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神の存否-93 スピノザの「定理一四 神のほかにはいかなる実体も存しえずまた考えられえない。」は、現在に最先端の物理化学である「量子重力理論」と然程に掛け離れたものでもないかも知れません。人間の身体組織が分子的、尚更、原子はたまた素粒子レベルでは空間的に隙間だらけでも個体としてのレヴェルを保っています。仮に、其の空間と云われるものに「無」或いは「虚無」を持ち込めば、人体は雲散霧消するに違いありません。「量子重力理論」は宇宙も人体同様に「零」なる領域をば認めません。此処から、無限の質量を持つ「零空間」が否定され、従来の量子論とアインシュタインの相対性理論の相対する矛盾を解消すべく、新たに思考された理論なのです。即ち、「モノ」在るところには「零」なる領域は無く、必ず「物」が存在すると云うことです。 定理一四 神のほかにはいかなる実体も存しえずまた考えられえない。 証明 神は実体の本質を表現するあらゆる属性が帰せられる絶対に無限な実有であり(定義六 神とは絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体と解する。)により、そして必然的に存在する(定理一一 神、或いは各々が永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体は必然的に存在する。)により証される。故にもし神のほかに何らかの実体が存するとすれば、その実体は神のある属性によって説明されなければならぬであろう。そうなれば、同じ属性を有する二つの実体が存在することになり、これは(定理五 自然のうちには同一本性あるいは同一属性を有する二つあるいは多数の実体は存在しえない。)により不条理である。したがって神のほかにはいかなる実体も存しえないし、いかなる実体も考えられ得ない。何故なら、仮に考えられ得るとすれば、必然的にそれは存在するものとして考えられなくてはならぬが、これは(この証明の始めの部分、神とはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている)により不条理である。ゆえに神のほかにはいかなる実体も存しえずまた考えられえない。Q・E・D・=此れが証明されるべきことだった。 スピノザノの「実体」として表現される「神」は所謂、人間が通常思考で表象するような神格性を持つモノではなく、其の影響力は世界を充たしており、在りと汎ゆるものが「有り」として世界に拡充していることを意味します。量子重力理論の情報の波が想定されます。哲学・思想ランキング
2021年06月30日
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神の存否-92 通常、ブラックホールの特異点は、光も出て行くことができない無限大の重力空間に囲まれており、その外側にいる我々がその特異点を直接観測することはできない。つまり、特異点の情報は外に伝わらないため、事象の地平面の外側では特異点の存在にかかわらず、物理現象・因果律を議論することができ得ます。それに対して、裸の特異点では、その物質密度が無限大となる点あるいは時空の曲率が無限大となる点が、外側から観測することができてしまうことを意味します。但し、ブラックホール外部の因果関係に関わる形で、このような無限大の量を含む点が存在すれば、一般相対性理論は破綻します。既存の理論では因果関係を予測することが不可能になるのです。一般相対性理論自身の解として特異点が予言されたことは事実であるのですが、事象の地平面 (event horizon) に囲まれていない、時空の特異点の存否は未だに不明です。仮に物理化学が見得ないものは実証不可能として探索不可能とした場合には、物理観測科学は世の四方山の思想からしてやったりと非難されること必須です。そこで事象の地平線で覆い隠されていない特異点、回転するブラックホールを表す解には裸の特異点が存在するものがあるが、裸の特異点が自然界において実現し得るかどうかが課題になります。此の難問に答えんとしたのが量子重力論です。アインシュタインの一般相対性理論に量子力学を応用させ、合理的説明を果たし得る科学、其れが「量子重力論」です。私論ですが、スピノザの「実体」なるもののヒントが其処に隠されているようにも思えます。哲学・思想ランキング
2021年06月29日
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神の存否-91 AI技術を取り込んだ量子コンピューターが映画マトリックスの如く、「宇宙人」が情報を網羅して世界を支配しているとの論述展開には興味はありますが、通常には認証されることはあり得ません。では「宇宙人」が世界を支配しているを、「神」若しくは「実体」と置き換えると宇宙人よりは現実性があるでしょうか。仮にスピノザが「神」若しくは「実体」としてエチカを論述していれば、教会権威の迫害はなかったかも知れませんが、彼は「神」即ち「実体」として同義に扱うことから迫害の危機に晒されます。 定理一四 神のほかにはいかなる実体も存し得ずまた考えられ得ない。 証明 神は実体の本質を表現するあらゆる属性が帰せられる絶対に無限な実有であり(定義六 神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体と解する。)により、そして必然的に存在する(定理一一 神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体は必然的に存在する。)により。ゆえにもし神のほかに何らかの実体が存するとすれば、その実体は神のある属性によって説明されなければならぬであろう。そうなれば、同じ属性を有する二つの実体が存在することになり、これは(定理五 自然のうちには同一本性あるいは同一属性を有する二つあるいは多数の実体は存在しえない。により)により不条理である。したがって神のほかにはいかなる実体も存しえない。したがってまたいかなる実体も考えられえない。なぜなら、もし考えられうるとすれば、必然的にそれは存在するものとして考えられなくてはならぬが、これは(この証明の始めの部分神は実体の本質を表現するあらゆる属性が帰せられる絶対に無限な実有)により不条理である。ゆえに神のほかにはいかなる実体も存しえずまた考えられえない。Q・E・D・=此れが証明されるべきことだった。 系一 これからくるきわめて明白な帰結として、第一に、神は唯一であること、言いかえれば(定義六 神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体と解する。)により、自然のうちには一つの実体しかなく、そしてそれは絶対に無限なものであることになる。これは我々がすでに定理一〇の備考(たとえ二つの属性が実在的(レアリテル)に区別されて考えられても、言いかえれば一が他の助けを借りずに考えられても、我々はそのゆえにその両属性が二つの実有あるいは二つの異なる実体を構成するとは結論しえないことである。)で暗示したことである。 系二 第二に、延長した物および思惟する物は神の属性であるか、そうでなければ(公理一 すべて在るものはそれ自身のうちに在るか、それとも他のもののうちに在るかである。)により、神の属性の変状であるということになる。 スピノザは実体としての神を絶対永遠の無限なる実有と捉えています。仮に、神が表現として宇宙を形作っているならば、其れは神の属性であり宇宙は見掛け上は生滅を繰り返しそうですが、全くの無に陥ることは有り得ません。スピノザは実体としての神は完全体としてあり、全ての経緯を夢見ることさえ有り得ない完璧其のものだからです。人間の思考が神を求めるのは自然にしても、神が人間に何程かのことを欲求するのは各分野、夫れ々の思想家の分野での判断に掛かります。哲学・思想ランキング
2021年06月28日
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神の存否-90 量子宇宙理論の最先端を走る「量子重力理論」では、アインシュタインの相対論の行き着くさきのブラックフォールの特異点は解消されます。元来、量子論は存在に「零(ゼロ)/0」なる無存在は認めません。存在は限りなく無に近こうとも、零は一単位として在り続けるわけです。零も量子的には無の表現ではなく情報因子として在り続けることになります。現代のコンピューターが2進法から成り立っていることを表象すれば「0」が無としての「零(ゼロ)」でないことが分かります。流石に宇宙はパーソナルコンピューターのように単純ではありませんから、AI技術を取り込んだ量子コンピューターが待たれます。此の計算能力の解答予測は人間には粗不可能であり、将来的には神の意思である実体に近いものを吐き出すかも知れませんが、このことは、SF界では歓迎されるかも知れませんが、宗教・哲学・倫理学(スピノザ等)の分野からは排撃されるでしょう。哲学・思想ランキング
2021年06月27日
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神の存否-89 時代の最先端を走っていると云われる量子重力理論。なかでも、宇宙の全てが時空間や物質で満たされている訳ではなく、宇宙は「波因子」、即ち現在盛んに話題にされる不確定因子を持ち込んだ量子コンピューターの如く、「情報因子」が波として相互に働き掛け、情報の波が宇宙の多種多様なものの種類を生み出している思考です。此れを踏まえてスピノザの定理一三を紐解いてみましょう。 定理一三 絶対に無限な実体は分割されない。 証明 なぜなら、もし分割されるとすれば、分割された部分に絶対に無限な実体の本性を保持するか保持しないかであろう。第一の場合なら、同じ本性を有する多数の実体が存在することになるであろう。これは(定理五 自然のうちには同一本性あるいは同一属性を有する二つあるいは多数の実体は存在しえない。)により不条理である。第二の場合には、絶対に無限な実体は、実体の本性を保持しないならば上に述べたように存在することをやめることになり、これもまた(定理一一 神或いは各々が永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体は必然的に存在する。)により不条理である。 系 これらの帰結として、いかなる実体も、したがってまたいかなる物体的実体も、それが実体である限り、分割されないことになる。 備考 実体が分割されないことは、次のことからだけでももっと単純に理解される、実体の本性は無限としか考えられえない、ところが実体の部分とは有限なる実体のこととしか解することができない、これは(定理八 すべての実体は必然的に無限である。)により明白な矛盾を含んでいる。 定理一三の絶対に無限な実体が分割されないのは、実体とは物質的な類のものではなく、我々が海浜で波を掬っても何等、何某らの波の情報を汲み取れないのと同様に思考すべきでしょう。哲学・思想ランキング
2021年06月26日
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神の存否-88 現在観測される天体のなかには、光速を超えて地球から遠ざかっているものも存在すると論じる向きもあります。このような天体が観測できるのは、天体から放たれた光が光速以上で遠ざかる空間から抜け出て次第に地球からの後退速度が緩やかな空間に入るからであり、「地球から光速で遠ざかる空間=宇宙の地平面」ではない。赤方偏移Zの値が1.7程度の天体は、今地球で観測される光を放ったときちょうど光速で遠ざかっていたので、これよりも赤方偏移の大きな天体は超光速で地球から遠ざかっていたことになる。そのような天体はすでに1000個程度観測されている。また、現在地球から観測できる最も古い光が放たれた場所の、現在の位置を光子の粒子的地平面という。現在の光子の粒子的地平面は地球を中心とする半径約450億光年の球の表面となり、この球面の半径は光速の約3.5倍の速さで大きくなり、我々が今観測している光を放ったとき即ち、宇宙の晴れ上がりには光速の約60倍もの速度で遠ざかっていた。光子以外の粒子による粒子的地平面は光子のそれよりも遠く伸びる場合がある。たとえばニュートリノによる粒子的地平面は光子の粒子的地平面よりも大きいと考えられる。なぜなら光は直進できるようになるまで「宇宙の晴れ上がり」を待たねばならなかったが、ニュートリノはそれ以前に直進していると考えられるからだ。また、我々人間の属する宇宙は光子を含む電磁波の観測によって関与できる空間の限界を示す光子の粒子的地平面を超えて、遥かに無尽蔵に膨張して広がっていると考えられている理論まで登場していますが、今現在の基盤にはやはりアインシュタインの相対性理論の光速度の限界を下地にすべきでしょう。但し、量子重力理論では光速度の影響を考慮する必要はなさそうです。哲学・思想ランキング
2021年06月25日
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神の存否-87 宇宙の地平面 または宇宙の地平線とは我々人間が光学的即ち持って生まれた識別能力で観測可能な最も遠い遥かな宇宙の空間あるいは宇宙の時空であり、観測上*の「宇宙の果て」とされます。現在の物理科学の観測上では一般的には宇宙は膨張していると考えられており、距離が離れているほど地球からの宇宙論的固有距離の変化量を宇宙時間で微分した値である後退速度が速く、ハッブル距離以上は光速以上の速さで離れる。地球に向かう光が常に光速以上で遠ざかる空間にとどまるという条件下では、その光は地球には永遠に届かない。このとき光が届く限界の時空面を宇宙の事象的地平面という。事象的地平面は我々が観測できる個々の天体がどの時代の姿まで観測できるかを示しているのです。哲学・思想ランキング
2021年06月24日
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神の存否-86 宇宙の年齢138億年を観測上確認し、観測物理科学に欧州宇宙機関の「プランク」は、宇宙の膨張を其々の紐に置き換えて、宇宙が膨張しているならば、この紐そのものもまたゴムが伸びるように、時間的にその長さを増大させる。つまり、光が出発した際の端は、我々から見た光の移動距離以上に遠ざかり続けている筈だ。アインシュタイの相対性理論の光と時間の関係が導入されます。つまり、光が出発した際のその端は、我々から見た光の移動距離以上に遠ざかり続けているのです。そしてゴム紐のように「宇宙が伸びる」とは、我々が描く座標系を表象すれば、その座標系の拡大を意味する。宇宙膨張とは、座標系の中にある銀河団などの物理的物体の運動ではなく、座標系そのものが相似的に拡大するということなのです。光学上の観測眼には見えないが、宇宙にはリング状の 典型的で予測がつく様式としてのパターンがある。これはビッグバン以前に宇宙が存在した痕跡だと主張する研究結果が発表され現在も議論を呼んでいます。仮に、この理論が正しければ、宇宙は絶え間なく再生しており、現在の宇宙はその最新版にすぎない可能性があるのです。その証拠が初めて示されたというのが今回の主張だったわけです。その事実は宇宙マイクロ波背景放射Cosmic Background Radiation(CMB)宇宙をほぼ一様等方に満たしている電磁波放射。マイクロ波、赤外線、X線、γ(ガンマ)線といったさまざまな波長帯域で観測、宇宙初期に形成された星や銀河によるものと考えられている宇宙X線背景放射や宇宙γ線背景放射は、遠方の銀河の中心にある活動銀河核によるものを発見、遠方の銀河の中心にある活動銀河核によるもの、いずれも宇宙初期の星形成や銀河形成のようすを探る手段として注目され、背景放射の起源を探る研究が行われていましたが、その後、新たに分析した結果リング状のパターンが発見されビッグバンの名残リングの多くはまるで波紋のように入れ子になっている。その内部はCMBのほかの部分と比べ温度がより一定であると示しています。哲学・思想ランキング
2021年06月23日
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神の存否-85 現在の宇宙年齢は138億年と推定されている。とすれば、我々が現在観測できる領域は、「光が138億年かかって到達できる距離を半径とする球の内部」に限られる筈です。然し乍ら、此れこそが宇宙の形態を示すものではありません。光の絶対速度をもって急速に膨張している宇宙は、膨張するバルーンの表面のいたる処に刻印した黒点の其れ其れが中心点であるように、中心は何処に求めても構わないとされます。実のところは今現在、人類は未だ宇宙の真実の形体について正直なところ解明は出来ていません。観測技術の飛躍的に高まった21世紀にあっても物理学者や数学者が、様々な思考、宗教・哲学・物理学を含めて自論を唱えて熱く議論しているところです。ラグビーボールや馬蹄形、更には曲率を持つ平面的なものかも知れないとされるのが現在のところの定説。ところが豈図らんや、光学的観測では全ての宇宙が観測者を中心として等方に観測物遠ざかって見えます、即ち、少なくとも宇宙は多角形ではありません。光や其の類の電磁波では全方向の観測は「球」にならざるを得ず観測上は宇宙は球となるのです。現時点の光学的技術の最先端であるIT技術をもって全方向に光の観測を投げても宇宙は球としてしか捉えきれない訳です。これを宇宙の地平線球と呼ぶのには一応の理解が可能です。ところが、宇宙の果ては光速を遥かに凌ぐ光速の約60倍もの速度で遠ざかっているとする論が登場しています。地平線球の半径が138億光年でなく470億光年となる根拠は宇宙が急速に膨張しているからであるという論です。ある有限の長さの紐を考えて見よう。その一つの端から出発した光が、もう一つの端にいる我々に到達するまでの所要時間が138億年だったとすれば、この紐の長さはその時間に光速をかけた値、すなわち138億光年になるはずだ。しかしこれは、宇宙が膨張していない場合の話です。哲学・思想ランキング
2021年06月22日
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神の存否-84 宇宙の地平線言い換えれば宇宙の地平面ですが、此れは我々人間が現在の物理理論で考え得る限りの観測上のもっとも遠い宇宙の空間あるいは宇宙の時空であり「宇宙の果て」です。一般的には宇宙は膨張しているとすれば、距離が離れているほど地球からの後退速度、宇宙論的固有距離の変化量を宇宙時間で微分した値が速く、「ある距離=ハッブル距離」以上は光速以上の速さで離れると説明されます。では、アインシュタインの光の絶対速度の論理が誤謬なのかといえば、其の様ではないことが分かります。例えば、現在観測される天体のなかには、光速を超えて地球から遠ざかっているものも存在する。このような天体が観測できるのは、天体から放たれた光が光速以上で遠ざかる空間から抜け出て次第に地球からの後退速度が緩やかな空間に入るからであり、「地球から光速で遠ざかる空間=宇宙の地平面」ではない。赤方偏移Zの値が1.7程度の天体は、今地球で観測される光を放ったときちょうど光速で遠ざかっていたので、これよりも赤方偏移の大きな天体は超光速で地球から遠ざかっていたことになる。そのような天体はすでに1000個程度観測されています。また、現在地球から観測できる最も古い光が放たれた場所の、現在の位置を光子の粒子的地平面という。現在の光子の粒子的地平面は地球を中心とする半径約450億光年の球の表面となり、この球面の半径は光速の約3.5倍の速さで大きくなり、我々が今観測している光を放ったとき=宇宙の晴れ上がりでは光速の約60倍もの速度で遠ざかっていたとする論も見受けられます。光子以外の粒子による粒子的地平面は光子のそれよりも遠く伸びる場合があるとするのです。たとえばニュートリノによる粒子的地平面は光子の粒子的地平面よりも大きいと考えられると論じます。なぜなら光は直進できるようになるまで「宇宙の晴れ上がり」を待たねばならなかったが、ニュートリノはそれ以前に直進していると考えられるからだというのです。此れなら人類の物理技術科学の進捗状況からいって、近未来には宇宙空間を光速を超えたトラベルは可能になります。哲学・思想ランキング
2021年06月21日
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いっぷ句-64梅雨過ぎて桶屋でなくて植木屋が 愚通人気ブログランキング
2021年06月20日
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神の存否-83 スピノザの云う「実体」とは、所謂、我々人間が通常感覚的に表象する宇宙、インフレーションからビッグバンを経て138億年、現在も膨張し続けている宇宙、仮に宇宙空間を球と見做せば、物理学の制約上、観測出来得るのは、宇宙で最も高速な絶対速度を持つ光が138億年かかって到達できる距離を半径とする球の内部に限られる筈です。此のことを踏まえて、地球上での地平線が地球の果てに対応しているわけではないのと同じく、此の宇宙の地平線は宇宙の果てどころではなく、敢くまで原理的な観測可能限界に過ぎず、これを「宇宙の地平線」と呼称するのです。我々が海の彼方にみる地球の地平線が地球の果では無いのと同様に、宇宙の地平線も超高性能望遠技術を取り入れた観測機器の見る「宇宙の地平線」も決して宇宙をの現実をキャッチしている訳ではありません。よく疑問が呈されるのは、より詳細な物理科学をもって正確に計算すれば、驚くなかれ事実は半径470億光年となるといわれると、光速の絶対速度が世界で変怪するのかとも思えます。宇宙の年齢が138億年であるにもかかわらず、そこまでの距離が470億光年なのだとすれば、光が光速以上で進むということになる。宇宙論研究者はかくも重大な矛盾をごまかして隠蔽しようとしているのを許すまじという気持ちには同感できます。哲学・思想ランキング
2021年06月19日
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神の存否-82 スピノザの定理一二の実体の全体性、属性のゆえに分割が不可能であるとするとする証明を見てみましょう。 証明 なぜなら、そのように考えられた実体の「分割された部分」は、実体の本性を保持するか保持しないかであろう。第一の場合(すなわちそれが実体の本性を保持する場合)は、おのおのの部分は無限であり(定理八 すべての実体は必然的に無限である。により)、また(定理六 一の実体は他の実体から産出されることができない。により)自己原因でなければならぬ。そして(定理五 自然のうちには同一本性あるいは同一属性を有する二つあるいは多数の実体は存在しえない。により)異なった属性から成らなければならぬ。したがって一の実体から多数の実体が構成されうることになる。これは(定理六に 一の実体は他の実体から産出されることができない。により)不条理である。これに加えて部分は(定理二 異なった属性を有する二つの実体は相互に共通点を有しない。により)その全体と何の共通点ももたぬことになり、また全体は(定義四 異なる二つあるいは多数の物は実体の属性の相違によってか、そうでなければその変状の相違によってたがいに区別される。および定理一〇 実体の各属性はそれ自身によって考えられなければならぬ。により)その部分なしに在りかつ考えられうることになる。これが不条理なことは何びとも疑いがないであろう。これに反して第二の場合すなわち部分が実体の本性を保持しない場合は、実体全体は同じような部分に分割されて実体の本性を喪失し、存在することをやめるであろう。これも(定理七 実体の本性には存在することが属する。により)不条理である。 此の定理一二証明の項は、宇宙全体を物理的実体として捉え、真に物理的な存在と看做せば、その属性の分割による変化は生じる筈です。亦、宇宙全体を精神的実体ととして捉えれば、我々が世界に存している世界自体が仮想であり、VRもどきとなり物質世界は単なる蜃気楼となり分割すること能わずはともかくも実体性は隠された分野、何者かの作為、映画のマトリックスでは宇宙人の作為となり、神の真実在は失われます。 スピノザ自身は、世界が何処も彼処も肉質虫綱アメーバ目Amoebidaに属する原生動物のように分断しても自性を保存し、蚯蚓の如く切断してもと云うよりは、彼の神としての実体は時空を超えて、詰まりは物理科学的には不可触であることが故に無限性を持つと考えているようです。哲学・思想ランキング
2021年06月18日
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神の存否-81 定理一二では実体の全体性を問います。此の見方は、量子重力理論からすれば、あまり歓迎されないでしょう。量子論からすれば「全くの無」である虚無の表象である特異点「0」は無く、限りなく「0」に至っても何某かのものが存することが許されます。特異点「0」ではなく物理観測科学上からは「無」から「有」は確認されているのですから、宇宙では「無」から「有」、「有」から「無」の変異は物理観測科学でも理論上認めれれる筈です。特異点「0」は虚で物理観測科学上で「無」から「有」、「有」から「無」の変異は許されます。量子重力理論「0」の時空には最小単位が存在し、それより小さい範囲で揺らぐことができないという考え方に基づく理論を肯定すれば、「0」は有って無きが単位因子となります。此のことを踏まえてスピノザの 定理一二 ある実体をその属性のゆえに分割可能であるとするような考え方は、実体のいかなる属性についてもあてはまらない。 此の定理一二を紐解けば、宇宙no物質が必須要素でもなく単なる変化の波動=情報因子のみの要素で成り立つのなら、宇宙の膨張・収縮、インフレーション理論、更には最近マスコミを騒がせたイギリスはオックスフォード大学の数理物理学者、数学者、科学哲学者であり、2020年のノーベル物理学賞を受賞したロジャー・ペンローズ(Sir Roger Penrose OM FRS/1931年8月8日 - )とアルメニアにあるエレバン物理研究所のバヘ・グルザディアン(Vahe Gurzadyan)の説、ビッグバン以前の宇宙でブラックホール同士が衝突し、リングが生まれた可能性があるという。ことからして導かれる宇宙の周期論を鑑みれば世界の時空間は現在我々が存するには意味があれども、空間の大いさは限りなくゼロに近づき、限りなく無限に拡がる宇宙はスピノザの定理一二の実体の全体性、属性のゆえに分割可能であるとするような考え方は意義を失い、無限極小の全体・無限極大の全体としての様相が顕れて分割そのものが世界存在にとって意味を失います。思考する人間が自己の脳に浮かぶ精神を其々のニューロンに分割しても意味するところは何もないと帰結するようなものです。哲学・思想ランキング
2021年06月17日
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神の存否-80 世界のあらゆる物質は、細かく分割していくことで、どんどん小さい構造が現れてきます。ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の「点(point)」の解説には、幾何学における基本的な概念。まず平面上にあって平行でない異なった2直線の「交わり」は点である。その性質としては、相異なる2点はただ1つの直線を決定し、1つの直線上にない3点はただ1つの平面を決定する。ユークリッドは「原本」のなかで,「点とは部分のないものである」と定義したが、この定義には、彼の意図するものとは別に、感覚的要素が密接に結びつけられている。これでは現代数学のために種々の難点が生じることになる。そのこと故にまったく純粋に抽象的なものとして点を規定するため、1915年にアインシュタインが一般相対性理論の中で発表した場の方程式、なかでも、とりわけ共変方程式をめぐって、先に創案したのは、アルベルト・アインシュタインかドイツの数学者で「現代数学の父」と呼ばれるダフィット・ヒルベルト(David Hilbert/1862年 - 1943年)かということに関する先取権論争、優先権争いのヒルベルト–アインシュタイン論争は1997年に既にアインシュタイン側に優先権があるとして解決したとされるのですが、そのダフィット・ヒルベルトは、点を無定義用語として扱い、「我々は、3種類のものの集りを考える。第1の集りに属するものを点と名づけ、A・B・Cをもって表わす」というように表現した。点は、同様に無定義用語である「横たわる」「間」「合同」「平行」「連続」など関係を表わす言葉を用い、公理によってその性質が規定される。現在では一般に、抽象空間(abstract space)の元、具象空間にはないをものを点と呼ぶことが多い。ここから、点とはユークリッド「点とは部分のないものである」との定義が浮上します。宇宙を充たすのは量子重力論では物質的としては存在しない波動、宇宙の波動「変化因子」が「点(point)」として「有る・常有・ゼロ因子」として隠されているのかも知れません。其の理が正しければ、宇宙は膨張し、収縮しても量子重力論の宇宙には「虚0」はなく「実0」が有ることになり、宇宙の再起動が許されます。哲学・思想ランキング
2021年06月16日
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神の存否-79 最新の宇宙科学理論である量子重力論では従来の「無としての単位=ゼロ」を、こと宇宙に関しては認めません。「無としての単位=ゼロ」を認めれば、質量ゼロの光子等の電磁波は「無のエネルギー波」となりエネルギーは無から生じることになり、質量存在の無いものがエネルギーを持つことになります。無の空間からいきなりビックバンが起こる、まるで創生論を予期したような体裁です。 21世紀の現代物理科学はニュートン以来の分割可能性に解答を得たのであるか。例えば、我々が普段に使用している「ゼロ」の持つ意味と概念も意外と知らないのでは。「インドはゼロを発見した国」と言われるが、アラブに伝わり此れは主に商取引の必要性から盛んに用いられます。簡単に言えば、「此れでチャラ」ですね。インドでは二世紀頃に、「空白」「うつろな」等を意味するサンスクリット語の「Sunya」が「ゼロ」や「無」を意味する言葉として使われていたが、そのころは数字として扱われていたわけではなかった。七世紀(紀元628年)に、数学者・天文学者であるブラーマグプタが、その天文に関する著書「Brahmasphuta Siddhanta」(宇宙の始まり)において、「0(ゼロ)と他の整数との加減乗除」について論じ、0/0を0と定義した以外は全て現在と同様の定義を用いています。これが、「数としてのゼロ」、即ち「数学的演算の対象として、初めて0(ゼロ)を取り扱った」とされるものです。此の「数としてのゼロの発見」により、0(ゼロ)を含んだ表記法で表された数字の計算が行えるようになり、「0(ゼロ)が加法(足し算)における単位元」として確立されることになります。なお加えて、「アラビア数字」については、インドを起源としている記号ですが、これがアラビアに伝わり、さらにヨーロッパに広まっていった経緯があります。それまで、ヨーロッパの人々はローマ数字を使っていたが、より表記が簡明なアラビア数字が広まっていくことになる。哲学・思想ランキング
2021年06月15日
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神の存否-78 スペインではユダヤ民族であることから、旧教の破棄を強制され、心の拠り所を失った家族が自由商業国家ネーデルランドに希望を託し、スピノザ自身は民族宗教である失われた祖国の復活を約束する旧教、ヤゥエのユダヤ教の苦しみからの解放と、其のユダヤ民族への誇りを望んで、真の神を探索する旅に出発した哲学の道ですが、当時のキリスト教の敵対者としては受難の道を歩みます。其れでも、ユダヤ民族への誇りと自由のためには自己が真相とする「実体」には、引き下がる姿勢は微塵も見られません。それは証明されるべきものに次いで備考なるものを追備していることからも伺えます。 備考 この最後の証明において私は神の存在をアポステリオリ、「哲学の分野では、経験によって後天的に獲得された知識・認識」によって示そうとした。これは証明が容易に理解されるようにであって、同じ根底から神の存在がアプリオリ、カント以降は「経験に先立つ先天的・生得的・先験的な人間の認識条件・認識構造」に帰結しえないためではない。なぜなら、存在しうることが能力である以上は、ある物の本性により多くの実在性が帰するに従ってその物はそれだけ多くの存在する力を自分自身に有することになり、したがって絶対に無限な実有すなわち神は存在する絶対に無限な能力を自分自身に有することになり、こうして神は絶対的に存在することになるからである。 しかし多くの人々はおそらくこの証明の自明性を容易に理解しえないであろう。それというのも彼らは外的諸原因から生ずる物のみを観想することに慣れているからである。そしてそれらの物のうち早く生ずる物すなわち容易に存在する物はまた容易に滅びるのを見、これに反してより多くの属性を有すると考えられる物はより生じ難い、すなわち存在するのがそう容易でないと判断しているのである。しかし彼らをこうした偏見から解放するためには「早く生ずるものは早く滅ぶ」という格言、誤訳なのか容易に見つかりません。私見ですが、此れが誰のどの様な格言かは定かでありませんが、「生者必滅」に時間要素を加味したものか、或いは安易な要素で生じるもの属性も少なく、より属性を多く持つものは滅び難いを意味するのかも知れません。スピノザは続いて、どんな意味で真理であるか、また全自然を顧慮すれば、一切は等しく容易であるかそれともそうではないかということをここに示す必要はない。ただここでは外的諸原因から生ずる物について語っているのではなく、どんな外的原因からも産出されえない実体(定理六 神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解する。により)によりについてのみ語っているのであることを注意するだけで十分である。なぜなら、外的諸原因から生ずる物は、多くの部分から成っていようと少ない部分から成っていようと、それが完全性あるいは実在性に関して有する一切を外的原因の力に負っており、したがってその存在は外的原因の完全性からのみ生じ、それ自身の完全性からは生じない。これに反して実体は、完全性に関して有するすべてのものを外的原因にはまったく負っていない。ゆえにその存在もまたその本性のみから帰結されなければならぬ。したがってその存在はその本質にほかならない。このようにして、完全性は物の存在を排除しないばかりでなく、かえってこれを定立し、これに反して不完全性は物の存在を排除する。したがって我々は、どのような物の存在についても、絶対的に無限なあるいは完全な実有、すなわち神の存在についてほど確実ではありえない。なぜなら神の本質は、一切の不完全性を除外し、絶対的完全性を含むがゆえに、まさにそのことによってその存在を疑う一切の原因を排除し、その存在について最高の確実性を与えるからである。これは多少でも注意する人にとってはきわめて明白であろうと私は信ずる。 此の文面を最新の宇宙科学理論である量子重力論の云う宇宙を充たすものが、単純な情報の波動因子であり世界の全ての可能性を満たすものであれば、単純な情報の波動因子は「創造因子」であり時空間を超えた情報「意思」である可能性さえあります。量子重力論の今後の経緯に期待が集まります。哲学・思想ランキング
2021年06月14日
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神の存否-77 定理一一 神或いは各々が永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体は必然的に存在する。の項では 前記の別の照明を以ってしても言いたらないのか、更なる追い打ちをかけます。定理一一には哲学思想を生業とする者、当時の科学者多くが資金稼ぎをしていたレンズ磨きの職人は別として、思想家、特に理知を愛するものとしての冷静さは失われ湧き上がる魂の叫びを訴えます。それだけに当時の敵対者が強大な圧力をスピノザに与えていたのです。 別の証明 存在し得ないことは無能力であり、これに反して存在しうることは能力である(それ自体で明らかなように)。だからもし今、必然的に存在しているものが有限な実有だけであるとすれば、有限な実有は絶対的に無限な実有よりも有能であることになろう。しかしこれは(それ自体で明らかなように)不条理である。ゆえに何物も存在しないか、それとも絶対に無限な実有もまた必然的に存在するか、そのどちらかである。ところが我々は、我々のうちにかそうでなければ必然的に存在する他の物のうちに存在している(公理一 すべて在るものはそれ自身のうちに在るか、それとも他のもののうちに在るかである。および定理七 実体の本性には存在することが属する)を見よ。ゆえに絶対的に無限な実有、言いかえれば(定義六 神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体と解する。)により神は必然的に存在する。Q・E・D・=此れが証明されるべきことだった。哲学・思想ランキング
2021年06月13日
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神の存否-76 スピノザは執筆活動の内容が漏洩し、オランダの宗教勢力にレンジ公に神への冒涜の故を以って訴えられ、スピノザ思想に近似したデカルト主義者までが彼を中傷することには予期はすれども、彼にはかなりの負担となったことは疑いを得ません。更には、彼の支持者であり、友人であった有力政治家でありスピノザが支持したオラソダ共和国の当時の指導者あった映画アラン・ドロンの嵌り役「黒いチューリップ」の題材にもなったネーデルラントのヨハン・デ・ウィット(Johan de Wit/1625年 – 1672年)とその兄の虐殺に憤ったスピノザは「付録」というよりは些か情緒的だとも云い得る程に オレンジ公派の通俗信仰を「付録」の形式を借りて非難します。此の後のスピノザの立ち位置からは「偽神」詳しく述べれば「人間の創造した神」の人間精神の在り方を述べていきます。スピノザは当然に現在の「量子重力理論」を知り得べきもありませんから、神存在に人間精神の介入を排撃、別置したのには驚きを隠せません。何れにしろヨハン・デ・ウィットが反対派に暗殺された事件がスピノザの執筆活動に与ええた衝撃の大であ ったのは とにかくとして彼自身 も危険を計算しないわけにはいかない状況が生まれます。彼は神は死んだとするニーチェや唯物史観の弁証法を旗印とするマルクスのような無神論者ではなく、人間が妄想する御伽噺の世界の神様や、或る民族守護神としての神の申し子、スピノザの民族「ユダヤ民族」の守り神、其れ等の存在が神格性を人間から賦与されたことを否定するのです。哲学・思想ランキング
2021年06月12日
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神の存否-75 スピノザ思考からは自己の精神が己の存在を肯定するならば、其れを成り立たせる存在を否定すること能わず、実体の延長・思惟を属性を含めて肯定するしかないと解きます。喩え、其れが受動的にして人間にとっては悪魔的・天使的なものであれ否定すること能わずの自然です。其のこと故に、スピノザは人間の受難や歓喜が信仰を超えた「真の実在」だと捉えます。但し、其の中にも人間の精神の内奥には史実以前の不可知論を神に帰す傾向が刷り込まれているようで「真の実在」は容易には人間の頭脳で其の象徴すら見得ません。其れ故に、スピノザは定理一一 神或いは各々が永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体は必然的に存在するでは、実体は必然的に存在するとした定理一一の別解の幾つかを用意しています。 別の証明 すべて物についてはなぜそれが存在するか、あるいはなぜそれが存在しないかの原因ないし理由が指示されなくてはならぬ。例えば、三角形が存在するなら、なぜそれが存在するかの理由ないし原因がなければならぬし、存在しないなら同様にそれの存在することを妨げたりその存在を排除したりする理由ないし原因がなければならぬ。だがこの理由ないし原因は物の本性のうちに含まれているかそれとも物の外部にあるかそのどちらかでなければならぬ。例えば、なぜ四角の円が存在しないかの理由は四角の円なるものの本性自身がこれを物語る。つまりそうしたものの本性が矛盾を含むからである。これに反して、なぜ実体が存在するかということは、やはり実体の本性のみから出てくる。すなわちその本性が存在を含むからである(定理七 実体の本性には存在することが属するを見よ。)、しかしなぜ円あるいは三角形が存在するかまたはなぜ存在しないかの理由は、円や三角形の本性からは出てこず、一般に物体的自然の秩序から出てくる。すなわち三角形が現に必然的に存在するか、それとも現に存在することが不可能であるかは、そうした秩序から出てこなければならぬのである。以上のことはそれ自体で明白である。この帰結として、存在することを妨げる何の理由も原因もない物は必然的に存在することになる。だからもし神の存在することを妨げたり神の存在を排除したりする何の理由も原因も有りえないとすれば、我々は神が必然的に存在することを絶対的に結論しなければならぬ。だがもしそうした理由ないし原因があるとすれば、それは神の本性それ自身のうちに在るか、それともその外部にすなわち異なった本性を有する他の実体のうちに在るかでなければならない。なぜなら、もしそれが同じ本性を有する実体であるとしたら、すでにそのことによって、神の存在することが容認されるからである。ところが、神の本性とは異なる他の本性を有する実体は神とは何の共通点も有せず(定理二 異なった属性を有する二つの実体は相互に共通点を有しないにより)、したがってそれは神の存在を定立することも排除することもできない。このようなわけで、神の存在を排除する理由ないし原因が神の本性の外部には在りえないのだから、それは必然的に、仮に敢えて神が存在しないとする独断を別にするならば、神の本性それ自身のうちになければならぬ。そうなればその本性は、矛盾を含むことになるであろう。しかし、そうしたことを絶対に無限で最高完全である実有について神のうちにも神の外にも神の存在を排除する何の原因ないし理由もない。したがって神は必然的に存在する。Q・E・D・=此れが証明されるべきことだった。此のことは、仮に人間の創造・創作した量子コンピューターが完全なる認識であり、完全なる実体性を持てば量子コンピューターが神の言語で人間に呼びかけて来る期待が膨らみます。但し、人類世界には悲喜こもごもな混沌を齎す可能性はあります。哲学・思想ランキング
2021年06月11日
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神の存否-74 我々現人類が所在する世界、此れを否定するのは一部の虚無主義や現在に話題とされる「MATRIX」、マトリックス(Matrix)とはラテン語の「母」を意味するmaterから派生した語で、転じて「母体」「基盤」「基質」「そこから何かを生み出す背景」などの概念を表すとします。 1988年公開のジョン・カーペンター監督による映画「マトリックス」シリーズの1作目のThe Matrix。人間に変装した宇宙人たちによって知らぬ間に支配されている世界が舞台でありますが、人間に変装した宇宙人たちを「神なる実体」としても何ら矛盾は生じません。余程、宇宙人なるものを「神なる実体」としたほうが理路整然に現実的な描写かも知れません。何れにしろ、人間は考える葦であり、自己の存在の有無を問えば、今生きて在る自己を否定しないでしょう。其の自己が、各々に精神の内奥に感応する精神なるものは世界の理の影響を被っています。 定理一一 神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体は必然的に存在する。 証明 これを否定する者は、もしでき得るなら、神が存在しないと考えよ。そうすれば(公理七 存在しないと考えられうるものの本質は存在を含まない)によりその本質は存在を含まない。ところがこれは(前述の 実体の本性には存在することが属する)により、不条理である。ゆえに神は必然的に存在する。Q・E・D・=此れが証明されるべきことだったとします。 此処で注意が促せられるのは、存在を物体認識に限らないことです。量子重力論の云う宇宙を充たす「物質」を更に超えた「情報因子」としての「波」なるものが意味を持ちます。哲学・思想ランキング
2021年06月10日
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神の存否-73 神の領域が科学的認識の領域に含まれないということは、物質万能論や唯物論者からは科学的に説明若しくは証明され得ないものは現実の世界には存在しないということであり、科学的に認識される世界のみが現実の世界だと信じる者にとっては、知識一般を受けているものは、そのような科学的認識の領域に含まれないものは実在しないに等しいことになります。ところが、現代最先端の観測技術を通して宇宙物理科学は人間の認識能力のうちでも感覚器官、特に光子では捉えられない、仮象としてか捕らえ切れない、詰まりは光子や電磁波を超えた現象を時々刻々と理論をもって解釈しようとしています。量子コンピューターの稼働され得る現在こそが、人間が見ること能わずの「世界の理」を解き明かす最初の関門となるときなのかも知れません。つい以前には前記の通り科学的知識の領域に含まれないということは、科学的に説明されないのは、現実の世界には存在しないということであり、科学的に説明される世界のみが現実の世界だと信じる者にとっては、そのような科学的知識の領域に含まれないものは実在しないと確信するものが多数派でした。つまり「神とは何か」という問いは、科学時代の常識を前にして知的な問いとしての意味を喪失しており、馬鹿な知的貧者の世迷言だと云う訳です。しかし、本当にそうであろうか。デカルトにおいて始まった絶対に不可謬で不可疑の基礎原理の上に築かれた新しい哲学、そして、ガリレオ、ニュートン、ラプラスなどによって開かれた道を急速に突き進むことによって築かれた近代科学、其れ等は「神」という前提を必要としない人間的知の体系を創り上げたのであろうか。スピノザは新たなる神概念を近代物理科学と自己の哲学思想を以って、弑逆される恐怖の運命に懸命に戦い、「神」を著書「エチカ」で演繹法を以って認証主義の立場から「神なる実体」を実証しようと試みます。哲学・思想ランキング
2021年06月09日
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神の存否-72 「神とは何か」というこの問いは、一般通常社会人・教育課程に学ぶ者・教育課程以前の幼児や、神秘体験者や其れ等を信じ受け入れる者または宗教のみならず奇跡を受け入れる者、物理科学者が科学者として取り組む問いとは其々の思考や世界・宇宙観は全くのところ共有する部分はありません。僅かに、総合的論理思考としての哲学が其々の分野に共有性を保ちます。ところが仏教・道教、古今東西の世界の国々の神話を含めて「神とは何か」という問いは、其々の「神」の語彙の意味するところは違います。我々人間の意識にとってはきわめて身近な疑問で、平凡と言える程分かり切ったことでありながら、いざそれは何かと問われればまったく不可解で測りがたいものです。こようなことは科学的探求の領域からは原則的に排除されます。科学的探求の領域から排除された事柄についてはもはや厳密な意味で知ることは不可能だというのがつい最近の科学の時代である近・現代の常識でした。ところが豈図らんや、「神とは何か」という問いは知的探求の領域から原則的に排除されることになる筈なのに、最新の宇宙科学である量子重力論の理論は「神とは何か」の問にさえ「宇宙を充たすもの=情報因子」等の解答を与える可能性を秘めています。ここからして、一般に人間の「知る」という働きは正確に言えば科学的に知るということに変化が起ころうとしています。大凡、常識一般では少なくとも「認知」そのことを目指すべきだという立場をとる人々、恐らく「知識人」とか「科学的な考え方をする人」の大半がそうだと思われますが「神とは何か」という問いが知識の領域に属するものとは見做されないとする立場を取り続けていたのですが。其の神の領域が科学的知識の領域に含まれ得る可能性「God's Gate」が少々見えてきたのです。哲学・思想ランキング
2021年06月08日
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神の存否-71 科学万能の現代に、なぜこのような時代遅れともいえる「神とは何か」の問いが発せられなければならないのか。だがしかし、我々は本当に「神」の問題を哲学的に或いは科学的にすでに解決済みなのだろうかか。我々人間が通常に暮らす日常生活のなかで好奇心から生まれる問い。あるいは哲学者や物理科学者が自らの特定の研究領域のなかで、それぞれに固有の方法を駆使して対象から謂わば力ずくで答えを掴み取ろうと試みる問い。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)にも死者への祭祀があったとされる「何か」。自分自身の奥深くに現存するかと思えば、われわれの想像力はおろか認識・思考能力のすべてを無限に超えるとしか言いようのない何物かに向けられた永年の問いです。「神とは何か」という問いは信心する者にとっては分かり切ったことに向けられた空虚な問いであるか、「知りえない・語りえない」と自ら認めつつあえて知りたいと熱望する自己矛盾的な問いであるということになります。哲学・思想ランキング
2021年06月07日
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いっぷ句-63梅の実が露となり落つ梅雨かな 愚通人気ブログランキング
2021年06月06日
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神の存否-70 神の字の旧字体「神」。漢字の六書(りくしょ)の一つでの一説による漢字の成り立ちは、会意(二つ以上の漢字を合わせて一つの字を作り、その意味を合成する漢字の構成法。) 兼(意味を表す部分と音を表す部分とを組み合わせて、文字を作る諧声(かいせい)とも記される形声であり、「示(祭壇)+音符申(甲骨文・金文は電光・稲妻の象形。)」で、稲妻のように、不可知な自然の力のことを云うとあります。のちには、不思議な力や、目に見えぬ心の働きをもいうように。その後に「ずば抜けてすぐれたさま」や「かみ」といった意味が加わったものです。其れ故に、スピノザが実体の用例に用いた「神」は所謂人間の信仰対象の唯一神教の[God]、多神教の小文字の「god]ではなく、神格が付与されないものを指します。デカルトによれば、ものの一切の一部は神の延長や思惟であり、スピノザの其れは一切の属性や様態をも含有する「絶対の全体」を意味します。此処で、定理一一 神、あるいはおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、は必然的に存在する。の項に入る前に、「神」の語義を一応に習得するのもスピノザの云う「実体」の理解を収める上では有効であろうと思います。哲学・思想ランキング
2021年06月05日
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神の存否-69 属性(attribute, property)とは、一般にあるものに共通して備わっているとされる性質や特徴のことで、例えば物体の色や形、人の能力、素性、社会的関係などである。属性は、多くの分野で使用されますが、特に 哲学では、事物が本来具有する根本的性質。それなしには実体が考えられないような本質的な性質を指すとされます。偶然的な性質とは区別され、物がそれなしには考えられないような本質的な性質。例えばデカルトでは、精神の属性は思惟、物体の属性は延長を指し示します。量子重力理論に当て込めば量子其々の波の特性から波及する各種のモノの特性を顕すものと捉えることも可能でしょう。此の場合は素粒子レベルの各特性を意味します。 定理一〇 実体の各属性はそれ自身によって考えられなければならぬ。 証明 なぜなら、属性とは知性が実体についてその本質を構成していると知覚するものである(定義四 異なる二つあるいは多数の物は実体の属性の相違によってか、そうでなければその変状の相違によってたがいに区別される。)により。したがってそれは(定義三 実体とは、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するものに他のものの概念を必要としないもの、と解する。)により、それ自身によって考えられなければならぬ。Q・E・D・=此れが証明されるべきことだった。とします。 備考 これから分かるのは、たとえ二つの属性が実在的(realistic)に区別されて考えられても、言いかえれば一が他の助けを借りずに考えられても、我々はそのゆえにその両属性が二つの実有あるいは二つの異なる実体を構成するとは結論しえないことである。事実その属性のおのおのがそれ自身によって考えられるというのは実体の本性なのである。なぜなら、実体の有するすべての属性は常に同時に実体の中に存し、かつ一が他から産出されえず、おのおのは実体の実在性あるいは有を表現するからである。ゆえに一実体に多数の属性を帰することは少しも不条理でない。それどころか、おのおのの実有がある属性のもとで考えられなければならぬこと、そしてそれはより多くの実在性あるいは有をもつに従って必然性(すなわち永遠性)と無限性とを表現するそれだけ多くの属性をもつこと、そうしたことほど自然において明瞭なことはないのである。したがってまた、絶対に無限な実有を、おのおのが永遠・無限な一定の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実有(我々が定義六 神とは、絶対に無限なる実有、言いかえればおのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、と解するで述べたように)と定義しなければならぬことほど明瞭なこともないのである。 だが今もしある人が、ではいかなる標識によって我々は諸実体の相違を識別しうるかと問うならば、その人は次の諸定理を読むがよい。その諸定理によって、自然のうちにはただ一つの実体しか存在しないこと、またその実体は絶対に無限なものであること、したがってそうした標識を求めることは無用であることが判明するであろう。 此の項は、何やらスピノザが大乗仏教にも知悉していたことが伺われます。また、大乗哲学の「空」なるものが宇宙を充たしていたならば、量子重力理論の「波」をも連想されます。人間の直感知「正覚」とは世界の情報の「波」を捉えた精神の深奥の受諾意識なのかも知れません。哲学・思想ランキング
2021年06月04日
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神の存否-68 スピノザの執筆に用いる語彙には多少に無頓着なきらいがあり、定理九 およそ物がより多くの実在性あるいは有をもつに従ってそれだけ多くの属性がその物に帰せられるでは、「有」を恐らくは人間の五感、すなわち視覚・聴覚・触覚・味覚・嗅覚そして脳機能の感覚としての精神、勿論のこと此の精神は、スピノザの分類によれば単なる知性及び理性、其の合成体である「理知」、更なる上位には「直感知」を示していますが、定理九 およそ物がより多くの実在性あるいは有をもつに従ってそれだけ多くの属性がその物に帰せられるでは、其の「有」とは、スピノザの云う所謂、常有や恒有及び永遠の存在である実体を含有するものでは有り得ません。単なる「人間の認識可能なもの」のとは人間の感覚器官と通常精神の受諾の意で使用しているように憶えます。何故なら、スピノザは「実有」を永久不変のものとして著書「エチカ」の他の箇所「有」の語彙を特別なものとして取り扱っているからです。スピノザの説く実在性とは短略化して云えば、事実上であれ、精神上であれ、単なる「認識」の可否にとらわれない、通常の人間の思考の真実在の認識に関わりのない根元の、仏教であれば「悟り乃至は覚り」、スピノザの影響を受けたとする「善の研究」の西田幾多郎によれば「直感知」、私的には「直角知」と呼称しますが、常有や恒有及び永遠の存在は世界のどの様な事物においても其の片鱗を抱いていることになります。禅僧の「花落ちる一輪を見て世界を知る」のも物理科学に頼らずに世界の真理を見通す手段なのかもしれませんが、大凡、常人の達成できる手段とも思えません。 穿った見方をすれば、量子重力理論は人間身体の成型論理を宇宙生成論理にまで高めた物理学の衣を被った狼になる可能性さえあります。哲学・思想ランキング
2021年06月03日
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神の存否-67 21世紀のIT時代の物理科学理論は、もはや、物理科学の観測が到底達し得ない分野にメスを入れようとさえしています。物理科学の理論の衣は着てても人間が一切見得ざるものを理論で武装しようという試みだから驚かされます。此れは人類古代史に見られる神の新たなる「創造神話」とも云えます。但し、物理論の科学からの迷走さえ危惧される由縁ともなる危険性を秘めています。多元宇宙論や並行宇宙論は人類の精神そのものの在り方を飜えらす可能性さえ持つ理論です。 さて、スピノザの実体論に戻って、実体の本性には(すでにこの備考一 有限であるということは実はある本性の存在の部分的否定であり、無限であるということはその絶対的肯定であるから、この点から見れば、単に、定理七 実体の本性には存在することが属する。からして、すべての実体は無限でなければならないことが出てくる。なぜなら、もし実体を有限であると仮定すれば、我々は実体の本性の存在を部分的に否定することになるが、これは前述の定理により不条理だからである。備考二 事物について混乱した判断をくだし・事物をその第一原因から認識する習慣のないすべての人々にとって、定理七の実体の本性「存在」の証明を理解することは疑いもなく困難であろう。なぜなら彼らは実体の様態的変状と実体自身とを区別せず、また事物がいかにして生ずるかを知らないからである。この結果として彼らは、自然の事物に始まりがあるのを見て実体にも初めがあると思うようになっているのである。いったいに、事物の真の原因を知らない者はすべてのものを混同し、またなんら知性の反撥を受けることなしに平気で樹木が人間のように話すことを想像し、また人間が石や種子からできていたり、任意の形相が他の任意の形相に変化したりすることを表象するものである。同様にまた、神の本性を人間本性と混同する者は、人間的感情を容易に神に賦与する。特に感情がいかにして精神の中に生ずるかを知らない間はそうであると示したところにより、存在することが属するのであるから、その定義は必然的な存在を含まなければならず、したがって単にその定義だけからそれ自身の存在が結論されなければならぬ。ところがその定義からは(すでに、注意二 定義は定義された物の本性のほかは何ものも表現しないのであるからには、いかなる定義もある一定数の個体(* 個体とは一つの類に属する個物のことと解される)を含まずまた表現しない。例えば三角形の定義は三角形の単純な本質のみを表現し、決してある一定数の三角形を表現しない。 三、存在するおのおのの物には、それが存在するある一定の原因が必然的に存することに注意しなければならぬ。および、注意三 存在するおのおのの物には、それが存在するある一定の原因が必然的に存することに注意しなければならぬ。で示したように多数の実体の存在が導き出されえない。ゆえにそのことから、同一本性を有する実体はただ一つしか存在しないことが必然的に出てくる。そしてこれが我々の証明しようとしたことであった。と結んでいます。 世界創造説が古代唯物論の火・水・土であったり原子説であれば背景を問う必要性に迫られますが、最先端物理科学理論の宇宙を満たすのは空間ではなく「波」、所謂、情報の因子ともなれば、いやはや、我々は神の体内を充足する一片の情報「一輪の蓮」なのかも知れません。哲学・思想ランキング
2021年06月02日
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神の存否-66 スピノザの定理八では、すべての実体は必然的に無限であることから、更に、同じ本性を有する実体は一つしかないことを他の仕方で結論することができる。これをここに示すことは徒労ではないと思う。しかしこれを秩序だててするためには次のことを注意しなくてはならぬ。として念を押し、更なる注意を促します。同じ本性を有する実体は一つしかないことを他の仕方で結論づけようというのです。スピノザ思考からは現代の科学理論である多元宇宙は読み取れません。仮に多元宇宙が事実であったとしても、其々の宇宙は法則を異にした世界であると予想されるからです。此の論を受け入れれば実体の複数を容認することになります。何れにしろ、スピノザは実体一元論を視点を変えて説きます。 注意 一、おのおのの物の真の定義は定義された物の本性のほかは何ものも含まずまた表現しない。このことから次のことが出てくる。 二、定義は定義された物の本性のほかは何ものも表現しないのであるからには、いかなる定義もある一定数の個体(*)を含まずまた表現しない。例えば三角形の定義は三角形の単純な本質のみを表現し、決してある一定数の三角形を表現しない。 (* 個体とは一つの類に属する個物のことと解される。) 三、存在するおのおのの物には、それが存在するある一定の原因が必然的に存することに注意しなければならぬ。 四、最後に注意すべき点は、ある物が存在するその原因は、存在する物の本性ないし定義自身のうちに含まれているか(これは存在することがその物の本性に属する場合である)、そうでなければその物の外部に存していなければならぬということである。 以上の前提から、もし自然の中にある一定数の個体が存在するとしたら、なぜそれだけの個体が、そしてなぜそれより多くもなく少なくもない個体が存在するかの原因が、必然的に存しなければならぬことになる。例えば、もし自然の中に20人の人間が存在するとしたら(いっそう分かりやすくするため私はこれらの人間が同時に存在しかつこれまで自然の中に他の人間が存在しなかったと仮定する)、なぜ20人の人間が存在するかの理由を挙げるためには一般に人間本性の原因を示すだけでは十分でないのであって、その上さらに、なぜ20人より多くもなく少なくもない人間が存在するかの原因を示すことが必要であろう。各人にはなぜ存在するかの原因が必然的に存しなければならぬのであるから(注意三 存在するおのおのの物には、それが存在するある一定の原因が必然的に存することに注意しなければならぬ。により)。ところがこの原因は(注意二 定義は定義された物の本性のほかは何ものも表現しないのであるからには、いかなる定義もある一定数の個体(*)を含まずまた表現しない。例えば三角形の定義は三角形の単純な本質のみを表現し、決してある一定数の三角形を表現しないおよび、注意三 存在するおのおのの物には、それが存在するある一定の原因が必然的に存することに注意しなければならぬ。)、人間の真の定義が20人という数を含まないゆえに、人間本性そのもののうちに含まれていることはできない。したがって(注意四 最後に注意すべき点は、ある物が存在するその原因は、存在する物の本性ないし定義自身のうちに含まれているか(これは存在することがその物の本性に属する場合である)、そうでなければその物の外部に存していなければならぬということである。により)なぜこれら20人の人間が存在するか、したがってまたなぜ彼らの一人ひとりが存在するかの原因は、必然的に各個人の外部に存しなければならぬ。この理由からして我々は一般的にこう結論しなければならぬ、すべて本性を同じくする多数の個体が存在しうるような物は、その存在のために、必然的に外部の原因を持たなければならぬのであると。哲学・思想ランキング
2021年06月01日
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