分たちのために造られていると信じ、そしてある物から刺激されるぐあいに応じてその物の本性を善あるいは悪、健全または頽廃および腐敗と言うからである。例えば目に映る対象から神経が受ける刺激が健康に役立つなら、これを引き起こす対象は美と言われ、反対の刺激を生ずるものは醜と言われる。次に鼻によって感覚を刺激するものを芳香あるいは臭気と呼び、舌によるものを甘あるいは苦、美味あるいは不味などと呼ぶ。また触覚によるものを硬あるいは軟、粗あるいは滑などと言う。また最後に、耳を刺激するものを騒音、音響、または諧音を発すると言う。これらのうちで諧音は、神もまたこれを喜ぶと信じたほど人々の心を奪った。そればかりでなく天体の運行が諧音をたてることを確信した哲学者たちもなくはない。これらすべては、各人が事物を脳髄の状態に従って判断し、あるいはむしろ表象力の受けた刺激を事物自体と見たことを十分に示すものである。このゆえについでながらに注意するが、人々の間に、我々の見聞きするようなあんなにも多くの論争が生じ、これからついに懐疑論が発生したことも怪しむに足りない。なぜなら、人々の身体は多くの点において一致するがもっと多くの点において異なり、そのゆえにある人に善く見えるものが他の人に悪しく見え、ある人に秩序正しく思えるものが他の人には混乱して思え、ある人には快いものが他の人には不快だからである。そしてその他のことについてもこれと同様であるが、それはここに述べない。ここはそうしたことを詳しく論ずる個所でないし、それにまたそれはすべての人が十分に経験しているところだからである。というのは「頭数だけの意見」「誰でも自分の意見で一杯になっている」「脳髄は味覚に劣らず相違している」などいう諺はすべての人の口にするところである。これらの諺は、人間が物を脳髄の状態に従って判断し、また物を知性的に認識するよりはむしろ感覚的に表現することを十分物語っている。なぜなら、もし彼らが物を知性的に認識するとしたら、数学において見るように、それらの物は、彼らすべてを惹きつけないまでも、少なくとも彼らすべてを同じ確信に導いたであろうからである。 我々現在の社会にて通常生活を送る人間は、同じ炎を見ても其の人物が経験してきた、若しくは体験した事々により、善・悪、秩序・混乱、寒・暖、美・醜のような概念、更には畏怖や恐怖をいだきます。それらは炎の実相を伝えているのでしょうか。全ては人間の知性とは別の精神的な表象力が引き起こしたものです。哲学・思想ランキング
2021年09月27日
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神の存否-181 スピノザは人間の感覚器官に頼った表象力には信を置いてはいないようです。言わずもがな、彼は人間の理知に信を置く社会生活を行動する実践倫理の立場です。スピノザは、デカルトとは異なり、自由な意志によって感情を制御する思想をば認めない。寧ろ、スピノザの心身合一論の直接の帰結として、独立的な精神に宿る自由な意志が主体的に受動的な身体を支配するという構図は棄却されます。スピノザは、個々の意志は必然的であって自由でないとした上、意志というもの言い換えれば、「理性の有」を個々の意志発動の原因として考えるのは、人間というものを個々の人間の原因として考えると同様に不可能であるとしている。また観念は観念であるかぎりにおいて肯定ないし否定を包含するものとしており、自由意志と解される表象像・言語の実相は単なる身体の運動であるとしています。スピノザにあっては、表象的な認識に依存した受動感情、即ち動揺する情念を破棄するものは、必然性を把握する理性的な認識であるとされています。我々人間の外部にある事物の能力で定義されるような不十全な観念、記憶力にのみ依存する観念を去って、われわれ固有の能力にのみ依存する明瞭判然たる十全な諸観念を形成することを可能にするものは、スピノザにあっては理性的な認識であす。その上、「われわれの精神は、それ自らおよび身体を、永遠の相の下に(sub specie aeternitatis)認識するかぎり、必然的に神の認識を有し、みずからが 神の中にあり(in Deo esse)、神を通して考えられる(per Deum concipi)ことを知る」ことから、人間は神への知的愛に達し、神が自己自身を認識して満足する無限な愛に参与することで最高の満足を得ることができるとスピノザは想定するのです。哲学・思想ランキング
2021年09月26日
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神の存否-180 理知を獲得した人類の性向が目的論的性向を帯び易いのは歴史が示します。スピノザは其の性状の出来(しゅつらい)を掲げてみせます。 付 録 第五項第三 人々は生起する一切が自分のために生起すると思いこんでからは、すべての物について、彼らに最も有用な点を重要事と判断し、彼らを最も快く刺激するものをすべて最も価値あるものと評価しなければならなかった。ここからして彼らは、物の本性を説明するために善・悪、秩序・混乱、寒・暖、美・醜のような概念を形成しなければならなかった。また彼らは自分を自由であると思うがゆえに、これから賞讃と非難、罪過と功績のような概念が生じた。後者についてはあとで人間本性を論じた上で述べることにして、ここでは前者について簡単に説明しよう。すなわち健康と敬神とに役立つ一切のことを人々は善と呼び、これに反することを悪と呼んだ。また物の本性を認識せずに物を単に表象のみする人々は、物について何ら正しい肯定をすることなく、表象力を知性と思っているから、そのことゆえに、彼らは物ならびに自己の本性に無知である儘に、秩序が物自体の中に存すると固く信じている。すなわち物が我々の感覚によって容易に表象され、したがってまた容易に思い出せるようなふうにできていれば、我々はそれを善き秩序にある、あるいは善く秩序づけられていると呼び、その反対の場合は、悪しく秩序づけられている、あるいは混乱していると呼ぶのである。そして、我々が容易に表象しうる物は我々にとって他の物より快いから、そのことゆえに人々は混乱よりも秩序を選び取るのである。あたかも秩序が我々の表象力との関係を離れて自然の中に実在するある物であるかのように。また彼らは神が一切を秩序的に創造したと言う。このようにして彼らは知らず知らず神に表象力を帰している。もし神に表象力を帰しているのでないとすれば、あるいは彼らは、神が人間の表象力を考えてすべての物を我々が最も容易に表象しうるようなふうに按配したと思っているのかもしれぬ。だがその際彼らは、我々の表象力をはるかに凌駕する無限に多くのものが存在し、また我々の表象力が微弱であるゆえにそれを混乱させるきわめて多くのものが存在するということには何の顧慮も払わないらしい。しかしこのことについてはもう十分である。 此処では、スピノザは人々は生起する一切が自分のために生起すると思い込む人々は、世界が人間を創造したのではなく、神が特別の意をもって世界を創造し人間を創造したのだとの目的因を顚倒だと諭します。即ち、生起する一切が自分のために生起すると思い込む人々は、自己が神を創造し、神が世界、将又、宇宙の起生因としており、世界の全ては人類の敬神に帰するとする論に手厳しく批判を加えます。哲学・思想ランキング
2021年09月25日
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神の存否-179 人間の奥底にある目的論志向は、アリストテレスの打ち立てた、すべての個物は形相と質料とから成り立ち、その個物はまたより上位の形相を目的として運動し、世界全体が第一形相を最高目的として運動するというのは、アインシュタインの宇宙の美学に通じるものがあります。但し、此の目的論志向はスピノザの唯一絶対の存在としての神のあり方の逆を往くものです。アリストテレスの打ち立てた目的論志向を巧みに取り入れた正教会は、当然にスピノザとは対立します。巻き添えを嫌うデカルトの一派やオレンジ公を支持する教会信徒に対して、更に、批判を増長するかの如く次の一文が追加されます。 付 録 第五項第二 なおここに見逃してならないのは、物の目的性を説明するにあたって自己の才能を示そうと欲したこの説の信奉者たちが、この自説を確証するために、一つの新しい証明法を提起したことである。それは帰謬法ではなくて帰無知法、人の無知に基づく証明法とでも言うべきやりかたである。このことはこの説にとって他の何の証明方法もなかったことを物語るものである。例えばもしある屋根から石がある人間の頭上に落ちてその人間を殺したとするなら、彼らは石が人間を殺すために落ちたのだとして次のように証明するであろう。もし石が神の意志によってそうした目的のために落ちたのでなかったら、どうしてそのように多くの事情が偶然に輻輳(ふくそう)しえたのか。というのはしばしば多くの事情が同時に輻輳するからである。これに対して、それは風が吹いたから、そして人間がそこを通ったから起こったのだと答えでもすれば、彼らはなぜ風がその時吹いたか、なぜ人間がちょうどその時刻にそこを通ったかと迫るであろう。これに対してまた、前日まだ天候が穏かだったのに海が荒れ出したからその時になって風が起こったのだ、そしてその人間は友人から招待されていたのだと答えるならば、彼らはさらに更にと問う。その問いには際限がないから、延々に答えを迫るであろう、しかしなぜ海が荒れ出したのか、なぜその人間がその時刻に招待されていたのかと。このように次から次へと原因の原因を尋ねて、相手がついに神の意志すなわち無知の避難所へ逃れるまではそれをやめないであろう。同様にまた彼らは、人間の身体の構造を見て驚く。そしてそうした巧みな技術の原因を知らないので、それは機械的技術によってではなく神的な、あるいは超自然的な技術によって作られ、一つの部分が他の部分を損なわないようなふうに仕組まれていると結論する。このゆえに諸奇蹟の真因を探究する者、また自然物を愚者として驚歎する代りに学者として理解しようと努める者は、一般から異端者、不敬虔者と見なされ、民衆が自然ならびに神々の代弁者として崇める人々からはこのような者として罵倒されることになる。なぜなら、神の代弁者と崇められる人々は、無知あるいは寧ろ愚鈍がなくなれば、驚き、すなわち自己の権威を証明し・維持するための唯一の手がかりもまたなくなることを知っているからである。しかしここに述べたような証明法にどんな効力があるかの判断はこの証明法の提起者自身にまかせる。私はこれらのことどもを措(お)いて、ここで取り扱おうと定めた第三の事柄に移る。 上記は言わずもがなの記述とも云えるものであり、論敵を罵倒したものと云えます。スピノザの最大の主要著作「エチカ」が生前出版できなかった事情が解ります。此の点は、ソクラテスの問答法が何故に嫌われたかの事情に通じます。哲学・思想ランキング
2021年09月24日
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神の存否-178 目的論(英:teleology/独:Teleologie/仏:téléologie)は、世界のすべての事物の生成変化が、大いなる目的を目ざして運行しているという思考です。命名はライプニッツからカントへの橋渡し的存在であるドイツの、近世自然法論者、哲学者クリスティアン・ウォルフ(Christian Wolff/1679年 - 1754年)ですが、それ自体の考え方は非常に古く、古史を見ても寧ろ正統派でした。但し、この「目的」が何によって設定されているのか、具体的内容はどういうものか、となると、時代や人によって多様です。古今東西の歴史は世界のすべてが人間のためにあるという考え方が主流であり、古代や中世で目的論的思想が主流であったのは当然、いっかな古代や中世・近世の一部の思想家に対抗すべき持ち札はありませんでした。其の少ない持ち札で果敢に目的論的世界観に挑んだのがスピノザです。 付 録 第五項第一 しかしまだ付け加えたいことがある。それは、目的に関するこの説は自然をまったく転倒するということである。なぜならこの説は、実は原因であるものを結果と見、また反対に、結果であるものを原因と見る。次にこの説は本性上先なるものを後にする。また最後にこの説は最高かつ最完全なものを最不完全なものにする。というのは、前の二つ、実は原因であるものを結果と見、また反対に、結果であるものを原因と見るは自明であるからこれを略すとして、定理二一 神のある属性の絶対的本性から生ずるすべてのものは常にかつ無限に存在しなければならぬ、言いかえればそれはこの属性によって永遠かつ無限である。定理二二 神のある属性が、神のその属性によって必然的にかつ無限に存在するようなそうした一種の様態的変状に様態化した限り、この属性から生起するすべてのものは同様に必然的にかつ無限に存在しなければならぬ。及び、定理二三 必然的にかつ無限に存在するすべての様態は、必然的に、神のある属性の絶対的本性から生起するか、それとも必然的にかつ無限に存在する一種の様態的変状に様態化したある属性から生起するかでなければならぬ。から明らかなように、神から直接的に産出される結果は最完全であり、そして物は産出されるためにより多くの中間原因を要するに従ってそれだけ不完全である、ところがもし神から直接的に産出される物は神が自己の目的を達するために造ったのだとすれば、最後のもの、それのために始めのものが造られたところのものであるが、すべてのもののうちで最も価値あるものになるからである。 次にこの説は神の完全性を没却する。なぜなら、もし神が目的のために働くとすれば、神は必然的に何か欠けるものがあってそれを欲求していることになるからである。もっとも神学者ならびに形而上学者たちは需要の目的と同化の目的を区別してはいるが、それでもやはり彼らは神が一切を被造物のためにではなくて自己自らのためになしたことを承認する。なぜなら彼らは、創造以前においては、神のほかには神がそのため働くような何ものも示すことができないからである。したがって神がある物のために手段を用意しようとしたと言うなら、神はそのある物を欠いていてそれを欲求した、ということを必然的に彼らは承認せざるをえなくなる。これは自明の理である。 理知を獲得した人類の性向は目的論的性向を帯びています。目的論が哲学的に体系化されたのは、アリストテレスにおいてであった。彼によると、すべて個物は形相と質料とから成り立つが、形相はまた個物生成の目的因でもある。だが、その個物はまたより上位の形相を目的として運動し、究極的には、世界全体が第一形相を最高目的として運動するという。中世最盛期以降のキリスト教神学は、このアリストテレス思想を基礎とし、創造主たる神の意志を前面に出すことによって、いっそうはっきりした目的論を展開します。近代においては、キリスト教的目的論が否定され、機械的自然観がとってかわる。デカルトやスピノザあるいはF・ベーコンなど、いずれもが自然科学的・数学的思考を身につけながら、目的論的思想を排除していきます。しかし、人間の奥底にある目的論志向が全く排除されたわけではありません。哲学・思想ランキング
2021年09月23日
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神の存否-177 仮にあなたが物理科学の信奉者であるならば、世界、人類を生んだ地球の生命世界の形態は一旦留め置くとして、取り分け宇宙に目的論的意志があるのか無かろうかを考察される方は皆無かもしれません。然し乍ら、物理科学が宇宙の成り立ちや理を思索だけではなく、観測事実から探求出来得る様になったのは歴史的流れで見れば、つい昨日の事だとも云えましょう。当然ですが、スピノザ哲学誕生時は物理観測科学は貧相なものであり、人類精神史上の宗教に、おいそれとは立ち向かえること甚だ困難でした。スピノザ哲学は物理観測科学の証明ではなく、数学での演繹的証明法を使ったとは云え、神はすべての物を人間のために造り、神を尊敬させるために人間を造ったとする当時の偏見を打ち砕くには力不足でした。但し太陽系に生まれた生命、わけても人間の精神の故郷が何処にあるのかは、今は未だ、不鮮明であることも事実です。 付 録 第五項 これをもって私は第一に約束したことなぜ多くの人々がこの偏見に甘んじ、またなぜすべての人が生来この偏見をいだく傾向があるかの理由を十分説明した。だから今、自然は何の目的も立てずまたすべての目的原因は人間の想像物以外の何ものでもないことを示すのに多言を要しない。なぜなら、私がこの偏見の源泉として示した根底および原因から、ならびに、定理一六 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で、言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが生じなければならぬと、定理三二の二つの系 系一 この帰結として第一に、神は意志の自由によって作用するものではないということになる。 系二 第二に、意志および知性が神の本性に対する関係は、運動および静止、または一般的に言えば、一定の仕方で存在し作用するように神から決定されなければならぬすべての自然物が神に対する関係と同様であるということになる。なぜなら、意志は、他のすべての物のように、それを一定の仕方で存在し作用するように決定する原因を要するからである。そしてたとえ与えられた意志あるいは知性から無限に多くのものが生起するとしても、神はそのために意志の自由によって働くと言われえないことは、運動および静止から生起するもののために、というのはこれからもまた無限に多くのものが生起する。神は運動および静止の自由によって働くと言われえないのと同様である。ゆえに意志は、他の自然物と同様に、神の本性には属さないで、むしろこれに対しては、運動および静止、また神の本性の必然性から生起しかつそれによって一定の仕方で存在し作用するように決定されることを我々が示した他のすべてのものと、まったく同様な関係に立っているのである。さらにまた私が自然における一切はある永遠なる必然性と最高の完全性とから生ずることを示す際に用いた諸理由から、このことはすでに十分明白になったと私は信ずるからである。哲学・思想ランキング
2021年09月22日
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神の存否-176 神はすべての物を人間のために造り、神を尊敬させるために人間を造ったととの偏見は、神が創造した世界の自然は何ら人間に無駄なことはしないと主張します。それら人類への不祥事は、敬神に際して人間の犯した過失のゆえに怒ったから起こったのだと信じ説きます。如何ように、善人と評価され無垢の人間であれ敬神が欠けた故の罪過があるという訳です。此れは信教的・神秘論的には強みにはなることがありますが、万人には通用しません。万人が理想として求めるのは全てのものの幸いである筈です。此処に。AIコンピューターや量子コンピュータが白紙の状態では善悪の区別がつかないようにする、汎ゆる主観を排除する必要性が生じます。スピノザは世界の自然観を神に照らして語ります。 付 録 第四項 各人は、神が自分を他の人々以上に寵愛し・全自然を自分の盲目的欲望と飽くことなき食欲の用に向けてくれるように、敬神のいろいろの様式を自分の性情に基づいて案出した。こうしてこの偏見は迷信に堕し、人々の心に深い根をおろした。そしてこれが原因となって各人は、すべてのものについて目的原因を認識し・説明することに最大の努力を払うようになった。しかし自然が何ら無駄なこと、言いかえれば、人間の役に立たぬことをしないことを示そうと試みながら、彼らは自然と神々とが人間と同様に狂っていることを示したにすぎないように思われる。現実を見るがいい、事態はついにいかなる結末になったかを!。 自然における、かくも多くの有用物の間に混じって少なからぬ有害物を。例えば暴風雨・地震・病気などなどを彼らは発見しなければならなかった。そこでこうした事柄は神々、彼らが自分たちと同種のものと判断しているような神々が人間の加えた侮辱のゆえに、あるいは敬神に際して人間の犯した過失のゆえに怒ったから起こったのだと信じた。そして日常の経験は、これに反して、有用物ならびに有害物が敬虔者にも不敬虔者にも差別なく起こることを無数の例をもって示すのであるけれども、彼らはそのゆえに昔ながらの偏見から脱することをしなかった。なぜなら、彼らにとっては、これをもろもろの不可知な事柄、何のためそれが生ずるか了解できぬ事柄の中に数え入れ、このようにして彼らの現に在る生まれながらの無知状態を維持するほうが、前述の組織全体を破壊して新しい組織を案出するよりも容易だったからである。このため彼らは、神々の判断が人間の把握力をはるかに凌駕すると確信した。そしてもし数学が一目的には関係せずに単に図形の本質と諸特質とにのみ関係する数学がー真理の他の規範を人間に示さなかったとしたら、この理由一つだけでも真理は永遠に人類に秘められたであろう。なお、数学のほかにも、人々といっても全人類から言えばごく少数の人であるが、この共通の偏見に気づかせて物の真の認識に進むことができるようにさせた他の諸原因挙げられうる。しかしこれをここに数えたてることは無用である。 この共通の偏見に気づかせて物の真の認識に進むことができるようにさせる他の諸原因が挙げられます。当然にスピノザに云う「エチカ(倫理)」が代表するでしょう。勿論、多くの方が記憶する過去の災禍が神に出自するとは思考の外、論外と捉えます。哲学に云う神は宗教と違い人類に贖罪を求めませんが人間が神に報償を求めるのです。近代では「神は死んだ」の超人思想。スピノザの神理論が現代に再浮上する所以です。哲学・思想ランキング
2021年09月21日
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神の存否-175 スピノザは人間精神の本性を必ずしも善とは看做していません。人間の偏見から、善と悪、功績と過罪、賞讃と非難、秩序と混乱、美と醜その他こうした種類の他のことどもに関する諸偏見が何故に生じたのかを述べ、人間の本性の全てが真ったき善から成り立っているとは考えません。AIコンピューターや量子コンピュータが白紙の状態では善悪の区別がつかないように、人間の本性が無垢ではあっても、人間の生物学的本能や欲情に晒されるからでしょう。 付 録 第三項 しかしこのこと(神はすべての物を人間のために造り、神を尊敬させるために人間を造ったととの偏見。)、多くの人々がこの偏見に甘んじ、且又、何故すべての人が生来この偏見を抱く(いだく)傾向があるかの理由を、人間精神の本性から導き出すことはこの場所では適当でない。ここでは何びとも承認しなければならぬこと、即ちすべての人間は生まれつき物の原因を知らないこと、およびすべての人間は自己の利益を求めようとする衝動を有しかつこれを意識しているということ、そうしたことを議論の根底とするので十分であろう。何故なら、このことから次のことが出てくるからである。それは第一に、人間は自分を自由であると思うということである。実際、彼らは自分の意欲および衝動を意識しているが彼らを衝動ないし意欲に駆る原因は知らないのでそれについては夢にも考えない。第二に、人間は万事を目的のために、すなわち彼らの欲求する利益のために行なうということである。この結果として、彼らは出来上がったものごとについて常に目的原因のみを知ろうとつとめ、目的原因のみを聞けばそれで満足する。彼らにはそれ以上疑念をいだく何の理由もないからである。これに反して仮に、それを他人から聞くことができない場合は、自分自身を振り返って見て、自分が平素、類似のことをするように決定されるのはどんな目的からであるかを反省してみるよりは他ない。このようにして彼らは必然的に、自分の性状から他人の性状を判断することになる。さらに彼らは、自分の利益を獲得するのに少なからず役立つ多数の手段を、例えば見るための目、咀嚼するための歯、栄養のための植物や動物、照らすための太陽、魚を養うための海のごときものを自分の内外に発見するから、そして他のほとんどすべてのものに関してもこれと同じ次第であって、彼らはそうしたものの自然的原因が何であるかについて疑念をいだく何の理由も持たないことから、彼らはすべての自然物を自分の利益のための手段と見るようになった。そして、それらの手段は彼らの発見したものではあるが、彼らの供給したものではないことを知っているから、これが誘因になって彼らは、そうした手段を彼らの使用のために供給した「他のある者」が存在することを信ずるようになった。すなわち、一度物を手段と見てからは、彼らはそれがひとりでにできたと信ずるわけにはいかなくて、彼らが平素自分自身に手段を供給する場合から推し量り、人間的な自由を賦与された一人あるいは二、乃至、三或いは幾多の自然の支配者が存在していて、これが彼らのためにすべてを熟慮し、彼らの使用のためにすべてを造ったと結論せざるをえなかった。彼らはまたこうした支配者の性情については少しも聞き知ることがなかったので、これを自分の性情に基づいて判断せざるをえなかった。そしてこのことから彼らは、神々は人間に感謝の義務を負わせ、人間から最高の尊敬を受けるためにすべてのものを人間の使用に向けるのだと信じた。この結果として各人は、神が自分を他の人々以上に寵愛し・全自然を自分の盲目的欲望と飽くことなき食欲の用に向けてくれるように、敬神のいろいろの様式を自分の性情に基づいて案出した。こうしてこの偏見は迷信に堕し、人々の心に深い根をおろした。そしてこれが原因となって各人は、すべてのものについて目的原因を認識し・説明することに最大の努力を払うようになった。 アインシュタインの世界の美学、1905年、アインシュタインが特殊相対性理論を発表した年、物理学は巨額な研究費など必要としない純粋な学問であり、それ以上に宇宙の姿を描き出す美しい数式を探求するわくわくするような頭の中の冒険でした。実際、アインシュタインは「特殊相対性理論」を紙と鉛筆だけで考え出したのです。それは世界の神秘を自らの生み出した理論で描き出す、究極の美学だったのです。しかし、その後の量子力学の発展によって、アインシュタインやボーアらは原子爆弾の誕生を目にすることになります。彼らはその時、自らの求めた美学が人類絶滅の危機を生み出したことに衝撃を受けることになります。残念ながら21世紀の物理学の地球人類の状況は、すでにアインシュタインらが目指した美学の追求とは無縁の存在、脅威になりつつある危惧さえ見られます。哲学・思想ランキング
2021年09月20日
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神の存否-174 スピノザは神を目的論的に捉えるのは何か、それは一の偏見に由来するとします。「神」への人間の偏見がどのように増長されるのか、理性に解決を委ねます。付録第一項で神の絶対的本性あるいは神の無限の能力を理性で捉えることも検討すべきだと薦めたよころで、第二項では神はもとよりスピノザ自身への偏見に対しても一言述べています。 付 録 第二項 ところで、ここに私が指摘しようとするすべての偏見は次の一偏見に由来している。その一偏見というのは、一般に人々はすべての自然物が自分たちと同じく目的のために働いている(目的論)と想定していること、のみならず人々は神自身がすべてをある一定の目的に従って導いている(神導説)と確信していること、これである。なぜなら彼らは以下のように言う。神はすべての物を人間のために造り、神を尊敬させるために人間を造ったと。だから私は先ず此の偏見を考察しよう。それには第一に、何故、多くの人々がこの偏見に甘んじ、且又、何故すべての人が生来この偏見を抱く(いだく)傾向があるかの理由を探究する。次にそれが誤っていることを示し、最後に如何にしてこの偏見から善と悪、功績と過罪、賞讃と非難、秩序と混乱、美と醜その他こうした種類の他のことどもに関する諸偏見が生じたのかを示そう。 此の項では、人間の生来の性状、善と悪、功績と過罪、賞讃と非難、秩序と混乱、美と醜その他こうした種類の他のことどもに関する前置きを述べます。此れが我々現在に生きる現代社会がAI技術を持ち込んだ量子コンピューターに初期インプットされれば人類は其れに翻弄され、恐らくは滅びの道を歩むでしょう。量子コンピューターに人間の性状をインプットするには非常な危険が伴います。私的には量子コンピューターには量子重力理論などの高度物理科学理論の基礎的研究に押し留めておくほうが、人類社会的には安寧かも知れません。哲学・思想ランキング
2021年09月19日
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神の存否-173 スピノザは、いっかな自己の思想を吐露しても取り巻く状況の偏見への焦りもあったでしょう。それは五部に分たれた「エチカ」の第一部「神について」に付録が付されたことからも解ります。 付 録 第一項 以上をもって私は神の本性を示し、その諸特質を説明した。すなわち神が必然的に存在すること、唯一であること、単に自己の本性の必然性のみによって在りかつ働くこと、万物の自由原因であること、ならびにいかなる意味でもって自由原因であるかということ、すべての物は神の中に在りかつ神なしには在ることも考えられることもできないまでに神に依存していること、また最後に、すべての物は神から予定されており、しかもそれは意志の自由とか絶対的裁量とかによってではなく神の絶対的本性あるいは神の無限の能力によること、そうした諸特質を説明した。さらに私は、機会あるごとに、私の証明の理解を妨げるような諸偏見を取り除くことに努力してきた。しかしまだ少なからぬ偏見が残っていて、人々が私の説明した仕方で物の連結を把握することを同様に、いな、きわめて甚だしく、妨げえたしまた現に妨げえているのであるから、それらをここで理性の検討に委ねるることは無駄ではないと思うのである。 スピノザは神の絶対的本性あるいは神の無限の能力は、意志の自由とか絶対的裁量とかを保持しているとかを超えたものであり、自らに変更を下すものではないと問い糾します。哲学・思想ランキング
2021年09月18日
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神の存否-172 人類が地球上に哺乳類の中から発生して以来、何が他の生命より優れた特質を持ち、その他の知的生命体を圧倒したのか、仮にそれが愛だとすれば、人間以外に自己の子供を守る愛が人間を凌駕する動物を我々は度々見聞しています。それでは、我々人類は他の動物に比して劣っているのか。精神とはデカルト(1596~1650)が云う、心身二元論、人間は「感情を含む肉体」という物質と、それに含まれない「精神」という二つの存在から成り立っているとする考え、「方法序説」の「cogito, ergo sum(われ思う、故にわれあり)」、すべてを疑っても、考えている自分の存在だけは疑えない。それだけは確かである。すべては自分が考えることから始まる。の言に見る通り、自己の存在の起元を問う「精神」なるものを持つことから、我々人類は他の動物に比して、今現在の時点では優位に立っています。スピノザの思考の究極には、人間が世界自然を受け入れ、自然に適った自己と社会の倫理の実践こそが人類の幸いの目的としてあるのだとするのです。スピノザは「エチカ」五部に分たれた「1、神について 2、精神の本性および起源について 3、感情の起源および本性について 4人間の隷属あるいは感情の力について 5知性の能力あるいは人間の自由について」の先頭に「神」を掲げたのは、当時の人間の観想する神の認識の誤謬が甚だしいと確信していたのでしょう。哲学・思想ランキング
2021年09月17日
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神の存否-171 スピノザは大乗にも造詣が深かった筈ですから、「縁起」は相当に理解していたでしょう。特に大乗の祖である龍樹の空論は承知していたに違いありません。何故なら「空」をスピノザの云う「神の本性あるいは本質」と言い換えても、仏教哲学的には支障があるものの、スピノザの云う神の概念並びに観念には矛盾を齎しません。 定理三六 その本性からある結果が生じないようなものは一として存在しない。 証明 存在するすべての物は神の本性あるいは本質を一定の仕方で表現する(定理二五の系 個物は神の属性の変状(アフエクテイオ)、あるいは神の属性を一定の仕方で表現する様態(モードス)にほかならぬ。この証明は定理一五 すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。及び、定義五から明らかである。)により。言いかえれば(定理三四 神の能力は神の本質そのものである。)により、存在するすべての物は神の能力を顕現し、一切の万物の原因である神の能力を一定の仕方で表現する。したがって(定理一六 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で、言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが生じなければならぬ。により)により存在するすべての物からある結果が生起しなければならぬ。Q・E・D・此れが証明すべきことであったとします。 スピノザの云う「神」とは、量子重力理論の情報の貫目の基本単位、仏教哲学の大乗の「空」に近似するとも云えるものであり、所謂、多神教の自然神や、神秘学における霊魂論、一神教の神格論とは一線を画します。哲学・思想ランキング
2021年09月16日
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神の存否-170 スピノザの神の概念と其の本質、現代の先端論理物理論の宇宙の本質、「神」と「宇宙の遷移」は、其の存在が人間の感覚器官が捉え得ずにしても、論理上、似通ってれば、スピノザの神概念は現代物理科学の宇宙の基礎的論理思考に十分耐えきれると思われます。それはとスピノザの神の概念と其の本質と現代の先端論理物理論の宇宙の本質に論理的判断を下さなければなりません。神概念は矛盾や不条理を良しとはしません。ましてや、物理科学は矛盾や不条理を克服してきた事実があります。 定理三五 神の力の中に在ると我々の考えるすべての物は必然的に存する。 証明 なぜなら、神の力の中に在るすべてのものは(前定理 神の能力は神の本質そのものである。により)により神の本質から必然的に生起するようなふうに神の本質の中に含まれていなければならぬ。したがってそれは必然的に存する。Q・E・D・此れが証明すべきことであったとします。 此処で重要なのは本質の語彙でしょう。現代では此の「本質」なるものの哲学的・物理科学的統合が期待されます。本質とは偶有性に対立し、事物に内属する不変の性質。 実存に対立し、そのもののなんであるかを規定し、その本性を構成するものとされています。神の本質がどうかは、その言葉をその言葉足らしめている本性を構成するような重要なポイントだとも云えます。哲学・思想ランキング
2021年09月15日
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神の存否-169 宇宙の根元(無乃至虚)からインフレーションを経てビッグバンを起こし現在宇宙を成らしめたのは、物理学上の偶然、たとえば「ゆらぎ」か、将又、スピノザの云う「神」の本性からなる能力の顕れなのかは未だ不透明なままです。然し乍ら、現に宇宙が世界としてあり、宇宙を支配する6つの数「あたい」が宇宙に変化を齎していることを考慮すれば、これらが神の能力を顕現を代表するものではないかとも思われます。 定理三四 神の能力は神の本質そのものである。 証明 なぜなら、神の本性の単なる必然性からして、神は自己( 定理一一 神あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体は必然的に存在する)により、並びに(定理一六 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で、言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが生じなければならぬ。及びその系 系一 この帰結として、神は無限の知性によって把握されうるすべての物の起成原因であることになる。 系二 第二に、神はそれ自身による原因であって偶然による原因ではないことになる。 系三 第三に、神は絶対に第一の原因であることになる。)により、すべての物の原因であるということが出てくる。ゆえに神自身ならびにすべてのものがそれによって存在しかつ働きをなす神の能力は神の本質そのものである。Q・E・D・此れが証明すべきことであったとします。 結論付ければ、スピノザ概念の「神」は虚無とは程遠い「有」であり、神が変化が一方に流れる時間や、物の双方向の変遷には囚われない、世界を俯瞰する「永遠の瞬間」の唯一の実有だということになります。哲学・思想ランキング
2021年09月14日
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神の存否-168 宇宙のビッグバンという原初の出来事から、どのようにして、何十億もの銀河やブラックホールや星や惑星が生み出されたのか。宇宙のどのような力にあずかって、生命は誕生したのか。原初に刻印された、たった6つの宇宙数がわたしたちの宇宙を、この宇宙に生息するわたしたちをつかさどっています。これらの数のどれか一つでも、少しでも別の値であったなら、つまりこのようにうまく調整されていなかったなら、宇宙はまったく異なる進化の道をたどり、我々人類も存在しなかっただろうと云われます。ところが其のビッグバンを引き起こしたトリガーがインフレーション理論、其のまたトリガーは未だに曖昧模糊で闇に閉ざされています。其れを物理科学が突き抜いたときには、世界の創造の真の根元の何たるかを解き明かすでしょう。 21世紀前半である現時の宇宙物理科学は、宇宙がインフレーションを経てビッグバンという原初の出来事から、どのようにして、何十億もの銀河やブラックホールや星や惑星が生み出されたのか。宇宙のどのような力に預かって生命は誕生したのか。原初に刻印された、たった6つの宇宙数がこの宇宙に物質や生命を育んだのか。現在の宇宙の始まりはビッグバン宇宙論というビッグバンという原初の出来事に関しては、朧げながらも掴みつつあります。 現在の宇宙の始まりはビッグバン宇宙論で説明可能であり、現代の最新理論はその始まりの直後、10の-35乗秒付近までは、最先端物理が理論的に説明できるようになっています。この宇宙が原子ほどの大きさから一気に膨れ上がり、銀河や惑星、知的生命体を生み出すことができたのは、原初の瞬間に設定されていた6つの数がこれ以上望めないほど絶妙に調整されていたからです。これらは次の6つの数を指しています。N:原子をまとめていっしょにしている電気力の強さを原子間の重力の強さで割ったもの。10の36乗という途方もない大きさ。Nのゼロがもういくつか少なかったら、短命の小さな宇宙しか誕生しなかった。ε:原子核を結びつけている力の強さ。値は0.007。これが0.006であっても、0.008であっても私たちは存在できない。Ω:宇宙の膨張エネルギーに対する、重力の相対的な大きさを表す。ある特定の臨界値より大きすぎれば宇宙はとうの昔に崩壊していたし、小さすぎれば銀河も星も生まれることはできない。Λ:反重力の強さ。10億光年以下の尺度ではほとんど影響がない。数値は非常に小さく、そうでなければ宇宙は進化できない。Q:宇宙の構造のすべての種。二つの基本的なエネルギーの比で、値は約0.0001。これより小さければ宇宙は活動に乏しく何の構造ももてず、大きければ、激しい渦巻きの中で銀河は生き残れずに巨大なブラックホールばかりになる。D:空間次元数、値は3。2か4だったら生命は存在できない。時間は第四の次元にあるが、「時間の矢」が組み込まれ、一方である未来へしか進めないという点で、空間の三次元とは明らかに異なっている。 これらの数字がほんの少しでもずれていたら、この宇宙は出現していないし、人間も現れていないという事実は、人によっていろいろに解釈されています。「単なる偶然」という人、「創造主の存在証明」という人、「多宇宙」という考え方を支持している考え方を支持する人もいます。「多宇宙」という考え方は、我々人間が存在する宇宙は数多く存在する宇宙のひとつであり、異なる「宇宙数」によって形づくられた宇宙が他にもあるというものです。他の宇宙の存在を確かめることは今のところ不可能されますが、この先、其の根本にある物理学が更に更にと進めば、或いは新たな何かが現れる可能性は十分にあります。 此の不可思議な数は神の存在証明なのでしょうか。それとも単なる偶然として済まされるのでしょうか。哲学・思想ランキング
2021年09月13日
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神の存否-167 神は「あたい」である。アインシュタインの名言「宇宙でもっとも不可解なのは、宇宙が理解可能であることだ」ということです。現代の先端論理物科学理論は超観測機器とその解析技術の飛躍的発展に伴って、ついに宇宙を支配する6つの数にたどり着いたのです。恐らく此の宇宙を支配する6つの数にたどり着いた物理科学者はスピノザの云う「神」を意識したに相違ありません。重要なのは此れは我々人類が思考から導き出す数式とは異なり、世界から受け止めた数式であることです。此れを偶然的と云うか必然的と云うかは、人夫々の思考によりますが、おおよそ学問に接した人間ならば「必然」と捉えるでしょう。宇宙は相対性理論のような全体論からの影響を受けつつも極小を捉え展開するる量子論、その相対峙すること多き二つの統一論として顕れた量子重力論は此の宇宙を支配する6つの数に肯定的です。此れはスピノザの「神」が完全体であることの言い換えだともとらえられます。 漸くに先端論理物科学理論は超観測機器とその解析技術の恩恵を受けて宇宙を支配する6つの数に辿り着いた。その6つの数とは、物質間の相互作用の強さを表す「N」、原子の組み立てをつかさどる「ε」、宇宙崩壊の鍵を握る「Ω」、1998年に発見され大反響を呼んだ反重力の「λ」、宇宙の構造を決める「Q」、そして我々の世界の次元を決定する「D」である。現代宇宙物理学は我々の存在がこの6つの数の微妙なバランスの上に成り立っていることを明らかにました。仮にも、これら6つの数が現在の値と微妙にしてもずれていたら、我々の存在はあり得なかったに相違ない。これらが示すものは地球外生命体や生命の起源についても、我らが「当たり前のようで当たり前ではない存在」である地球、そして生命について考えさせられます。我々の世界の存在の根底にある6つの数の存在とそのバランスは絶妙であり、否が応でも、スピノザの「神」を連想させずにはおきません。哲学・思想ランキング
2021年09月12日
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神の存否-166 スピノザが本著「エチカ」に描く神は唯一の実体であり、世界には神以外の実体は存在しない。しかも神は万物の内在因であり、それ自身のうちに根拠を有するとともに、そこからすべてのものが生起する根源である。凡そ世界のありとあらゆるものは神のうちにあり、神を原因とするというこの考え方は、一種の汎神論だとも云えますが、そこには別の捉え方もされています。スピノザの思想を更に掘り起こして、これを西洋哲学上に改めて位置づけ直したのはドイツ観念論の哲学者たちです。スピノザによれば、世界は神の現れであるから、そこには善もなければ悪もない。そう見えるのは人間の意識による相対的な働きによるのだ。また世界の動きは神の働きによって必然的に定められているから、そこには偶然的なものは何も存在せず、したがって人間の意志の自由も働く余地がない。人間が自由に意思した結果生じたと思われるものも、神の摂理の中であらかじめ予定されていたことなのだとする。神をこのようにとらえることは、神を世界の秩序そのものと一体化させるものだという批判を招くことにつながる。神は自然法則と同じようなものと解釈され、そこには人格神としての面影は感じられない。スピノザが長い間排斥されてきた理由は、彼が神を説きながら、実はその神が似て非なる神であり、同時代人が信仰していた神とはおよそ異なったものを意味していたからです。このことから、スピノザは神を説きながら、実は無神論者だというレッテルを貼られたのです。スピノザは、また、絶対なる神そのものの意志のあり方の可変性や、人間の意志の自由を根源的に認めませんでした。世界は厳然たる法則に支配されており、人間の成す決定もその法則にしたがっているに過ぎないと語っています。このことは、世界の出来事を物質的な法則によって説明する態度、当時の唯物主観と似通ったものだとの批判を招いたのは時代的に致し方ないところです。スピノザに唯物論者としてのレッテルも付け加えられたのです。スピノザは、神を語りながら、その神は自然法則のように潤いのない神であり、他方では人間の精神が不当に軽視されて、物のように扱われることに、同時代人たちは本能的に反発したのです。 ところが、現在の最先端を走る、相対性理論と量子論の矛盾を統一する試みとして顕れた高度観測物理科学が導き出した統一物理科学理論である量子重力理論における世界は、スピノザの「神」存在の表現に似通った論を展開してみせます。神は「あたい」であると云うことです。哲学・思想ランキング
2021年09月11日
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神の存否-165 スピノザ著「エチカ」の定理三三の備考二の後半部前項の次いで後半部の項では、神の完全性への一神教からの批判、特に神の意志に関してのを予期した体裁で、神の完全性が語られています。 しかし彼らは言うであろう、物それ自身の中には完全性も不完全性もなく、物の中にあってそのため物が完全とか不完全とか善とか悪とか呼ばれるところのものは神の意志にのみ依存する、したがって神は、もし欲したなら、現に完全であるものをきわめて不完全なものであるようにすることができたろうし、また反対に、現に物の中にあって不完全性を意味するものをきわめて完全なものであるようにすることができたであろう。しかしこれは、その意志することを必然的に認識する神が、自らの意志によって、物をその認識するのとは異なった仕方で認識するようにすることができると公然と主張することに他ならない。これは前述したように、甚だしい不条理である。それゆえに、私は彼らの論証を彼ら自身に投げ返して次のように言うことができる。一切は神の力に依存する、だから物が異なったようにありうるためには神の意志もまた必然的に異なっていなければならぬ、ところが神の意志は異なったようにあることができない。我々が今しがた神の完全性に基づいてきわめて明瞭に示したようにである、そのことを理解すれば物は異なってあることができないと肯んずる筈である。 世界の全ての一切を神の勝手な意志に従属させ、すべては神の裁量に依存すると主張するこの意見は、神がすべてを善の考慮のもとになすと主張する人々の意見ほどは真理から遠ざかっていないと私も認める。なぜなら後者は、神に依存しないある物、神が行動に際して理想と目し・あるいは一定の目的としてそれに向かって努力するようなある物、そうしたある物を神の外に立てているように見えるからである。これはまったく「神を運命に従属させる」のにほかならぬのであって、我々が示したように万物の本質ならびに存在の第一にして唯一の自由原因たる神についてこれ以上不条理な主張は全くあり得ない。ゆえに私はこうした不条理を反駁するのに時間を費やすことはないのである。 我々人間は神の意志を理解する能力が備わっているのであろうか。哲学・神学・仏学・物理科学は勿論のこと、精神分析学をはじめとする生理学にも期待が寄せられます。次項では神の「有り方」の一つの顕れを検証します。哲学・思想ランキング
2021年09月10日
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神の存否-164 スピノザ著「エチカ」の定理三三の備考二の後半部前項では、スピノザは神の本質と完全性とを少しも変更することなしに神に他の知性・他の意志を帰しうるとする当時の神の自由意志の理解の思想的な風潮に疑問を呈します。 ところが彼らは言うであろう、たとえ神が異なった自然を創造したと仮定しても、あるいは神が永遠このかた自然ならびにその秩序に関して異なった決意をしたと仮定しても、そのために神には何の不完全性も生じないであろうと。然るにそう彼らが受け止めるならば、彼らは同時に神が、今なお、将来に於いてもその決意を変更しうることを容認するものとなる。なぜなら、もし神が自然およびその秩序に関して決意したのとは異なった決意をしたなら、すなわち自然に関して他のことを意志したり概念したりするなら、必然的に神は現に有するのとは異なった知性・現に有するのとは異なった意志をもったであろう。そしてもし神の本質と完全性とを少しも変更することなしに神に他の知性・他の意志を帰しうるとすれば、神が被造物に関するその決意を今なお変更してしかも依然として等しく完全にとどまることができない理由はないからである。被造物およびその秩序に関する神の知性と意志がどんなふうに考えられようとも、それは神の本質および完全性に何の影響も及ぼさないと言うのであるからには。と強調否定をぶつけます。 さらにまた私の知るすべての哲学者は、神の中には可能的知性は存在せずただ現実的知性のみが存在することを容認する。ところで神の知性と意志は神の本質と区別されないことと、これもまたすべての哲学者の容認するところであるから、このことからまた、もし神が他の現実的知性および他の意志を持つとしたら、神の本質もまた必然的に異なるものであるべきこと、したがって、もし物が現に在るのと異なったふうに神から産出されたとしたら、神の知性および意志、言いかえれば、神の本質は異なったものでなければならぬことになる。これは不条理である。 このように、物はいかなる他の仕方・いかなる他の秩序においても神から産出されえなかったのであり、そしてこの定理の真理は神の最高完全性からの帰結なのであるから、神が自己の知性の中にあるすべてのものを認識したのと同一の完全性をもってそれを創造することを欲しなかったと我々を信じさせるようないかなる根拠ある理由もまったく存在しえないのであると自論を展開してみせます。哲学・思想ランキング
2021年09月09日
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神の存否-163 驚くべきことに、スピノザは人間精神の自由原因を否定するのはともかくも、世界の根元を「神」の意志とし、完全性と恒常性から神は決して他の決意をなし得ないし、且つまたなしえなかったことを述べ、神が自ずと完全なる自由原因であり、他に何某かの自由原因を持っていたのかに疑問を呈します。 備考二の中半部 ここに定理一七の備考 他の人々はこう思っている。神は、神の本性から生ずると我々の言ったことがら、言いかえれば神の力の中に在ることがら、そうしたことがらを生じないようにしたり、あるいはそれを神自身産出しないようにしたりすることができると。彼らはそう信ずるがゆえに自由原因なのであるで述べたことを否定すこと、それを再び繰りかえすことは必要ないであろう。しかし仮に意志が神の本質に属することを認めたとしても、やはり神の完全性からして、物はいかなる他の仕方、他の秩序においても神から創られることができなかったという帰結になることを私は彼らのために改めて示したい。これは我々が次のことを考察するなら容易に明らかになるであろう。それはまず彼ら自身の容認していること、すなわちすべての物がその現に在るところのものであるのは神の決意および意志のみに依存する。そうでなければ神は万物の原因ではなくなるということである。次に神のすべての決意は永遠このかた神自身によって定められた。そうでなければ神に不完全性と不恒常性とを負わせることになるということである。ところで永遠の中にはいつということがなくまた以前ということも以後ということもないのであるから、このことから、すなわち神の完全性だけからして、神は決して他の決意をなしえないしまたなしえなかったこと、あるいは神はその決意の以前には存在しなかったしまたその決意なしには存在しえないことが帰結されるのである。 此のことを現在の最先端重力理論の宇宙発生が、「無のゆらぎ」なるものか。宇宙の大規模構造は、宇宙初期にあったわずかな密度ゆらぎから成長してきたものだ。この初期ゆらぎは、宇宙マイクロ波背景放射が発生した宇宙年齢38万年のころにはすでに存在していた。また、ダークマターのゆらぎは、重力不安定性が働き始める5万年のころにはすでに存在していたものとされています。然し乍ら、「ゆらぎ」そのものの生成過程は観測不可能なものである以上、現時では量子重力理論、認識哲学こそが最も回答すべき課題となります。何故なら、最先端観測物理科学で原理上には「虚世界」はないとするからです。つまりは、現代世界が「有」とする神を起因として成立する限りに於いては、その発生と終末の究極の世界に待つのは「虚」ではないのです。哲学・思想ランキング
2021年09月08日
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神の存否-162 スピノザ著「エチカ」の定理三三の備考二では、物が最も完全な本性から必然的に生起したことを更に詳細に述べます。 備考二の前半部 前述のことからして、物は与えられた最も完全な本性から必然的に生起したのだから最高の完全性において神から産出されたのだということが明瞭に帰結される。このことは神に何の不完全性をも負わせるものではない。なぜならまさに神の完全性がこのことを我々に主張するように迫るのだから。のみならずもし逆、最も完全な本性から必然的に生起したののが物ならば、最高の完全性においては、神が最高完全でないということが明瞭に帰結されるであろう。なぜなら、前述したようにもし物が他の仕方で産出されたとしたら我々が最高完全な実有の考察に基づいて神に帰せざるをえなかった本性とは異なる他の本性を神に帰することになるからである。然れども、多くの人々がこの見解を不条理なものとして排斥しこれを熟考する気にならないことを私は疑わない。それというのも彼らは我々が述べた(定義七 自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるものは自由であると言われる。これに反してある一定の様式において存在し・作用するように他から決定されるものは必然的である、あるいはむしろ強制されると言われる。)とはまるで異なる他の自由を、すなわち絶対的意志を、神に帰するのに慣れているからにほかならない。しかし彼らが事態を瞑想し・我々の諸証明の系列をよく熟慮しようとするならば、ついに彼らは、いま神に帰しているような種類の自由を単に愚かしいものとしてだけではなく、さらにまた知識の大きな障害としてまったく放棄するだろうこと、これまた私の疑わないところである。哲学・思想ランキング
2021年09月07日
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神の存否-161 スピノザ著「エチカ」の定理三三の備考二から推論するに神の本性とは、世界を在らしめる根元であり、其れはエネルギー云々の問題ではない筈です。宇宙の根元がエネルギー其のものならば、世界の源その絶対意志の人間精神との関わりは現代の量子理論で開発されるAIコンピュターが答えを将来に用意しているかも知れません。 此処である人物の逸話、「私は令和3年9月2日二人して14年生活てきた実母を108歳で昇天の瞬間を母子共に共有しました。俗に云う「霊魂」なるものは目視できませんでしたが、最後の場面「瞳孔の開き」のときに私に熱流の逆流を呼び起こさせました。体温計を用いて計測したところERRORでした。今は同じ人間の身体で触れ合ってますが、離れなければならないことを自分に言い聞かせています。然し乍ら、極道息子の時代を持つ息子ならの此のアクシデント、周りは天寿ですといわれますが、それでもこのことを恨んでいます。最期の言葉は「御苦労さまでした(過去形)」、息子の返事は「御苦労さまデス(現在形)」に訂正しろです。今は思い出を共有することが出来たこと、最も完全な本性から必然的に生起した「神」に感謝します。スピノザの「エチカ」無くしては私は破滅していたことは疑いを得ません。」を紹介しました。 絶対なる神を説き、神への愛こそに、人間の幸福を得るとするスピノザの倫理学、此の方は其のことを知っておられ、普段からスピノザの倫理学を実践されていたのでしょう。スピノザが実践哲学者と言われる所以です。哲学・思想ランキング
2021年09月06日
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神の存否-160 今日の量子力学において、不確定性原理でいう観測は日常語のそれとは意味が異なる用語であり、観測機のようなマクロな古典的物体とミクロな量子物体との間の任意の相互作用を意味します。例えば、実験者が観測機に表示された観測値を実際に見たかどうかといった事とは無関係に定義されるのです。また不確定性とは、物理量を観測した時に得られる観測値の標準偏差を表すとされます。不確定性原理が顕在化する現象の例としては、原子(格子)の零点振動、ヘリウムは常圧下では絶対零度まで冷却しても固化しない、その他としては量子的な「ゆらぎ(例としては遍歴電子系におけるスピン揺らぎ)」などが挙げられています。では「量子的なゆらぎ」は此れが世界の秩序とは異なった作用を持つのかどうかは、スピノザの神の「有」としての必然からは読み取ることは、時代背景からも連携させることは難しいものがあります。不確定性原理は,量子物理学の基本的考え方を象徴的に表したものです.不完全性定理は,数学的命題は真でも偽でもない場合があることを証明したものです. 神の物理的実在を否定する原理は,エネルギー保存則でしょう.神は物理学の法則に背かないようなエネルギー調達の手段を持たないので、一切の物理的行動を行うことが出来得ないとする論です。ところが此の論には御都合主義的な側面があり、エネルギー其の物の出処を示してはいません。哲学・思想ランキング
2021年09月05日
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神の存否-159 スピノザ著「エチカ」の定理三三では、物の生成に関して偶然が果たして可能かどうかを問います。それでは人間の感情などの精神ではどうなのか。特に人間が異性間に起こる閃きの「愛」は偶然なのか若しくは必然なのか。物の生成に関しては確かに宇宙の森羅万能の法則が仂くことが予期され納得させられます。だが、生命体として精神を獲得した人類の行動が必然的だとは誰も認めないでしょう。西欧の唯一神教のナザレのイエスは其のままに捉えれば、世界の偶然ではなく必然です。此の論の立場にたてばキリストに自由はありませんでした。其れ故に、人類の罪を覆ったイエスは父なる神に解放を求めたのです。だから、神なる子であるイエスには人間としての生存の自由さえ許されませんでした。此処に、スピノザ思考の中に幼児期から青年になる時期の信仰の影響が関与してると捉えます。 備考一 私はこれで、物自身の中にはその物を偶然であると言わしめるような何ものも絶対に存在しないことを十二分に明白に示したから、ここに私は、偶然ということをどう解すべきかを手短かに説明しよう。しかしその前に、必然および不可能ということをどう解すべきかを語ろう。ある物が必然と呼ばれるのは、その物の本質に関してか、それとも原因に関してかである。何となれば、ある物の存在は、その物の本質ないし定義からか、それとも与えられた起成原因から必然的に生起するからである。次に、ある物が不可能と呼ばれるのも、やはり同様の理由からである。すなわちその物の本質ないし定義が矛盾を含むか、それともそうした物を産出するように決定された何の外的原因も存在しないからである。これに反して、ある物が偶然と呼ばれるのは、我々の認識の欠陥に関連してのみであって、それ以外のいかなる理由によるものでもない。すなわち、その本質が矛盾を含むことを我々が知らないような物、あるいはその物が何の矛盾も含まないことを我々がよく知っていてもその原因の秩序が我々に分からないためにその物の本質について何ごとも確実に主張しえないような物、そうした物は我々に必然であるとも不可能であるとも思われないので、したがってそうした物を我々は偶然とか可能とか呼ぶのである。 以上をの定理三三備考一を考察するに、定理三三では、物の生成に関して偶然が果たして可能かどうかを問うていると解釈します。此れを現代の量子力学に従う系、不確定性原理(Uncertainty principle)はどのように解釈するのでしょう。哲学・思想ランキング
2021年09月04日
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神の存否-158 スピノザ著「エチカ」の世界の仕様である宇宙の理「秩序・法則」が語られます。 定理三三 物は現に産出されているのと異なったいかなる他の仕方、いかなる他の秩序でも神から産出されることができなかった。 証明 なぜなら、すべての物は与えられた神の本性から必然的に生起し(定理一六 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で(言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが)生じなければならぬ。)により、且つ、神の本性の必然性によって一定の仕方で存在し・作用するように(定理二九 自然のうちには一として偶然なものがなく、すべては一定の仕方で存在し・作用するように神の本性の必然性から決定されている。)により決定されている。だから仮に、物が異なった本性を持ち或いは異なった仕方で作用するように決定されて、その結果自然の秩序が今と異なったものになるということがあり得るとしたら、神の本性もまた現に在るのとは異なったものになりうるであろう。そこで(定理一一 神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、は必然的に存在する。)により、この異なった神の本性もまた同様に存在しなければならぬであろう。したがって二つまたは多数の神が存在しうることになるであろう。これは(定理一四の系一 これからくるきわめて明白な帰結として、第一に、神は唯一であること、言いかえれば(定義六 一の実体は他の実体から産出されることができない。)により、自然のうちには一つの実体しかなく、そしてそれは絶対に無限なものであることになる。これは我々がすでに定理一〇の備考たとえ二つの属性が実在的(レアリテル)に区別されて考えられても、言いかえれば一が他の助けを借りずに考えられても、我々はそのゆえにその両属性が二つの実有あるいは二つの異なる実体を構成するとは結論しえないことである。事実その属性のおのおのがそれ自身によって考えられるというのは実体の本性なのである。なぜなら、実体の有するすべての属性は常に同時に実体の中に存し、かつ一が他から産出されえず、おのおのは実体の実在性あるいは有を表現するからである。ゆえに一実体に多数の属性を帰することは少しも不条理でない。それどころか、おのおのの実有がある属性のもとで考えられなければならぬこと、そしてそれはより多くの実在性あるいは有をもつに従って必然性(すなわち永遠性)と無限性とを表現するそれだけ多くの属性をもつこと、そうしたことほど自然において明瞭なことはないのである。したがってまた、絶対に無限な実有を、おのおのが永遠・無限な一定の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実有(我々が定義六で述べたように)と定義しなければならぬことほど明瞭なこともないのであるで暗示したことである。だが今もしある人が、ではいかなる標識によって我々は諸実体の相違を識別しうるかと問うならば、その人は次の諸定理を読むがよい。その諸定理によって、自然のうちにはただ一つの実体しか存在しないこと、またその実体は絶対に無限なものであること、したがってそうした標識を求めることは無用であることが判明するであろう。)により不条理である。それゆえに物は他のいかなる仕方、他のいかなる秩序においても云々。Q・E・D・此れが証明すべきことであったとします。 此の視点を最先端を走る現代の先端論理物理論から見れば、幼稚な思想とさえ捉えかねんません。然し乍ら、其の思考の論理の筋立ては現代に於いても再見すべき思考論法であり、スピノザを矮小化するべきでないことは今日の現状です。哲学・思想ランキング
2021年09月03日
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神の存否-157 スピノザの時代の文明圏では、現代のSF(サイエンス・フィクション)は勿論のこと、その根拠とされ利用される相対性理論などの物理科学理論は成立しておらず、信教を別にして宇宙は始まりもなく終わりもない「一」の世界と想われていました。当然にその秩序は「一」の世界の「基い」の関与なしには考えられません。然し乍ら、今日現代の理論物理科学は、並行宇宙論や逆行世界、多言宇宙論を展開してみせます。世界法則そのものが異なった宇宙のあり方を問う理論が横行するのが現代の理論物理科学なのです。宇宙の秩序が「一」の世界には適用でき得ても、並行宇宙や多言宇宙には、スピノザの「一」の存在が適用できても、逆行世界には適用できるのかは問題です。しかし、逆行世界があるにしても其の世界の住民は我々同様に経験するものは同じであり、能くまで、一方の世界からの観測上の視点なので何方の世界も其の差異には気づかない筈です。但し、並行宇宙や多言宇宙には、少々課題が残ります。「一」の宇宙の神に更なる根元、多元宇宙は神の繁殖を意味するのか、並行宇宙は神の双生なのか、スピノザが現代に生きれば、どの様な結論を出したのか興味津々です。哲学・思想ランキング
2021年09月02日
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神の存否-156 一般的用語で「本性(ほんせい、ほんしょう/Human Nature)」は、生まれつきの性質としての本来の性質、人間が普遍的に持つ思考、感覚、行動などを指す概念であり、社会学、社会生物学、心理学では特に進化心理学と発達心理学が人間の本性を明らかにしようと科学的な取り組みを行っています。哲学者、倫理学者と神学者もまた其れ其れに人間の本性を古くから議論していたものです。不変の人間性の存在は古くから論及されており、現在でも論議されている課題です。ダーウィンは、人間にも他の動物にも本性はあっても真に固定化されていないと主張し、これは現在の科学者から広く受け入れられている。所謂、本能とは多少の差異があります。本能は、本来その生き物が生き抜くために獲得した性質。 一般に「食欲、性欲、睡眠欲」などに使用されます。 対して「本性」は人間が普遍的に持つ「本来の性質」とされますが、此の出どころにより様々に解釈されることとなります。 スピノザの「神」概念と、信教「唯一神」の絶対概念が相違する以上、神の本質が関与する「神の本性」はスピノザ哲学の根幹だと云えます。 古代キリスト教最大の神学者。いわゆるギリシア教父とよばれる神学者群の一人で、アレクサンドリア学派といわれるグループの代表的存在オリゲネスオリゲネス(Origenes Adamantius/ 185年頃 - 254年頃)は、有限な認識能力しか持たない人間を、神的なのなものにして、すなわち神化させて、それでもって神認識の問題は解決されたと言って済ますことはできない。というのは、いまここで問題にしているのは、有限な被造物である人間が、把握し難い神をどのようにして認識できるのかということなのであって、人間の神化を前提にして、つまり人間を神にして、それを解こうとすることは、問題の解決と言うよりは、むしろそれの回避に過ぎないと思われるからである。神を知る、あるいは「神とは何であるか」、あるいはこれを第一人称の直接話法に変換して、「神であるあなたは誰であるか」を知るという神認識の問題は、あくまでも有限な被造物である人間が、神認識のプロセスと人間神化のプロセスの端緒において、そもそも「何を」知るのかという問題から考察されねばならないのであると述べています。類推するに、スピノザの論理に近い言を著しています。哲学・思想ランキング
2021年09月01日
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